Top     中里介山著『大菩薩峠』「みちりやの巻」    その他(明治以降の浮世絵記事)              (原作は大正2年(1913年)~昭和16年(1941)にかけて新聞に連載された。全41巻だが未完。        「みちりやの巻」東京日々新聞・昭和元年~2年掲載         出典 ちくま文庫版『大菩薩峠』9・1995年刊)   ※( )内のカタカナはルビ。但し出典はひらがな  〝おれはいったい、美人と、美人画では、誰のがいちぱん好きなんだろう。上代のことはいわず、比較的近代   について見ると、狩野家にはもとより、円山、四条にもすぐれた美人かきはいないようだ。何といっても、   美人画は浮世絵の畑だろう。もっとも美人というもの標準も、ちよっと問題ではあるが、人好きのする美人   は、まず浮世絵と限ったものだろう……。ところで、その浮世絵の美人も品々だが、いずれあやめという時   は……左様、ますまあ鳥居派で清長、それから北川派では歌麿。   清長にはしっかりしたところがある。歌麿は少しだらしないがたまらない。清長を本妻に、歌麿をお妾(メカケ)   としたら申し分はなかろう。   細田栄之--あれはさすがに出がお旗本の歴々だけあって、女郎をかかしてもなんでも、ずっと気品がある   が、そうかといって、大所帯(オオシヨタイ)向きのおかみさんにするには痛痛し過ぎる--といってまた、並大抵   のものが妾にしては位負けがする……そんなら勝川派はどうだね、何といっても春章はたしかなものだ。清   長より少しやさし昧があって、歌麿ほどにだらけてはいない。栄之のように上品向きでもないから、まず、   相当の大家の御内儀として申し分はない方だけれども、いずれにしても、この辺を女房にするには、ケチな   身上(シンシヨウ)ではやりきれない……そんなら実用向きというところで北斎はどうです、北斎の女は……       (中略)      ところで北斎は……北斎の美人はどうだ。あの男は、御存じの通り剛健な、達者なかき手だが、美人をかか   せると艶麗産なものをかくから不思議なものさ。芸者なぞをかかしても、なかなかいい芸者をかくし、筆つ   きに癖はあるが、女にイヤ昧はないよ、頂戴してもいっこう不足はない。   しかし、世話女房としては、何といっても豊広だね……。豊広--歌川派の老手で、応重の師匠だといった   方が、今では通りがよいかも知れぬ。広重の美人画は問題にはならないが、豊広の女には素敵な昧がある。   おっとりした世話女房としての昧では、この人に及ぶ者はない。これはまた、清長や春章とちがって、大ど   ころでなければ納まって行けないという女房と違い、ずいぶん世話場も見せながら、亭主にはつらい色も見   せず、和(ヤワ)らかになぐさめて、しっくりと可愛がっくゆく、という女房ぶりだ……豊国は役者の女房にし   かなれず、国芳はえんのおかみさん、国貞は団扇絵(ウチワエ)。    〈「がえん」とは、江戸町火消し・鳶(とび)の者〉
   (中略)       明治の浮世絵の中心は、何といっても月岡芳年さ。この男は国芳の門から出たはずだが、少なくも伝統を破   って、よかれあしかれ、明治初期の浮世絵の大宗(タイソウ)をなしている。見ようによっては浮世絵の型が芳年   から崩れはじめた……とも見られるが、ああ崩して行かなければ、明治以後の複雑な世相を浮世絵の中にも   り込むことはできなかったともいえる。   江戸の女の持つ情昧というものは、小さな挿絵一つにも漂わぬということはない。芳年以後に、巧拙はとに   かく、あれだけ江戸の女の情昧というものを含ませた絵をかき得るものはない。この点においても、芳年が   最後のものかも知れない。   転じて大正年間、生存の美人画家……芳年系統の鏑木(カブラギ)清方、京都の上村松園、いずれも腕はたしか   で、美しい人を描くには描くが、その美人には良否共に、魅力と、熱が乏しい。   その点に至ると、北野恒富の官能的魅惑の盛んなるには及ばない。   新進で、国画創作会の甲斐荘(カイノシヨウ)楠音(クスネ)が、また一種の魅惑ある女を招くことにおいて異彩ある筆   を持っている。あの時の展覧会で見た三井万里の江島がなかなかよかった。挿絵の方では、永洗(エイセン)系統   の井川(イカワ)洗厓(センガイ)が、十年一日の如く、万人向きの美人を描いて、あきもあかれもせぬところは、こ   れまた一つの力であり、年英(トシヒデ)門下の英朋は、美人を描くことにおいては、洗厓より上かも知れない   が、その美人は、愛嬌がなくてつめたい。近藤紫雲の美人にも、なかなか食いつきのいいのがある--