Top       『浮世絵』(雑誌)大正五年(1916)       その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『浮世絵』第八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵花の見立」漆山天童(7/48コマ)   〝菱川師宣  牡丹  牡丹は花の王とかや    宮川長春  菊   隠逸にして市井のものにあらず    懐月堂   竜胆  花よりは其の葉、顔よりは其の衣紋    吉田半兵衛 秋海棠 /雛屋立圃  罌粟    鳥居清信  向日葵 聚草にぬきんでゝ盆大の花びらクワツと開きたる 鳥居の招牌絵にも似たらんか    鳥居清経  卯の花 /富川吟雪  われもこう    橘守国   寒菊  /月岡雪鼎  百合    西川祐信  桃   許六は桃を評して、爛漫と咲きみだれたる中にも首筋小耳のあたりに産毛の深き              所ありていやしといへり    奥村政信  冬牡丹 /近藤清春  芙蓉  /西村重長  紫苑    石川豊信  海棠  /一筆斎文調 夕顔  /東洲斎写楽 牽牛花(アサガオ)    鈴木春信  梅   古人の梅を評して、梅の風骨たる事、水陸草木の中に似たる物はあらじ、又曰く              かたち癖(やせ)ぎずに涙もろく子さへ無くて 夏冬の寝覚もやす    湖龍斎   紅梅  春信が梅ならば、巨川や湖龍斎は紅梅と見れば見るべし    清長    桐の花 桐は花としての美しさは如何なれど、梢を仰ぎて見るべき気高きところあれば    春章    藤   朱を奪ふといふにはあらず、初夏の旅に渓川の水を掬べば、向かふの松の梢に爛              漫と咲きみだれたる    北尾重政  蓮   どこやら濁りに染まぬところあり、さういへば河原者の似顔など、とんと画かず    北尾政美  芍薬  諺に牡丹、芍薬、杉皋も又偉(ゐ)なる哉    北尾政演  菖蒲  /鳥山石燕  柘榴    喜多川歌麿 桜   歌書徘書註して曰く、花といへば桜    勝川春童  蠟梅  古書斎にわび人の好んで生けたる    歌川豊春  八重桜 /鳥文斎栄之 虞美人草     歌川豊国  椿   椿は唯々赤きものなり    歌川国政  萱草  萱草(わすれぐさ)も赤きものなり    歌川国貞  山茶花 植物学に曰く、山茶花は椿に似たり、唯おくれて咲くのみ    歌川豊広  山吹  /魚屋北渓  福寿草    歌川国芳  薔薇  司馬江漢と共にこれなるべし    歌川広重  水仙  百草凋む冬の日に、凜として霜を凌げる    葛飾北斎  紫陽花 誰やらの評に、眉の跡翠き三十過ぎの女、近よれば白痘痕(しろいも)だらけにて              其の恋止みぬとあるやう覚えたり。されど又、柳のうしろ、竹の前、外に花無き              夏の庭をかざりて、其日々/\に色の変るも面白し    蹄斎北馬  梨花  /辰斎    萩    柳川重信  桔梗  /菊川英山  鳳仙花    岳亭春信  連翹  一老画譜の薄彩色、夜目には確(しか)と認めがたし    渓斎英泉  鶏頭  此の評の、月岡雪鼎の百合の見立と共に誰が目にも動かぬところなるべし    速水春暁斎 女郎花 /石田玉山  辛夷  /春川五七  合歓花     松川半山  河骨  花の幹無骨に見ゆれど、浅水に浄げに咲ける    芳年    ダリア 近き世のものといふ洒落のみにはあらず〟   ◇「稗史原稿より見たる戯作者 浮世絵師との関係」林若樹著(8/48コマ)   (稗史小説(草双紙・読本)の改(あらため=検閲)について)   〝江戸名物の一たる稗史小説も 大方此二日又は吉日を卜して 初春中売出すこと嘉礼なり(中略)    作者は三四月頃より筆を執り初め 八九月頃迄には大方脱稿して其稿本を出板書肆に与ふ かくして後    其草稿は行事の手許に呈出せられ 幸ひに忌諱に触るゝ点なく 無事下げ渡さるれば 夫れより画工は    其草稿の下図によりて揮毫し 後筆耕其余白に文章を正書して 板木師に廻送し彫刻成れば 著者の校    合を経て 摺師の手を煩はし 後製本発売の順序となるなり〟   (『人間万事吹矢的』草稿 京伝作 重政画 黄表紙 享和二年稿)   〝此草紙絵は吹矢の人形気取りにて御書(おかき)可被下(くだされべく)候(そろ) 上の段は人形の気取り    下の段は常の絵なり、此序文北尾先生へ御願ひ筆工とも御書可被下候 文字アラク律儀ニヨメ安き様に〟    〈ここにいう草稿とは、作者自身が作成するもので、本文と下絵(挿絵・口絵等の構図および図様に関する注文)からな     るものを云う。これは作者山東京伝が画工北尾重政に求めた図様及び書体に関する注文。享和3年刊〉   (『復讐煮茶之濫觴』草稿 京伝作 重政画 黄表紙 享和三年稿 見返しに朱書き)   〝一、下絵(したゑ)にかゝはらず絵がらおもしろく御書(ママ) 一、ひつかふなりたけあらくよめ安き様に    一、落字無之様 にごりめい/\御付可被下候」    〈作者の下絵にあまりこだわる必要はないこと、書体は読みやすいものを、落字のないように、濁点を付けて欲しいと     いう注文。重政は作画だけでなく筆耕も担当していたのであろう〉   (同書中の京女郎道中の図に対する註釈)   〝京女郎此やうにむすぶ、からかさのもん よくワかるやうに 中居まへだれ〟    〈挿絵に関する注文で、京都の遊女の髪か帯かの結び様・傘の紋・仲居の前垂れなど、指示は細部に及びしかも具体的     である。〔国書DB〕の書名は『復讐煎茶濫觴』で文化2年刊〉   (『加古川本蔵綱目』草稿 馬琴作 重政画 黄表紙 寛政九年稿 見返し)   〝人物の居所すべてのとり合せは この下書(したがき)に拘はらずかつこうよろしくねがひ上候 筆耕落    字にごり数編御校合下さるべし」    〈挿絵の人物配置に関しては下絵(馬琴は下書)にこだわる必要はなく格好よくしてほしい、落字・濁点については、本     文とよく照合するようにとの注文〉   (『武者修行木斎伝』前編草稿 馬琴作 豊広画 黄表紙 文化三年稿)   〝画は下画(したゑ)に拘はらず思ひ付も御座候はゞ 可然(しかるべく)御書つけ可被下候 とり合せ等と    かく可然御工夫ねがひ上候」    〈納得がいくような下絵が出来なかった時は、画工にまる投げというか、画工の才覚に頼るほかなかったのだろう。文     化3年刊。以下、林若樹の解説〉   〝昔時(むかし)の稗史、即ち読本・合巻・黄表紙等は現今の小説と異なり 挿絵に重きを置き 就中(な    かんづく)黄表紙の如きは絵主にして本文客たるやの感あれば 作者は皆趣向を尽して絵組の下図をつ    け画工は唯々(いゝ)として其図によりて清書したる迄なり 多くの草稿を取りて板本と比較対照するに    その図様大方同じく 偶々異同あれば 図面の配置上 人物の向きを替へたる位に止まれり 馬琴は上    文のごとく「凡ての取合はせはこの下書に拘はらず格好よろしく」とか「思ひ付も御座候はゞ可然」な    どゝ記し置けど 若し画工の図様によらずして己が意に任せて執筆したりとせば 著作上に就いては細    心にして神経過敏なる馬琴の 如何(いか)で其まゝになし置かん 必ず画工との衝突は免かれざるべし    後来北斎と『三七全伝南柯夢』並びに『絵本水滸伝』の挿絵に就いて相争ひしこと以て證とすべし。     以上の如く作者は画工として一段低く浮世絵師を見下し居り 浮世絵師も其位置に甘んじ唯々として    其命を報ずる中こそ無事なれ 北斎豊国の時代に至り 彼等の名声江湖に喧伝し 画工も敢て作者に首    を屈せず 社会も其位置を是認するに至りては 往々其間に衝突を見るに至れるなり〟   (『二枚続吾妻錦絵』草稿 三馬作 国貞画 読本 文化八年稿)〈文化10年刊〉   〝口上、当年は事多く候て著述大延引 それ故下画(したゑ)ざつといたし候 よく/\かみわけて新図に    図とり御たのみ申候 国貞君 三馬わくのあんじもことしはおそくなり候ゆゑ 工夫いたし兼(かね)候    よく御救ひ可被下候〟    〈「三馬わく」とは、三馬が作者としてなすべき仕事の範囲、具体的には本文を書くことと画工に対する注文(下絵)を     出すことをいうのであろう。そのうちの下絵については、今年は仕事が多くて、とても手がまわらないから、よろし     く頼むという、画工担当国貞への懇願である〉   (『清姫草紙』草稿 三馬作 国直画 合巻 文化九年稿)〈〔国書DB〕の書名『日高川清姫物語』文化10年刊〉   〝段々諸方よりおしかけられ昼夜くるしくて/\なり不申(まをさず)候まゝ下絵はいつもやうにつけ不申    候よく/\御工夫御相談可被下候 国直さま    三馬 どうでもよいからにぎやかになる様に 御たのみ甚だせつない音を出し申候」    〈これも上掲同様、版元から草稿を催促されて切羽詰まった三馬が、「下絵」なしだがなんとか工夫してほしいと、国     直にひたすら頼むのである〉      (『戯作六家撰』「式亭三馬」岩本活東子 安政三年成稿)   〝文化のはじめ合巻読本俱に流行し頃に 三馬豊国等は諸方の書肆に種本写本を乞需めらるゝに 其約束    の期に遅れ譴(しか)らるゝに苦しみて 五日或は七日ばかりづゝ書肆の許に至り、一間を借りて草稿を    成し、又は絵を画きぬとなり〟    〈原稿締め切り前の売れっ子作者と出版者とのきわどいやり取りは、三馬・豊国の時代からあったようだ。林若樹はこ     の引用文の「種本写本」を次のように註釈している〉   〝種本とは作者の草稿、写本とは画工の板下を云ふ〟     〈「種本」は、作者の本文と下絵(画工への指示絵)からなるものを指し、草稿とも稿本とも云う。「写本」は作者の下     絵に基づいて画いた板下絵(板木を作成するためのもの)を指す〉   ◇「半狂堂散漫錄(二)」宮武外骨   〝『名歌徳三升玉垣』の中、市川団蔵役、五位之助のセリフに「江戸の名物、役者の似顔絵、知るべの方    へ土産と思ひ、買ふて来た一枚絵」とある 往訪にも帰参にも江戸の土産は重宝であつた〟     ◇「浮世絵と新聞の挿絵」石島古城(33/48コマ)   〝(前略)新聞の挿絵を用ひ始めたのは明治八年に発行された東京絵入新聞で 今から四十年程の昔であ    る、而して其に筆を執つたのは落合芳幾で 実にこれが我国の絵入新聞の最初で 新聞に挿絵を描いた    最初の人であつた。同人は其画家たると同時に同社創立者の一人であった 我が絵入新聞の創立者と新    聞挿絵の創始者として落合芳幾の名は明治の浮世絵史に特筆せねばならない(中略)     併しながら歌川系から出た芳幾の技巧は依然俳優の似顔以外に出る事は出来なかつた、文明の公器た    る新聞紙を装飾すべく余りにふさはしからざるものであつた、時に挿画界に大飛躍を試み 当時の画風    に一変化を与へたのは月岡芳年である、芳年の運筆は極めて強い 恰(まる)で木片(こつぱ)でも接合せ    た様な極端な癖を持つてゐたので、一面から見れば野鄙ではあるが キビ/\した江戸つ子の式の筆到    は 活気に乏しい歌川一流の画風に幾分見厭(あ)きた時人の意向に投じた為、其後続々発刊した各種の    新聞挿絵は殆んど芳年風とも謂ふべき一派に風靡されたのである、私は芳幾の功績を称すと共に明治年    間に於ける芳年の斯界に貢献した効果をも挙げて置きたいと思ふ(後略)    〈以下 新聞名と挿絵を担当した画工名〉    「東京絵入新聞」(八年発刊 後「東西新聞」) 芳幾 国松    「真砂新聞」  (十一年頃)         芳年    「仮名訓新聞」 (十三四頃 後「いろは新聞」)芳年 暁斎    「読売新聞」  (七年発刊なれ共挿絵は後)  永濯 古洞 判古    「有喜世新聞」 (十五年 後「改化新聞」「開進新聞」)             国松 芳宗 豊宣 周延 国周 周重 年参 一広    「絵入自由新聞」(十六年 後「万朝報」に合併)芳年 芳宗 年信    「タイムス新聞」(十七年頃)         清親    「自由燈」   (十七年 後「ともしび新聞」)芳年 年方 芳宗    「国会準備新報」(十七年頃)         芳宗    「今日新聞」  (十七年 後「都新聞」)             年恒 芳宗 国松 年信 菊仙 年貞 広業 永洗 洗耳    「めざまし新聞」(十八年 後「東京朝日新聞」)国松 菊仙 年貞 清親 年英    「やまと新聞」 (十九年)          芳年 年方 菊仙    「めざまし新聞」(二代廿六年 後「人民(ママ)」)年峰 菊仙    「郵便報知新聞」(挿画は後 後「報知新聞」) 華邨〟   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 上」相見香雨楼   (『浮世絵』第八号 所収(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   〝押上春慶寺の普賢堂の扁額     鳥居清満筆 五代目坂東彦三郞 大星由良之助図     歌川豊春画 日蓮上人龍口御難の図 竪五尺余 幅二間ほど 金地に極彩色     同     普賢像 巾六尺位〟    〈豊春画「日蓮上人龍口御難の図」の由来について、当時(大正三年)の住職が相見香雨に語った内容〉   〝此の豊春の額は、寛政二年谷津会助といふものの寄進に係るものであるが、安政二年の地震に、天井と    共に墜落して、画面がいたく損したが為め 暁雲斎意信といふに、之が補修を托したのである、而して    もと豊春の落款もあつたのであるが、補修の際に意信はもとの落款の上へ金箔をおいて 今度は自分に    名を入れた、額の裏にも何だか書いてあります〟   〈この補修について、相見は次のように断ずる〉   〝妄りにもとの落款を塗抹して、補修した者が勝手に自己の名を入れるといふは、故人に対して無礼の罪    軽ろからず、よし暁雲斎が全然之をかき改めたとしても、その事由を記しおくべきものなり、此の落款    いかにも心なき業にして、惜みても尚あまりあるこどである〟    〈以下、先人の記事を引用して生年・出生地・師匠について解説(省略)次に歌川豊春と歌川豊信との関係に言及する〉   〝故高嶺秀夫氏の蔵品(今は多分東京帝室博物館の所有に帰して居るであろう)に、今様松風とも称すべき、    海浜遊女の図の掛物がある、その落款に歌川豊信筆とかいて、下に一龍斎の文字ある白文の丸印が押し    てある、さて歌川豊信なる者 従来の画伝諸書一も之を記すところなし、此の絵あるに拠りて初めて此    の名を知るのみである、然らば彼何者であるがといふことを詮議して見んに(中略)    吾輩は此の画を以て豊春の一生から申せば、中年若(もし)くは中年少しく後の作、彼の浮世絵では前か    きと愚観し、豊信は豊春の前名で、初め--恐らくは僅少の間--一龍斎豊信と称したるならんと推定    するの外なからんと考えるものである〟   ◇「淡島屋のかるやき袋」淡島寒月 〈「丈」を「だけ」と読む場合は「だけ」と直した〉   〝(前略)何故昔はかるやき屋が多かつたかと云ふに 疱瘡、麻疹の見舞には必ず此軽焼と達磨と紅摺画    を持つて行つたものである、このかるやきを入れる袋が矢張り紅摺、疱瘡神を退治する鎮西八郎為朝や    達磨、木菟等を英泉や国芳等が描いて居るが 袋へ署名したのはあまり見かけないで 他の家では一遍    摺であつたが 私の家だけは紅・藍・黄・草なぞ七八遍摺で紙も柾の佳いのを使用(つかつ)てある、図    柄も為朝に金太郎と熊が居るのや、だるまに風車、木菟等の御手遊(おもちや)絵式のものや 五番斗り    出来て居る(中略)此の絵袋は錦絵として取扱はれて組合に加入して錦絵問屋に名主の印が捺してある    (中略)此錦絵袋を摺るのは 始め深川の江崎屋がやつたが 後に柳原土手うなぎや東屋の先の団扇屋    だつた園原屋でやる事になつた(後略)〟      ◇「版画彫刻の順序」香取緑波 〈彫師 香取栄吉〉〈「丈」を「だけ」と読む場合は「だけ」と直した〉    (字彫・絵彫)   〝 単に彫刻師と申しましても、各々専門々々がありまして幾派にも分れて居ります、これを大別して、    筆耕彫(ひつかうぼり)(字彫) 絵彫との二つになります、此二派が又分れて 仮令(たとへ)ば絵彫の中    にも頭部彫(かしらぼり)、胴彫(どうぼり)とあるやうなものです、で 筆耕彫は山の手に多く居て こ    れは重(おも)に御家人の内職になつて居りました、だから一寸気位ひも高く 随て頭のある人物が多か    つた、これに引かへ絵彫の方は 宵越の銭は持たねへ云ふ生粋の職人肌で 襟附の半纏に帯は平絎とい    ふ風俗ですから、テンデ反りが合ませんでした。     そこで純粋の絵彫と云ふものは近年まで頭彫では彫勇、彫弥太と云ふ二人が残つて居りましたが 前    者は十年斗(ばか)り前 後者は一昨年、何れも故人となつた後は 殆ど錦絵彫と云ふものは絶へて仕舞    まして 今残つて居るのは皆筆耕彫系で、これが絵彫を兼業する有様となりました。    (歌川流の錦絵彫)     先づ今回は絵彫に就いて御話しをいたそうと思ひます、古への春信、湖龍、歌麿、清長、時代の彫方    と云ふものは什麼(どう)云ふ順序でやりましたか分かりませんが、矢張り我々が継承して居る歌川派の    錦絵彫と略(ほぼ)同一であつたろうと思はれます、依てこゝには其手順で御話を致さうと存じます。    (頭部彫・胴彫)   〝 前に云いました通り絵彫の中に、頭部彫、胴彫と分業になつて居ます、云ふ迄もなく頭部をやつたも    のゝ名が這入ると云ふ訳で、例(れい)せば簾吉(れんきち)、彫竹などえ、あれは頭部彫の鏘(さう)々た    るものです、よく一口に「彼奴(あいつ)は胴彫だ」と此社会から卑(いやし)められたもので、誠に詰ま    らない訳で これが本当の縁の下の力持です、そこで可笑(おかしい)のは「かしら彫」は顔面と髪の毛    だけで 若し髷に櫛、釵(かんざし)があれば その分だけは胴彫の管轄に属して居るのです、扨(さて)    これから彫方の順序に移ります〟    (貼込み)   〝 先づ第一、版元から板と版下(草稿絵)を受取る、板は大錦ならば美濃紙大、中錦ならば同二ッ切大、    四ッ切り錦ならば大錦と同じ判で、四丁貼りか、又は二ッ切二丁貼に致すのです。で 此板へ版下を裏    返しに貼込み、横木目で彫る 是れを横彫と称します、尤も縦木目では全然彫れません、即ち縦絵は横    にして、横絵は其侭み彫るので、先づ始めに見当を附けます    (見当)     見当とは摺る時の目安で、板に向つて右の端の下部へ鍵形(かぎなり)と、左の端より二三寸入込んだ    所へ―形(なり)と二ヶ所へ附けます、右の方を「鍵」と云ひ 左の方を「引附(ひきつ)け」と云ひます    (縦絵では是れを尻見当と云ふ)(色板の見当も亦同じ称(となへ)があります)扨彫る時は見当を向ふ    へ廻して反対に右の方を絵の頭にして彫ります、これは何故かと云ふに、元来刀を使ふのに上側を彫る    時は刀の下りた傾斜が緩やかになり、下側を彫るときは自然傾斜が急になります、急になつた所は溝の    ような工合になるから 摺る時自然絵の具がそこへたまります、依つて見当を向ふに廻して彫る、スル    ト摺る時になつて、刀の傾斜が緩やかに成て居る方を自分の手許の方へ廻し、是れに摺刷毛を使つて向    かふへ払ひますから、傾斜の急になつた所に絵の具のたまつて居るのを払ふ事が出来ます、此為に見当    と反対に向かつて彫る理由が生じるので御座います。    (頭部彫)     是れから愈(いよ/\)刀を取ることになります、先づ大概は「頭部彫師」から「胴彫師」へ廻るので    すが 都合に依つて反対になる事もあります、然して手順はどちらでもかわりません こゝには正則に    「頭部彫」より申します。それから毛割(けわり)で、    (毛割)     毛割は(生え際を彫る事で)生際形(はえぎはなり)に切り廻し、先づ富士額の中心より始めて左右へ    割出します、で 髪の毛は地墨の板には彫らず黒潰しにして置き、顔を浚らひ揚げるのです これで胴    彫師へ廻します、胴彫が出来上ると全部墨板の上りとなるのです、    (校合摺・色ざし)     そこで仮にこれを色数十五遍あるものとすれば、生美濃(きみの)へ十五枚校合摺(けうがふずり)をし    て絵師へ廻す、絵師は其れを見て 黄は黄、赤は赤と(色ざし)をする、但し色ざしは都(すべ)て朱を    以てし、是は黄は黄、赤は赤と文字だけを記しつけるので、又白ぬき模様と云つて 仮令(たとへ)ば藍    の潰(つぶし)の中へ模様を白く出すには、其ぬくべき模様を墨で描き現はして他を全体朱で塗り潰しま    す。    (さし上げ)     現今はこれが簡便法として「さし上げ」と云ふ事をやります それは校合摺一枚へ全部絵師が彩色を    したもので それを見本として彫刻師なり、摺師なりが色分けをして 色版を彫刻して摺師へ廻す事と    なりました。    (通し毛(かつら)彫)     又艶墨の板へ始めて髪の通し毛を彫ます、これは頭彫の受持で、つまり頭部は二枚板が入る訳です、    これは絵師が描くのはホンのアタリだけのもので、あとは頭彫が刀の順序を正くして完全なものに致す    のであります。この髪の事を「かつら」と申します、一寸摺師の部に属しますが、最初地墨の上へ鼠を    のせ、それに通し毛の彫つてある艶墨をのせます。故に髪の毛は三度墨が重なる訳です。     次に艶墨のないかつらがある、是は多く武者絵で、かう云ふ時は地墨へ通し毛を彫ります、即ち地墨    の上へ鼠をかけて終るので 須(すべ)て艶墨は摺の最後にかけるもので 其前は多く紅と極つて居りま    すが物に因て艶墨が揚りの事もあります。    (色板)    「一」板ぼかし     例一 数寄屋の羽織なぞは 鼠で全体を潰します、其上へ墨をかける、併し全体にかけては透かす事        が出来ぬから 極く緩やかな勾配に両側より削り下げて墨をかければ 平面に墨が残つて四方        が薄らぐから透いたように見へる     例二 顔の肉色ぼかし、男の部        紅がらで部分だけを前の遣り方で彫下げます        顔の肉色ぼかし、女の部        薄墨、俗に「きめ込みぼかし」とも云つて時色(ときいろ)でやります、これは顔の全体を潰し        に彫つて、目口鼻を彫りぬいて、上部は眉、横は鼻筋からかけて髪の中へ壹貳分程喰込み、下        は小鼻を界(さかい)に彫り下げてぼかします    「二」かけ合せ     仮令(たとへ)ば十五遍の場合に 今一色草色を加へようとするに 色ざしに制限、又はほんの僅か斗     (ばか)りの色の為に手数がゝるを省く為めに、藍と黄を重ねて草色を現はす事で 二枚の板を一枚に     流用する、これをかけ合せと云ふ    「三」正面彫 「とぎ出しトモ云ふ」     これは黒朱子(くろじゆす)の帯、黒半襟等、光沢(つや)を現す時に用ゆる板で、普通の色板は貼り込     む時裏返しにしますが これは正反対に表面を向けて貼るので此名が出ました これは前に云ふ光沢     を現はすにゑのぐを用いずにバレンで画面を摺り磨くからであります    「四」から摺     リンズの鞘形、須(すべ)て白の部分へ模様を現はすもので 模様は普通に彫つてゑのぐをつけずに摺     る故、から摺と云ふ    「五」布目     手拭等につかふので、全体をつぶしに彫つて、その板面に糾(かこ?)を貼り付け ゑのぐをつけずに     摺る      以上で略(ほぼ)絵彫の御話しは尽きたようです〟  ◯『浮世絵』第九号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「広重晩年の狂歌絵本「上」」小島烏水   〝(前略)一つの狂歌本を作るまでには、先づ広告代(がわ)りに「散らし」を配る、その散らしが、美濃紙、    又は奉書の立派な紙に、芝居の狂言外題、又は点数に依つて角力の番付めいたものや、或は金銀の箔を    摺り入れた、錦絵風のものと作り、或は社中、狂歌師の住居を地図に書き入れてまで、配付する、さう    して入花料を決め賞品を広告し、歌の投書処などを指定してゐる。    (『歌江都花日千両』三冊(天明老人撰 国芳・豊国・広重画 嘉永六年~安政元年刊)の場合)     この本を出板するに就いては、毎月二十日迄に、狂歌の投稿を締め切り、翌月の十六日に、日本橋万    町の柏木で開巻したもので、連月一題に就き、判者四人が評し、一評十点以上、もしくは合評して二十    五点以上に登つたものは出板本に載せ、再考を経たものは、特に彩色画上にしるすことにして、入花料    は六首一組で三百文、他人の歌を替歌に、もぢつたものは五十文(凡て何百文、何十文といふのを嫌つ    て、何十穴、何百穴とひねつてある)尤も歌に添えて現金を送らないものは「不浮流ながら御断申上候」    と記してある、歌の投寄処としては、長谷川町の春友亭、麹町平川天神前の楽月庵、赤坂の望止庵で、    狂歌師自身経営の貸席もあれば、茶亭や会席もある、地方からは駿府、上総の連中までが、補助として    加はつてゐる。催主の外に、書記、校合、後見まで、夫れ/\指定して、彩色奉書摺の美本に仕立て、    画の出来から言つても、一体に頽廃した江戸末期狂歌本の中では、先づ取り得のなるものと言つていい。    (後略)〟   ◇「落合芳幾」荘逸楼主人(22/26コマ)   〝(前略)その時代に当つて巧みに世を処しつゝ技を練熟して居たもの 国芳門下の秀才、落合芳幾その    人であつた、俗称落合幾次郎、別号を朝霞楼、一蕙斎また蕙阿弥とも云ふ、筆意は国芳より寧ろ亀井戸    豊国に近かつたが 遉(さすが)に画才と云ふ点に至つては国芳に私淑した証が現はれて居た。(中略)    明治になつて写真を引延したやり方の似顔絵や、俳優の影絵「写真(まこと)廼(の)月花姿絵」三十余番    を出したが、それより功績の大なるは明治八年 同志と共に東京絵入新聞を起して、新聞に挿画を創始    した一事は大に特筆すべき事である。     歌舞伎新報が発行するについて筆をとつたが 此人の似顔絵は国周の筆より最(もう)一層突込んで写    生した傾きがある(中略)豊国から来た国周は奇麗に描き度(た)がつて真に遠ざかるが 此人のは何処    まで写生と云ふ気分を離れない所が佳いと思ふ、後浅草仲見世へ張子製へ縮緬を貼つた美術人形を造つ    て売り出したが(中略)扨時期が十何年早かつたと見えて 売行頗る面白からずで終つた。(中略)    晩年は大に揮はず 明治三十七年二月六日 本所太平町の寓居で没した 年七十二、法名 従善院芳幾    日雄居士 浅草吉野町日蓮宗安盛寺へ葬る(後略)〟  ◯『浮世絵』第十号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 中」相見香雨楼   〝一、歌川一龍(ママ)豊信は豊春の前名か(記者説)〈「一龍斎」。記者とは相見香雨〉    一、歌川豊信は豊春の兄弟か      豊春の兄(本朝画家人名録)      豊春の弟(此花付録 浮世絵師略伝)    一、歌川豊信は豊春の門人か(浮世絵集、浮世絵買入必携)    以上三説 いづれも論拠薄弱にして未だ以て断案を下すわけに参らないのは、太(はなは)だ遺憾である    が、兎も角豊春伝中の一問題として、之を提出しておく〟       ◇「深大寺に於ける河鍋暁斎の画」山中共古   (現住職の談として)   〝狂斎が狩野家を破門されし頃、先住の師のもとへたよりて此寺に数ヶ月居りし其間画きしもの〟    △深大寺住職の居間 群雀の図    △客殿に至る杉戸  巖に蘇鉄の墨画・竹林の図(唐画風のものと狩野の筆意のあるもの)    △庫裏の戸棚    角大師と蝸牛の首曳の図    △太子堂の八間天井 金眼墨龍 落款「狂斎洞郁陳之図画(花押)」     (狂斎と大工との間で天井寸法が共有されず、尾の方の板が二枚入らず)    △太子堂内     数匹の獅子    △長押の裏・内陣厨子の扉 雲形    △門(もん)脇の住居の壁  馬の図   〈飯島虚心の『河鍋暁斎翁伝』によると、狩野の免許を得て「洞郁陳之」と称したのが嘉永二年、養家の坪山洞山の許を    出るのが嘉永五年の十二月をされるから、深大寺に寄宿したのは嘉永六年以降  ◯『浮世絵』第十一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「随筆さがし」焉魚(7/25コマ)   〝前に国芳の風刺画大津絵は二枚続錦絵の外に一枚墨刷あることを云ひしが、錦絵十二枚の春画もあり、    尚ほ左の文書によれば、錦絵の方は数板ありしが如し、流行の盛なること思ふべし。      嘉永六年八月隠密掛より町奉行へ届     今般浅草東岳寺門前嘉兵衛店平助版元にて売出候「浮世又平名画奇特」と題号致候、二枚続錦絵之儀     に付、浮説相立候に付、右板木摺溜共不残、絵草紙掛名主共方へ取上、市中絵草紙屋所持之分共、昨     十六日迄取集売止申付、且類版之分も是亦同様取計候旨、別紙之通、掛名主共、私共迄申聞候間、右     一冊相添此段申上候 以上       丑八月    (別紙)     一 浮世又平名画奇特 二枚続錦絵  浅草東岳寺門前嘉兵衛店 平助       但摺溜百七十八枚、版木二枚     一 右同断 無改重版  長谷川町甚助店      又兵衛                 堀江町六軒町新道仁兵衛店 宇助                 浅草等覚寺門前彦七店   亀太郎       但摺溜、又兵衛分五十八枚、宇助分四十枚、亀太郎分三十四枚、版木二枚三組にて六枚〟     〈(別紙)上段の「浅草東岳寺門前嘉兵衛店 平助」とは、この出版で過料に処せられた版元の越村屋平助。下段の三人は      それに便乗して無断出版した者たち。これも越村屋平助同様、発売禁止、板木摺溜すべて没収となった〉   ◇「雪光斎清元に就いて」兼子伴雨(15/25コマ)    〝 金龍山浅草寺の本堂に掲ぐる、関羽雲長の扁額がある。即ち本堂の左り、魚がしの大提灯に対して右    の方にあたる中央の欄間に懸けられたものが、それである。     筆者雪光斎清元と云ふ人は、鳥居派の画家で、按ずるに清元の画号は、鳥居派の初代清信の父の画号    である、雪光斎清元はこの画号の二代目を襲名した人で、清峰の清満門下とも云ひ、また清長の門弟で    あるとも云ふ。要するに天明文化年中に渡つた画家である。通称は三甫助、或は三郞助とも云ふ。浮世    絵類考には住所を逸して居るが、同派の社中からは小梅の三(みい)さん、と呼ばれて居たと云ふ処から    断案を下せば、本所小梅村の一隅に住居した事は明瞭である。而(そう)してなほ住所を立証すべき材料    としては、向島牛の御前の額殿に、同じ鳥居風で描ける矢の根五郎の額面が、今に保存されて居るなぞ、    愈々清元とは縁故の深い土地である事が想像される。    (古来、関羽像は額を頭巾で覆う図柄とされてきたが、清元は頭巾をかぶらない束髪(つかねかみ)で画     いた。ところが図を見た一老翁がいうには「関羽は生来前髪が非常に短かつた人なので、三軍を叱咤     する場合、大いに自身の威厳を傷つけると云ふので、常に頭巾を借りて前額を蔽ふて居たと伝へられ     る。(中略) 恐らくは其の古事を知らぬ、画家の猿智恵であらう」と云つて大笑いした)     之を後で立聞いた清元は、己の浅学寡聞なるをも顧みず 奇想放逸に奔つた構図の罪を悔ひ、それよ    り鬱々として楽しまなかつたが、終に病を得て没したと云ふ、行年は詳らかならぬが、此の額に自書し    た年齢の七十二歳とあるから之を享年と見ることも出来やう〟   ◇「勝川春好」荘逸楼主人著(20/25コマ)   〝(前略)本姓は清川と云つたが、俗称は菩提所過去帳にも逸して居て唯「勝川孫右衛門養父」と八字し    か記していない(中略)善照寺の言伝へに此春好は其当時の住持と非常に意気が合つて、始終往来し、    晩年中風を病んでからは殆ど寺へ寝泊りをして送つたと云ふ、同人の描いたものも多くあつたが、皆散    逸して仕舞つて只一つ本堂内陣の襖へ蘭陵王を描いたのが残つて居る。これは元屏風であつたのを程経    て襖絵に直したのだと云ふ、左端に「行年五十七歳 春好左筆」として花押がある(中略)     文化九壬申年十月廿八日、浅草本願寺正門内善照寺へ葬つて 法名を釈春好信士(後略)〟  ◯『浮世絵』第十二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「司馬江漢の奉納額」林若樹   〝(前略、芝愛宕山奉納額「相州鎌倉七里浜図」記事)    文化六年己巳には其(奉納額)数九面に上れり、即ち家蔵に木版刷の「ちらし」一片あり其文に    「一江漢先生は蘭画の法を以(て) 日本諸国の風景を写真して 世に知るもの多し 江戸及び京大阪の     市街(マチ)に壁上に張りて鬻ぐ(うる)者あり 皆先生の真似にして営みとす 然共(しかれども)門人     ニあらず 只似たると云者にて 蘭書の法を知らざるものなり 先生既に老年になりければ 描(か     き)おさめに 此度浅草観音の堂中向つて左の方 防州岩国の錦帯橋は唐の西湖とも云べし 川はゞ     百二十五間の処へ橋五ッかけたり 中の三橋は杭なし 先生爰に八日滞留して能(よく)見たり 江戸     の人は見ざる者多し 故に此風景を写して額に掛たり 先生にて始めて製する者 此蘭画と又銅板画     とてあかゞねに自身にて彫刻して 地球の図天球の図を蔵板にしてあり 是も世の人能知る者なり      復亦(また/\)頃(このこ)ろ地転儀とて 天文の書を著す 此天文日本にて未だ開らかざる西洋の書     を訳して珍説なり 則此三品は先生日本創草する者なり         文化己巳秋八月   門人塾徒誌      一 江戸芝愛宕山   始めは七里はま 鎌倉海辺の鳥(島の誤歟)      一 京祇園神楽所   駿州サツタ富士      一 大阪生玉薬師堂  七里が浜のづ      一 奥州仙台塩釜   石の巻之図      一 伊予宇和島和霊  播州舞子のはま      一 土州天神の社   七里がはま      一 芸州宮島     上総木更津富士      一 筑後の久留米天神 鎌倉浦の図       右は先生の画にて大額の分 小額は諸国に多し」    とあり 此チラシ門人の書したる体なれども江漢の文章にして其板下も自身なり。     浅草観音の額共に九面なれども、西洋画談所記京祇園社所掲の和蘭人物図はこれに洩れたり、而して    浅草観音の奉額は亥狄の画法以て霊場を汚すものとの物議を醸し 結局撤去を余儀なくせしめられしと    いふ(中略)     かく江漢の諸社寺に油絵額を奉納したること、一つに売名手段より出たるならんが、当時諸社寺に額    を掲ぐるといふことは容易なることにあらず、就中浅草観音の如き四時参拝人の跡を絶たざる霊場に至    つては、奉納額に附属して納入する金員も少額にあらず、恐らく数十金 現今の価格に換算して千金に    近き失費ならん、然しながら一旦こゝに掲げられ衆目を惹きて評判となれば、無名の士と雖(いへ)ど    一躍大家の班に列して 得るところは失ふところを補ふて余りあること 恰も文部省の展覧会に入選し、    且つ受賞の栄冠を得たるが如き有様ならん、中には全く信仰心の発現に基くものなきにしもあらずと雖    ど多くはかくの如き事情のもとに維新前の奉納額は盛行せしなるべし。     以上掲ぐるごとく江漢の油絵大額の諸社寺に納められたるもの十面以上に及びたるが、其中浅草観音    に掲げたるものは当時間もなく取り去り、愛宕山の鎌倉海辺図も今は存せず、各地の分も大方散逸せし    ならん、其の存亡こそ偏へに知らまほしき限りなれ〟   ◇「歌川豊春と彼が一代の傑作龍口御難図額」下の一 相見香雨焉魚(10/27コマ)   〝 豊春の墓と一族(雑司ヶ谷の本教寺の墓碑と過去帳による)    豊春は明和には既に江戸へ下つて居て、その頃には田所町に住し、同六年即ち豊春三十五歳の年に長男    庄治郎を喪つた。寛政八年頃には中橋へ移つて居て、同年即ち六十二歳の時に妻に別れた、次に文化六    年七十五歳に次男が死に、同十一年の正月七日に娘がなくなつた、即ち妻子四人にみな先立たれた、殊    に娘は豊春よりは僅か六日前に死んだのであるから、豊春の晩年は悲惨なる状態であつたと想像せらる〟    〈明治40年、豊春の墓がある浅草本立寺が雑司ヶ谷に移転する時、同地に同名の寺があったため本教寺と改名〉   ◇「春慶寺の歌碑と豊春の門人」   〝         行年八十歳  二代目     文化十一戌春  元祖歌川昌樹 歌川豊春               歌川妙哥     花は根に      歌川貢      名は桜木に    大野規行         普賢象   歌川豊秀      のりのうてなも  歌川豊国         妙法の声  歌川豊広     右の名前の配列を写本の類考に誤写して、元祖歌川昌樹と歌川妙歌の二名を、歌川貢の前へならべて    かいたのがあつたものと見えて、転写本の類考は大抵そうなつて居る。又活版本の新増補類考もそうで    ある、それから妙な事に解釈せられて、一龍斎豊春は即ち二代目であつて、昌樹といふ別の人が元祖で    あるといふやうなこと思はれたらしい(中略)     元祖歌川昌樹は豊春なること申す迄もなく、妙歌は豊国春の娘であるが、此の娘が老父と扶けて家事    を取まかなつて居つて、門人共とも心易くして居たのが父子殆ど同時に死んだのであるから、追討の為    めに此の女の名も列したのであらう、二代目の歌川豊春なるものは一向に分羅図、此名此碑に厳然と刻    んであるのであるから、当時実在の人物には相違ないが、その伝記も作品も伝つて居ない、或は妙歌の    夫で、画技は拙、又はなくても二代目の名を襲いだものでもあるか(云々)〟   ◇「三世歌川豊国(上)」荘逸楼主人(24/27コマ)   〝(国貞の三代豊国襲名時期について)私は(天保十五年)の正月説に賛成する、これは外ではない二世三    世襲名襲名披露の配り扇が証拠立つて居る、画は島田髷の振袖姿の娘と、裃を着けた児童の図で、これ    へ左の文が添えてある。     睦月七日は師の忌日なれば墓もふでせしに、うからのよりて師の名をつげよとあるにいなみがたく      やがてぞ其意にまかしぬ、野坡うしの句を思ひ出て朋友(ともどち)へかいつけおくりぬ       長松が親の名で来る御慶哉         国貞改二代目 歌川豊国〔年玉花押〕〟    画と云ひ、野坡の句を挙げたと云ひ、此襲名が夏でなくつて春である事は立証すべきもの(云々)〟    〈子供の裃すがたといい、睦月七日の師・初代豊国の墓参といい、はたまた野坡の句を引いて、自らを丁稚奉公の長松     に擬え、一人前になった今は親同様の豊国を名乗って「御慶(新年を祝う詞)」の挨拶をするというのである。やはり襲     名は正月(睦月)なのである〉  ◯『浮世絵』第十四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「芳藤の手遊絵と異(かは)り絵の価値」松村翠山(9/24コマ)   〝 芳藤の描いた絵を見る度に、彼の真価が認められて蒐集家の間に、渇望される機運に到達するのも、    近き将来であらうとは、私が絶えず懐いて居る感想である。彼が浮世絵師として充実した技能を有(も)    つて居た割合に、世人の注意を惹かぬのは、作物の大部分が、児童を本位とした手遊絵(おもちやえ)の    如きもので、比較的印象に残り難い纏まらぬ絵の多いのが影響した為かととも思はれる、然し近頃浮世    絵を扱ふ店より彼の絵を尋ねる人が増加したと屡々耳にするが、夫れは当然の事で 従来顧られずに居    たのを、寧ろ不思議に感じる位である、彼の研究的努力を持つて、浮世絵に筆を執つた当初(はじめ)よ    り手遊絵以外の絵に、全力を傾注させたならば、或は英泉、国芳、広重以上の絵を残したかも知れぬ、    手遊絵師の権威者として残した、優秀なる種々の絵から想像しても、強ち不当の言辞ではあるまい。     芳藤推賞の資料とした二百余種の手遊絵と、六十余種の異(かは)り絵の内、考案の優れたものに就い    て 聊か愚見を述よう、彼の手遊絵は識者の間に定評があつて、実物を得らるれば直に判る事柄である    から、殆んど代表的作物と見倣(みな)されるもの許(ばか)り記す事とする。    『人物士農工商』『湯屋のかざり立』等は孰れも北斎風に描いたもので、江戸時代の風俗が眼前に躍如    として、江戸趣味者の垂涎措かざる逸品である『百面相眼かつら』の如き十二種の眉目を描いたもので    あるが、喜怒哀楽愛憎其他の表情が巧みに現はれて居る、此外『住吉踊かくべ尽』『ほうづきあそび』    『あね様にぼうや尽』『武者両面合』『おひな様両面合』『猫の戯画(たはむれゑ)』(地獄の有様を描    きたるもの)『猫のあそび』(あめ屋しん粉屋おこし売を描きたるもの)『猫の嫁入』『大長屋猫のぬけ    うら』(裏長屋の生活状態を描きたるもの)『鳥づくし』『鳥の商人尽』『毛だもの商人尽』『虫づくし』    『祇園会家座付』『龍宮飾立灯籠』等であるが、図案や色彩は勿論描写の巧妙なる点は 他の手遊絵に    見る事を得ない、就中(とりわけ)『龍宮飾立灯籠』は藍を巧みに使用したもので、龍宮城頭を徂徠する    雲の如きは、北寿の手法に酷似した所がある。     異り絵の一枚ものには本誌へ挿入した『猫の絵』『見立十一段加古川本蔵ンの御姿』『横浜誉の勝負    附』『宝船』『有封絵(うけゑ)の藤娘』『同(おなじく)ふの字尽宝の持込』『麻疹(はしか)送出し』    『麻疹禁忌(いましめ)』等は最も珍なるもので、『五十三次猫の怪』『唐の児が寄り固まつて人となる』    の二種は色彩の工合図柄等師匠国芳が描いた同種の絵より優れたるものである。女絵の『武勇なぞらへ    模様』『東都名所くらべ』『浄瑠璃道行尽』は国芳酷似(そつくり)の絵で 人物の姿態や衣服の模様縞    柄に細心の注意が払はれて居る、三枚続の『本朝舶来戯(たはむれ)道具くらべ』『縁の綱成人鏡』『心    夢吉凶(よしあし)鏡』『見まへきくまへはなすまへ』は『道具くらべ』を除き他は皆教訓的のもので、    『縁の綱』は上部に結ぶの神が寄合つて評議を凝らし、左端に縁切榎を伐り倒す図があり、神の使は赤    縄(ゑにし)を携へ下界に降つて、種々の階級に縁を結び居る図である、『心夢』『見まへきくまへはな    すまへ』の前者は影絵の内へ眼、耳、口の欲望を色摺にしたもので、後者は白地右方の上半部へ眼、耳、    口を現はし同音相通ずる人物器具動物を按排した極めて美しい絵で一枚毎に次の様な絵解が記されて居    る。     「夫(それ)人げんは口が第一なり 口はわざわいのかどゝいふて ばんじつゝしむべきなり ぬす      びとの用心には入口をしめ さかだるにはのみ口をさし 紙入にはつばくろ口をしめ やさしき      をなごの口からも どのよふな事いゝ出すかもしれず よつてばんじ此ゑのごとくつゝしむべき      なり』(原文の儘)     要するに芳藤の手遊絵と異り絵の総べては、彼独特の奇抜なる意匠と緻密なる描法に依りて、孰れも    活躍して居る、而(そう)して各々の絵に付加へてある、絵解の言葉も簡にして味ふべきものが尠くない、    元来縮写をしてなり原形のものを掲載すれば、斯様(こん)な不徹底の説明を要せず 直ちに彼の真価を    認められるであろうが、夫の出来ぬのは主張の半も達せられぬ様(やう)心持もする〟    〈「異(かは)り絵」の例として挙げている『猫の絵』とは、「猫の子の子猫を十九あつめつゝ大猫とする」という賛のある     猫を多くの猫の身体を寄せ集めて描いたもの。芳藤の師匠・国芳の人の顔を人の身体を使って表現した「みかけはこ     わいがとんだいい人だ」と同断。現在では、こうした人や動物を寄せ集めて描いたものを「寄せ絵」と呼んでいる〉   ◇「山崎年信 上」島田筑波(11/24コマ)   〝  年信国芳を崇拝す     年信は東京の人で、父は元千住の青物問屋山崎何某と云ふものであつたが、段々家運の零落した結果、    遂に同所の裏長屋に逼塞してゐた。年信の生れたのは恰度この窮居時代で、俗称を信二と云つて、痩ぎ    すの小男で、何処やら五代目の尾上梅幸に酷似(そつくり)であつたそうな、父は根からの千住ッ児であ    つたが、母は日本橋小田原町辺から嫁に来た人で、実家の姓を井草を云はれた、井草といふ姓は余り世    間に多く聞ない。それについて思ひ出すのは、彼の歌川国芳(一勇斎)これが通称をたしか井草孫三郞    と云つたと聞く、それやこれやを考へ合はすと、どうも年信の母方の実家は国芳の家に縁故のあつたも    のではあるまいかと思はれる、殊に偶然かは知らぬが、年信は平生深く国芳崇拝であつたことも、何処    やら其の間に因縁を引いてゐはしまいかと思はれる。      年信提灯屋の小僧となる     年信は幼い時から武者絵が大好物であつた、寺子屋へ学問をさせるために通はして置くと、いつも手    習草紙へ牛若や弁慶ばかり描いてゐて、一向読書や習字を励まぬので、屡々師匠から父の処へ小言が出    た、父からも、また厳しく小言を云ふべけれども、平気であらためない、そこで父も遂に我を折つて、    それほど画が描きたければ、提灯屋にでも成つて仕舞へと、年信が十一歳の慶応三年の秋に、ぢき近所    の提灯屋へ小僧にやられたのであつた、年信はこゝで足掛け四年奉公して、提灯の紋や祝牌(びら)の画    などの手伝をしてゐたが、その頃年信第一の企望といふのは、毎年二月の初午に稲荷祭りに掛る神事行    灯の画を描くことであつた、或年の初午に掃部宿(かもんじゆく)の若い者に。こつちから頼み込んで、    横六尺の大行灯へ例の国芳流の筆勢に倣ふて、川中島の信玄謙信一騎打の図を描いたのであつた、提灯    屋の主人を始め若い者までが、これは素敵にうまく出来たと称めそやされた、この時たま/\芳年が千    住掃部宿を通つて、不図この大行灯を見てゐると、側にゐた若い者が自慢半分に、どうだいこの絵はま    だ十四の小僧が描いたんだ、偉いもんだらうと云つた、芳年は心中大いに此の少年に望みを属し、其れ    から帰宅後 人を以て提灯屋に交渉して、終に貰受けて門下生の内に加へ 号を年信と命じたのであつ    た。      浮世絵の手本は往来を行く人     年信はその頃芳年の住まつてゐた新橋日吉町の寓所に寄食することゝなつて、芳年が指導の下に孜々    として丹青の業を修めてゐた、芳年は常に錦絵を描くに、先づ其の人物の骨格と姿勢とに重きを置いて、    主にこれを写生から取つてゐた、それは芳年の錦絵を見るとすぐ気のつく事で、描かれた人物いづれも    躍々として活きてゐるのは、蓋し其の用意に基づくのであらう、又芳年がつねに年信に教ゆるに、何で    も活きた人物を描こうとするには、あらゆる写生をやらなくちやいかん、浮世絵の手本は外にない、い    くらも往来を歩いてゐるのがそれだと云はれた、それで年信はその頃しきりに写生を励んだ、劇場、相    撲、撃剣、柔道、能楽、踊、其の他芸妓娼妓は勿論 目に触るもの悉く写生帖の材料としたのであつた、    芳年は年信のこの熱心なるを見て深く愛し、年信の写生帖をば常に其の手許に置いて、一種の興味を以    て眺めてゐたのであつた。      年信師家を蓄電す     芳年の家では毎年の二月、庭中に勧請してある稲荷さんの為に初午祭りを催すのが例であつた。当日    は平生得意にする錦絵問屋の主人、錦絵の彫刻師(ほりし)、刷絵師(すりし)などを始めて、懇意の人々    数十名を招待して大盤振舞をするのであつた。いつも主人の芳年は御自慢の清元を聞かせる、客人の中    から交はる代はる種々の隠し芸が出て盛んに賑ふ、門下生等は今日に限り無礼講とあつて、上戸は羽目    外して呑み、下戸は箍を緩めて喰ふと云ふのが家例に成つてゐた、然るに明治十年の二月初午の日、如    何(どう)した機会(はづみ)か年信は大酔へべれけと成て、平生の気質にも似ず某客に対して舌戦など開    てゐたが、後に飄然として師の家を浮れ出した、而(そう)して三日も五日も更に消息(たより)がない、    芳年を始め家人や門下生等は甚だ心配して、直ちに年信の実家は勿論心あたりを詮索したが一向に明ら    かでない、後に芳年は其の机辺を見るn、曾て芳年が丹精に書集めた写生帖が見へない、扨ては彼れは    兼ねてから逃亡の意があつて、写生帖を懐裡(ふところ)にして逃亡したのであらうと芳年は性急の江戸    子だけ、非常な立腹であつた。      年信師家蓄電の告白     年信が後になつて、その当時の逐電事件に関して、或人に告白した話を聞いたが、かう云はれてゐた、    実にあの時の失敗は恩師へ対して何とも申し様のない不始末でした、別に何の金望も目的も有つた訳で    はありません、全たく大酔の上の無分別からでした、然し師匠の写生帖を持つて出たのは、取返しのつ    かぬ失策で、それがために師匠の下へ帰参することが出来ず、とう/\出奔して京阪に放浪することに    なつたのですと。      年信始めて新聞画工となる     東京を出奔した年信は大阪に赴いて宇田川文海の厄介成つてゐた、恰度その時(明治十年)大阪に浪華    新聞と云ふ絵入小新聞が発行される事になつたので、年信は同社に雇はれて、小説の挿絵を担任するこ    とゝ成つた、抑(そも)そも大阪に於ける新聞の発行はこの浪華新聞を以て嚆矢と称すべく、年信 婉曲    なる挿画は、当時大阪の人士に尤も歓迎されたのであるが、惜い哉時来らず、とう/\この新聞は僅か    一年計りで廃刊してしまつた、この時宇田川文海は浪華新聞と一通の信書とを東京の大蘇芳年の許へ贈    つて、懇々と年信の過失を陳謝されたけれど、芳年からは何の返事もなかつたといふことだ。      年信魁新聞の画工となる     浪華新聞は不幸にして廃刊の悲運に接したけれど、年信の伎倆は幸ひにも、この新聞によつて始めて    関西の人士に認識されたのであつた、それからしばらくして明治十二年に魁新聞といふ新しく絵入ふり    がなの一大新聞を発行することに成つた、主筆は津田貞、記者は宇田川文海、若菜蝴蝶園、小宮山圭介、    半井桃水の諸士で、画工は即ち山崎年信であつた、この時は年信の尤も油の乗つた時代で、一生懸命に    奮励されて、毎回新意匠を練り奇想を凝らして、曾て師の訓導によつて得たる例の写生風の密画を作つ    て、これを木彫家として知られた藤村某の手により、精巧なる木版として、新聞に組入れたので、第一    に其の画の美麗なるのが何よりの評判となつて、発行当時の印刷高は殆ど万を以て数へる程であつたの    は、当時としては実に盛況の有様であつた、以て当時に於ける年信の得意思ふべしである、年信はこの    時主筆の津田聿水から仙斎といふ号を与へられ、仙斎年信と称した、その頃年信の描いた画看板が、現    に大阪東区淡路町の立志堂といふ薬屋に残つてゐる〟   ◇「天下一乃げん」扇の舎主人(19/24コマ)   〝 なんですつて絵彫(ゑぼり)の者の伝記が聞きてへつて、什麼(どう)も吾等(わつちら)の手輩(てへゑ)    に そんな気の利いたもナア落つことして置きませんや 唯ネ親父から聴いた咄だが 心持の宜(い)い    男が一人居ました、夫れは天保の末から慶応へかけた事で、芝源助町に絵彫で乃(の)げんと云ふ男があ    つて 是が頭彫(かしらぼり)の名人、今時よく一口に名人だなんて云ふが、吾等に云はせると、名人な    んて云ふもナア、そうヒヨコ/\と吹矢の化物見てへに 飛出して堪るもンヂャァねへ、第一仕事にも    寿命がありまサア、先什麼(どんな)達者な野郎でも二十五から四十迄で、それから過ると情けねへ事に    ヤア、目が悪(あが)る 腕の冴が鈍くなる、例へば線を彫るにもしろ、斯(か)ふ一本入れた刀が四十か    ら以上(うへ)になると、生々(いき/\)した所がなくなちまふ、だから親方となると年は寄る、職は弟    子任せとなるから腕が鈍る、そこを名を落さねへようにするには 人の使ひ別(わけ)を巧くするので、    彼奴(あいつ)に頭をやらして、此奴(こいつ)に字彫と云ふ工合に その人間の得手(えて)/\を見て     仕事をやらせる、其使ひ分けを宜く、つまり仕事はしなくても仕事を見る目がありやア、彼奴は上手だ    と人に云はれる事になるんです。     オヽその用箪笥の二番目から 紙に括(くる)んだものを出ねへ……それだ……御覧なせへ、これが今    云つた、乃げんの彫つた豊国の江戸名所図会で、板元は人形町の伊勢忠です、此所(こゝ)へ雛形に出し    たのは背景(うしろ)を略(ぬか)したが、上部(うへ)のところに見立名所絵がある、例へば四谷新宿なら、    大木戸を見せると云ふやうな工合です、今の奴(やつ)がどんなに歯軋りをしても、かう厚ぼつたく彫れ    ません、と云つて決して現今が拙くなつたと云ふんぢやアねへんですぜ、其所(そこ)を聞違へられちや    ア困る、どうして今の方が昔から見りやア 遙かに巧みになつたが、そこだ、宜いかへ、器用上手と名    人とは違ふよ、此方の画と比較(くらべ)て御覧なせへ、斯ふボツテリとした味(あじゑ)へは 御気の毒    だが足元へも追つ付かねへと云ふ わつちなぞもモウ目が悪(あ)がる、刀も冴へなくなつたが、憚(は    ゞ)ッちながら識見(みる)と云ふ目は例(たて)へ百歳(いつそく)になつても耄碌はしませんぜ(後略)〟    江戸名所図会「二十 内等新宿」豊国画 彫〔乃げん〕伊世忠板 嘉永五年刊    ◯『浮世絵』第十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「山本理兵衛」相見香雨(5/26コマ)   〝(北野天満宮の絵馬の山本理兵衛について)    応挙門人亀岡規礼の家の過去帳に(亀岡家の過去帳に山本家代々の記録あることに就ては理由あれども    今省略する)     山本素程、諱守次、称釣雪斎、俗名理兵衛、画を探幽に学ぶ、叙法橋、延宝二年十一月廿日死    とある、右の絵馬の山本理兵衛なるものは、恐らくは此の山本素程のことであらうと愚行する〟   ◇「喜多川哥麿の美人画」(6/26コマ)   〝拳の仕合をして居る二美人の画は、浮世絵の大家喜多川哥麿の筆であると知りたまへ「素人画にも劣る    鬢の張つた丸顔の女、哥麿がこんな画をかくものか」と呆れる方々もあるでせうが、正真正銘の哥麿筆    に相違ないのであるから面白い(中略)彼がマダ老熟に至らない少壮の頃「北川豊章」と云つた時代に    は、こんな平凡の画をかいたのである、安永初年頃発行の『見物太衛門』と題する黄表紙に此画が載つ    て居る(画像あり)〟    〈「国書データベース」の黄表紙『東都見物左エ門』(松壱舎作・北川豊章画)画像(12/14コマ)に同じ図様が出ている。     但し刊年は安永初年ではなく。安永八年となっている〉   ◇「細見の標題と其の絵画(四)」東華楼(9/26コマ)   〝(羽川珍重画、吉原座敷遊興の図について)    此の絵の中の鴇母(やりて)の八の字である、斯(かゝ)る場所に於てすら尚額上に八字を絶さない所を見    ると 能く能く底意地の悪い結晶体を見える、由来鴇母を画くに八の字は最も必要のものらしい〟   ◇「大蘇社中順序録(月岡芳年門人)」(12/26コマ)   〝斯く題せる紙片を獲たり、左に其全部を掲出す、但し雅名の下に記入せる姓氏は本編輯者の追加せるも    のなり     年晴 野阪氏  年麿 布施氏  年景 後藤氏  年次 中山氏  年秀     年延 木藤氏     年一 晴斎   年豊      年明      年種 尾崎氏  年光     年広     年長      年重      年参 小林氏  年親      年直 稲垣氏 年保     年雪 新井氏  年隆 高橋氏  年忠 島根氏  年信 山崎氏  年清     年久 阪巻氏     年丸 福島氏  年華 尾崎氏  年英 右田氏  年季 藤田氏  年洲     年之 服部氏     年人 柴田氏  年挙 桂氏   年昌 枝氏   年甫 竹内氏(桂舟)     年寛 西井氏     年章 中沢氏  年邑 中村氏  年香      年峰 筒井氏  年祥 枝氏  年玉 阪巻氏     (大阪)     年基 高橋氏  年正      年信 田口氏  年梅 年信初名 年光 大月氏    以上の外に松井年葉、青木年雄、斎藤年魚、年重、年充、年茂等あるに、これに漏れたるは、此人々入    門前の順序録ならんか〟   ◇「似顔絵応用の猪口」桃花坊(16/26コマ)   〝化政の頃から明治二十年頃迄の間の、各種の報條(ひきふだ)を集めた帖中に、左記の如き一片がある      新製 役者似顔錦手猪口 画師 歌川国貞筆      土器(かはらけ)は時代めき盃もまだかたしと 三味線箱と諸共に必ず出る猪口の流行 今文政の製た     るや 嘉靖万暦も物数ならぬ平戸今利を取よせて 東錦の似顔絵を其まゝに焼かせなば 御口にあは     んと計(もくろみ)て 彼国貞へかけ付三盃 なか/\拙画御道具には思ひもよらずとひら断り じき     をするのは上戸の癖 是非に/\と無理強(むりじひ)におさへて 五枚三枚づゝ絵冊子絵本の版下の     間の又間付ざし 色ざし取込さなかに漸々と此度焼あげ候間 こゝへも十枚二十枚いくへも重て御用     のあとひいきの役者の御注文被仰付候様 偏に奉希候 已上       永寿堂にかはりて   柳亭種彦述      製所 絵草紙問屋 江戸馬喰町二丁目角  永寿堂 西村屋与八   ◇「偽の菱川氏」宮武外骨(18/26)   〝(前略)正保の頃に菱川孫兵衛といふ画工のあつたと云ふ事は、先づ疑問として置いて、我浮世絵版画    の祖と称すべきは菱川師宣である。此の師宣の系統を引いて正真の菱川氏と見るべきは、菱川葉師重と    いつた古山師重を始め     菱川師房(もろふさ)  菱川師永(もろなが)  菱川師平(もろひら)  菱川師喜(もろよし)     菱川師秀(もろひで)  菱川師盛(もろもり)  菱川師寿(もろひさ)  菱川師興(もろおき)     菱川政信(まさのぶ)  菱川新平(しんぺい)  菱川和翁(わをう)   菱川さは     菱川友宣(とものぶ)  菱川友房(ともふさ)  菱川友章(ともあき)    此十五名である。    (中略)    偽の菱川氏を調べ上げて見ると、左の十一名ある     菱川政信    文政九年発行、東里山人著作の人情本『傾城胸中極秘伝』及び同十年発行の同作『珍説豹の巻』の挿絵    者として「江戸画工師菱川政信」(印文は「信」の一字)と書してある、画祖師宣の門人に菱川政信(字    (あざな)は主節)があるに、其氏名をソツクリ名乗るのは何故であるか、甚だ曖昧の者と云はねばなら    ぬ     菱川宗理    浮世絵界の大立物葛飾北斎の前名である、これをイカサマ者として罵倒するのは可哀想だと云ふ人もあ    るか知らないが、菱川氏に縁もゆかりも無くて、デモ時代の天明七年から寛政十一年まで菱川宗理と名    乗つたのは不埒である、シカモ其氏名を俵屋宗二に譲り渡したなどは罪が深い    〈岩波文庫の『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の校注者・鈴木重三氏によると、春朗(葛飾北斎)は俵屋宗理とは名乗っ     たが、菱川宗理とは名乗らなかった由、下出『葛飾北斎伝』p43参照〉     菱川春童    天明元年の『見た京物語』に菱川春童画があつて勝川派の画風に似て居る、同三年の『通詩選諺解』に    は「菱川春童が『大通山入』云々」とある、勝川春章の門人蘭徳斎春童が、初め偽の菱川氏を冒して居    たらしく想像する     菱川柳谷    春章の門人勝川春喬、後に柳谷と改名して菱川柳谷と署名せる錦絵がある、勝川派から離れて独立しや    うとしたので無く、多分何か悪事があつて、師匠から破門された不埒者であらう     菱川清春    『銀河草紙』に彩色の挿画がある菱川吉左衛門清春、京都に居たが後紀州に転じ小野広隆と改めて『紀    伊国名所図会』の細密な挿画を描いた、それに「瞱斎菱川清晴画」と麗々しく署名して居る、何処の犬    の骨か猫の骨か分らぬ     菱川師種    天保五年に京都で発行した『鬼霊論』に師種画と署した挿画がある、前記の菱川清春の門人であつた者    が菱川師種と号して居たのではあるまいかと疑ふべき点がある     菱川師信    『画乗要略』に「菱川師信、通称は長兵衛、善く邦俗の美人を写す、艶態柔情一見して能く人心を動か    す」とあるのは、師宣吉兵衛の誤記であらうと思ふが、文政元年発行の『五体千字文大全』奥付の広告    に「永花百人一首、絵抄入、菱川師信筆」とあり 又『好古事彙』に「菱川師信」の印章が出て居り、    先年京都で開いた大和絵展覧会にも同名の肉筆画が出て居た、いづれもナマ物識の誤記や贋作らしい     菱川一貞    菱川一貞画と署名せる摺物絵があると聞いたのみで、マダ実物を見た事はない、ドーセ、ロクなもので    もあるまいが、英国出版の『日本の彩色版画』中に菱川一貞(KADZUSADA.HISHIKAWA)と出て居る、伊太利    のジプシーが知らぬ他国でモテル類か     菱川玄魚    宮城玄魚と云つちやァ、明治維新の前後、意匠家の名を博した江戸ッ子であるに、此子も亦イカサマ者    の仲間と見ねばならぬ証拠物がある、それは文久元年発行の「からみ鳳巾(たこ)さきがけ双六」に達磨    の絵を描いて「菱川玄魚筆(呂茂)」と署してある     菱川師福    今年五月発行の『女の世界』に出て居る「福井五人女」の記事中に「越前福井で最初に新らしい女の名    称を戴いた女に菱川知子といふのがある、彼女は福井市新屋敷に住んで居る浮世絵師菱川師福の長女で    ……」とある、此師福は先年東京の絵画共進界会に出品した事もあるが、浮世絵師といふも実は贋物画    を専門として居る画工で、柳里恭の画を摸する事が最も巧妙であると聞く、関新吾が福井県知事時代に、    福井の住人だからとて菱川師福といふ名を付けてやつたのであるが、前は福井在松岡村の提灯屋であつ    たので、誰も菱川師福と呼ぶ者はなく、今に「提灯屋」と渾名されて居る    覇権を執るほどの技量もない浮世絵界の野武士供、ザツト右の通りである〟  ◯『浮世絵』第十六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「一教斎芳満小伝」兼子伴雨(12/23コマ)   〝 芳満、姓は犬飼、幼名健吉、通称を松屋平兵衛と呼んだ 天保八年四月二十日、神田久右衛門町二丁    目代地に呱々の声を挙げたのである、親父は松屋平兵衛と云ふ上絵師で、其の四子三男に当る、芳満の    長じて幼稚の時代、指を家職の画に染めて、座右の器物から果ては武者人形なぞを描きなぐるので、嘉    永元年四年、即ち芳満の十二歳の時、浮世絵画家の巨擘一勇斎国芳の門下となつた。後年一教斎芳満と    名乗り、版下絵に筆を執つたは、実に此時に起因す、世上には一散斎と流布して居るが、是れは画類考の    誤写が転々訛伝せられたので、一教斎でなくてはならぬ。     国芳が画塾に於ける芳満は頗る茶目であつたと伝へられも、同輩には芳藤、芳艶、芳幾、芳員、芳房    なぞの茶目連時を同じうして、師匠の留守になると、芝居狂の芳満は、同趣味の兄弟子芳幾を教唆して、    能く芝居ゴツコを演(し)て遊んだとある、一日芳満の義村、芳幾の時姫、芳艶の高綱、で三代記を所演    したが、高田六郎に扮した芳藤が躓づく機会(はづみ)に壁を抜いて、施す手段がなく、師匠の帰宅後、    一同大叱言を喰つたと云ふ、逸話さへ伝へられて居る。     家職の関係もあらうが、芳満は構図よりも、彩色が上手であつて、社中芳艶と俱に併称される程の名    人であつた、壮年の頃は一枚物の版下画なぞを執筆した事は、第一図によつて証明される、後に家職を    継ぐ運命となつたので、浮世画師を断念して、晩年を上絵師で送つた、第二図に示す帛紗は即ち其の作    品である。     明治十六年九月、芳満の松平は、市村座で五代目菊五郎が『今文覚助命刺繍』で、文治と云ふ役名の    もとに、大詰瀧壺の場で子分二人を合して、文治は不動尊に、子分二人は制吒迦(せいたか)童子と矜迦    羅(こんがら)童子の宛込みの見得があり、三人が各自の肉襦袢へ、その青剳(ほりもの)のあるのを着て    登場する脚色(すぢ)なので、此の仕事を芳満が引受けた、さらぬだに芝居狂の芳満は幾日を重ねて丹精    入念に仕上げ、一見実物と些(すこし)の変る処を見出さぬ出来栄に、凝り性の五代目は舞台へ着て登場    する事が惜しくなり、複品を今一番拵へて貰つた位だと云ふ。     這麼(こんな)縁から明治十九年五月、新富座所演の『水滸伝』瓦灌寺の雪のだんまりに、九代目団十    郎の九紋龍、先代左団次の花和尚の肉襦袢も、芳満が請負つた、理窟から云へば時人綽名して九紋龍と    呼ぶほどであるから、全身に九ッの龍を描かなくつてならない道理であるが、見た眼から云へば九ッの    龍を描くは細微に渉り過る嫌ひがあるので、此の事を団十郎に謀ると、遉(さすが)に画筆を嘗(ねぶ)る    俳優だけあつて、最もだとの同意に、芳満が粗放簡略した構図は両胸へ一疋づゝ、背中へ二疋の龍を描    いて送つたが、登場した処を見ると非常に引立つので、私彼の意見が合して居た事を、時折は話柄に上    して誇つたさうな。     芳満別号を円阿弥(まるあみ)と云ふ、是れは藤沢の遊行寺へ参籠して、金屋笠仙なぞと一緒に授与さ    れた号だと云ふ、又た俳諧に遊んで孤山堂卓郎(矢倉の位)の社中に入り、唯紋(ゆもん)と呼んだ、詠    草の二三を紹介する。        明治二十九年春(旧冬)市川団洲、暫くを演ずる由をきゝて      明けまして先づ暫くと年玉をさし出す顔も赤き筋熊        明治三十年八月二十一日、森田勘弥死去を告げ来りしに      白露や田守は家を捨てて行く        団洲追討に      秋風にかれても後や名取草        此歳六十一の春を迎へて      六十を下からよめば十六の武蔵の国のわれは江戸子        墨水の昔も今は哀れにて、三囲辺の田畑は皆人家と変りて軒を並べ、芸者屋の角灯、煉瓦の煙        突立は、紺搔の草汚れ悪太郎あり、風景を汚し、只俗人の巣窟おとなり五十年の昔をこゝに悲        しみなん      かり初めの名のみや花の角田川     右の歌句を読むと、芳満はチヤキ/\の江戸子たるは勿論、風流家で、各所は破壊の憤慨家でもあつ     た、左に載せる芳満が生前の遺物『発句控』と云ふ冊子を見ると、その外題の肩に「辞世あり跡にて     読むべし」と誌し、巻中を繰ると巻末に        存命中に覚悟の辞世を詠み置くもの也       春 身ふるいをして立つ雁を旅の連れ梅も散り花も見て候穴賢       夏 短夜に見残す夢もなかりけり       秋 空と水まことの色ぞ今朝の秋       冬 まづ是れで巻納めなる暦かな    と四季の五句を誌し、子孫をして辞世のお見立を勤めさせやうと云ふ、江戸式の暢気、換言すれば八変    人式の気分があふれて、死後迄が茶気満々、得脱悟道にも這入(はい)つて居る 明治四十二年二月十八    日、行年七十三歳で没した、法名は鶴翁平林居士 駒込東片町 禅宗養昌寺へ埋葬した〟  ◯『浮世絵』第十八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「版画の形状」(7/25コマ)    <大判>    大判   竪一尺三寸(39.4㎝) 横九寸五分(28.8㎝) 墨絵・紅絵    (空白)  竪一尺八寸(54.5㎝) 横一尺  (30.3㎝) 丹絵    竪大判  竪二尺五寸(75.8㎝) 横九寸五分(28.8㎝) 墨絵・丹絵・漆絵    横大判  竪一尺  (30.3㎝) 横一尺五寸(45.5㎝) 墨絵    (空白)  竪一尺五寸(45.5㎝) 横二尺二寸(66.7㎝) 漆絵・浮絵    大錦   竪(横)一尺三寸 (39.4㎝) 竪(横)八寸七分 (26.4㎝)         竪続き(大巾二枚続きと称す)横続き(二枚以上の続物也)    間錦判  竪一尺一寸(33.3㎝) 横七寸五分(22.7㎝)(大錦と色色紙との中形)    色紙判  竪九寸  (27.3㎝) 横七寸  (21.2㎝)(一名を中判ともいへり)    <長絵>    柱掛   竪二尺二寸(66.7㎝) 横四寸内外(12.1㎝) 漆絵・紅絵・錦絵    同幅広  竪二尺三寸(69.7㎝) 横八寸  (24.2㎝) 漆絵    幅広長絵 竪二尺三寸(69.7㎝) 横五寸内外(15.1㎝) 漆絵・紅絵    細絵   竪一尺内外(30.3㎝) 横五寸内外(15.1㎝) 丹絵・漆絵・紅絵・錦絵    短冊形  竪一尺三寸(39.4㎝) 横二寸七分(8.2㎝) (大錦竪三ッ切なり)    小判   竪五寸六分(17.0㎝) 横七寸三分(22.1㎝)(同横半截及四ッ切あり)〟   ◇「鳥居清貞小伝」兼子伴雨子(14/25コマ)   〝 清貞は通称長八、幼名を松次郎と云つた、姓は斎藤であるが本姓は渡辺氏である、寿永堂主人、蝶蜂    の戯号がある 弘化二年神田小川町に生れ、長じて同明神前西町質商越前屋の養子となつたが、其の業    を厭ふの説なりしかば、養父も遂には志しの奪ふべからざるを知つて、清貞が望みの如く、井草国芳の    門に入らしめた、時に十三歳である、而して雅号を芳郷と呼んだ。     後に二世清満の社中に転じて、専ら鳥居派を修めて居ると、一日清満とは深交の間柄である豊国が来    訪して閑談のすゑ、話は芳郷が画才に敏なるに移り、清満は頭の一字、豊国は前名国貞の貞を与へ、合    して清貞の画号を贈られた 慶応三年 神田旅龍町小鳥商斎藤氏の長女と結婚して、四代目長行と改名    して、暫くは四海波穏かに平凡の月日を送るうち、時世は王政復古となり、稼業の得意たりし在京の諸    大小名は本国へ帰郷すると云ふ状態に、忽ち職を失ふ困難に陥つたが、幾干(いくばく)ならずして高木、    高浜の両人が日本橋久松町へ喜昇座(現今明治座の前身也)を建設せんとする計画に会し用ゐられ、座    方の奥役を任ぜられたが、事を処するに当つて明快な処から、抽んでられて重要の置位(ちゐ)をしめ、    以後太夫元も幾度か変り、座名も喜昇座から、久松、千歳、明治と改称されたが、清貞は依然として奥    役を勤めて居た 傍ら同座の絵本番付を描いた。     明治十三年八月、喜昇座は木の香高く美々しく新築はされたが、此の時代劇界には覇王守田勘弥があ    つて、一流の名優は新富座に網羅されて居るので、喜昇座の初開場は勢ひ亜流の俳優を集めて興行する    より外に途がなかつた、勘弥に交渉して一流の俳優を借入れやうとすれば、法外の給金を請求すると云    ふ有様に、座方の人々は持余し、さりとて幸先きを祝ふ舞台開きの興行を、二流どころで明けるのはと、    一同鳩首して大困難の体であつたが、独り清貞のみは成算があつた。     清貞の腹案は斯(か)うである。即ち都下に俳優を求めず、遠く大阪に俳優を求めた、当時江戸の出身    でありながら滞阪修業中の市川九蔵(故人団蔵)、助高屋高助(今の宗十郎の父也)の両人に、中村翫雀、    同伝五郎、尾上多賀之丞、老巧なる尾上多見蔵以下数十名を上京さして、花々しく初開場をなし、満都    の人気を集注した、又た一年(ひととせ)五代目菊五郎と守田勘弥とのあひだに意志の疎通をかいた事が    あつた 早速清貞は菊五郎を訪問して久松座へ出勤の約を整へ、地方へ巡業中の九蔵を呼び席(よ)せて、    盲(めくら)長屋、御金蔵破り、鵜飼燎(うがひのかゞやき)等釣籠(つるべ)打ちに興行して、開場毎に大    入客止の盛況を呈したので、新富座に対抗する衆寡敵せざるの文字を、恰も無盾(むじゆん)せしめた感    がある。されば勘弥は己(おのれ)の秀吉に設令(たとへ)、清貞を評して「憎さも憎し本多忠勝よ」と云    つた位である。     何故に清貞は斯道の人となりながら、看板番付に筆を採らなかつたかと云ふと、六代目清満の家計が    豊かでなかつた為め、清貞は是れを憚かつて揮毫しなかつたのみか、屡々(しば/\)先師の徳を慕つて    内助した事もある、五代目清満の妻は謝する辞(ことば)がないとて清信、清峰等の画名を贈つたが、憗    (なま)じに故人の高名を継いで瀆(けが)さんよりは、清貞の名がけつく気楽だと称して終身名乗らなか    つた、陰に陽に同派の為めには尽して新作(かきおろし)の狂言の上場さるゝ毎(ごと)には、六代目清満    から相談も受け 時には補筆をした事も少くなかつた、明治三十四年二月十四日、日本橋蛎殻町の自宅    で病没した〟   ◇「山崎年信(下)」胡蝶園(18/25コマ)   〝△「年信の洒落」    年信は元来無口の男で、平生めつたに無駄口を利かぬ男であつた、信(のぶ)さんお早うと人が云へば、    お早うと挨拶する、好い天気ですネ、と云へば、好い天気ですネ、と鸚鵡がへしに返事をする、信さん    この酒は上等だらうと云へば、イヤ上等ですと同じことをいふ、甚だ無愛想なやうに聞えるけれど、其    顔や眼口に何ともいへぬ愛嬌のあるので、謂はぬは謂ふにまさるほどの人徳を具へてゐました。或日烏    森の一筆庵可候の家で例の如く画を描いてゐると、俄に大夕立が降つて来た、つゞいて雷鳴が轟ろいて、    雷光がぴか/\と閃いて来た、一筆庵の妻君は元来の雷ぎらひで、ソレ信さん雷さまが鳴るぢやないか、    早く線香を立て蚊帳を釣つておくれよ、といふので、年信先生起て夜具戸棚を探(たづ)ねたれど更に蚊    帳の姿が見へぬのである、一筆庵先生は自若として、信さん蚊帳はそこには無いよ、余処(よそ)の土蔵    に預けてあるのだ、といふト、年信曰く、それでは蚊いぶしを焚きませう。    〈蚊帳が雷除けなら、同じく蚊を追い払う蚊いぶしだって雷除けにならないはずはないというのである。一筆庵可候は     明治の戯作者。年信がこの人の作品の画工を担当したかどうかは未確認〉    △「年信の扇面美人」    ある日津田聿水(いつすゐ)氏の曾根崎の別荘に諸文士の小宴を開かれたことがあつた、年信も其の席に    侍して盛んに玉盃を傾むけた、宴は酣(たけなは)になつておの/\隠し芸などの賑はひがあつたが、年    信はたゞ大盃を献酬するばかりであつた、津田の奥さんは一巻の白練を携へて年信の前へ来りて、年信    さん是れへ何か描いて下さいよ、と願ふた、満引辞せず酒気勃々の年信、忽まち水筆を呵して、一個の    背面美人を映し出したのであつた、これを見た聿水氏は非常に其の筆勢の清楚にして艶雅なるを嘆称し    て、更に玉盃を挙げて氏にすゝめて、自からも筆を執つて左の如き讃字を記されました。     「この女をこちら向したら嬉しからうナア、否(い)や、こちら向ひたら庫の家根に雨が洩る、よし      や世の中それとても誰れに近江の床の山、泣いて別れのきぬ/\に、朝妻船のこがれ/\れ、袖      に浪こす折もありなん、エヽまゝよ余所(よそ)の恋じやもの        見かへらん笑はゞ国もかたむけむ たゞこのまゝが如菩薩の慈悲」     〈津田聿水は『大阪朝日新聞』(明治12年1月創刊)の編輯主幹〉    △「年信祇園の玉龍に愛せらる」    年信が大阪の『魁新聞』に筆を執つてゐたころ、京都の加茂川の納涼(すゞみ)の光景を見て来たいと飄    然京都に遊びに出かけました、氏は始めて四條あたりの納涼の光景を見て、其の掛茶屋の結構や、芸子    や舞子の華奢(きやしや)な優美な風俗を写生せんものと、自分も河原の掛茶屋に腰を掛け頻りに彩筆を    運(めぐ)らしてゐますと、其の臨席の掛茶屋に芸子と共に納涼んで居た客はそれとも知らず、何か怪し    い者と思つたのか、大の男二人は跳(おど)りかゝつて年信を引とらへ、無(む)二無三に打擲に及んだ、    而(そう)して年信は無残や河原の流れの中へ突き倒されたのです、此時その隣りの掛茶屋に納涼んで居    たのが 玉龍といふ土地で姉さん株の芸子が此の体裁を見て気の毒に思ふて、其の夜 氏を自分の屋形    へ伴(つ)れて帰つて 厚く手当を与へて介抱されました、氏は玉龍の厚意を謝して、二三日同家に養生    して後 大阪へ立戻り、更に極彩色の美人画を描き、此を礼物代りに玉龍の許へ贈つた、これより氏は    玉龍とは非常の懇意を結びて 屡々(しば/\)玉龍の許に出入し、殆ど旧知のやうに氏を奨(すゝ)めて    数帖の美人画を描せては 是れを懇意の料亭や芸子の友達に頒けては数十金を作り、氏の一杯の料に充    (あ)てたといふことである。今も尚ほ祇園先斗町辺の料亭には 折りに触れては年信の美人画を見るこ    とがあると 某人の語られたことがあつた。    〈『魁新聞』は明治13年8月創刊、翌14年8月廃刊〉    △「年信土陽新聞に雄渾の筆を揮ふ」    土佐の高知に発行された土陽新聞は、当時板垣退助の薫陶の下に経営された自由党の機関新聞であつて、    所謂自由民権の唱道者と自任し、其の勢力は四州を圧する程の概があつたのでした、土陽紙の記者阪崎    紫瀾氏は土藩の志士にして 天下の奇傑と呼ばれた坂本龍馬の伝を記すについて、前の魁新聞の画士と    して世に聞えた仙斎年信を聘して、其の挿画を担任させたいと頼んで来た、氏はこの時大阪に在つて     例の如く浪人生活の境遇であつたから、直ちに其の聘に応じて高知に赴任することゝ成つた、氏の高知    に到着するを俟つて 紫瀾氏は土陽新聞紙上に『汗血千里之駒』と題して、坂本龍馬の伝を連載された、    その文の痛快なる其の画の雄渾なる、人咸(み)な双絶を以て喝采されました、氏は大いに土陽社の為め    に愛遇せられて、高知に滞留するこ稍や二年有余で、再び大阪に舞もどつて、例の如く宇田川文海氏の    居候となり、晩酌一杯に舌鼓を打つて快哉を叫んで居たのでありました。    〈『汗血千里之駒』(坂崎紫瀾著)の『土陽新聞』連載は明治16年1月24日~9月27日まで〉    △「年信の画料一百円」    仙斎年信が得意のうち、節季に押つまつた年の暮れに、年信は祇園の玉龍に招かれて京都へ出かけた、    玉龍の屋形に予てから年信が来るであらうと 奥の間には雪のやうな白縮緬の長襦袢のえば縫ひに為    (し)たのが、其の数十枚麗々しく床脇に飾つてあつた、玉龍は例のやうに年信に酒肴を侑(すゝ)めてか    ら「信さんこの長襦袢は僉(みん)な あたい達の春着どすエ、この内三枚は墨絵の龍、その外はあんた    のお好みで宜しいのよ、旨(うま)う書いてお呉やす」といふ註文であつた、年信は玉盃を傾けながら    「よーがす」で快諾(うけあつ)て四五日の後、墨痕陸離たる雲龍の図を描いてやつた、玉龍はこれを見    て大いに歓んで、金一百円を封じて、氏の潤筆に贈つた、年信は其の一封を懐裡(ふところ)にして、飄    然蛸薬師町の都せんべいの見世に立寄つて、ハイこれは御歳暮です〟  ◯『浮世絵』第十九号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵を題材とした俳句」田中案山子(14/27コマ)   (大津絵)   〝追分の絵仏に後世を打任せ  土山  林    大津絵に回向して行く鉢敲き 名コヤ 一雕(以上『誹諧日本国』より)    大津絵の筆のはじめは何仏  芭蕉    藤かさす人や大津の絵の姿  許六    十八の鬼もむかしや寒念仏  蓼太    振袖のむかし短し藤の花   同    打折るやつのも氷の寒念仏  其角     大津絵四幅に 鬼の角一本折れたる図    一本角がおれたら頭巾かな   也有    虎の皮やめてふどしの寒さ哉     お霜月鬼に衣も似よふとき    黒塚や野分に荒れて奉加帳     鬼の衣着て奉加帳さげたる絵に     鬼ゆりも見ならへ芥子の坊主振 也有    寒念仏豆にうたれて仕舞けり    大津絵の鬼も衣も肌寒し    柊の門や奉加も直通り    柊のさゝぬ内をさかりや寒念仏〟   (浮世絵)   〝 遊女小紫をかゝせて讃望まれしに    藻の花や絵にかき分けて誘ふ水  其角     源氏の絵に    傘持も月におくるゝ姿かな    其角     女達磨賛    雪にいさほれた心を持きたれ   蓼太     故市川梅莚暫の図    三日月や寒紅梅の角蔓      蓼太     月に時鳥に遊女の立てる画に    笄を花に鳴くらんほとゝぎす   蓼太     遊女画賛    野ざらしのあら美しや秋の月   蓼太    枝ぶりの日に/\かはる芙蓉かな 芭蕉     英一蝶が画に讃望まれて    四五人に月落ちかゝる踊りかな  蕪村     武者絵讃    御所柿にたのまれ顔の案山子かな 蕪村     鎗持の画に    遣るまいぞどつこいそこの時鳥  一茶     何かし菱川の絵に讃このまれて    石竹やつらりと並ぶ小傾城    毛紈     遊女の絵に    との方を思ふて居るぞ閨の月   鬼貫     吉野小紫の姿絵に    懐に顔半分の雪夜かな      立吟     女の傘をかたけたるに    誰かまことより傘さして初時雨  也有     傾城のひとり立ちたる図に    蝶々の禿もつかずをみなへし   也有     蚊帳に女の絵に    こぬ人につられて広き蚊帳(かちやう)かな 也有     川わたり布袋に    鷺に似ぬ足を小鮎に笑ひけり   也有     鍾馗の女を負ひたるに    顔に似ぬ花は木うりも背負ひけり 也有     傾城の絵に    あはれ柳さぞな思はぬ風ばかり  也有     八重梅の下に若衆の合羽着て立てる画に    花いづれ梅と合羽の八重一重   也有     源氏の画を見て    欄干に夜ちる花の立すがた〟