Top 『清親画伝』その他 (明治以降の浮世絵記事) 『清親画伝』(黒崎信編 松木平吉 昭和二年(1927)五月刊) (国立国会図書館デジタルコレクション) ◯「小林清親君の伝記」弘化4年 8月1日生 父 御蔵総頭取小林茂兵衛 母 知加子 九男 初名 勝之助文久2年 父死亡して 家督相続慶応1年 9月 徳川将軍に従行、大阪に赴き、京都に上る明治1年 1月 鳥羽伏見の戦争の後将軍に従い江戸に戻る (上野戦争後、徳川家について静岡に移り鷲津住) (ワグマンに油絵を習う。また柴田是真に漆絵を学ぶ)〈下掲「画家清親君の逸話」に詳細記事あり〉 明治7・8年頃 母と芝浜松町源助町に住む 徳川家臣の娘と結婚同9年 (版画)新大橋雨景・小梅曳舟の夜景・二重橋景・愛宕山の日出等同11年 11月長女銀子生まれる。この頃漆絵・泥絵を描く同12年 (版画)東照宮の積雪・川口鋳物製造図・鴨に蓮・元柳橋遠望・江戸橋夕暮富士・堀切菖蒲・橋場の夕暮 「日本名勝図会」川口善光寺・通天橋・猿橋・厳島・江の島・松島・清見潟・日光裏見ヶ瀧・二見ヶ浦・ 養老の瀧・横須賀造船所同13年 日光登山 (版画)芝増上寺日中・川崎月の海・大川端石原橋・大伝馬町大丸・大川岸一の橋遠景・箱根より富士遠望 日光山湯本・同中禅寺・本所御蔵橋・御茶水の蛍・金魚に朝顔・猫に提灯・柿に目白・栗に栗鼠・ 九段坂五月夜・狐に三日月・葡萄と柘榴・日光陽明門・日光華厳瀧・両国の花火・桜田弁慶堀原・ 佃島雨晴・天王寺下衣川夜同14年 1月26日 大火(神田・日本橋~深川)を写生 次女鶴子生れ早世。当時両国米沢町住。 (版画)浅草年市・今戸夏月・東照宮夜景・第二博覧会・中津雪景・箱根底倉万年橋等 (雑誌)『團々珍聞』作画同15年 朝鮮事変 (版画)「朝鮮事実」大院君が王妃等に毒を進むる図・朝鮮電報録・朝鮮大戦争図・朝鮮暴動・塚本中尉討死同16年 母 知加子死。妻と離別 (版画)「教導立志」(南北朝時代の武者絵)小嶋高徳に桜樹・稲村ヶ崎の新田義貞・ 名和長年船上山に後醍醐天皇を負ひ奉る図 (後に、楠公訣別・大塔宮護良親王・菊池武光・細川幽斎を画く)同17年 2月富子生。田嶋芳子と結婚。米沢町~芝源助町~京橋柳町と移転 (版画)「武蔵百景」橋場の渡・芝増上寺の雪景など同18年 三女夏子生。浅草小嶋町~京橋三十間堀町~加賀町と移転 近古意匠顧問となる (版画)「百面相」。橋場夏月の風景画中の人は夫人の芳子の由。同19年 (新聞)東京日日新聞・報知新聞・朝野新聞・東京横浜新聞・読売新聞・時事新報・国会新聞 都新聞(支那南宗画や西洋漫画を載せる)同20・21年 (雑誌)『團々珍聞』の挿絵附録に総生寛・真木知嚢・永井金升が考案した政事関係の諷刺画を画く同22・3年 肉筆依頼増える。新橋芸者衆の肖像を画く。末松謙澄のつてで地方出代議士の肖像を画く同24年 東京絵画学校の依頼で、瀧和亭・松本楓湖と共に手本を画く同25・6年 当時は加賀町住。同27年 四女勝子生。日清戦争 (版画)「百撰百笑」「勇士鏡」「笑楽画会」 (雑誌)『可倶談娯』出版。『小国民』同28・9年頃 (版画)能面類及び模様(歴史画)・三枚続「東京芸妓美人競」「亀井戸臥龍梅」「待乳山雪中」 名勝図「日光神橋」「薩た嶺」「小金井桜」等同30年頃 浅草花屋敷~同新畑町~一年後下谷車坂町へ移転 信州写生旅行 (版画)「日本名勝図絵」嵐山風景・月ヶ淵奥の谷・田子の浦・観音崎灯台・日光陽明門・日光中善寺 常陸桜川より筑波山を望む・房州鏡浦・親不知浜・耶馬溪羅漢寺・吉野の桜・熱海温泉同31年 札幌中・小樽稲穂学校の徽章を考案する 神社仏閣納札の意匠をデザイン同32年 春、長野県長野市~上田~群馬県桐生~栃木県足利に滞在。各地の有力者の許で揮毫 (桐生にて胃病に罹り一ヶ月ほどで全快)〈長野~栃木滞在については「画家清親君の逸話」の「西北漫遊」に詳細記事あり〉 6-8月、仙台に滞在して画会を開催 松島写生 帰京 10月 山形県米沢~福島市に滞在、近傍を写生〈仙台~米沢~福島滞在については「画家清親君の逸話」の「東北漫遊」に詳細記事あり〉 年末 帰京 (雑誌)『苦楽』『雅楽多』など同33年 夏 備後の福山滞在、瀬戸内海を写生。須磨明石の親戚を訪問 帰京〈福山~須磨明石滞在については「画家清親君の逸話」に詳細記事あり〉 『二六新聞社』入社。この頃、吉原の遊女・綾衣を写生 石川県金沢市に滞在、九谷焼の絵模様を考案〈「画家清親君の逸話」に別記あり〉 同34年 向島~浅草山の宿に移転 春 信州諏訪・岡谷辺に遊山同35年 金銀小屏風・金小襖(四枚。富士、遠山、秋の出穂図)同37・8年 日露戦争 (版画)「戦争絵」(三枚続) 摩天嶺逆襲・南山激戦・鳳皇城占領・大本営・野戦病院・バルチック艦隊の全滅 旅順開城・講話談判等同39年 7月~翌年5月、青森県弘前市に滞在。揮毫数百張〈「画家清親君の逸話」に別記あり〉 同41年 春 向両国美術倶楽部にて画会、席上一日千点揮毫。麹町区富士見町に移転〈下掲「画家清親君の逸話」の「千書会」に詳細記事あり〉 同42年 (版画)那須与一・牛込見附の桜花・同新見附の景・江戸川しらとり橋・牛込見附より市ヶ谷を見る・ 茶の湯・生花・香の図同43年 江戸川大曲辺の春景・鬼子母神の桜・靖国神社の桜・市ヶ谷八幡社の風景 如意輪観音像・人丸像・印度古仏像〈版画になったかとうか記載がない〉 彫刻の下絵や図案を画く同44年 日比谷の夜景・同公園の躑躅等を画く同45年 4月13日 芳子夫人57歳没。6月、親友会会員に揮毫画を配付大正2年 夏 信州諏訪・岡谷・日本アルプス・木曽川の諸景を画く。9月、松本市・浅間温泉滞在(8ヶ月間)〈信州滞在については「画家清親君の逸話」に詳細記事あり〉 同3年 12月 百画頒布会開催、信州滞在中揮毫した作品を頒布。〈この頒布会については「画家清親君の逸話」に詳細記事あり〉 〉 一時、本郷富士見前町に寓居後、滝の川村中里に移転同4年 持病のリューマチ悪化、7月 療養のため松本市・浅間温泉に滞在。11月中旬 帰京 11月28日逝去 享年69歳 下谷永住町龍福院に葬る 真生院泰岳清親居士 大正12年9月1日 関東大震災 深川仲町の渡辺金治郎氏・蛎殻町の田口芳之助氏の所蔵する清親作品数百点 烏有に帰す。 門人 田口米作・鈴木安治・高橋芝山・三田林蔵・土屋光逸・吉田美方・永田錦心・瀧田精三・市川七作 他十数名 ◯「画家清親君の逸話」 ◇「ワグマンを去つて暁斎についた/『團々珍聞』は差絵で発行停止」 〝 清親君は狩野友信 氏等と懇意の友達だつた。明治六七年頃、倶に外人ワグマン 氏に就いて洋画を学ばん とした。或時ワグマンは些細な事を怒り、君を靴蹴にした。君は大に憤りワグマンの許を出で、猩々暁斎 氏を尋ねて相談した。侠客肌の暁斎だから時々奇言を吐いて君を笑はせた。これから君に手本を書してや る、然し君来る毎に酒を携へて来い、酒なければ手本を書かないぞといつた。或日、酒一升を持つて往つ た。暁斎其酒を筆洗に明けて筆を洗ひ、画を書き終りて、その墨汁のやうな筆洗の酒を皆飲んで了つたと。 又、此時よりカンバスや油絵筆は身に着けないと誓つたと、編者は君より聞いた事があつた。 君は一青斎友信氏が、美術学校教授となり、上野池端に居住の間も、よく交際を続けて、夏子嬢を氏の 宅に托し、画を習はしたことがあつた。 君は暁斎氏と交際の間に、柴田是真 氏を尋ねて漆絵、蒔絵、絵の具製法を学んた。君の画に漆絵やワニ スを引いたものゝあるのは、是真氏より学んだものだ。(中略)『團々珍聞』 は差絵で発行停止された。一例は「黒怪頑盲蛇(国会願望者)野鼠いとうしん蠟燭をかじる」 (伊藤博文さんが耶蘇教にかぶれたといふ諷刺画)で政府の役人に怒られた事がある。後に末松謙澄氏の 紹介で伊藤侯に面会し、当時の事を笑ひ噺にしたと〟 ◇「古今意匠会顧問と印材の品評」 〝 明治二十二年、京橋区鎗屋町柘植福馬氏宅に、「古今意匠会」と風雅といふよりは骸骨の踊といつた方 が適当かも知れぬ文字の金看板が掛けられてあつた。これは守田宝丹画伯の筆であつた。君は此会の主宰 者で顧問といふ名前だ。発起者には瀧和亭、久保田米僊、大浦周、高村耕(ママ)雲、村瀬玉田、細川潤次郎、 川端玉章、川崎千虎、守田宝丹、小林清親、大熊某 (「印材の品評」は省略)〟 ◇「千書会」 〝明治四十一年春、一日一千張の揮毫といふ画会を向両国美術倶楽部に開いた。編者も発起人の一人だから、 出席して其揮毫を見た。絹本、紙本に淡彩で一分間に一張、又は三十秒間、二十秒間に一張宛描いた。日 暮より夜十時に至るも筆力に疲労を認めなかつた。これは画豪の清親君たる所以だつた。〈編者とは黒崎信〉 (以下当日画いた図柄。福神・雷公・弁慶に蟷螂など、省略) ◇「親友会」 〝明治四十五年六月、親友会を日本橋区蛎殻町相互倶楽部に開いた。市内の有名の画家、蘇水、耕山、山畝 等諸氏の席上揮毫もあつた。 (清親の揮毫、高砂・日出に鶴・鴬宿梅・獅子に乗つた鍾馗。この会の趣意書あり、省略) (この頃の作画として、那須与一・美人舟遊・花下の美人・梶原源太箙の梅・安倍宗任梅の歌)