Top            雑 録           その他(明治以降の浮世絵記事)   出典:篠田鉱造 『明治百話』     野崎左文 『私の見た明治文壇』      森銑三  『明治人物夜話』   菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』      長谷川時雨『旧聞日本橋』    勝海舟  『氷川清話』      長谷川渓石『実見画録』(底本名は『江戸東京実見画録』)  ※( )内のカタカナはルビ。但し底本はひらがな (*~)は本HPの私注  ☆ あくずり 悪摺    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p277   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝其頃(文久年間)また悪摺といふもの大に作者仲間に流行す、此悪摺といふは友人の不品行又は失策    話し等を粗画に顕はし之を瓦版(カハラバン)に付して印行し普く其人の知己又は得意先に配り以て其非行を    諷刺するの意に出でしものなるが後には此悪戯(アクゲ)は誹毀(ヒキ)一方に傾き一家の秘事をも摘発して痛    く人身攻撃を加ふるやうになりぬ、魯文は此悪摺に筆を採ること屡々にして当時一枚の悪摺出れば又魯    文の悪戯ならんと言はれし程なり、又此悪摺の流行は明治初年までも打続き慶応年間には「鳴久者評判    記(アクシヤヒヤウバンキ)」の出版を見るに至れり其内悪摺の立役として魯文は足立座、染谷座、白縫座【皆悪    摺の版元】三座かけ持に其名を著はし魯文の作りし瘤陀羅経(コブダラキヤウ)【梅素玄魚の意気事を阿房陀    羅経の文句に作り換へしもの】万八番乗組【興画角力勝負附の名前尽し】地獄変相【交来が悪摺を拵へ    し罪を責むる狂画】等は皆大上々吉の部に加へられ後には此悪摺だん/\と大袈裟になり終に邪魔妬魂    (ヂヤマトダマシヒ)など云へる彩色入奉書上彫刻、上印刷の悪摺を配るやうになりぬ     (中略、悪摺の匿名が露見して、誹謗中傷した相手に作者が出した詫び証文の例などあり。ここで      は二代目柳亭種彦が一恵斎芳幾、山閑人交来、山々亭有人、仮名垣魯文宛に出した詫び状が載っ      ている)    魯文翁の外に好んで悪摺を作りし者は山々亭有人【条野採菊】二代目柳亭種彦【初号笠亭仙果】梅素玄    魚、武田交来、一恵斎芳幾、葛飾酔桜軒【高野某】出揚扇夫等の諸氏にて殊に盛衰競(セイスヰクラベ)、南    子(ナンコ)の馬鹿など云へる悪摺は大に文人社会を騒がせしのみならず是に就て奇談頗る多けれど(以下、    略)〟    ☆ いたおろし 板おろし    ◯『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    浮世絵の板木が出来あがると、関係者が集まって試しに刷ってみる。そして多少手直ししたり、色の具    合などについて意見を出しあって、これでよいということになったら、十枚ほど刷る。これが板おろし    で、そのあと、画師・摺師・彫師などが出版元の出す酒肴で一ぱいやる。ささやかな酒宴だが、これが    楽しみだったものだ、と翁の話〟    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著・『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』所収)   〝わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のな    い、不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の    発達上に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主として    これがためだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見    るべきもので、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノ    グラフィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわ    けにはゆかない宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主とし    て狭斜か劇場かに関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式    に外ならなかったのである。前ひいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相裨けてその発    達を促成した気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套    に堕し、化政度以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間    際となっては、もう全く行き詰りとなってしまった〟     〝(明治八、九年頃現れた新傾向の草双紙=表紙絵や中絵は従来の草双紙を踏襲しながら、傍訓付きの漢    字を多用して、街談巷説を脚色した絵入り読み物)十年前後には魯文、清種、梅彦、転々堂、彦作(久    保田)、泉龍亭、勘造(岡本)?など。(中略)絵は芳幾や国政や周延が専ら担当していたかと思うが、    いずれも、草双紙全盛期のそれらとは似ても似附かぬ、構図も筆致も彫りも刷りも、粗末千万なもので    あつた。歌川派も役者絵専門の国周以外は、おい/\生活難の脅威を感じはじめて、粗製濫造に甘んじ    ないわけにはいかなかったのである。後には油絵や写真から自得した一種の手法に一代の喝采を博し得    て明治の浮世絵界に雄視した大蘇芳年なども、まだその頃は、生存のために大踠(モガ)きをして、どう    したら時代の好尚に副い得べきかと暗中模索式の筆意を凝らしつつあつた。彼らが写真式の変な手法で    血みどろの官軍や幕兵を、あるいは彩色絵本に、あるいは錦絵に、頻りに画き散しつつあつたのは慶応    年間の事であった。    この際、歌川派の衰落を補充すべく、比較的清新な筆を揮って、新刊書の挿絵を描いて、一代に歓迎さ    れはじめた二画家がある。それは惺々狂斎と鮮斎永濯であった。前者は滑稽諷刺の諸著によろしく、後    者は新時代相を画くことにおいて、先ず写実的である点が歌川派を凌ぎ、かつ狩野派出だけに、上品で    もあった。明治八、九年以後、芳年が急に躍進して風俗画において彼と相対峙するに至ってからはそう    でもなかったが、松村の諸著の如きは、彼れの画で半分助けられていたといえる    こんな風で、例の四角関係は、いよ/\ます/\崩壊していった。けれども因襲の根はなかなか抜け切    らんものである。四角関係の系統は、傍訓附きの新式草双紙へは依然として伝わり、延(ヒ)いて明治二    十年前後にまで及んだ。私の「旧悪全書」の第一編『書生気質』の口絵にさへ、歌川国峰の筆によって、    明瞭にその残影が留められてあったことを憶い出すと慚愧に堪えない〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「昔の銀座と新橋芸者」2p55   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(*明治十一二年頃)露店は今ほど盛んで無かつたが、やはり銀座一丁目から四丁目までを限りとして    東側にのみ並んで居た、始めは我楽多店(ガラクタミセ)や飲食店が多かつたが段々骨董古書画類のよい物を    持出すやうになり其の品の位が漸く値打あるものに高まつて来た。此の露店中銀座二丁目で古本のみ売    る老人が居て、折々珍書の掘出し物があり、私は茲で三馬の臆説年代記(オクセツネンダイキ)を八銭、哥麿(ウタ    マロ)の吉原年中行事を五十銭で買つた事もあつた〟    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇p144   〝(嘉永元年、仮名垣魯文は戯作名を和堂珍海から英魯文へと改号する。翌二年春、魯文は諸家の寄せた    吟詠に諸家の小伝を添えた『名聞面赤本(ナヲキイテカホモアカホン)』なる摺物を制作して、その改号披露を行った)    表題の絵は渓斎英泉に頼み版下の筆耕は田端松軒に托して剞劂師の手にゆだねし(以下略)〟    〈英泉は嘉永元年(1848)七月二十二日の歿である。英泉はこの表紙の他に狂歌を寄せている。p153に「五月頃」と     あるから、英泉最晩年の作品ということになる〉     ◇p153   〝 両の手に桃とさくらを持添へて花の大枝さけるかた腕         一筆庵    魯曰、画名渓斎英泉、作号一筆庵可候、元来水野壱岐守侯の藩士にて後(ノチ)町家(チヤウカ)に下り画作を    以て営業とす、通称池田屋善次郎諱(イミナ)は義信、壮年画を菊川英山に学び又一度三代目並木五瓶が未    だ篠田金次といひし頃その弟子となり、狂言作者の徒に入りて千代田才市と呼びたりとぞ、余が此作名    披露の刷帖(スリモノ)の表紙画と両の手云々の狂歌は嘉永戊申年五月頃認(シタタ)めて文京が許に送り越した    るが、同年八月廿六日病みて歿す、生年五十九、その墓所(或は云ふ四谷福寿院なりと)法名を知らず〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。嘉永戊申は嘉永元年(1848)。魯文は英泉の死亡日を八月二十六日とするのだが、何に拠ったのであろう     か。魯文はこのとき同年十一月六日には亡くなってしまう最晩年の曲亭馬琴にも一首を請うべく、師匠花笠文京に随     って四谷信濃坂を訪問していた。七月頃だと云う。その馬琴の様子を魯文は「老眼衰耗して瞽者の如く」と記してい     る。その馬琴の方は、版元泉屋市兵衛の談として、英泉の死を七月二十二日と書き記していた。魯文瞽者に如かずで     ある。花笠文京は東条琴台の兄で、安政七年(1859)三月三日歿、享年七十六歳〉    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p245   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)成立・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 仮名反故叙    物の本を編みて潤筆料を得ることを始めたる者は山東京伝なり、然れば此人を小説家中興の祖とし馬琴、    種彦、一九、三馬、京山、春水那(ナン)どいふ有名の著者輩出し、当時小説の盛んなる、読本、合巻、酔    書に論なく、年々梓(アヅサ)に上(ノボ)るもの牛に汗し棟(ムナギ)に充(ミ)てり、故に此人々を大先輩とし、    第二の先輩者たる者は、柳下亭種員、二代目種彦(仙果)松亭金水、楽亭西馬、一筆庵英泉、美図垣笑顔、万亭応賀等なり〟    〈野崎左文編の「仮名反故」は明治二十七年に亡くなった仮名垣魯文の追善集。この「叙」は採菊山人の手になるもの。     採菊山人は條野氏、山々亭有人とも号す。明治五年、落合芳幾らとともに東京日日新聞社を創立。絵師・鏑木清方の     父。明治の半ば頃まで、英泉は浮世絵師としてばかりではなく、文筆家としてのイメージをも併せ持っていたものと     思われる〉    ☆ えいせん とみおか 永洗 富岡    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿     (上略)    下谷の松源がアノ頃の宴会場で、雅邦、広業、永洗の合作屏風があったものです。     (中略)     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう〟    〈華村は鈴木華村〉       ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富岡    永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期に属    すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ えいたく せんさい 鮮斎 永濯    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿    (新橋の芸者屋三浦屋の記事、上略)     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう。鈴木華村君は道楽の大家で、梯子上戸ですから、ソレからソレ    と酔い廻る。飲み廻るんでなくって、酔い廻るという人でした。妻女は常磐津のお師匠さんで、先生の    酒には弱っていました〟    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p86   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇「新聞挿画の沿革」1p86   〝 芳年氏と相並んで一方の頭目と仰がれたのは鮮斎永濯氏である。氏は通称小林秀次郎、名は徳宣(トクセ    ン)、幼時狩野(カノ)永悳(エイトク)の門に入(イ)り弱冠にして大老井伊家のお抱へ画師となつた事もあるが、    夫れより後諸名家の筆法を学んで一機軸を出すい至つたのである。同氏が始めて新聞挿画の筆を執つた    のは私も創業に与(アヅカ)つて居た絵入朝野で、その創刊の準備中挿画は誰に頼まうかとの問題が起つた    時一つは歌川国松氏に、今一つは是非とも永濯氏の筆を煩はしたいとの社中の希望であつた。其折此使    に当つたのが私で、小梅の宅を訪ひ懇々と依頼した処が、こちらの指名する彫刻師に彫らせるならば書    いて見ようとの承諾を得て其後下絵や画料を携へて屡々永濯氏を訪問した事があつたが、其の都度取次    に出られたのが今の小林永興(エイコウ)氏であつた事を、十数年後に至つて永興から聞かされ、アゝさうで    あつたかと坐(ソゾ)ろに懐かしく思つた事があつた。茲で又金銭問題を持出せば、其頃の挿画の画料が    芳年永濯の一流どころで一枚一円、第二流になると三四十銭で五十銭といふのが最高の相場であつた。    昨年京都から久し振りに上京して拙宅を訪れた歌川国松氏の直話(ジキワ)に拠ると、同氏が明治十三年ご    ろ有喜世新聞の挿画を一日二個づゝ書いて居た時の報酬が月給制度で一ヶ月十二円であつたとの事だ、    又同氏の話にやはり同じ有喜世新聞の表紙画として、地球図の中に諾冊(ダクサツ)二尊が立つて居るとこ    ろの絵を永濯氏に頼む事となり、其使を命じられたのが国松氏であつたが、社主の寺家村(ジケムラ)氏が    是れでよからうと包んで出した目録が金二十疋(五十銭)それは余り少なからうと再三押問答をしても    聞入れぬので、たうとう国松氏が自腹を切り一円にして持つて行つたとの事である。     永濯氏の筆は本画から出た丈(ダケ)あつて品も備はり且丁寧で、人物の容貌などは如何にも其人らし    く、殊に背景の樹木や山水は浮世絵派の及ばぬ処があつて、一点も投(ナゲ)やりに描いた処がなく、腕    はたしかに一段上だつたに拘はらず、芳年氏の如き奇抜な風もなく又芳幾氏の如き艶麗な赴(オモム)きに    乏しかつた為めに、俗受けを専らとする新聞の挿画としては気の毒ながら評判に上(ノボ)らず、芳年氏    の為めに、稍や圧倒せられた気味があつた。併し私の敬服したのは他の画家中には記者の下画に対して    人物の甲乙の位置を転倒したり、或は全く其の姿勢を変へたりして、下絵とは殆ど別物の図様(ヅヤウ)に    書き上げる人が多かつたのに、一人永濯氏のみは魯文翁や私の下絵通りに筆を着けて少しも其赴きを変    へなかつた一事で、是れは氏の筆力が自在であつた証拠だと思はれる。只一度私が生来左利きの為めツ    イ間違へて左の手で楊枝を使つて居る人物を書いた時「これは左利きになつて居りますから楊枝を右の    手に持換へさせました」との断り書(ガキ)を添へて其絵を送られた事があつた〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ えいりしんぶん 絵入新聞    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p33   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治八年四月創刊)絵入新聞はよい処へ着眼したもので、毎日の雑報へ絵を入れて出すといふのが同    社の誇りであつた。其絵は同社投資者の一人(ニン)落合芳幾氏が筆を把(ト)つたもので、新聞挿画(サシヱ)    の筆者は此人を以て鼻祖とすべきである。     新聞に絵を入れる順序はどうであるかと云へば、警察受持(ウケモチ)の探訪者が帰社して差出す原稿の内    から、絵を入れるべきものを択んで画工が直ちに版下(ハンシタ)を描き之を其夜の版活(ハンカツ)大組(オオグミ)    の終るまでに急いで彫刻させるので、絵入社では三人の彫刻師が雇入れてあつた。其頃は今の新聞の如    く地方へ宵出(ヨヒダ)しといふ事は無かつたけれども、八頁掛(ガケ)のロール二台で──一台で表、一台    で裏を──印刷するのである。而(シ)かも蒸気とか電気とかいふ動力もなく、人の手で車を廻させゴト    /\と印刷するのであるから、夜の十時前後から刷り始めねば翌朝の配達に間に合はぬので、どうして    も五六時間に彫上げねばならぬのである。(まだ版木(ハンギ)の出来上らぬ時に大組に取掛る場合はボー    ル紙などにて版木の寸法だけの型を取り、夫れだけを残して活字を組込み、あとで版木の出来上がつた    時之を嵌め込んで印刷するのである)かゝる急ぎの仕事の為めに其の版木を二ッにも三ッにも割り、彫    刻師が手別けをして彫刻し、あとで之を継合すといふ窮策を施す事もあつたが、かゝる急拵への版画ゆ    ゑ頭彫(カシラボ)り──彫刻師の腕利きが専ら人物の面部や頭髪の毛筋などを彫つたもので、之を頭彫りと    称し、其他の胴体や背景を彫上げるのは弟子分の仕事であつた──などは粗雑なもので、殊に版木の割    (ワ)り目(メ)が白い筋を引いたやうに、ハツキリと紙面に顕(アラ)はれるなどは不手際なものであつた。    そこで版木を丁寧に彫らせるにはどうしても一日以上の余裕を与へねばならぬという処から、同記者の    前田夏繁氏が明治十一年九月に(明治全小説戯曲大観に九年十一月とあるのは誤り)「金之助の話」と    いふ、三分の事実へ七分の潤色を加へた続き話を載せ始め、挿画も二三回づゝ前以(マエモツ)て版下をゑが    き、ゆる/\彫刻させる事となつたが、此続き話が恐らく新聞へ小説を載せはじめた嚆矢で、其後小新    聞は競うて続き物を紙上に掲げるやうになり、且其社では必ず一二の続き物担当の記者を聘するやうに    なつた。其続きものも最初の内は別立ての標題(ミダシ)ではなく其筆者も署名せず、謂はゞ長い雑報を連    載するやうなものであつたが、一二年後には外題を一行の別見出しとし、何某(ナニガシ)作(サク)とか何某    綴(ツヅル)とか其の筆者の作名を掲げ、外題も草双紙風の五字題七字題のものが用ひられるやうになり──    読売新聞のみは久しく絵も入れず続き物も載せなかつた、饗庭篁村氏が絵入らずの小説を署名もせずに    雑報の片隅へ載せ始めたのも、ズツと後の明治十五年頃である──それが後年には小新聞を卑俗だと譏    (ソシ)つて居た大新聞までが之に倣ひ、終(ツヒ)には講談ものまで連載して読者の御機嫌を取るやうになつ    た〟    ☆ えし 絵師    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿     私の話はないまぜで、とりとめない明治話ですが、何か役に立ちましたら結構。ソノ代り私が自分で    ぐつかった話ですから、嘘偽りはありません。明治中古ですね。     三浦屋の女将(オカミ)片桐さくさんが、モトはお女郎でしたが、大阪の呉服屋さんの世話となって、芸    妓屋(ゲイシャヤ)を新橋に開き、三浦屋と名乗って出ましたが、芝琴平町の煙草屋の囮娘(オトリムスメ)を貰い、    養女としたのが大当たりで、養女として日清戦争から思付き『勝利』と名乗らして、芸妓に仕立てたの    が、今の六代目菊五郎の妻女とあった仕合者(シアワセモノ)です。ソノ頃源太という、小造りの色の黒い妓    (コ)があって、絵師連中から可愛がられていましたが、どうなりましたか、華村、永陵、広業その他の    連中が、大騒ぎをしていたものでした。三浦屋も絵師連の贔屓を受けていて、おさくさんが築地へ『オ    タコ』という待合を出したころには、絵具皿がチャンと揃っていて、酔画伯をつかまいては「サア描い    て頂戴イ」といって、金屏風を持出す。白羽二重の帯を持出す騒ぎでした。酔うと興に乗じて、描いた    ものの中に、傑作が残っていました。広業さんの絵は大したものになっていたでしょう。下谷の松源が    アノ頃の宴会場で、雅邦、広業、永洗の合作屏風があったものです。ソノ頃の一つ話に、流山の味醂問    屋に、絵師連が聘(ヨバ)れたら、四間の大襖が白張りで嵌めてあって、絵を描いて貰う下構えであった    ものと見えますが、ソノ大袈裟にチョット絵師連も驚いていたら、広業君が酔って、フラ/\と立あが    ると、新聞紙を丸めて、摺鉢に摺ってある墨汁をドップリと浸し、四間の大襖へ、一杯に老松の幹をか    き、垂れる墨雫(シズク)を、蔦に描いてしまったということでした。
    広業の大星由良之助     広業君の逸話は、とても多いが、先生はいつも二ツ巴の紋で、笠仙(チクセン)でケントンの古代紫の下着    を染めさせ、巴の紋をくずしにして、羽織着物へつけていました。ソレを来て京都へいった時に、あち    らの栖鳳や春挙に迎えられ、例の祇園の一力(イチリキ)へあげって、酔いが廻るに随い、上着や羽織を抜き    棄てると、古代紫の下着に、ソレにも二つ巴のくずし紋がついていたので、まるッきし大星由良之助ソ    ックリといった風だったので、赤前垂の中居達大喜び。眼隠をさせて「由良さんこっち」と鬼ごっこを    しての大騒ぎ、大喝采であったことは、今に一ト口話に残っています。     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう。鈴木華村君は道楽の大家で、梯子上戸ですから、ソレからソレ    と酔い廻る。飲み廻るんでなくって、酔い廻るという人でした。妻女は常磐津のお師匠さんで、先生の    酒には弱っていました。     年方を苛め一方芳坊     名人芳年は、画も名人ですが、貧乏も名人で、酔払いでやかましい人でした。貧乏といったら机がな    いんで、机はみかん箱なんです。飯(メシ)の釜はというと、ソノ頃の柳川鍋で、今のように小さな鍋でな    く、黄ろい大きな、深みのある土鍋でしたから、御飯を焚くには持って来いで、内弟子の年方や芳宗が、    コノやかましやの先生に仕えて、苛められ抜き、ことに年方の如きはどういうものか、コキ使われたり    苛められました。芳宗の方は「芳坊(ヨシボウ)々々」といって可愛がられていた。年方は左官の子息(ムスコ)    から、大家になって、清方、輝方、寛方などを出した人ですが、芳年の気に入らず「左官々々」と言っ    て罵しられ、泣いて辛抱したから、遉(サス)がに後に大家になったんです。     落合芳幾という、『歌舞伎新報』の役者絵をかいた先生があって、この人は東京日々(トウキョウニチニチ)の    創立に預り、条野採菊、西田伝助と共に、新聞事業にたずさわったもので、軟派の連中が引退(ヒキサガ)    り、『やまと新聞』を創刊することになったので、御用新聞となった東日(トウニチ)からは、タンマリと縁    切金が出たものです。     ソコで芳幾へ配当金を風呂敷へ包んで、東日から届けて来た。何だろうと披いて見たら、紙幣(サツ)の    束が包んであった。「オヤ何かの間違いだ」と愕(オドロ)いて、会計長だった西田伝助へ戻してやると、    「ソレは分配金だから、有難く受取って置き給え」との話に、今度は大喜びで、受取ったという話があ    りました。京橋滝山町の石土蔵(イシクラ)の家(ウチ)に住んでいました。コノ芳幾の二番娘が長髪弁護士森肇    君の妻君でしたがソノ腹に産まれたのが森律子でしょう〟    ☆ かそん すずき 鈴木 華村    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿     (上略)     三浦屋の女将(オカミ)片桐さくさんが、モトはお女郎でしたが、大阪の呉服屋さんの世話となって、芸    妓屋(ゲイシャヤ)を新橋に開き、三浦屋と名乗って出ましたが、芝琴平町の煙草屋の囮娘(オトリムスメ)を貰い、    養女としたのが大当たりで、養女として日清戦争から思付き『勝利』と名乗らして、芸妓に仕立てたの    が、今の六代目菊五郎の妻女とあった仕合者(シアワセモノ)です。ソノ頃源太という、小造りの色の黒い妓    (コ)があって、絵師連中から可愛がられていましたが、どうなりましたか、華村、永陵、広業その他の    連中が、大騒ぎをしていたものでした。三浦屋も絵師連の贔屓を受けていて、おさくさんが築地へ『オ    タコ』という待合を出したころには、絵具皿がチャンと揃っていて、酔画伯をつかまいては「サア描い    て頂戴イ」といって、金屏風を持出す。白羽二重の帯を持出す騒ぎでした。酔うと興に乗じて、描いた    ものの中に、傑作が残っていました。広業さんの絵は大したものになっていたでしょう。     (中略)     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう。鈴木華村君は道楽の大家で、梯子上戸ですから、ソレからソレ    と酔い廻る。飲み廻るんでなくって、酔い廻るという人でした。妻女は常磐津のお師匠さんで、先生の    酒には弱っていました〟    ☆ かみゆいどこ 髪結床  ◯『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝維新前、髪結床へ夏向日除(ひよけ)代用の大暖簾を、客筋より贈りしものにて、場所によりては、少な    からざる費用を掛けしものなり。此のれんには、国芳・北斎などの絵がきしものも見受たり〟    〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉   (以下、花咲一男の「髪結床の大のれん」の注解)   「(髪結床)の長のれんを、客筋から寄贈するようになつた始めは、文化十年(1813)大坂役者の中村歌右    衛門が江戸に下り、芝居近所の八カ町の髪結床に、自分の屋号を染めて贈つたのが、それであるという。    髪結代は二十八文がきまりであるが、物価の変りもあり、余分に置いてゆく人が多かつたという」    ☆ きょうがあわせ 興画合せ    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p287   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝当時三題噺に次いで流行せしは興画合せといふ遊戯なり、此遊びは先づ会日を定め其前に兼題を配り置    きて当日其趣向を持寄り衆議判(シュウギハン)にて之が優劣を定め高点の部へは夫々賞品を配るといふ方法    なりき其興画の認(シタタ)め方は兼題の品物を画中にあらはさず古事又は古歌等の意を取り他の景物を描    き出して夫となく兼題を利かする趣向にて例へば寄月水といふ兼題の出たる時は薄(ススキ)の原の遠見(ト    ホミ)のみを画きて武蔵野と見せ月と逃水とを隠して夫となく兼題を利かせ又養在深閨人未識といふ詩の    句を兼題に取りし時は室咲(ムロザキ)の梅を描きて余意を示すがごとき趣向なり、魯文も亦此遊び仲間に    加はり時々興画を出品せしが是は三題噺の不手際なりしに引換へ毎度高点を取りて喝采を博せし事あり    或時江戸市中の橋名(ケウメイ)を分ちて兼題とし花水橋といふ題を取りし時翁は鴬と蛙云々をいふに因み夫    となく花と水とを利かせたる趣向にて一座大受けなりしが此催しも亦年を追ふて盛大となり慶応年間に    は或人の追善の為め「隈なき影」といふ興画合連中の影画(カゲヱ)と自咏の句とを記せし美麗なる彩色    摺の大冊子を配るやうになりぬ〟    ☆ きょうさい しょうじょう 河鍋 暁斎    ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p246(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (国周談)   〝「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」    (森銑三記事)     暁斎が国周の家の新宅開きに、酒の上で乱暴したことは、外のものでも読んだ記憶があるが、何であ    ったか、今思出されない。但し暁斎の酒癖の悪かったことは、諸書に見えている    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p269   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(安政二年(1855)十月二日、大地震)    斯る時にも素早きは際物師の常とて翌早朝一人の書肆(*仮名垣魯文方へ)来り何ぞ地震の趣向にて一    枚摺の原稿を書いて貰ひたしと頼みければ、魯文は露店にて立ながら筆を取りて鯰の老松といへる趣向    を附け折よく来合せたる画師狂斎【後ち猩々暁斎と改む、通姓川鍋洞郁】に魯文下画(シタヱ)の儘を描か    せて売出せしに此錦絵大評判となりて売れること数千枚、他の書肆よりも続いて種々の注文ありて魯文    は五六日の間地震当込(アテコ)み錦絵の草稿を書くこと二三十枚に及び皆売口よくして鯰の為めに思はぬ    潤ひを得たりと云ふ、左に掲ぐるものも亦当時魯文翁の作りし戯文の一なり其絵は七代目団十郎柿の素    袍大太刀にて足下に鯰坊主を踏まへ要石にて其首を押へ附けし形ちにして歌川豊国の筆なり〟      ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p81   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝猩々(シヤウ/\)暁斎(ゲウサイ)氏は魯文翁とは安政の大地震以来の旧知己で、魯翁の戯作本のさし絵は大    概此人が書いて居る。それ等の関係から仮名読新聞紙上や魯文珍報等へ氏の狂画が出るやうになつたが、    一種奇抜な筆趣ゆゑ続き物のさし画には不向(フムキ)で、書くものは風刺的の漫画のみであつたが、之が    恐らく今の新聞に出るパツク風(フウ)狂画の嚆矢であつたかも知れぬ。或時同氏が仮名読社へ来て編輯局    の白壁へ戯れに酔筆を揮つた巨描(キヨベウ)の図が新聞廃刊後数年間保存されて居た事もあつた。さて是    は新聞挿画には関係のない余談ながら、同氏の逸話の一つとして現在私が見た儘のお話をすれば、或日    暁斎が魯文翁の仏骨庵を訪れた時、氏は名うての酒豪ゆゑ魯文翁も酒肴を出して持て成して居る処へ丁    度私も行き合せた。其処(ソコ)へまた信州あたりの製糸家だといふ人が尋ねて来て携帯した立派な画帖を    取出し、是は有名な文人の揮毫を請ひたいのであるが、其の手始めに先づ先生の一筆が願ひたいと魯文    翁の前へ差出した。翁は之れを見て幸い茲に暁斎先生が居られるから早速願つたらよからうと勧めたが、    其人はまだ暁斎の名も知らず且一見した処であまり風采の上らぬ大坊主であるから、其の技倆を危ぶん    でか聊(イササ)か躊躇気味に見えたのを、微醺(ビクン)を帯びた暁斎氏はひつたくるやうに其の画帖を手許    に引寄せ、横ざまに長く展(ノ)べて、傍らの手習筆(テナラヒフデ)を盃洗(ハイセン)の水で洗ひ復た墨を含ませ    ると見る間に、画帖の七八葉分へ蜿蜒(エンエン)たる横線を黒々と引いて仕舞つた。其時の依頼者の迷惑さ    うな顔は今も眼前に見えるやうだが、暁斎先生は委細構はず二三杯盃(サカヅキ)を重ねながら、サア是か    らだ見て居なさいと今度は小さな水筆に持替へて、ウネ/\とした黒線の上へ数疋(ヒキ)の蛙が種々(イロ    /\)の姿で歩いて居る処を画(カ)き、最後に黒線(コクセン)の前後に頭と尻尾(シリヲ)を書き加へると是が長    蛇の形となつた。即ち数疋の蛙が脊中(セナカ)の上で行列して居るのを蛇が見送つて居る図と成つた。此    (ココ)に居つて依頼主も始めて其の手腕に敬服し、数回に渉(ワタ)つて数名の画家に頼むより図(ハカ)らず    一時(ジ)によい物が出来たと大歓びで持帰つた。氏にはこんな逸話は沢山あつて乱暴なのは或る書画会    席上で酔狂の余り立ち小便で柳を画いて一座を驚かした事もあり、其他『暁斎画談(ゲウサイグワダン)』の    梅亭金鵞翁の筆記を見ると略ぼ同氏の性格が窺はれる。又暁斎氏の酒好きであつた事は故竹の屋主人    (篁村(クワウソン)氏)が      予根岸にありし頃同じ里に寓居の故暁斎翁を訪ひしに「ヤアよくこそコレ早くお酒を出しな」と後     (ウシロ)の方を向きて命じられたり、予驚きて見らるゝ如く曠着(ハレギ)にて只今外へ出がけなり、御酒     は又の夜ゆる/\と賜(タマ)はらんと断れば、翁声を低め「ナニ御迷惑は掛けません酒の出るまで居て     下さい。此頃喧(ヤカマ)しくてお客でなければ出しませんから」と云ひつゝ頭を撫でられぬ、予も酒の     囮(オトリ)になるは始めてなりと笑ひたり。    と語られた通り、酒が無ければ一日も立行かず、その酒気を帯びた時の画が却て非凡の出来であつたが、    終(ツヒ)に此酒が元となり明治廿二年四月に白玉楼中(ハクギヨクロウチウ)の人となつた〟    ☆ きよかた かぶらぎ 鏑木 清方    ◯『明治百話』「明治の通人菫坡翁」上p108(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 清方子の絵枯尾花の句     サテ私に向って、いと懇ろに「私は近い日に、この世をお暇乞(イトマゴイ)せねばならぬが、私が死んだ    と聞いたら、何を措いても即刻駈附て貰いたい、今は言えぬが、少しばかり嘱(タノ)みがある、その場で    納得して貰いたい。ソコで私(ワシ)に多少蔵書がある。その内俳書はソックリ和郎(ソナタ)に進呈する、俳    書中には例の『芳艸集』もある、アノ連句集は、十年余の春の日も秋の夜も、掌中に玩(モテアソ)び読んだ、    またモトの主人の掌(テ)へ戻るのだ」などと、沁々(シミジミ)髄にこたえる咄があったが、元気であるし、    俄かにこれが今生の別れとも永の別れの初めとも思い寄らなかったら、三日経ぬ内、卦音(フオン)に接し、    ソレコソ取る物も取り敢(アエ)ず、枕頭へ駈附けて見ると、浜町(ハマチヨウ)の御宅には、親戚方が臨終に立    会って、旧知の方々も集っていられたが、その内にまだうら若い、鏑木清方画伯が駈附ていられた。コ    ノ清方子(シ)と私に向って、娘御のお専さんが、涙ながらに言われますには「父が前以て、白金巾(シロカ    ナキン)で掛無垢(カケムク)をつくれと申しますので、言うがままこしらえましたら、父の申すには、自分の死    んだ間際には、必ず御両人が駈附るから、コノ白無垢の裾廻(スソマワ)りへは、枯尾花を清方さんに描いて    貰い、その上へは貴君(アナタ)に「旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」と芭蕉臨終の句を書いて貰えと申し    ました、コレが遺言でございました」、イヤ御趣向々々々と言いたいくらい、行届いた即刻駈附ろの、    生前のお嘱(タノミ)が、これまた洒脱超凡であったことに感心させられました。清方さんは枯尾花の絵を、    私は不束(フツツカ)ながら輪(ワ)なりに芭蕉翁の一句を揮(カ)きましたが、通人の臨終は格別ものと、並居    る人々も感に堪え、そのまま棺に納め、野辺の送り火に附してしまいました〟    〈落合芳幾・條野採菊らとともに東京日日新聞を創立した西田菫坡が亡くなったのは明治四十三年(1910)〉    ☆ きよみつ とりい 鳥居 清満    ◯『旧聞日本橋』p363(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝(玄冶店の歌川国芳の家の記事に続いて)国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでいた〟    〈玄冶店は新和泉町(現在の日本橋人形町)辺りをいう地名〉    ☆ きりくみどうろう 切り組み灯籠(立版古(タテバンコ))(「燈籠絵」参照)    ◯『旧聞日本橋』p249(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   〝(明治二十年代の日本橋界隈、夏の下町光景)    浴衣と行水が終日(イチニチ)の労(ツカ)れを洗濯して、ぶらぶら歩きの目的は活動もなくカフェもない、舞台    装置のひながたと、絵でいった芝居見たままの、切組み燈籠(ドウロウ)が人を寄せた。     (中略)    燈籠の中味は、背景も人物も何もかもが切りぬいた錦絵なのである。三枚つづき五枚つづき、似顔絵の    うまい絵師のが絵草紙屋の店前にさがると、何町のどこでは、自来也(ジライヤ)が出来たとか、どこでは    和唐内の紅流しだとか、気の早い涼台のはなしの種になった。そしてよく覚えていないが、脚光(フットラ    イト)などの工合もうまく出来ていた。遠見へは一々上手に光りがあててあった。曽我の討入りの狩屋の    ところなどの雨は、後に白滝という名で売出した。銀紙のジリジリした細い根がけ(白滝として売出し    たのは、今の左団次のお父さんが白滝とかいう織姫になった狂言の時だったと思う)を上から下へ抜い    て、画心に雨を面白く現わしたりしていた。白い菅糸(スガイト)(これもバラバラした根がけ)でこしら    えたのもあった。    何処の家で、今年は素晴らしい切り組みが出来たと噂されるほどなので、なかなか手を尽して、横長角    (ヨコナガカク)な遠見を、深くせまくした、丁度舞台の額縁通りなのが、三面ある家も、四角にして四面あ    るうちもある。一幕目二幕目と続いたのや、または廻り舞台のつづきや、一番目の呼物と中幕と、二番    目のを選んだり、更にまたその家の贔屓役者の当たり役ばかりを選んで幾場もつくったりした。前に言    ったような、動かして見せるのではなく、三尺からのものを四ッも五ッも飾って見せるのもあった。職    人衆のうちのは景気よく明っぱなしで、店さきへ並べて、奥の人たちも自慢そうに簾のかげで団扇づか    いをしながら語りあっているのもあった。その上にも景気をつけて新内をやらせたり、声色つかいを呼    込んでいるのもあった。    絵双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきに立つ心と劇好    (シバイズ)きと、合せて絵画の鑑賞者でもあるのだ〟    〈記事は歌舞伎の切り組み燈籠である。声色つかいを呼ぶというのであるから、組み立てて、往来に飾って見せるだけ     でなく、台詞や音曲をつけで再現することもあったのである。これは明治二十年代の日本橋小伝馬町、通油町界隈の     光景であるが、このあたりは銀座と違って、江戸の古風を色濃く残しているというから、江戸下町のお盆の頃の宵闇     もこのような雰囲気だったのだろう。切り組み燈籠は立版古(タテバンコ)(タテハンコ)とも呼ばれ、歌川芳藤が第一人者とさ     れている〉                                        〉    ☆ くにちか とよはら 豊原 国周    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p290   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(慶応三年、仮名垣魯文は大伝馬町の豪商の勝田某(俳名春廼屋)の依頼で、川崎平間村にある厄神へ    代参する)其日厄神の宮は江戸より参詣の者も多く画工の国周山々亭有人なども俱に誘(イザナ)はれて同    社へ参詣〟   〈山々亭有人は條野採菊。鏑木清方の父である〉    ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p240(森銑三著・底本2001年刊〔岩波文庫本〕)   〝  一     明治三十一年の『読売新聞』が、「明治の江戸児(エドツコ)という続き物を載せたのは、時機を得た企    画といってよいだろう。明治も三十年代に入って、旧幕時代を知っている古老たちも、次第に凋落しよ    うとしていた。そうした時に当たって、生残りの古老たちを物色して、昔話をしてもらっているので、    明治生まれの人々もそれを興味ある読物として読んだのであろうと思われる。その「明治の江戸児」の    中に、浮世絵師豊原国周も出て、思出話をしている。特に浮世絵にことには限らず、何ということなし    に、旧事を語っているのであるが、その中には国周の人物が如実に出ているし、国周の生活よりして、    江戸時代における浮世絵師たちの生活がおのずから類推せられて来るものもある。よってその談話の全    体をここに転載し、更に多少の註記を附して行って見ようと思う。その国周の談話は筆記したのは、記    者の何人だったか明らかでないが、当時の『読売新聞』には、美術記者で、名家を歴訪して、その談話    を筆記することに、特別の手腕を有した関如来(ニヨライ)がいた。この国周の項も、あるいは如来の作ると    ころではなかったろうか、などとも考えられて来るのであるが、俄かにそうではあるまいかなどという    ことは控えて置こう。     国周の談話には、記者の書くところの前文が、一字下げて出してある。即ち次の如くである。
   「豊原国周は、歌川豊国の遺鉢を継ぎて、似顔絵師の巨擘なり。通称荒川八十八(ヤソハチ)とて、本年六十    四歳、三代相伝の江戸ッ子にて、気象面白く、一世の経歴は東錦絵と共に花やかなれども、自体金銀を    数とも思はねば、今は本所表町の片隅に引込みて、いといと貧乏に浮世を送れり。彼の家は、熊谷稲荷    の東二町ほどの北裏にて、棟割長屋の真中なれども、ちょつと瀟洒の格子を立てて、名札と来状函(バ    コ)を掲げ、一間三尺の靴ぬぎの向うは、垢つきたる畳の一間なり。いかゞの長火鉢を据ゑて、仏壇をも    飾る。奥なるいぶせき二畳は、机取散らして、斯流の名画がこの所に成れりとも思はれず。頭からこれ    が大画人の住まひと心づくは稀れなるべし。彼れは炯々たる目にあたりを見廻はし、やうやう六、七寸    に伸びたる白き顎鬚掻い撫でて、江戸ッ子の全盛を語り」
    これまでが前文である。記者は明らさまに、国周の貧乏暮しをしていることを筆にしている。
     二    「わたしは全体変り者で、親父からして、よッぽどおかしいのです。じじいは何といったか知らないが、    何でも湯島の大工で、門徒だったから、今戸の本立寺に墓があります。けれどもお袋は、子供の丈夫に    育つようにと、親父を勧めて一代法華になったから、わたしは門徒と法華とごちゃまぜにしているので    す。     そこで親父は、京橋三十間堀七丁目の家主で、大島九十(クジユウ)という者、お袋は御数寄屋同心荒川    三之丞の娘お八百という者で、わたしは三十間堀七丁目の家で生れた。御城下の京橋ッ子です。少し恥    を話さなくちゃア分らないが、親父はね、股の後へ、河童がけつへ指さしをしている彫り物を彫ってた    から、河童の九十といわれて、どうも家主には似合わないいなせな男だったのです。お袋だって、若い    時分に、親父を見染めたか何かして、一緒になったに違いない」
    諸書に、
国周の父の名は、九十郎としてあるが、国周はただ九十としている。
   「一体私は次男で、兄は長吉といったが、わたしには、親父が九十で、お袋がお八百だからッてんで、    八十八という名を附けたんだ。それだから苗字は大島だが、それがなぜ荒川八十八となったかというと、    どうもおかしいんだ。わたしが十三、四の時分です。苗字御免ということがあったが、その時、兄は大    島なんで苗字は、気が利かないと、妙に考んで、お袋の里の荒川を名乗って出たから、家中がとうとう    荒川になってしまったんです。まあここらからして変っているから、どうせわたしだって人並でない」
    国周は天保六年生れで、その十三、四歳といえば、弘化四年か嘉永元年であるが、その頃に苗字御免    などということがあったかどうかを知らぬ。
   「親父の時分にゃア身上もよかった。そうして通三丁目へ奥州屋という湯屋を開いたが、何だか気に食    わないというので、そこを譲って、南伝馬町へ兄貴が押絵屋を出したから、わたしも押絵をやって見よ    うというので、そこを譲って、一遊斎近信(チカノブ)の弟子になったが、全くこれが手ほどきで、それか    ら二代目豊国の弟子になった」
    一遊斎近信という押絵師については、何ら聞くところがない。二代目豊国は即ち国貞で、天明六年に    生れた。国周には四十九歳の年長で、大分年が離れていた。     国周の画く人物の顔がどこか押絵臭いのは、最初押絵の顔を画いていたかららしい。

   「二代目豊国は田舎源氏の挿絵を画いて、名人豊国といわれた男だが、わたいはちょうど十七年の間、    そこで修業した。師匠も初代豊国のところに、十七年いたということを後で聞いたから、どうも不思議    なことだと思った」
    国周は、嘉永元年に、十四歳で二代目豊国に入門したのであろうか。そうすると元治元年まで、十七    年就いていたことのなる。

   「そこでちょっと話して置きますが、わたしは生れたところを離れてから、今までに百十七回引ッ越し    た。自慢ではないが、北斎は生涯の内に、八十余度引ッ越したというけれども、引ッ越しの方では、わ    たしが兄分だ。勿論その引ッ越しは、一日の内に三度もやったことがあって、随分おかしかったから、    引ッ越したことだけは、ちゃんと日記に附けてある。こういう風だから、何をしたのはどこにいた時だ    というのが、おりおり前後するかの知れない。これだけは前からお断り申して置きます」
    国周の転居は、生涯八十何回に及んだとなどともせられているが、国周自ら百十七回と、はっきりい    っているので、北斎の上に出ている。

     三    「さてわたしが始めて世帯を持ったのは、柳島の半四郎横町で、女房はお花というんだったが、その時    分新門(シンモン)の辰五郎が幅を利かして、その子分が二丁目の芝居をてんぼうで見たことから間違いが起    こって、二丁目を荒らした。そこで京橋の清水屋直次郎という板元が、その喧嘩の絵を画いてくれろと    頼みに来たから、わたしは新門の子分を彦三郎、菊五郎、田之助の似顔に見立てて、棒を持ってあばれ    ていると、黒ン坊が向うへ逃げて行くとこを画いて出版さしたところが、新門の方では、子分どもが喧    嘩に負けて、逃げて行くとこだといい出して、大勢でわたしの家を打ちこわしに来るという騒ぎだ。そ    うしてそのついでに、五ッ目の師匠の家も、メチャメチャにこわすというんだから、わたしも驚くし、    師匠も心配した。すると師匠の弟子に、芳艶(ヨシツヤ)というのがあって、これが新門の子分だったから、    わッちが仲裁して見ますッて、骨を折ったので、まアいい塩梅に、それで和解が届いた。     ところがその時分わたしが売出しで……自分の口からそういってはおかしいが、師匠の絵よりいいと    ころがあるなんていう者があったから、このしくじりの過料に、国周という名を師匠に取揚げられてし    まった。それから仕方なしに、わたしは一写斎という名で絵を画いていると、それもならないてンで、    師匠が板元の家を、方々断って歩いた。そうこうする内、篠田仙魚という、後に員彦(カズヒコ)の名を勝    手に名乗った人が仲へ這入ってこられて、ようよう国周の名を返してもらったが、どうも一時は弱った    ね」
    芳艶は、藤懸(静也)氏の著『浮世絵』に、国芳門下として、名前だけが出ている。明治六年には、    まだ健在であった。     篠田仙魚、作名員彦は、二世笠亭仙果となった篠田久次郎であろうか。それならば、『月とスツポン    チ』の発行者である。明治十七年に四十八歳で歿したことが、『狂歌人名辞書』に見えている。
   「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」
    国輝は、明治七年に四十五歳で歿した二世国輝であろう。周延は、明治の浮世絵師として多くの作品    を残している。『浮世絵辞典』には、橋本直義の本名を記して、作蔵と称したことは書いていない。榊    原藩というのは、越後高田の榊原侯をいうのであり、右辞典に越後の人としてあるのと合う。然るに同    辞典の後に、幕府の御家人だったなどとしてあるのは従われぬ。     津藤さんとあるのは、森鷗外の書いている細木香以(サイキコウイ)である。よって私は改めて鷗外の香以伝    を読返して見たが、その中には、国周も暁斎も出ていなかった。     暁斎が国周の家の新宅開きに、酒の上で乱暴したことは、外のものでも読んだ記憶があるが、何であ    ったか、今思出されない。但し暁斎の酒癖の悪かったことは、諸書に見えている。     歯抜きの石井大之進などのことは、知るところが全然なかったが、明治三十五年八月中の『東京朝日    新聞』に連載した閑文字(カンモジ)「涼み台」の第二十七回に、六阿弥陀前に定店を出していたこと、面    白い男で、仮名垣魯文などとも親しかったことなどが見えていた。

     四    「一遍こういうおかしいことがある。そりゃアあッしが向島にいた時だったが、常陸の金子という医者    が須田という大尽(ダイジン)と一緒に、あッしのとこへ来たことがある。この二人は、どッちも大金持で、    前の年にあッしが絵と頼まれて画いたんで、懇意になったんだが、どッかへ飲みに行こう、というんで、    不忍(シノバズ)の長蛇亭へ上った。そこでさんざん飲んだり、喰ったりしたあげくに、女郎買に行こうと    いうから、宜(ヨロ)しいッてんで、あッしが案内して、仲の町の初音屋から、品川楼へ押上った。あッし    の女は、二枚目の金州ッて昼三(チュウサン)で、なかなかの器量だったが、権高(ケンダカ)でもって、あッし    が拳(ケン)を打ったり、洒落をいったりするから、何でも野太鼓(ノダイコ)か何かと思やがったんだろう。    つんつんしていたッけが、座敷が引けてから、あッしア一人で部屋へ行って、夏のことだったから、蚊    屋(カヤ)ン中へへえってた。     すると金州め、新造と一緒とやって来やがって、いきなり、お前は何だえ、てえから、小癪に障った    が、怒るのも野暮だ。なに、おれか、おらア絵かきよ、というと、金州は、フウン絵かきかえ、そんな    ら何か画いて御覧ッて、新造にいいつけて、赤いところへ金を撒いた、立派は紙を持って来た。それか    らあッしが、こう蚊屋ン中から首ばかし出して、さア墨を磨(ス)んねえ、ッてんで、新造にごりごりや    らして、筆を執ると、金州め、何が画けるもんかってえ風で、立膝アして、側に見ていやがった。いめ    いめしい奴だと思ったが、こいつア絵なんか画いちゃア面白くねえ。一番こうしてやろう、とドップリ    墨を附けたまンま、紙一杯にのの字を画いて、『のしのまま風こゝろみる団扇かな』と、あんまり旨か    アねえが、即吟を書いてやった。そうすると金州が、オヤオヤ洒落てるよ。なかなか生意気だねえッて、    まだ冷かしやアがるから、いい加減に切上げて、あッし一人、先へけえッちまった。     それから三日ばかりすると、あッしの隣へ、四十五、六の年増が来て、国周さんという、絵の先生の    お宅はどちらです、と聞いてるから、お花、今隣で内を聞いてる奴があるが、多分借金取りだろう。来    たら留守だッていえ、といってる内、その女がガラリと表を開けてへえッて来たから、もう隠れること    も出来ねえ。どちらからお出なすった、と尋ねると、オヤ先生ですか、ッて、上って来たのは、品川楼    の新造さ。大きな菓子折をそこへ出して、これはおいらんからおつかい物でございます。先夜はお見そ    れ申して、まことに失礼いたしましたから、宜しくお詫を申してくれろと、いいつかって出した。それ    に、どうぞもう一度、是非お出下さるように願ってまいれと、くれぐれも申されました。決して御散財    はかけませんから。……ねえ先生、今晩にもどうぞ、ッていうんだ。こン畜生、おれを田舎者か何かと    思やアがって、江戸ッ子が女郎に呼ばれて見ろ。普段十両使うところは、二十両も三十両も使わなくち    ゃアならねえ、と思ったが、そうもいえねえから、はい、いずれまたその内に、折があったら……、と    澄まして挨拶すると、かかアめ、側でプリプリしていやがった。     そうすると女はまた、風呂敷に包んだものを出しかけて、先日お書き下さいましたのを、後で主人に    見せますと、これは全く国周先生に違いない。先生の絵は沢山あるけれども、字はまことに珍しいから、    額にして、大切にしておくがよいと、こう申されましたから、早々こういう風に仕立てさせました。と    やがて風呂敷をのけたから見ると、あッしが乱暴書きしたのが、立派な額になってるンだ。ざまア見や    がれ、おれの名を聞いて、びっくりしたろうと、少し溜飲を下げたが、女はまた両手をついて、それで    この額に、先生の御印がございませんのは、いかにも残念だから、お詫びかたがた出て、一つ御印を願    ってまいるようにと申すので、まことに恐入りますが、どうぞ……、というから、ウンよしよし、と今    度は横柄に、あり合わせた朱印を捺(オ)してあやったが、跡々どうしたか、何でも金州は、よッぽどあ    ッしにこがれていたに違えねえ」
     五    「あッしアいってえ大酒飲みで、負けることが大嫌えな性分だ。或時、あッしア間部(マナベ)河岸へ、立    派な普請をして住まったが、これもちょうど夏でね。役者の時蔵が、大川へ屋根船を二、三艘浮かして、    めッぽう金びらア切るんだ。何でも柳橋の芸者ア十二、三人も揚げづめで、ドンチャンドンチャン大騒    ぎだから、あッしア内に聞いてて、何だこの端(ハ)した役者が、てえそうもねえまえエしゃアがって。    よしこッちも一番向うを張ってやれと、銭もねえくせに、屋根船を五、六艘乗出して、ドンチャカドン    チャカ腕ッこきの芸者や太鼓持を集めて、せり合った。がとうとう敗北して、借金は山の如く、拵えた    ばかりの家は、北岡文兵衛さんへ、三百両の片に渡しちまい、外の借金のために願われて、身代限(シン    ダイカギ)りを食らった。何でも東京で身代限りを食らったのは、あッしが二番目ッてこッたから、せめ    てもの腹癒(ハライ)せに、こうしてやれッてんで、身代限りの言渡し書を、一両三分出して、胡麻(ゴマ)    竹縁(チクエン)の額に拵え、それを家の前へ、麗々と掛けといた。こいつは面白えッてんで、しまいにゃア    大受に受けたなアおかしかった」
    役者の時蔵は、後の三世歌六(カロク)である。嘉永二年の生れで、
国周には十四歳下である。吉右衛門    兄弟の父親で、その晩年の舞台を、私なども知っている。     「東京」の二字には、トウケイと振仮名がしてある。
   「勿論この身代限りは、時蔵の一件ばかりでなく、こういうことも手つだったんだ。その時分、林大学    頭の妾が、池の端に住まっていたが、その兄てエのは、加賀鳶の歌ッてエんで、随分顔の売れた奴さ。    こいつが、どういうわけだったか、国周が入牢したッて、いい触らして、宗十郎、小団次、半霓四郎、菊    五郎なんかンとこから金を集めて、使ッちまった。どうもひどい奴で、あッしが役者の似顔を画くもん    だから、それを種にかたりをしたんだが、後で聞いてびっくりした。けども、歌もいい顔の男だから、    赤い着物を着せるでもないと思って、あっしが金を拵えて、役者ンとこへ返しに廻ると、宗十郎が、ど    うしてもその金を受け取らねえ。仕方がないから、鮨の折か何か配って、ようよう歌の尻をぬぐッちま    ったが、借りた金は、みんなあっしが飲み食いして、引ッ使っちまった。     さアそんなことが溜まったから、忽ち身代限りを出したんだが、その内にゃア湯島の小笠原検校から    借りた金もあった。小笠原検校ッてえのは、目明きでしこたま金エ持ってて、禁廷様にお目にかかった    なんて法螺ア吹く人だから、妙にえらがってたが、あッしが身代限りの言渡し書を家の前へ掛けたッて    えのを聞いて、その金は、みんなあッしにくれるッてッた。そうして唐紙へ、『国周先生いさゝかの事    によりて、家作を棄てけるも、遊民の心を察しぬれば、実にことわりとぞ思ひ侍(ハンベ)る』として、    『慾徳の世渡船の梶次第どうせ阿弥陀にまかす身の上』ッてえ狂歌を書いてくれたから、もう何だか感    心しねえ文句だが、借金をはたらねえのはありがてえから、恭しく頂戴仕った。江戸ッ子の生れそこな    い蔵を建て、かね。娑婆ッ気ばかり出してたから、あッしもとうとういい身上をめちゃめちゃに磨(ス)    っちまった。負惜みじゃアねえが、絵かきなんてものは、金のねえ方がさっぱりしていいよ。なに金が    ねえたって、米や酒に不自由なしねえんだ」
    画工などは、金のない方が、さっぱりしていいというところに、江戸ッ児らしい
国周の人物が出てい    る。
     六    「米や塩に不自由しねえッてば、こういうおかしなことがある。わっしが銭を使ッちまって、馬道(ウマ    ミチ)七丁目の滝野ッてえ内へ居候した時分、詰らねえから上州草津へ湯治に行った。すると湯治場で懇    意になったのが、武州岩槻の鈴木由三郎さんてえ大きな造り酒屋だ。酒を造るところを密画にして、成    田の不動様へ納めたいから、内へ来て画いてくれまいか、というから、ありがたい、大旱(タイカン)の雲霓    (ウンゲイ)だ。じきに出かけてくと、どうも大した内で、百人からの奉公人が、どしどし酒を造ってる。    さア先生こちらへ、てんで、奥の一番いい座敷か何かへ通り、毎日御馳走になっちゃア画き画きして、    ようよう出来上ったその額は、今でも成田に納ってるが、けえる日の前に、朝ッから始めて、日の暮れ    まで飲んだが、何でも五、六升じゃア利かなかろう。燈がついて、また飲直すてんで、膳を代えると、    旦那どの七五三、三組の盃を持出した。まず一番小さい三合入りの盃で一ぺえ、古酒のどろどろするよ    うな奴を引ッかけて、それから五合入りと七合入と、見事に飲んでしまった。     あっしの酒量にゃア、さすがの旦那どのも驚いた様子、さアこれが絵のお礼だ、てンで、金を二百両    貰ったから、これで東京へ帰ろう。家には娘も待ちくたびれてるからなンて、思い思い一と寝入しする    と火事で、あっしも畳なんか持ち出してやったが、大きい家だから、焼けたッてびくともしねえ。すぐ    に普請も立派に出来た。     ところがあっしが翌朝帰ろうとすると、旦那どのが、先生は酒がすきだから、これをお持ちなさいッ    て、一斗五升ばかりへえる酒樽を一つくれた。何よりありがたいてンで、それを車の下へぶら下げて乗    っかったら、まるでお祭の山車見たいだ。一里ばかり来て、そいつを片口に二へえばかり出して、車屋    と二人で飲むと、さア面白くッてたまらねえ。チャリンチャン/\テケストドン/\と囃しをしながら、    車の上で踊ッてるから、往来の者が、おかしがって振返る。子供は大勢、ヤーアてんで、車の後へ附い    て来るから、どうもいい心持でこてえられねえ。チキリンチャンでもって、大沢まで来ると、いつかそ    の酒樽の紐が切れて、どッかへなくなっちまった。     さア大変、折角大事にして、東京へ踊込もうと思ったに、肝心の酒をなくしちゃア仕様がねえてンで、    車屋を走らして、跡を見せたが、一向分らねえ。拠(ヨ)んどころなく警察署へ届けたが、間抜け切って    るから、あっしはただ今岩槻からまいる途中で、酒樽を遺失いたしました。勿論金高にいたしますれば、    些細なものでございますが、その酒はひどく酔う酒で、御覧の通りあっしがそれを飲みまして、気狂い    のようになッとりますのがけち然たる証拠、万一拾取(ヒロイト)りました者が、それを飲みまして、狂乱い    たしては相済まざることと存じて、お届けいたしますと、まアこう屁理屈を附けたんだ。すると警察で    もおかしがって、クスクス笑いながら、もし拾取った者が届出たら、早速沙汰をするから、といったが、    とうとう出なかった。東京でしくじって草津へ行き、そこで懇意が出来て、一月ばかり遊び遊び仕事を    して、二百円の金を貰ったから、金銭はいつでもこの通り、食うに困るなんてえことは、腰抜けか骨な    しのいうことと思ってるが、酒樽をなくした時ばかりは、どうも惜しくて惜しくてたまらなかった」
    国周が画いて、岩槻の鈴木氏から成田山へ奉納したという額は、無事であるか、いかがであろうか。
     七    「あッしゃア似顔かきだから、役者は皆附合うが、団十郎ッて奴は、初めッから気に食わねえ。いつだ    ッけか、団十郎が暁天(アカツキ)星五郎の芝居をしたことがあったから、あッしがそれと菊五郎の小栗馬吉    を画いた。その時団十郎が、菊五郎とこへ行って、絵かきなんて者は、役者に金を出して、似顔を画く    のが当り前だのに、国周はどうも横柄だ、とか何とか、ぶつぶついったッてえから、あっしも癪に障っ    た。それから西郷隆盛の芝居をやった時、わざと団十郎の西郷を出目に画いて、少年隊には、団十郎の    弟子を一人も画かなかった。すると団十郎が、それと気が附いて、なおぷりぷりするから、三枚続き一    人立ちの団十郎は決して画かないと極(キ)めて、どこから頼まれても断ってたが、嵐吉六、今の坂東喜    知六がそれを聞いて、あっしに意見をするし、板元の方でも、まア我慢して画いてくれ、というから、    また画くようになった」
    国周が九代目団十郎と融和しなかったのは、性格的に相容れないものがあったのであろうが、団十郎    のまだ健在であった明治三十一年に、国周が明らさまにそのことを口にしているのは正直でいい。

   「この喜知六といふ男は、なかなか如才のない男で、筆も執れるし、風流気もある。まア役者の中で文    字のあるというのは、あっしは仲がよくないが団十郎、それから喜知六、故人になった団六くらいのも    んだろう。団六てえ男は、なかなかいい奴で、あッしも及ばずながら引立ててやったが、俳名は青松庵    飛猿(セイショウテイヒエン)といいまして、それは古人の、『猿飛んで一枝青し峰の松』てえ句が実にいいてンで、    自分で附けたんです。そうしてよく物を弁(ワキマ)えた方だったから、『風やみて田螺の動く水田かな』    なんてえ句もあります。     あっしが発句の講釈をするでもねえが、世の中に産の軽いのは犬で、重いのは田螺だ。田螺が産をす    る時にゃア、殻から抜け出して、草の根や棒の端へ、子をひりつけるんだから、風が強いと、その殻を    吹き散らされて、けえる内がなくなるといいます。こいつを知っているから、奴がこの句をよんだんだ    が、でもじゃアとてもこうは出来ねえ。よッほど前に、あの男が郡代に住まってたことがありますが、    その時、近所から火事が始まって、両国橋ンとこまで焼払った。団六は焼け出されて、僅かばかり取出    した荷物の側に、がたがた顛(フル)えてたが、師匠の松露(ショウロ)が来て、さア団六ここだ。早くやらねえ    かッてえと、団六もすぐに気が附いて、すぐによんだのが、『古草や焼けてさはらずつくつくし』。松    露も感心して『白魚の目にも涙かこの火かげ』とやった。どうも火の中でこのくらい出来るのはえらい    もんで、あッしなんざアとても及ばねえ」
    団六のことは、まだ調べても見ない。

   「喜知六にも句があります。しかし才物だから、洒落文の方が旨い。この間、講釈師の南国が越後へ行    った時、或客に呼ばれて料理屋へ行くと、立派な官員さんが大勢いて、芸者を揚げてたが、その中へ七    十ばかりの爺さんが、御前御前といわれて、豪然威張ってた。南国め、どんな爺さんかと思って、よく    よく見ると、なアにこれが坂東喜知六なんだ。不思議だと思ってると、先も苦労人だ。別の座敷へ南国    を呼んで、いや珍しいな、昔馴染に一杯やろうと、あぐらを掻いてやり始めたが、喜知六め声を低うし    て、おれもナ、娘がここの知事に引かされて、首尾よく北の方と御出世遊ばしたから、こちらへ来れば、    御前御前で威張ってられるんだ、と話したそうだ。南国は嘘をつく男じゃアねえから、それをほんとう    とすれば、喜知六の娘というのは、新橋ですずめといってた芸者に違えねえ。何にしても利口な男さ。    団十郎はまた一層博識だが、発句は駄調が多い。絵も少しは画くが、ああ天狗になっちまっちゃア仕様    がねえ」
    その後に、
「彼はなお旧幕の頃より揮毫せる大画の仏墺米等へ送れる名誉のものについて諄々(ジュン    ジュン)せしかど、ここにわざと省きぬ」と附記してあって、それでその談話は終っている。     講釈師の南国のことも知らないが、気を附けていたら、何かにその名は出ているであろう。喜知六は、    顎がしゃくれていて、散蓮華(チリレンゲ)という異名のあった役者で、半道(ハンドウ)で知られた。明治三十    四年十月十三日に歿したことが、『歌舞伎年表』い出ている。散蓮華の名附親は、黙阿弥だったらしい    という。     最後に、呉文炳(クレフミアキ)氏の『豊原国周役者絵撰集』という大きな図録が、数年前に刊行せられてい    ることをここに書添えて置こう。国周が団十郎をわざと出目に画いた、「西南雲晴朝東風(オキゲノクモハラ    ウアサゴチ)」の役者絵もこれに収めてある。少年隊の子供三人も、それに画添えてあって、子役の名が、    幸作、菊之介、仲太郎としてある。小島烏水氏に、この国周の浮世絵を論じた一文のある由が、右の呉    氏の編著の解説に見えているgあ、つい一見するに及ばなかった。但しここに挙げた国周の談話は、そ    れは引いてなかった。     以上を書いてしまってから、なお一事に気が附いた。人間が江戸ッ児肌に出来ていて、団十郎と反り    の合わなかった国周は、同じ意味で、師匠の豊国とも、何か気持のしっくりせぬものがあり、それで伝    統的な歌川姓をも名乗ることもしないで、豊原などといったのであるまいか。そんなことも考えられる    のである。     なお本稿の起草に当って、篠田仙魚のことその他んび、向井信夫氏の示教を得た。ここに謝意を表す    る〟    ☆ くにてる 国輝 二世    ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p246(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (国周談)   〝「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」    (森銑三記事)     国輝は、明治七年に四十五歳で歿した二世国輝であろう〟    ☆ くにとみ 国富    ◯『絵本江戸風俗往来』p24(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「正月」)   〝凧の卸屋    紙鳶(タコ)は正月第一の物にして、昨年十一月頃より売り出し、十二月の下旬より正月二十日頃までは極    めて盛なり。凧の卸問屋(オロシトイヤ)は江戸中に七店ありて、七店中尤も上製の品多きは、西久保神谷町な    る伊勢屋半兵衛なり。子供等は凧半と呼ぶ。画(エ)も浮世画工国富(クニトミ)なるものの図によりて、しつ    らう。また揚げ工合の調子よきは、下谷にて堀龍と吹(フキ)ぬきの二品、京橋に白魚の三種とす。大名・    旗本の若君達は、凧部屋とて、凧の置所すらありたり。されば凧問屋の繁昌もまた容易ならず。大きな    る渋紙張(シブカミバリ)の籠を天秤に舁(カ)きて、江戸中へ卸しに出づるう者、行く所にしてあわざるなし。     山東京伝の『蜘蛛の糸巻追加』によれば、寛政以前は凧の価も安く一枚張十六文、二枚張三十二文、     四枚張・八枚張も一枚あたり十六文の割合であった。寛政八年ごろ鉄砲洲船松町の室崎屋という店が、     絵柄の複雑な凧、一枚張に骨七本という凧を売り出した。値段は一枚三十二文と倍増したが、少年達     はこの凧をあげぬことを恥としたという。その後、京橋弥左衛門町であったかに和泉屋という店がで     き、室崎やと同様の凧を売り出した。これが凧の奢侈になった始めだとある。凧屋にも盛衰があった     のである〟    〈この凧絵の画工・国富、歌川と思われるが、そうだとすると何代目にあたるのだろうか〉    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p163   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   (歌川国貞(三代豊国)記事)    〝弘化二乙巳の秋(三代豊国)剃髪して肖造と俗称し、翌年柳島に別居して国貞の名を門人国政に譲り、    之に長女を配偶して養子とし亀戸の家を相続せしむ、元治甲子年十二月十五日歳七十九にて歿す乃(スナ    ハ)ち前記の光明寺に葬す、附て云、豊国長女なべの婿国政亀戸を転じて本所割下水の寓居に於て安政二    年乙卯年二代目国貞と改名、後三世豊国と号し明治十三年庚申年七月十八日五十八歳にて歿す、法号三    香院豊国寿貞信士、前同寺に墓あり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。この国政は三代〉    ☆ くにまつ うたがわ 歌川 国松    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「田島任天翁の遺書」「五十年前の東京」1p179   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(*銀座)二丁目は人相見本国堂及び一負担すれば無くならんとする古本屋、屋台店の天麩羅屋、凧屋    (歌川国松の家)八百屋、荒物屋といふ店附なれば銀座街頭の状態は推知するに足るべく〟    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(*明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「今日新聞と浪華新聞」1p122   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 私(野崎左文)は明治十九年に今日新聞を去つて大阪で発行する浪華新聞(明治九年頃の浪花新聞    は花の字この浪華新聞は華の字を用ひて居た)に聘せられ坂崎紫瀾氏と共に同地に赴いた。私が新聞の    創業に与(アヅカ)つたのは前記の今日新聞とこの浪華新聞であつたが、此の新聞は大阪の弁護士岡崎高厚    氏の経営で、紫瀾氏が主筆、私が雑報主任として乗込み本社を道修町に置き、其頃東京の万朝報が桃色    の用紙を使つて居たのに倣ひ薄緑色の用紙で刷り出したのであつた。其頃は俳優や芸人に限らず東京下    りといふのが幅の利いた時代ゆゑ新聞記者にしてもその前年には種彦氏の高畠藍泉氏が大阪に来て文壇    を賑はせ(此時は既に帰京後)胡蝶園わかな氏は大阪朝日に在り、巌谷漣山人(イハヤサザナミサンジン)も京都    日の出新聞に筆を執つて居られ、画家にも歌川国松、稲野年恒の二氏が来て居て、此の東京下りが物珍    らしく且紙上へ嵯峨の屋おむろ氏の言文一致の続き物を載せたので評判よく、最初の内は各商店の店頭    に到る処緑色の新聞がチラ付いて居る程の売れ行きであつたが、後には朝日新聞の為めに圧倒せられ紫    瀾と私とは翌年退社し、(以下略)〟      ◯『増補 私の見た明治文壇1』「遊京日記」(仮名垣魯文・明治廿一年?)1p221   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝六月六日    (京都の書肆内藤彦一方に立ち寄り同道して)木屋町三条上ル三十七番地路次歌川国松氏を訪ひ近傍よ    ろづ屋旅店に一泊〟     〝同八日    国松氏宅一泊。(中略)本日京都新聞記者繁彦其他の記者国松氏宅に来訪〟     〝同九日    昨夜内藤氏方に一泊すべき処(四条御幸町内藤芹水)引止められて国松氏方に一泊す待遇鄭重を極む〟     〝同十日    昨夜より京都新報社主医師鈴木福次氏と同道国松氏の宿所を訪ひ、(以下略)〟     〝同十六日    四条国松方に立寄り展覧画を依頼す〟    ☆ くにみね うたがわ 歌川 国峰    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳  ◯『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝玄冶店歌川国芳の住居、間口は凡二間半、奥行は四、五間なりし。    鳥居清満の処は此側にて、是より四、五軒離れ、格子作りにて、室内は身えざりし。此道路巾 凡二間    位〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉  ◯『旧聞日本橋』p363(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝玄冶店にいた国芳が、豊国と合作で、大黒と恵比寿が角力をとっているところを書いてくれたが、六歳    (ムツツ)か七歳(ナナツ)だったので、何時(イツ)の間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重も来たのを    覚えている。二朱もってゆくと酒と飯が出たものだった。    国芳の家(ウチ)は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばか    り庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖    だった。豊国の次くらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄の男で勢い    の好い、職人はだで、平日(シジユウ)どてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫(シゴト)をして    いたものだ。武者絵の元祖といってもいい人で、よく両国の万八(マンパチ)--亀清楼(カメセイ)のあるとこ    ろ--に画会があると、連れていってくれたものだ。国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満が住んでい    た〟    〈『旧聞日本橋』に長谷川深造が画いた国芳宅の挿絵が収録されている。その長谷川深造は狩野一僊という木挽町狩野     派の絵師に習っていた。一僊は小笠原の浪人で加賀美暁之助と称し、大橋流の書を良くし、漢学も出来、撃剣も教え     る文武両道の士で、当時四十歳位であった由である。玄冶店は現在の日本橋堀留町の辺りをいう地名〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p156   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 おもしろき作の趣向のたね本もいまに筆柄にぎるこの人         朝桜楼国芳    魯曰、国芳俗称井草孫三郎一勇斎と号す、父は柳屋といふ染物業なりしが国芳は画に志し元祖豊国門に    入りて研鑽怠らず後一家の風をなす、一たび墨陀(スミダ)牛島に栖(ス)みて朝桜楼と号し又其画く所の水    滸伝いたく世に行はれしより水滸亭と仮名す、久しく玄冶店(ゲンヤダナ)に卜居せしが文久辛酉年三月四    日其家に歿す、齢六十五、法号深修院法山国芳信士、浅草八軒町大仙寺に墓碑あり。国芳翁の歿画(シ    ニエ)の肖像は門人朝霞楼芳幾氏の筆にて其上欄に手向けの句あり、此の刷絵(スリエ)連中へ配りし後絵草    紙店に掲げて鬻げり。     楼号も手向(タムケ)るによし朝ざくら    (山々亭)有人     すり合す袖にも霜の別れかな       (仮名垣)魯文     摘溜めた袖にしをる土筆(ツクシ)哉     (梅素亭)玄魚〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。山々亭有人は条野採菊、鏑木清方の父。明治三十五年(1912)歿、享年七十二歳。梅素亭玄魚は上野下谷     新黒門町の地本問屋・魚栄屋。広重画「名所江戸百景」の版元として、また双六絵師としても知られる。明治十三年     (1880)歿〉     ☆ けいしゅう たけうち 武内 桂舟       ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ げっこう おがた 尾形 月耕    ◯『明治百話』「江戸ッ子の尾形月耕」上p202(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 全くの江戸ッ子形気     京橋桶町(オケチヨウ)に住んでいた尾形月耕は、全くの江戸ッ子形気(カタギ)で、昔の職人気(ゲ)を一生脱    がないで、江戸から明治へかけて、ことに明治の風俗を残した人でした。新聞の挿絵も随分描いて、芳    年一派と負けず劣らず、腕を揮(フル)った画家の一人ですが、ソノ住んでいた桶町の家というのが、八畳    一間に、六畳に四畳半、二畳、中庭があって、家内が多くなかったから、どっちかといえば、ソレでも    広い方でした。家賃は一ヶ月ソレで六円で、私が家主へ納めにいったから、よく覚えています。     あの辺は桶町という、ソノ名の通り、桶屋が多く住んでいたのと、職人町ですから、あらゆる職人が    住んでいました。左官(シヤカン)なども沢山いたが、左官といっても多く職人を使う左官がいました。月耕    の家内は、妻君に月三君にお嬢さんが家庭で、外(ホカ)に弟子が三人あった。私はその一人でした。     月耕師の几帳面であったことは、今に眼に見るようで、真似たくっても、ああは出来ない。あれが江    戸ッ子形気というのでしょう。江戸ッ子にもだらしのないのを形気としている人と、ヒラキチョウメン    の人と両通(フタトオ)りあったようです。そのヒラキチョウメンの人が月耕師でした。     まず朝起出ると、起抜けに朝湯へ赴(ユ)きます。その間に画室から、しべてを綺麗清洒(サツパリ)に掃除    して置かないといけません。横物(ヨコノモノ)をタテにしてもいけません。そのまま掃て拭いて、キチンと    して置かないと叱られます。玄関の格子戸まで、拭掃除をして置かないと気に入りません。アレがいい    ンです。ああして置くのが本統ですが、なか/\そうはいかない。昔の子弟の間柄は、ソコまで徹底し    かくってはいけない。芸妓(ゲイシヤ)屋の下地(シタジ)ッ子のように、内弟子となったら格子戸まで一々拭    いて磨きをかけて、先生をキレイサッパリの心持にさせたものです。これも修業の一ヶ条に繰り込まれ    てあったものです。     輸出人力車の絵かき     かれこれする内、朝湯帰りの師は、綺麗清洒(サツパリ)した体で、まず神仏へ御灯明御神酒を供え、香    花を手向て、礼拝を怠らず、なか/\信仰家であったから、コノ礼拝は一日だって欠かしたことがない。    こうしたことは我々を感心させたもので、なか/\真似ようたって真似られないものです。ああした信    仰、ああした一心から、月耕師の画(エ)は、ああした神経を伝えているとしか思われません。日中は絵    画に従事し、ソレはまた一生懸命なものでした。傍目(ワキメ)も触らないとは、アノことでしょう。ソコ    で弟子達は魂づけられ、いろ/\教訓を受けたものです。     こうして昼間絵を描いてしまい、夜になると、また銭湯へ一風呂あびに出懸け、帰宅してから御膳に    つきましたが、御酒と来たら大好物で、三度々々欠かさない。大酒でないが朝膳からで、朝一合、御神    酒と一所です。昼の御飯時にもまた一合、晩酌はお極りでした。コレも判で押したようにキチョウメン    な方で、欠かしたことなく欠かさない。元来提灯屋から、ああした大家になった画工、一代絵として描    かない絵はないと言っていましたが、かの明治の初年の、輸出の人力車は、うしろに極彩色密画が描い    てあったもので、人物と花鳥が描いてあったアノ人力車の絵もかいたくらいでした。いわゆる職人上り    で、江戸ッ子のチャキ/\だから、交際(ツキアイ)に職人仲間も多かったものです。     ソレから夜に入ると、きつと銀座の金沢亭です。コレも定連で、雨が降ろうが、風が吹こうが、欠か    さず出懸ける面白い人でした。職人仲間に交際(ツキアイ)が多く、絵画の大家になっても、人を見下すこと    がない、権式振らないから、昔の仲間がよくやって来ます。湯帰りの手拭いを肩にして「正(シヨウ)さん    在宅(ウチ)かエ」といってよく遊びに来ていました。江戸ッ子だから気前はとてもよい人でした〟    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 尾形(ヲガタ)月耕(ゲツカウ)氏(通称田井正之助)が新聞の絵を書き始めたのも又同じ絵入朝野の紙上で    あつた。同氏は師に就かず自流で敲(タタ)き上(ア)げた人で、最初は菊池容斎の『前顕故実(ゼンケンコジツ)』    ぐらゐが手本であつたが後には諸家の流を取入れて一家を成した人である。明治十四年頃には京橋弥左    衛門町に住居し重に七宝焼の下図(シタヅ)や陶器画を描いて居たのを、山田風外氏と私とが見て其筆の    凡ならぬのに感じ、終に勧めて絵入朝野の絵を書いて貰ふ事になつたが、同時に其頃翻刻物の八犬伝や    新作の単行本などへ追々筆を取るやうになり、後には美術の大家とまでなつたのである〟    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p95   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十七年九月二十五日、夕刊紙『今日新聞』の発刊記事)    記者には永井碌(ロク)(小石)清水市次郎(米洲)砂川某氏等(大坂の某会場で松木正守を刺し、大岡育    造氏の弁護で無罪となつた桜間要三郎といふ人も編輯の一員)を聘(ヘイ)し、画は尾形月耕、落合芳幾の    両氏(芳幾氏は東京絵入の外(ホカ))他の新聞へは筆を取らぬのを魯文翁との交誼上無落款で描く事を承    諾されたが後には歌川国峰氏が之に代つた)を煩はす事とし、魯翁が主筆、私(野崎左文)が助役、    翁の長男熊太郎が探訪長、今いふ営業部長としては投資者を代表して丘襄二氏が其任に就き同年九月廿    五日初号を京橋弥左衛門町の本社から発行した〟     ☆ ごうかん 合巻    ◯「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著・『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』所収)    〈鳶魚は従来の整版(木版)合巻を江戸式合巻と呼び、明治十五年から登場するという活版の合巻を東京式合巻と呼ん     で区別している〉   〝(東京式合巻)この頃の表紙は新聞の挿絵で鳴らした大蘇芳年が大に振った。(中略)清新闊達な芳年    の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派である。鮮斎永濯のもあったが上品    だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊州周延のは多々益(マスマ)    す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭くばかりあって生気が乏    しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった。やはり新聞の挿画を担当する人    々の方が、怜悧な往き方をするので際立って見えた。その代り芳年まがいを免かれぬ『絵入自由新聞』    の一松斎芳宗、『絵入朝野新聞』の香蝶楼豊宣、それにかかわらず一流を立てていたのに『絵入新聞』    の落合芳幾、『開花新聞』の歌川国松がある。尾形月耕は何新聞であったか思い出せないが異彩を放っ    ていた。東京式合巻は主として新聞画家から賑わされたといって宜しからろう〟    ☆ さるまわし 猿廻し    ◯『絵本江戸風俗往来』p24(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「正月」)   〝猿舞(サルマワシ)    正月の乗合船には欠くべからず。また一蝶風の画に多し。衣服二様あり。何れが古色なるをしらず。羽    織・袴の姿あり、万歳に随う才蔵の如くなるあり。年々御出入の大名・旗本の馬ある屋敷には必ず参る。    町家には稀なり。武家方へ出づるや、御殿の御召(オメ)しに応ずるあり。また御厩ばかりにて御暇(オイトマ)    給わるもあり。猿の芸づくしも正月の興には可笑しくして賑わし〟    ☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p148   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 精出せと清書見せたりはなの兄         柳川重信    魯曰、こは二代目重信にて曲亭翁が八犬伝第九輯以下の挿画に名あれど其姓氏住所歿年を詳(ツマビラ)か    にせず。〔追補〕この重信は初号重山(ヂウザン)又雪蕉(セツセウ)、通称谷城季(ヤギキ)三太字は子義(シギ)、    初代重信の高弟にして師の歿後、其名を襲(ツ)ぎて二世となれり、曲亭翁が著作俠客伝第二輯の挿画を    作るに当つて師の重信病(ヤマヒ)革(アラタ)まりし為め重山代りて之の画き又八犬伝終巻のさし画を描きた    るは前章の如〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの〉      ☆ しほうあんどん 四方行燈    ◯『絵本江戸風俗往来』p74(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「六月」)   〝南伝馬町天王祭    六月七日、神田社地天王一の宮なり。南伝馬町二丁目の御旅所へ神幸ありて、十四日に帰輿(ヨ)なるな    り。(中略)当所祭礼に驚くばかりなるは、鞘町の唐人幟なり。実に巨大なる幟なり。また大行燈とて    往来の道幅一ぱいに行燈をかける。その中、中通り北南と東西の横町なる四逵(ヨキ)の辻へ、四方行燈と    て四方へ画をかきたる燈籠を作る。画はいずれも武者の図にして、当時の浮世絵の達者の筆になる。こ    の四方行燈は江戸の無類作り物なり〟    ☆ しゅんが 春画    ◯『氷川清話』(勝海舟、明治二十年代談)〔講談社学術文庫本〕   ◇「時事数十言」「海外発展」p246   〝昔時、おれが咸臨丸で米利堅(メリケン)にいつた時の事だが、その時の米人の歓迎といふものはたいしたも    のサ。スルト二、三日して突然裁判所から咸臨丸艦長勝麟太郎として、明何日其方(ソノホウ)へ相尋度義    (アイタズネタキギ)あり出頭すべしといふ手紙が来た。行つて見ると塑(デク)のごとく裁判官が上座に居つて、    其方が勝艦長か。実は其方の水兵の者共が米国の二貴婦人に向つてコンナ品を与へて侮辱をした。ソレ    でその貴婦人達は怒つて訴へて来た。その証拠品はコレである。早速其方は水兵共を処罰すべしとの事    であつた。ソコで俺は吃驚(ビツクリ)して、一体我が水兵は何をしたかと怪しみながらその証拠品という    ヤツを一見に及ぶと、驚くなかれ、二冊の春画サ。ソコでその証拠品を受取り帰らうとすると、その裁    判長め、法服を代へ、今度は打つて変つた態度でさて言ふには、唯今(タダイマ)は公法の手前甚だ失礼し    た。今度は個人としての話だが、この画は実に珍らしいもので、侮辱された二婦人は勿論自分なども大    層欲しいと思つて居る。ソコで物は相談だが、侮辱した水兵には金を出すからこの品は譲つてくれまい    か、との事である。こ奴米利堅の官憲め、そのくらゐの事なら何も大形(オオギヨウ)におれを召喚などする    までもないものだと内心甚だ不平であつたが、また一面から見れば公私の区別截然(セツゼン)として居る    事に感心した。ソレから艦に帰つて水兵を調べ上げ、謹慎を命じた上、今度は艦長の名義でもつて前の    裁判官に向け、其方共の願ひ出の趣(オモムキ)聞届(キキトドケ)候条何日何時日本軍艦に出頭すべしと手紙を    やつたが、その夜裁判官の二人がコツソリ出掛けて来て、今日の手紙はあまりヒドイ、どうか内分(ナイ    ブン)にして渡してくれを泣きを入れたから、その儘(ママ)くれてやつたよ。馬鹿々々しい話だが、外国の    奴らは公私の区別をキチンとするのは感心だよ〟    〈遣米使節が咸臨丸に乗って訪米したのは万延元年(1860)。これはサンフランシスコでの出来事。日本の水兵がアメリ     カの婦人達に春画を与えたことは、その婦人達に対する侮辱行為だとして、アメリカの裁判所は、勝海舟艦長に水兵     の処罰を要求したのである。ところがこの春画、絵画として見れば貴重なもので、侮辱された当の貴婦人達も、処罰     を勧告した裁判官も、個人的にはお金を払ってでも手に入れたいというのである。アメリカ人にとって、春画は白昼     の公衆道徳の世界では侮辱罪を引き起こしてしまう危険なものであるが、夜間、私的に美術絵画として愛好する分に     は珍重に値するというのであろうか。この挿話は、春画を含めた浮世絵が、アメリカの紳士淑女によって受容される     下地がすでに出来ていることを物語っているのだと思う。ペリーが来日して七年、日米友好通商条約が発効して二年、     日本はしぶしぶ鎖国政策を見直し、開港して交易を始めるのであるが、浮世絵が絵画として受け入れられる状況は、     国外には当初から醸成されていたのである。それにしても、日本水兵はなぜアメリカの貴婦人に春画を贈ったのだろ     うか。勝海舟に言及がないのは残念である〉      ◇「文芸と歴史」「蜀山人その他」p305    〝(上略。蜀山人・山東京伝の書き留めた随筆を買い損ねて惜しいことをしたという記事あり)以上戯     作者とは、ずつと下つて、春水、三馬、一九、その他こんな連中が大分あつたが、みな下卑てゐたよ。     私は武芸一方で、あまりかういふ風の男とは交際(ツキア)はなかつたが、それでも今の小説家なんぞよ     りは、ずつと器量は博く気前も大きかつたらうよ。それにこの頃は笑ひ本が沢山流行つたよ。-(今     は禁制だがね)-みんな、種彦だの、京伝などが書いたので、なか/\旨く書いてあつたよ。旗本そ     の他所々の邸々へ貸本屋が持つて来たが、見料は通常の十層倍もして、おまけに一朱、二朱の手金(テ     キン)を取られるのだが、それでもみんな争つて借りたよ。いはゞ当時の戯作者は万能に通じて居たの     だネ〟    〈この「笑ひ本」が必ずしも「春画」かどうか分からないが、参考までの収録した。手金とは手付金のこと〉         ◯『明治百話』「長門屋と好文堂」上p176(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 初春新版封切本の水揚     八官町の『長門屋』の貸本に対して、筋合の違った貸本屋『好文堂』のあった事について、話がある    席で産れ出した。     「今お話しする『好文堂』というのは、銀座の三越の裏通りにあった貸本屋で、仔細あって、私はよ    く存じております。この『好文堂』の方は雑書でない貸本を、多数所蔵しておりました。珍書貴書とい    った側の貸本でした。ソレというのも『好文堂』の主人が、金座の辻さんの番頭で、辻さんの蔵書は悉    皆(スツカリ)この『好文堂』へ納ってしまいました。ソレですからとても善い本がありました。今でもそう    した本に、子持枠へ入った『好文堂』の院を捺(オ)した書籍がありますが、ソレは辻さんの御本でして、    コノ『好文堂』が『歌舞伎新報』の発行所ともなって条野採菊(ジョウノサイギク)、落合芳幾、広岡柳香、    西田伝助なんかの通人が、久保田彦作さんを発行主として、コレを発行し、芝居の筋書や、楽屋噺、役    者の評判記を書立て、随分売盛(ウレサカ)ったものです。日本紙の和綴雑誌で、芝居好きや芝居へ往かれな    い婦人連は、発行日を待兼ねて、まだか/\と催(セ)き立てたものです。通人の寄ってたかってする仕    事ですから、うまいものが出来ました。ソレから初春は、新版本をばお得意へ、封切本として貸します    が、コレも考えたもので、人情本の序文や初頁を出して置いて、あとを薄用紙(ウスヨウガミ)で封をして持    って参じます。貸料もお高く、二朱三朱の本なら、その三分の二を先取りで、「何しろお宅さまが、封    切りでございますから」と、大いに気を持たせ、初春ですから、高いと知りつつ借りた上に、手代に祝    儀を包んで出したものです。こうした封切本の水揚を、第一第二第三ぐらい、お得意さまで挊(カセ)がし    て置いて、第四番目ぐらいから、「封切(ミズアゲ)も済みましたから」と今度は安く貸すなどは、貸本    屋の虎の巻なんですが、今は貸本も亡びましたから、お話しいたします。     金座お住居は棟割長屋     『好文堂』には辻さんから引受けた『春画』なんかは、美本が沢山ありました。『好文堂』の主人が    亡くなって、後家さんになった時、西田伝助さんが周旋で、中上川あたりへ売込んで、かの方面へ散ば    ってしまったそうですが、今日では高価な本となってしまっていましょう、実に豊国あたりの大したも    のがあったと思われます。     金座の辻さんのことは、御存知でしょうが、浜町の金座に住んで、贅沢三昧に暮していたものの、お    住居(スマイ)は棟割長屋となっていて、その一角に居宅があり、ソレがこの上もない贅沢な室(ヘヤ)となっ    ていて、唐紙が謡の扇(金襴仕立)をベタ張にして、スキマがないといった風であったとやらいいます    が、私共の知っている辻さんの先代が、旧幕時代が全盛この上なかったというお話です。」〟    ☆ しゅんてい かつかわ 勝川 春亭    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p33   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)
  (明治十一年七月二十一日、両国・中村楼に於ける仮名垣魯文の書画会に参加)
    仮名垣魯文書画会記事    ☆ しょがかい 書画会    ◯『絵本江戸風俗往来』p74(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「三月」)   〝書画会    書画会は当時の詩文家・書画家の催す所にて、会場は大概両国橋のこなた、柳橋際なる万八楼をあてた    り。この会は半年前よりの準備にて、案内を諸所へ配布す。文墨(ボク)の諸彦(ケン)、座上の揮毫ありて、    誰彼の別なく求めに応じ、扇面、画箋・唐紙・白紙へ文を染む。会主・先生は勿論、補助の士も、同じ    く麻上下の礼服なり。来賓には諸侯の隠居、旗本の老士、僧侶・医師及び諸士なり。酒宴の場は芸者い    でて席を周旋す。来賓盛んになる頃は、楼上相押合う程なり。また座敷毎に書画の展覧あり。この会の    催しも、春・秋両季にあり。時候のよきを利せしものなりとす。     書画会は、文士・書家・画家の即席揮毫即売会。賛助出演の揮毫もあり、手許不如意を救うためにも     催された。芸人の名びろめなどとともに三月が多い。万八楼は万屋八右衛門経営の大料亭〟    ☆ せんじ 洗耳    ◯『明治百話』「明治のいろ/\話」上p235(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 待合オタコに絵具皿    (新橋の芸者屋三浦屋の記事、上略)     永濯一門は申すまでもない。永洗洗耳といった連中で、都新聞の挿画画家でした。永濯画伯はことに    絵馬の妙手で、堀の内に『加藤清正』と『日蓮虚空像』が献(アガ)っています。その門下の永洗君が洒    脱の人でした。市松模様が好きでした。この人は華村さんに道楽を仕込まれて、よく遊んだ人ですが、    芸妓は物を言わぬ妓(コ)という注文で、待合の女将(オカミ)もこれには閉口して、「唖の芸妓はありませ    んよ」とよく言っていました。芸妓に饒舌(シヤベ)られると、口が聞けない、世間話をしらないから、相    槌が打てない。世辞気のない、ムッツリの芸妓がいいという注文でした。性来酒を呑まない、シラフの    芸妓買い、コレには一番困るでしょう。鈴木華村君は道楽の大家で、梯子上戸ですから、ソレからソレ    と酔い廻る。飲み廻るんでなくって、酔い廻るという人でした。妻女は常磐津のお師匠さんで、先生の    酒には弱っていました〟    ☆ たこ 凧    ◯『絵本江戸風俗往来』p24(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「正月」)   〝凧の卸屋    紙鳶(タコ)は正月第一の物にして、昨年十一月頃より売り出し、十二月の下旬より正月二十日頃までは極    めて盛なり。凧の卸問屋(オロシトイヤ)は江戸中に七店ありて、七店中尤も上製の品多きは、西久保神谷町な    る伊勢屋半兵衛なり。子供等は凧半と呼ぶ。画(エ)も浮世画工国富(クニトミ)なるものの図によりて、しつ    らう。また揚げ工合の調子よきは、下谷にて堀龍と吹(フキ)ぬきの二品、京橋に白魚の三種とす。大名・    旗本の若君達は、凧部屋とて、凧の置所すらありたり。されば凧問屋の繁昌もまた容易ならず。大きな    る渋紙張(シブカミバリ)の籠を天秤に舁(カ)きて、江戸中へ卸しに出づるう者、行く所にしてあわざるなし。     山東京伝の『蜘蛛の糸巻追加』によれば、寛政以前は凧の価も安く一枚張十六文、二枚張三十二文、     四枚張・八枚張も一枚あたり十六文の割合であった。寛政八年ごろ鉄砲洲船松町の室崎屋という店が、     絵柄の複雑な凧、一枚張に骨七本という凧を売り出した。値段は一枚三十二文と倍増したが、少年達     はこの凧をあげぬことを恥としたという。その後、京橋弥左衛門町であったかに和泉屋という店がで     き、室崎やと同様の凧を売り出した。これが凧の奢侈になった始めだとある。凧屋にも盛衰があった     のである〟    ☆ たねひこ りゅうてい 柳亭 種彦    ◯『氷川清話』「文芸と歴史」p304(勝海舟、明治二十年代談)〔講談社学術文庫本〕   「山東京伝と柳亭種彦」   〝種彦は、二百俵の旗本で、高屋彦四郎といつて、漢学も和学もよく出来た。極めて怜悧な人であつたか    ら、奥向へも出入りして、幇間のごとく、如才なく立ち廻った。そして古風な事が好きで、やれ近松だ    とか、やれ西鶴だとか始終騒いで居つた。おれの親父とは、懇意であつたから、折々は遊びに来て、お    れを捕まへては、あなた本が好きなら私の宅へ来て御覧、いろ/\小説の考証もあるなどいつたり、ま    た、あなた暇なら小説でも書いたらどうだなどいつて、小説の秘書のやうなものを貸したりした。あの    評判の『田舎源氏』は大奥の事を書いたもので、その頃の大御所様は妾が四十人、子が六十人といふほ    どえらい方であつたから、種彦はこれを材料にして、大御所を光源氏に見立て、その他、絵組の模様な    ども、お浜御殿をそのまゝ書いたところがある。如才ないから奥の部屋々々へもはいつて、その事情に    精通して居つたと見えて、書いたものがみな活動している〟         ☆ ちかしげ もりかわ 守川 周重    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「『高橋阿伝夜刃譚』と魯文翁」2p169     (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十二年一月三十一日、高橋お伝斬首。二月、仮名垣魯文作『高橋阿伝夜刃譚』刊、板元辻文)    此『夜刃譚』の原本は従来の草双紙と同じ体裁で、上中下三冊即八編で廿四冊、表紙は彫刻も印刷も粗    雑なものながら、俳優似顔の錦絵風の色刷で各上巻には口絵もあり────画工は守川周重───三冊を袋入    として、それで一部の定価は僅か廿五銭ぐらゐであつたやうに記憶する〟    ☆ ちかのぶ いちゆうさい 一遊斎 近信    ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p243(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (国周の談)   〝「親父の時分にゃア身上もよかった。そうして通三丁目へ奥州屋という湯屋を開いたが、何だか気に食    わないというので、そこを譲って、南伝馬町へ兄貴が押絵屋を出したから、わたしも押絵をやって見よ    うというので、そこを譲って、一遊斎近信(チカノブ)の弟子になったが、全くこれが手ほどきで、それか    ら二代目豊国の弟子になった」    (森銑三記事)     一遊斎近信という押絵師については、何ら聞くところがない。二代目豊国は即ち国貞で、天明六年に    生れた。国周には四十九歳の年長で、大分年が離れていた。     国周の画く人物の顔がどこか押絵臭いのは、最初押絵の顔を画いていたかららしい〟    ☆ ちかのぶ はしもと 橋本 周延    ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p247(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (国周談)   〝「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」    (森銑三記事)    周延は、明治の浮世絵師として多くの作品を残している。『浮世絵辞典』には、橋本直義の本名を記し    て、作蔵と称したことは書いていない。榊原藩というのは、越後高田の榊原侯をいうのであり、右辞典    に越後の人としてあるのと合う。然るに同辞典の後に、幕府の御家人だったなどとしてあるのは従われ    ぬ〟       ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ てるくに うたがわ 歌川 輝国(歌川国輝参照)    ◯『旧聞日本橋』p367(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝歌川輝国は、宅(ウチ)のすぐ前にいたのさ。うまや新道--油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道    とは、小伝馬町の牢屋から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿    があったから--の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙の、合巻かきでは、江戸で第一の人だったけれ    ど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三    十五、六でだったろう。豊国の弟子だったから、豊国の画いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。    種彦がよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中(シジユウ)見ていても子供だからそんなに大    切にしなかったし、おかみさんのおもよというのは、竈河岸(ヘツツイガシ)の竈屋の娘で、おしゃべりでし    ようのなかった女だから、輝国が死んでから、そういうものはどうなってしまったかわからなかった。    住居(スマイ)は入口が格子で、すこしばかり土間があって、二間に台所だけ、家賃は(今の金)で三十銭    位だとおぼえている。それでもお酒は大好きで、たべものはてんやものばかりとっていた。貧乏でもそ    ういうところは驕っていた。芝の泉市だの、若狭屋だのという絵双紙屋から頼みにきても、容易なこっ    ては描いてやらなかった。その時分、定さんという人がよく傭われてきたものだ。輝国が絵--人物や    背景を描くと、その人は、軒だの窓だとか、縁側だとか、襖とかいったものの、模様や線をひきにくる。    腕はその当時いい男だといわれていたのに、弁当も自分持ちで、定木も筆も持参で来て、ひどい机だけ    かりて仕事をして、それで一日がたった天保銭一枚(当時の百文・明治廿年代まで八厘)。今の人がき    くと嘘のようだろう〟    〈この輝国名は『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」にも     見当たらないが、豊国の弟子といい種彦の下絵の草稿があったということからすると、あるいは、回想者・長谷川深     造は三代目豊国(歌川国貞)門人国輝と混同しているのかもしれない。「日本古典籍総合目録」によると、柳亭種彦     が亡くなったのち、二世種彦を自称した笠亭仙果の合巻を、国輝は十点作画している。したがって、この二世種彦の     下絵草稿が国輝の許にあったのは不自然ではない。またこの当時三十五、六歳とあるから、この国輝は天保元年(18     30)生まれの二代目ではなく、初代国輝である〉    〈この記事の原稿にあたる『読売新聞』(大正4年7月7日記事)では「輝国」のところが「国輝」となっているから、や     はり誤植であった。2023/01/22〉    ☆ とうろうえ 燈籠絵(「切り組み燈籠」参照)    ◯『絵本江戸風俗往来』p132(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「六月」)   〝軒の燈籠    この晦日より江戸市中至る所、提燈或いは切子燈籠を毎戸毎夕ともすは、亡き魂の供養の燈火とかや。    提燈は長形・丸形・上ひらきて下細りたる形の三種なり。皆大中小ありて無紋なるあり、紅画・藍画に    て山水・花鳥・人物のかた美しく、切子燈籠は絶えて品よく、細工の技倆勝れたるより、費もまた多し。    無紋の長形大提燈へ題目または名号、或いは先祖代々など書きつけるあり。何れも皆今日より八月七日    頃迄は夜毎ともすものとしける。燈籠は細工物を出し、または画を出す。画は当時の浮世画工豊国・国    芳・広重の三画工競うて技倆を表し、新案妙図を工夫せるより、見物の人士夜毎に群集す。細工物に引    き替えるや、この細工人もまた画に劣らじとて工夫をこらして、見物の目を驚かする、山水・人物の作    りよく出来たり〟    ☆ としかた みずの 水野 年方    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ としつね いなの 稲野 年恒    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」   (野崎左文著・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)      ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p85   〝年信(仙斎)に次でいろは新聞の絵をかいたのは同じ芳年門下の稲野年恒(名は孝之(カウシ)加賀の人)    で、此人は後に大阪朝日から大阪毎日新聞に転じ、其頃鈴木松年翁に就て本画を学び、又絵画の研究と    して洋行した事もあつて関西の画壇を賑はせた一人であつたが、明治四十五年五月五十歳で病没した〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟      ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉      ◯『増補 私の見た明治文壇1』「遊京日記」(仮名垣魯文・明治廿一年?)1p221   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝六月七日    (上略)午後御所前の馬場に稲野(イナノ)年恒(トシツネ)氏を訪ふ。国松門生佐野延四郎同道〟      ☆ としのぶ やまざき 山崎 年信    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」   (野崎左文著・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p83   〝 芳宗、国松等に次いで、新聞の絵を書いたのは仙斎(センサイ)年信(トシノブ)(通称山崎信次郎(ノブジラウ))    であつた。此人は芳年門下の秀才で画道の研究にも頗(スコブ)る熱心であつた。同氏の机の抽斗(ヒキダシ)    や文庫には新古絵画の粉本または写生帖あ一ぱいに詰(ツマ)つて居る外に硝子写しの写真が百枚も二百枚    も貯へてあつたが、是れは自身度々(タビ/\)浅草公園内の写真屋に赴(オモム)きシヤツ一枚となつて種々    (イロ/\)の姿勢を撮らせたもので、下絵に取掛る時は必ずこの写真を取出し注文に敵する姿のものを写    生するのが例であつた。夫れ故にやいつも同氏の描く人物には肥満なのが無くて皆自身同様痩躯の人ば    かりであつた。惜し事には酒の為め屡々(シバ/\)身を誤り又芳年氏の許諾を経ずして或る粉本を持去    つたとか云ふ罪で、師匠から破門せられて大阪の魁新聞を経て土佐に赴き、一年ばかり土陽(ドヤウ)新    聞の挿画を担当して居たが、田舎では絵画の研究が出来ぬとあつて都恋しくなり、復(マ)た東京へ帰つ    て来たが其時の道中は大阪へ着した時懐中剰(アマ)す所僅かに五十銭、夫れから汽車を横目で見ながら東    海道をテク/\歩いての上京中途中で帽子を売り蝙蝠傘を売り単衣(ヒトヘ)を売り、或夜は辻堂に寝たり    して、ヤツと東京に着(チヤク)した時身に付いて居るものはシヤツとズボン下(シタ)ばかりであつた。殊に    一番困つた事はと本人自身の話に拠れば、静岡県に入(イ)つた時或る川に出水後仮橋が架つて居て橋銭    (ハシセン)一銭を徴せられるのだが、その持合せが無い為に一二里ほどブラ/\と元来(モトキ)し道へ立戻り、    夜更けて橋番の寝込んだ頃を見すまして其橋を駈抜けたとの事である。こんなに貧苦に迫りながら少し    でも金が手に入ると何事を措いても直に夫れで参考書を買込むといふ風で、其後私と京都南紺屋町の下    宿屋に同棲して居た頃私が地方新聞社から送つて来た続き物潤筆料の郵便為替を同氏の外出の序(ツイデ)    に受取つて来て呉れよと頼んでやると、やがて十冊ばかりの絵本を携へ帰りこれは誰の風俗画、これは    誰の花鳥画譜みんなで八円とは余り安いから買つて来たといふ。シテ其金はと問返せば、イヤ待ち給ヘ    オゝそれは君の潤筆料を暫時流用したのだと平気な処などは、頗る仙人風を帯びて居る突飛な挙動があ    つたに拘はらず少しも憎気(ニクゲ)のない人であつた。又同じ頃私が製図上の参考として持つて居た西洋    の遠近法(Perspective Drawing)をその原書に就て図解の説明をした時は非常に歓んで、たうと    う原書中の図を悉く写し取り、夫れから後は屋台又は背景などを描く時は、此遠近法の書き方に随ひ下    絵を朱線だらけにして苦しんで居た事もあつた。そして其頃はいろは新聞へ魯文翁が高野長英の続き物    を書いて居て其の挿画の筆を執つて居たが、翌年ごろ京都の日之出新聞へ転じてから師宣とか春章とか    いふ古い処の筆意を学び、画風は一変したものゝ却て自家の本領を失ひ、評判前日の如くならずして、    十九年ごろ同地で歿したが、其の門人には曾て万朝報(ヨロヅテウホウ)の画家であつた藤原信一氏や二世田口    年信氏などがある〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟      ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ☆ としひで みぎた 右田 年英       ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟      ◯『増補 私の見た明治文壇1』「柳塢亭寅彦氏の狂歌」1p223   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝右田氏名は寅彦、豊後臼杵の人で明治八年兄豊彦氏と共に笈(キュウ)を負うて上京し、豊彦氏は始め西洋画    を学び後大蘇芳年の門に入つて梧斎(ゴサイ)年英と名乗り、寅彦氏は明治十二年三世柳亭種彦氏の門に入    つて柳塢亭(リウヲテイ)寅彦と号し後師から三ッ彦の印を譲られた程で所謂柳亭名取りの高弟となつた〟    ☆ としみね つつい 筒井 年峰       ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ としゆき あらい 新井 年雪(芳宗)      ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p163   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 飼ひ立て羽つくろひする鴬の笠に被るなら梅のはながさ         香蝶楼豊国    魯曰、豊国初号国貞、父は角田庄左衛門とて商家なり、俳諧を好みて俳名を五橋亭琴雷と号す(五橋亭    の号此の時分より本所五ッ目渡舟場の株主なりしにや)天明七丁未八月十六日歿す年六十九、辞世「も    どかしや糸はほぐれて散る柳」法名観行院理山善知、亀戸光明寺に葬る、一子国貞(後豊国)天明六年    丙午に生れ俗称角田庄蔵(初め庄五郎)本所五ッ目より亀戸天満宮門前に移転せり、一雄斎、五渡亭、    香蝶楼、樹園、月波楼、富望山人、富眺庵等の数号あり、又英一蝶と別号せしは天保四年の頃英一蝶の    余流一桂(ケイ)の門に入りしを以て斯く号す、香蝶楼の号も一蝶とその実名信香(シンコウ)の両字に依ての名    なりと、又五渡亭の号は父琴雷の五橋亭に基き蜀山人が贈りしものとぞ、青年のころ元祖豊国の門に入    りて出藍の誉あり、式亭三馬が日記の内に、国貞本所五ッ目渡舟場の際に住す即ち此の渡舟場のあるじ    俗称庄五郎とて柔和温順の性質なり、文化五年の春吃の又平大津土産(板元十軒店西村源六)三馬作国    貞草双紙の書き初めにて、此時大に評判よくその翌年より益々行はれて今一家の浮世絵師大立物となれ    り云々、又渓斎英泉の話には、京山初めて作国貞初めての画は妹背山の草双紙なりと、魯文幼年の頃そ    の草双紙を見たり序文は山東京伝と歌川豊国との掛合ひ、山東は山尽し、歌川は川尽しにて「東西々々    京伝中橋お邪魔ながら、両個(フタリ)の壮年(ワカテ)を卑下まをさう、京伝舎弟の音羽山、四角な文字も毫    (チト)ばかり、読習うたる実語教、山高きが故に沢山(タント)書かず、留ても止まらぬ若葉山、そんなら書    いて三笠山」(是より川へ移る)などありしを今以て諳記せり、斯て国貞が画名世に名高く就中俳優の    似顔絵に至りては師の豊国去りて後国貞が右に出づべき浮世絵師曾つて無く、天保甲辰年(改元弘化元)    当春先師の名を嗣ぎて一陽斎歌川二世豊国と改号す(実は三世なり)弘化二乙巳の秋剃髪して肖造と俗    称し、翌年柳島に別居して国貞の名を門人国政に譲り、之に長女を配偶して養子とし亀戸の家を相続せ    しむ、元治甲子年十二月十五日歳七十九にて歿す乃(スナハ)ち前記の光明寺に葬す、附て云、豊国長女な    べの婿国政亀戸を転じて本所割下水の寓居に於て安政二年乙卯年二代目国貞と改名、後三世豊国と号し    明治十三年庚申年七月十八日五十八歳にて歿す、法号三香院豊国寿貞信士、前同寺に墓あり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している〉    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p269   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)成立・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(安政二年(1855)十月二日、大地震)    斯る時にも素早きは際物師の常とて翌早朝一人の書肆(仮名垣魯文方へ)来り何ぞ地震の趣向にて一    枚摺の原稿を書いて貰ひたしと頼みければ、魯文は露店にて立ながら筆を取りて鯰の老松といへる趣向    を附け折よく来合せたる画師狂斎【後ち猩々暁斎と改む、通姓川鍋洞郁】に魯文下画(シタヱ)の儘を描か    せて売出せしに此錦絵大評判となりて売れること数千枚、他の書肆よりも続いて種々の注文ありて魯文    は五六日の間地震当込(アテコ)み錦絵の草稿を書くこと二三十枚に及び皆売口よくして鯰の為めに思はぬ    潤ひを得たりと云ふ、左に掲ぐるものも亦当時魯文翁の作りし戯文の一なり其絵は七代目団十郎柿の素    袍大太刀にて足下に鯰坊主を踏まへ要石にて其首を押へ附けし形ちにして歌川豊国の筆なり〟    ◯『絵本江戸風俗往来』p274(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「下編 雑」)   〝ヘッ芝居新狂言    横二尺竪一尺五寸ばかりの箱は紙を張り、恰も横火鉢の上に覆う所の助炭(ジヨタン)の如く造り、前面に    二枚に開扉(ヒラキド)ありて、糸の機関(シカケ)にて開閉自由にし、子供が祭礼に弄する万燈の如く、棒を    貫きて持ち歩き、大通りの商店頭(ミセサキ)に来たり「ヘッ芝居新狂言」といいつつ前面(マエ)の戸を左右    にさっと開きて中を見せける。中には絵双紙店に吊せる所の二枚続きの新狂言芝居俳優、豊国翁が画け    る色摺似顔の錦絵を張りたるなり。この錦絵も絵双紙店に十日も晒せるものにして、珍しとはせず。実    は随分人を馬鹿にしたる銭のもらい方なりしにも頓着なく、銭を与うは、毎店には日々雨天ならざるよ    りは、年中この漢(オトコ)の如き銭貰いの頻りに来たりしかば、小銭という一文銭の準備ありて、来たれ    るままに投げ与う〟    〈三代目豊国の役者似顔絵を開いて見せたからといって、口演を添えるわけでもなさそうで、単に物乞いの道具に使わ     れているにすぎないようである〉    ◯『明治百話』「長門屋と好文堂」上p176(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝 金座お住居は棟割長屋     『好文堂』には辻さんから引受けた『春画』なんかは、美本が沢山ありました。『好文堂』の主人が    亡くなって、後家さんになった時、西田伝助さんが周旋で、中上川あたりへ売込んで、かの方面へ散ば    ってしまったそうですが、今日では高価な本となってしまっていましょう、実に豊国あたりの大したも    のがあったと思われます。     金座の辻さんのことは、御存知でしょうが、浜町の金座に住んで、贅沢三昧に暮していたものの、お    住居(スマイ)は棟割長屋となっていて、その一角に居宅があり、ソレがこの上もない贅沢な室(ヘヤ)となっ    ていて、唐紙が謡の扇(金襴仕立)をベタ張にして、スキマがないといった風であったとやらいいます    が、私共の知っている辻さんの先代が、旧幕時代が全盛この上なかったというお話です〟    ☆ なまずえ 鯰絵    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p269   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)成立・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(安政二年(1855)十月二日、大地震)    斯る時にも素早きは際物師の常とて翌早朝一人の書肆(*仮名垣魯文方へ)来り何ぞ地震の趣向にて一    枚摺の原稿を書いて貰ひたしと頼みければ、魯文は露店にて立ながら筆を取りて鯰の老松といへる趣向    を附け折よく来合せたる画師狂斎【後ち猩々暁斎と改む、通姓川鍋洞郁】に魯文下画(シタヱ)の儘を描か    せて売出せしに此錦絵大評判となりて売れること数千枚、他の書肆よりも続いて種々の注文ありて魯文    は五六日の間地震当込(アテコ)み錦絵の草稿を書くこと二三十枚に及び皆売口よくして鯰の為めに思はぬ    潤ひを得たりと云ふ、左に掲ぐるものも亦当時魯文翁の作りし戯文の一なり其絵は七代目団十郎柿の素    袍大太刀にて足下に鯰坊主を踏まへ要石にて其首を押へ附けし形ちにして歌川豊国の筆なり〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 初代        ◯『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉「広重は定火消同心の子に生まれ二十七歳まで定火消同心でい    たのだから、火事の錦絵を描いていそうなものだが、一枚もない。当時火事の絵は発禁だから出版しな    い。よく消防展覧会に、広重落款の火事絵巻物が出ている。それを広重筆と思う人があるが、あれは四    代広重の菊池貴一郎氏の筆。四代広重は火事が好きで、その絵が得意だった」(中略)    遠藤氏はまた、従来初代広重のものとされていた印譜の多くは三代広重のものであること、それらは四    代の菊池家に残されたものであることなどをも記されている〟      ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 二代        ◯『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝安政五年九月六日、初代広重が死んだあとに、後妻と養女が残った。若い養女のお辰が門人の重宣と結    婚し、ここに二代広重が出現したが、どうもあまり行かず、慶応元年に離婚し、重宣は安藤家を離れて    以後は筆名を喜斎立祥と改める(明治二年没。四十四歳)。ついでお辰は初代の門人重政と再婚し、三    たび広重が出現する。この人は事実上は三代広重だが、二代と称し、墓石にも一世顕巧隆院機外立斎居    士としるされた(明治二十七年没、五十三歳)〟     〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    重宣は本当に江戸ッ子らしい人で、或る朝「じゃァお辰さん、これで」と絵道具をまとめて、ぷいと安    藤家を出て行った。その後三代がお辰と夫婦になった。重宣の最期はよく分からない〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p33   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)
  (明治十一年七月二十一日、両国・中村楼に於ける仮名垣魯文の書画会に参加)
    仮名垣魯文書画会記事    ◯『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉遠藤氏はまた、従来初代広重のものとされていた印譜の多くは    三代広重のものであること、それらは四代の菊池家に残されたものであることなどをも記されている〟     〝安政五年九月六日、初代広重が死んだあとに、後妻と養女が残った。若い養女のお辰が門人の重宣と結    婚し、ここに二代広重が出現したが、どうもあまり行かず、慶応元年に離婚し、重宣は安藤家を離れて    以後は筆名を喜斎立祥と改める(明治二年没。四十四歳)。ついでお辰は初代の門人重政と再婚し、三    たび広重が出現する。この人は事実上は三代広重だが、二代と称し、墓石にも一世顕巧隆院機外立斎居    士としるされた(明治二十七年没、五十三歳)〟     〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    翁によれば、三代は初代のお通夜のとき入門したという話もあるくらいで、画はからっ下手(ペタ)、む    しろ下手なので有名だったが、なかなか如才ない人で、そのうち二代の妻お辰といい仲になった。    (中略)    同じ火事好きでも三代広重の方は、火事と聞くと刺子を着こんで火事見舞を口実に家を飛び出し、帰り    には火事装束で吉原に入りこんで馴染のおいらんに威勢のよいところを見せるのが得意だったが、貴一    郎〈四世広重〉はもっぱら画くことだった〟    ☆ ひろしげ 広重 四代    ◯『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉「広重は定火消同心の子に生まれ二十七歳まで定火消同心でい    たのだから、火事の錦絵を描いていそうなものだが、一枚もない。当時火事の絵は発禁だから出版しな    い。よく消防展覧会に、広重落款の火事絵巻物が出ている。それを広重筆と思う人があるが、あれは四    代広重の菊池貴一郎氏の筆。四代広重は火事が好きで、その絵が得意だった」(中略)      遠藤氏はまた、従来初代広重のものとされていた印譜の多くは三代広重のものであること、それらは四    代の菊池家に残されたものであることなどをも記されている〟     〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    四世広重、菊池貴一郎こそは寅三翁の実父で、大正十四年二月四日に七十七歳をもって長逝した。立斎    院広重良義居士という。逆算して嘉永二年の生れである。(中略)    さて、翁が示された過去帳には「生粋の江戸ッ子にして徳川家人の家に生れ、通称貴一郎、幼より書画    を好み、書は御家流、画は菊池容斎翁の風を学び、後浮世絵に入ル。広重の名を襲ひ、四世となる」と    しるされてある。(中略)    三代目(自称二代)広重も死んだ後の或る日、貴一郎は浅草へ行ったついでに東岳寺(台東区浅草松山    町七三番地)に初代広重の墓があるのを思い出しお参りした。以後あの方面へ行くたびにおまいりして    は、寺男に心づけを与えて墓の番を頼んだ。当時広重の墓は無縁になっていたので、住職は寺男からこ    の事を聞くと、貴一郎が墓参に来たところをとらえて、昔広重の世話をして縁故があるのだからぜひ名    跡を継いでほしいと頼みこむ。そんないきさつがあって、単に代目(ダイメ)を継ぐだけならば、というこ    とで四代広重になったわけだという。    その年代は明治の末か、大正のごく初めのことであると記憶して居られた。従って筆者〈鈴木棠三〉が    『絵本風俗往来』の成った時期にすでに四代広重だったかのように推測していたのは誤りであった〟    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p162   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 まだ生(イキ)て居るかと人に言はれても斯(カク)こそ長けれ筆の命毛(イノチゲ)    為一百翁    魯曰、前北斎為一翁号一号卍老人、初号勝川春朗改めて二代目俵屋宗理、又更に北斎辰政一号戴斗、後    北斎の名を門人に譲り前北斎画狂人卍翁と記名す、壮年安永の頃黄表紙青本(アオボン)の画作を共にし一    筆庵可候と号し又時太郎とも署名せり、此の作名は翁の幼名なりしもの歟、此翁の奇聞最も多くして尽    しがたし其伝は友人只誠が筆記誠垓只録(セイガイシロク)中に詳細に挙げたり、嘉永二己酉年四月十八日九十    歳の高齢を以て歿す法号南総院奇誉北斎、浅草新寺町誓願寺に墓あり、建石の左側に「人魂で行く気さ    んじや夏の原」の辞世あり、実に近世我が浮世絵師の巨擘独立一家の画風、今に於て独り内国人のみな    らず支那欧米各国の活眼者此翁の画風を観て奇に驚き妙を賞せざるはなしと聞けり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している〉    ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p148   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 分入ればいよ/\深く迷ふ哉(カナ)途(ミチ)ある花の山を尋ねて         葵岡北渓    魯曰、北渓は始め狩野養生院門人にて後に前北斎為一の弟子となり摺物の絵に名あり。四谷鮫ヶ橋のほ    とり住みて其店に魚を鬻(ヒサ)げり依て世人は魚屋(トトヤ)北渓(ホツケイ)と呼べり、嘉永二三年頃歿せりと、    余が香以山人の許にて屡々逢ひし折は七十近き老人なりき墓所法名共に詳かならず。    〔追補〕北渓通称岩窪金右衛門字は辰行、拱斎(キヨウサイ)又葵園(アフヒソノ)の別号あり。読み本さし絵狂歌の    摺物等を多く描き、就中石川雅望著す所の北里十二時の画最も評よし、嘉永三年七十一歳を以て歿すと    云う青山立法寺に墓あり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの。香以山人は細木香以、山城河岸津藤、津国屋藤次郎。文     人・画家のパトロンで豪商。明治三年歿、享年四十九歳〉    ☆ やくしゃえ 役者絵    ◯『旧聞日本橋』p249(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (明治二十年代の日本橋界隈、長谷川時雨の少女時代、二絃琴の師匠の許にて)   〝古い錦絵、--芝居の絵を沢山に張った折本を、幾冊かでしてくれた。私の家にもそれらはいくらかあ    った。だが、ここのように系統だって集めたものではない。夫婦は熱心に、これはなんという役者で誰    の弟子、当り芸はなにで、こんな見得(ミエ)をした時がよかったとか、この時の着附はこうだとか、誰の    芸風はこうで彼はこうと、自分たちの興味も手つだってよく話してくれた〟    〈江戸の人々の役者絵の楽しみかたがどういうものであったのか、よく分かる記事である〉    ☆ ゆきまろ ぼくせんてい 墨川亭 雪麿    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p157   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 手入れして頓(ヤガ)て見事に咲かせなん作り覚えし梅のはな笠         墨川亭雪麿    魯曰、越後高田の藩主榊原侯の家士(カシ)にして通称田中善三郎名は親敬(チカヨシ)、画を墨亭(ボクテイ)月麿    (ツキマロ)に学びて雪麿(ユキマロ)と号し、戯作は独立にて草双紙数種を編めり、歿年を知らず。〔追補〕雪    麿は安政三辰年十二月五日歿す享年六十、白金台町妙園寺に葬る〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している。〔追補〕は野崎左文が後年追考補注したもの〉    ☆ よしいく おちあい 落合 芳幾    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p162   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 丹青をけふ香(カ)にたつや冬至梅         芳幾 落合幾次郎〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している〉    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p271   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝安政四年の春魯文「操松月景清(ミサヲノマツツキノカゲキヨ)」といふ三冊物の草双紙を著し口絵さし絵とも一恵    斎芳幾筆にて呉服町の書肆槌屋茂吉方より出版す、魯文是まで著はせし戯作多かりしも皆切附本と称す    る印刷紙質とも粗悪なる冊子のみなりしに此書は彫刻精巧、製本も亦美を尽したれば世評随つて宜しき    のみならず魯文も亦初めて檜舞台に上りたる心地なりと言ひて喜びしとなん〟    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p277   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(文久年間より作者仲間内の不品行や失策をあげつらって風刺する「悪摺」という配り物が流行した)    魯文翁の外に好んで悪摺を作りし者は山々亭有人【条野採菊】二代目柳亭種彦【初号笠亭仙果】梅素玄    魚、武田交来、一恵斎芳幾、葛飾酔桜軒【高野某】出揚扇夫等の諸氏にて殊に盛衰競(セイスヰクラベ)、南    子(ナンコ)の馬鹿など云へる悪摺は大に文人社会を騒がせしのみならず是に就て奇談頗る多けれど(以下、    略)〟    〈「悪摺(あくずり)」の項参照〉    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p280   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝其頃(文久年間)三題噺(サンダイバナシ)の催し流行せり、是(コ)は文化の昔し元祖三笑亭可楽が一分線香    三題ばなしと名づけ下谷広徳寺前なる孔雀長屋に演じて当時大評判を取りしを思ひ出し柳島の金座役人    高野某【俳名花兄又酔桜軒とも号せり】が之を再興せんものと仮名垣魯文、山々亭有人、河竹新七【後    黙阿弥と改む】綾岡輝松、梅素玄魚、落合芳幾、武田交来、福井扇夫、瀬川如皐の諸氏、黒人(クロウト)の    三遊亭円朝、柳亭左楽、春風亭柳枝等と謀り其仲間を粋興連と名づけ文久二年の秋日本橋万町の柏木亭    に高座を設け知己朋友及び其家族等を聴衆となし各々三ッの兼題を結びて一席の落語に綴り高座にて講    演せしが人気これに集ひて忽ち市中の評判となり翌年は大伝馬町の豪商勝田某【俳名春の屋幾久】別に    興笑連なるものを組立て両国の柳屋楼上を以て定席(ヂヤウセキ)とせしにぞ夫より後は、粋興、興笑の両連    は昔噺の昔といふ字に因みて毎月廿一日交る/\同会を催せしに終には江戸一種の流行物となり其流行    に連れて三題扇子、蒔絵三題櫛、三題張煙管、銘酒三題ばなし、三題菓子、三題染浴衣、三題模様半襟    などを売出す者多く又後には粋興奇人伝【馬喰町二丁目丸徳出版】三題噺評判記【同上】春色三題噺    【春の屋著作銀町丁善版】など云へる書籍(シヨジヤク)の出版を見るに至れり〟    ◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p281   (野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝文久三年正月七日粋興連長高野氏は早春の発会を興笑連より先にせんと噺初(ハナシゾメ)の相談かた/\有    人、芳幾、魯文を誘ひ当時茅場町の居宅(スマヰ)より常に出入する茶道の宗匠村田宗伯をも伴ひて五人鎧    の渡場より予て仕立てし屋根舟に同船(中略、両国付近にて)ドンブリ水烟(ミヅケムリ)そりや身投よと船    頭の声に船中四人は吃驚(ビックリ)し高野氏は此時はやく船頭身投なら助けろ/\と呼はりぬ船頭は斯く    と見るより突出す棹を舳を返せば橋に近づく舟の舷(コベリ)に一没一浮プク/\と浮出したる死骸の襟先    手をさし延べて芳幾が其半身を引揚ぐるに魯文も是を手伝ひて彼の腕首を引捉へ朧気(オボロゲ)ながら提    燈の火影にひとしく死相を見やるに年頃五十前後の男毬栗頭髪(イガグリアタマ)の身に着けたる衣服(キモノ)    は単衣(ヒトエ)か袷(アハセ)かは夜目のいづれと分らねど上に纏ひし黒色のひとへ羽織は空蝉(ウツセミ)のもぬけ    の殻の水浸し襟首より刺繍(ホリモノ)の少しく見えしを察するに当時幕府の茶道家抔かやくざ隠居のあまさ    れ者が蒼毒などに病(ヤミ)ほうけ身体不随の処より一家親族には見放され便(タヨ)る方なく入水せしものか    とも想像せられぬ此時船頭のいへるやう此死骸既に橋杭にて鼻柱を強く打ち気脈全く絶えたれば引揚ぐ    るとも其甲斐なし引揚げて蘇生せずば情が仇の関係(カカリアヒ)にて多少の難儀は旦那方御一同のみならず    我々も亦免(マム)がれ難し疾々放して水葬礼(スヰソウレイ)と声もろともに手を放せば闇はあやなし川下へ流    れし果は如何なりしや、船頭は此時艪を早めて間部河岸より行徳河岸を横ぎりて鎧の渡場に舟を留め此    桟橋より高野、有人、芳幾、魯文は打連れて茅場町へと帰りたり、同年同月十一日に有人、芳幾の両子    が当春例の三題ばなしの発会兼題配りとして浅草寺内寐釈迦堂【今の馬道二丁目十二番地】の奥地なる    河竹其水【後ち黙阿弥翁】に至るをり彼の身投一件を物語りしが其水子の得たる兼題は「斗々屋の茶碗」    「山笑ひ」「居合抜き」の三題なるより直ちに連中の噂高き両国の身投話しを種子(タネ)としその時魯文    芳幾が引揚げし坊主の背中に刺繍(ホリモノ)ありしと茶道家ならんとの鑑定を其儘斗々屋の茶碗に趣向を持    込み同月廿一日の発会に旨く三題に纏めて話されしが此趣向新なり奇なり且は実伝に近しとて連外の評    判年を追ふて高く為めに河竹に乞ひて彼の噺を狂言仕組まば如何と勧むる者多きより遂に維新の後ち明    治三年猿若町三丁目守田座狂言二番目に此旧作の三題噺を新案に取組み名題は即ち「時鳥水響音(ホトトギ    スミヅニヒビクネ)」(以下略)〟    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇「(二)新聞小説の嚆矢」1p32   〝平仮名絵入新聞は明治八年四月に初号を発行したもので、主筆は高畠藍泉氏、画家は落合芳幾氏であつ    たが、重(オモ)なる雑誌に絵画を挿入したのが此新聞の特色で、我邦(ワガクニ)絵入新聞の元祖である〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p80   〝小新聞の挿画を書き始めたのは落合芳幾氏である事は前にも述べたが、引続いて筆を執つたのは新井年    雪(アラヰトシユキ)(芳年の門人後(ノチ)芳宗(ヨシムネ)と改む)歌川国松(クニマツ)等(ラ)であつた。芳幾の作をそ    の下絵で見るといつも貼紙をして改描(カイベウ)した痕跡を存(ソン)し、又線書きも肉太で別に綺麗な絵だ    との感じも起らぬが、一旦剞劂師の手を経て刷上つた処を見れば、殆ど別人の筆かと思はれる程優美な    ものに出来上り、且その画面に艶気(ツヤケ)を含んで居るやうに見えた。元来絵入新聞の続き物には恋愛    関係の物語が多く、後年高畠藍泉氏が退き二世為永春水翁が之に代つて専ら続き物を書くやうに成(ナツ)    てからは一層人情本的の文体となったので、其生めいた文と相(アイ)俟(マ)つて芳幾氏の挿画は益々艶を    増したやうに思はれた。唯だ窃かに此の大家に不似合だと思つたのは、故人の粉本ならまだしも、現在    者たる芳年永濯両氏の描いた人物の姿勢などをそつくり其儘摸写して憚らなかつた一事(ジ)である……    が、併し一たび芳幾氏の手にかゝると原図の拮屈(キツクツ)なる筆致も忽ち軟化して、如何にも優艶な風に    変つたのは不思議であつた。されば新聞の挿画といへば芳幾氏に限るやうに持て囃され、其頃発行の芳    譚(ハウタン)雑誌、絵入人情雑誌、歌舞伎新報等の絵も皆此人の筆であつた。今一つ氏が得意であつたのは    俳優の似顔絵で、其頃の役者の錦絵は専ら豊原国周が書いて居たのを、氏は別に自身の工夫を以て似顔    を書き始め夫れがよく──就中(ナカンヅク)団十郎、左団次、仲蔵等──似て居るとの評判であつた〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟      ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ◯『明治百話』「長門屋と好文堂」上p176(篠田鉱造著・原本1931年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝「今お話しする『好文堂』というのは、銀座の三越の裏通りにあった貸本屋で、仔細あって、私はよく    存じております。この『好文堂』の方は雑書でない貸本を、多数所蔵しておりました。珍書貴書といっ    た側の貸本でした。ソレというのも『好文堂』の主人が、金座の辻さんの番頭で、辻さんの蔵書は悉皆    (スツカリ)この『好文堂』へ納ってしまいました。ソレですからとても善い本がありました。今でもそうし    た本に、子持枠へ入った『好文堂』の院を捺(オ)した書籍がありますが、ソレは辻さんの御本でして、    コノ『好文堂』が『歌舞伎新報』の発行所ともなって条野採菊(ジョウノサイギク)、落合芳幾、広岡柳香、西    田伝助なんかの通人が、久保田彦作さんを発行主として、コレを発行し、芝居の筋書や、楽屋噺、役者    の評判記を書立て、随分売盛(ウレサカ)ったものです。日本紙の和綴雑誌で、芝居好きや芝居へ往かれない    婦人連は、発行日を待兼ねて、まだか/\と催(セ)き立てたものです。通人の寄ってたかってする仕事    ですから、うまいものが出来ました。ソレから初春は、新版本をばお得意へ、封切本として貸しますが、    コレも考えたもので、人情本の序文や初頁を出して置いて、あとを薄用紙(ウスヨウガミ)で封をして持って    参じます。貸料もお高く、二朱三朱の本なら、その三分の二を先取りで、「何しろお宅さまが、封切り    でございますから」と、大いに気を持たせ、初春ですから、高いと知りつつ借りた上に、手代に祝儀を    包んで出したものです。こうした封切本の水揚を、第一第二第三ぐらい、お得意さまで挊(カセ)がして置    いて、第四番目ぐらいから、「封切(ミズアゲ)も済みましたから」と今度は安く貸すなどは、貸本屋の虎    の巻なんですが、今は貸本も亡びましたから、お話しいたします〟    ☆ よしかげ ごとう 後藤 芳景    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟      ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟     〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻  明治七年(1884)十一月創刊)    「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同八年(1885)四月創刊)    「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同八年十一月創刊)    「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)    「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)    「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ☆ よしつや 芳艶     ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p245(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (国周の談)   〝「さてわたしが始めて世帯を持ったのは、柳島の半四郎横町で、女房はお花というんだったが、その時    分新門(シンモン)の辰五郎が幅を利かして、その子分が二丁目の芝居をてんぼうで見たことから間違いが起    こって、二丁目を荒らした。そこで京橋の清水屋直次郎という板元が、その喧嘩の絵を画いてくれろと    頼みに来たから、わたしは新門の子分を彦三郎、菊五郎、田之助の似顔に見立てて、棒を持ってあばれ    ていると、黒ン坊が向うへ逃げて行くとこを画いて出版さしたところが、新門の方では、子分どもが喧    嘩に負けて、逃げて行くとこだといい出して、大勢でわたしの家を打ちこわしに来るという騒ぎだ。そ    うしてそのついでに、五ッ目の師匠の家も、メチャメチャにこわすというんだから、わたしも驚くし、    師匠も心配した。すると師匠の弟子に、芳艶(ヨシツヤ)というのがあって、これが新門の子分だったから、    わッちが仲裁して見ますッて、骨を折ったので、まアいい塩梅に、それで和解が届いた。     ところがその時分わたしが売出しで……自分の口からそういってはおかしいが、師匠の絵よりいいと    ころがあるなんていう者があったから、このしくじりの過料に、国周という名を師匠に取揚げられてし    まった。それから仕方なしに、わたしは一写斎という名で絵を画いていると、それもならないてンで、    師匠が板元の家を、方々断って歩いた。そうこうする内、篠田仙魚という、後に員彦(カズヒコ)の名を勝    手に名乗った人が仲へ這入ってこられて、ようよう国周の名を返してもらったが、どうも一時は弱った    ね」    (森銑三記)     芳艶は、藤懸(静也)氏の著『浮世絵』に、国芳門下として、名前だけが出ている。明治六年には、    まだ健在であった。     篠田仙魚、作名員彦は、二世笠亭仙果となった篠田久次郎であろうか。それならば、『月とスツポン    チ』の発行者である。明治十七年に四十八歳で歿したことが、『狂歌人名辞書』に見えている〟    ☆ よしとし つきおか 月岡 芳年    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)
  ◇「(四)小説記者の生活状態」1p46   (明治十一年七月二十一日、両国・中村楼に於ける仮名垣魯文の書画会に参加)
    仮名垣魯文書画会記事     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p85   〝月岡芳年氏の絵を載せ始めたのもいろは新聞であつたやうに記憶するが、それは只臨時ものとしてほん    の数回載せたのに過ぎなかつた。而して芳年氏の本舞台はその翌年ごろ星亨(ホシトホル)氏主宰の下(モト)に    三十間堀?で発行した自由燈であつて、芳年氏はおれの絵で一番此新聞を売つて見せるといふ意気込み    であつた丈(ダ)けに、凡(スベ)てが絵画本位でその小説は寧ろ挿画の添えへ物でもあるかのやうに感じ    られた。故に其の版木の寸法にも制限がなく、折には三段抜き以上の極めて大きな絵を出す事もあり、    人物を下段に顕(アラハ)し之と対照すべき月や遠山などを別に離して遙かの上段に掲げたり、又附け立て    の背景を廃して思ふさまを余白に残し、故(コトサ)らに余韻を生ぜしむるやうに工夫したこともあつて、    画面に変化が多く随つて著しく人目を惹いて評判も高くなつた。そこで是迄は一段か一段半の長方形に    限られて居た他新聞の挿画も追々芳年風にかぶれて版木が一体に大きくなり、且その絵組(ヱグミ)にも    奇抜なものが出来るやうになり、芳年氏が出てから新聞挿画が一変したといふのは事実である。併しな    がら今から思ふと、有名な芳年氏も当時は全く生硬の域を脱し兼て、例の強い筆癖で人物は恰も木彫人    形の如く、其の衣紋は紙衣(カミコ)か糊ごはい洗濯でも着て居るやうで少しも嫋(シナヤ)かな処がなく、又    写実を専らとしながら人物の姿勢にも随分無理な点があつたのを往々見受る事があつた。されば其頃滑    稽堂から発行された月百姿(シ)の錦絵にもこの欠点は顕はれて居たが、要するに同じ国芳門下でも芳年    氏は剛猛な武者絵風のものに長じ、芳幾氏は優艶な美人画が得意であつた。そして其頃此勢ひよき芳年    氏に筆癖を能(ヨ)く伝へたのは絵入自由の新井芳宗氏であつた〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ よしむね あらい 新井 芳宗    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)    「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟    ☆ よみうり 読売    ◯『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝新聞紙のはじめとも見るべきは、左に掲ぐる如き風体にて、市中を香具師の類が、駿河半紙の類へ、木    版又は瓦板の如きものを以て、当時の出来事、例せば、出火なれば其焼失せし場所の図、人事なれば其    始末、役替なれば、其役員の官名・氏名を摺こみ、大声にて売歩くものなり     〽今日御役換になりました、御老中・若年寄の御名前附が八文     〽サア、大変なおかみさんが御座います。実の子供を釜ゆでにした繞(ママ続)き、御近所の酒やさんで      御亭主は腰をぬかす、お婆アさんは目をまわす、小僧は逃出すといふ始末は、絵入かな付にて一枚      が八文〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉    ◯『絵本江戸風俗往来』p274(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「下編 雑」)   〝読売    読売というものに数種あり。三、四人より六、七人ずつ伍をなして時の出来事を探り、公に関せざる珍    しきことある時は、善悪とも即時に印版に起こし、駿河半紙という紙に摺り立てたるを、互いに珍しそ    うに呼びつつ歩く。「サこれは、この度世にも珍らしき次第は高田の馬場の仇討ち」などといいて売り    あるくあり。    大火ある時は焼場所を図面に起こし、焼失したる戸数・屋敷・寺社・町名・火消の消し止めより、死傷    の次第を明細に印して売る。地震・暴風・天変地異ある時も同じく印して売るなり。また敷物を路傍に    敷きて店を張り、坐して売るものは、大火の記事を面白く読み聞かせつつ売るなり。また路傍に立ちて    図面を手に持ちて売るあり。「焼場、方角、場所付を御覧なさい」といいながら歩きつつ売るあり。    教訓の歌、また心学の道歌などを小冊(コホン)としたるを、読み聞かせつつ路傍に立ちて売るもあり。流    行歌(ハヤリウタ)を謡いて売る読売は、舟子(センドウ)のかむるようなる編笠少しく形のかわりたるを、深く    なく浅くなくよろしき加減にかむり、笠の下には手拭の模様の粋なるを染め出せるを、天窓(アタマ)より    たれて左右の肩にかけたるは、野辺の柳間(リユウカン)より衣かつぎたる女を見るが如く、流行の縞柄色合    を好みて裁縫(シタテ)も念に綿入れに、三尺帯は上下に過(ス)ごさず、廻して前をよけて苦労して結びた    る甲斐ありて、緩急の加減を失わず。手の指の先より足の指先迄、垢のあの字も止めぬは、惜しむらく    は衛生喧(カマビスシ)からぬ時代、その賞を得ぬこそ残念というべく、細く削りたる竹の箸の如き棒を持ち    て、左に持ちたる流行節の印本をポンと打ちて謡い出す。夜中なれば襟より小提燈をつりたるを前へ少    し出し、時によりては三味線を入れて謡い来たるもあり。この読売は下町辺に限りたり〟    ☆ わらいほん 笑い本    ◯『氷川清話』(勝海舟、明治二十年代談)〔講談社学術文庫本〕   ◇「文芸と歴史」「蜀山人その他」p305    〝(上略。蜀山人・山東京伝の書き留めた随筆を買い損ねて惜しいことをしたという記事あり)以上戯     作者とは、ずつと下つて、春水、三馬、一九、その他こんな連中が大分あつたが、みな下卑てゐたよ。     私は武芸一方で、あまりかういふ風の男とは交際(ツキア)はなかつたが、それでも今の小説家なんぞよ     りは、ずつと器量は博く気前も大きかつたらうよ。それにこの頃は笑ひ本が沢山流行つたよ。-(今     は禁制だがね)-みんな、種彦だの、京伝などが書いたので、なか/\旨く書いてあつたよ。旗本そ     の他所々の邸々へ貸本屋が持つて来たが、見料は通常の十層倍もして、おまけに一朱、二朱の手金(テ     キン)を取られるのだが、それでもみんな争つて借りたよ。いはゞ当時の戯作者は万能に通じて居たの     だネ〟    〈この「笑ひ本」が必ずしも「春画」かどうか分からないが、参考までの収録した。手金とは手付金のこと〉