Top          正岡子規著 『病牀六尺』      その他(明治以降の浮世絵記事)
      (『病牀六尺』明治三十五年(1902)五月五日~九月十七日、新聞「日本」に掲載)       〔底本 岩波文庫『病牀六尺』岩波書店・昭和二年(1927)刊〕    ☆ うきよえし 浮世絵師  ◯『松蘿玉液』正岡子規著・明治二十九年の随筆・岩波文庫   〝小説雑誌の挿絵として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり、其の喜ぶべき所似(ゆえん)多かれど、    第一、目先の変りて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見識    無く高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒(と)が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を解    したる洋画家が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型に束縛せられ模型外の事は之を    画く能はざりしに反し如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が好    敵手を得たる等を其主なるものとす〟  ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙    ◯「六」 明治三十五年(1902)五月十二日   〝呉春はしやれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す〟    〈円山応挙と、与謝蕪村の流れから応挙に接近して四条派を起こした松村呉春との比較である。子規は短歌・俳句の世     界に写生の説を唱えて革新運動を起こしたが、やはり写生派である円山応挙や四条派には共感するところがあったの     だろう〉    ☆ かざん わたなべ 渡辺 崋山    ◯「七」明治三十五年(1902)刊五月十日   〝文晁の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もなく山水又は聖賢の像の如き絵を描ける    にも尚何処にか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗    気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず〟    〈存命中を比較すれば谷文晁の方が渡辺崋山より高名であったのだが…。天才は天才を知るの例か〉    ◯「五十三」明治三十五年(1902)七月四日   〝川村文鳳の画いた画本は文鳳画譜といふのが三冊と、文鳳麁画といふのが一冊ある。そのうちで文鳳画    譜の第二編はまだ見たことがないがいづれも前にいふた手競画譜の如き大作ではない。しかし別に趣向    のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて居る。文鳳麁画といふのは極めて    略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一目に見尽すかと思ふ    位である。崋山の一掃百態は其筆勢のたくましきことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくづれ    ぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、しかし文鳳麁画に比すると、数に於て少なきのみならず趣味に    於てもいくらか乏しい処が見える。たゞ文鳳の大幅を見たことが無いのだ、大幅の伎倆を知ることが出    来ぬのは残念である〟    〈『文鳳画譜』は初編文化四年(1807)、二三編文化十年(1813)刊。『文鳳麁画』寛政十二年(1800)序。渡辺崋山の『一     掃百態図』は文政元年(1818)刊〉    ☆ けいさい くわがた 鍬形 蕙斎    ◯「二十」明治三十五年(1902)六月一日   〝広重の草筆画譜をいふものを見るに蕙斎略画式の斬新なのには及ばないが、併し一体によく出来て居る〟    〈広重の『草筆画譜』(嘉永元年(1848)~四年(51)刊)と比較されている『蕙斎略画式』は鍬形蕙斎画・     寛政中期刊。『稗史提要』所収の「寛政八年刊草双紙書評」には〝北尾政美青本を画く事、此年に止る。     是より後画風を変じ、惠斎紹真と称し、略画式を著し、大に行はる〟とあり、以降何回か版を重ねてい     る〉    ◯「六十三」明治三十五年(1902)七月十四日   〝日本の美術は絵画の如きも模様的に傾いて居ながら純粋の模様として見る可きものゝうちに幾何学的の    直線又は曲線を応用したる者が極めて少ない。絵画が模様的になつて居るのみならず模様がまた絵画的    になつて居る。(中略)    近頃鍬形蕙斎の略画を見るに其の幾何学的の直線を利用した者が幾らもある。たとへば二三十人も一直    線に竝んで居る処を画くとか、又は行列を縦から見て画くとかいふ様な類があつて、日本絵の内では余    程眼新しく感ぜられる所がある〟    ☆ こうちょう うえだ 上田 公長    ◯「五」明治三十五年(1902)五月八日   〝きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし画本を碧梧洞等と共に見る。月樵の不形画藪を得たるは嬉し。其外鴬    邨画譜、景文花鳥画譜、公長略画など選り出し置く〟   〈正岡子規が河東碧梧洞等と見た絵本は『不形画藪』(張月樵画・文化十四年(1817)刊)・『鴬邨画譜』(酒井抱一画・    文化十四年刊)・松村景文の「花鳥画譜」は未詳。『公長略画』(上田公長画・初編天保五年(1834)・後編嘉永二年(1    849)刊)。酒井抱一以外、月樵・景文・公長すべて松村呉春を師匠とする四条派である。中でも子規は「七十六」に見    るように月樵を高く評価している〉    ◯「六」明治三十五年(1902)五月十二日   〝公長略画なる書あり。纔に一草一木を画き而出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。而して此    うち幾何の趣味あり、幾何の趣向あり。蘆雪等の筆縦横自在なれども却て其趣致を存せざるが如し。或    は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか〟    〈『公長略画』(嘉永三年(1850)版か文久三年(1863)版か。蘆雪は長沢蘆雪〉    ◯「三十五」明治三十五年(1902)六月十六日   〝そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見たが、沢山の鶴を組合せて面白い線の配合を作つて居るの    は光琳。唯々訳もなく長閑に竝べて画いてあるのは抱一。一羽の鶴と嘴と足とを組合せて稍々複雑なる    線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇抜なのは月樵の画で、それは鶴の飛んで居る処を更に高い空か    ら見下した所である〟    ◯「百五」明治三十五年(1902)八月二十五日   〝公長略画といふ本を見ると、非常に簡単なる趣向を以て、手軽い心持のよい趣味をあらはしてゐるのが    多い。(具体例として「蛙」と「蓮に鷺」の画を挙げる)    複雑なものを簡単にあらはした手段がうまいのであるが、簡単に画いた為に、色の配合、線の配合など    直接に見えて、密画より却て其趣味がよくあらはれて居る。其の外此本にある画は今迄見た画の中の、    最簡単なる画であつて、而も其の簡単な内に一々趣味を含んでゐる処は蓋し一種の伎倆と言はねばなら    ぬ〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重  ◯「十九」明治三十五年(1902)五月三十一日   〝立斎広重は浮世画家中の大家である。其の景色画は誰も外の者の知らぬ処をつかまへて居る。殊に名所    の景色を画くには第一に其実際の感じが現はれ、第二に其景色が多少面白く美術的の画になつて居らね    ばならぬ。広重は慥にこの二箇條に目をつけて且つ成功して居る。この点に於て已に彼が凡画家でない    ことを証して居るが、尚其外に彼は遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小    さく見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうなことであるが、実際に画の上に現    はしたことが広重の如く極端なるものは外にない。例へば浅草観音の門にある大提灯を非常に大きくか    いて、本堂の向ふの方に小さくかいてある。目の前にある熊手の行列は非常に大きくかいてあつて、大    鷲神社は遙かの向ふに小さくかいてある。鎧の渡しの渡し船は非常に大きくかいてあつて、向ふの方に    蔵が小さくかいてある。といふやうな著しい遠近大小の現しかたは、日本画には殆どなかつたことであ    る。広重は或は西洋画を見て発明したのでもあらうか。兎に角彼は慥に尊ぶべき画才を持ちながら、全    く浮世絵を脱してしまふことが出来なかったのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことは其筆    に俗気の存して居るのをいふのである〟    〈子規が見ているものは『名所江戸百景』のうちの「浅草金竜山」「浅草田圃酉の町詣」「鎧の渡し小網町」である。     子規は広重の画才を称えながら、その俗気を遺憾とする。しかし世俗に題材をとるところに浮世絵の本領がある。江     戸はもともと人為的に造られた都市である。それが年月を経るに従っていつの間にか、もとからそうであるかのよう     に自然化した。『名所江戸百景』はいわばその第二の自然とでも呼ぶべき市井に漂う詩趣をスケッチしたのである〉    ◯「二十」明治三十五年(1902)六月一日   〝広重の草筆画譜をいふものを見るに蕙斎略画式の斬新なのには及ばないが、併し一体によく出来て居る。    今其草筆画譜の二編といふのを見付出して初めてから見て行くと多少感ずる所があるので必しも画の評    といふ訳ではないが一つ二つ挙げて見よう。(中略)    (女郎花の画き方について)これは極めて珍しい画き方と思ふが果しての発明であろうか。或ひは    光琳などでも画いて居る事があらうか、或ひは西洋画からでも来て居るのであらうか。    同じ本に大月原と題する画がある、これは前に突兀たる山脈が長く横はつて其上に大きな富士が白く出    て居る所である。富士の画などは兎角陳腐になり又嘘らしくなるものであるが、此画の如く別に珍しい    配合も無くして却て富士の大きな感じが善く現はれて居るのは少ない。(以下略)〉    〈『草筆画譜』は一立斎広重画・嘉永元~四年(1848~51)刊。『蕙斎略画式』は鍬形蕙斎画・寛政中期刊〉     ◯「二十二」明治三十五年(1902)六月三日   〝大阪の露石から文鳳の帝都雅景一覧を贈つて呉れた。これは京の名所を一々に写生したもので、其画に    雅致のあることはいふ迄もなく、其画が其名所の感じをよく現はして居ることは自分の嘗て見て居る処    の実景に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全    くの写生であるが、其外多くの山水は応挙と雖も、写生に重きを置かなかつたのである。其外四條派の    画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真景を写したのが無いでは無いやうであるが、併しそれは一小    部分に止つてしまつて、全体からいふと景色画は写生でないのが多い。然るに文鳳が一々に写生した処    は日本では極めて珍しいことといふてよからう。其後広重が浮世絵派から出て前にもいふたやうに景色    画を画いたといふのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の二代家とも言つてよからう。たゞ其筆つき    に至つては、広重には俗は処があつて文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。併し文鳳の方に京都    の名所に限られて居るだけに其画景が小さいから、今少し宏大な景色を画かせたら其景色の写し工合が    広重に比して果してうまくいくであらうかどうであらうか。文鳳の琵琶湖一覧といふ書があるならば、    それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん〟    〈露石とは俳人水落露石。『帝都雅景一覧』は前編(竜川清勲編・文化六年(1809)刊)後編(頼山陽編・     文化十三年(1816)刊)〉    ◯「三十五」明治三十五年(1902)六月十六日   〝広重の東海道続絵といふのを見た所が其中に何処にも一羽の鳥が画いていない。それから同人の五十三    駅の一枚画を見た所が原駅の所に鶴が二羽田に下りて居り袋井駅の所の道ばたの制札の上に雀が一羽と    まつて居つた〟    〈「東海道続絵」とは『東海道五十三次続絵』。「五十三駅」とは一番著名な保永堂版『東海道五十三』。病床六尺に     打ち臥す子規には、こういった発見もまた視覚上の快楽の一つであったに違いない〉    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯「七」明治三十五年(1902)刊五月十日   〝文晁の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふ迄もなく山水又は聖賢の像の如き絵を描ける    にも尚何処にか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗    気を存せず。人品の高かりし為にやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず〟    〈存命中を比較すれば谷文晁の方が渡辺崋山より高名であったのだが…。子規は崋山の超俗を高く評価する。人品の高     低は自ずと作品中に現れると子規はいう、つまり画格は画く対象や画く技術から生ずるのではなく画家の品格に由来     すると〉    ☆ ぶんぽう かわむら 河村 文鳳     ◯「六」明治三十五年(1902)五月十二日   〝手競画譜を見る。南岳文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に    必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず    多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず〟    〈「手競画譜」は文化八年(1811)刊、上田秋成作『海道狂歌合』の別名。挿画は河村文鳳と渡辺南岳〉     ◯「十」明治三十五年(1902)五月二十二日
  〝前にもいふた南岳文鳳二人の手競画譜の絵について二人の優劣を判じて置いたところが、或仁は之を駁    して文鳳の絵は俗気があつて南岳には及ばぬといふたそうな。余は南岳の絵はこれより外に見たことが    ないし、殊に大幅に至つては南岳のも文鳳のも見たことがないから、どちらがどうとも判然と優劣を論    じかねるが、併し文鳳の方に絵の趣向の豊富な処があり、且つ其趣味の微妙な処がわかつて居るといふ    ことは、この一冊の画を見ても慥に判ずることが出来る。尤も南岳の絵の其全体の布置結構其他筆つき    などもよく働いて居つて固より軽蔑すべきものではない。故に終局の判断は後日を待つことゝしてここ    には手競画譜にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。(以下略、文鳳画の解説と批評あり)〟    ◯「十二」明治三十五年(1902)五月二十四日   〝要するに文鳳の画は一々に趣向があつて、其趣向の感じがよく現はれて居る。筆は粗であるけれど、考    へに密である。一見すれば無造作に画いたやうであつて、其実極めて用意周到である。文鳳の如きは珍    しき絵かきである。然も世間ではそれ程の価値を認めて居ないのは甚だ気の毒に思ふ〟    ◯「二十二」明治三十五年(1902)六月三日   〝大阪の露石から文鳳の帝都雅景一覧を贈つて呉れた。これは京の名所を一々に写生したもので、其画に    雅致のあることはいふ迄もなく、其画が其名所の感じをよく現はして居ることは自分の嘗て見て居る処    の実景に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全    くの写生であるが、其外多くの山水は応挙と雖も、写生に重きを置かなかつたのである。其外四條派の    画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真景を写したのが無いでは無いやうであるが、併しそれは一小    部分に止つてしまつて、全体からいふと景色画は写生でないのが多い。然るに文鳳が一々に写生した処    は日本では極めて珍しいことといふてよからう。其後広重が浮世絵派から出て前にもいふたやうに景色    画を画いたといふのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の二代家とも言つてよからう。たゞ其筆つき    に至つては、広重には俗は処があつて文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。併し文鳳の方に京都    の名所に限られて居るだけに其画景が小さいから、今少し宏大な景色を画かせたら其景色の写し工合が    広重に比して果してうまくいくであらうかどうであらうか。文鳳の琵琶湖一覧といふ書があるならば、    それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん〟    〈露石とは俳人水落露石。『帝都雅景一覧』は前編(竜川清勲編・文化六年(1809)刊)後編(頼山陽編・文化十三年(1     816)刊)〉    ◯「五十三」明治三十五年(1902)七月四日   〝川村文鳳の画いた画本は文鳳画譜といふのが三冊と、文鳳麁画といふのが一冊ある。そのうちで文鳳画    譜の第二編はまだ見たことがないがいづれも前にいふた手競画譜の如き大作ではない。しかし別に趣向    のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて居る。文鳳麁画といふのは極めて    略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一目に見尽すかと思ふ    位である。崋山の一掃百態は其筆勢のたくましきことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくづれ    ぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、しかし文鳳麁画に比すると、数に於て少なきのみならず趣味に    於てもいくらか乏しい処が見える。たゞ文鳳の大幅を見たことが無いのだ、大幅の伎倆を知ることが出    来ぬのは残念である〟    〈『文鳳画譜』は初編文化四年(1807)、二三編文化十年(1813)刊。『文鳳麁画』寛政十二年(1800)序。     渡辺崋山の『一掃百態図』は文政元年(1818)刊〉    ☆ ほういつ さかい 酒井 抱一  ◯「五」明治三十五年(1902)五月八日   〝きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし画本を碧梧洞等と共に見る。月樵の不形画藪を得たるは嬉し。其外鴬    邨画譜、景文花鳥画譜、公長略画など選り出し置く〟
 ◯「六」明治三十五年(1902)五月十二日記   〝抱一の画、濃艶愛すべしと雖も、俳句に至つては拙劣見るに堪へず。其濃艶なる画に其の拙劣なる句の    讃あるに至つては金殿に反古張の障子を見るが如く釣り合はぬ事甚し〟
 ◯「二十七」明治三十五年(1902)六月八日   〝枕許に光琳画式と鴬邨画譜と二冊の彩色本があつて毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽として居る。    唯それが美しいばかりで無く此小冊子でさへも二人の長所が善く比較せられ居るので其点も大に面白味    を感ずる。殊に両方に同じ画題(梅、桜、百合、椿、萩、鶴など)が多いのが比較するには最も便利に    出来て居る。いふ迄も無いが光琳光悦宗達などの流儀を真似たのであるとはいへ兎に角大成して光    琳派といふ一種無類の画を書き始めた程の人であるから、総ての点に創意が多くして一々新機軸を出し    て居るところは殆ど比肩すべき人を見出せない程であるから、とても抱一などと比すべきものではない、    抱一の画の趣向無きに反して光琳の画には一々意匠惨憺たる者があるのは怪しむに足らない。そこで意    匠の点は姑く措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色に於ても光琳    が強い色殊に黒い色を余計に用ゐはせぬかと思はれる。従つて草木などの感じの現れ方も光琳は矢張強    い処があつて抱一は唯なよなよとして居る。此点に於ては勿論どちらが勝つて居ると一概にいふ事は出    来ぬ。強い感じのものならば光琳の方が旨いであらう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであらう。    それから形似の上に於ては草木の真を写して居る事は抱一の方が精密な様である。要するに全体の上に    於て画家としての値打は勿論抱一は光琳に及ばないが、草花画かきとしては抱一の方が光琳に勝つて居    る点が多いであらう。抱一の草花は形似の上に於ても精密に研究が行届いてあるし輪郭の画き工合も光    琳より柔かく画いてあるし、彩色も亦柔かく派手に彩色せられて居る。或人は丸で魂の無いがだといふ    て抱一の悪口をいふかも知れぬが、草花の如きは元来なよ/\と優しく美しいのが其の本体であつて魂    の無いところが却て真を写して居るところであるまいか。此の二小冊子を比較して見ても同じ百合の花    が光琳のは強い線で画いてあり抱一のは弱い線で画いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いやうに    見えて抱一のは葉が柔かく見える。詰り萩の様な軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現して居る。    鴬邨画譜の方に枝垂れ桜の画があつて其木の枝を僅かに二三本画いたばかりで枝全体には悉く小さな薄    赤い蕾がついて居る。其の優しさいぢらしさは何ともいへぬ趣があつて斯うもしなやかに画けるものか    と思ふ程である、光琳画式の桜は之に比すると余程武骨なものである。併し乍ら光琳画式にある画で藍    色の朝顔の花を八輪画き其の下に黒と白の狗ころが五匹許り一緒になつてからかひ戯れて居る意匠など    といふものは別に奇想でも何でもないが、実に其趣味のつかまへ処はいはれぬ旨味があつて抱一などは    夢にも其味を知る事は出来ぬ〟    〈子規は云う「形似の上に於ては草木の真を写して居る事は抱一の方が精密な様である」と。尾形光琳没後(享保元年     (1716)没)、絵画では南頻派が台頭し、自然科学方面では主観を排し客観的な観察に基づく蘭学が隆盛を迎える。時     代全体が「草木の真を写す」画法の方へ流れていたのである。酒井抱一に写実を重視する姿勢が定着していたのは当     然である。両者の筆勢の強弱差は、おそらく、趣向や意匠といった主観主情の表出を重視するものと、ものそれ自体     の「写真」を重視するものとの違いから生じているのではあるまいか。写実派では「写真」を意識する分だけ、運筆     上、筆が本来的に持つ奔放自在さを抑える方向で、画法の錬磨が行われていったのだろう。抱一の草花画のもつ「柔     らかさ、優しさ、いじらしさ」は、抱一の草花に寄せる思いに由来するのではなく、写生から生じると、子規は云う。     つまり写生によって、草花の本来有する本質がかえって現れたとするのである〉    ◯「三十五」明治三十五年(1902)六月十六日   〝そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見たが、沢山の鶴を組合せて面白い線の配合を作つて居るの    は光琳。唯々訳もなく長閑に竝べて画いてあるのは抱一。一羽の鶴と嘴と足とを組合せて稍々複雑なる    線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇抜なのは月樵の画で、それは鶴の飛んで居る処を更に高い空か    ら見下した所である〟                                以上『病床六尺』2007.4.16 収録