Top            『浮世絵師歌川列伝』          世絵文献資料館
   浮世絵師歌川列伝           か行                  ☆ かくじゅ うめのや 梅の屋 鶴寿    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p196   〝嘉永六年六月廿八日、両国柳橋の割烹店河内屋にて、狂歌師梅の屋鶴寿が書画会を催せしとき、国芳は大    画をかきて、人目を驚かせり。其の図は水滸伝中の一人、九紋龍史進の像なりし。この日国芳は門人等と    共に、大絞りの揃いの浴衣を着て、嘗て貼りおきし畳三十畳敷ほどなる大紙を座敷にしきひろげ、又酒樽    に貯えたる墨汁を傍におきて、大筆をふるい画き出だせしが、忽ちにして史進を画き終わりたり。其の刺    青の九龍を画きしとき、黒雲のところは手拭を出だし、其の両端に藍および薄墨をつけて、くまどりをな    し、夫より己が着たる浴衣を脱ぎて、樽中の墨汁に浸し、史進が踏みかけたる巌石を画きしが、筆力勇剛、    意匠奇絶、見るもの感嘆せざるはなし。       按ずるに、狂歌師梅の屋鶴寿は、諸田亦兵衛、始吉田佐吉、松枝鶴寿と号す。狂歌堂真顔の門人にして、     神田佐久間町に住す。その家秣(マグサ)を売るを業とす。よりて別号を秣翁という。国芳の気性を愛し、     常に衣服を与え、庖厨をも助けたり。元治元年正月十二日歿す。年六十三。或人曰く国芳が名をなせし     は、全く鶴寿が力なりと〟    ☆ からたち こうなんてい 江南亭 唐立    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p155   〝同〈文政〉十年、江南亭唐立作筆綾三筋継棹六冊を画く。(中略)     按ずるに、江南亭は、狂歌師なり。略伝に、通称中田慶治という。原市街に住て幼より狂歌を好み、故     十返者に従て愚者一得というとあり〟    〈「筆綾三筋継棹」は『筆綾糸三筋継棹』の誤記か〉    ☆ きょうでん さんとう 山東 京伝    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p114   〝案ずるに、この浮牡丹全伝刊行のことにつき、板元住吉屋政五郎が遂に破産せしよしは、細に作者部類に    載せて、暗に京伝がおこたりの罪をせめたり。はじめ板元政五郎が浮牡丹著作を依頼するや、京伝は承諾    しながら、稿本をかかずして、先ずさし画を豊広に画かせたり。従来さし画は、稿本を熟読して後    に画くにあらざれば、其の真趣を写すこと能わざるものなり。然るに豊広は板元の請により、止むことを    得ず、稿本を見ずして画きしが、其の実は甚だ迷惑せしならん。しかして此のごとく苦慮して画きたるさ    し画は、既になるといえども、京伝はなお稿本をかかずして、三年をうち過ぎたり。尋常の画工なれば、    かならず憤りて、彼がおこたりの罪をせむべきに、豊広はさらにいかれる色のなかりしにや、よく人の非    を数(カゾ)うる部類中にも、其の事見えざれば、彼は板元の依頼に対し、約束のごとく画き終わりて、他    を顧みざるもののごとし。これ豊広の人となり、寛闊にして、小事に区々たらず。その見識卓然として、    争う所なき一班を伺うに足る也〟   ☆ ぎょくざん いしだ 石田 玉山    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p83   〝按ずるに玉山は、大坂の人、石田氏、名は尚友、字は子徳(一に子秀)、画を善くするをもて法橋に叙せ    らる。月岡雪鼎の門人、又蔀関月の門人也ともいう。嘗(カツテ)絵本太閤記、および住吉名勝図会等の挿画    を画く、筆力起凡最も密画に長ぜり。文化九年没す。年七十六(二世玉山あり、岡田氏名は修徳)〟    ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟   〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ きらずり 雲母摺    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p86   〝昔時東洲斎写楽、俳優の似貌を画くに巧にして、よく五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富三郎等を    画き、廻りに雲母をすり込み発行せり。これを雲母画という。一時大に行われしが、後にあまり真に過ぎ    たりとて大に廃れたり〟    ☆ きんぞう うたがわ 歌川 金蔵(歌川豊清参照)    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟     〝(式亭三馬『一対男時花歌川』の口上)これにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえ    まするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭    三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊    広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります〟    ☆ 歌川初代豊国門人    くにまさ 歌川 国政  くになが 歌川 国長  くにみつ 歌川 国満    くにさだ 歌川 国貞  くにやす 歌川 国安  くにまる 歌川 国丸    くにつぐ 歌川 国次  くにてる 歌川 国照  くになお 歌川 国直    くによし 歌川 国芳  くにのぶ 歌川 国信  くにただ 歌川 国忠    くにたね 歌川 国種  くにかつ 歌川 国勝  くにとら 歌川 国虎    くにかね 歌川 国兼  くにたけ 歌川 国武  くにむね 歌川 国宗    くにひこ 歌川 国彦  くにゆき 歌川 国幸  くにつな 歌川 国綱    くにはな 歌川 国花  くにため 歌川 国為  くにたく 歌川 国宅    くにひで 歌川 国英  くにかげ 歌川 国景  くにちか 歌川 国近  ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101   (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり)   〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、    国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、    国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。    二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。    国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。    国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。    国丸社中、重丸、年丸、輝人。    国信社中、信清、信一、信房、信与喜。    国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟    ☆ 歌川二代豊国門人    くにとみ 歌川 国富  くにとも 歌川 国朝  くにくめ 歌川 国久女    くにはる 歌川 国春  くにひろ 歌川 国弘  くにしげ 歌川 国重    くにもり 歌川 国盛  くにつる 歌川 国鶴  くにみち 歌川 国道    くにかず 歌川 国一  くにおき 歌川 国興    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101   (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり)   〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、    国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、    国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。    二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。    国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。    国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。    国丸社中、重丸、年丸、輝人。    国信社中、信清、信一、信房、信与喜。    国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟  ☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞(「三世豊国伝」参照)    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟     ◇「歌川豊広伝」p118   〝文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇    は三馬国貞、小結一九北馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をし    て北斎に対せしむるは、少しく当たざるが如し〟     〝かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、関のみ、関脇のみ。其の実    地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席にあらしむるは、これ蓋し過    誉にあらざるべし〟      「文化十年見立相撲番付」     ◇「歌川国芳伝」p194   〝同〈天保〉九年五月の風聞書に、(上略)国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至って巧者にて    云々。この頃の国芳は専ら武者画を画き、大に世に賞せられ、役者画は国貞、武者画は国芳に限れりと世    評高かりし。         按ずるに、此の頃よりして、国芳の画大に世に行われ、終に国貞を圧倒するの勢いありし。当時の落詞     に葭がはびこり、渡し場の邪魔になり。葭は国芳をさし、渡し場は国貞をさしていえるなり。けだしそ     の大意は、近ごろ国芳の画漸次に世人の喝采を以て、かの盛に行われし国貞も、これが為めにおされて     世評は前の如くならざりしをいえる也〟     ◇「浮世絵師歌川雑記」p213    〝【三芝居】客者評判記二冊は、式亭三馬の作にして、天保六年末(【或は文化八年末か詳ならず】の出板    なり。五渡亭国貞のさし画なり。画面細密にして、花道の出端を見る見物の趣、役者の楽屋入をみたがる    見物の形、打擲の場をみる見物の貌、ぬれ場をみる体、ちゃり場をみる見物の体など、真を写して妙なり    というべし)    〈『客者評判記』は文化七年(1810)刊である〉       ◇「三世豊国伝」p125
   「三世豊国伝」    ☆ くにつぐ うたがわ 歌川 国次    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p102   〝(豊国初代門人)国次(俗称幸蔵、銀座四丁目に住す、錦画、草双紙あり)〟    ☆ くにてる うたがわ 歌川 国照   ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝(豊国初代門人)国照(俗称甚左衛門、錦画あり)〟    ☆ くにとら うたがわ 歌川 国虎    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p102   〝(豊国初代門人)国虎(俗称粂蔵、艸双紙あり)〟    ☆ くになお うたがわ 歌川 国直    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p105   〝一世豊国の門人中よく其師風を守りて、失わざるものは国安なり。又師風を返じ別に一派を起さんとせし    は国直也。二人の腕力は大抵優劣なし。国直は俗称鯛蔵、浮世庵、煙柳楼と号す。信州の人麹町に住し、    後に田所町に移る。夙に豊国の門人に入り、浮世絵を学び国字を称うを許され、国直と称す。文化九年鶴    金板式亭三馬作昔語丹前風呂(六冊)は、国直が初筆にして時に十八なりしと(絵双紙名目集に詳也)。    これより盛に草双紙、読本、錦絵の類を画き、国貞と肩を比べしが、別に一機軸を出さんとし、刻板の画    を廃し、明画を学び、又北斎の風を慕う。天保年間に至り再び草双紙、読本類を画きしが行われず。没年    詳ならず。小枝繁作の景清外伝、宮田南北作双玉伝、沼尾氏の諸礼大学等を画く、其他猶多し。野村氏類    考に、式亭三馬推挙して、国直を取立たり。故に三馬作の画最も多し。       案ずるに天保十三年板広益諸家人名録二編、国直名は国直、写楽斎、両国米沢町、吉川四郎兵衛とあり。     何人なるを知らず蓋し二世国直なるべし〟    〈飯島虚心は国直の初筆を文化九年(1812)刊の『昔語丹前風呂』とするが、「日本古典籍総合目録」によれば、三馬作・     国直画の滑稽本『浮世床』『四十八癖』は文化七年(1810)の刊行、また、橋本徳瓶作・国直画の合巻『阿波大尽鳴門之     写絵』も文化七年刊である。それ以前の作品は見あたらない。したがって板本挿画の初筆は文化七年と思われる〉     ◇「歌川国芳伝」p188   〝芳三郎(国芳)、豊国の門に入るといえども、固より学資に乏しければ、如何とすること能わず。終に同    門国直が家の食客となり、専ら画法を研究せり。       按ずるに、類考に(上略)国直が家の塾生の如く居て、板刻画を学びたるゆえに、国芳の画風はすべて、     取合の器財草木なども、国直が筆意にのみよりて画きしが、後には紅毛絵の趣を基として画くとみゆ。     北斎の画風を慕うは、国直が画風によりて学びし故也といえり〟       ☆ くになお うたがわ 歌川 国直 二代    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p105   〝案ずるに天保十三年板広益諸家人名録二編、国直名は国直、写楽斎、両国米沢町、吉川四郎兵衛とあり。    何人なるを知らず蓋し二世国直なるべし〟    ☆ くになが うたがわ 歌川 国長    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94    〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟       ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝一世豊国の門人中奇才をもて一生に賞せられしは国政、国長、国丸の三人也〟     ◇「一世歌川豊国伝」p103   〝国長は俗称梅干之助、一雲斎と号す。江戸の三田に住し、後に金六町に移る。歌川豊国の門に入りて、浮    世画を学び国字を譲られ、歌川国長と称す。俳優似貌画、読本挿画の類は其長ずる所にあらず。専ら組上    燈籠画、或は細かき細工物に組たつる錦画を画き、又名所遠景の浮画を工夫し、其時好に投じ、新奇を出    すは、蓋(ケダシ)豊国門人中に及ぶ者なかるべし。常に幇間桜川善孝、同甚孝と交り、絵画の余暇には遊芸    を事とし、舞踏三絃皆これをよくす。時としては酒席に招かれ、一興をそえて幇間と呼ばるるを得意とせ    り。これ又一奇人なり。文政年中四十余歳にて没せりとす。     案ずるに、類考国長の條に、艸双紙二三種ありといえり。されど二三種に止まらず、七八種もあるべし。     文化五年板東子作復讐浮木之亀背(五冊)同九年板伝笑作運輝長者万燈(二冊)、鬼武作復讐最上紅花     染(三冊)、楚満人作敵討千貫橋、伝笑作敵討寝物語、姥尉輔作恋女房敵討双六の類なり。此他猶ある     べし〟    ☆ くにのぶ うたがわ 歌川 国信    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p102   〝(豊国初代門人)国信(自画作の草双紙あり、作名志満山人)〟    ☆ くにひさ うたがわ 歌川 国久 初代    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟    ☆ くにふさ うたがわ 歌川 国房    ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟       ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝一世豊国の門人中奇才をもて一生に賞せられしは国政、国長、国丸の三人也〟     ◇「一世歌川豊国伝」p103   〝国政は俗称甚助、一寿斎と号す。始め芳町に住し、後に市ヶ谷左内坂に住す。奥州会津の産なり。江戸に    出でて紺屋の職工となり、その業に従事せしが、性来戯場を娯むの一癖あり。職業の暇にはかならず戯場    に至り、一見するを娯楽とせり。時として俳優の似貌を画くに、頗る妙所あるがごとし。紺屋の主人もと    豊国と交る深し。一日其の故を語るに、豊国奇としてこれを招き、門人たらしむ。是より甚助愈(イヨイヨ)画    法に志し、遂に師名の国の字及び氏を称するを許され、歌川国政と云。専ら俳優の似貌を画く、最も中村    富三郎の(女形世にグニャトミという)似貌を画くに巧なり。団扇問屋某偶(タマタマ)国政をして、俳優似貌    がを画かしめ、団扇に張りて発売せしに大に行れたり。(此頃俳優似貌半身の団扇画流行せり)。其画豊    国といえども及ばざる所あり。故に人或は豊国は国政の門人ならんといいしとぞ。されど似貌画のみにし    て、風俗美人画および(【以上八字「小日本」より】)艸双紙読本の類は画かざりし。似顔画も二三年に    して廃れたり。享和の末文化の初に没せり。年月詳ならず。野村氏所蔵類考の書入に、国政後年俳優似貌    の画を彫りて、これを売り生業とせし由いえり〟    ☆ くにまる うたがわ 歌川 国丸    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟     〝(式亭三馬『一対男時花歌川』の口上)これにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえ    まするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭    三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊    広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります〟     ◇「一世歌川豊国伝」p102 〝一世豊国の門人中奇才をもて一生に賞せられしは国政、国長、国丸の三人也〟     ◇「一世歌川豊国伝」p104   〝国丸は俗称文治、一円斎と号し又五彩楼、翻蝶菴と号す。本町二丁目浮世小路に住せり。式亭三馬が雑記、    文化八年の條に、国丸子は豊国門人小田原町二丁目、横町木戸際質屋の一子と有。夙(ツト)に国字を称(トナ)    うを許され、歌川国丸と称す。専ら俳優似貌画、艸双紙の類を画き、国安と共に世に行わる。俳諧を好み、    鴬笠菴の内に入り、名を龍尾という。一身を風流に委ね、俗事を願わず。常に名流の門に出入し世を終う。    三十余歳、文政の末なりし。野村氏類考書入に、文化七年三馬作一対男時花歌川、三馬口上にて国丸が前    髪の肖像あり。同年京山作出世桜誉の詠歌(三冊)、これ国丸が初筆なりとあり〟    ☆ くにみつ うたがわ 歌川 国満    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘右    衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。三    馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、    国丸、国久、国房、を載す〟     ◇「三世豊国伝」p127   〝同八年三月、向両国中村屋にて、式亭三馬が書画会を催せし時、国貞はその世話役の一人となりて、豊国、    国満、京伝、京山等と共に、周旋至らざるなかりしとぞ。三馬が雑記に、辛未三月十二日、両国橋向尾上町    中村屋平吉方にて書画会、会主三馬、晴天にてその日は諸君子駕を枉(マゲ)られ、存分の盛会なりし。前日    よりの世話役、中ばし槙町歌川豊国、同居国満、本所五ッ目同国貞、京橋銀座山東京伝、中橋槙同京山、    (中略)絵の具一式国貞子より賜物門人二人にて絵の具をときたる故事をかかずとあり〟     ◇「一世歌川豊国伝」p102   〝(豊国初代門人)国満(俗称熊蔵、田所町に住す、錦画、草双紙あり)〟    ☆ くにやす うたがわ 歌川 国安    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p92   〝豊国の盛なる、自ら誇りて山東京伝を軽蔑せしのみならず、式亭三馬をも軽視せしをもて、其の交情一    時睦しからず。これかの三馬作、阿古義物語を発行するにあたり、何の故か豊国は半にして画かざりし    かば、三馬これを憤りたるによりてなり。戯作者略伝三馬の條に、大人が撰みたる絵本に、阿古義物語    といえる五巻あり、稿なりて故一陽斎豊国が許に稿本わたしかども、一陽斎如何なる故ありてか、繍象    半(ナカバ)にして、其の後をふつに画かず、ようやく遅滞におよびしかば式亭憤を発し、日ごろ刎頸の交    り厚きを、かくまで己を蔑如する、其の心根こそ悪(ニク)けれとて、自ら一陽斎に至り、まのあたり此事    を罵り、其の怠慢を責しかば豊国言を尽してわびたれども、式亭が怒りとけず、これより何となく互に    隔心出できて、此方にては、吾が著述せる冊子は、向後彼をして画かしめじといえば、彼方にても彼が    作りたる冊子は、吾ふつに画くまじなど罵りあいしが、書賈伊賀屋文亀堂があつかいにて、双方和解し、    文化七庚午文亀堂が上木せし、一対男時花歌川といえる冊子は、三馬子が編述せる所にて、前編六巻を    一陽斎画きて、これを初日と称え、後編六巻を、一柳斎豊広画きて、これを後日と(以上二十二字「小    日本」より)よび、初日後日、二日替りの狂言の如く執りなし、ところどころ両子あい画にせし所もあ    り。一入(ヒトシオ)興ふかく彫刻も細にいできて、是をもて式亭と一陽斎が和睦の媒(ナカダチ)となし、文亀    堂発市におよびしかば、目さきことに変りて、美しく面白き冊子なりとて、看客の評判つよく行われた    りきと、亡友一鳳斎国安子物語ぬ。    〈「戯作者略伝」とは岩本活東子の編集した『戯作六家撰』(安政三年(1856)成立『燕石十種』二巻所収)であろうか、     それともその原本である『戯作者撰集』(石塚豊芥子編・天保末年~弘化年間成立、嘉永年間補筆)であろうか。こ     の挿話は『戯作者撰集』に出ている。従って「亡友一鳳斎国安」から聞き書きしたのはその編者、石塚豊芥子である。     石塚豊介子は蔵書家・考証家として著名、『戯作者撰集』の編者でもある。豊介子は文久元年(1862)六十三歳没。国     安は天保三年(1832)の没年で、『原色浮世絵大百科事典』の享年三十九歳(「馬琴日記」は〝年四十許〟)。すると     国安の方のが六歳ほど年上であるが、「亡友」とあるからかなり親密な関係にあったと思われる。文化七年当時、国     安は十七歳。この豊国・三馬の騒動、江戸戯作界における画工優位を象徴するかのような出来事を、少年国安はつぶ     さに見聞していたはずだ。信ずるにたる消息だといえよう。三馬作『阿古義物語』(豊国・国貞画)『一対男時花歌     川』(豊国・豊広画)ともに文化七年(1810)の刊行〉       按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋     勘右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に     倣う。三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、     国長、国満、国丸、国久、国房、を載す〟     〝〈式亭三馬『一対男時花歌川』の口上〉これにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえ    まするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭    三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊    広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります〟     ◇「一世歌川豊国伝」p105   〝一世豊国の門人中よく其師風を守りて、失わざるものは国安なり。又師風を返じ別に一派を起さんとせし    は国直也。二人の腕力は大抵優劣なし(以下、国直記事、略)〟       〝国安は俗称安五郎、一鳳斎と号す。江戸の人初め大門通に住し、後に深川扇橋、又両国若松町に住す。夙    に豊国の門に入り、塾生のごとく常に師の傍にありて、画法を学び其骨髄を得たり。遂に国字を称うを許    され、国安と称す。文化の始めより、錦画を出し行わる。野村氏類考に、国安の錦画行れしは、歌右衛門    忠信道行の画を始とす云々。後に故ありて名を西川安信と改しが、幾ならずして又改めて国安という。天    保七年没す。三十余歳、五柳亭徳升作大益天神記(五冊)、同作義経一代記(五冊)、同作四天王其源    (五冊)、二世焉馬作角力水滸伝等を画く。その他猶おおし〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「歌川豊広伝」p123   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす    ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出    入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師と称し、殆ど土佐狩    野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて末に走り、骨法筆意を    旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の情なく、甚だしきは尊卑    老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜしむ。これ豈浮世絵の本色    ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざるものは、蓋し豊広、広重、国    芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門をうかがい、英氏のあとをしたい、    終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画世に行われずして止む。もし豊広の    画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰うること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しき    に至らざるべし。噫〟   〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉     ◇「三世豊国伝」p132   〝同九年五月の風聞書に(古画備考載する所)、当時役者画かき候画師、此両人計(バカリ)に候。其の内にも    国貞一人と可申、其子細は国芳の画は人物せい高くさみしく、国貞が画は幅ありて賑やかに候。且画もよ    き故に此画ばかり売れ候て、国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至て巧者にて、画料国貞より    半分下直(シタネ)に候えども捌けかね候。国貞五ッ目渡場の株を持ち、五渡亭と号し五ッ目に住候。遠方よ    り絵双紙屋不断来候由。国芳は既に豊国になるべき事候えども、故ありて不申由。同国安と申は国貞につ    づきて役者絵よく画き候が、一昨年相果申候。国芳は職人風にて細帯をしめ仕事師のごとし。国貞は人が    らよく、常に一腰さして出候由とあり。     按ずるに、当時豊国の後を継ぐものは国貞ならんといい、又国芳ならんといい世評甚だ 噪がしかりし     ことは、此の風聞書を見て知るべし〟     ◇「歌川国芳伝」p185
   「歌川国芳」       ◯『浮世絵師歌川列伝』「浮世絵師歌川雑記」p212   〝或人曰く、国芳源頼光が病床にありて、百鬼に悩まさるるの図を画きて捕われしが、別に寓意ありて画き    たるにあらざれば赦されたり。道路の人此画を評し、頼光は将軍家慶公、四天王は閣老、百鬼は下民を指    したるなり〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p76   〝享和年間司馬江漢長崎に至り、更に西洋油画の画法を伝えしより、其の法益々世に行わる。かの北斎、広    重の山水、またみなこの法によれるなり〟   〈司馬江漢の長崎平戸遊学は天明八年(1788)~寛政元年(1789)にかけて〉     ☆ ごうかん 合巻    ◯『浮世絵師歌川列伝』「浮世絵師歌川雑記」p217   〝鈴木白藤曰く、一陽斎豊国頃の草双紙より合巻とて、三冊、五冊、或は八九冊を一冊になし、漉返紙青本    にてなく、糊入紙五彩表紙に製し、画は至て精密なり。画工多き中にも、豊国最称せらる〟