Top            浮世絵文献資料館         その他(明治以降の浮世絵記事)          『日本絵画史』横井時冬著 金港堂 明治三十四年(1901)十二月刊    ※半角カッコ(かな)は本HPの読みがな   〝第十一章 浮世絵派(82/109コマ)    近世の浮世絵は、岩佐又兵衛勝以に始まれり、勝以は摂津守荒木村重の遺子にして、天正七年織田氏の命    に逆ふことありて、村重の自殺するや、当時年僅に二歳、乳母の懐に抱かれて京師に来り、本願寺の支院    に隠れて世を送りしが、長ずるに及びて、織田信雄に仕へしとぞ、其の後松平忠昌卿に招れて、越前の福    井に入り、岩佐氏を冒せりといふ、この人土佐風の画を学び、好みて当時の風俗画をゑがきしかば、世に    これを浮世絵又兵衛と呼びなせり、寛永中三代将軍家光、其の画名をきゝて江戸に召し、長女千代姫の尾    張の光友卿に、降嫁の装具をゑがゝしめらる【又兵衛の当時ゑがきし屏風、名古屋藩主より同地の相応寺    へ寄附になりて同寺にありしが、今は徳川侯爵のものとなれり、この外徳川家に巻物ありといふ】    武州川越仙波の喜多院什物に三十六歌仙の額あり、これぞ又兵衛の正しき筆なりとて、今は其の筋の人に    もてはやさる【寛永拾七庚辰年六月十七日、絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図とあり】    慶安三年六月二十二日、江戸において身まかりぬ、其の子源兵衛勝重、父に肖て画をよくし、寛文中福井    城の鶴の間、及び杉戸をゑがけりとぞ【延宝元年二月二十日没す◯世に又兵衛の筆と称し、彦根屏風とて    井伊家に伝ふる浮世絵の名画あり、またこれと同筆の秘画、竹腰家にありしものを、青木信寅氏所蔵せし    が、勝以の筆とは大に異る所ありて、何人とも定めかたきものなれども、或は山楽あたりの筆にはあらぬ    か、よく考ふべし】    又兵衛勝以につぎて浮世絵を起しゝは菱川師宣とす、師宣は安房平群郡保田町の人にて、俗称を吉兵衛と    いひき、元来縫箔を以て業とし、上絵といふものより画をかきならひしかど、天性画に巧なりしかば、後    江戸にいでゝ、只管(ひたすら)又兵衛の筆意をならひて、別に一家をなせり、この人天和貞享のころより、    版刻の画本数十部を著されしが、皆世に行はれぬ、印刷の画を賞美すること菱川より起れり、後剃髪して    友竹と号す、正徳四年八月二日、年七十七にて身まかりぬ    師宣につぎて宮川長春いづ、長春は尾張の人、元禄の末より江戸に来り、土佐風の画を学びしが、後発明    する所ありて、只管菱川派の画を学び、つひに美人画に妙を得て一派を開けり【宝暦二年十一月十三日没    す年七十一】    この際鳥居清信いでゝ歌舞伎芝居の絵看板、丹絵の類を工夫し、又俳優の似顔をゑがきて一派をたてしか    ど、長春に比ぶれば、画の品格下れり【享保十四年七月二十八日没す】    長春の弟子、勝川春水の門より勝川春章いづ、この人、宮川派の画を学ぶ傍ら、嵩谷につきて一蝶風の草    画を学び、つひに一派を開けり、当時錦絵の流行につれて、彫刻印刷巧緻を極めし際にいでられしかば、    微妙の筆をふるひて美人俳優などをゑがき、これを桜木にのぼせて、大にもてはやされき【寛政四年十二    月八日没す】    其の門より多く名材をいだせり、後世名を轟かせし葛飾北斎【春朗】の如きも其の一人なりき、長春、春    章のあとをつぎて、享和中、喜多川歌麿いづ、この人元狩野派よりいでゝ、後鳥山石燕の門に入り、つひ    に一派を建つ、当時一般に俳優の似顔流行せしかど、この字と独り終身俳優の似顔をゑがゝず、時俗を写    し、又美人をゑがきしのみ、文化元年五月、錦絵のことよりして、奇禍を買ひ、一時入獄せし為、大に身    体を害し、あくる年つひに身まかりぬ【文化二年五月三日没す年五十一】    歌麿と殆ど同時に、歌川豊春の門人・歌川豊国いづ、豊国は一陽斎と号し、好みて俳優の似顔をゑがき、    時流に投ぜし為、大に用ゐらる、こゝにおいて歌川派の浮世絵一時流行す、其の門人も亦多かりき【文政    八年正月七日没す年五十七】    勝川春章の門人・葛飾北斎、この間にありて、別に一旗幟を建つ、この人、春朗の外、辰斎・雷斗・戴斗    ・為一などの数号ありしが、是等の号はいづれも門人に授けて、おのれ幾度も其の号をかへられたりとい    ふ、この人初め狩野融川、住吉広行などに就いて画法を学び、傍ら司馬江漢に就いて、洋画をも学ばれし    かど、後勝川春章に就いて、傍ら司馬江漢に就いて、洋画をも学ばれしかど、後勝川春章に就いて、専ら    浮世絵風をならはれき、されども又其の門を脱し、俵屋宗理のあとをつぎ、二世宗理と称し、このころよ    り自重して錦絵をゑがゝず、品格より画題のみを撰みし為、坊間の需要忽ち少なくなりて、一時困窮せし    が、其の後北斎辰政と改称し、更に和洋の古風に則り、諸名家の妙を萃(あつ)め、洋画の写真をも参(まじ)    へて、浮世絵中に一種の画法を剏(はじ)めらる、これ寛政十一年四十歳の時なりき、それより文化文政に    入りては、画名一時に高くなりて大に用ゐられ、其の門に入るものも亦多かりき【嘉永二年四月十八日没    す年九十】    北斎と共に一派をたてゝ名を挙げしは、一立斎広重なりとす、広重は安藤徳太郎とて、幕府の小吏なりし    が、天性画を好み、豊広が門に入りて浮世絵を学ばれしが、後大に悟る所ありて画格を変じ、つひに一派    を創意し、名所の真景を写すに妙を得られき、かの東海道五十三次、諸国百景、江戸百景などの錦絵是れ    なり、又草筆の画譜数十部を板行せらる、皆世に行はれたり【安政五年九月六日没す年六十二】この人の    後名工いでず、    浮世絵端を又兵衛に開き、師宣、長春、歌麿、春章にて大成し、文化文政に到り豊国、北斎、広重の如き    名工一時に輩出して其の盛を極む、これを要するに、浮世絵は錦絵の進歩につれて発達したるもの故、江    戸の外他においては、需要なき為名工いでず、全く江戸における一種の絵画なりき〟