Top         『明治文学回想集』       その他(明治以降の浮世絵記事)           『明治文学回想集』上下二冊・十川信介編・岩波文庫・1998、1999年刊      (『早稲田文学』特輯「明治文学号」(大正十四年三月~昭和二年六月刊)より三五編抜粋したもの)    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上)   ◇上p13   〝わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のな    い、不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の    発達上に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主として    これがためだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見    るべきもので、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノ    グラフィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわ    けにはゆかない宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主とし    て狭斜か劇場かに関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式    に外ならなかったのである。前ひいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相裨けてその発    達を促成した気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套    に堕し、化政度以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間    際となっては、もう全く行き詰りとなってしまった〟     ◇上p14   〝(明治維新間際の戯作界)力と頼む相棒の浮世絵は、亀井戸(本HP注、三代豊国=初代国貞)が死に、    国芳が死に、やっと二世国貞や芳虎や国綱や国周や芳幾らによって過渡期の伝統を維持するに過ぎなか    ったので、戯作は一般に不振となった〟     ◇上p29     〝(明治八、九年頃現れた新傾向の草双紙=表紙絵や中絵は従来の草双紙を踏襲しながら、傍訓付きの漢    字を多用して、街談巷説を脚色した絵入り読み物)十年前後には魯文、清種、梅彦、転々堂、彦作(久    保田)、泉龍亭、勘造(岡本)?など。(中略)絵は芳幾や国政や周延が専ら担当していたかと思うが、    いずれも、草双紙全盛期のそれらとは似ても似附かぬ、構図も筆致も彫りも刷りも、粗末千万なもので    あつた。歌川派も役者絵専門の国周以外は、おい/\生活難の脅威を感じはじめて、粗製濫造に甘んじ    ないわけにはいかなかったのである。後には油絵や写真から自得した一種の手法に一代の喝采を博し得    て明治の浮世絵界に雄視した大蘇芳年なども、まだその頃は、生存のために大踠(モガ)きをして、どう    したら時代の好尚に副い得べきかと暗中模索式の筆意を凝らしつつあつた。彼らが写真式の変な手法で    血みどろの官軍や幕兵を、あるいは彩色絵本に、あるいは錦絵に、頻りに画き散しつつあつたのは慶応    年間の事であった。    この際、歌川派の衰落を補充すべく、比較的清新な筆を揮って、新刊書の挿絵を描いて、一代に歓迎さ    れはじめた二画家がある。それは惺々狂斎と鮮斎永濯であった。前者は滑稽諷刺の諸著によろしく、後    者は新時代相を画くことにおいて、先ず写実的である点が歌川派を凌ぎ、かつ狩野派出だけに、上品で    もあった。明治八、九年以後、芳年が急に躍進して風俗画において彼と相対峙するに至ってからはそう    でもなかったが、松村の諸著の如きは、彼れの画で半分助けられていたといえる    こんな風で、例の四角関係は、いよ/\ます/\崩壊していった。けれども因襲の根はなかなか抜け切    らんものである。四角関係の系統は、傍訓附きの新式草双紙へは依然として伝わり、延(ヒ)いて明治二    十年前後にまで及んだ。私の「旧悪全書」の第一編『書生気質』の口絵にさへ、歌川国峰の筆によって、    明瞭にその残影が留められてあったことを憶い出すと慚愧に堪えない〟    ☆ ごうかん 合巻    ◯「明治年代合巻の外観」三田村鳶魚著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上83)    〈鳶魚は従来の整版(木版)合巻を江戸式合巻と呼び、明治十五年から登場するという活版の合巻を東京式合巻と呼ん     で区別している〉   〝(東京式合巻)この頃の表紙は新聞の挿絵で鳴らした大蘇芳年が大に振った。(中略)清新闊達な芳年    の筆致は、百年来の浮世画の面目を豹変させた。彫摺りも実に立派である。鮮斎永濯のもあったが上品    だけで冴えなかった。孟斎芳虎のは武者絵が抜ないためだか引立ちが悪く、楊州周延のは多々益(マスマ)    す弁じるのみで力弱く、桜斎房種もの穏当で淋しく、守川周重のもただ芝居臭くばかりあって生気が乏    しい。梅堂国政と来ては例に依って例の如く、何の面白みもなかった。やはり新聞の挿画を担当する人    々の方が、怜悧な往き方をするので際立って見えた。その代り芳年まがいを免かれぬ『絵入自由新聞』    の一松斎芳宗、『絵入朝野新聞』の香蝶楼豊宣、それにかかわらず一流を立てていたのに『絵入新聞』    の落合芳幾、『開花新聞』の歌川国松がある。尾形月耕は何新聞であったか思い出せないが異彩を放っ    ていた。東京式合巻は主として新聞画家から賑わされたといって宜しからろう〟     ☆ しんぶんさしえ 新聞挿絵    ◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上147)   〝新聞挿画の沿革    小新聞の挿画を書き始めたのが『絵入新聞』の落合芳幾氏であった事は前に述べたが、引続いて筆を把    ったのが歌川国松、新井年雪(ヨシユキ)(後芳宗(ヨシムネ)と改む)等であった。芳幾氏の作をその下絵で見る    といっも貼紙をして改描した痕跡を存し、また線書きも粗ッぽく別に締麗な絵だとの感じも起らぬが、    一旦剞劂師の手を経て刷上った処を見れば、殆ど別人の筆かと思われるほど優美なものに出来上り、か    つその画面に一種の艶気を含んでいたように見えた。元来「絵入新聞」の続き物には男女の恋愛関係の    物語が多く、後年高畠藍泉、前田夏繁両氏が退社し、二世為永春水氏がこれに代って専ら続き物を書く    ようになてからは一層人情本的の文体となったので、その生(ナマ)めいた文章と相俟って、芳幾氏の挿画    は益々艶を増したように思われた。唯私(ヒソ)かにこの大家に不似合だと思ったのは、故人の粉本ならば    まだしも、現存者たる芳年永濯両氏等の描いた人物の姿勢などをそつくりそのまま模写して憚らなかっ    た一事であったが……しかし一たび芳幾氏の手にかかると原図の拮屈なる筆勢も忽ち軟化して、如何に    も優艶な風に変ったのは不思議であった。されば新聞の挿画といえば芳幾氏に限るように持て離され、    その頃発行された『絵入人情雑誌』『芳譚雑誌』の絵も皆この人の筆であった。        惺々暁斎(キヨウサイ)氏は「仮名読」の魯文翁とは年来の旧知己で、翁の戯作本のさし絵は大概暁斎氏が書    いて居る。それらの関係から「仮名読」紙上や「魯文珍報」等へ暁斎の狂画が出るようになったが、一    種奇抜な筆致ゆえ続き物のさし画には不向で、書く物は調刺的の漫画のみであったが、これらが恐らく    今のパックふう狂画の嚆矢であったかも知れぬ。或時同氏が仮名読社へ来て編輯局の白壁へ戯れに酔筆    を揮った巨猫の図が新聞廃刊後数年間保存されていた事もあった。さてこれは新聞挿画とは関係のない    余談ではあれど、同氏の逸話の一つとして僕が現在見たままを話すのだが、或日暁斎氏が魯文翁の仏骨    庵を訪うた時氏は名うての酒豪ゆえ魯翁も先ず酒肴を出して持(モ)て成(ナ)して居る処丁度僕も行合せた。    其処へまた信州辺の製糸家だとかいう人が尋ねて来て携帯した立派な画帖を取出し、これへは東京有名    な文人の揮毫を請いたいのであるが、その手始めに先ず先生の一筆が願いたいと魯翁の前へ差出した。    翁はこれを見てそれは幸い茲に暁斎先生がおられるから願ったらよかろうと勧めたが、その人はまだ暁    斎の名も知らずかつ一見した処で頗る風采の上らぬ大坊主であるからその技倆を危ぶんでか聊か躊躇気    味に見えたのを、微醺を帯びた暁斎氏はひったくるようにその画帖を手元へ引寄せ、横さまに長く展    (ノ)べて、傍らの手習筆を盃洗の水で洗い、復た墨を含ませたかと見る間に画帖の七、八葉分へ蜒々た    る横線を黒々と引いて仕舞った。その時の依頼者の迷惑そうな顔色は今も眼前に見るようだが、暁斎先    生はそんな事には委細構わず、サアこれからだ見ていなさいと、今度は小さな水筆に持替え、ウネ/\    した黒線の上へ数疋の蛙が種々の姿で歩いて居る処を画き、最後に黒線の前後に頭と尻尾とを書き添え    るとこれが長蛇の形となった。つまり背中の上で蛙が行列して居るのを蛇が見返って居る図と成った。    茲に至て依頼主も始めてその腕前に敬服し、数回に渉って数名の人に頼むよりは図らず一時によい物が    出来たとて大に歓び、後にはこれを額に仕立てて愛蔵していたという事である。        芳宗、国松等に次いで新聞の絵を書いたのは芳年門人の山崎年信である(仙斎と号す通称信次郎)。こ    の人は同門中非凡の筆才があった人で、また画道の研究にも頗る熱心であった。同氏の机の抽斗(ヒキダ    シ)や文庫中には新古絵画の粉本または写生帖などが一ぱい詰つていた外に、硝子撮影の写真が百枚も二    百枚も貯えてあったが、これは自身が度々浅草公園内の写真屋に赴き、シヤツ一枚となって種々の姿勢    を写させたもので、下絵に取掛る時は必ずこの写真を取出し注文に適する姿のものを写生するのが例で    あった。それ故にやいつも同氏の描く人物には肥満なのがなくて、皆自身同様痩躯の人ばかりであった。    惜しい事には酒のためにしばしば身を誤り、また芳年氏の許諾を得ずして或る粉本を持去ったとかいう    罪で、師匠から破門せられて大坂の『此花新聞』を経て土佐に赴き、一年ばかり高知の『土陽新聞』の    挿画を担当していたが、田舎では絵画の研究が出来ぬとあって都恋しくなり、また東京へ帰って来たが    その時の道中は大坂へ着した時懐中剰す所僅かに五十銭、それから汽車を横目で見ながら東海道をテク    /\と歩いての上京中途中で帽子を売り帯単衣を売り或夜は辻堂に寝たりしてヤッと東京に着した時身    に纏うて居るものはシヤツとズボン下だけであった。殊に一番困った事はと本人自身の話したのは静岡    県下へ入った時或る川の出水後仮橋が架っていて橋銭壱銭というのだがその持合せがないために一、二    里ほどブラ/\と元来し途へ立戻り、夜更けて橋番の寝込んだ頃を見すましてそっとその僑を渡ったと    いう事である。こんなに貧苦に迫りながら少しでも金が手に入ると直にそれで絵画上の参考書を買込む    という風で、その後僕と下宿屋に同棲のころ、僕が地方新聞社から送って来た続き物潤筆料の郵便為替    を同氏の外出のついでに受取って来てくれよと頼んだ事があるが、やがて十冊ばかりの書物を携え帰り    これは誰の風俗画これは誰の花鳥画譜、みんなで八円とは余り安いから買って来たというに、シテその    金はと問返せば、イヤ待ち給えオオそれは君の潤筆料を暫時借用したのであったと平気な処などは頗る    仙人風を帯びていて、突飛な挙動があったにかかわらず少しも憎気のない人であった。また同じ頃僕が    数年前から製図の参考として持っていた西洋の遠近法を、その原書について図解の説明をした時は非常    に歓んで、とう/\原書中の図を悉く写し取り、それから後は家体または背景などを描く時は、この遠    近法の書き方に従い下絵を朱線だらけにして苦んでいた事もあった。そして在京中は魯文翁の高野長英    の続き物の挿画を書いた事もあるが、中頃京都の『日之出新聞』へ転じてから師宣とか春章とかいう古    い処の筆意を学び、画風は一変したもののかえって自家の本領を失い、計判前日の如くならずして十九    年頃同地で没したが、その門人にはかって『万朝報』の画家であった藤原信一氏や二世田口年信氏など    がある。    年信氏に次で『いろは新聞』の絵をかいたのは同じ芳年門下の稲野年恒氏(名は孝之加賀の人、『浮世    絵備考』に稲野孝之を年恒門人としたのは二者同一人の間違いである)で、この人は後に『大坂朝日』    から『大坂毎日』に転じ絵画研究として洋行した事もあって関西の画壇を賑わせた一人であったが明治    四十年五月二十七日五十歳で病没した。        また月岡芳年氏の絵を載せ始めたのも『いろは新聞』であったように記憶するが、それはただ臨時もの    としてほんの数回載せたのに過ぎなかった。而して芳年氏の本舞台はその翌年ごろ星亨(トオル)氏主宰の    下に三十間堀?で発行した『自由燈』であって、芳年氏はおれの絵で一番この新聞を売って見せるとい    うはどの意気込みであっただけに凡(スベ)てが絵画本位で、その小説はむしろ挿画の添え物でもあるか    のように感じられた。故にその版木の寸法にも制限がなく、折には三段抜き以上の極めて大きな絵を出    す事もあり、人物を下段に顕わしこれと対照すべき月だの遠山などを別に離して上段へ掲げたり、また    附け立ての背景を廃して思うさま余白を残し、ことさらに余韻を生ぜしむるように工夫したものもあっ    て、画面に変化が多く随って著しく人目を引いて評判も俄(ニワ)かに高くなった。そしてこれまでは一段    か一段半の長方形に限られていた他の新聞挿画も追々芳年風にかぶれて、版木が一体に大きくなりかつ    その絵組にも奇抜なものが顕わるるようになった。とにかく芳年氏が出て新聞挿画が一変したというの    は事実である。    しかし今からち思うと、有名な芳年氏もまだ当時は全く生硬の域を脱し兼ていたよう見えた。例の強い    筆癖で人物はあたかも木彫人形の如く、その衣紋は紙衣(カミコ)か糊ごわい洗濯物でも着て居るようで、    少しも嫋(タオヤ)かな処がなく、また写生を専らにしたにもかかわらず人物の姿勢にも、随分無理な点が    あったのを往々見受ける事があった。さればその頃滑稽堂から発行された『月百姿』の錦絵にも、この    欠点は顕われていたが、要するに同じ国芳の門下でも芳年氏は剛猛な武者絵風のものに長じ、芳幾氏は    優艶な美人画が得意であった。そしてその頃この勢いよき芳年氏の筆癖を最も能く伝えたのが『絵入自    由』の新井芳宗氏である。        芳年氏と相並んで一方の旗頭と仰がれたのは鮮斎永濯(エイタク)氏である。氏は通称小林秀次郎、名は徳宣    (トクセン)、幼時狩野永悳(エイトク)の門に人り弱冠にして大老井伊家のお抱え画師となった事もあるが、それ    より後名家の筆法を学んで一機軸を出すに至ったのである。同氏が始めて新聞続き物の挿画に筆を取っ    たのは、僕も創業に与(アズカ)っていた『絵入朝野』で、その発刊の準備中挿画は誰に頼もうかとの問題    が起った時に、一つは歌川国松氏に、今一つは是非とも永濯氏の筆を煩わしたいという社中の希望であ    った。その折この使に当ったのが、小梅の宅を訪い懇々と依頼した処が、こちらの指名する剞劂師に彫    らせるならば書いて見ようとの承諾を得て、その後下絵を携えてしばしば永濯氏を訪問した事があつた    が、その都度取次に出たのが今の小林永興氏であった事を、十数年後に至て永興氏から聞いて、アアそ    うであったかと坐(ソゾ)ろに昔懐かしく思った事もあった。茲でまた銭問題を持出すのは話が卑しくな    るようだが、その頃の挿画の画料が芳年永濯の第一流どころで壱枚壱円、第二流以下になると三、四拾    銭で五拾銭というのが最高の相場であった。この一月の末京都から上京し久しぶりに拙宅を訪われた歌    川国松氏の直話によると、同氏が明治十三年頃『有喜世新聞』の挿画を一日二個ずつ画いていた時の報    酬が月給制度で一月拾円か拾弐円であったとの事だ。また同氏の話にやはり『有喜世新聞』の表紙画と    して、地球図の中に諾冊二尊(本HP注、イザナキ・イザナミ)が立って居るところの絵を永濯氏に頼む事と    なり、その使を命ぜられたのが国松氏であったが、社主がこれでよかろうと包んで出した目録が五拾銭、    それは余り安かろうと再三押問答をしても社主が聞入れぬので、とうとう国松氏が自腹を切り壱円にし    て持って往ったとの事である。        永濯氏の筆は本画から出ただけあって、品もよくかつ叮嚀で、人物の容貌などは如何にもその人らしく、    殊に背景の樹木山水等は浮世絵派の及ばぬ処があって、一点も投やりに描いた処がなかったし、腕はた    しかに一段上であったにかかわらず、唯芳年氏の如き奇抜な風なくまた芳幾氏の如く艶麗な趣に乏しか    ったためか、俗受けを専らとする新聞の挿画としては気の毒ながら評判に上らず、やや芳年氏のために    圧倒せられた気味があった。しかし僕の敬服したのは他の画家中には小説記者の下絵に対し、人物の甲    乙の位置を転倒したり、あるいは全くその姿勢を変えたりして、下絵とは殆ど別物の図様にかき上げる    人が多かったのに、独り永濯氏のみはいつも僕の下絵通りに筆を着けて少しもその趣を変えなかった一    事で、これは同氏の筆力が自在であった証拠だと思われる。ただ一度僕が性来左利きのためツイ間違え    て左の手で楊枝を遣って居る人物をかいた時「これは左利きになって居るゆえ楊枝を右の手に持換えさ    せました」との断り書を添えてその絵を送られた事があった。        尾形月耕氏(通称田井正之助)が新聞の絵をかき始めたのもまた同じ『絵入朝野』の紙上であった。同    氏は師に就かず自流でやり上げた人で、最初は菊池容斎の『前顕故実』ぐらいか手本であったが後には    諸家の流を取入れて一家を成した人である。明治十四、五年頃は京橋弥左衛門町に住居し、重に陶器を    描いていたのを、風外氏と僕とが見ての筆の凡ならぬのに感じ、終に勧めて『絵入朝野』の絵をかいて    もらう事になったが、同時にその頃翻刻物の八犬伝とか新作物の読切り本とかへ追々筆を取るようにな    り、傍には美術界の大家とまでなったのだ。        されば明治初期の新聞挿画の画家といえば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳    宗、歌川国松、稲野年恒、橋本周延、筒井年峰、歌川国峰、後藤芳景の諸氏に止まり、後年名を揚げた    右田年英、水野年方、富岡永洗、武内桂舟、梶田半古の諸氏は挿画の沿革からいえば第二期に属すべき    人で、久保田米庵氏が『国民新聞』を画きよじめたのもまたこの後期の時代である。    ☆ ひらがなえいりしんぶん 平仮名絵入新聞    ◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著『早稲田文学』大正十四年三月号(『明治文学回想集』上p105)   〝新聞小説の嚆矢    小新聞は中流以下の階級を読者とするから、その人々の好みに投ずるよう、何か目先の変ったものを掲    げていわゆる呼び物となすが営業上の秘訣であった。そこへ行くと『絵入新聞』(本HP注『平仮名絵入    新聞』明治八年刊)はよい処へ着眼したもので、毎日の雑報へ絵を入れて発行するというのが同社の誇    りであった。その絵は同社資本主の一人であった落合芳幾氏が筆を把ったもので、その順序はこうであ    る。    警察受持の担当者が帰社して差出す原稿の内から、絵を入れるべきものを択んで画工が直ちに版下を描    き、これをその夜の活版大組の終りまでに急いで彫刻させるのである。当時は今の新聞の如く地方への    宵出しという事はなかったけれども、八頁掛のロール弐台で…壱台で表、一台で裏を…印刷するのであ    る。しかも蒸気とか電気とかいう動力もなく、人の手で車を廻させゴト/\と印刷するのであるから、    夜の十一時前後から刷り始めねば翌朝配達に間に合わぬ。それにしても五、六時間の内に彫上げる必要    上からその版木を二つにも三つにも割り、剞劂師(本HP注、彫師)が手別けをして彫刻し、あとでこれ    を継合すという究策を施す事もあったが、かかる急拵えの版画ゆえ頭(カシラ)彫り…剞劂師の腕利きが    専ら人物の面部や頭髪の毛筋などを彫刻したものでこれを頭彫りと称え、その他の胴体や背景等を彫上    げるのは弟子たちの仕事であった…などは粗雑なもので、殊に版木の割り目が白い線を引いたように、    ハッキリと紙面に顕わるるなどは不手際なものであった。そこで版木を丁寧に彫らせるには、どうして    も一、二日余裕を与えねばならぬという処から、同記者の前田夏繁氏が「金之助の話」という、三分の    事実へ七分の脚色を加えた続き話を載せる事となり、挿絵も二、三回ずつ前以て版下をえがき、ゆる/\    彫刻させる事が出来るようになった。この続き話が恐らく新聞へ小説を載せ始めた嚆矢で、その後小新    聞は競うてこの絵入の続き物を掲げ…『読売新聞』のみは一見識あって紙面に絵を入れた事がなかった。    饗庭篁村氏が絵入らずの小説を片隅に載せ始めたのも、ズッと後年の事である…後には大新聞までこれ    に倣うて、終には講談などいう物まで連載して、読者の御機嫌を取るようになった〟