Top          三村竹清集          その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『近世花押譜』(三村竹清著・「集古」所収 大正9年~昭和18年)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(1)・青裳堂・昭和57年刊)   ※(原文に句読点がない場合、本HPは全角スペースを入れて読みやすくした)   ◇天狗孔平   〝世に納礼の元祖と云 雲州家三百石 御先手預にて 其赤阪の藩邸 今の伝馬町辺に住す 姓は孔平     萩野喜内信敏求之 号は鳩谷 天狗公 草鞋大王 万垢君 孔山 この花押は書簡より採りたるにて    鳩孔山の合字也 文化十四年四月朔没 巣鴨泰宗寺の碑に百一歳とあれど 曲亭に語りし自語に従へば    百九歳也〟   ◇芍薬亭長根   〝光悦七世 刀剣鑑定を業とす 菅原姓 本阿弥三郎兵衛 下谷三枚橋に住し 三橋亭と号し 又潜亭帰    遊と号す 初狂歌を岡持に学ひ 後浅黄裏成と云 後号喜三二を襲ひ著作あり 弘化二年二月十日七十    八にて没 谷中三崎妙法寺に葬る 此花押は刀の極より採る 本阿弥喜三二長根と署せり〟   ◇東江源鱗   〝東江は号 源鱗は姓名 書は初独立派 後晋唐 これが知足東堂へ移る 学問も初は朱子 後漢魏 こ    れが豊州女護寺へ伝はる 所謂柳橋の美少年 北里に御弟子が多いかと思へば 金峨の火事見舞に米俵    を両手へ提げて出たと云 然も蜀山人に目白の潺々亭へ呼ばれ 酔漢に臆して逃げ出した 寛政八年六    月十五日没 年六十五 浅草の本願寺に葬る 墓は近年改建せりと聞く 此花押は東江の合字なり〟   ◇木村黙老人   〝高松藩執政 名は通明 字伯亮 幼名熊次郎亘と称し 後与総右衛門と改む 安永三年四月三日 讃岐    高松二番町に生れ 安政三年十二月十日没 城西西方寺山下に葬る 曲亭馬琴と親交あり 其著『聞侭    の記』若干の内六十二巻の稿本は神宮文庫に蔵せり 此花押は殿村篠斎宛書簡より採る 亘字か 総て    此譜の花押既刊にあるは採らず〟   ◇老樗軒   〝中尾氏 名は瓢哉 通称伊勢屋平次郎 本郷六丁目の質屋伊勢三の総領なれど 家庭が面白からず 家    を出で 古本やの様なことをして居たる也 鑑定がよく 古人の伝をよく知り墓所に精しく『墓所一覧』    の著にて名高し 谷中の宗禅寺に墓あり 文政四年二月二十九日六十余にて没す 此花押は青山堂宛の    書面より採る〟   ◇鍬形蕙斎   〝竈河岸畳屋の悴三四郎、故に号を杉皐といふ、三公に通ずるなるべし 北尾重政門人北尾政美といひし    も、福井侯に仕へてより浮世絵を画かずと云ふ、鍬形紹真と称し蕙斎と号し、略画を工夫し、一覧図を    作り、いづれも気品なり、尋常の画工には非ず。文政七年三月廿一日六十四にて没し、浅草永住町密蔵    院に葬る、法号彩淡蕙斎、此花押は星野朝陽君蔵大黒天幅より採る。文化十三丙子年九月甲子紹真筆と    ありたり〟   ◇加藤千蔭   〝上の花押は、真淵へ奉りし入門の誓詞にも如此かゝれたれば、若い時のものか、又はきまりたる時に用    ひしか、下の花押は晩年いろいろの風雅なるものにもかかれたるを見る、仮名文字は近来の名手にて、    人物も父枝直と違ひ穏なりしと見ゆ、絵も子供のときより好きにて、凌岱に従ひ学びしとぞ、老て耳梨    山人といへり、文化五年九月二日七十五にて没す、回向院の墓は自書して方丈に托し置きしものの由〟   ◇仮名垣魯文   〝野崎兼吉、後庫七、又文蔵と云、文政十二年己丑正月六日京橋鎗屋町にて生る。九歳竹川町の鳥羽やの    丁稚となり、稗史を好み、十五歳花笠魯介門に入り、戯作者となる、初め妻恋に住し、一時横浜に移り    県吏となり、新聞記者となり、再び東京に出で 魯文珍報を出だし いろは新聞を起し、明治二十六年    十月八日新富町の仏骨庵に没す。享年六十六、生前より谷中永久寺に板碑を応用したる墓を建て置かれ    たり。此花押魯の字なるべし〟   ◇佐原菊塢   〝利口になりたがる世の中に自ら愚慢になりすまし 学者連に愚弄されつゝ其実学者を愚弄して世渡りす    る人 菊卯これが典型たるべし、初称は平八、仙台より江戸に出て 芝居茶屋の男衆となり 平蔵と呼    ばれ馬鹿になる修業ができ、北野屋平兵衛といふ骨董屋となりしも、日(ママ)ありて隠居し、菊屋卯兵衛    と称し 寺島の町二千余坪を開き、新梅屋敷と号梅の隠居となる、天保二年八月二十九日七十歳にて没、    浅草阿部川町称念寺塔頭観名寺に葬る〟   ◇福島隣春   〝福島左平、名は隣春、字は吉人、号は花所、花川戸に生れし故なるべし、古土佐の風を画き、殊に能画    の名人にて、又和歌をもよくす。一に雨の舎といふ、性雷を怖るる事甚しく、されば雷鳴中訪ひ来る人    あれば、大に悦び、留めて帰さず、雷静まれる後画きて贈り酬ひしと云、九代目市川団十郎は此人の門    下なり、明治十五年九月十三日没、浅草阿部川町称念寺中観名寺に葬る、法名花所斎釈応岳隣春禅門、    三男安三郞親之号華岸、浅草人形を作る、此花押は古画の函題より採る〟   ◇三熊花顛   〝名は思孝もとたかとよむ、字は海棠、一に介堂に作る、称主計初め正親といふ、正親はをきみといふと    ぞ、山城鳴瀧の産とも、加州の産にて鳴瀧の住ともものに見ゆ、長崎の月湖に画法を受け、龍虎は見た    こともなし、能く見る桜を描く可しとて、桜かきの名人と呼ばるゝ迄になりたり、寛政六年八月二十六    日没、享年六十五、東山に火葬し、遺言により其灰を桜の名所嵯峨戸南勢の水に沈む。妹露香亦善く桜    花を画く〟   ◇小林清親   〝風景画に、諷刺画に、新生面を開きし人也。幕府御蔵方小揚頭瀬兵衛七男、弘化四年丁未八月一日生る、    文久二年 父没して家を嗣ぎ勝之助と称す、鳥羽伏見の役にも従ひ兵糧方を勤めしと聞く、徳川氏と共    に一時静岡に移り、横浜にて洋画を学び、東上、明治九年一月初めて洋画の風景画を刊行、号方円舎、    真生楼、後ち事に坐して罪を得、晩年甚だ振はず、大正四年十一月二十九日没、六十九歳、浅草永住町    龍福院に葬る。法号真生院泰岳清親居士〟   ◇四方梅彦   〝柳亭種彦門、一に文亭梅彦といふ、通称四方新次、今戸に住す、狂言作者となりて、竹柴瓢蔵といひ、    魯文のいろは連に入りては柴垣其文といふ、明治二十九年丙申十一月八日没、享年七十五、亀井戸普門    院に葬る、法号悲願院閑山楽翁居士、春の事故一陽来復と梅柳度江に因みてこの二を掲げぬ〟  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「いろは連」(仮名垣魯文門下の集まり)   〝歌垣倭文 三代歌川広重 明治二十七年三月二十一日没 葬浅草東岳寺〟   ◇「魯文の交友」(カッコ【~】は仮名垣魯文の文。地の文は竹清)   〝【一梅斎芳春廿一年二月六日没 六十一 霊岸寺中不動寺に葬る 伜は左団次門弟左伊次】    芳春の没日は五日なるべし、通称生田幾三郎 法号を芳雪院春誉一初信士と云ふ。    「隅なき影」輪にたらぬ程やをとりの影ほうし 芳春    始帯刀士官の身なりしが、すつべき物は弓矢なりけりと、彼薬師寺がむかしに傚へど、世を塵外と見破    るにはあらず、隣◎(忄+象)敷蝸廬に膝を屈し、画を以て産業とす、此人言葉に一僻あり、喰をさして    飯敵と号し、妻をさんかと唱ふ、此類尚多かれどさのみはもらしつ〟     〝【傭書家宮城長三郞、明治十三年二月七日 両国広小路寓居に寂、六十四歳、号は整軒玄魚 別号蝌蚪、     玉杓子、楓阿弥、又梅素亭、神田石町経師の伜、浅草諏訪町茶器商 万屋吉兵衛雇丁稚たり、墓は谷     中天王寺墓地猫塚の北】    玄魚の事は「耄録」(魯文手帳、明治二十五六両年記)に在り〟   〝【芳幾先生実子 せん子三十五 あい子二十四 徳次郎二十二 旅三郞十六 てい子十四 四郎十二     六郎八】    とあり、これを樋口二葉翁に訊ねしに旅三郞は権三郞なりとぞ、明治二十五年の記事なり〟    〈大正三年(1914)刊『忠義の血汐』には表紙「落合芳麿画」口絵「六郎」とある。桑原羊次郎著『浮世絵師人名辞書』     に「芳麿 落合芳幾の男、大正三年九月廿九日没、三十余歳」を参考とすると、明治25年(1892)当時8才であるから、     享年は30才ということになろうか〉   ◇「和合神」   〝和合神といふ書、挿絵は北斎と伝ふれど、実は柳川重信なるべし、北斎ならばもつと胴がつまつてゐま    すと、先代の村幸主人いひし事あり 此版木一枚 某士大阪にて求めたりとて秘めもたりけるが、それ    は其の書の末の方なりし、今は如何しけむと、或人かたれり〟    〈白倉敬彦著『絵入春画艶本目録』の書誌は〝『万福和合神』色摺 半紙本 三冊「和合堂主人」序 北斎画・作 文     政四年〟とする。村幸主人とは芝の古書店主・村田幸吉。古書店主の直感が是か非か、参考までに言えば、この艶本     は無署名〉   ◇「東海道分間図」   〝東海道分間図奥付は                作者 遠近道印(花押)     元禄参年庚午孟春吉旦 絵師 菱川吉兵衛           新和泉町 板木屋七郎兵衛板    とあり、後摺には     正徳元辛卯年五月吉日 日本橋通一丁目 万屋清兵衛〟   ◇「京伝忌」   〝大正五年十月八日 両国回向院にて図画刊行会・国書刊行会の催にて山東京伝百年祭あり、肖像いくつ    も出陳されたれど、其紋丸に木瓜なるあり、巴山人の印面なるあり、輪なし抱茗荷あり、また其外にも    ありたりと覚ゆ、輪なし抱茗荷よきやうに思はれたり、山東正舗の木彫横看板、いと面白く覚えぬ、引    首印に老人邨、名印に藤承之印、道号印に玄斎主人とあり、青山の殿様でもあるにや、蜀山人懐紙幅、    曰く、二代山東京伝子を祝して        万歳のつゝみも二代うちつゝくむかしの京伝今の京伝 △印    印は例の三角の中に蜀山とあるものなり。二代の京伝 予は知らず〟    〈予は竹清。これらは大正12年の大震災の禍に遭ったか〉   ◇「はやり初の錦絵」   〝これも今はむかし、田貫の蛭根翁の話。根岸の岸沢式部に歌麿の錦絵沢山あり、これを大林君七さんに    話したるに、君七見て二十五銭にしか付けず、初めに三十銭位にはなるといひたる故売らず、偶(タマタマ)    和泉橋を通りて、あの通の東側に半分銅版職工をして居たる芳錦に話し、遂に三十銭宛(ずつ)に売つて    しまひぬ、君七はあとの役者絵だけを買ひたり、どこの旧家でも、大層錦絵がいゝ値になるとて大抵此    の三十銭代に売つてしまはれたり、私もサ写楽を三銭パで大坪嗜好さんから買つて少しの口銭で内藤鶴    芝さんに無理に持つて行かれた事があつたつけと〟    〈岸沢式部は常磐津三味線の6代目式佐(明治31年没)。式左が5代目古式部を襲名するのは明治25年(1892年)。この挿話     が式左時代のものか式部になってからのことか判然としないが、話題は写樂が「三銭パ」とあるから明治10年代のもの     と思われる。なお三銭パの「パ」は「宛(ずつ)」の意味〉   ◇「山東京山の死」   〝仙秀君の親方なる新富町の表具師高築氏の先は山東庵の旧ありとぞ、反古の中にありしとて仙秀君見せ    られしに       はやり病にうちふしける九死をのがれて      白あさきけふも八十通り町九十の命ひらふ床上ケ  九十歳 京山(印)    印は巴山人なれど、胴印とは見えず。この年ころり流行して、市河米庵はじめ名家の死するもの多く、    京山も此の病にて死せし様に『武江年表』には記されたれど、『名人忌辰録』には、娘の方へ一泊して    知らぬ間に死せりとあり。今此歌を見るに、白浅黄は棺を覆ふかけ無垢といふものなるべし、八十も町    を葬式が通りたれど自分は全快して床上げをせりといふ祝意をこめたる歌にて、高築氏よりの見舞に対    して贈りたりけむ。されば時疫は全快して其後老衰にて没せしなるべし。回向院の墓碑には      安政五戊午九月二十四日 行年九十歳没    とあり、然して此碑はもと寿碑にて、碑陰に文政五年壬午時年五十三と予め建てし時の記あり、文政五    年五十三なれば、安政五には八十九歳にて九十歳にあらず、『蜘蛛の糸巻』に、おのれ京山は明和六己    丑の生れとあれば文政五年は五十四歳なるべし、或は此時誕辰にて今いふ満五十三といふ心なるにや〟     ◇「白猿の画賛」   〝或所にて白猿の大幅見る、下に三升紋の裃つけたる男 豆を捲き居るかたを嵩谷画く、螺舎はくだけ一    蝶翁は飛さり今遙に百年の末其かたを写も又をかし、嵩谷として、幻々翁の印あり、其上に     一蝶翁鬼やらひの画 才牛に送るゝ(ママ) 二代目団十郎柏莚 節分の祝儀に宝井の庵に罷出 尊師持     扇ありやといふ折ふし 扇持参らす鼻紙の内香たとふのありければ 即筆をとつて鍾馗の大太刀持た     る図 三升のつばにて白眼居る画讃 今に伝ふ代々の高名はおのれがおよぶべきところにあらず わ     たくしてはこざりま先祖鬼は外    市川七代目前団十郎 今寿海老人子福白猿 印は周辺雷紋、其間に福寿海無量の四字ありて、中央に寿、    左右に蝦のある、いと大きなるものなりき〟    〈七代目団十郎が白猿を名乗るのは嘉永以降の晩年。この嵩谷は二代目。螺舎は宝井其角、一蝶翁は英一蝶。才牛は二     代目団十郎の俳名。嵩谷画く白猿豆捲きの図に、白猿自身が「市川七代目前団十郎」の署名で賛を認めたのである〉   ◇「須川簾吉」   〝竹内久一翁の話に、東錦絵の彫りも摺りも極盛は弘化頃ならむ、其の頃須川簾吉といふ彫刻名人にて、    簾中の婦人の顔を彫る、いたく国芳に愛せられたり、簾吉の名あるもの世に存せり。又曰、黄汁絵の黄    はズミを用ひたり。藍絵の藍は、濃くするには藍へ墨を加ふ、藍は変色して脱色する故、後には墨のみ    残るなり云々。竹清私謂黄汁絵の説いかにや〟    〈彫師・簾吉の読みは「れんきち」だろうか。黄汁絵不明〉   ◇「好色江戸紫 吉野滝津敵討」   〝同じ人の蔵、『好色江戸むらさき』五冊、奥に      貞享三年八月吉日【作者石川氏 通油町版本】    とあり、また、『吉野滝津かたき討』五冊、同じく半紙本    青山堂表紙、蜀山人副紙に     流宣は真土山のもとにすみて江戸図鑑吉原大黒舞等の作あり 此書題号やぶれて見えず しばらく古     野滝津かたき討と題す 元禄宝永正徳の頃三浦の遊女に立起といふ名みえず 猶たつぬべし 蜀山人    とかきつけたり、奥書は      作者画之 大和絵師石川流宣      武江城下 盡(ママ)林 相模屋太兵衛    さすがに司馬氏はよき書をもたれけり〟    〈「同じ人」とは司馬公叟という人〉      ◇「団十郎の秘画」   〝或人の蔵書に、豊国が団十郎の秘事を秘画にしたる稿本ありて、然も種彦自筆の跋あり、それを読めば、    団十郎に泣つかれて刊行せざりしものゝ由。又聞き故、何といふ外題か、はきとしたる事はしらず〟    〈この豊国が初代だとするとこの団十郎は七代目か〉   ◇「歌枕」   〝かのとのとり年とはきけど、いつのむかしにかありけむ、麻布のはくさくの家より一風呂敷のおそくず    ゑぞ市に出たりける、大かたは師宣より春信までの墨摺ものにてありけるが、中に歌麿の歌枕といふも    のあり、十二枚もの帖仕立、肉摺とて、人の肌は、からずりにして、豊かにふくよかにしたるなりけり、    これが千五百金と聞けり。八年前に或博士の家より出でし時は六十五金となりけるものをと、人々目を    瞠りぬ、或すきものこれをきゝて、さるふみならば我ももてりとて、千二百金に払ひけりとぞ、世の富    貴なる頃なりけるとかや、罰当りしれものも多かりける〟    〈「かのととり(辛酉)」は大正10年〉   ◇「文字ほり」   〝生田可久君の話に、此頃板木師の手間を一時間一円といふ規定にするといひたれど、さうもまゐらず、    とうとう八十銭手間ときめる、字ほり一時間四字のよし、老板木師は嗤ひて、むかしの筆耕ほりは一時    間二十三字は常のことなりしといひき、今小梅の木◎【鈴木】といふが文字ほりの上手とぞ。大正十一    年のことなり〟    〈◎は「金」+「恵」〉   ◇「好色花すまふ」   〝好色花すまふ、半紙本五冊、奥書     元禄十六年癸未正月吉日 絵師 奥村源八      江戸日本橋南一丁目 梅村八兵衛板〟   ◇「狸の金玉」   〝文福茶釜も、延宝の頃には『京ひがし山ばけきつね』【師宣画】とあり『ふんふく茶釜』【中本】とな    れるを見れば、はや狸の大金玉を画きてありし。双木兄話〟   ◇「三国朗詠狂舞台」   〝『三国朗詠狂舞台』享保辛亥の跋、大和画師川枝豊信、皇都書林井上忠兵衛梓とあり、かの『姿記評林』    は上の巻絵なし、この本下の巻絵なし、後編名題『紫帽子』作者節志堂文貫とあり、下の巻計りを見る    と或人云へり〟   ◇「広重の東海道絵」   〝広重の東海道五十三次は皆横絵也、小さきは四ツ切にて、外に半紙二ツ切、普通の判と大凡三通りなり、    この四ツ判にも三通り位あり、普通判のに、隷書外題、行書及楷書外題とあり、楷書にも三通りありて、    其中永保(ママ)堂版がよいとしてあるなりと、葭田老人より聞く〟   ◇「京伝風俗画巻」   〝京伝画ける風俗画巻一巻、一々人物に小がきして、其風俗を記せり、武岡豊太郎氏蔵、美術協会にて一    見      以上すへての人のよく知る事にしあれば 事あたらしうしるすにおよばずといへども もし百年の      後に残りて人の見んときのためにとてしるしつけぬ  京伝〔印〕    と奥にしるしたり、印は京伝の二字〟    〈この「風俗画巻」は文化5年の京伝序を有する『江戸風俗図鑑』である。上掲、竹清が書き留めた「以上(云々)」は巻末の     奥書だが、竹清はなぜ序文の存在に全く言及しなかったのだろうか、不思議である〉   ◇「春臠柝甲」   〝吾邦にてかゝる書作りしと噂さるゝものに、大雅堂の『春臠柝甲』あり、唐本表紙、半紙二ッ切型刊本    一冊、半丁に題書、半丁円窓中に精緻なる仇英風の画あるもの十二、末に漢文一章、活々庵と署せるの    み、果して霞樵先生なりや否や、証左を知らず。時維昭陽協洽仲秋下浣と見ゆ、昭陽は癸にして、協洽    は未なれば、此の干支は宝暦十三年か降つて文政六年なり、又戊子秋八月望後三日 活々庵主人再識と    あり、戊子は明和五年か降つて文政十一年なり、印に懋績とあり、未考〟   ◇「大東閨語同補遺」   〝『大東閨語』一巻、刊本写本共異本多し、粗雑なる画を加へしものあり、『去垢集』と題せるものあり、    一章毎に評語あるものあり、これも大雅堂の作と伝ふれども如何にや、大雅堂を飄逸なるものゝ如く伝    ふれど、実は真率の君子なり。或云徂徠翁戯作と、蓋し此の標題は服南郭の『大東世語』に擬したるも    のなれば、断じて徂翁の作に非ず、天明四年甲辰十二月陳奮翰の序ありて、文中平安金氏所著とあり、    陳奮翰は大田南畝の別号なれど、是亦果して蜀山翁なりや否やを詳にせず。別に『大東閨語補遺』寛斎    戯著と何かにて見たり、かゝる書ありや、この寛斎も市河氏には非ざるべし〟   ◇「春窓秘辞」   〝『春窓秘辞』刊本一冊、絵はあるべくして無し、首に蜀山人自筆の題辞あり。     宋人有春宵秘戯図、此方有土佐氏画巻、則其来久矣、蔵之書篋、可以防火、豈猥褻之謂乎、     樵山子来請題、因題此語、蜀山人    次に狂歌堂新顔、六樹園飯盛、烏亭焉馬、式亭三馬、桜川慈悲成、窪俊満、山東京山、三陀羅法師、手    柄岡持、山東京伝、桜川甚孝などの戯文あり、物堅げに鯱こばりたる曲亭先生さへ飯台狂夫の名にて一    篇を加へたり、これも大平の余韻か〟   ◇「小松屋百亀」   〝(噺本『聞上手』の書誌、蜀山人の百亀記事あり 省略)    (小松屋と縁続きの渋井寒泉なる家の過去帳に)万暦院円資百亀居士 寛政五癸丑十二月日    とあるが百亀なり、天幸堂鮓屋皿盛【岡田鉍蔵 住日本橋品川町五番地 後不知行処】旧蔵の蜀山人『判    取帖』には、小松屋百亀天明三年六十四歳のとき、大艸屋敷の小庵を小艸庵と命名せし由、記されたれ    ば、かゞなへて享年は七十四歳なるべし、寒泉君は世に聞えたる掃墓家なれば、四谷辺より白山へかけ    て、切りに百亀の墓を索めたるに、小松屋が塋域は、少年の頃大人に伴はれて詣りたる心覚えもありた    れば、白山の極楽寺にて見当りしが、百亀の墓はそこにても見出でざりしといへり〟   ◇「月岡雪鼎」   〝(『画乗要略』『逸人画史』の記事あり、省略)    紀州新宮の医、堀天民字遷著、寛政六年の序ある稿本、行余雑選に、     過し頃、浪花にて、月岡雪鼎の廬を訪ひし事あり、年齢五十計、髭鬚茫々として縟上に坐せり、坐傍     を見れば、半弓に箭をそへ、又其側には、絹幀に◎(木+外)炭(やきふで)など下せしもあり、所労あ     り哉と問へば、我身多病にして、起臥安からず、門戸を出ざる事八年に及ぶといへり。弱冠の頃、医     道を京師に学び、暇の日は画法を近江なる敬甫に学べり、しかるに治を請ふ人は絶てなく、終に画工     となれり、固より雪鼎が素志には非ずとかたれり、其後雪鼎の門人に問ふに、人来訪して所労を問へ     ば、いつとても有と答ふ、然れども弓を引、画をもよく成せり、春画を図するにも、常に妻子を避け     ず、賓客あれども憚る色なし、人あやしみて問へば、是は画図なりと答ふ    とあり。画風より見て、やさ男のやうに思ひしに、いと案外なり。試に雪鼎の画系を挙ぐ。     (以下、高田敬甫を筆頭にその門流の系図)     高田敬甫(記事なし)門人     月岡雪鼎 名昌新 字雪鼎 号月岡山人 木田氏 後称月岡氏 住大坂塩町心斎橋 天明六年十二月          没 享年七十七 或云葬木寺村     曽我蕭白(記事なし)     (雪鼎門人)      月岡雪斎 名秀栄 字太素 叙法橋 雪鼎義子 住大坂塩町筋車町 後来江戸 天保十年二月朔没           葬下谷竜泉寺 、    墨江武禅 名寛 字子全 称太道寛 小字荘蔵 号蒙斎 一号心月 住舟町 文化三年正月二十九           日没 享年七十三 或云六十七 葬西寺町妙福寺 法号春光院武禅信士           (武禅門人)墨江敬処 武禅子 文化九年七月五日没      桂常政  字雪典 称左司馬 号眉仙 一号通神亭 後改名宗信 称源五 寛政二年八月十三日没           享年四十六 葬東天満専念寺           (常政門人)桂三木 善春画      岡田玉山 名尚友 字子徳 号金陵斎 叙法橋 文化九年没 享年七十六 岡田玉山石田玉山石田           玉峯事迹混雑不可攷           (玉山門人)速水恒章 号春暁斎 住平安 文政六年七月十日没 葬等持院      蔀関月  名徳基 字原二 一作阮二 一字不温 号荑楊斎 住堂島 寛政九年十月廿一日没 五           十一 葬木川村正通院           (関月門人)蔀関牛  名徳風 字子偃 号荑楊斎 称助右衛門                 丹羽桃渓 名元国 字伯照 称大黒屋喜兵衛 文政五年十月十五日没                      享年六十三 葬生玉円通寺                 忠村山月 叙法橋                 中江藍江 名直 字子養 称養三 天保元年七月廿二日没 享年六十五                      葬生玉覚円院〟   ◇「倭国春画」   〝戒庵漫筆曰、世俗春画鄙褻之甚、有賈人携倭国春画求售、其図男女惟遠相注眺、近者以扇掩面、略偸眼    ◎「虚+見」、有浴者亦在幃中、僅露一肘、殊有雅致、其絹極細、点染亦精工、因価高還之、あらはなら    ぬを彼邦人もめでけむ、此事見林の異称日本伝北山の日本外史にも漏らせしなるべし〟    〈『戒庵漫筆』明の李詡撰。曰く、世俗の春画は甚だ猥褻である。それに対して日本のものは、扇で顔を覆ったり、湯     浴みをする者やすだれの中にいても僅かに肘を露わにするのみで、露骨なところはないが妙に趣きがある。明代の挿     話というから、14-17世紀、日本でいうと徳川初期以前、その時代の春画であるから浮世絵師のものではないが、参     考までにとりあげた〉     ◇「山東京伝の像」   〝翠渓君もてる惠斎かきし山東京伝像を見るに、袖なし羽織をきて斜に机によれる様、面だち青貨堂君の    笑ひ顔に似て、京伝とはこんな人かと思はしむ。蝸牛庵夜譚に、京伝の紋を抱茗荷ならむとありしが、    成程抱茗荷なり、但しこれには輪なし抱茗荷なり(中略)此肖像の上に斎藤彦麿と蜀山人の賛あり、彦    麿のは忘れたり。      しやれ本は皮と肉にてかきのこす骨董集そまことなりける 蜀山人〟    〈惠斎は北尾政美。翠渓は不明。貫井青貨堂は「集古会」会員。『蝸牛庵夜譚』は幸田露伴著の随筆で明治40年刊〉   ◇「広重最初の絵」   〝広重の最初の絵は、文政三年庚辰春出版の     音曲情糸道【東里山人作/歌川広重画】二冊    のよし、横山町二丁目岩戸屋喜三郞板、画柄は豊国なりけり。此事斎藤扇松子語る〟   ◇「北尾紅翠斎檀(ママ)画」   〝京伝作重政画四季交加奥付に     檀画 北尾紅翠斎         寛政十歳戊午春正月 御江戸常磐橋御門本町筋下ル八丁目 通油町鶴屋喜右衛門梓    とあり、檀画といふ事分明ならず。尚ほ此書には、岩瀬田層字日重屋山東窟珊洞散士京伝な    どゝ見へたり〟    〈「檀画」は「擅画」が正しい。意味は「擅(ほしいまま)に画く」。本HP「浮世絵事典」【せ】「せんが」参照〉   ◇「板木師の小刀」   〝板木師の小刀は、もとは傘屋切出シといへる小刀を、巾狭く削りて用ひしとぞ、この狭く磨りへらすは    小僧の仕事にて、小僧はこれで泣いたものゝよし、維新後は小柄(こづか)が沢山払物に出でたれば、こ    れを用ひたり。信親は刀工より印刀鍛冶となりし人にて名人なり、二代は下手、弟子に上手がゐると、    これも生田君の話。〈前条の末尾に「大正十一年七月四日生田可久君話」とあり〉   ◇「鮮斎永濯」   〝鮮斎永濯の絵は、皆小梅の鉄が彫りしと、岡本昆石翁言へり。昆石翁の『瓜太郎物語』は永濯の絵なれ    ど、鉄が高いので外へ頼む。翁と永濯と知りしは、平尾賛平の紹介なり。新聞広告に美人の画を用ひし    は平尾の小町水が初めなるべし、其画は永濯かけり、瓜太郎の絵は一枚十年の謝礼をしたり、少なかつ    たらしけれど、平尾の顔にて、此方より言ひ出して、これでかいて下さいと申したるなりと、昆石翁の    話〟    〈『瓜太郎物語』(岡本昆石作 口絵・挿絵 鮮斎永濯画 春陽堂 明治27年1月刊)永濯は明治23年没、昆石の序は同     26年12月。なぜ刊行が遅れたのか不明〉   ◇「塵劫記色摺扉」   〝寛永癸未二十年仲夏 西村又左衛門板行、とある『新編塵劫記』【吉田光由】の扉には、何の木とも知    れぬ木に花さける図ありて色摺なり、これは偽版を防ぐ為めなりしにや、彩色摺これ等古るかるべしと    て、双木君見せられぬ〟   ◇「ケツガツク」   〝印刷の過にて、あらぬ所へ墨のつきたるを「ケツガツク」といふよし。山田清作君より聞く、又見当は、    右を「カギノテ」左を「引付ケ」といふ〟  ◯『ほんの話』(三村竹清著「書物展望」2-9・昭和七年(1932)九月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「石燕の雅号」   〝俳書東西雑化、絵入俳書にて、英窓紀逸の題字あり(序文の一部あり:本HP省略)雪と紅葉の句をあつ    めしものなり、後篇出でしや否を知らず、調べても見ず、画は嵩谷、風窓、蘭谷、常佐、石燕にて、石    燕最も多く、末に石燕子興燕十などの句も見えたり、石燕俳諧の道に遊びて、辞世の句をも伝へ、俳書    に画けるも多き由なれど、此の書には色々の別号を用ひて、飛雨郷、梧柳庵、零陵主人、月窗主人、石    散人などとあり、この初の二つの号は、石燕伝中に洩れしかと思はれし故、記し置けるなりけり     初雪は花の手本に降やらん   石燕     酒いれぬ寺もゆるしてもみぢ哉 子興     紅葉見の顔や夕日の落る頃   燕十〟    〈「東西雑化」は未詳。「日本古典藉総合DB」に「東西雑記【写】竹清」とある。あるいは「東西雑化」は「東西雑記」の     誤記とも考えられなくもないが、未確認〉  ◯『古版絵入本展覧会瞥見記』(三村竹清著「東京堂月報」19-14・昭和七年(1932)十一月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「蒔絵師源三郎」   〝『人倫訓蒙図彙』七冊、元禄三庚午載七月吉旦、書林平楽寺開板、世間にては、此の本の巻の三の末に、    蒔絵師源三郎の名あれば、其の画く所として伝へ居るに、此の書は元摺と覚しきに、却て其名無し、水    谷不倒氏の話に、別摺と覚しき大本を見たることありしかど、それにも名は無かりし由。よのつねのし    わざは名のあるものを削りて摺ることこそあれ、蒔絵師源三郎も、当時は今ほどに珍重されはすまじき    に、あとより名を刻り入るゝとは、をかしなことなり〟  ◯『続 本のおはなし』(三村竹清著「書物趣味」1-1・昭和七年(1932)十二月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「蕙斎の浅草一覧図」   〝古く津に加藤といひし染物屋あり、其頃の主人号を窪一斗といひて、画を北斎に学びしと伝ふ、なるほ    ど、美しき娘が帯揚を締めてゐる姿を見せられし事あり、此外光琳の扇子、橘守国の武者絵、芦雪の蝦    蟇、まだいろいろよき幅あり、後に皆売払はれしかば、予も芦雪の関羽に永願寺の某和尚の賛せる画を    得て今も持てり、其時蕙斎絹本へかきし浅草寺を中心とせる一覧図様の幅ありしが、隅の方に絹のほつ    れありしが苦になつて逸してけり、北渓かきし版画に比するに一段勝りて気品高きものなりし〟  ◯『今は昔のこと』(三村竹清著「書物展望」5-2・昭和十年(1935)二月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「長枕」   〝(四日市にて、竹清、田南岳璋・青瓢子と連れだって)とある古道具屋に行きしに、『江戸繁盛記』の    大揃、耳鳥斎がかきし夷三郞が大なる河豚釣りし図の幅などありて求めぬ。猶何かありげなりとて、三    人して見世戸棚などあなぐりもとめしに、隅のかたに積みし丸本に雑りて、奉書摺の『長枕褥合戦』出    ぬ。これは何ぼぞと問へば、一円也といふ。岳璋画史呆れて、高き丸本かなといへば、そこの主人、ち    と違ふ丸本なればと、うすらわらひしぬ〟    〈『江戸繁昌記』寺門静軒著・天保三~七年刊。『長枕褥合戦』悟道軒(平賀源内)著・明和四年刊。『長枕褥合戦』は     浄瑠璃本(丸本)の体裁をとった戯作艶本〉  ◯『青山廬随筆』(三村竹清著「書物展望」5-9・昭和十年(1935)九月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「種彦作小本」   〝高畠藍泉の転々堂漫録を見しに、種彦作の小形一冊物草双紙四種あり、火焚婆、浦島爺、キツチヤント    ン/\、茶番のいろは、此内に茶番のいろはは、板木摺へ催促に行、鶴屋の丁稚の板を引あふ草摺引に、    摺師が鶴の丸の風呂敷を素袍に見立、刷毛を噛へて髭と見せたる朝比奈の趣向は妙なり、とあり。    是れ田舎源氏三編の末に     御手遊び袋入小絵ぞうし種彦聞書貞秀画     むかし噺 火たきばゞア 二冊  昔ばなし きちちやんとん/\ 三冊     昔話   浦島ぢゞい  三冊  茶番のいろは         二冊    とあるものなり。猶田舎源氏第三十二編の末に、此目を挙げて     以上先年売出し 以下近刻     昔噺   楠判官      全三冊  同おどろき判兵衛      全三冊    とあるは、遂に出版せざりしにや〟   〈高畠藍泉は幕末から明治にかけての戯作者で柳亭種彦の門人。明治になって、種彦二世を自称するが周囲は三世とする。    『偐紫田舎源氏』三編は文政13年(天保元年・1830)刊。同三十二編は天保11年(1840)刊。「日本古典藉総合DB」の統    一書名は『火焚ばゝ』刊年不記載・『きちちやんとん』天保元年?・『浦島爺』刊年不記載、以上合巻。『茶番のいろ    は』は咄本で天保六年刊    「国立国会図書館デジタルコレクション」の画像では、この「御手遊び袋入小絵ぞうし」四点の広告が載るのは天保六年刊    の十四編から同十一年の三十三編まで。「楠判官」以下二点が加わるのは天保十一年から。竹清のいう三編および三十二    編の巻末広告は未確認〉  ◯『本の覚』(三村竹清著「本道楽」・昭和十四・五(1939-40)年)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「浅草一覧図」   〝伊勢の津の入江町に、窪一斗といふ染物屋があつた。窪一斗といふ号は、北斎に就いて画の稽古をした    時に貰つたんださうだ、好事家でいろんなものを持つてゐた、今名古屋で骨董屋をしてゐる加藤文は其    孫にあたる(中略)加藤文も豊春といふものに就いたとかで、一寸画も描くし、抓み細工が上手で、よ    く白銀屋といふ呉服屋に頼まれて、造り物をやつてゐた。皆が褒める。かういふ趣味から、とう/\骨    董屋になり、今では其方の尤なるものださうだが、はじめたてには、品物がないと、一斗旧蔵品を持つ    てきては、お客を喜ばせた。光琳の扇面に次いでは、北斎のかいた、立姿の娘だつた。私の財布では、    力及ばず、指をくはへて居る計り。此外に芦雪の蝦蟇の横物がよかつた相だが、大阪の商人が持つて行    つて私は見るに及ばない、橘守国の義経が床几に掛かり、弁慶が制札をかき、真中に梅の木のある横物、    少し色はあつたが、欲しかつた、私は其後、守国の肉筆を一向に見ない。それに蕙斎の浅草一覧図、絹    本横もの、雷門から奥山、遠く待乳山から隅田河をこして向嶋を遙に見るあたり、細かによく趣きを写    してあつた。北渓の版画にあるが、あんな俗なものでは無い、価は忘れたが、少し無理をすれば買へる    値だつたので、家内の巾着まではたかせて、翌日行つたらもう逃した。一斗のもので私の所へきたのは、    芦雪の関羽半切、上に永源寺の坊さんの賛がある、それと本居大人春秋歌懐紙双幅、これは一斗も心が    けて二度に買つて対に仕立てた事が箱に書いてある。一斗の外に津藩士に葛飾一扇といふものが、北斎    門人だ、常府であつたか、委しい伝は、津で分らぬ、私はこの人の美人の扇面を持つてゐる。生川春明    も北斎に教を受けたと自ら言つてゐたと草川主人に聞いた事がある〟   ◇「吉原全盛鑑」   〝中本一冊、年号なし、吉原細見なのだが、見返しの吉原図に、筆工近藤助五良清春筆とあり、福田文庫    と関根奈々米の蔵書印がある。芝の村忠で、洒落本のまわし枕と一所に買つた。十五丁ウに、享保十九    年甲とら正一位大明神とくわんゐ有トあるので見当はつく。八丁ウ中万字やの所に、入山形に一、玉ぎ    くの名もあつた〟   ◇「容斎の玉川住居」   〝(前略)『前賢故実』は勾玉表紙が初刷で、其後色々の表紙になり、『風俗画報』を出してゐた東陽堂    でも刷つてゐた。然し菊池さんで分けて頂いたのは、紙も表紙も悪るくなつてゐたが、勾玉表紙であつ    た。さうして見ると、勾玉表紙の型が菊池家にあって、菊池家で刷る分にはそれをかけたのかと思ふ。    (中略)(容斎は)画かきは長寿を保たぬ事には上手の域には達せられぬ、然も始終うつむいて筆を執    るのでからだによく無いと言つて、養生法をつとめられたと聞いた。実際容斎が五十位の画を楓湖塾で    見たが拙い。容斎は入門のものには、先づ坐右の唐本を読ませて、読めばよし、読めねば、もつと読書    力を養つてから来いと言つて断った。楓湖先生は旧(も)と佐竹永海門で幕末に浪士の群に入り、維新後    菰樽の画をかいてゐて、傍ら容斎の偽物を拵へてゐた。どうしても旨く偽物がかけないから教えて貰ひ    たいと言つて来た、面白い男だといふので入門させた、それ故楓湖は学問はありませんといふ事であつ    た。無いと言つても、相当には出来てをられに違ひないが、楓湖先生には天王橋近くに津江さんといふ    方がゐて、それが学事の顧問であつた。函題も、隷書ならば楓湖先生自筆だが、楷書は皆津江さん代筆    だ。又菊池の家に容斎のかいたおそくつの絵があつた、多分一組十二枚あつたかと思ふ、略筆淡彩で品    のいゝものであつたそうだ、浅野侯に所望されたのを、たつて断つたら、写されるから借せとの事で、    お貸し申すと五百円届けて来た、ツイお金は調法なもので、段々減らしてしまひましたと一笑された〟   ◇「笠つくしほめ言葉」   〝三丁一冊、首の半丁に色刷の芝居絵ありて、大阪中の芝居惣座中を誉る笠つくし、江戸曲亭馬琴述、葛    飾北斎画、筆耕駒知道、剞劂小泉新八、板元江戸深川森下町榎本平吉とあり。      笠つくしほめこと葉    江戸 曲亭馬琴述    「芦かちる、芦の穂笠をさす潮も浪速の秋に大江戸の、その花笠を植かえて、見る人あかね半七を三     かつしかゞうつし絵に、みのと笠屋はおのか名の簑笠か筆のすさみさへ(中略)     菊月のはじめより大阪中の芝居にて 予が近曽(ちかごろ)著したる南柯夢てふよみ本を種としてか     しこに名だゝる俳優たちのものすと聞えし程に そが板元なりける木蘭堂のあるじがあはたゝしく     来て しか/\のもの書てたべ とみに板して浪花へおくりやりてんといふ(以下略)」〟     〈この冊子の出版年代については、馬琴自身が『近世物之本作者部類』の中で次のように言及している〉   「この年の秋九月 大坂道頓堀中の芝居にて この読本の趣を狂言にとり組て 名題を舞扇南柯話(ハナ    シ)といふ」(木村三四吾編 八木書店 1988年刊)   〈「この年」とは『三七全伝南柯夢』が出版された文化5年(1808)をいう。「舞扇南柯話」は、立命館ARC「日本芸能・演劇    総合上演年表データベース」によると、同年9月(菊月)大坂中の芝居において上演されている。この冊子の外題は『大阪    中の芝居惣座中を誉る笠つくし』で、板元の木蘭堂榎本平吉は『三七全伝南柯夢』の板元でもあった。なお、この冊    子の書誌・翻刻・画像が、高木元氏の「『笠つくし褒め詞』について」という論考の中にあるので紹介する〉    「笠つくし褒め詞」について 書誌・翻刻・画像 高木元著    ◯『青山不老談』(三村竹清著・『積翠先生華甲寿記念論簒』昭和十七年八月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「春臠柝甲(しゅんらんせっこう)」   〝をかしな本なれど、気の利きたる本也、末の文章はあらざるも妨なし。森銑三君の話に、芦汀記聞に、    春臠柝甲、風月一斎【荘右衛門】弟子、柏田阿波守【禁裏官人】著述、画月岡雪鼎、蒹葭堂自筆の跋文    ありと記されあるよし。これを大雅堂作といひふらせしは、五車楼書目に、春臠柝甲【大雅堂著書画共】    一冊とある故かといはれぬ。五車楼は藤井氏菱屋孫兵衛、京の書肆なり。大雅堂は律儀者にて、世間で    思ふやうなるふざけたる人に非ず。臠は切りみ。柝甲とは、易に雷雨作而百果草木皆柝甲とある由。柝    は裂なり、開なり。甲とは草木の莩子とあつて、漢書の方春生養万物莩甲と同じく、草木の萌芽を生ず    る即かひわりの事なりけり〟  ◯『本のおはなし』(三村竹清著・「典籍」7・昭和二十八年六月)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「用捨箱稿本」   〝明治三十四年、飯島虚心さんが食道癌で食事ができない。酒を飲めばつゝかへす、俺の所で大会をやつ    て、沢庵をバリバリやりながら一杯のんで貰ひたいといふので、四月二日に集まつた。    大会といふのは本の持寄入札会の事で、野中完一、石川芳風、中川得楼、古川銀太郎、宮崎三昧、加藤    直種、大橋待価堂、文行堂、私、主人だつた。其中誰の出品だつたか、種彦の用捨箱の稿本が出たので、    皆が血を湧かした。さうすると、三昧さんがヒヨイと文行へ耳打して中座して帰つた。此用捨箱は文行    に落ちたんだが、それが三昧さんの指金だと判つて、大騒だつたが、其落札値はなんと二円〟  ◯『続貂書話』(三村竹清著『佳気春天』昭和十年(1935)十月)    (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「飯島虚心翁」   〝浮世絵流行の世の中に、陳呉たりし翁を忘れては済まぬなり、中川徳楼翁にて、聖堂科挙の人名録を見    る。右は毎年の人名を張出しありしも、当時かゝるものを誰写さんともせざりしを、大谷木純堂つとめ    て写し置きし、後廃してより人々純堂が為を褒め称へしとか、昔は御目見え以上と以下とは非常に格式    の異りしものにて、客が御目見え以下なる時は、主人が床前に坐し、食事の折などは高足の膳にて、給    仕人先づ主人より給仕するものなりとぞ、この聖堂の掲示も御目見以下は一段下げて記されありし、虚    心翁は       文久二年正月 乙科(二十番)佐渡奉行支配組頭善蔵内 飯島半十郎    と見えたり、応試の内にお六尺などあり、これ等は表向の苗字はなきなり、書役など態(わざ)と苗字を    問ひ、オヽオヽお前は苗は無かつたんだナなどと侮蔑したるものゝ由〟  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「癸酉第三」(『集古会誌』昭和八年第三号)   〝平亭銀鶏の『海潮音記』にある 将門純友が鷲を中に挟み武勇を争ふの絵は、誰の画く所であるか知れ    なかつたが、最近にそれが奥村政信の筆で「きほひざくら」といふ十二枚続きの第一図であることが知    れ、しかもその板木を林吉樹氏が所蔵されてゐるが、第二図の宇治橋鬼女と両面に彫られてゐるもので、    これがまた二代目団十郎と市村羽左衛門との狂言絵であることも分明した。その上に『燕石雑記』の金    平入道の絵が、第十二図に相当してゐるといふのであるから面白い。原本は馬琴旧蔵で某氏の架中に蔵    せられ、今春稀書複製会で出版した。待てば海路の日和とやら、物事は気を永くもてば、分つてくるも    のであらう、それには御寿命が万々歳でなければならぬ(癸酉第三)〟    〈『海潮音記』は本HP「浮世絵事典【き】」の「きおい桜」参照〉   ◇「乙亥第四」(『集古会誌』昭和十年第四号)   〝明治以降の地本問屋である辻岡屋、綱島屋、丸鉄などいふ店は、セドリから出世したもの、セドリとは    板元より新板を請け、これを市内の小売店に卸して、鞘をとる商売なり、これは絵双紙屋に奉公したも    のは、修行のため必ず一度はするとぞ、中にも辻岡屋は高橋お伝の事をかいた本(仮名垣魯文作の高橋    お伝夜刃物語八冊か)を出版して五十万円も儲けたとその頃の仲間で専ら評判なりしとぞ〟    〈『高橋阿伝夜叉譚』仮名垣魯文作 守川周重画 表紙・口絵梅堂国政 辻岡文助板 明治十二年刊〉   ◇「戊寅第二」(『集古会誌』昭和十三年第二号)   〝王子稲荷社の額堂は大破甚しく屋根朽ちて大穴があいてゐるが、絵馬の中に「天保庚子春日、大雲峯写    時歳七十有六」とある極彩色の牡丹に孔雀の図や、「寿香亭泉目吉守一筆」とある源三位鵺退治の絵な    どが、所謂風餐雨触に任せてゐるのが惜むべきである〟   ◇「戊寅第四」(『集古会誌』昭和十三年第四号)   〝湯島天神の額堂に、明治十六年四月春木座興行に市川右団次が演じた天拝山の絵馬がある、左方に椽に    「古今稀成大入春木座帳元阪野久次郎」款記に「鳥井長八筆男清忠修復」とあるが、原画が紙本である    ため 今はそれすら破損して更に修理を要する程になつてゐる 物は新らしいが 神社の方でも保存法    を講じてもらひたいものである〟    〈この清忠は四代目。鳥居長八は清忠の父の清貞(明治34年没)。清貞が明治16年に画いた絵馬の修復を、実子の清忠が     おこなったのだが、その時期は不明〉  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「鍬形蕙斎」p107(「画説」三三、昭和十四年九月。原題「【青山廬冗倭】蕙斎に関聨して」)    「無題(江戸一覧図)」江戸鍬形紹真筆[印](落款隷書)野代柳湖刻:旭日    「無題(日本一覧図)」江戸蕙斎紹真筆[印]:三日月    「総房海陸勝景奇覧」     〝後編坂東図 八ヶ国の名所古跡且神社仏閣温泉の地い至る目前にのぞみ見るがごとく工夫せし絵図      なり 耕書堂/双鶴堂合梓 葛飾前北斎戴斗〈原図「鶴」は「隺」〉    「無題(支那一覧図)」総房旅客画狂人卍齢八十一 彫刻江川仙太郎 書肆青雲堂梓   ◇「人物小話(一) 菱川師宣寄進の鐘」p315(「浮世絵」2・大正四年七月)   〝(房州保田 別願院 鐘銘)    南無阿弥施(ママ)仏     寄進施主 菱川吉兵衛尉藤原 師宣 入道友行(ママ)    南無阿弥施(ママ)仏     為 三界万霊七世父母      菱川七右衛門       家来 カメ 宗心 市助 道蓮 マツ 妙仲      嫡同 吉左衛門道茂居士      岩崎甚左衛門法清      嫡同 徳兵衛法円      次女ヲタマ寿栄大姉道茂室      次男同 伝左衛門法清     道茂子アマ千代清空西影      オリク 妙心      ヲタマ      友竹--子------- 吉兵衛同妻妙永      正之助          ヲイヌ      ヲカマ ◎部村藤吉室   ヲヘン知法      左次兵衛         妙林                   沖之丞    元禄七甲戌歳 五月吉日 西ノ宮大和寺 藤原吉奥作    房州保田村 林海山別願院 時住持欣入    (中略)    これを保田の医師渋田元竜【捜奇録の葆真斎同人なるべし】に問ひて記すといふ系図と対比すれば、師    宣の弟正之助は正之丞とあり。吉兵衛は師房にして沖之丞は師永なる事分明なり。猶師房の子に佐次兵    衛重嘉といふがあるは、大叔父の名を継ぎたるにや(以下略)〟   ◇「沾涼と俊満の本業 人物小話(一)」p329(「江戸趣味」3・大正五年九月。原題「江戸文人の職業」)   〝若樹文庫蔵引札張込帖に      慶寿杯【沈金彫/厚貝細工】尚左堂製(中略ママ)     御刀脇ざしや塗一色、並にかわりぬり仕候、尤酒器文宝御手道具るい何によらず、破笠まきゑ唐貝青     かいさいく、御望にまかせ奉差上候、◯(ママ)きぬ地 極さいしき並黒さいしき、うきよ絵相したゝめ     申候、是亦風流は御好にまかせ候          東都横山町二丁目北側中程   窪田英次郎/同俊満    とあるものあり。沈金彫は、漆器に花卉鳥獣等を筋ほりに陰刻し、金末を施し沈めしもの。破笠まきゑ    青貝細工は、漆器に種々なる物、青貝等を嵌入して、或形状をあらはすものなり、さては俊満塗師であ    りし歟〟〈沾涼記事割愛〉          ◇「中沢年章 人物小話(二)」p382(「伝記」8-11・昭和十六年十一月)   〝芳年門人だそうですが、物には記されてゐないやうです。甲府から二里計りの在の農家の子で、今でも    多分息子か孫かゞ農場に従事してゐるでせう。若い時芳年の所へ行き、病気をして甲州へ帰り、甲府の    表具師長岡、今の楽平子の親の所に寓居してゐた(中略)芳年の話をして、師匠は大の天麩羅ずきで、    箸と茶碗を持つてよく屋台店へ出かけたと言つてゐました(云々)〟      ◇「豊原国周 人物小話(二)」p382(「浮世絵」5・大正四年十月、原題「浮世絵雑記」)   〝今はありませんが神田松富町に私立で石川学校と云ふのがありました。そこの校長さんが、明治の錦絵    を見ては口癖の様に国周は偉い、偉い斗ではない名人だと云ふのです。先生何点(どこ)が偉いのです     又何点(どこ)が名人ですと聞くと、だつて偉いぢやアないか、今(明治廿七年の事)日清戦争で錦絵画    工は挙つて際物の戦争物を描いて居るのにも構はず、自分は何処までも役者絵を描いて意志を枉げない    所が偉らい。それは先生 国周が偉いのではない 他の絵が描けないのでせふ、イヤさうでない、周延    でも国政でも描いて居る所を見れば描けぬ訳はない、あれは己の専門以外には筆をとらぬと云ふ権式だ。    又名人と私が云ふのは、あの似顔画は面と体ば斗り大きくつて手が小さい、恰亀(とんとママ)の子みたい    な格好だ。他の画師にあれを描して御覧なさい、丸でなつて居やアしない。それを国周が描くと、ちや    んと、ちやんと形が整つてちつとも可笑くない。あすこが名人だ。あの人が死んだら、モウ似顔絵もお    しまいだと云はれましたが、果して国周が死ぬと共に絵双紙屋が絵葉書屋に替つてしまいました〟       ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)   〝尚左堂俊満 窪田安兵衛【一作易兵衛】初学画楫取魚彦、号春満、後従北尾重政、学狂歌頭光、号一節          千杖、更南陀伽紫蘭、住通塩町、住馬喰町、住本所亀井町、文政三年庚辰九月廿日没、年          六十四 葬浅草正覚寺    十返舎一九 重田氏、幼称幾次郎、故号一九、不闇香道之事也、改定(イ貞)一、後更名与七、諱敬貞、          駿河人、天保二年辛卯八月七日没、六十八歳、葬土富店善竜寺中東陽院【此寺今移千住云】    風柳庵時成【浮世絵師伝肉筆遊女図、画風似英山】    昇亭北寿 名一政、称源藏、住浮世小路槙村裏    葛飾北寿、名一政、号昇亭、住薬研堀、最巧浮絵、善画名勝山水【(方)浮世小路槙村裏源蔵、号昇斎】    〈「夷曲同好続編筆者小伝」記事〉    北寿 名一政、号昇堂、一号形工亭、学画北斎、長浮絵、住薬研堀【号昇斎、住日本橋浮世小路槙村裏       称源蔵(方角分)】    蜂房秋艃 吉見八太郎、紀定丸一族、学画北馬、又入便々館社中詠狂歌、号柳花苑山形【住豆腐屋敷】      秋艃 吉見八太郎、一号蜂房、学画北馬〈「第一冊」記事〉    寿香亭 泉吉兵衛、住本郷一丁目、世称目吉、初学画古等琳、更従狩野探信、号守一、文化十二年己丑        十二月五日没、葬無縁坂講安寺【名義信、御霊屋彩色御用絵師頭領】        泉吉兵衛、住本郷一丁目、以任侠著世、称目吉、文化十二年乙亥十二月五日没、葬無縁坂講安        寺〈文化12年は乙亥 下段「第一冊」記事〉    寿川斎 称泉鉄、学画寿香亭〈寿香亭は泉守一(目吉)〉    田鶴丸 狂名芦辺田鶴丸、称岩田次郎兵衛、字可蘭、号橘庵・三蔵楼、名古屋人、業染工、従遊唐衣橘        洲、天保六年乙未十月六日没 播磨沖、年七十七    蓬洲 神谷蓬洲、称青木亀助、好戯作号春川五七、学画春川秀蝶、住小石川、後上洛住祇園下河原、天       保三年頃没于洛、享年五十余    雷周 学画葛飾北斎 本材木町七丁目彦次郎 以孝被賞事載街談文々集    北嵩 島重宣 後改光義、号酔醒斎、閑々楼、蘭斎、初学画北斎、後帰唐絵、号東居【一云柳居】、住       本郷 明神下伊勢屋吉衞門内(方角分)    雷斗 鈴木重兵衛、住本所柳川町 号柳川重信、娵北斎女、襲号雷斗、天保三年壬辰十一月廿八日没、       年四十六、葬下谷坂本宗慶寺    雷洲 安田茂平、名尚義、字信甫、住青山【天保十三年人名録云、住四谷大木戸】初学画北斎、後慕紅       毛画風頗善銅版絵 号文華軒馬城    北鵞 岸本氏、名政周、称庄七、学画北斎、号卍楼、住本所番場【或云称三田小三郞、号抱亭五清似不       然】    雪旦【長谷川宗秀、一曰後藤茂右衛門】号巌岳斎、一陽庵、住下谷三枚橋、天保十四年癸卯正月廿八日       没、年六十六、葬浅草田圃幸竜寺【住本郷日陰町、小笠原佐州藩(方角分)】    英山 菊川俊信、幼称万吉改万五郎、称近江屋、家売造化、住四谷裏御箪笥町、学画父英二及鈴木南嶺、       号重九斎、慶応三年没、享年八十一【麹町六丁目佐花屋万吉(方角分)】    春亭 山口長十郎、号勝汲壺居・戯墨庵・酔放逸人・松高斎・初住和泉町、後移馬喰町一丁目、学画勝       川春英為一家、文政三年庚辰八月三日没、年五十一    北馬 有坂五郎八、号駿々亭、蹄斎、学画北斎、善傅彩、弘化元年甲辰八月六日没、年七十四    逸馬 葛飾逸馬、学画北馬、名英信(ヒデノブ)    広昌 駿河沼津人、屋称太平屋、学画豊広    五車亭美真志 狂名石美真志、津田氏、名長、字子敬、号亀山、晩号亀翁、幕府徒士、住牛込南御徒町、           天保十五年甲辰二月十九日没、年七十一、葬牛込岩戸町法正寺、子源太郎、名雅、字子           雅、号梧亭    便々館湖鯉鮒 称大久保平兵衛、名正武、初号福林堂巨立、住牛込山吹町、文化十五年戊寅四月五日没、           享年七十、葬牛込藁店光照寺           為小笠原若狭守配下〈一行「第一冊」記事〉           二代目なるべし〈一行「続編」記事〉    文々舎蟹子丸 久保泰十郎、天保八年丁酉二月九日没、享年五十八【(方)本所三ノ橋相生町五丁め 大           塚小太夫(寉立停々)同居久保喜十郎】〈以下「第一冊」記事〉           狂名裏堀【一云葛飾】蟹子丸、称久保喜十郎、名匡寛、為幕府賄方【一云名有弘、為幕           府与力】住本所割下水、俳号諧遊、天保八年丁酉二月九日没、享年五十八    守信亭於古足 本屋忠五郎、住水道端    五車亭亀山 津田新九郎、名長、字子敬、住牛込南御徒町、天保十五年甲辰二月十五(九)日没、年七十          一、葬牛込岩戸町法正寺    豆々庵豆人 有吾友軒豆人、不知同否、本所小奈木川住 新庄五郎左衛門侯【方角分】    六花園行就 狂名道芝行就、鈴木氏、字玉屑、称囫圇子、初号玉鉾軒、住東都聰馬橋(サメカハシ)【称作兵衛】    便々舎炭方 古今馬鹿集載紀炭堅、不知同否。          小野炭方、初号大原亭、芝金杉二丁目伊勢屋惣八【方角分】    談洲楼焉馬 称和泉屋和助、住本所相生町、為大工棟梁、中村氏、名英祝、号桃栗山人、柿発斎、文政          五年壬午六月二日没、年八十、葬本所最勝寺    柳亭種彦 高屋彦四郎知久、住浅草堀田原、幕府旗下士、焉馬門人、号愛雀軒、諺紫楼、狂名柳風成、         天保十三年壬寅七月十三日【表向十九日】没、年六十、葬赤坂一木浄土寺、法号芳寛院殿勇         誉心禅居士    浜辺黒人 花月庵、称三河屋半兵衛、斯波氏、名孟雅、字子頌、住本芝二丁目、寛政二年庚戌五月十八         日没、年七十一、葬麻布光林寺    鶴林老人 五松鶴林、菅原姓、名忠俊、字公英、住神田元誓願寺前    寛斎酔客 市河小左衛門、名世寧、字子静、号東野、半江、上毛人、文政三年庚辰七月七日没、年七十         二、葬谷中本行寺    北山老人 山本氏、名信有、字天禄、称喜六、号孝経楼、文化九年壬申五月十八日没、年六十一、葬白         山本念寺    一寸法師 尾藩医 毛受(メンジヤウ)昭寛、名善喜、住市谷、初号瓢箪園、後号西来居未仏、母美津女、亦         善狂歌〈「続編」は毛受照寛〉    巴(ママ)蘭亭 山道高彦、称山口彦三郞、住小石川、住小石川天神下、田安家士、文化十三丙子九月十日          没〈馬蘭亭〉    六樹園 石川五郎兵衛、初称糠屋七兵衛、住小伝馬町三丁目、業旅亭、名雅望、字子相、従学津村正恭、        号蛾術斎、後得罪廃業、徙四谷新宿更転霊巌島、天保元年庚寅閏三月廿四日没、享年七十八、        葬浅草黒船町正覚寺中哲相院        宿屋飯盛 五老、曽得罪不得住於府内 隠栖成子坂、後赦住霊岸嶋〈この行「続編」〉    橘樹園 狂名山田早苗、称黒田庄右衛門、名懿、字徳雅、号嘯斎、住赤坂伝馬町、業店舗称山田屋、安        政二年乙卯十二月九日没、葬四谷西念寺    浅草庵 狂名壺市人、大垣氏、称伊勢屋久右衛門、住浅草田原町角東仲町、業典舗、号都響園、墨用廬        ・壺々陳人、文政三年庚辰十二月二十八日没【一云廿九日没】年六十六、葬浅草松清町大松寺        襲頭光巴人亭、其社称壺側、晩閑居向島墨用廬〈この行「続編」〉    松風台 狂名鶴立停々、大塚氏、従游朱羅菅江、文々舎兄、住本所三之橋、一号訓和亭    鈍々亭 狂名祭和樽、称武蔵屋元次郎、改新六、岡田氏、名直常、住神田小柳町、剃剪手、文政五年七        日(ママ)没    東夷庵 狂名蝦夷古渡、称林和助【一云浅野氏】住市谷徙京橋数寄屋町、文政六年癸未八月廿九日没、        年五十    千首楼 浜松清七、狂名屋敷堅丸、住神田藍染河北岸【紺屋町代地住、狂名臥(ママ)丸、浜松清右衛門        (方角分)】    淮南堂 称河内屋安兵衛、河合氏、名正明、狂名桂眉住、下谷三味線堀、天保四年癸巳二月七日没、享        年七十一。〈「続編」〉菅江門    天広丸 磯田広吉、鎌倉人、住四谷千日谷、売卜為生、文化六年己巳三月廿八日没、享年五十四、別建        碑麻布今井町善学寺、法号栄誉浄願信士    此君亭 於兎門山王内藤豊州藩、吉田太右衛門    満寿女 五松鶴林門、住橘町三丁目    千数庵 矢藤、浅草黒舟町家主山田屋藤兵衛        柏屋勘兵衛、初号青記、文化十三年丙子七月没、葬寺島蓮華寺【狂名千枝栄、鈴木氏、元本所        中鄕 米屋萩原松五郎(方角分)】    桑楊庵 狂名岡干則【又曰浅草干則】熊岡氏、称三河屋藤八、初号真砂庵、住浅草田原町、文政二年己        卯十一月十四日没、葬下谷高岩寺【寺移巣鴨】    巴扇堂 狂名呉竹世暮気、大塚氏、文政三年庚辰九月没、二世巴扇堂、狂名筆常持、称蓮彦右衛門、名        長賢、市谷筆匠、文政十一年戊子正月十八日没、葬新宿西方寺【寺移中野】    酔亀亭 狂名天広丸、称磯田広吉、文化六年己巳三月二十八日没、年五十四【千日谷磯田弾正(方角分)】    朱羅館 山崎郷助、初名景基、改景貫、俳名貫立、狂名朱羅菅江、号道父、元文三年十月廿四日生、住        牛込加賀屋敷原廿騎町、寛政十年戊午十二月十二日没、年六十一、法号蓮光院泰安道父居士、        葬青山青原寺【今移東中野】    応岱 法橋、住飯田町    静廬 狂名網破損針金、称屋根屋三左衛門、北氏、名慎言、字有和、号梅園、初住芝二葉町後屡移居、       嘉永元年戊申三月廿九日没、享年八十四、葬芝天徳寺中教受院    梅園 狂名網破損針金、北氏、称三左衛門、号四常書屋、従学山岡明阿、元木網〈没年月日、享年同上〉    雛丸 弥生庵、一号桃之本、春月堂、住麻布日个窪。飯倉片町小野源蔵【方角分】    早人 三馬叟早人、称山村吉左衛門、改板屋常恒、号無心亭、住根岸【深川網打場松村町住(方角分)】    葛嶺 称政右衛門【印に島馬とあるが如し、下島惣左衛門、号白雲斎、住切支丹坂下】       号白雲斎、下嶋惣左衛門、住切支丹坂下、退園〈「第一冊」記事〉    川面 狂名宮戸川面、藤田氏、号唯我堂、住本所    三馬 菊池太輔、版木師茂兵衛子【或云八丈島為朝神社、祠官菊池壱岐守庶子】曽為書肆万屋太次右衛       門嗣、号洒落斎、四季山人、文政五年壬午正月十六日【名人忌辰録作享年四十八、戯作者小伝作       四十七、狂歌人名辞書作四十六】葬深川雲光院中長源院、法号観誉喜楽天信士〔欄外 安田椎園       蔵安永五申年出板吉原細見外題ニ三馬自ラ今茲三馬出生ト記シアリ、享年四十七ナラム    旭山 今井次郎太郎、名公通、字子固、号抱雲亭、住下谷二長町    曲河 清水連【一作連江】名冕【又作絻】字子昇(章)、住小日向、学画谷文晁、文政二己卯五月十一日       没、年七十三、葬小日向金剛寺    義堂 長谷川仲之助、文晁門、此人か    鶴嶺 山跡氏、名義淵、字君魚、浪華人、学応挙、来住平安    柳之 字淑英、号翠塢、称斎藤郁容、住神田明神下    染丸 急那紋染丸、号五福亭、称伊勢屋久七、学六樹園、住本郷【本郷日陰丁菱屋篤右衛門(方角分)】    竜川 神谷存左衛門、名績、字君厚、後号竜河、越前人、初住鎌倉河岸、後住銀町三丁目    詩仏 大窪氏、名行、初称柳太郎、薙髪称天民、初住玉池後移練塀小路、天保八年丁酉二月十一日没       年七十一、葬浅草光感寺【改葬相州藤沢】    川面 狂名宮戸川面、藤田氏、号唯我堂、住本所【日本橋本小田原町藤田眠庵(方角分)】    月潭 松井静兵衛、名有政、字士鳳【住榎町(方角分)】    閑林 岡田忠次郎、名武功、字子豊、一云名練、字石輔、号酔鵞翁、柿蔭噉花、学画谷文晁、住目白台       組屋敷、嘉永二年己酉十一月七日没、年七十、葬小石川慈照院    清澄 石川雅望子、名万年、字芥之、称清三郞、号玉河、塵外楼、天保五甲午四月十五日没、年四十九、       葬四谷永昌寺        法号塵外楼清哲大澄居士〈この行「続編」〉    文宝 飯田町中坂茶舗亀屋婿今井久右衛門、後移三筋町、称久助、号散木、学蜀山之書風殆乱真 文政       十二年己丑三月廿二日没、年六十二、葬市谷左内坂長泰寺    黙楽 大田南畝長子 名俶、字子載、称定吉、号鯉村、天保八年丁酉二月四日没、年五十八    随馬 牛込宗参寺前 山辺八五郎(方角分)    花陰 或云橘千蔭    花禅 狭々城三蔵、名真彦【一作万彦】号高斎、海棠園、住白山       石野広道二男、初名元典、称多六、襲佐々木氏、名万彦、諱一陽、字聖甫、仕幕府為大御番、入       冷泉家之門、善和歌、又就坂氏学連歌、従山本北山学経書、号花禅・蒿斎・海棠園、住白山、文       政四年辛巳十月二十八日没、葬小石川指谷町巌浄院、妻み多子善和歌、弟晴陽嗣家 昭和十四年       十月三十日記    南涯 名強、字子明    雲僊 印文董邦    月釣 印文臼儀園、住於玉池、学画於月窓    酔雪 多賀谷【一作多賀屋】氏、名驥、字仲徳、号一窓、称丈七、平姓、父安貞、母町田氏、向陵弟、       向陵不娶故為嗣奉職御先手与力、娶香山氏、生長祉、天保十年己亥三月十五日没、距生安永五年       丙申六月八日、六十五春秋、葬鳳林寺【寺今移在中野】    月潭 松井静兵衛、名有政、字士鳳、住牛込山伏町    錦洲 印文曰助(則カ)美    流渓 印文曰文応、大山卯之助、住駒込竹町    雲峰 大岡氏、名成寛、字公栗、称次兵衛、住四谷大番町    雍山 好詠狂歌、号瀬喜川路花、菁(芳)斎寅朝、称小櫛鉄四郎、住切支丹坂上角    桂園 岡村氏、名遜、字尚謙、精本草学    桃林 鈴木氏    雲渓 村田正七、名永年、字伯慶、号梅花都尉、画禅堂、住小石川【字万年、住小石川御箪笥町村田長       三郞元庄助(方角分)】    長根 本阿弥三郞兵衛、本姓菅原、業刀剣鑑定、狂名浅黄裏成、号芍薬亭、潜亭、二世喜三二、弘化二       年乙巳二月十日没、年七十八、葬谷中妙法寺    白峨 印文曰慶雲焦花末流焦花堂、号鉄筆道人、善烙画、初住箱崎、罹丙丁之災移根岸、明治初年没        年八十余【前島和橋話】〈「丙丁之災」不明〉       石洲斎如岱、号焦花堂、白山御殿坂上大林伝左衛門(方角分)    高人 称伊勢屋孫左衛門、法号尚阿、号松桜庵、浅草庵門人、住浅草    蘭坡 印文曰一馬【天保十三広易人名録、儒道学、蘭坡、川澄万治、名明義、字大路、浜松藩、住青山】                        (昭和六年辛未九月十六日夜、竹清三村〔奣〕記)   ◇「夷曲同好続編筆者小伝」p456(昭和六年九月稿)    絵馬屋額輔 幼名松下虎之助、改奥田健蔵、赤坂人、移新堀端、業典舗、従節松嫁々、安政元年正月廿          七日没、享年七十四、葬一ツ木浄土寺、狂歌作者部類曰、磯川氏、初号時雨庵空言、画名          嵩涛、号拳々斎    秋長堂物梁 二世物梁、号秋長堂、称伊勢屋利兵衛、住京橋新肴町    七珍舎万宝 芝大門前菓子翁屋戸村七兵衛、二代森羅万象門、即二代万宝也、墓在芝山内貞松院云    狂歌房滝水 酒月米人、号狂歌房、称榎本治兵衛、晩改四方滝水、此書与米人不同、恐別人    春秋庵永女 月花永女、称竹内えい、住小網町、錦鳳堂永雅妻、物梁社中、嘉永三年八月二日没、葬浅          草東本願寺    千柳亭一葉 錦織即休、仙台医官、初従三陀羅、後為五側判者、改号綾彦、元治元年甲子五月五日没、          享年七十七    白毛舎万守 大嶋照房、住石町、号鐘声館、為葛飾連判者    津不里光 世伝名識之、其師蜀山識曰岸教明、称宇右衛門、号後巴人亭、法名恕真富徳誉素光、本所亀         井町々代、学画一筆斎文調、号文笑、一号桑楊庵、寛政八年丙辰四月十二日没、享年四十三、         葬駒込瑞泰寺、墓今不存云【判取帳、狂歌人名辞書、見ぬ世友】〔欄外〕此狂歌之名歌也    蔦から丸 喜多川柯理、称蔦屋重三郎、住吉原五十軒、出板書肆耕書堂、天明三年移通油町、寛政九年         丁巳五月六日没、享年四十八、葬山谷正法寺    高嶋千春 称寿一郎、号融斎、鼎湖、善倭絵、住駿河台、安政六年十一月十一日生(ママ)、享年八十、葬         浅草雄念寺塔頭願寿寺、法号光邦院釈千春宗融居士    梅屋鶴子 室田亦兵衛、一号鶴芝、神田元岩井町住、為本町判者、後号鶴寿秣翁、慶応元年正月十二日         没、享年六十五、葬駒込大円寺    魚屋北渓 名辰行、字拱斎、住赤坂長井町、称肴屋、初太郎、学画北斎、称岩窪金右衛門、住四谷鮫橋         嘉永三年四月九日、享年七十一、葬千駄ヶ谷立法寺    葵岡北渓(空欄)    元木網 武州松山人、金子氏、正雄、幼名喜、又称大野屋喜三郞、初居京橋北紺屋町、営浴場【江戸方        角分曰、神田永富町珠阿弥大野喜三郞】後移西久保神谷町菓匠壺屋側衖、称渡辺嵩松、嵩松画        号也、一号落栗庵、文化八年辛未六月廿八日没、享年八十一、葬深川正覚寺【擁書漫筆、判取        帳裏書、天明四年春興抄、奴凧、若葉集、忌辰録】    俳諧堂歌志久 手賀常幹、常陸麻生藩士、国字垣真顔門    鹿津部真顔 称北川真顔、称嘉兵衛、為数寄屋河岸家守、傍鬻汁粉餅為業、初称万葉亭好町、作稗史、          後従蜀山、号鹿杖山人、四方歌垣、狂歌堂、以狂歌点料為計生、文政十二年己丑六月六日          没、享年七十七、葬小石川光円寺    芦辺田鶴丸 名古屋染工岩田次郎兵衛、字可蘭、橘洲門、号三蔵楼、橘庵、天保六年十月三日溺死於播          磨沖、享年七十七    三方長熨斗 細井陵井    文車庵文員 福田林兵衛、神田人、天保三年五月六日没、享年六十六、葬深川大工町本誓寺    月下亭音高 砧音高 鈴木氏 号桂居、住住吉町    竹芝園糸頼 山本啓助、小田原藩士、住芝山内海手    鹿杖庵真臣 小原儀輔、一号真締、住京橋新肴町    桃乃木雛丸 初代弥生庵、住飯倉片町【狂歌人名辞書作日ヶ窪】称小野源藏、或書云天保元年三月廿五          日没、享年六十七、葬麻布天真寺    瀑布下千丈 江里川助右衛門忠能、後改勘解由、称敬斎、幕臣、住芋洗坂、従真顔、天保十四年八月十          五日没、葬六本木深広寺    花明園光一 西村左兵衛、名徳基、住吉原江戸町一丁目    錦鳳堂永雅 竹内喜一郎、名永雅    苾蒭園艸業 初号九曜堂、美都法師、別号十方庭、住堀内妙法寺、後移身延    採撰亭直古 柴崎十兵衛、初号香久山鉾杉、別号幸の屋、住駿河江川町、古鉄商、後業書肆、後来住京          橋塗師町    与鳳亭枝成 山崎佐助、住日本橋十九文横丁、従游与鳳亭内記    面堂安久楽 藤木彦八、住万町、裁縫師、仕某侯、従真顔、後改古面翁、明治十四年十一月八日没、享          年八十三    琴樹園二喜 称中嶋又右衛門、後改武隈庵双樹、公木園、山海陳人、住下谷忍川畔、天保十四年八月一          日没    如水子春時 糟屋修輔、号幸能屋、上総富津人    酒廼屋呑安 井田勘右衛門、名貞幹、字子直、上総刈谷人、号蓬莱山人、与弟竹之屋直成出狂歌奇人伝    文字楼元成 称磯部源兵衛、号花街楼、冒村田氏襲元成之名、更襲二世一九、四世八文字屋、二世落栗          庵、別号三亭春馬、嘉永四年十二月二月十八日没、葬今戸慶養寺    唐衣橘洲 小嶋氏、名恭従、一名隆之、後改名謙之、字温之、称源之助、号酔竹庵・無碍館、狂名初称         橘実副、初住四谷忍原横町、後移小石川御箪笥町、従学内山椿軒、明和三年家督小普請組、         明和六年為田安小十人 給十七石三人口、寛政二年 給二十石三口領金五両、寛政八年致仕、         子蕉園嗣、享和二年壬戌七月十八日没、享年六十、法号心眼院開誉得聞居士、墓今在戸越浄         土寺墓地    問屋酒舩 井上幸二郎、住南新堀二丁目【方角分曰井上重二郎、号俳諧亭、住本湊町】号臨海楼、好俳         諧号春蟻、文化十年癸酉九月十日没【判取帳、新俳諧年表】    大屋裏住 久須美氏、称白子屋孫右衛門、初住坂本町二丁目、業更紗染、世人称更孫、後為金吹町中井         新右衛門家守、住金吹町後衖、大屋裏住之称因之、(初号大奈言厚記後)一号萩乃屋、学狂         歌木網、寛政二年八月剃髪、文化七年庚午五月十一日没、享年七十七、葬深川法禅寺中南竜         院【仮名世説、百家畸行伝、忌辰録】    銭屋金埒 初号物毎明輔、馬場氏、称大坂屋甚兵衛、住京橋数寄屋町二丁目、業銭荘、従遊蜀山人、号    (キンラチ)  黒羽二亭・滄洲楼・日頭庵、文化四年十二月四日没、五十余歳、葬麻布光林寺、式亭三馬記         作芝金杉常瑞寺【老莱子、作者部類、狂歌人名辞書】    唐来三和 高家某臣、有故脱士籍為蔦屋義弟、嗣本所松井町妓館加藤氏、称和泉屋源藏【方角分作大和         屋】文化十二年乙亥六月七日没【狂歌人名辞書作文化七年正月廿五日、今従名人忌辰録】享         年六十七、葬深川浄心寺、三和以戯作聞、号伊豆亭、知足振、日狂名質草少々    腹唐秋人 中井氏、初称友吉、改嘉右衛門、名敬義、字伯直、号小笠、鷦鷯居、春星、宜松、初従游山         中天水、後学山本北山、文政四年辛巳七月二十六日没、六十四歳、葬築地浄見寺、別建碑深         川宜雲寺    倉部行燈 湯島酒問屋小嶋屋源右衛門    霞千重女 【出数寄屋風呂】〈『狂歌すきや風呂』鹿都部真顔編 寛政三年刊〉    飛塵馬蹄 上野山【読如咲山】六郎右衛門、田安家臣、住市谷加賀屋敷、移南寺町左門町    友垣古文 【出後万載集】〈『徳和歌後万載集』四方赤良編 天明五年刊〉    笑倍友竹 山下久雪、住四谷坂下、称久意、一作童部友竹    望月秋吉 字章甫、住麹町、業医、方角分曰麹町二丁目駿河屋伊右衛門    地方方丸 山崎又次郎、橘姓、名春方、号栗園、初称鍬之丞、母山崎春章女、父坂部氏、幕臣為大番組         給二百俵、住牛込呑吐橋、橘洲社中、文政六年四月三日没於大坂、葬小橋寺町伝長寺、法号         高専院才岸丁哲居士、分骨瘞小日向日輪寺、法号高専院得応雲外居士。妻横地氏、後配戸田         氏。男久太郎、号桜斎    鳴滝音人 銀座内池沢権右衛門手代常次郎、名千幸〔欄外 要再考〕    篠埜玉涌 名古屋人、加藤氏、称唐木屋市右衛門、号不断庵、蛸池、天国、寛政十一年没    源平桃吉 川田窪住、尾州藩石川林七郎、号尋幽亭【方角分】    塒出鷹久 上毛人    豊年雪丸 松月庵、名古屋人    豆永金成 玉涌男、遠山八右衛門、大江知方、号悠々館、名古屋人【狂歌人名辞書】    下手内匠 本田甚五郎、住日本橋箔屋町、初号近亭三七、後号尽語楼、天明老人、為小槌側判者、文久         元年五月十四日没、享年八十一、葬浅草新堀西福寺、狂歌作者部類曰、小切間氏、号飛騨山         人    酒月光丸 菅原美啓、従芍薬亭、号楽聖庵、住外神田    緑庵松俊 高橋半兵衛、従真顔、号咲花堂、住日本橋和泉町    田中香雪 称米蔵、字朗卿    薦垣真葛 竹内真助、号数寿垣、住中橋油座、安政四年閏五月廿日没    浜辺里人 号花月庵、森節亭、両国絵屋    親慈悲成 住芝宇田川町、桜川杜芳門、襲桜川、八尾氏、就金工杉浦如泉、名則久、称錺屋大五郎、精         通茶道、出入諸侯間、世間幇間称桜川始于此、天保四年没、七十三歳    柳園石門 千葉氏、号柳下窟    秋園斐竹 菅沼八左衛門、参河小川人、号秋園、称緑之門    富田永世 諱高党、称京屋金蔵、秩父太田人、仕上毛藤岡京屋弥兵衛、為主管来、住浅草支店二十年矣         従橘千蔭、清水浜臣、黒川春村修国学、号浅葎庵、金風亭、安政二年乙卯十二月廿一日没、         葬其郷先塋、法号鶴誉法林永世居士    黒川春村 称治平、改主水、初号本蔭、別号葵園、薄斎、住浅草田原町、襲三世浅草庵、慶応二年丙寅         十二月二十六日没、享年六十九、葬新堀永見寺、分骨谷中宗善寺    生方鼎斎 名寛    紀定丸 吉見儀助、名義方、字伯教、住牛込豆腐屋敷、為幕府勘定方、初号野原雲助、更改本田原勝栗        定丸一作定麿、天保十二年辛丑正月十六没、享年八十二、葬本郷元町三年寺    鱠盛方 遠藤氏、馬喰町旅舎山城屋弥市【判取帳作山城屋、半日閑話作京屋、方角分作秩父屋】寛政三        年辛亥七月四日没、葬谷中三崎一乗院    紀安麿 根尾城之進、浅草人    臥竜園 渡辺藤右衛門、初号春江亭、菅江門、住本所緑町、安政六年十一月九日没、享年六十七、葬深        川西光寺【人名辞書】        瀬戸物屋嶋屋清右衛門、立川住    芍薬亭 菅原次郎右衛門、本阿弥七世、名長根、号三橋亭、潜亭、初号浅黄裏成、岡持門、称二世喜三        二、住下谷三枚橋、弘化二年二月十日没、享年七十九、葬谷中妙法寺    梅霜解 千種庵、称山中要助、常陸人、住浅草馬道、従頭光、初号霜解道和留、移諏訪町、業書肆、文        化八年四月廿六日没、享年五十一、葬今戸称福寺    俵米守 花咲庵、滝沢勘兵衛、一号閑寿亭、為臥竜園社中、木更津人、住本所、嘉永元年六月十五日没        享年六十八、葬本所大法寺    賀満守 津島嘉兵衛、正樹、表徳麗賀、号八木亭、住南鍛冶町、鬻米穀    橘照道 天方潤、字元徳、号生花斎、住中橋、業医    万事馬 鈴木可一、名魁、住天神橋畔、号真字垣、道樹庵、六合園、仰山亭    塵芥 泥田坊塵芥、池沢権右衛門カ  ◯「郷土三題」三村竹清著(「江戸時代文化」一ノ二 昭和二年三月)   (『三村竹清集九』日本書誌学大系23-(9)・青裳堂・昭和62年刊)   〝鳥居清長の絵馬    此の絵馬は目黒不動手前なる不老山成就院に在り。ここは蛸薬師とて名高き寺なり。思ふに同じ天台宗    なる京三条永福寺蛸薬師と同仏なるべし。(中略)此の絵馬の外に天明三年九月は勝俣言珍の納めし北    尾重政かきし碇に蛸の絵馬もあり。今も蛸を画きし小絵馬を納むる人多し。此の絵馬は桐の板極彩色に    かきしものにて、もと散銭函の上のかたに掲げたりしを、後に内陣へ移すとき、落剥しかゝりし絵の具    をはらひ落としたりとぞ。裏に文化七午歳六月とあり。清長は回向院の過去帳に文化十四年十一月四日    四十二歳にて没せしとある由なれば 其三十五歳の筆なること知るべし。願主しんば和泉屋半治郎とあ    り(裏には和泉屋忠兵衛、半治郎)、新場は清長の同閭なれば如何なる縁りか知らまほし。矢の根五郎    の狂言は幕府御研師正月研初の式に擬したるものゝ由。清長の絵馬は此の外に御府内新高野山にふたつ    蝶々のかたかきし大絵馬ありと覚う。癸亥の大震には都下有名の絵馬たとへば牛御前北斎の牛頭天王、    神田明神蕙斎の江戸一覧図及び容斎の重盛諌言図等の如き尤品を亡ひしは、返す/\も惜しむべき事な    りと、研究会幹部の方に申したるに、さらばとて先づ此絵馬を写照して載せられし喜ばしき事なり〟  ◯「江戸の地名に関する洒落言葉」山中共古翁輯 三村清三郞補(「集古」丙子二、昭和十一年三月)   (『三村竹清集九』日本書誌学大系23-(9)・青裳堂・昭和62年刊)   〝恐れ入谷の鬼子母神    草加越谷千住の先だ     夜の夜中も根津谷中    湯島の偏人様       ぴいぴいどん/\神楽坂   銭が内藤新宿    啌(うそ)を築地の御門跡  値は高輪の泉岳寺      なんだ神田の於玉ヶ池    智恵も浅草猿廻し     何ンにも千駄木林町     けふは飛鳥の花見時    万よし原山谷堀      気がもめの吉祥寺      遠い/\本所の火事だ    間夫は深川八幡宮     大違ひの鬼子母神      深い中だよ麹町の井戸だ    酔ふて九段の坂の下    腹がチヨツピリ数寄屋河岸  ねつから麻布できが知れぬ    洒落の内のお祖師様    どういふもんだ広徳寺の門    とんだめに王子の稲荷   さうで有馬の水天宮〟