Top          『蝸牛庵夜譚』『悦楽』          浮世絵文献資料館                     幸田露伴著          その他(明治以降の浮世絵記事)
        『蝸牛庵夜譚』幸田露伴著 春陽堂 明治四十年(1907)十一月刊         『悦楽』大正名著文庫第十六編 露伴学人著 至誠堂書店 大正四年(1916)七月刊         (国立国会図書館デジタルコレクション)          ※半角カッコ(かな)は原文の読みかな。「可き」は「べき」に直し、送りがなは適宜補った
 ◯『蝸牛庵夜譚』(幸田露伴著 明治四十年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇京伝の広告(69-71/191コマ)   (京伝店、紙煙草入れの宣伝広告。卯九月とある、店は寛政五年(1793・丑)の開業だからこの広告は寛政七年のもの)    京伝判じ絵広告1  広告2  広告3   ◇北斎の手簡(72-76/191コマ)   〝文字は「物いはず」と記したる四字のほかには一字も無き絵手紙なり(中略)図中文字をもて何事と示さ    ゞるは、予が読み得ざるところなれば、好事の士の教えを得んと欲するまゝ、これもまた原書を其侭に模    したり〟    〈露伴の要望に応えて絵解きに成功した人が、過去にいるかどうか分からないが、もし解読しえた人がいたら、本HPに連     絡してほしい。その解を本HPに載せることをもって、露伴の百有余年の期待に応えたいと思う〉    北斎判じ絵手紙1  絵手紙2  絵手紙3  絵手紙4  絵手紙5   ◇湯銭(77/191コマ)   〝京伝のころには湯銭一人前十文、子供八文なりしなり、銭湯新話の中の湯屋表口のところの図に見ゆ〟    〈『銭湯新話』は山東京伝作・享和二年(1802)の黄表紙。下巻冒頭の図にあり〉   ◇臭草紙と画と文と    馬琴其著すところの臍湧西遊記の中い、臭草紙は絵を君とし文を臣とすといへり。まことに臭草紙の面目    を道破したりといふべし。予が、黄表紙は看るものなり、たゞ読むべきものにはあらずといふも、其語は    異なれど其帰は一なり〟    ◯『悦楽』露伴学人著   ◇広重(211-2/246コマ)   〝(頭注:ホイスラー)    徳川期に於ける数多き浮世絵画家のうち、色彩を異にしたものに広重がある。広重は邦人に持囃されたる    よりも寧ろ海外で評判をとつた。英の絵画界に偉大な勢力を有せるホイスラーの如きは、広重を称揚し、    且つ自ら広重の風景画の数多く散つている図を描いて、其の間に美人置いた画などを描いたので、広重の    名は忽ちに泰西の画壇に馳せ、一時に重きをなした。    由来浮世絵は、風俗、人物-殊に美人を描く画であると云ふやうに一般に思はれてゐたが、広重は其の画    題を他の画家と異にし、風俗を写さず、人物を描かず、好んで山水を撰んだので、浮世絵の上に一新局面    を開いたのである。然も広重が、徳川期に於ける他の有名な浮世絵師に比して抜群の技倆を持つてゐたか    どうかは疑問だが、兎に角浮世絵の中に別に一天地を開いたのは其の特色で、確かに一種の才があつたに    違ない。それでホイスラーを首として、今日の西人の間に珍重されてゐるのであるが、生前に於ても既に    一般から、技倆ある特殊の浮世絵師として知られていたのである〟    (頭注:豊広)    広重の師は豊広である。豊広が物故した時、当時の習慣として、門生中の誰かに其の名を継がせると云ふ    問題が起つた。第一に広重が其の候補者に選ばれたのだが、広重は、豊広が最も得意としてゐた美人画に    は余(あまり)得意では無かつたので、自己が師の名を汚すのを厭ひ、二代目豊広となる事を固辞して、飄    然漫遊の途に上つた。これが彼の精神の清い、一風ある面白い所で、普通のものなら技倆の有無は問はず、    師の名を継ぐのを名誉とするのだが、彼はそれを顧みなかつた。かくて四方に放浪して技を煙霞の間に練    り、在来の山水画以外に、別に一派の風景画を立てた〟    (頭注:古芸術と浮世絵と)    元来浮世絵は土佐派から出たもので、又狩野風の美人画を参酌してゐる形跡があるが、其の特色は系統的、    因襲的、歴史的のものでなくして、寧ろ新しき技術と云ふ点にあつた。其の貴族的ならずして平民的で、    前代芸術の権威の余光を借りない所に芸術としての浮世絵の価値があつたのである。浮世絵の山水は、狩    野土佐から見ると、弱い、低い、卑しいものかも知れない。然し旧套を脱して別に一新天地を開いた所に    浮世絵の特長があるのである。広重出でて山水を描くまでは、山水画と云へば狩野派などの専有で、決し    て浮世絵の領分ではなかつた。広重が出て、描きだした浮世絵の山水は、土佐や住吉の公卿流の古代のも    のでもなく、湘瀟八景のやうな唐様(からやう)の風景でもなく、全く当時の実物を写した真の日本の景色    であつた〟    (頭注:洋画の風)    広重以前に既に北斎なども浮世絵流の風景画を試みてゐるが、それは余(あまり)感心できぬもので、広重    のものとは比較にならない。豊広も早く風景画に指を染めて、美人画の付立(つけたて)なそに、他の浮世    絵師よりは親切に筆を執つてゐた。云はゞ広重の前駆(せんく)をなしたものである。然し風景を浮世絵を    大成の域に近づけたのは全く広重の力である。広重の画風は余ほど洋画の影響を受けてゐる。蓋し西洋画    を参酌して自分の壺に熔(と)かし入れたものと云へる。其の色彩の用ゐ方にしても、大胆にして象徴的な    所などは、西洋系統を引いて居ると云ふ事を人に気づかせない原因になつてゐるが、仔細に観察すると、    尠(すくな)からず、洋画風の遣り口が見える〟   ◇懐月堂(212/246コマ)   〝懐月堂    懐月堂は一代であつたか、数代つゞいたものか、単に画風だけでは判明しない。其の画風と云ふのが極め    て単調極る、丸で版木で起したやうな美人画で、其の美人も凡て静的なもので複雑な動作を現してゐるも    のは一つも見受けない。時に髪を理(をさ)めてゐる位の動作のものは見受けぬのでもないが、多く一様の    立姿である。      (頭注:不明の一系)    懐月堂の一系統は浮世絵中最も不明なもので、前世も不明なれば後代も不明だ。殊に落款が数種に書かれ    てゐるので、数代同じ堂名の画家が続いたとも見られるし、又落款の書体が殆んど一人が書いたやうに思    はれる節から推すと、数代同じ堂名が続いたものとも考へられないのである。其の画風は、どれも同じや    うな脹(ふく)れた顔の美人が、思ひ切つた太い線で描かれ、大胆な色彩で塗られたものである。それが亦    一様に尊大傲慢な態度をしてゐて、女らしい他の情緒は現れてゐない。然し服装の模様には他に見る事の    出来ぬ豪放な面白味があつて、大に研究に価する。    (頭注:専門家歟)    懐月堂は一人であつたか、数人であつたか、明かには知れないが、恐く専門の画工でなかつたのであらう。    もし専門の画工だつたとすれば、あんな単調な、何時も版木で起したやうなもの計(ばかり)描いてゐて、    どうして自家の活計が立てられたか頗る疑問とせざるを得ない。さればと云つて全然素人でなかつたと云    ふ事は、其の筆の達者な点に於ても直に認める事が出来る。それに懐古堂の画風は、後の栄之などのやう    な繊弱極るものとは反対に、豊麗遒勁なもので、色彩も濃厚なものであるから、人目を引くを主とする広    告画になど用ゐるには最も適当である。        (頭注:俳諧師歟)    或説には、俳諧師であつたとも伝へるが確証はない、多分は専門の画家で立つた訳ではなく、と云つて全    然素人どもなく、他に何かの職業を営んで、絵は半商売にやつてゐたのかも知れない。元々彼の画風は、    余にしつこいのと、題材が単調なのとで、多くの人から喜ばれたものとも思へない。然し其の大胆な筆力    と思ひ切つた著色(ちやくしよく)とは、確に一種の特長で、祐信(いうしん)などに比較すると決して下位    にあるべきものではない。殊に画面の中に潜む異様な力と、其の人物の履歴、及び画系の分明せぬことと    が、人の興味を引くのである〟   ◇葛飾北斎(214/246コマ)   〝(頭注:北斎と色彩と)    葛飾北斎が、浮世絵師中の巨擘(きょはく)である事は、今日誰も異論のない所だが、板画(はんゑ)に於て    の色彩の組立、即ち色を以て調子を現す技量に至つては、其の長所であつたかどうか頗る疑はしいものが    ある。色彩を巧に用ゐたのでは、北斎よりも前に世に現れた鈴木春信、鳥居清長、清倍などが遙かに勝れ    てゐたやうだ。殊に僅少な色彩を用ゐて極めて豊富な趣を描き出した点に於て、春信の才は実に驚くべき    ものがある。    (頭注:画技と剣術と)    板画の行はれ出した初期に於ては、多種多様の色彩を用ゐる事は頗る至難な業であつた。そこで絵師の方    でも出来るだけ色の種類を制限して、成るべく版画(はんゑ)に適するやうに工夫せねばならなかつた。此    不自然な遣り方は、未発達時代に於ては寔に已むを得ぬ道程で、絵師(ゑかき)にとつては甚だ迷惑な事で    あつたらうと思ふ。然し艱苦困難は何時の時代に於ても、天才者にとつて滋養物とこそなれ、害毒物とは    ならなかつた。殊に浮世絵発達史上に於て、此真理が尤も明晰に認め得られるのである。多種の色料を用    ゐて豊富な趣を描き出すのは当然の事で、格別画家の名誉でもないが、比較的少い色を用ゐて比較的豊か    な妙味を現すのは全く卓絶した技量を待(ママ)たねばならぬ。彼の卓絶せる剣客が、短剣を以て尚長剣を執    れると同じく働くが如く、更に一段卓絶する剣客が、赤手空拳にして尚且つ鋭鋒利刀を持ちたると等しく    縦横に働き得るが如く、勝れたる才能ある画工は、貧しき材料を以て極めて有効なる結果を収め得るので    ある。春信等が成し遂げた功績は、限られたる範囲の材料を以て自由な製作を試みた点にあるのである。    即ち彼等は苦境に際して一層錬磨の功を積み、天才の光輝をより以上に発揮したものだ。    (頭注:春信-北斎-国貞)    既に北斎の時代になると、前代に比して印刷術は長足の進歩をして、版画の色彩(いろどり)も頗る自由に    成し得られるやうになつた。然るに北斎が、比較的多くの色を用ゐて、比較的豊かでない結果を収めてゐ    ると云ふことは、あながち春信贔屓のみの発する非難ではない。それに北斎より彼の豊国、国貞などに至    つては、益々豊富な色彩を用ゐて益々貧弱な結果を招いてゐる。即ち浮世絵の尤も衰退せる時代は、印刷    術の最も進歩した時代であると云つても決して誣言(ふげん)ではないのである。    北斎は其の中間にあるもので、春信等に比較すれば色彩を用ゐる事は拙だが、彼の豊国などから見ると遠    く上位にある者だ。譬へて云へば、春信等は剣客の短剣を以て常に勝を占むるが如く、北斎は長短手頃の    剣を以て辛うじて勝ち得るが如く、豊国等に至つては好んで長剣を用ゐる未熟の剣客の如きものだ。    (頭注:北斎の線と点)    北斎に最も驚嘆すべき技量のあるのは、線又は点に如き、筆力のみを用ゐ、単色のみを用ゐて、或る情緒    を極めて自由に表した事だ。此点に於ては蓋し浮世絵中、北斎の右に出づるものは殆どないと思ふ。勿論    北斎には生れながらにして天稟の大才があつたに違ちないが、其の絶大の精力を以てあらゆる流派画風に    出入し、窺はざるものなく極めざる所なき実に恐るべき修養錬磨の力が、遂に彼をして大を成さしめたの    である。北斎は年若き頃は可成(かなり)柔らかい線を用ゐてゐた。中年後、次第に筆に強味(つよみ)が生    じて剛健な趣を現して来た。末年には強味の弊をさへ生じた位だ。殊に点の応用は他の浮世絵師の多く試    みなかつた所だが、彼は之を尤も深く研究して、相応の結果を収めてゐる。    (頭注:逃げざる北斎)    北斎の大成したのは、全く努めて屈せざる意志の力である。彼の精力は殆ど無限と云ふ状態で、常に四肢    五体に横溢してゐた。例へば他人が百線を描き千点を打つ場合は、彼は二百線を描き二千点を打つと云ふ    遣り方であつた。他人よりも数倍せるエナジーを持つて生れた男だつたのだ。だから彼には労苦を厭うた    箇所が見えない。由来天才者と云ふものは、懶惰放逸、労苦を避けるのを以て能事(のうじ)であるがの如    く心得るものであるが、北斎に至つては其の欠点は塵程もなかつた。画家の言葉に「逃げる」と云ふ語が    ある、即ち出来るだけ筆数を減じて手数を省くの謂(いはれ)だ。余り筆数のみを多く使つても、蕪雑に落    ちて称するに足らぬが、と云つて所謂「逃げる」事にのみ腐心するのは感心すべき事ではない。北斎には    殆ど「逃げる」と云ふ事はなかつた。行く所まで行く、遣る所まで遣ると云ふ極めて徹底した力があつた。    北斎がまだ若い頃描いた塵劫記に擬した草双紙がある。それを見ると、鼠算や継子算の絵がある。普通の    絵師が描けば、鼠算には数疋の鼠、継子算には数人の児供を写してそれで胡魔化して置く所だが、北斎は    例の精力主義で幾十幾百となく鼠を描き、念に念を入れて数多くの児供を描いてゐる。其の一つ/\にも    充分努力の跡が現れてゐる。これは数々予の語るところであるが、実に予の感心してゐる一事例だ。    北斎が描いたもののうち、尤も手数をかけなかつたと思はれるやうな挿絵などをとつて、今日の画家の手    に成つたものを比較するに、今日の画家が如何に「逃げる」事にのみ腐心してゐるか、即ち苦労を回避す    る事にのみ心を用ゐてゐるかと云ふ事が思はれるのである。それに引き代へて北斎は一点一劃にも苦心の    あとを示してゐる。北斎の筆意は俗臭を免れないが、其の力に至つては、他人の到底模すべからざる強味    と長所があつた。蓋し北斎が絶代の大家として後世に仰望せらるる素因は、苟も労苦を避けなかつたと云    ふ努力主義の賜物であると思ふ〟      ◇京伝の絵(217/246コマ)   〝文学と絵画の両刀遣ひは古来尠(すくな)くないが、俗文に堪能であつて、浮世絵に指を染めて居つたもの    では、先京伝を其の首位に推さねばなるまい。京伝は元来才子肌の男で、当時文学上の地位は、馬琴より    も一歩先立つてゐた。馬琴に比較すると、識見、筆力、学殖の点は遠く及ばなかつたかも知れぬが、文の    妙味に至つては、ふくみ、軟かみ、潤ひが十分あつて、遙かに馬琴の上にあると思ふ。たゞ男性的の硬い    味が馬琴に比して劣るのである。    実際の人生に触れて居る点に於ては、馬琴の可なり深刻な処があるが、京伝の方が更に広く、真の味を噛    みしめてゐるやうなところがある。殊に其の犀利な観察に種々な想像を加へて、作り上げた滑稽などは、    到底馬琴の敵ではない。全く京伝をして単なる稗史の作者たらしめず、今日流行してゐるパツクなどの編    輯でもさせたなら、それこそ天下一品のものを拵へたに違ひない。明治時代で尤も京伝に似たものを求め    れば先づ饗庭篁村氏であらう。京伝は恰も氏のやうな型(タイプ)で、多少異(かは)つて且つ秀でて居つた    人間のやうに考へられる。    京伝は浮世絵を北尾紅翠斎に学んだ。其の画風は軟か味の勝つた、頗る上品な、そして含蓄の深いもので    ある。画名は師の名の一字を貰つて政演と名乗つてゐた。京伝の肉筆は今日なほ伝つてゐる。運筆は云ふ    までもなく、著色の手腕(てぎは)も素人離れがしてゐる。当年の絵師の群にあつても優れた一人であつた    らうと思じふ。    此点(ここ)に一つ不思議な位対照(つりあひ)のとれないのは、俗文に於ける京伝には、洒脱にして滑稽味    を帯びた他人の窺知を許さぬ京伝一流の筆致(おもむき)があるが、其の筆に成る浮世絵には尠しも京伝ら    しい独特の箇所(ところ)がなく、文に比して殆ど別人の感があることだ。蓋し彼は文学には初からかなり    の苦心を積んだが、絵画ではまだ自家の長所を発揮する所まで進まずに終つたのかも知れない。文には一    行の末にも如何にも京伝らしい片影が潜んでゐるが、絵はたゞおんもりとした感じを与へるに過ぎぬ。若    (もし)彼が今一段画技に熱中して更に一歩を進め得たなら、必ず其の文に於けるが如く、大に刮目すべき    ものがあつたらうと思ふ。    文学と絵画とを兼ねた人には、京伝より前に雛屋立圃と云ふのがある。立圃は極めて古風な土佐がかつた    浮世絵を描いた人で、俳諧にも名を成してゐた。其の絵は今日から見れば、価はするが然程(さほど)では    無い。が立圃の名は俳諧の歴史には忘れ難い一人なのである。        (頭注:窪俊満)    京伝よりやや遅れて窪俊満が出てゐる。此も俗文に浮世絵を兼ねた人だが、文はたゞ器用であつたと云ふ    の外、此と云ふ異彩はなかつた。然し狂歌は一時の秀(しう)で、京伝よりも遙かに巧みであつた。殊に画    才には中々富んでゐて、筆に鋭い箇所(ところ)もあれば、華奢な箇所もあつて、かなり変化もあつた。俊    満は又彫刻の技にも秀れてゐて、自分で絵を描き、狂歌を題し、之を木竹に彫刻しやうと云ふ風な多才多    芸の男であつた。京伝を中にして、前に立圃あり、後に俊満あり、好箇の三幅対である    (頭注:一九)    弥治喜太で有名な十返舎一九も、他人に負けぬ多芸で、何でもする男であつた。絵も自著の版下位は描き、    画も筆工位は遣つた。然し孰れの技も皆其の文学に於ける程度のもので、低級な、道化じみた、下品なも    のであつた。第一其の一代の傑作が膝栗毛に指を屈せねばならぬ所から推しても凡ての想像はつく。殊に    絵は下手(まづい)もので、俊満の脚下(あしもと)へだに及ばぬものだ。馬琴、種彦なども、版下の指図位    は出来たが、絵らしい絵は描けなかつた。京伝は初のうちは絵画を以て世に立つ考でゐたかと思はれる節    がある位である〟   ◇北斎の文(219/246コマ)    京伝は文から画を兼ねた人だが、画から文を兼ね-もしくは兼ねんとしたのは葛飾北斎である。北斎は晩    年に及んでも著述に志を断たなかつたやうな点(ところ)が見える。若い頃は画工(ゑかき)としてゞなく、    文筆を以て立つ考であつたかも知れない。当年馬琴と喧嘩したと云ふ話もあるが、元来が文学好きで、其    の方にもかなり通じて居つたから、馬琴のであらうが誰のであらうが、他人の作物を忌憚なく批評し、褒    めもすれば貶しもしたに違いない。馬琴と衝突する位は、北斎として為し得る所と思ふ。然し彼の文に於    けると、京伝の丹青に於けるとは、其の程度は比較にならない。京伝の絵に於ける造詣の方が遙かに深い    ものがある。    抱一上人などの俳諧と絵とを兼ねてゐたが、外にも数へたてれば、文、画の両刀遣ひは沢山ある。漢学者    で南画を能くした大家なども数多くある。然し俗文と浮世絵とを兼ねた所謂弾語(ひきがたり)は先づ当時    では、京伝、北斎あたりに指を屈しねばなるまい〟