Top      『浮世絵』(雑誌)大正六年(1917)      その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『浮世絵』第弐拾(20)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵漫録(三)」「小林文七氏の浮世絵」桑原羊次郎著   〝小林文七氏浮世絵蒐集の豊富なる、天下に甲たる事は予輩の多言を要せざる処なり、今予輩の茲に筆    記せんとする者は、其内にて筆者の稀珍なる者か、又は筆者の肉筆乏しからざれども、其別号等の珍    奇なる者の中に一小部分なる事を御承知願たし、何れも肉筆のものなり。    一 釣雪斎落款ある常正筆    一 日本絵東愚斎長春とある者    一 湖辺斎と肩書ある一笑    一 東艶斎花翁とある者    一 忠義と落款あり、日高の印文ある常正風の者    一 息延筆とあり、梅渓の印文ある常正風の者    一 鳳山と落款せる常正風の者    一 梅林堂と落款せる宮川風の者    一 近藤勝信と落款せる者、梅祐軒勝信とせる者    一 宮川色粧軒と落款せる者    一 豊川雅信と落款せる者    一 滝沢重信と落款せる者    一 柏笑軒と肩書せる松野親信の筆    一 伯照軒親信と落款せる、上と同一人と見るべき者    一 谷川益信と落款せる懐月堂の支流    一 日本戯画冬信と落款せる者    一 長陽堂と落款せる者、是れは安知なるべし    一 紫冠画と落款せる政信風に近き者    一 南谷斎と落款せる政信の筆あり    一 素冠と落款せる者あり    一 鳥居清直 鳥居清峰 其肉筆は珍らし    一 清満八十歳筆とせし者あり    一 鳥居清朗(きよあき)とせし者あり    一 鳥居清政とせし者あり    一 鳥居清房とせし者あり    一 鳥居清近 鳥居清秀 鳥居忠春 鳥居清久等と落款せる者四幅あり    一 鳥居亀次郎十二歳筆と落款せる者あり〈二代鳥居清満に参考として収録〉    一 古山師胤の慥か二幅対あり、珍らしき者あり    一 浮世正蔵とか、吉川昌宣とか、蘚雲斎千酔とか、杉村正高とか、友清とか珍幅多し    一 保雪房信と落款して、印文藤原とあり    一 菱川師保と落款して、肩書に柳子軒とせるあり    其の他は略す〟    〈これらは大正12年(1923)の関東大震災で失われてしまった可能性が高い〉      ◇「徳田清種小伝」兼子伴雨子   〝清種は通称元三、姓は徳田、江戸の人である。厳父は本所黒本多家に仕へた医師であつた。元三は幼少    の折から絵画を好んで、業を継ぐを喜ばぬより剃髪すると云ふ事を嫌つた、斯くするうちに維新に際し    たので家禄奉還となり住み慣れし屋敷を出る事となつたので、居を伝馬町に移して嗜好から割出して、    錦画屋を開業した、それでも甘ずる事が出来なかつた元三は再び家を蛎殻町に転じて、今度は自づから    筆を執つて画ビラ屋を初めたが、後に感ずる処があつて、己れの住居とは目と鼻の先の、新和泉町に住    む五代目清満を訪ひて、その門下に這入つた。    清満は元三の歳既に長じて、修行期の遅れて居るが、其の熱心な勉め振りを見て弟分となし、変則の教    授を仕てやり、清種の画号は与へたが、鳥居姓名乗る事は許さなかつた、が五世清満没後の画には私に    鳥居種と誌したものがなくもない、斯くの如く清種は中年から修業なのであるから、出来上りの巧拙は    暫くおいて、その健筆なる事は他の画師が優に一日を費やす仕事を、清種は僅に半日を以て用を便ずる    と云ふ風なので、出来の上に一時半時を争ふ番付、絵本の版下は勢ひ清種に限られる傾向となつて、新    富座旺盛期の絵本番付は概ね清種の筆になつて居る、明治二十三年十一月十八日行年六十一歳を以つて    終るや、揮毫を乞ふ者一時非常なる不便を感ぜしめた程である 生前誹諧を好むで斯道に遊んださうで    ある。(一男文作、故小林永濯の門弟となりしも、壮年にして志を改め転業す)〟  ◯『浮世絵』第弐拾一(21)号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「錦絵の買集めと其苦心」浮世絵子   〝錦絵の流行出したのは、明治十六七年の頃が始まりで、それからぽつ/\と値が出まして、二十五年の    頃になりますと、春信の中錦絵一枚が、十円位になりました。すると利に早い商人連中は我先にと こ    れが蒐集に取りかゝり、東京は云ふに及ばず、京阪のものまで漁り尽し 大正の今日に至つては、日本    六十余州の津々浦々までも、手を拡げて大々的の広告文を配付して、田舎に残存してゐる品をば買ひ取    らうと、あつちこつちを苦心して探がしてあるく人物が各県をおしまはつてゐます(中略)    この人達が、錦絵を買入れる方法は、なか/\振つたもので、例へば歌麿とか北斎とか広重とかの、再    版絵を見本に携帯し、村々を軒別に廻つて、「お宅には、こんな絵紙はありませんか、有りましたら高    価(たかく)頂きますが」などと誘ひをかけて、さがし歩き、そのうち逸品でも見附やうものなら、さあ    大変、手を変え品を変え、何遍も何遍も出掛けては、それを狙つて、目的を達しないまでは、如何して    も動かない、丸で耶蘇教の宣教師が、信者でも作るやうな熱心さでせめかけるので、とう/\その目的    を達します(以下略)〟  ◯『浮世絵』第弐拾二(22)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵漫録(四)」桑原羊次郎(14/24コマ)   〝△「常行の姓氏」    (前略)小林(文七)氏所蔵の常行筆の長巻を見たる際に、其の姓氏を発見せり即ち 風俗長巻画極彩色    落款「常行 行年六十五歳筆(印文〔常行〕)」とし、箱は共箱にして、蓋裏に「寛保元辛酉歳四月十六    日 依好川又常行画之」とあり、常行の姓氏と其生年の判明したるは難有(ありがた)し。又其後、同家    に常正の画にて 川又氏の長形三字朱文の印あるもの出て、両人とも川又姓なる事の知れたると、其筆    意と着色の極似せるより、両人の関係は子弟か父子か兄弟ならんと想像し得るの、予には未だ確説無し。    唯だ常行落款の画は、人物の面貌少しく下細にて千篇同律なりと云ふを得べきに、同じ千篇同律にても    常正は常行と同様と、少しく下脹れにて祐信に近きものとの二通あるの差あり〟    〈川又常行、寛保元年(1741)65歳。延宝5年(1677)生〉    △「常行常正の流派」    此両人の同姓以上に密接の関係あるべきは既記の如くなるが、誰の門人なるかは確証を得ざれど、恐ら    くは祐信の直門か或は其流派ならん。尚ほ常正の美人画に、東涯の末弟蘭嵎の賛せしものありたれば、    常正の時代考証の一助ともならんかと思へり(後略)〟    〈伊藤蘭嵎:元禄7年-安永7年(1694-1778)〉    △「十扮之図」    十扮の図と題したる巻物にて、春章の筆なり。此は七代目団十郎の得意の扮粧を画きしものにして、沢    元愷の跋文あり、落款は「丙午孟冬二十有二」とす。春章の落款は字体極めて異風なり、年代を繰り調    べなば 必ず壮年の筆ならむ〟    〈落款は「天明丙午六年(1786)十月二十二日」時に春章61才。沢元愷(平沢旭山):享保18年~寛政3年(1733-1791)。な     お天明6年の団十郎とは五代目ではないのか〉      △「写楽の肉筆」    写楽の版行物が一枚四百円や五百円するなど云へど、さて其肉筆に慥(しか)と落款あるものは実に稀中    の稀、珍中の珍也。小林氏所蔵に一幅あり、即ち七代目団十郎の「暫」の図にして紙本聊(いさゝ)か落    位の幅なり、図の上に賛あり曰く       五代目市川白猿が肖像を見てむかしよみてつかはしけるうたを書つく      花みちのつらねに四方(よも)のゑひすうた東夷南蛮北狄西戎 四方山人    とあり。左方には      顔見世やわれもゑひさことゝましり(ママ)    とあり 即ち七代目団十郎なり。而(しか)して筆者名は右方下部に      東洲斎写楽〔花押〕    とあり。画風は顔の輪郭も鼻の輪廓も無線にして、唯だ色隈ひて之を現はせり〟    〈四方山人の狂歌は天明7年(1787)刊の『狂歌才蔵集』所収のもので、天明期の詠。この頃、五代目団十郎が「暫」を     演じたのは、『江戸芝居年代記』(〔未刊随筆〕⑪231)によれば、天明4年正月中村座顔見世興行の「筆初勧進帳」。     狂歌はこの時のものか。ただし写楽の作画の時期についてはよく分からない。五代目団十郎の蝦蔵襲名および俳名を     白猿としたのが寛政3年(1791)だから、この紙本掛軸は寛政3年以降の作画とも考えられる。また五代目は寛政8年引     退の後、寛政11年六代目が急死するや、翌12年11月の顔見世には、市川白猿の名で再び舞台に立っているから、この     画賛が寛政12年以降の可能性もある。ここでも七代目とあるのは不審〉    △「蕉亭春信の事」    鈴木春信の筆意にて、蕉亭と落款し印文春信としたる絹本着色の幅物を度々見たることあり。これと殆    ど同筆と見るべきものにて、鈴木春重と落款せるものあり、何れも人物は春信風なるが、背景は明画の    如き心地するものなり、春信自身が和漢の画を学びし事は勿論なるべければ、明画の趣きありたりとて    驚くべきにはあらざれど、別に鈴木春信と落款し、鼎式印に春信の文字あるものを見たる事あり、此は    池田清助氏が海外へ持出されたるものにして、此蕉亭とは大いに筆意異なりて、稍古僕なるものなり。    落款は鈴木春信と楷書なり、此春信と蕉亭春信と同人なるか別人なるかゞ大問題なり。予は初めは同人    と思ひ居たりしが、司馬江漢が春信の名を継ぎて、版行絵の下絵を描きしといふを疑ひ無しと見ば、江    漢が春信と署名したる肉筆のあるべきをも疑ふべき余地無し。唯だ不思議なるは、此司馬江漢と見ゆる    春信は、落款には必ず蕉亭とありて、印文二個、一は春信とし一は蕉亭としたる事なり。司馬江漢に蕉    亭の別号ありし事が判らば、此問題は解決せんが、寡聞なる予輩は未だ其確証を得ざるなり。    △「蕉亭春信と鈴木春重」    蕉亭と落款せしものと、鈴木春重と落款せるものを対比すれば、到底別人とは思はれざる程に酷似せり、    川又常行と常正は極めて相似たるにより、同人の筆に早中晩の区別あるものならんと思はるゝ程なれど、    具さに両者を対比すれば、面貌色彩等に多少の差異あるを認め得るなり、然るに此蕉亭と春重は、容易    に判断し難き故に、予は之を同人として可ならんと思考す。又今記憶に残らざれど、春重の印章には慥    か蕉亭の二字ありし様にも思はるれば、同人説の必ずしも根拠無きにはあらざる也。但し予は此肉筆物    を所持せざれば、若し果して、蕉亭春信と鈴木春重とが同人にて、且つ江漢其人なりとせば、更に鈴木    春信存命中は、門人としての江漢は鈴木春重と落款し、春信の没後には蕉亭春信と名乗りしにはあらざ    るか、との仮想も生ずる也。而して版行絵に麗々しく「鈴木春信」と署名せしは、商略上世人をして、    真に鈴木春信の製作品として取扱はしめんが為ならざりしか、又肉筆には、全然鈴木春信と署名するこ    とを憚りて蕉亭と号し、印章に春信を用ひしものにあらざるか、是亦予が例の憶測に過ぎざる也〟   ◇「錦絵の一パイ通り」(18/24コマ)   〝今日でも錦絵などを摺らせる場合に「一パイ通(とほ)り」といふ言葉があるが、其の言葉は主に板元や    摺師の間に用ひられて居るものであつて、門外漢には何の意味だかサツパリ判らない、蓋し一パイ通り    とは、其の用紙二百枚を指して言ふのである、何が故に二百枚を一パイとしたかといふに、昔簡単な紅    絵などを摺つて居た頃には、一日の摺り上ゲ数が凡そ二百枚位だつたから、そこで「日一パイで仕上げ    た」などゝ称したのが、今日まで伝はつたのであらう。今では幾日かゝつても、二百枚をば然(そ)う称    (とな)えて居る〟   ◇「亜欧堂田善の肖像画」油井夫山(20/24コマ)   〝(門人遠藤田一画く田善肖像画(絹本・彩色)の榜記)    文政五壬午年(五月七日没 亜欧堂如旦居士)寿(七十五)曙山田一 字如洋謹写〟   〝遠藤田一(寛政五年生 弘化二年没)は、須賀川の人、通称忠兵衛、字如洋、曙山楼と号し、早くより    亜欧堂に師事した、銅版画は無い様であるが、洋画風に描いた額や、日本画は四條風に画いたのが多く    ある。人物画を得意としたので、石井家に蔵する俳人雨考の肖像なども立派である。田一は師の田善の    没後に、文晁の風を学んで趣雲斎文豊と改号し、晩年は多く仏画及び人物画を描いて、弘化二年に五十    三歳で没した〟    〈石井家とは須賀川町の石井清吉。田善肖像画の所蔵者〉     ◇「安田雷洲の銅版画」雨石斎主人(21/24コマ)   〝雷洲は北斎門人で、名は尚義、俗称茂平、文華軒と号して居たと伝へられて居るが、猶ほ別に馬城とも    号し、サダ吉といふ通称もある、文化十一年版『小栗外伝』の挿絵中、馬城雷洲と識した個所がある、    それから江戸名勝の銅版画に、Yasda(ママ) Sadakiti としてあるので、別の通称が判つた。其の銅版画    は包み紙に『東都勝景銅版真図』と題し、右方に「雷洲先生画並鐫」と、左方に「牛籠北園蔵版」とし    てある、勿論画題も列挙してあるが、各図に記してあるのとは余程簡略である。此の図は八枚が一組に    なつて居るけれども、上端の数字によると十数出来ものらしい、即ち     1 自江戸橋看日本橋孟春之景     2 自高田千里原至棣棠郷之図     4 自三囲山之堤防望待乳山初夏雨中景 5 愛宕山頂観海雲     6 両国橋避暑            7 佃渚海上孟秋看烽火     10 自雑司谷鬼子母至威光山初冬図   11 仲冬堺町戯劇排場    斯くの如く番号が飛んで居る。それから其も形は竪三寸六分 横六寸三分あつて、包み紙は木版色摺で    ある〟  ◯『浮世絵』第弐拾三(23)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「版画手摺に就いて」小松宗徳(20/24コマ)   〝(前略)私は明治十三年から、五十八歳の今日まで摺師として世を送つて来たのですから、摺方の変遷    も親しく実地を見て存じて居ります。(中略)木版の摺師には、墨摺色摺の二種類があり、此の外に    熨斗(のし)屋といふ一派がありました。これは今も継続して居つて、手拭の上包紙や、銀貨入れの小袋    などを摺るのを専業とするものです。     摺師は沢山ありましたが、錦絵を摺るものは、其の頃から多くはありませんでした。さて其の時分に    は、今のやうに彩色の完成した原稿があるわけではなく、例へば美人画を描くにしても、絵師が筆を下    すのは其の墨線のみです。此の墨線の絵を彫師に彫らせた板を地墨板(ぢずみいた)と云ひ、此の絵が今    仮りに色数十遍あると致しますと、生美濃(きみの)に十枚の校合を摺つて絵師の手に渡します。絵師は    其の十枚の校合(けうがふ)に朱又は紅で草は草、黄は黄、赤は赤と各色指をして、尚ほそれに一々文字    で色の名を書き添へ、彫師に廻はして彫らせます、此の彫り上つた板を色板と云つて、摺師は板シラベ    とて摺り合せます。しかし彩色の原画がありませんから、たゞ絵師の指定によるだけで、例へば薄藍と    記してあつても、其の濃淡の度合は、たゞ摺師の頭脳(あたま)で加減するだけですから、仲々むずかし    いものです(仲略)後に至つては、着色の方法が変り、絵師の画いた原画によつて、一たん墨板に彫り    上げたものに、更に原画に従つて摺師が色指(いろざし)をすることゝなりました。これは明治二十年頃    で、その時分から近年までの色指は、絵師の処へ持つて行かなくなりました。     墨摺と色摺とは各々異なつた伎倆を有するもので、両者は全然その特長を異にして居りました。昔は    活版などがないため、色々の印刷物は、大抵この墨板の手摺でしたので、墨摺職工も非常に沢山居りま    した。この墨摺には、木製の硯で、篦を以て溶いた墨汁(すみしる)を用ひますので、その身体に一種の    異臭が泌み着いて居るために、色摺職工は、墨摺職工をドブ摺又はドブヤと称し軽蔑して、往々彼此の    仲間に、衝突を起すことなどがありました。さて此の墨摺専業の人達は、見当(けんとう)といふことを    知りませんから、色摺ものをやることは出来ません。併し又、色摺の方の人は、何か忙しい仕事があつ    て、墨摺の方へ補助に行つても決して仕事は捗らないのであります。     一体、墨摺の板は、板一パイに彫つてあつて、見当を附ける必要なく、ツマミといつて、六千枚程の    紙を積み上げて置いて、片端から摺上げ、一日位でこれだけを終るのであります。かやうに積上げた紙    の中には、紙のスキヾレなどで役に立たぬものも多く交つて居りますから、一々それ等を跳除(はねの)    けて、摺上げた分の小口を食違はせて、五枚毎に一二寸明け、百枚なるのは見る丈けで知れます。だか    ら積上げた後に至つて容易(たやす)く計算し得るやうになります。色摺ばかりやつた人には、この紙の    食違へに並べることが出来ません。そして一々見当をつけて摺る習慣がありませんから、墨摺の人のや    うに手早くは仕上げられません。熨斗屋ものなども、やはり錦絵等を専門にやつて居る人には数多く出    来ぬから不向です。故に自ら色摺の方では錦絵と団扇絵位が専業となります。     昔は何千人と数へられた墨摺師も、活版の術が開けたので昨今では皆無になつて了(しま)ひました、    色摺師も亦大阪で木版を機械刷にすることが発明されたので、多く仕事を奪はれましたから、余程減少    しました。     斯様(かやう)に主要なる仕事は一たんは石版大阪版の領分となりましたが、近来に至つて木版趣味が    向上し、錦絵団扇などの摺物は大分世人の注目を惹いて来ましたから、色摺は追々回復することゝ思ひ    ます、手拭の包紙、揉紙のナフキンのやうに数が少くて、極く廉価なものになると、石版でやつては割    に合はず、彫り方が異つてゐるから、機械にはかゝりません。下谷入谷辺には、内職のやうに摺つてゐ    る者を多く身受けます〟   <摺師>   △墨摺 活版印刷が普及する(明治十年前後)以前の印刷物のほぼすべて        墨板のみ(見当なし)一日六千枚   △色摺 錦絵・団扇絵       墨板(地墨板)・色板(見当を使って色ズレしないように摺る)       色板 明治二十年以前           絵師:原画(墨線のみ)を画く           彫師:墨板を彫る            摺師:墨板から校合摺(美濃紙)を摺る           絵師:校合摺に文字で色指(いろざ)し(色指定)する           彫師:色指しをもとに色板を彫る           摺師:彩色原画はないから、色の対比・濃淡などを加減して摺る          明治二十年以降           絵師:彩色原画を画く           彫師:墨板を彫る           摺師:原画に拠って色指しを行う〈絵師の色指し工程を無くした〉           (以下同じ)   △熨斗屋 手拭の上包紙・銀貨入れの小袋など    (のしや) 墨板のみ(ドブ摺(ドブヤ)とも呼ばれる)  ◯『浮世絵』第弐拾四(24)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵小話(一)」橋口五葉(5/24コマ)    〝(前略)漆絵は之を大略二種に類別する。即ち小判のものは、享保より元文に亘つて多く作られ、大判    の方は、大抵は其の以後に於て出来たやうに思はれる。小判のものは、画面中の殊に黒い色彩の場所に、    黒き漆を用ひ、又は光沢墨(つやずみ)に膠を強く掛けて、漆のやうに見せる方法を用ひたるものが多く、    且つ或る場所には金箔を散らしたものが少なくない。然るに後期の製作にかゝる大判漆絵には、以上の    やうな点少く、多くは黒い部分は墨摺のまゝであつて、其の上に膠などを塗つて居(を)らない。併し前    期のものも後期のものも、共に絵具には多量の膠を加へて、これを以て手彩色してある〟   ◇「美丸の改称に就て」雨石斎主人(9/24コマ)   〝美丸(よしまる)は一に美麿(よしまろ)といひ、北尾政美に門人にして、又喜多川月麿にも学ぶと伝へら    れて居る、而して重政の没後其の名を襲つて二代重政と改めたのである、美丸の作品としては草双紙の    挿絵が最も多く、文化四五年から天保十一二年頃まで、凡そ三十四五年間に於て、百種近くの書物に挿    絵して居る、其等の中の二三に就いて考へて見ると、彼は最初北川美丸(よしまる)〔文化六年浮風呂〕    といひ、尋(つい)で小川〔文化七年正月 昔語兵庫之築島〕と改め、其の後更に歌川〔文化十一年正月    庚申待女房献立〕と称し、最後に北尾〔文政五年 金草鞋〕と改め、終に二代重政となつたのである。    又別に華蘭斎の号があつた。それから、前記の文化七年正月発兌『昔語兵庫之築島』には「口上、去年    より御め見えの画工よし丸 当春北川の姓を改めこれより小川となのります云々」とし、尚ほ「北川姓    改十八歳 小川美丸画」としてある〟    〈二代重政襲名は文政十年〉      ◇「俎版」の図解 兼子伴雨(18/24コマ)   〝「東栄戯台之図」(中略)明和年中劇場内外の見取り図で、好事者間では「俎版(まないたはん)」と称    へて居る、原図は幅二尺、長サ四尺余に印刷物で、墨一遍摺の物へ、漆画の如き丹、黄汁等で筆彩色が    加へてある(中略)明和元年甲申十一月、江戸日本橋は堺町中村座の光景である。    狂言は四番続きの「贇最馬内裡(あづまのはなさうまだいり)」で、中央の金冠百衣の公家は市川団十郎    の平将門(以下、他の役者と役柄名続く 省略)顔見世月だけに吉例の暫くを綟(もぢ)つて書替へたも    のと思はれる(後略)〟    〈大判(横60㎝・竪120㎝)の墨摺に手彩色。外題は「吾妻花相馬内裡」の表記が一般的。破風造りの舞台および花道上     に役者、満員の客席、劇場入り口正面に中村座の定紋と絵看板、「寿大おどり」「酒てんどうじ」の文字も見える〉  ◯『浮世絵』第二拾五~二拾九(25-29)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)六-十月刊)    該当記事は直接「浮世絵総覧」の各絵師および「浮世絵事典」の各項に収録  ◯『浮世絵』第三十(30)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵漫六(七)」「版画と肉筆物」桑原羊次郎   〝(前略)今一つ注意すべき事は、今日世人が古版画として尊重して居る--政信の紅絵だの清長の三枚    続だの、政演の何だのと豊富なる古版画があるが、是等は果して真正の古板画であらうか、明治三十七    年頃 政信の紅絵が大阪某商の手に三通り出来て それがハンボルクや倫敦(ロンドン)や紐育(ニューヨーク)へ    巧みに或る間隔を置いて顕れた事を知つて居る人がある、云ふ迄もなく別漉の奉書に古紅を以て摺上げ、    其版木は三通目には叩き破(こは)したとの事である。斯の如く巧みに出来た新版物と古版物との甄別に    は欧米人も殆ど閉口して居るとの事である、其中で少し巧者と云はれた人が、マルデ売薬の封印の如き    封紙を版画の背面に貼附したり、又は林忠正氏の丸印のあるのが真正であると云つて居るが、其封印や    丸印の偽造さへ出来て、なか/\物騒千万である、元来が結核やチブスの黴菌を験べるのではあるまい    から、出版年代の新古に拘らず、立派な版画なればそれで十分であつて、千金を擲(なげう)つも亦可な    らずやである。版画の研究を古銭の研究と同一視してはイケナイ、好事(ものずき)に流れてはイケナイ    と云ひたい。    真贋の論より云へば、版画も肉筆物も其鑑定は困難であるに相違ない、然し内筆物は絵師が一旦墓場に    入りし後では模倣者が出ても、決して清長・歌麿・豊国の筆ではない、又清長・歌麿等の肉筆は其人が    蘇生せざる限りは再製は不可能である、然るに版画に於ては既に述べたる如く、初版二版と其当時に複    製があり、其死後間近に複製があつて、何れも今日より見れば古版として大騒ぎの品物である、されば    少し間隔年数を置きたる今の版画も、複製として卑(いやし)む事は慥かに間違であり、又上製のものは    古板と同一の代価を支払ふべしと云ふのである、殊に況んや古板木の発見せられたるものがあつて、こ    れに同時代の古紅・古藍・古奉書で摺立つるに至つては、唯其の摺立が大正年間に行はれたりと云ふ外、    何等の差異はないではないか、是等の点が肉筆物の再製不可能とは大いに異なる点であると謂はざるを    得ない。(中略)    浮世絵肉筆こそ、既に論ぜし如く浮世絵師の真面目であり、又全体である、他人の協力は毫釐も関係な    き物である、構図意匠は版画と共に絵師の独力とは云へ其筆触の快味、若し真の豊信、春信、清長等の    肉筆を一見せざる人々が、肉筆と版画の比較論をするならば、それは甚だ早計であると思ふ。(後略)〟   ◇「一梅斎芳春小伝」兼子伴雨   〝芳春は、通称幾三郎、生田姓である、朝香楼と云ひ一梅斎と号した、『浮世絵備考』に一物斎と誌した    のは誤謬である 芳春初めは芳晴と書し、柳川重信の門人となり、後に国芳門下となつた、と云ふ説も    あるが詳らかでない。    渠(かれ)は文政十一戊子年、本所の旗本邸内で生れた、父は其処(そこ)の御小納戸を勤めた皆右衛門と    云ふ人だ、幾三郞は幼にして父の兄なる村川某に養はれて嫡子となつたが、長ずるに従ひ武家の窮屈を    厭ひ、渠の眼から自由の天地とも見える猿若町に出入して、盛んに天保時代のデカタンスを試みた 渠    が頻りに此自由の小天地に出入するのは、啻(たゞ)に自由を得らるゝばかりからではなく、一つの目的    があつた、それは当時売出しの若手四代目芝翫が芸に舞台に心酔されて、最初贔屓であつた芝翫を、野    暮な大小を棄て師匠と仰ぎたくなつた、が社交に通じない渠は、如何にして其の企図を推行しやうかと    熟考のすゑ、馴染の留場若衆から芝翫へと頼み込んだのである。    話の漸く進行するのを、何処でか漏れ聞いた養父は、立腹して禁足を命じ厳重に渠を監視した、渠は禁    足の苦悩に堪ず、庭に出ては、釘或は箒を持て、日頃親しく見た芝翫を初め俳優の似顔画を描いて自身    を慰藉した、此の様子を見た養父は、家職の無理強ひを止め、役者になられるよりは増であると、狂言    方勝能進の肝煎で歌川国芳の門下に列したが、渠の二十三歳の時であつた。    安政二年 江戸の地大いに震ひ、市内の惨状は言葉に絶して居た、渠は馬喰町三丁目の絵草紙屋山口屋    と謀つて、其の惨状を一枚絵の錦絵として出版した、写真絵葉書のない当時の江戸では、地方への通信    に羽の生えた如く売れ、多大の利潤を得た、又浅草伝法院前の大橋屋も渠が得意場で草双紙の挿画、婦    人画、武者絵等を描いた。    左に模写した洋装美人の画は、馬喰町四丁目吉田屋の出版した冊子で、岳亭春信作の『万国奇談袋』の    口絵だ、文久元年五月発兌されたものである、師国芳が洋画を模倣した二十四孝の一枚画の如く、生気    溌溂の筆意が窺はれる、殊に其の序に「此の書僅に横文字を和解(わげ)して銅判を引く図になしければ    短文にして同名になりゆき 人物入乱れて見るに同様なせり、諺に云ふ 画は無声の詩たりと、画工を    憑(たの)みになしければ 見る人絵組に心をつけて人物を知り給へかし 云々」と作者岳亭も一丁奉つ    て居る。歌麿と一九が喧嘩したと云ふ『吉原年中行事』それ程の物でないとするも、画工と卑しんだ時    代に、作者が不聞(ちやち)にもしろ是れだけの提灯を持つのは、当時芳春の名声大いに高かつた事が想    像される。    渠は浅草茅町に居を卜して、梅田テル女を迎へ、所謂新女房の新世帯を張り、楽しい団欒(まどゐ)の中    に三男一女を挙げた、そして向ふ両国に移り、浅草並木町に転じたが、此処には十五ヶ年も住居してゐ    た、此の時代が最も渠の旺盛期であつて、伝ふべき逸事も寡くないのである。    当時渠が交友としては、新場の小安、梅素玄魚、仮名垣魯文、落合芳幾、歌川芳州(油絵師)、久保田彦    作、新井芳宗(初代)、若菜屋島次などであつた。渠は食事毎にチビ/\酒で一度に三合位を傾けた、肴    としては二足四足を嫌つて焼魚を好んだ、そして酔つて居る間はニコ/\者であつて 醒(さむ)れば愚    痴を零すのが恒であつた、であるから曾て芳州画会の崩れに、親交なる魯文、芳幾と倶に吉原に浮れ、    稲弁へ登楼し宴酣になつた時 魯文即興の語呂に曰く「芳春があかくなると愚痴はやみ」と詠んだくら    ゐである。    養父の為めに俳優志願の目的を妨げられた渠は、当時画家として社界に立ながらも、最初の目的を断念    する事は出来なかつたと見え、流石に長男は世間を憚かつて居たが、次男の宮吉が七歳の時、新場の小    安を紹介者として、先代左団次の門弟とした、現今の筵十郎が其の人である、斯くして自分の妨げられ    た目的を子供によつて充し、江戸の敵を長崎で討つやう気性に面白い所があつた。此の筵十郎が左伊次    時代の十四歳、年号は明治と改元されて、世は文明開化の日進月歩に、油臭い丁髷(ちょんまげ)はいつ    か軽い散髪(ざんぎり)と移り行き 当時のハイカラが丁髷を呼んで、肥船(こいぶね)のたわしだと悪口    した、人中へ出入する若い左伊次は、肥船のたわしを天窓(あたま)に載せるに忍びなかつた、母親に強    請(せが)んで仲町の床屋で髷を切り、散切天窓と早変りをして帰宅すると、之を見た芳春(ちち)が怒つ    たの怒らないのッてはない「鬘下地に結へばこそ眼尻が吊上るのだ、第一青黛(せいたい)を何(ど)うし    て付ける」と云ふを叱言(こごと)の手初めとして、それから夫れへと飛ぶ叱言に、家内中が持余し、幸    ひ床屋とは平素懇親の仲であつたから、床屋に仲裁を頼み、再び髷を結ふことにしてヤット納まつたと    云ふ逸話がある。渠は斯くの如き保守主義の人で、所謂徳川家憧憬の大江戸ッ児であつた。    た一面からは又大ハイカラで、前掲挿画の如き画を描いた事もあり、晩年には大阪から迎へられて、同    地発行『此花新聞』の挿画を三年間ばかり執筆して居た。大阪大洪水の年に帰京して、京橋築地二丁目    に居を構へたが、明治二十一年行年六十一歳で病没した、芳雪院春誉一梅信士と云ふ、此法名の一梅は    又一物斎の誤謬を正す証拠となるではないか。其の門弟としては春富、春中などと云ふのが居た〟    〈「大阪大洪水」とは明治十八年(1885)六-七月の淀川大洪水。明治十五年から大阪滞在か〉  ◯『浮世絵』第三十一(31)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)十二月刊)    該当記事は直接「浮世絵総覧」の各絵師および「浮世絵事典」の各項に収録