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岡の薬師お堂内の姥像について
しかし、民俗学者の柳田国男先生は、その著書『女性と民間伝承』一つ家の姥 のなかで『我々の想像もしなかったくらい大昔の信仰が、たとえ間違いだらけにもせよ 、今日まで伝わって、いたというには、必ず相応の理由がなけれぱならぬと思い ますが、それには物語のの女主人公と、同一系統の職業婦人が永く地方を旅行し ていたことを想像すれば、容易に疑問はとけるのであります。 仏教のはじめて田舎に行われた時代には、自身その霊験を体得したという女の 、身の上話をしてて歩くことが、ことに今よりも盛んであったかと思われますが 、近代になってからも関東地方などは、それがなお引き統いて行なわれていまし た。あるいはそんな手段をもっていわゆる鼻の下のくう殿を建立していたのかも しれませぬが、少なくとも質朴なる信者の側には、それが忘れがたき歴史として 評判せられたので、その例はとても列挙し得ないほど多く残っております。 たいていは勧進と称して土地の人々に堂を建てさせ、自分はその中に住んで一 生を終わったと称して、木像などがその御本尊の脇に安置してあります。 東京近くでは北足立郡樋の爪の岡の薬師なども、足利時代の終わりに再興した 寺ですが、ちゃんと一体の老女の像を祭っています。しかも薬師と婆とは本来間係はないのです。 亀井戸の天神の社内にはもと法華堂というものがあってここにも老婆と老翁の 木像がありました。老女は太宰府の榎寺に住む浄妙尼という女で、管神左遷の折 に栗飯を献上した者だと申しますが、老爺の什随していたのが珍しいと思います 。それよりも新しい一例は、今から百年ほど前の『嘉陵紀行』という書に、白子 の近くにある吹上の観音堂の中に・・・』と岡の薬師の姥像について著述されて おります。この姥の木像には女性の民間信仰の永い歴史を感じます。 |
薬林寺と鎌倉街道・日光御成街道について 日光御成道は、おおむね中世の鎌倉街道を前身として整備されましたが、部分的には後に道すじを変更したと考えられるところもあります。川口宿と鳩ヶ谷宿の間の御成道の一部もそうであったと考えられます。この部分には、古くは芝川の堤防上を通る鎌倉街道(現薬林寺西側道路)を利用していた箇所があったそうです。ところが、この付近の伝承によると、いつの頃か将軍が日光社参りの折り、薬林寺から旧前田村にかかるあたりで、美しい娘を見初めて側室にしたいと言い出しました。そこで家臣たちが計って帰路はそこを通らぬよう、急遽現在の御成道(国道122号)に変更してしまったといわれています。 事の真偽はともかくも、この道すじの変更を思わせるいくつかの事柄があります。まず、今でも土地の古老の中には、現在の御成道を「しんけえどう(新街道)」と呼んでいる人がいること、また、『新編武蔵風土記稿』の前田村の項に、昔は芝川の堤の上が日光御成街道であったという意味の記載がみられること、さらに、現在の御成道部分(国道122号)がほぼ一直線の道路であり、新たに造られたものであると考えられることであります。 |