Top     中島誠之助談 「大蘇芳年のこと」    その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯「大蘇芳年のこと」(『集古』所収 昭和十七年(1942)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬午(2)7-8/13コマ)   〝(月岡芳年門人、当年七十五才の中島誠之助翁の談)    私が芳年の弟子になつたのは、十七八の頃でした。其頃私は、文部省の測量課に勤め居りましたが、生    れつき画をかく事が好きでしたから、いはゞ道楽といふ程度の気持で、弟子入りをした訳です。(中略)    芳年の家は、柳橋の近くで今の明治病院が、もと井生村楼といふ貸席でしたが、そのすぐ傍の相当に大    きな平家でした 当時は年方が塾頭格、其次が年英、年方は通ひでしたが、年英は住み込みであつた様    に覚えて居ります。    芳年といふ人は、背の高い太つた、眼の鋭い毛深いたちの人でした。ひどい癇癪持ちで、思つた事は容    赦なく、ズケズケ言ふ風がありました。そして、機嫌のいい時はニコニコして居て、大変に人当たりが    やわらかでした。けれども機嫌の悪い時はこわい人で、新聞社の人達が頭からどなりつけられて居るの    を再三見た事があります。私は勤めがありますから、大抵夜とか日曜とかに出向くのですが、或る時役    所の帰りに洋服のままで行つた処が、苦い顔をして「中島さん、洋服はよしねえ、窮屈でいけねえ」と    巻舌で叱られた事がありました。其の頃自由新聞の挿絵を描いて居たのですが、洋服を着て髭をはやし    演説をする人が大嫌いで、そういふ人達は人間でない様に、悪く言つて居りました。    午前は清元、昼すぎは長唄と、きまつて毎日、師匠が来てお浚ひを居りました。其の間は、どんな急用    が起きても絶対に人に会ひません。当時の新聞の挿絵は、御承知かもしれませんが、下絵を版木に彫ら    ねばならない為に、絵師が遅れると、彫師の時間を喰ひ、従つて発行の時間にも影響するといふ風で、    大変厄介なのですが、此の稽古の間は、それさへも断つて居りました。音曲は好きなせいかもしれませ    んが、声もよく仲々上手なやうでした。何しろ生粋の江戸ッ子ですから、食物などもやかましくて、鮪    は下司の食物、鰹にわさびを添えるのは、田舎者のする事だといふのが口癖でした。衣類は余り構はな    い風で、時によると派手な浴衣に三尺帯といふ様な、粋ななりをして居りました。是は妻君が仕事師の    娘であつたそうですから、其の影響かもしれません。妻君は無口な人で、表面に出る事は余りありませ    んでした。娘が一人居て、芳年は、とても可愛がつて居たやうでした。膝にのせて居るのを、再三見受    けました。    入門の時、四條派風の御手本を描いてくれました(惜しい事に、大正の地震の時、焼いて仕舞ひました)    清書を持つて行くと、簡単に直してくれるだけで、どういふ風にしろといふやうな事は言つてくれませ    ん。手本は、筆遣ひのコツを覚える為のものだから、手本にばかりたよつて居てはいけない 何でも見    るものを手当たり次第、沢山描いて行けば、自然に上手になれると、教えてくれました。ですから、稽    古部屋も雑多で、浮世絵の透き写しをして居る者もあれば、仏画の摸写をして居る者もあり、また互に    モデルになり合つて、写生して居る者もあるといふ風で、大変に賑やかでした。    芳年の画室は、小庭に面した六畳の部屋で、壁ぎわにはギツシリ本が積んでありました。私が通つた頃    は、床の間には何時も、四條派系統の掛物ばかりであつたと記憶して居ります。机の傍に、きまつて置    いてあるのは、菊地容斎の『前賢故実』で、見えない時というものはありませんでしたし、事実歴史画    の場合は、必ず参考にして居りました。それから意外に思はれたのは何処から手にいれたものか、西洋    の写真の雑誌類を沢山もつて居りました。是は何時も机の下にいれておいては、人の居ない時に繰り返    し見て居たやうでした。画は本当でなくてはいけない。昔の人がやつた事を透き写して描いて居たので    は、自分の画にもならないし、第一本当でなくなるといふのが、弟子達に対する常の訓戒でした。自然    を描いても人物を描いても、写真に基礎をおかなくては、承知出来なかつたらしく、然も其の種本は、    西洋の写真雑誌類であつたやうに思はれます。昔の一人立の版画を示して、こんな恰好の足があるもの    か、これでは立つて居られるものではない。一体、足に力をいれた時は、必ず親指が立つものだ。よく    調べて御覧と言はれた事がありました。従つて人物を描く時は、先づ朱書で、十分に骨格を描き、其の    上に衣裳を描き最後に墨で仕上げるといふ遣り方をして居りました。此の順序はどんな小さなものでも    実行して居て、決して省略した事がありません。新聞の挿絵などでも、こうして居りました。尤も私の    眼から見て、随分速い筆の運びであつたと覚えて居ります。    友達が来る事もなく、画会にも出ず、暇さへあれば画を描いて居りました。夏など素裸でやつて居るの    を見た事があります。一体出不精な人であつて、浮世絵師で新聞の挿絵などやるくせに、世間の事がよ    く分からないらしいのです。或時私に巡査といふものは、どんな恰好をして居るのか、写して来てくれ    といふので、急いで写生して戻ると、今度は交番といふものを見て来てくれと言はれ、又出掛けた事が    ありました。是は新聞の挿絵に、使ふ必要があつたからでした。    画道に対する見識は大変高く、容易に人にゆるすといふ事はありませんでした。暁斎には感心して居た    やうに考へられますが、それでも弟子達に向つては「暁斎は、うまいけれども、まだどうして」といふ    やうな言ひ方をして居りました。一年吉原の灯籠を、小林永濯と二人で描いた事がありますが、其の時    など永濯には負けられないといふ口吻が見えましたし、評判も芳年の方がよかつたと覚えて居ります。    京都へ旅行した友達が帰つて、私に元信の龍の画を見せて、其の画がすぐれて居る事を話してくれまし    たので、何気なしに芳年に元信の画はいゝと言つた処が、顔色を変へて「おめえ、てえした絵描きだナ」    といふものですから、私も吃驚して友達から摸写を見せられ、其の説明を聞いたのですと言い訳をしま    すと、元信程の人のものを、とやかく云ふ柄ではない、といふお叱りなので困つて仕舞ひました。    それから正月の書初めですが、是は二日ときまつて居て、当日は門弟一同が鏡餅を一づゝ持参して、用    意された座敷の机の上に名前をつけて横にならべます。銘々が席書きをし、簡単な批評があつた後で、    芳年を正面にして、左右へ、年方年英を頭に、順序に居流れますと御膳が出て酒宴になります。御給仕    は柳橋の芸者が十数人来ました。一渡りすむと、無礼講で、門弟達の隠し芸続出といふ賑やかな事にな    ります。鏡餅だけの年礼ですから、費用もかゝつたらうと思ひます。金銭には極めて淡泊な人で、さう    した散財は、一向気にとめて居なかつたやうでした。不断は酒の飲まないやうですが、どうかすると柳    橋へ行つて、芸者を大勢よんで遊ぶといふ話を聞いた事があります。併し、私はさうした場所へ出たこ    とは一度もありませんでした。    私の父は、浅草の今戸八幡境内に住んで、医者をして居りました。其の関係で、病家先の山田といふ鶏    卵問屋の子供が絵心があるから 習はせたいといふ話が出て、私が芳年の処へ連れて行きました。たし    か山田は十三四歳位だつたと思ひます。後に玉章門下に移り、晩年帝展の審査員をした山田敬中がこれ    です。私は道楽でやつた迄で、これで立たうとした訳ではないものですから、千年といふ号は貰ひまし    たが、役所の方が忙しくなると、自然足も遠くなり、芳年が死んだ時分には、出入をいたして居りなせ    んでした。絵の方も後に長谷川勘兵衛の養子が馬喰町へ絵草紙屋を出した時に、すすめられて「滑稽二    十四孝」「内地雑居未来之夢」などといふ、諷刺画帖を出したきりで、やめてしまひました〟    〈昭和17年(1942)当時75才である中島誠之助翁が、芳年に弟子入りしたは17,8才の頃というから、明治17、8年頃に相当     する〉