テムズ川河畔のウェストミンスター宮殿は、さほど大きなものではない。即ち宮殿内の情報の伝達も早いというわけで、ハルとデヴィッドが厩舎に向かうと、テラーズが皇太子を探し回っていることは知れ渡っていた。厩番たちはさて、テラーズに通報したものかどうか迷ったが、
「皇太子とサー・デイヴィッドはレッド・ホロウに出かけ、今夜は戻らないと伝えてくれ。」
と、ハル自ら鮮やかな解決策を授けた。
 皇太子ハルとその親友のデイヴィッド・ギブスンが、馬を連ねて宮殿から出かけてゆくのはそれほど珍しい光景ではない。しかし、久しぶりだった。昼すぎのロンドンの町に二人の姿を認めた市民達は、
「お二人とも、しばらくぶりではありませんか。どうぞ家に寄って行ってくださいよ。」
と帽子を脱ぎながら口々に言った。
 二人が向かっているのは、宮殿から貴族達のロンドン邸街を抜けた辺りから始まる、市民街,レッド・ホロウである。この辺りの土が赤く、やや窪地になっている事からこの名がついているらしい。さらに進めばストランド、シティへ至る。その道すがらハルは、弟のジョンが持ち込んできた話を、デイヴィッドに説明した。
 宮廷に出入りしている甲冑職人に、メルチェットという男がいる。17歳のジョン王子は、体の成長に合わせて甲冑を直すことになり、今朝宮廷内の工房でそのメルチェットと打ち合わせを行った。ジョンの体のあらゆる箇所で採寸を行うと、メルチェットは少し困ってしまった。彼が言うには、この1年でのジョンの成長は著しく、甲冑は手直しよりは新調が必要である。しかし現在、工房では人手不足なのである。
 「人手不足?」
デイヴィッドは馬上からハルに聞き返した。
「戦時でもないのに、どうして人手不足なんだ?」
ハルはその通りとでも言いたげに、親友に微笑みながら答えた。
「同じ事をジョンも考えた。」
 不審に思ったジョンは、デイヴィッドと同じ質問をメルチェットにした。職人は説明した。彼は普段四人の弟子を使っている。彼らが揃っていればもちろんジョン王子の甲冑を新調するのに何の障害も無いのだが、生憎その四人が不在なのである。その理由というのが、メルチェットの師匠が数日前にやってきて、大きな仕事が入ったので弟子を貸してくれと申し入れたのだと言う。メルチェットは師弟の気易さもあったし、いざとなれば師匠の工房に連絡して弟子たちを返してもらえばよいと思って、快く応じた。そんな時にジョン王子の仕事が入ったので、彼は前日の夕方に町の師匠の工房を訪ねた。ところが、工房には人っ子一人いない。しかも大方の道具もなくなっているのだ。
 「夜逃げにしては大所帯だな。その師匠ってもしかしてロングリーか?」
デイヴィッドが言うと、ハルはうなずいた。
「そう、あのロングリーさ。メルチェットの前任で、宮廷工房の親方だった。お前も何度か甲冑を誂えてもらっただろう。宮廷工房を引退して弟子のメルチェットに親方の座を譲ってから、町の小さな工房をやっていたのだが…」
「あの爺さんが、夜逃げなんてするとは思えないな。頑固一徹の職人気質だった。どうしたんだろう。」
「それを調べるのさ。」
 レッド・ホロウに到着した。狭い路地に入る前に馬を預けた。
「ハル、確かに妙な話だが、どうしてお前が調べる必要があるんだ。メルチェットに任せておけよ。」
デイヴィッドは無駄だとは分かっていても、とりあえずは皇太子に苦言を呈した。もちろん、ハルは笑って取り合わない。
「メルチェットは一人で工房で頑張っているんだ。そんな余裕はないよ。お前だって、ここまで話を聴いておいて、何もしないつもりではないだろう?」

 ハルとデイヴィッドが馴染みの酒場兼宿屋のホワイト・ウィージルに入ると、女将・マライアの明るい声が迎えた。
「まあ、サー・デイヴィッドに王子様!お久しぶりじゃありませんか!」
 二人の騎士はマントを彼女に預けると、いつもの席に陣取った。
「マライア、エールを頼むよ。まったく、宮殿にいるとエールも飲めやしない。厨房方ときたら、ワインばかり血眼になって入荷するんだ。」
ハルがぼやくと、マライアはけらけらと笑い出した。
「あら、まあ!それじゃあ、フランスと戦争だなんて、とんでもございませんわね。」
「まったくだ。俺が即位したらまず宮廷料理にエールを出す。そして心置きなくフランスと一戦始める。」
「その前に国内で反乱だな。」
デイヴィッドが無愛想に付け加えるので、マライアはヘンリー五世の御世にエールの乱だと、また大声で笑い出した。その声を聞きつけて、階上から男達が降りてきた。
「やあ!ハル、デイヴィッド!生きていたか。余りにも顔を出さないから、どっかでおっ死んだかと思ったぜ。」
と、口の悪い騎士の従者・ネッド。そして無口というより、殆ど喋らないレッド・ホロウ自警団副隊長のスパイクが、静かに笑いながらハルとデイヴィッドと握手をする。
「ネッド、お前こそ十日間牢屋にぶち込まれたそうじゃないか?」
ハルが運ばれてきたエールに口をつけながら、そう混ぜ返すと、背が低くてやや小太り、頭は少量の毛髪を残しただけ、目が大きく童顔の中年男・ネッドは驚いて頓狂な声を出した。
「へぇ!こりゃ驚いた。皇太子殿下がどうしてそんなことを知っているんだい?ケチな食い逃げだったってのにさ。無罪放免になったのは、火曜日だぜ。」
「お前をぶちこんだ治安局長は俺の兄貴だ。」
「うへぇ、あの鬼子爵、デイヴィッドの兄さんかい。おっそろしいねえ…」
ネッドは身震いして見せた。ハルはあっという間にエールを飲み干すと、二階の方を見やった。
「フォールスタッフは居るか?お前のご主人様は。」
「もちろん、居るさ!他にどこへ行くって言うんだい?」
ネッドが大声で喋っている間に、スパイクが階上に上がって行き、また直ぐに戻った。そしてその背後から、白髪の巨漢がゆっくりと降りてきた。
 「よぉ、ハル。久しぶりだな。とうとう即位しちまったかと思ったぞ。」
「生憎まだだ。父上はここ数日、体調が良くなったんでね。」
「それで、王子様がこんな下町の場末の酒場にお出ましかい?」
老騎士・フォールスタッフは大きな腹を揺すりながら、壁際の席にどっかと腰をかけた。
「こんな場末のとはなんだい?!ここは立派な騎士様も、お泊りになる所なんだ。あんたの方が場違いなんだよ!」
マライアが憤慨しながら、喚いた。
 「ああ、うるさい女だ。デイヴィッド、小うるさい女を黙らせる方法を知らないか?」
「宿を変えろ。」
「まあ素的!」
マライアはデイヴィッドの前に二杯目のエールを出しながら、彼の肩に手を置いた。
「こんなヤクザな爺さん騎士なんて出て行ってもらって、サー・デイヴィッドみたいな立派な騎士様専用の店にできるわ。」
「立派な騎士様は宮殿に宿舎をもらえるさ。」
ネッドが口を出すので、また口論が展開しそうになる。ハルが手を振ってそれを制した。
 「皆が元気なのは分かった。その元気なのを買って、一仕事頼みたいんだがね。」
フォールスタッフが悠然とコップを傾けてから、少し斜めにハルを睨んだ。
「駄賃はうんと弾むんだろうな。」
「皇太子の懐具合を疑うとは失礼なやつだ。デイヴィッドの兄貴に不敬罪で逮捕させるぞ。」
「できるならな。」
デイヴィッドがつぶやく。ネッドとマライアが爆笑し、スパイクが笑みを浮かべる。フォールスタッフもひとしきり腹を揺すって笑うと、エールを飲み干した。
「良かろう、久しぶりに訪ねてきたハル王子の頼みを無下に断ったのでは、騎士の名が廃るからな。言ってみろ。」
「今、宮廷の甲冑工房に弟子入りしている四人の男の身元を突き止めて、実家を調べてくれ。」
「実家の何を。」
「当人がいるかどうかだけで良い。」
「ふうむ。」
 フォールスタッフは暫く黙って、空中を睨みながら考えていた。それから従者のネッドに尋ねた。
「アイアン・バットは今どこに居る?」
「バットなら、夕べ角の賭け屋で酔いつぶれていたな。確か自警団の詰め所に放り込まれていなかったか?」
ネッドがスパイクを見ると、副隊長は黙ってうなずく。
「よし、バットなら何か知っているだろう。引き受けるよ、ハル。それで、期限は?」
「そうだな、明日の昼はどうだ?」
老騎士がまた従者を見ると、ネッドは張り切って答えた。
「よっしゃ、明日の昼だな?ハル、絶対に満足の行く報告をしてやるぜ。行こう、スパイク!」
言うが早いか、ネッドは外へ飛び出していった。
 「いつもながら、頼りになるよ。フォールスタッフ。」
ハル笑いながら立ち上がると、マントを掴んだ。それを肩に巻きつけ、
「夕食を用意しておいてくれ、マライア。ここで寝るから部屋もね。」
と、言いながら小さな銀貨をテーブルに置き、店を出てゆく。銀貨にフォールスタッフが手を伸ばそうとするのを、勢い良くデイヴィッドが取り上げ、マライアに渡した。
 「駄賃は報告のあとだよ、フォールスタッフ。」
デイヴィッドもゆっくりマントを着けると、ハルの後を追おうとした。それをフォールスタッフが引きとめた。
「なあ、デイヴィッド。例によって俺たちを使う目的は話してもらえないもんかね。」
「気にするな。大したことじゃない。ハルが何も言わないのは、公務が長かった後遺症だよ。」
「皇太子様は俺たちに親しく話しかけてくれるが、大事なことは何一つ言わない。」
白髪の老騎士は心底、悲しそうにつぶやいた。
「大袈裟だよ。」
デイヴィッドはフォールスタッフの肩を軽く叩くと、ハルを追って出て行った。残された老騎士は、マライアに二杯目を頼んでから、またつぶやいた。
「全てを打ち明けるのは、あいつだけだ。」

 ジョン・フォールスタッフが騎士であるのは間違いないらしい。しかし大分昔に「現役」を引退しており、爵位や所領があるわけでなし、いつもレッド・ホロウの酒場に入り浸っている、要するにゴロツキ騎士の肥満老人である。とは言え自称は「騎士中の騎士」であり、戦があると必ず参加したと言う。3年前のウェイルズ方面での戦役にも参加した言い張るが、ハルもデイヴィッドも戦場でその姿を見たことが無いし、噂も聞かないので彼一流のホラなのだろう。しかし驚いたことに、フォールスタッフは戦役での出来事を実に事細かに知っている。あまりにも良く知っているので、実際に参加したのかと錯覚するが、事実はそうではない。彼はかなり優秀な情報網を持っているのである。もちろん彼が組織したわけではない。騎士にも知り合いは多いし、その従者や馬番、歩兵や輸送要員、その他戦争に関わる雑多な(一部は怪しげな)労働者達の間の有名人なのである。彼らはフォールスタッフを「慕っている」というよりは、彼に「なついている」というほうが適当だろう。フォールスタッフの周囲には常にそう言った連中がたむろし、飲み食いに明け暮れながら体験談やら噂話を氾濫させていた。老騎士が情報通なのはそういう事情があり、その範囲はロンドン内外に起こる出来事全般にも渡る点において、きわめて特異であった。 
 フォールスタッフは、その豊富な情報量で将来の国王とその親友を教育しているつもりらしいが、半分は彼の考えているとおりであり、半分は若者達がその情報力を利用しているのが実態だ。彼らの成長とともに、後者の割合が多くなり、その事が先ほどのようなフォールスタッフの嘆きを招いていた。
 しかし、事今回の件に関しては、フォールスタッフの嘆きは的をはずしている。事実デイヴィッドの言ったとおり、ハルが甲冑職人の弟子達に関する調査目的を説明しなかったのは、公務の後遺症であり、要するに「うっかりしていた」のである。デイヴィッドはそれをハルに指摘しようとは思わなかった。友人はいずれ国王になる。そこへ至るには、何も失わずには居られないであろう。ハルのこの迂闊さが喪失の予兆であるとしたら、ハルもフォールスタッフ達も、それを甘んじて受け入れなければならない。

 ハルとデイヴィッドはホワイト・ウィージルを出ると、歩いてロングリーの工房へ向かった。宮殿の工房やメルチェットが手いっぱいの時など、ロングリーがレッド・ホロウに構えた工房のやっかいになる事もあり、二人とも場所は良く知っていたのである。到着してみると、なるほどメルチェットの言ったとおり人っ子一人居なかった。扉には鍵が掛かっておらず、容易に中には入れたが、炉にはもちろん火の気が無く、薪さえも見当たらない。いつもなら所狭しと置いてある大量の道具もないし、材料になる金属板だの、鎖だの、革だの、布だのもまったく見られなかった。隣家の鍛冶屋を覗くと、娘が軒先の掃除をしていたので、彼女に隣家のロングリーがどこへ言ったか知らないか尋ねてみた。彼女は腰に剣を吊るした騎士と思しき、二人の背の高い若者の訪問にどぎまぎしながらも、知っているだけの事を説明した。
 「ロングリーさんは、一週間ほど前に出かけていきました。父に、しばらく留守にするのでと挨拶していましたから。泥棒でも入ってきたら、とっちめてやってくれと。別に盗まれるようなものは無いでしょうけど。いいえ、行き先は何も仰っていませんでした。…いいえ、確かお一人で挨拶にみられましたよ。あの、ロングリーさんがお亡くなりにでもなったのですか?」
 ハルとデイヴィッドは、ロングリーの工房に戻り、冷たく静まりかえった作業場に腰を下ろした。
「別に物騒な話ではなさそうだな。」
ハルは炉を覗き込みながらつぶやいた。
「ロングリーはメルチェットから弟子を四人借りると、隣家に挨拶をして出て行っている。しかし何のための人員補強だ?何のための不在だ?」
「仕事だろう。」
デイヴィッドは残された椅子に腰かけ、天井を眺めながら短く言った。
「仕事?」
ハルが振り返る。
「仕事道具も、材料も一切合財もって出かけているし、その道連れはやはり甲冑職人だ。仕事以外は考えられないだろう。」
「確かにそうだ。ではなぜ、弟子を借りたんだ?」
「それはメルチェットにも説明している。大きな仕事が入ったんだ。」
「そうだな。ではなぜ、ここに居ないんだ?」
 デイヴィッドは黙った。この工房では仕事が出来ない事情があるのだ。ここは広さも、設備も十分である事を二人は知っている。別に物騒な話ではなさそうだが、不可解であることは間違いない。静かな工房で二人が得た答えは、フォールスタッフの情報網がなんらかの材料を提供するまでは、手詰まりだということ。日も傾き、ハルが予想したとおりポツリポツリと雨が落ち始めたので、二人はホワイト・ウィージルに戻った。そしてフォールスタッフや、それを取り巻く騎士崩れ、商人、職人、旅人、ゴロツキなどと共に大いに飲み、腹いっぱいに食べて大騒ぎした後にそのまま眠ってしまった。



→ 3. 安眠を破る王子と王弟の登場、
    および西ヨーロッパ数ヶ国における婚姻関係などくさぐさ

2.場面はロンドン市街へ何人かの登場人物の紹介を併記する

Origina; Novel,  Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  甲冑職人の失踪
  
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