Top            鏑木清方随筆          その他(明治以降の浮世絵記事)        『こしかたの記』(鏑木清方著・中央公論美術出版・昭和三十六年(1961)刊)        〔底本 中公文庫『こしかたの記』中央公論社・昭和五十二年(1977)刊〕          『鏑木清方文集』一~八巻(鏑木清方著・白鳳社・1979~80年刊)        〔原本を底本とした。但し、岩波文庫本『鏑木清方随筆集』(1987年刊)及び         『明治の東京』(1989年刊)に掲載された随筆はそこから収録した〕    ※( )内のカタカナはルビ。但し底本はひらがな (*)は本HPの私注  ☆ あずまにしきえ あずま錦絵    ◯『こしかたの記』「発端」p7   〝 江戸から続いて東京に住む家庭には、あずま錦絵や絵本のたぐいがたいていのところには残っていた。    況して相当の暮らしをした旧家には色刷の表紙もまだ美しく、帙(チツ)に入れたり、桐の本箱に収めたり    して、昔の持主がどんなにそれを愛蔵していたかが偲ばれて床しいものがあった。鍋屋のうちにあった    のもたぶんそういう手置きのいい本であったろう〟    〈鍋屋は鏑木清方の祖母の姉の家、清方はこの媼(ウバ)に草双紙を見せてもらって育ったという〉    ◯『こしかたの記』「やまと新聞と芳年」p38   〝 尾張町(現在の銀座「やまと新聞」は尾張町二丁目にあった)の西への隣地は南鍋町で、同じ側には    菓子屋の風月堂があった。外濠に近いところに兎屋誠という本屋があったのもその頃(明治二十年頃)    である。大量出版で、延いて廉価本の元祖だったともいえよう。時々何割かで既刊本の廉価販売を大々    的に新聞広告で発表するという遣り口であった。土蔵つくりの間口の広い店先には絨氈が敷いてあった。    この店で辞書のような大冊の馬琴全集だの、菊判の仇討全集を買ったことがある。前者の挿絵は月耕で、    後者は清親だったと思う〟    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」(鏑木清方著)   ◇「私の経歴」①13(大正四年(1915)十二月)   〝浮世絵といはれるのが厭で社会画といふ    私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。其の頃の水野社中の研究法は、重に先生    の画かれた新聞の挿絵を写すのであつた。四年ばかり経つて、先生の板下絵に、模様を入れさせられる    やうになつたが、折々下手をやつて、板下を無駄にしたのを記憶して居る。    其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進    歩もして居なかつた。美術協会などから仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。漸く    日本画会が創立されてから、初めて絹に画いて、公開の席に出陳するやうになつた。この時年方は『堀    川御所』を画いた。私達は浮世絵といはれるのが厭で、社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た〟     〈世間は清方の作品を浮世絵に分類してそう呼ぶ。しかし清方自らはそれを嫌って「社会画」と称する。同様に「昔の浮    世絵師と同じやうに仕立てられ」た清方だが、自らを浮世絵師と呼ぶことには抵抗感があってあえて「風俗画家」と称    する。浮世絵の製作システム下の弟子でありながら、清方らはそのシステムとは距離を置いている。というよりむしろ    そのシステムの外に身を置こうとしている。清方らは本来このシステムの次世代を担うべく育てられたわけだが、この    時代(明治三十年代)になると、このシステム自体に新しい浮世絵を生み出す活力が衰えたこともあって、これから世    に出ようという若い絵師たちは、このシステムから出て自活する他なかったのである〉     ◇「私の経歴」①17(大正四年(1915)十二月)   〝元来浮世絵では、昔から人物と背景との調和が取れて居ない。それは浮世人物を画きながら、背景には、    狩野や土佐の従来の様式其の侭を画くかられある〟     ◇「そぞろごと」①87(昭和十年(1935)四月)   〝私が浮世絵と昔読んでゐた画系を引くので今も尚浮世絵派と元禄以来のとなへをそのままに呼ぶ人もあ    る。浮世絵派の中でも春章や清長などは好きだからさう呼ばれてもいやだとは云はないが、何か窮屈な    感じの伴ふのを否み難い〟      〈清方は「浮世絵派」と見なされることにかなりの抵抗感があったようだ〉    ☆ うごうかい 烏合会    ◯『こしかたの記』   ◇「烏合会」p207   〝 明治の二十年代に、山の手に住んで役所づとめをする青年の書画を好む一団が、月次の研究会を開い    ていた。そこへ未来の挿絵画家を志す、これはまた揃って下町育ちの少年が参加したものが何年か継続    し、一旦中絶したのを、三十四年一月、そのうちの気の合ったものの間に再興の話が持ちあがった。廻    覧誌を拵えたり、作品を持ち寄って批評したり、相互に採点し合う内輪だけの仕組だったのを、いっそ    公開に踏み切ろうではないかとの相談が成り立った。前には紫紅会と云ったが、それは他に差しさわり    もあって、烏合会の名は兄貴分の山中古洞が撰んだのであった。集まるもの、古洞の他に、福永耕美    (後に公美)、都筑真琴、高田鶴僊、田中桃園(後に素水)、鏑木清方、三井古渓、須藤宗方、竹田敬    方、大野静方、池田輝方、鰭崎英朋、河合英忠、阿出川真水の十四名を数える。なお他に二名の参加者    もあったが、実際の行動に加わらずに終った。創立者の中でも、田中素水は病歿し、三井古渓は地方赴    任のため、須藤宗方は一身上の都合でその後に列を去った〟     ◇「烏合会」p208    第1回 明治34年6月6日~8日 日本橋、八重洲館    第2回 明治34年9月20日~22日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「東京十五区」:清方画「八幡鐘─深川」・英朋画「お七─本郷」    第3回 明治35年4月3日~5日 日本橋、常盤木倶楽部        古洞画「二日物語」(露伴作)・清方画「金色夜叉」(紅葉作)・輝方画「桜狩」        課題「江戸文学」:英朋画「梅ごよみの米八」・英忠画「浮世風呂」・耕美画「膝栗毛」                 輝方画「曲三味線」・鶴僊画「弓張月」・宗方画「女房気質」                 清方画「田舎源氏の黄昏」    第4回 明治35年7月3日~5日 日本橋、常盤木倶楽部        輝方画「浜田弥兵衛」・静方画「馬嵬坡」    第5回 明治35年10月1日~5日 日本橋、常盤木倶楽部        清方画「一葉女史の墓」        課題「平家物語」:鶴僊画「女院落飾」・古洞画「燈籠大臣」・静方「先帝入水」                 英朋画「小宰相最期」・清方画「横笛」     第6回 明治36年3月5日~8日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「花」:輝方画「墨染」「暮靄」    第7回 明治36年6月 日本橋、常盤木倶楽部        輝方画「北京籠城」・応東画「間諜」        課題「日本昔話」:英朋画「舌切雀」    第8回 明治36年11月6日~8日 日本橋、常盤木倶楽部        〝十一月に開いた第八回には課題の記憶もなく、文献にも接しないが、この年に村岡応東、吉         川霊華、榊原蕉園の三人を会員に数え、三者の作の陳列を見た〟    第9回 明治37年5月5日~8日 日本橋、常盤木倶楽部        英忠画「軍神の霊」「ひれふる山」・英朋画「大石橋」「生別」・静方画「軍人の児女」        古洞画「遠征を思ふ」・応東画「新羅攻」「真如親王」・清方「烏拉(ウラル)の別れ」    第10回 明治37年11月3日~7日 日本橋、常盤木倶楽部        古洞画「最後の閉塞隊」「曾根崎心中」・清方画「瑞夢」「深沙大王」「佃島の秋」        英朋画「鑓の権三」・静方画「新口村」・長野草風画「牡丹花肖柏」    第11回 明治38年5月3日~7日 日本橋、常盤木倶楽部        輝方画「蔭日向」・古洞画「おまん源五兵衛」・清方画「寄宿舎の窓」    第12回 明治38年10月15日~17日 日本橋、常盤木倶楽部        輝方画「世界の勇者」・清方画「教誨」・英朋画「焼あと」    第13回 明治39年4月11日~15日 日本橋、常盤木倶楽部        清方画「断崖」    第14回 明治39年10月19日~22日 日本橋、常盤木倶楽部        清方画「日高川」「古駅」        課題「神話伝説」    第15回 明治40年5月4日~7日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「太陽」    第16回 明治40年7月25日~28日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「怪異」:静方画「死霊」    第17回 明治41年3月19日~22日 日本橋、常盤木倶楽部        故大蘇芳年(十七回忌)特別展        課題「江戸時代風俗」    第18回 明治41年10月14日~17日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「本邦歴史風俗」:清方画「あけびとり」    第19回 明治42年5月27日~30 日 日本橋、常盤木倶楽部        英朋画「大葉子」        課題「時代研究」:清方画「抱一上人」(三幅対)    第20回 明治43年5月20日~22日 日本橋、常盤木倶楽部        清方画「誓」        課題 記入なし    第21回 明治43年10月27日~30日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「伝記小説」    第22回 明治44年6月30日~7月2日 日本橋、常盤木倶楽部        課題「歴史と文学に現れたる女」    第23回 明治45年5月 芝、増沢氏経営の陳列館         ◇「烏合会」p223   〝 四十四年六月の二十二回が、常盤木倶楽部での最後の会であったが、実質的には、会の使命はこれで    畢(オワ)ったと見るべきであろう。     この会の後、なお継続を望む声もあって、翌四十五年五月に、芝の大門(ダイモン)近くにある増沢氏の    経営する陳列館で二十三回目に当る展観が催されたが、六月五日に、先月浜町から移ったばかりの、本    郷竜岡町の私の宅に同人が集合して協議の末、烏合会は解散しないが、展覧会は止そうと云う申合せが    成立した。最終時の会員は、古洞、公美、鶴僊、真琴、敬方、静方、英忠、英朋、応東、耕花、清方の    十一名であった〟    ☆ うさぎ 兎    ◯『明治の東京』p59(鏑木清方著・昭和十八年二月記)   〝兎後談 附記    兎の流行時には、これに因んだ錦絵が沢山でたり、俗謡、小咄、の類もあまた出来て、一時市中を賑わ    したというが、大津絵の一つに、梅川(ウメガワ)忠兵衛の替歌を一つかきつけて置く。     「大かごを立ちぬいて、兎の姿が目に立たば、さげかご身をうつし、馴(ナ)れぬはた師の手にかかり、      二日三日と身をまかせ、二十日(ハツカ)妊(バラ)みが四十両、つがいはなして雄が二分、柿よりだい      じな黒ざらさ、さぞやおからも高かろが、たんと食わして子を殖(フヤ)やしゃんせ」    柿色だの、黒更紗だのいうのが珍重されたことがこの歌でも窺われる。はた師とあるのは特殊の名称ら    しいが寡聞(カブン)まだ審(ツマビラ)かにせぬ。ただ前後のつながりで推すと、仲買のようなものではない    かと思われる〟    ☆ えいせん とみほか 富岡 永洗    ◯『こしかたの記』   ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p185   〝 その門(*小林永濯)に出た永洗も筆癖はソックリで、きものの線に硬いところが気になったが、ご    く初期の作と思われる「風俗画報」の挿絵にも格別幼稚なものは見当らない。美人画に見る艶色は、歌    麿以来とのありふれた形容も、この人の場合には適切に思われた。永洗が急に人気を高めたのは「都新    聞」に挿絵を画くようになってからのことで、この新聞は下町、殊に花柳界、芸能関係に重心を置いて、    興味本位の読物に力を入れた。専属の画かきが、新聞社の志すところとそぐわないので、永洗に眼をつ    けたのは慧眼(ケイガン)であったと云うべく、今で云えば大衆作家の雄、村井弦斎の小説と組んで大した    評判になったのである。「小猫」「写真術」、次いで「桜の御所」と続けざまに当りを取った。以後永    洗と「都」とは切っても切れない間となり、昔「やまと新聞」に芳年と年方が並んで挿絵を画いたよう    に、一面を永洗、三面を弟子の松本洗耳が画いた〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p191   〝 あの時分(明治二十年代)に、もし口絵の人気投票があったとしたら、その高点を得るものは、恐ら    く富岡永洗であったろう。師匠の小林永濯は好んで神話を画いた人だが、画風に少し硬いところがあっ    て、永洗も初期にはそういう嫌いも無いとは云えないが、この人の美人画の有つ艶色は、官能的ではあ    っても卑俗にならないのが、この時代の好尚に適ったのである。その頃の東京には、まだ遊郭も繁昌し、    花柳界も栄えていたので、その風俗もまた永洗画嚢中のものとなった。日本美術院と絵画協会共催の展    覧会には、広業が芸者を、永洗が遊女を、細い対幅に画いた。この会で音曲を課題にした時に、永洗は    「新内」を撰んで、燈下に朱羅宇の煙管(キセル)を突いて物思う娼婦を画いて好評だったこともある。出    品だからと云って別に態度を変えるわけでなく、調子は口絵の場合と同じに見えた〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p186   〝 永洗の進出は桂舟よりやや後れていたが、世間では、伝統派の年方とこれら非伝統派の二人と並べて、    挿絵画家の代表的な選手として認めたのである〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p192   〝 永洗の口絵から好きなものを挙げたら限(キリ)がないが、即座に思いあたるものとして、紅葉の「心の    闇」、麗水の「月夜鴉」、弦斎の「さんざ時雨」、鏡花の「七本桜(ナナモトザクラ)」「清心庵」などは洩ら    すことが出来ない。     明治三十八年八月三日、永洗は長く煩った肺結核が重って、四十二の厄年で亡くなられた。葬儀は六    日に、青山南町の玉窓寺で行われた。     私は十代の頃から、この先生の作には思慕とも云える愛着を感じていたのだが、一、二回の面識はあ    っても、ろくに言葉を交わす折も有(モ)たずに終った〟    ☆ えいたく こばやし 小林 永濯    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p185   〝 永洗の師小林永濯は狩野派から出たと云うが、明治八、九年頃に新聞の社会種を錦絵にして売り出す    ことが流行して、筆者はもっぱら芳年、芳幾などと、永濯もこれを画いている。芳年は錦昇堂、芳幾は    具足屋、永濯は政栄堂が板元で、三者それぞれの特色を見せてはいるが、画風はやや硬いけれどさすが    に永濯のものは卑しくない。肉筆の制作には好んで日本神話に取材したものが多く、人物の肉色にいつ    も代赭の隈取をするのが特色になっていた〟    ☆ えぞうしや 絵草紙屋    ◯『明治の東京』p74(鏑木清方著・昭和八年三月記)   (「新富座」の稿)   〝今の見物が絵はがきを買うように、その頃(明治十年代)の見物は錦絵を買ったものだ。それは芝居の    中で売るのではない、賑やかな町には絵双紙屋があって、そこには国周、国政などという絵師のかいた    似顔絵の一枚絵、三枚続き、芝居帰りに気に入った場面、ひいき役者の顔、それに絵としての鑑賞も加    えて、店の框(カマチ)に腰を下して、板下ろしの紙の匂い、絵の具のにおいを味(アジワ)いながら、こばを    揃えてきちんん積んだ中から出してくれるのを手に取って見入る気もちは、私たちの何代か前の祖先が、    写楽や春章、または豊国の錦絵を、やはりこうして絵双紙屋の店先で手に取り上げたのと、なんの変り    もなかったろう〟    ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙     ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「昔の人」①115(鏑木清方著・昭和十四年(1939)一月)   〝応挙の保津川の屏風だつて、表慶館で見た時に、あんなに水が動いてゐるようと思はなかつた。動くに    は動いてゐたのだらうが、円山派の用筆の方がさきに眼にはひつた。それが今度あゝいふところへ出る    と、筆は見えなくなつて、滔々と流れる水の動きが、ぐづぐづしてゐると、立つてゐる自分が捲きこま    れて流されて了ひさうな勢をひしひしと感じた〟    ☆ おうとう むらおか 村岡 応東    ◯『こしかたの記』「烏合会」p215   (明治三十六年「烏合会」の記事)   〝 この年に村岡応東、吉川霊華、榊原蕉園の三人を会員に数え、三者の作の陳列を見た。応東、前には    桜塘と書いて、松本楓湖門の古参であった。父は江戸幕府頃の御典医で芸事を嗜み、役者や噺し家など    贔屓(ヒイキ)になったものが多かった。桜塘の前号は生れた邸が墨堤に近かったのに由るのであろうが、    戊辰の乱に村岡君の兄は彰義隊に与みし、傷ついてわが家に遁れたのを、追って来た官軍に踏み込まれ    て、床下に隠した気丈な母は、とうとう匿(カクマ)い通したとは同君の直話だが、全くこれと同じ実験を、    私の大伯母にあたる本阿弥家の老女からも聴いている。応東、名は宜雄、気概も風流もある美い男であ    った〟    ☆ かきぞめ 書初    ◯『鏑木清方随筆集』「かきぞめ」p19(昭和二十七年一月記)   〝私の師匠年方先生のところでは毎年七草が書初になっていたが、唐紙全紙の真中に師匠が先ず大きな筆    に墨を一杯含ませて玉(注、宝珠の玉)の中心から筆を下して、右へ大きく一回転して筆の尖(サキ)が中    心に還(カエ)ると、再び右に小さい円をひとまわり、かすれた筆端をやや斜に、筆の腹に含んだ水分をそ    のまま雲煙と散じて筆を抜く、元より一気呵成で何の補足もするのではない。それを見よう見真似に弟    子たちの大珠小珠がころころと師匠の珠の周囲をめぐる。私が弟子を持つようになってまたそれと同じ    ことが繰り返されて来た。    江戸時分狩野三家の書初などというのは大層格式のある行事であったらしいが、天明とか、文化、文政    とか江戸の文化花やかだった時には、京都で応挙、呉春、江戸の文晁や抱一のような、市井でも大名を    馳せていた流行作家のかきぞめは、恐らくその時代の好尚を代表するような、派手で鷹揚な、生野暮(キ    ヤボ)うす鈍(ドン)の寄り付き難い席であったろうと想像に難くない。    明治にはまだそういう風が多分に残っていて、寺崎広業先生の天籟画塾の新年会などは、見ぬ世の文晁    が写山楼のそれを凌ぐものだろうといわれたし、また大正へかけても京都、東京とも、門人の多い塾で    は芝居だの歌三味線の芸づくし、一時はそれが競争のような形を呈して、各々差し合わぬようにとか、    たいてい日が毎年極(キ)まっていて、その席へ出る定連の客は松の内から月末までまんべんなくまわっ    て正月は暮れるということであった〟    ☆ かくせん たかだ 高田 鶴僊    ◯『こしかたの記』「烏合会」p224   〝 高田鶴僊、名は耕造、明治九年浅草蔵前に生れ、長じては大蔵省に勤めた。画は早くから住吉派の在    原古玩に学んだが、三十三年、邨田丹陵に就いたと云われる。画の道には基本が出来てから、自分に近    い長上の尊敬する人を相談相手に撰ぶことが往々ある。鶴僊の場合もそれなのではあるまいか。烏合会    の出品でも、例えば「女院落飾」のような、丹陵氏に見る温雅な風格を思わせるのである。大和絵の人    は、砂子、切箔、泥(デイ)引などの特殊の技法を有つのが常だが、鶴僊もそれに長じて、目黒に雅叙園    が出来た時、園主の細川氏に望まれて各室の装飾に当った。画家には珍しく計数に明るいので、烏合会    の運営、庶務の一切を引き受けてくれた〟    ☆ かそん すずき 鈴木 華邨    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p183   〝 鈴木華邨は容斎派から出て、挿絵の方でも古顔に属するが、私の知ったのは、二十二年の「新小説」    で、表紙のことは前にも記したが、須藤南翠の「朧月夜」に挿絵を見たのに始まる。華邨が世に出たの    も多分その時期と推される。しかしその画は相当の熟練を見せて少しも危(アブ)なげがなく、後に至っ    ても格別変化がなかったようである。江戸時代の挿絵には、画面に余白を残すことを避けた傾向があっ    て、草双紙などは、更に本文と一緒なので少しの空白も見られない。それかあらぬか華邨の画は他と較    べて画き詰める癖があった。殊に容斎派には筆先きを止めるのにチョット刎ね上げるふうがあるので、    時に繁縟(ハンジョク)感を覚えることもあった。だが一面そういう癖が画面に一風の調子を持たせて、華邨    画の滋味となっていたのを忘れてはならぬ。口絵の代表的なのを挙げると、単行本では紅葉の「不言不    語」、逍遙の「桐一葉」、鏡花の「照葉狂言」「錦帯記」、雑誌には柳浪の「黒蜥蜴」がある。「黒蜥    蜴」は柳浪の作中でも、「河内屋」「返目伝(ヘメデン)」「今戸心中」「雨」と共に愛読したものである    が、これもかなり深刻で陰惨な場面が多く、貧しい裏長屋と、松皮疱瘡で二た目と見られない醜婦が登    場するのを、華邨は丹念に描きながら、見た目にはいかにも美しく、醜いものが凡べて美化されている。    原作に従うのを挿絵画家の勤めだとすればこれは謬(アヤマ)ったことになるが、しばらくそれを問わなけ    れば、まことにみごとな口絵である。華邨に傑作を覓(モト)めれば、私はいつでもこれを推すに躊躇しな    い。「不言不語」では全く原作に忠実で、著者の指定か、画者の選択か知らぬが、口絵にした場景、仮    に私がこれに当るとしても、作中もっとも食指を動かさずにいられなかったろうと思われる。     鈴木華邨、本名惣次郎、万延元年二月江戸下谷に生れ、大正八年一月三日に歿した。中島亨斎の門人〟    ☆ きよかた かぶらぎ 鏑木 清方    ◯『こしかたの記』   ◇「年方先生に入門」p87   〝 母に連れられて、神田東紺屋町の年方先生の許に弟子入りしたのは、明治二十四年七月なかば過ぎて    のことであった。先生は慶応二年の出生で、その時はかぞえて二十六歳になる。父は野中吉五郎と云っ    て左官の棟梁であったから、塗家造りの土間には、大小さまざまの竈(ヘツツイ)が列んでいた。     大半紙一枚に朝顔の鉢植を、毛筆、淡彩で、覚束なく写生したものが、古い綴込帳に見出される。そ    の日附には八月一日とある。それが弟子入の後、通学の第一日なのであろう。これを見ていると、その    日の思い出が銀幕に写し出される古い映画のように、ぼやけながらも印象は蘇る。店蔵の竈の間を縫っ    てはいると、木造二階建が狭い中の間と共に建て継いである、その二階が先生の画室になっていた。南    北に高窓があって、東は二尺足らずの掃出し廊下が附いたのを背にいして、丈は低いが、平たくて大き    い机を据えて、先生はいつも挿絵をそこでかいていられる。私はその前に、机の左側を師の机にピッタ    リ寄せ、南側の高窓の光線を正面に受けた座に着いた。その世話は先生の御新造のしてくださるに任せ    て、私はただ「ここへ御坐りなさい」と、御新(ゴシン)さんの云うなりになっていた。もう少し前までは    三、四人の通い弟子が来ていたこともあったが、巣立をした小山光方、竹田敬方の二人が時々機嫌きき    に見えるだけで、通うのは私一人きりであった。入門第一日目の課題として、写生の他に、丁度その時    連載され始めた桜痴居士の小説「天竺徳兵衛」第一回の挿絵を、礬水(ドウサ)のない薄美濃に敷きうつし    をすることであった。浪人すがたの徳兵衛が故郷に帰って柴刈娘に道を尋ねる。その黒の着附の線を除    けて、濃墨でベタ塗りにしたり、直線を定木で引くとは知らないので紆々(ウネウネ)に引いたところが、木    版下の場合には、黒の衣裳なら、線を除けて塗るに及ばず、薄墨を塗って置けば、彫師が心得て黒く出    るようにしてくれるのだと云うことも、直線は竹の曲(カネ)尺を定木に使って引くものだとういうのも、    たちどころに解って、習うことのありがたさを知った〟     ◇「年方先生に入門」p96   〝 私が通っていた頃には、月に二度ぐらい鳥越に住居のある省亭さんへ行かれたのを知っている。大き    い折本にみごとな附立ての鶴のかしらを見た覚えもある。またその他にも、松原佐久と云う故実家にも    就いて、有職故実を学ばれた。小堀鞆音(トモネ)、梶田半古の両先生との交遊もそこから始まって、まだ    若々しい梶田先生を、紺屋町の二階に見たこともある。また、先生は、松原さんへ来るまだ若い人だが、    吉川(キツカワ)霊華と云うのは今に立派なものになる、と推奨していられた。私が十七、八だったろうから、    吉川さんは二十そこそこであったのであろう。これが吉川さんの名をきく始めであった。     私はその時ひたすら挿絵の新風を追って、専ら、桂舟、永洗の画が見られる雑誌を漁り、春陽堂の単    行本はなかなか買いきれないので、貸本屋から借りては口絵を敷き写しにして、色ざしをする。今も手    許に残るその三つ四つを取り出して見ると、拡大鏡を使っても、髪の毛筋などの筆さきがわかりにくい    のに、彫師はよくもこういう版下が彫れたものだと感心する〟    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「紫陽花舎閑話」①90(鏑木清方著・昭和十一年(1936)七月)   〝画号の清方は先生から貰つたもので別に何のいはれもない。その命名たるや実に淡々たるもので、丁度    「やまと新聞」にコマ絵を描く事になつた時、先生が名前がなくてはと二つ三つの名を無造作に書いて    くれて、どれでも好きなのをとのこどだつた。それを自分と一緒に画を習つてゐた子と共に選んだのが    此の清方である。どちらが先に好きな名前を取つたか忘れたが、付けて見るとぴつたりして、字面の感    じもいい。自分の画号を嫌ひだといふ人はまああるまいが、私は此の清方の号が好きである。別に、父    から貰つた渓水、依田学海居士が付けて呉れた象外があるが、これは意味としては好きだが、字面が堅    くて、今のやうに円朝を描いたり、慶喜を描いたりするのでは納まるが、なよ/\した美人画には合は    ないので、印には造つてあるが、画号としては殆ど用ひることがない〟    ◯『こしかたの記』「大根河岸の三周」p56   〝(*明治)二十六年四月大根河岸に祭礼があって、踊屋台が出たり、飾り物が辻々出来たりする他に、    芝居で大当たりの塩原多助(*前年正月、歌舞伎座にて三遊亭円朝原作『塩原多助一代記』の初演が尾    上菊五郎によって行われた)の昂奮がまだ醒め切らなかったと見えて、多助一代記の絵行燈を河岸中に    立てる話が極まって、年方先生の一門でそれを画くことになった、門弟一同と云ったところで、古い弟    子の小山光方の他は、私(*清方)同様まで写し物の初歩段階で、自力でものの形の画けるものは一人    も無い。私は新年の新聞にコマ絵を一度画くことがあって、画号が要(イ)るからと、昔からの仕来りに    従って師匠の「方」の字を貰い、その上に適当な字を師匠がいくつか書いて、そのうちからいいのを択    ぶことになったので、ここに苔の生えるほど使い古した「清方」の名は出来たけれども、その落款を入    れるに足る画の成るべくもない。河岸の小父さんなる三周(*青物市場大根市場の顔役。落語家円朝や    尾上菊五郎の後援者)に、「そんなものは画けません」と断ったが許してくれない。籤引(クジビキ)で引    き当てた私の画題は、大団円になる多助とお花の婚礼の図であった。仕上げはどうやら自分がしたけれ    ど、骨格となる下画は殆ど先生の手に成ったも同様だから、画いたというより実は写しものに彩色をし    たのに過ぎなかった。何事も質素な時分なので、材料も絹地を使わず寒冷紗に礬水(ドウサ)を引いて用い    たので、それも私たちばかりではなく年方先生もこの粗末な材料に画かれたのである〟    ◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p97   〝 父(*条野採菊)の経営していた新聞(*「やまと新聞」)も、戦争(*日清戦争)などがあって元    のようにはゆかなくなり、先生はまだ関係は断たれなかったけれど、私ば半ば引き継ぐような形になっ    て来た。新聞代を払う読者は遠慮がないから、不評判の投書はかなり来たらしい。絵を始めてから四、    五年、十七、八の青二才には重荷過ぎた〟     ◯『こしかたの記』   ◇「湯島の住居」p109   〝(*明治二十九年頃、清方かぞえて十九才の頃)「僕が小説をかいている、仙台の『東北新聞』に、挿    絵をかいてくれないか」と、岡(*劇評家・岡鬼太郎)さんから切り出された時には、急にあたりが明    るくなったような気がした。現に東京で「やまと新聞」へかいてはいるが、これは縁故でかかせてもら    っているに過ぎない。(*「やまと新聞」の社長・条野採菊は清方の父)一本立で友達と組む。こんな    いい話はないと、二つ返事で引き受けた〟     ◇「湯島の住居」p112   〝 あまり物覚えのよくない私でも「たけくらべ」(*明治二十八年(1895)刊)のところどころは、今    日でも尚お諳誦出来るほどなので、凡そどんな本でも、あのくらい長い間に、くりかえし読みかへした    ものは尠ない。美登利を絵にした数もどのくらい有るかまだかぞえて見たこともない。それで思い出す    のは、その頃友人たちと作っていた、美濃紙二つ折の肉筆廻覧本に、筆屋の店の細螺(キシヤゴ)はじき、    と、表の潜戸を開けて、雨の夜道をとぼとぼ帰ってゆく信如のうしろ姿を見送る美登利、「軒の雨だれ    前髪に落ちて」と云う、漆のような外の闇を出そうといくら墨を重ねても、黒くはなっても雨夜の暗さ    が出なかった。私は今も折々その絵にめぐり会いたいと思う心のとどめ難いことがある。読後の興奮を    胸に懐いて、純粋なこころで画いた絵には、技ではかけない何かが宿っていよう。私はそれに触れたい。    心が余って技が足りないのは、後で見ても我慢がなる。技が勝って心の足りないのはやり切れないもの    である〟     ◇「湯島の住居」p112   〝 三十年の四月に、絵画協会の第二回展覧会があって、その時私は湯島天神の額堂に、赤ん坊を負って    眠る子守をかいて初出品をした。社頭嘱目の画材であったが、下画には先生(*水野年方)の朱がはい    っているのは云うまでもない。鑑別のやかましくない時代だから落ちはしなかったが、廻覧絵本の「た    けくらべ」や岡さんの小説の挿絵に注いだほどの熱情はどうしても起こらなかった。     挿絵画家を本来の目的とするものが、展覧会へも出して見る気になったのは、同門以外との交渉が始    まって、他流試合の心が動いて来たからであった。同門の大石雅方は、大蔵省へ勤めの余暇に画の勉強    をしていたが、役所だの、銀行だのに出ている同好の人達が寄って、書画研究会をこしらえ、年に何度    か集まる会合があり、大石もその仲間なので、私も勧められて、十六歳の頃からそれへ加入していたが、    廻覧本に絵をかくだけで、会の方は尻込みをしてさっぱり顔を出さなかった。大石の姉は田中夕風と云    って、北田薄氷(ウスライ)と同じ頃に、紅葉門下の閨秀作家として作品も少しは世間に出ていたが、この人    も平生は教師の勤めをして、弟と共に一家の生計を立てていた。小石川水道町の大石の家で、私は始め    て自分の育って来た環境に見たこともない生活を知り、そのうち大石に誘われて研究会へも出るように    なると、それぞれ流派も違えば境涯も違う人たちとの交際が始まって、ことごとくにもの珍しく、当座    は池に養われた魚が大川に出たようであった。〟    〈「岡さんの小説」とは上記、仙台の『東北新聞』が掲載していた岡鬼太郎の小説〉    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p129   〝 病気がちだった私も、明治三十三年を迎えると、どうやら健康を取り戻していた。新聞は、東京の    「人民」と、まだ仙台の「東北」とを受け持っていたのと、吉川弘文館の教科書の版下などが凡そ極ま    ってはいる月々の収入になって、とにかく暮らして行けたが、その頃挿画家としては、春陽堂とか博文    館と一流書店の出版に、口絵を画くところまで行かなければ、力士なら幕内、役者なら名題の数に入っ    たとは云えず、延いては生活の安定も望めなかった。     文芸出版をする書肆には常勤の画家を置いた頃で、春陽堂から社員の田代暁舟が傘谷へ尋ねて見えた    のは、思い設けない「新小説」に口絵依頼の用向であった。内田魯庵の小説「青理想」と云うもので、    色は墨とも四色との限定である。少くとも五、六色なければと思うのだが選り好みをする場合ではない    ので直ちに引き受けたが、まだ色摺ものに慣れぬ不覚さに、必要以上狭義に解釈して、五月号の配本を    見た時は、顔を掩(オオ)いたなるほどの生硬未熟、紅と藍との掛け合せで出る筈の紫などは、むやみに赤    茶ちゃけて拯(スク)い難い安っぽさに墜ちている。こんなことでは二の矢の望みはないと諦めていたら、    その年の内にまた引き続いて頼まれた。あやにく右の眼を患ってはいたが、眼帯をかけたままで執筆し    た。原稿は川上眉山のもので題名は忘れたが、掲載されたのは「新小説」第十三巻であった。二度とも    使いに立った暁舟は竹内桂舟門の秀才で、翌三十四年には「新小説」誌上に、鏡花の「註文帳」と「袖    屏風」とに口絵を画いている。これまでの鏡花ものにある一流の大家の口絵にこれだけ著者を理解して    筆を執ったのは見かけなかった。この暁舟氏はどういう理由か程なく春陽堂を罷めて、その後の消息が    伝わらない。     上野で開かれる絵画協会展覧会春期には、洋画の枠で云えば凡そ十号ほどの、髪をお下げにした幼女    が、溶けかかる霜柱を踏んで往くさまを描いた「霜どけ」を出品した。その時、私の画と隣り合って掲    けられた、ごく小品の「遣唐使」があった。落款には眠草とある。高雅でものしずかな作風に私はただ    ならぬ親しさを懐いて、この画の隣りに並べられたのを何となくうれしく思えたのであった。一年の後    にこの作者と相識るようになったのであるが、それは安田靫彦さんのことである。     その秋には、現代少女がハンモックに眠る「紫陽花」と、潯陽江頭、夜客を送る、と云う「琵琶行」    とを出品した。九月に入ってわが家の裏に工事が始まって制作にもさしつかえるので、前田家の家中の    一室を借りて漸く画き上ることが出来たけれど、その前にこの下画が出来た時に、今までの慣例に従っ    て年方先生に見ていただくと、先生は白楽天が憔悴して見えるのがいけない、と云って、デップリとし    た、酒客で大人らしい風貌に、筆を把ってスッカリ訂正して下すった。たしかにそれらしい恰幅(カップク)    と貫禄は備えたけれど、それでは私の意図に背く、そうかと云って先生の朱筆を無視するのも気が咎め    る。結局どっち附かずの表現に終わったが、それ以来、善くも悪くも判断は自分で極めることにした。     浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、     容斎派の盛りの頃から歴史画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はそ    の擡頭は一層目立って、歴史画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関    係の出版は少年ものにも及んでいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を    採り上げた。街頭にはまた「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられて    いた〟    ◯『こしかたの記』   ◇「挿絵画家となりて」p137   〝(*明治三十四年~四十年まで過ごした木挽町一丁目の借家)縁側に近く、樅(モミ)の大板で拵えた机を    据えて、日々挿絵の生業(ナリワイ)にいそしんだ。座右には丸善で仕入れて来る、画集やカタログのたぐい    が取り散らされてはいても、それは移りゆく時の姿として、昔、国貞、国芳、英泉、降って国安などの、    わが先人たちも、やはりこんな日常を送っていたのかと、夏の夕、配りものの絵団扇に蚊を追いながら、    何か愉しく昔の人をなつかしむ折もあった〟     ◇「挿絵画家となりて」p137~9   〝 雑誌「歌舞伎」の関係で識るようなった安田松廼舎さんは、私がかねてその作品に心酔した泉鏡花と、    まだ一面の識もないのを、両者のために惜しむとあって、三十四年の八月十八日、本所横網の自邸で、    その引合せの一会を催された。鏡花は既に文壇の寵児として、世の人気委を鍾(アツ)めていたのに、こち    らは漸くこのごろ売り出したばかりで、凡べて未知数の存在でしかなかった。松廼舎さんのこの知遇に    は、これにも友人山岸荷葉の推輓が蔭にあったのだと思っている。     (安田邸での参集者、主人松廼舎・泉鏡・清方の他に千葉唯継・伊臣紫葉、山岸荷葉等)     私の日記には「風あり、朝夕に秋を思わする涼風吹き初む」とある。鏡花はうす浅黄の、麻の帷子を    着ているようだったが、黒絽に例の源氏香の図、紅葉の賀の紋どころ鮮やかに、白晳、漆黒の髪厚く、    近眼鏡越しに瞬(マバタ)く眼が強く印象される。数え年で三十、私はその時二十四であった。(*中略)    今度の会合があったので、三十五年一月の「三枚続」に鏡花作、清方画、の段取りになったものと、今    までそう思い込んで何かにも書いたことがあるが、手控えや日記などに散見するのを綜合して、春陽堂    から「三枚続」の口絵と装丁を頼まれたのは、三十四年の五月六日で、松廼舎の初対面より三月余の前    になる。十八日の会合より数日を過ぎた二十三日には「三枚続」の色差を春陽堂へ届けていることが分    かった。     初対面にも拘らず全く一件旧知のようで、日記には「鏡花子曰く、春陽堂で画の話の出る時は、予は    必ず君を推す。爾来刎頸(フンケイ)の友たらしむ」ともある。     三十五年には続いて「新小説」一月号の「女仙前記」、五月号の「きぬきぬ川」、十一月号に「起請    文(キショウモン)」、三十六年には「新小説」一月号に「二世の契」挿画、単行本の「田度かがみ」と、椎の    木屋敷(*安田松廼舎邸)での誓はまことに空(アダ)ではなく、硯友社初期の紅葉、桂舟にも況したコ    ンビと他からも謳われる提携は始まった。     「田度かがみ」は、「山僧」「斧の舞」「玄武朱雀」「簑谷」など十余篇の短編を集めてあるが「さ    さ蟹」だけが書下しであったろう。三十五年の九月十五日に、泉君は自らその原稿を携えて木挽町の宅    へ見えたのである。これを口絵にしたのであったが、私の手許にはいつかその本を失(ナク)していたら、    今は亡き木村(荘八)さんが、愛蔵のものに署名して私に贈られたのは、戦前まだ牛込矢来時代のこと    であった。木村さんは私の鏡花物のうち、特にこれと「風流線」とを好まれたようである。     私は鏡花の口絵を画きつづけるようになって、一作毎に自信を増してくるのが自分にもよく解った。    この人の作にかきたいという願望が、羽翼もまだ整わないうちに廻って来て然もその著者が温かい手を    さし延べてくれるなど、望んで得られることではない。縁であり、運であろう〟    ◯『こしかたの記』     ◇「「読売」在勤」p147   〝「読売」にいた山岸の骨折りで、私はコマ画と呼ぶ種々の雑画をかくために、その社へ通勤するように    なった。と云っても、正式に入社したわけではなく、嘱託として、出勤の日給制という、至って栄えな    い待遇も、実は他に目指すところがあったからである。それは小説挿絵の担任者として梶田半古の存在    にあった。当時先生の清新で高雅な画風は、若い画学生に何かしら新しい希望と光明を与えたのである。    私は年方先生の薫陶を受けて、比較的堅実な技法を仕込まれては来たけれど、芳年伝承の筆法からは、    少しも早く脱け切りたいとのと踠(アガ)きが、旦暮(アケクレ)悩みの種であった。そう云う意は決してこれ    を貶すのではない。芳年は平常北斎を好いていた聴くが、そうありそうなことで、この二人の名手は各    々何処かで通ずるものを持っておる。私を肌合は恰(マル)で違うが、芳年の錦絵には並々ならぬ愛着を寄    せていて、蒐集の数から云ってもそう尠いほうではないであろう。これは何も大師匠に当る人への敬意    ばかりではない〟     ◇「「読売」在勤」p150   〝 岩波本の「鏡花全集」年譜三十五年の項に「七月末より九月上旬まで、逗子桜山海道の一軒家にあり、    胃腸を病めり、すゞ台所を手伝ふ。十月『起請文』『新小説』に出づ」とある。     私が桜山を訪れたのは、もう引き揚げるのに間もない八月二十八日で、私が口絵を画く原稿は脱稿に    近い時であったろう。     その本文劈頭(ノッケ)に「停留場前の新開地、古顔の犬も居らず、蝙蝠の棲む穴も出来ない、未だ新し    い軒並び、海水浴旅館の案内所。鮑の粕漬、木雲(モヅク)の売店、一寸一杯お中喰、お休み処などある中    に、客が駕籠で来た時から、一軒老舗(シニセ)の角の茶屋」私の降りた逗子駅前の光景は正にこの通りと    云えば足りる。泉君の居た家は、逗子から金沢へゆく街道に近く「起請文」は前篇、「舞の袖」は後篇    で、この構想はここで成ったものに違いない。     挿絵にも、口絵にも、鏡花の作を手がける時は、いつも極まって真ッ白な無罫の江戸川半紙に、筆で    書いた、その淡墨の滲んだのも、指が触れたら湿りそうな、作者の机を離れてからまだ人手に渡らない    原稿を、夜を徹してでも読み耽った。     「舞の袖」の第四章にある、「茄子の紫は絵の具でない、朱葉(モミヂ)の色は霜に冴え、露草は日向に    しほれ――紙ぎぬた、池子の麓に打つよと聞けば、虫もつゞれ刺せと鳴くとかや。針仕事は覚ゆるものと    行燈の夜は長く」ある時は諳んじていた。調子と響きのいい文章を口にすると、草深く、露繁き池子の    山里もつい身近かに、夏花の匂いも漂うように思われる。     私が訪ねた時、姉さん冠りの手拭白く、眼についたのが、車屋らしい男に、何やら絡げた荷物を渡す    ところで出合った。「よく来てくれた」と駈け出すように迎える主人に導かれて、奥というほどでもな    い、あさまな住居に座も定まり、かれこれ話し合ううちに先刻の女性が、手拭を取り、襷を外して手を    支える。泉君は笑を含みながら「この人を知っていましょう」と云う。「すゞ台所を手伝ふ」とあるそ    の人ともどうやら違う、とすぐには判じかねたが、話せば七、八年前少しの間いたことのある下谷御徒    町で見知り越しの研師の娘、父にとって師匠筋に当る名家の忰に懸想されて、昔はよく路地の片蔭に、    雨戸を斜に人目を避けて行水する慣いがあった。そんな場にまで立ち入られるのに当惑して、娘は近所    にある同じ研師なかまの家に遁れたと云って、その家の子供の話に聞いた。「御徒町では存じながら御    挨拶もいたしませんで……」と、あの頃は十七、八の娘ざかり、今はそんな昔話に恥(ハジ)らうけしき    も見せない年増になって、彼女を交えた昼餉の膳に、ひとしきり昔話の花が咲いた。     泉君は私を連れて、そこからあまり遠くない、医王山神武寺へ案内してくれた。岨道を迂回して登る    片側は、むら立つ杉の、谷を填(ウズ)め、峯を蔽う。急坂を上るにつれて、谷懐の底深さを知らず、旅    馴れぬ都人を驚かした。本堂を過ぎて裏山に到れば、木々の隙から、水天髣髴はるかに湾の内外を瞰む。    そこに古びた一宇の堂があって、まわりの木連(キツレ)格子に、何んの祈願か女の髪を髻(モトドリ)から切    ったのが、数知れない絵馬に添えてそこら中に結(ユ)い下げられてある。まだ生々(ナマナマ)しい黒髪もあ    れば、黄ばみ、白(シラ)けたおどろおどろしいのも交(マ)ざっている。     秋立つ頃の日脚(ヒアシ)もいつか傾きそめて、満山法師蝉の声も喧(カマビス)しい。山を下りて、薄暮、    客は相携えて鐙摺(アブズリ)の日影の茶屋に向かった。     翌日、社へ出ると同じ編輯室の石橋思案や関如来が、鏡花を訪ねた模様を画入でかけと唆(ソソノカ)すの    で、細流れの丸木橋にしゃがんで指先を水に浸す泉君を描き短文を添えたのと、その年の秋、烏合会の    友と一緒に碓氷、妙義に遊んだ時、三日続きの紀行文を載せたのが、今思えばこれが自分の書いたもの    を活字に組ませる始めになった〟    ◯『こしかたの記』「梶田半古」p157   〝 その頃誰でも認める文芸雑誌と云えば「新小説」か「文芸俱楽部」であったのに、三十五年三月に金    港堂から出た「文芸界」は、創刊号三百六十頁で、内容もそれに伴う堂々たる陣容を整えた花々しい門    出であった。金港堂は二十一年に「都の花」を発刊して、文芸誌の、云わば草分けであったが、その廃    刊後は久しく文芸出版に遠ざかっていたのがここで俄然捲土重来の意気を示した。紅露時代と云われた    時に、主筆の佐々醒雪がこの両大家と三人でポーズをつくった写真を巻頭に掲げたのが目に付いた。紅    葉山人は持前の俠気も動いたのか、訳文の「胸算用」を執筆した他に、詞藻欄には俳句の選をしたり、    「袖長き蝶、舞の座に直りけり」の祝の句も寄せるほどの気の入れかたで、この雑誌に半古先生が美術    面の企画に協力するようになったのも、山人との関係から見て当然と云えよう。この詞藻欄に十二個の    みごとなカットを見るが、署名はなくても恐らく自ら筆を採られたものと推さるる。なおこの欄には若    き日の結城君のものもある。     紅葉山人は図案に対してなみなみならぬ趣味があるので、その点半古先生とは相許すところあったら    しく見えた。金港堂との交渉は私にも及んで来て、友人の山岸から「梶田さんに頼まれたが、君に助手    に来てもらえまいか、金港堂へ行ってもらえばそれに越したことはない」と云うのである。古日記を閲    すると私は先ず横寺町に山人を訪ね、その足で天神町へ行っている。横寺町でどういう指示を受けたか    記してないが、結局助手の話は辞退した。この場合、かねがね私淑している先輩から声をかけられたの    で、光栄は云うまでもないが、当面挿絵画家の立場として極めて自由な立場を守りぬきたい志望が、ど    うしても承けひきかねたのであったろう。横寺町へ寄ったのも何かの諒解を得るためかと思われるが、     「十千万堂日録」その年五月九日の条に「夜清方来ル」とあって、その日午前先生は長与病院に到り、    「長与氏は胃の下部に当る隆起を虞れ、体重減少の模様なれば入院すべし、とにかく下総成東の冷泉に    浴せよと勧む、云々」そんなことのあったあととも知らず寔に心ない仕儀であった。     半古先生は私の身勝手を許されたばかりでなく、私がその頃自分たち気ごころの合う同士の小さい集    団(烏合会)にだけ制作を発表しても、上野の大きい展覧会にはとんと出品をしていないのを、それで    はいけないと戒めて、この秋には必ず出すように勧められた。     私が挿絵の職を決して一時の腰かけ仕事として択んだのではないことは、今までにもたびたび述べて、    読者にも解っていただけたと思っているが、私の画く絵の性分と云ったものが、どちらかと云えば、版    に頼るのより、じかに手に持つ筆にたよるほうが適していると、これは既にその時分からそう気付いて    いたので、挿絵家と云えども、創作を望む意欲を忘れ切るわけはない。それなればこそ同志の集団も生    じたのであるが、世間に迎えられ出した挿絵画家が、大作に費す時をつくることの難しさはひととおり    のことではない。でもこの年の春の烏合会には「宮の軀」、十月の、これも同じ会に「一葉女史の墓」、    十一月には上野で開く絵画協会の共進会に「孤児院」を出すことが出来た。     その「孤児院」に掛かりはじめた頃、何かの折か画かきの集まる会合があった。私は元来こういう席    へ出るのを好まなかったが、半古先生に誘われて出席した。その席へ、当時新鋭の意気熾(サカ)んな尾    竹竹坡、国観の両君も見えた。あるいはこれが初対面かとも思うが、相当の酒気も手伝って、頻りに私    の大天覧会へ出品の無い懈怠を責めて、挿絵の固い殻に閉じ籠る不心得を詰(ナジ)って已まない。説鋒    いささか持て余していたのを、微笑を含んで眺めた先生が「君たち心配することはない、鏑木君はいま    出品をやっているよ」と助け舟を出して下すったので、元々わる気があって絡むつもりもなかったと見    えて、二人とも気色を和らげ、「それはよかった。や、たいへん失礼なことを言ったが、これから大い    に仲よくやろう」と代る代る手を差し延べて何遍となく握手を求める。この兄弟とはその後も長く交渉    を持つに至ったが、二人とも戦国の武人に往々見られる単純で荒削りなところを剥き出しにしてなんら    修飾を加えようともしない。直情径行は兄が更に徹底していたようである。私と同じ時代苦楽を倶にし    た思い出は数々ある。また後章にも触れることがあろう。     「読売」に関係してから二年越しになるが、その間に私の身辺は日と追って、今まで予期しなかった    ほどの忙しさを加えて来た。午後の一、二時間とは云え毎日の出社を継続することは出来にくいので、    罷(ヤ)めさせてくれるように申し出た。前から懇意な石橋思案外史が最近新しく三面の主任になって、    私が社に出ているのを悦んでくれた矢先なので、宅まで来て引き留めてくれたけれど、半古先生の助手    を断ったのと同じわけで、この勧告にも従うことが出来なかった。半古先生はまた、私の手さえ欲しい    と望まれるほどの忙しい最中で、自然新聞挿絵の不時休載が起るために、社の方ではそんな時には私に    代ってくれるようにと云ってくる。それもまた断るとは云いにくいので、先生のお許しさえあれば、と    返事をした。諒解を得て折々代役を勤めたのは、三十六年に入って小杉天外の「魔風恋風」掲載の期間    であった。この小説がこれまでの新聞小説に多く例を見ない稀有な人気を博したのは、許嫁(イイナズケ)    のある大学生と、その許嫁の同窓の女学生との自由な恋愛を主題にしたのが、まだ映画もない時代の若    い読者に迎えられて、そのために女学校で生徒に読むのを禁じたのが却って異常な反響を呼ぶに至った    のであったが、これには半古画く長身美貌の女学生がちょうど映画に美しい女優の主人公を得たのに比    する効果を挙げたと私は見ている。こういう舞台の代役は仕栄えもあれば演(ヤ)りにくくもあって、そ    れがまた、女主人公の初野が始めて異性に唇を許すというクライマックスが私の方に廻って来た。散々    考えた挙句(アゲク)、まともに扱うのを避けてうしろ向きに逃げ、袖に隠して二人の手を繋いだ。この    新聞が発禁になったと云う記事を近頃見たことがあるが、私は聴いていないから、そういうことはなか    ったろう。     現在の宅へ移った時、古い文反故を整理していると、先生名儀の封書一通を見出した。その文意を約    (ツヅ)めて云えば、日々、挿絵の代筆御面倒をかけているが、自分の熱疾まだ捗々(ハカバカ)しくないとこ    ろへ、「誰の罪業(トガ)」の挿絵を自分の筆と思って、病気を疑い、他の画を催促されて困るので、御    迷惑ながら毎日記名をしてもらいたい。とのことを夫人の代筆で記してある。日付には一月三十日と解    るが年号が判明せぬ。「誰の罪業」と云うのは、著者の記憶はないが滝川今古堂から出版されて三十九    年の七月に私の口絵装釘の手が放れているので、これに紛れないことが解った。「読売」を退いた後で    も断続してではあろうが存外長く代筆が続けられていたものと見える。「魔風恋風」自分には意識して    似せたものであったが、そう声色(コワイロ)は続かない筈とは思うものの、先生の方にして見ればこれはま    た迷惑なことであったろう〟    ◯『うたかたの記』   ◇「横寺町の先生」p167   〝 始めて此処(*尾崎紅葉の横寺町住居)を訪れたのは、明治三十年に、友人山岸荷葉の処女作「紅筆」    が、「新著月刊」の七月号に出るので、私がそれに口絵を画くことになった。私にとってもこれが処女    作で、他の木版彩色の分は、鏡花作「清心庵」に永洗が予定されている。私のは単色の写真版なのであ    った。山岸が私を同道したのは、口絵になる雛妓の図に、先生の題句を望むためであった。三十年と云    えば「金色夜叉」がその元旦から「読売」に出はじめた時で、先生の最も元気の旺盛な時分である。濃    い髪を厚く分けて、目元と口元に、威厳と愛嬌とが入り交って、接するものに、狎(ナ)れ易からず、親    しみ深いという印象を与えるのであった。     山岸は早稲田出身で、逍遙門下でもあれば、一方紅葉社中としても、普通の師弟関係とはまた違った    心易い付合があったせいか、山岸の頼みを聴いた先生は私の持参した絵を机の上に拡げて眺め、ちょっ    との間黙考されてから、どこからか四六判ほどな奉書の紙片を取り出されて、まだ原稿は、和紙へ筆で    書いた時のことだから、筆墨はいつでも机上に整っている。先生はその筆を把るなり       撫子の露を夢みる日なたかな     淡々と書き下された。ちっともこだわりのない無造作(ムゾウサ)な態度には、後々永く教えられるもの    があった。ものの保存にとかく疎かな私も、どうやらこれは、失(ナ)くさずに、今も手回りの筥に収め    てある〟     ◇「横寺町の先生」p169   〝 三十四年十月二十九日、松廼舎氏(安田善之助)の一行と横寺町で落ち合って、先生案内で鳥屋の河    鉄に導かれたが、その中にはまだ丁年に充たない安田靫彦さんもいた。この頃は、眠草の号を用いてい    られたようである。その年の三月七日、松廼舎氏に誘われて木挽町の宅へ見えたのが、半世紀に余る久    しい厚誼の今に渝(カワ)らぬ初対面ではなかったろうか。     三十五年の二月には、浅草の宮戸座で「金色夜叉」二度目の上演があった。中野信近の間寛一、千歳    米坡の赤樫満枝で、この人物はもともと米坡を粉本にしたのだと伝えられていたが、舞台では生地と違    って案外可憐(シオ)らしく、期待したようでないとの世評であった。     二月十一日に総見があって、その折私の写生した観劇中の先生と靫彦君のスケッチが、本間久雄氏の    「明治文学史」に載っているが、葉巻を吸う先生の横顔には、著しく頬の憔悴が眼に付いた。     この年に入って私には先生との交渉が頻繁になって来たが、それの多くは何かしら「金色夜叉」にか    かわるものであった。     三十五年四月の烏合会には、新古小説を課題にして、会員がそれぞれの画きたいものを択むことのな    った。山中古洞と相談して、古洞は露伴の「二日物語」私は紅葉の「金色夜叉」を、めいめい二尺五寸    の横物に画こうと極めた。それが逸早く著者に聞えて、例の山岸から、横寺町の内意だと云って取り次    がれたのは「清方君は何処を画くか知らないが、若し画く気があるなら、夢のなかの宮の水死のところ    を画いて見ないか、『金色夜叉』続篇の口絵がまだ極まらずにいるので、使えたら使おうじゃないか」    と、耳よりの吉報なのである。直ちにそれに随ったことは云うまでもない。     第八章「咄嗟の遅(オクレ)を天に叫び、地に号(オメ)き」から「緑樹陰愁ひ、潺湲(センクワン)声咽(ムセ)びて    浅瀬に繋れる宮が軀(ムクロ)よ」まで、文字にして二百字あまり、試験前の学生のように、築地川の川縁    (ベリ)を往きつ戻りつ繰りかえしては諳んじた。何かで見たオフェリヤの水に泛ぶ潔い屍(カバネ)を波文    のうちに描きながら。     読者も知るように宮の死は貫一が暁の夢で、軀(ムクロ)と云うも現実ではない。顔かたちの詮索もある    いは不要なのかも知れないが、こうした折に、著者の心に懐いていられる面影を知って置きたいと思っ    たので、先生に訊いて見た。先生は用意されたものもように「文芸倶楽部」などの口絵からかねて切り    取られたのかと思われる写真銅版の小さい紙片を示された。それは徳島の芸者で、紫屋の雪松と、名が    体を表すように美しく、ふくよかな頬と、桃花の莟を含むに似た唇が眼を惹く、上方女の艶色である。    紅葉先生は「これに新橋のおゑんを搗き交ぜたら」と言われる。新橋、小松屋のおゑんは、一体に薄手    で痩せぎすな、眼元のキリッと引き緊まった。花なら桔梗を思わせる江戸前の美女で、雪松とは東と西    の、全く違った趣がある。歌留多会ではじめて姿を見せる宮の「色を売るものの仮の姿したるにはあら    ずやと」の形容が思い合される。     「十年万堂日録」三十五年二月二十八日に「午後一時日就社に赴き、三時木挽町一ノ十五に清方子を    訪ひ、其の宮の水死の下画を見て批評し、春陽堂を訪ひ、少談の後同行中華亭に赴く、途中文禄堂を訪    ふ、不在也。八時過出でゝ車を僦(ヤト)ひ、酔眠して神楽坂に至れば縁日也。」とある。(註、中華亭は    日本橋通一丁目の東新道、通称木原店に在って、美食家の間に知られた高名な割烹店。文禄堂は堀野与    七、号を文禄と云って、家業は紅屋の老舗であったが、文筆を嗜み、京の藁兵衛の筆名で「一分線香」    という笑話研究の雑誌を主宰していたが、とうとう紅屋を止して文禄堂の名で出版を専らにするに至っ    た。)     私の木挽町の家は、仕事場にも客間にも、ただそれきりの八畳に机を据えて、あたりは取り散らして    ある中に、畏敬する先輩を迎えたので、光栄は云うばかりないが、どうしてこれを持てなしたらいいの    か、実のところ当惑もした。平生から浅ぐろい先生の顔いろは病気のせいであろう、秀いでた眉字のへ    んに陰翳を宿すのが気になった。襦袢の襟の黒八丈が胸元をキリリと締めて、無地黒紬の羽織着物、云    うまでもなく角帯、袴を着けず、帯だけに他の色を見るが、あとは足の先きまで黒づくめ、享年三十八    であったから、この時は三十七である。先生はとりわけ夙(ハヤ)くから老成の風があったが、身装(ミナリ)    の質素(ジミ)なのにも依るだろうが、若くして何となく侵し難い貫禄を自然と身に付けていた。下画を    批評とあるが、どういう批評を受けたかまったく覚えがない。併しどうやら採用されそうな気色(ケシキ)    に窺えるのに力を得て、それからは「歌舞伎」の三木氏に誘われる好きな芝居も断って、三月中は籠居    してこの絵にかかり切っていた。     「日録」三月十五日の項には「曇、十一時清方、お宮水死の下画持参。荷葉奉額の件にて次いで来る    ――清方荷葉を明進軒に伴ふ。(註、明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などを    つれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷら    の店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(メグリア)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ヒイキ)    にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の誼(ヨシミ)があるので、主人の需    めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(ノレン)を贈った。それから彼は旧知    新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢    に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(キップ)    のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。)」     (尾崎紅葉の「日録」明治三十五年三月二十七日、二十九日の記事あり、省略)     (*「日録」)「三十日、曇大風。(壱)原稿及十句粋を携へて出社す。清方子お宮水死の図落成と    聞き帰りに一見せんとせしかど胃の具合よろしからずで直ちに帰る。縧虫発生せし為近来不快尤甚し。    其中にての執筆なれば一倍の艱苦を感ずる也」      四月四日、第三回烏合会の会場へ、そんな中でも先生はフラリと見に来られた。     同日の「日録」を参照すると「晴。風。午後一時常盤木俱楽部の烏合会に赴く。清方宮水死の大幅を    出す。半古文録二子に遇ひ、共に三井呉服店に珍柄を看る。帰途半古と中華亭に赴き会食、いつもの酒    ながら美味に感じたり。新製の大関なりといふ。     この日の会場には、山岸にも来てもらって先生を迎えた。私の画には「宮の軀よ」一聯の文章を、山    岸が得意の筆蹟で、大奉書に書いたのが、解説の意もあって添えてある。画を見てからそれに眼を移さ    れた先生は、ひとわたり黙読して私を見かえりながら、「君、筆はあるかね、」と小音で云われる。山    岸が進み出て「何か、違いましたか……」と訊きかえすと、「ううん」と軽く否定されて、私の取って    来た硯筥の禿筆を把りあげた先生は、解説の一カ所を訂正された。それは刊行続編の第八章「心地死ぬ    べく踉蹌として近(チカヅ)き見れば」の一齣で、訂されたのは踉蹌二字の配置なのであった。惜しいこと    に、この解説はいつか失せて確かめ得えないが、前には蹌踉とあったように思っている。同じ続編の第    一章に、荒尾譲介と宮が再会のところでは「いでや長居は無益(ヤク)とばかり、彼は蹌踉(ヨロヨロ)と踏出    せり」とある。その道でもないものの文字の詮索はさし措くが、他人が抄書した、それもその場きりで    消えるただ一片の解説をも空(アダ)には見過せないところに、その頃には凝り性とのみ云っていたが、    ある文人気質(カタギ)が、私のような者には心あたたまる思い出である。     それから超えて一年、「続々金色夜叉」の刊行に当って、その口絵には塩原箒川の写真を用いるので、    その輪郭に施す意匠を相談したいとの招きに応じて、翠柳の蔭こまやかな十千万堂を訪れた。先生の病    状も一進一退をつづけ、きのう保養先の銚子から、帰られたばかりであったが、久ぶりで二階へ通され    て見ると、常に開け放してある二た間続きが襖で仕切られて、一方には寝台を据え、見慣れた唐木の大    きい卓に接脚(ツギアシ)がされて、その上には次第なく積み重ねた書物の間に、お納戸と牡丹色の縮緬の    小裂で縫い合せた、肱突のひとり鮮かなのが、いたずらにきのうまでの主なき宿を思わせる。     そこへ上って来られた先生の顔の色は決してよいとは云へないが、座談になれば、不治の難病を有つ    人とも見えぬ。用談の装画は、寛一が夢に宮の軀を背に負えば一朶の白百合大さ人面の若(ゴト)きが云    々という、その百合を用いることにした。あとの四方山(ヨモヤマ)話はいつか画の落款に及ぶと、軈(ヤガ)    て先生は私の求めるままに、有り合す紙に清方の二字をいくつも書いて示される。「上の字を草に崩せ    ば下のを行でゆくのもよかろう」とも云われる。私の先輩たちのそれにも及んで、「字はそう旨くなく    ても俗でないのがいい、なまじ習って俗臭のあるのは厭だ、なにがしは俗、年方は手紙の字がよろしく、    省亭、広業、玉堂うまし、誰それのは巧みに見えるが、落款の字は好かぬ」などと縦横に評されて、な    お諭されるには、「落款は楷書とまでは云わないが、行体ほどでありたい。始めから崩した字を倣うの    はよくない、先ず千蔭の徒然草あたりから始めて、子昂の、格の正しいものを習う、どうにか体を得た    らそれから崩すのだね」と、これがその時の先生が言われた通りであったかどうか、まだ誨えられると    ころもあったろうが今は記憶を逸している。     その日帰途、島金横町に鏡花を訪う。恰ど門下の師に献ずる「換果篇」の執筆中であった。     夏に入って伺った時には、病蓐にあって引見された。「草もみぢ」の挿絵を頼まれて、「君に進上し    ようと思って、足立疇邨に、鯱の牙の材で印が頼んである、もうじきに出来るだろう」と語られるのも    大儀そうなので、厚意を謝して退出した。     八月一日、約束の印が出来たとの報せを受けて戴きに出たら、もう病床は階下に移されてあった。こ    うして、その印章を手ずから授けられたのが、私の先生に接する最後であった。     病篤くなってからは、玄関に見舞客の署名帳が出ていて、名を記す人もあれば、絵筆を執るものは画    もかいた。私の行った日が偶々八朔に当るので、紋日(モンビ)の太夫を画き、先生から授けられた鯱の印    を、はじめてそれに試みた。三十六年十月三十日、紅葉山人は「壽盡才不盡」の印影をこの世の形見に    遺して逝去された。青山の墓地は、一時夥しい供花の菊で埋められて、さながら大きな花園の観を呈し    芳薫四方に匂い亘ったのが、いつまでも知る人の間の語りぐさになった〟    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「私の経歴」①13   〝浮世絵といはれるのが厭で社会画といふ    私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。其の頃の水野社中の研究法は、重に先生    の画かれた新聞の挿絵を写すのであつた。四年ばかり経つて、先生の板下絵に、模様を入れさせられる    やうになつたが、折々下手をやつて、板下を無駄にしたのを記憶して居る。    其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進    歩もして居なかつた。美術協会などから仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。漸く    日本画会が創立されてから、初めて絹に画いて、公開の席に出陳するやうになつた。この時年方は『堀    川御所』を画いた。私達は浮世絵といはれるのが厭で、社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た〟    〈日本画会の創立は明治三十一年。この当時、清方ら明治生まれの若い絵師たちは、国芳、芳年、年方等を輩出した徒弟制度     に身をおきながらも、そこから生み出される作品を浮世絵と呼ぶことには少なからぬ抵抗感を抱いていたのである。西洋の     文物に触発されて育ち始めた新しい感性が生み出すコンプレックスなのであろう〉    ☆ ぎょうしゅう たしろ 田代 暁舟    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p129   〝 病気がちだった私も、明治三十三年を迎えると、どうやら健康を取り戻していた。新聞は、東京の    「人民」と、まだ仙台の「東北」とを受け持っていたのと、吉川弘文館の教科書の版下などが凡そ極ま    ってはいる月々の収入になって、とにかく暮らして行けたが、その頃挿画家としては、春陽堂とか博文    館と一流書店の出版に、口絵を画くところまで行かなければ、力士なら幕内、役者なら名題の数に入っ    たとは云えず、延いては生活の安定も望めなかった。     文芸出版をする書肆には常勤の画家を置いた頃で、春陽堂から社員の田代暁舟が傘谷へ尋ねて見えた    のは、思い設けない「新小説」に口絵依頼の用向であった。内田魯庵の小説「青理想」と云うもので、    色は墨とも四色との限定である。少くとも五、六色なければと思うのだが選り好みをする場合ではない    ので直ちに引き受けたが、まだ色摺ものに慣れぬ不覚さに、必要以上狭義に解釈して、五月号の配本を    見た時は、顔を掩(オオ)いたなるほどの生硬未熟、紅と藍との掛け合せで出る筈の紫などは、むやみに赤    茶ちゃけて拯(スク)い難い安っぽさに墜ちている。こんなことでは二の矢の望みはないと諦めていたら、    その年の内にまた引き続いて頼まれた。あやにく右の眼を患ってはいたが、眼帯をかけたままで執筆し    た。原稿は川上眉山のもので題名は忘れたが、掲載されたのは「新小説」第十三巻であった。二度とも    使いに立った暁舟は竹内桂舟門の秀才で、翌三十四年には「新小説」誌上に、鏡花の「註文帳」と「袖    屏風」とに口絵を画いている。これまでの鏡花ものにある一流の大家の口絵にこれだけ著者を理解して    筆を執ったのは見かけなかった。この暁舟氏はどういう理由か程なく春陽堂を罷めて、その後の消息が    伝わらない〟    ☆ きよちか こばやし 小林 清親    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p27   〝(*東京の絵双紙屋の店先に)三枚続には、国周の役者絵も、芳年の風俗画もあったろうが、それと知    ったのは十歳頃から後のことで、一枚物の横絵に、清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国    の火事、箱根、木賀の風景などは店頭に見た覚えがある〟    〈鏑木清方、十歳以前の光景というから、明治十年代後半のことであろう。「にしきえ」の項参照〉    ◯『鏑木清方随筆集』「一陽来復」p10(昭和十一年一月記)   〝兵隊さの酔っ払ったの、門礼者(カドレイシヤ)のぐでんぐでんになって、供の小僧が引き摺(ズ)られてベソ    をかく姿。明治の漫画、その頃はポンチ絵いったが、小林清親画く所の好画題であったけれど、今時何    処を歩いても、滅多にそんなのに出っ会(クワ)さない〟    ◯『明治の東京』「明治の生活美術寸言」p181(昭和三十七年九月記)   〝私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と、清親一派の風景画が最初に    思い泛(ウ)かぶ、清親はこれまでにも紹介されて人の知るが、その門人で惜しくも早世した、探景井上    安治は、師風から殆ど一歩も出ないようでいて、どこか広重に通じる詩情と郷愁がしみじみ看者の心を    打つ〟    ☆ くさぞうし 草双紙    ◯『こしかたの記』「発端」p9   〝 明治の文学者には、母の遺愛の草双紙が文字に親しむ始めだとか、土蔵の中で草双紙に読み耽ったと    かいう話が尠くない。私などの時代でも、昔々伝えたお伽噺は耳に聞くだけで読みものにはなっていな    いし、子供の見る画と云っては、絵双紙屋で売る手遊絵(オモチヤエ)の他にはなく、子供に読ませる本もま    るっきり無いわけではないが、縁日に売る銅版の豆本ぐらいで、ひらがなが読めてくればさしあたり草    双紙の拾い読みをするより手はなかった〟    ☆ くちえ 口絵    ◯『こしかたの記』   ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p179   〝 友人木村荘八は、桂舟、年方、永洗在世の時代から、私の盛りにかいたころまでを含めて、口絵華や    かに、挿絵侘びしかりし頃、と云っている。たしかに明治の一と時代に、口絵の立派なのが出さかって、    たいそう世間に持てはやされることがあったが、私のそれに携わるようになったのは、むしろ闌(タケナワ)    なりしころと見るのが至当であろう。この三大家の他(ホカ)に、省亭(セイテイ)と華邨を加えたところが、口    絵でも、挿絵でも、共に華やかな時代だったので、優れた仕事を示した半古はこれより少し次代に移る。     五人の作家の出生を見ると、省亭は嘉永四年、華邨が万延元年、桂舟が文久元年。永洗、元治元年。    年方、慶応二年の順で、半古となると明治三年と時代が変ってくる。     口絵の起原についてまだ考えたところはないが、江戸末期の読本(ヨミホン)、草双紙の類にも、既に口絵    はあったので、その主眼とするところは、多少の例外はあろうが、これから篇中に出てくる人物を、あ    らかじめ読者に解っていてもらうことにあった。今日の例で云えば、映画のはじめに出演人物の予告を    する手法とよく似ているのである。文化、文政ごろの本文と同じような墨一色刷で、ただ図様に装飾を    施すぐらいにとどまっていたが、読本にはそれに淡墨(ウスズミ)を加えたのが尠くない。草双紙はすべて    上下二冊が一編となる仕組で、これを一緒に出版する。それで合巻の異名もある。二冊とも、表紙に木    版極彩色のものが附いていて、並べれば画面は続く。この形は明治に初年まで見られるが、これがここ    にいう口絵に転化して行ったものではないのかと思うのである。     (中略、明治二十年代に入って)     春陽堂からは「新作十二番」と云う全部が和紙手摺木版の、表紙、口絵に丹精を凝らした美本が発行    された。この前にも既に色摺の口絵があったかも知れぬが、私のもっとも古い記憶に泛んでくるのはこ    のへんである。木版口絵の盛んになったのは、二十七、八年の戦時以後になるが、春陽堂のみでなく、    博文館でも「文芸倶楽部」に毎号菊判二ページ大のものを巻頭に載せて呼物にした。その他の書店での    出版にも、小説に口絵は有るのが当然のように思われたけれど、その中にあって、春陽堂版は精巧なこ    とでは一頭地を抽いて見えた。これは堂主の和田篤太郎が、出版物に特殊な信念を懐いて、それに徹す    ることが出来たからである。この人には竟(ツイ)に面識の機を持たなかったが、写真で見ると立派な関羽    髯を蓄えて、政党人のような風采を具えているが、その理想の一つに、出版の芸術性を並々ならず尊重    して、そのためには犠牲をも厭わなかったのが、そうした結果を得たのであった。     画の摺はほとんど木版に限られていたのが、少数でも、石版印刷の技術が用いはじめられた時日は審    (ツマビラ)かでない。砂目の製版で単色刷の美人画、肖像画などが、絵草紙屋の店頭に、錦絵に交じって    吊るされたり、浅草公園花屋敷の前あたりに、応挙の虎や、貴紳の肖像などを並べたのはかなり後まで    見られた。美人画にはインキのようなあくどい赤色を施したものも見かけたのである。二十二年、春陽    堂の「新小説」、東陽堂の「風俗画報」のどちらも表紙には石版の淡い色摺を用い、書物への利用も追    々目について来た。     私の時代になって、漸く木版以外の版を口絵に使うのが多くなった。と云っても、石版かコロタイプ    で、原色版の出現はズッと後れて、私のこれを使ったのは三十八年に始まる。当時は三色版と云ってい    たが、三原色が雑然と割居して色の調子などは顧みらるべくもなかった。それでも新しもの好きだった    私は石版もコロタイプも、この三色版も、完成し切った木版に比べて表現の自由が何よりの魅力となっ    て、その限界の広いのを悦んだ。原色版は今日ますます盛んになっているが、石版は後にオフセットに    代って、今ではほとんど利用される向きのないのが惜しまれてならない。私は石版の持つ潤気と含蓄を    深く愛する。     石版の口絵に使われた初期に「金色夜叉」前編の、桂舟筆、熱海の海岸の画があるが、三十一年出版    のこの本の口絵は、よほど出版を急いだと見えて、凝性(コリショウ)の著者の本には珍しい粗雑さが気にな    った。       石版の著名な工場は、岡村信陽堂、東京印刷、三間(ミツマ)、大江、などで、信陽堂が最も古く知られ    ていた。同家の婦人岡村まさ子は数少ない女流画家の一人で、「時事新報」かと記憶するが、附録の美    人画が好評であった。その他にも雑誌に作を見たことがある。後期「新小説」三十五年以降の私の口絵    は、たいてい東京印刷であったが、この時代にスッカリ石版の滋味を感受するようになった。なかでも、    泉鏡花作「舞の袖」にかいたものは、木版では出しにくいその場の雰囲気を漂わせることが出来た。作    者自らが筆を執ったのが何よりその意図を伝えるのはあたりまえの理ではあるが、版を介在して却って    効果の強まる場合もあって、挿絵画家の三昧境がまたそこにあったのである〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p184   〝 初期の雑誌に挿絵を画いた作家を挙げると「新小説」(*明治二十二年創刊)には、芳年、年方、年    恒、華邨、月耕、国松、穂庵などで(註、国松は歌川派で阪地出身の挿絵画家、新聞、雑誌に画く。穂    庵は秋田角館(カクノダテ)の人で私の友人百穂の父、挿絵は本業ではない)、「新小説」の表紙に、記名は    ないが明らかに華邨の筆と思われる「古今集」の序に着想したものが、洋風味を帯びた意匠の下に、青    と黄二色刷の石版で、岡村信陽堂の印刷に成るもの、今から見るとよい時代色を示していかにも懐かし    まれるのである。    「都の花」(*明治二十一年創刊)の挿絵には、楓湖、華邨、省亭、永濯、芳年、桂舟、永洗、勝月な    どが見える。桂舟、永洗の名を見出すのもその頃からで、華邨、年方は割に夙く世に出ているので、既    に確(シツカ)りした挿絵を作っているのに比して、桂舟のものには試作時代の初々しさがそのまま窺える。    盛時には世間から挿画家の筆頭に推されると見られて来たのは、桂舟その人の努力にあるのは勿論とし    ても、他の儕輩はあらかた伝統の画法を師伝で学んだ経歴を有っているが、桂舟にはそれがあまり認め    られない。幼にして狩野派に、若年で薩摩焼の陶画も画いたというが、型に嵌まり易い訓練のなかった    のが、この人の新鮮味を助けたと云えるようである〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p186   〝 口絵は菊判二ページがけの見通しか、あるいは挟み込みの見開きになっているのが通例で、奉書紙木    版数十度手摺の美麗なもので、時の進むに従って板数の嵩(カサ)むを厭わず、精緻を極めるようになった。    明治二十四、五年の頃から、大正の初期に及んでいたが、私の見るところでは、二十七、八年から三十    七、八年乃至四十年頃までが先ず木版口絵の時代と云えるであろう。それは恰(チョウ)ど日清戦争から日    露戦争に亘っての期間になる。文芸雑誌「文芸倶楽部」、再興の「新小説」、また「文芸界」も続いて    刊行され、他にすべての出版がこれまでに比べて目立って盛んになって来た。二十七、八年はこれまで    の記述に繰りかえし、名を挙げた先輩たちはいずれも壮年で、一線に活躍する好時期であった。春陽堂    刊行の紅葉の「三人妻」に桂舟、永洗、年方が、篇中三人の女主人公を合作して、背景を半古が添えた    ものは、常の分より大判で挿入され、評判は高かったけれど作品の効果としてはどうしても無理がある。    私の憶えているなかで、合作の成功したと見られるのは、二十六年春陽堂の宮崎三昧作「塙団右衛門」    がある。久保田米僊が、豪快な主人公を達筆に画いたのに、渡辺省亭が繊細な筆致で嫋々たる傾城を配    したのがそれで、対照の妙を極め、かくてこそはじめて合作の甲斐があると云えるのであった。ことの    ついでに、省亭の口絵で眼に残るもののいくつかを拾うと、桜痴の「春雨傘」、三昧の「目黒物語」、    逍遙の「牧の方」などが眼に泛ぶ。その他に、惣髪で長髯を蓄えた麻上下の武士が、美しい女小袖を抱    えたものが、彫師の精魂を傾けた髯の毛彫の見事なのと共に好評嘖々(サクサク)たるものがあった。この    小説が何であったかは今ちょっと思い出せない〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p192   〝 この当時挿絵を画いていた大家は、殆ど誰でも武者絵──歴史画に堪能だったのも、一つの特色として    注目される。私の師匠はよく「挿絵の修業は、なんでも画けなければ一人前とは云えない。挿絵を職に    したおかげで、自分は得難い勉強をしたのだ」と云って、私たち門下に諭された。師匠(*年方)は勿    論、桂舟、永洗両家の画かれた甲冑武者も、市井の風俗と同様ごく自然にこなされたのである。永洗の    筆になる、村井弦斎著「沖の小島」の口絵、同じ著者の「都新聞」小説「桜の御所」の挿絵はそれを語    ってあまりあるものと云えよう〟     ◇「口絵華やかなりし頃(二)」p204   〝 口絵の木版摺がどんな経過で出来るのか、その順序をかいつまんで述べることにしよう。     版画の制作が一人の力で出来る場合と違って、その頃の口絵の如く、画、彫、摺、と三者合作の形を    取っていたものは、先ず第一に画師が薄い紙(古くは薄美濃、後の雁皮の、いずれも礬水(ドウサ)のない    もの)に画いた版下を、彫師は桜材の板に貼って彫る(頭(カシラ)など特に精密を要する部分は黄楊(ツゲ)    に入れ木をして彫ることがある)。木版が出来上ると、奉書かまたは正(マサ)と云って、錦絵に用いた厚    目の紙にそれを墨摺にしたもの、それには礬水(ドウサ)を引いてあって、画師はあらかじめ頭(アタマ)のな    かに出来ている仕上りの考えに従って彩色をする。「さしあげ」と云って、摺紙はこれを手本に仕事を    するのである。その他に礬水のない美濃紙へ前と同様墨摺にしたのを凡そ二、三十枚ほどが要る。画師    は「さしあげ」で示した色を分解して、一つ一つそのための色板をこしらえる工作をしなければならな    い。これを色分(イロワケ)と云う。どの色にしろ濃淡とりどり、一つの色を出すのにも繰りかえしこれを重    ねる場合もある。用意された紙だけで足りた例はなく、念入りの口絵ともなればと摺の数(カズ)が百を    超えるのは珍しいことではなかった。     この色分は、慣れなければ手の下しようのない仕事で、その上時間のかかるために、夜を徹するのが    常であった。しかし、版下の修業も、私たちの後は漸く廃れ、殊に洋画の場合には、色を見分ける仕事    はすべて摺師がする習慣となったのと、日本画でも、版下画以外の人の作るものの多くなった為め、そ    こに一つの完成された画さえあれば、あとは彫師、摺師が引き受けて版画が出来るようになった。しか    し、実はその方が昔の錦絵のやりかたに近く、「さしあげ」の始まったのは、口絵からかと思われる。    浮世絵版画の頃は全く肉筆と違う技法に立っていたのが、時の風潮であろうかだんだん肉筆風になって    来たので、そこに摺の手本が必要になったのである〟    ☆ きよなが とりい 鳥居 清長    ◯『明治の東京』(鏑木清方著・昭和七年一月記)   ◇「甘いものの話」p214   〝(汁粉屋)代地のやまとへは浜町にいた頃よく行った。狭い店先に銀地へ半切三枚の貼り交ぜ、時代の    色も凡(タダ)ならぬは五代目団十郎、三代目菊之丞、四代目半四郎の自賛、絵は清長筆になるそれぞれ    の似顔、墨絵ではあるが、数尠い清長の肉筆の中でも、あっぱれ名作、おしるこもうまかったのだが、    敵は本能寺にあり矣(ヤ)。清長を清長と知ってなら、まさか汁粉屋の店には立てまい、やまとの主人と    知り合の村岡応東君に頼んで聞いてもらうと、何のこと、自慢で店へ立てて置くので、これは家の宝と    百も承知、それは明治も末の話、大正十二年例の大震災、いろいろな名品の思い出に、やまとの清長は    と人伝に聞くと、主人は何より先にあれを持出したと聞いて安心した〟    ☆ くにちか とよはら 豊原 国周    ◯『明治の東京』p74(鏑木清方著・昭和八年三月記)   (「新富座」の稿)   〝今の見物が絵はがきを買うように、その頃(明治十年代)の見物は錦絵を買ったものだ。それは芝居の    中で売るのではない、賑やかな町には絵双紙屋があって、そこには国周、国政などという絵師のかいた    似顔絵の一枚絵、三枚続き、芝居帰りに気に入った場面、ひいき役者の顔、それに絵としての鑑賞も加    えて、店の框(カマチ)に腰を下して、板下ろしの紙の匂い、絵の具のにおいを味(アジワ)いながら、こばを    揃えてきちんん積んだ中から出してくれるのを手に取って見入る気もちは、私たちの何代か前の祖先が、    写楽や春章、または豊国の錦絵を、やはりこうして絵双紙屋の店先で手に取り上げたのと、なんの変り    もなかったろう〟    〈この国政は四代目(三代目国貞)か。この風景は江戸の残照というより、江戸そのものなのであろう〉    ◯『こしかたの記』   ◇「鈴木学校」p27   〝(*東京の絵双紙屋の店先に)三枚続には、国周の役者絵も、芳年の風俗画もあったろうが、それと知    ったのは十歳頃から後のことで、一枚物の横絵に、清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国    の火事、箱根、木賀の風景などは店頭に見た覚えがある〟    〈鏑木清方の記憶では、十歳以前の明治十年代は小林清親の一枚画が眼に入り、明治二十年代になってから、三枚続の     国周や芳年の絵に眼が行くようになったという〉     ◇「鈴木学校」p29   〝(*清方)芝居の帰りにこの長谷川(*新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟    ☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政 四代    ◯『明治の東京』p74(鏑木清方著・昭和八年三月記)   (「新富座」の稿)   〝今の見物が絵はがきを買うように、その頃(明治十年代)の見物は錦絵を買ったものだ。それは芝居の    中で売るのではない、賑やかな町には絵双紙屋があって、そこには国周、国政などという絵師のかいた    似顔絵の一枚絵、三枚続き、芝居帰りに気に入った場面、ひいき役者の顔、それに絵としての鑑賞も加    えて、店の框(カマチ)に腰を下して、板下ろしの紙の匂い、絵の具のにおいを味(アジワ)いながら、こばを    揃えてきちんん積んだ中から出してくれるのを手に取って見入る気もちは、私たちの何代か前の祖先が、    写楽や春章、または豊国の錦絵を、やはりこうして絵双紙屋の店先で手に取り上げたのと、なんの変り    もなかったろう〟    〈この国政は四代目(三代目国貞)か。この風景は江戸の残照というより、江戸そのものなのであろう〉    ☆ けいしゅう たけうち 武内 桂舟    ◯『こしかたの記』「横寺町の先生」p169   〝 小説家と挿絵画家の関係を、私は嘗て太夫と三味線弾きに譬えて見た。連載する場合によくそう思っ    たものである。私の知るところでは、紅葉と桂舟ほど息の合う例は、ちょっと類がなかったと云っても    よい〟    ◯『こしかたの記』   ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p182   〝 明治初年の挿絵は、前の時代からそれを専門の職にしていた芳年一派が、ほとんど独占の形になって    いたのだが、新しい時世につれて読物も追々変ってくると、その挿絵もまた新風を求めるようになるの    は自然の進化で、既成の型に縛られていないものが次第に頭を擡げて来た。若い日の武内桂舟はその中    でも先ず第一に指を折る人であった。私のいつも云うことであるが、明治の挿絵の根蔕には容斎がある。    もっと端的に云えばその著「前賢故実」があると云った方がよかろう。一流の挿絵画家で、直接あるい    は間接にその影響を受けていないものは一人もなかったとまで云えるのである。先輩がそうなのだから    二流三流の末輩がこれに倣うのはあたりまえなのであった。     桂舟の場合には、容斎よりもむしろ楓湖を手本にしたのではないかと思われる。楓湖は水戸藩の出で、    維新には勤王の大義を唱え、白い袴に朱鞘の太刀を横たえた志士であった。宮内省出版の「女鑑」「幼    学綱要」に挿絵を画いてから、「風俗画報」「都の花」にも筆を執った。この人の挿絵にはなかなか格    調の高いものがあって白描の佳品に通う味がある〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p185   〝「都の花」(*明治二十一年創刊)の挿絵には、楓湖、華邨、省亭、永濯、芳年、桂舟、永洗、勝月な    どが見える。桂舟、永洗の名を見出すのもその頃からで、華邨、年方は割に夙く世に出ているので、既    に確(シツカ)りした挿絵を作っているのに比して、桂舟のものには試作時代の初々しさがそのまま窺える。    盛時には世間から挿画家の筆頭に推されると見られて来たのは、桂舟その人の努力にあるのは勿論とし    ても、他の儕輩はあらかた伝統の画法を師伝で学んだ経歴を有っているが、桂舟にはそれがあまり認め    られない。幼にして狩野派に、若年で薩摩焼の陶画も画いたというが、型に嵌まり易い訓練のなかった    のが、この人の新鮮味を助けたと云えるようである〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p189   〝 武内桂舟は前にもしばしば述べたように、明治の新興挿絵の旗手と目される地位に在ったから、口絵    にも挿絵にも多数の作を遺している。今思い当る佳品として、紅葉の「隣の女」「浮木丸」、「文芸倶    楽部」創刊号の眉山作「大さかづき」を挙げる。「浮木丸」にはほとんど画面一杯の山賊を「大さかづ    き」では一升入の酒樽を枕に眠る裸の青年を画いたのが他人(ヒト)の意表に出て好評を博した。私見に過    ぎないが、この作家は口絵より挿絵の方に多く興味を注いだのではなからろうか。ごく初期にあって    「小文学」の挿絵などに見る精緻を極めたものに始まって、二十七、八年頃博文館ものの「少年文学」    「少年世界」に示した童話小説の挿絵を見ていると比喩に少し飛躍の気味はあるが、波斯(ペルシヤ)、印    度の小品画に感じるあの赫燿(カガヤキ)を私には聯想されるのであった。「少年文学」は二十四年に小波    の「こがね丸」から始まって十二冊に及び続いたもので、四六判和綴の表紙口絵に美しい木版画を用い、    全巻多数の挿絵を収めたのもある。桂舟は「こがね丸」、紅葉の「二人むく助」、眉山の「宝の山」、    水蔭の「今弁慶」にいずれ劣らぬ精力を尽している。「少年世界」には小波の創始した少年読物に独特    の挿絵で協力しているのだが、この読物の場合では、挿絵と称するより、小波、桂舟の合作と見るのが    むしろ適していたのである。     紅葉と結んで出ただけにその多趣味な嗜好にも通ずるものがあったようで、中でも嵯峨人形作りは当    時有名であった。私も一度それを所望したのを長く憶えていられて、清方君との約束がなかなか果たさ    れぬと他に洩らされたのを聞いたこともある。硯友社同人の中では独り長寿を保たれたが、嘗つて、金    鈴社の展覧会が、浜町の日本橋倶楽部にあった時、観覧者のなかにたまたま先生を見出した。別室に案    内して茶菓をすすめなどしているうちに、その時の私の出品「雨月物語」の一図に、駄馬の嘶(イナナク)    くところを画いたのに就いて、細々(コマゴマ)と教示されるところがあった。先生は動物を画くに長じ、    分けても馬は最も得意だったのである。先生の逝去されたのは、昭和十八年一月三日で、享年かぞえど    しで八十三になる。この、没年まぢかな時であった、太平洋戦に入ってからと覚えるが、里見弴さんが、    何かの席で先生と一緒になり、連れ立ってそこを出たのは、大分時間も遅くなっていたが、「自分の家    はじきそこだから寄ってゆくように」と強(タ)って誘われるままに、靖国神社うらの武内邸へ同行した    が、老体の疲れを気遣って、早く辞去しようとしてもなかなかその隙を与えなかったと、その頃里見さ    んに聴いたことがある。     中野区昭和通、真宗、正見寺にある墓碑に、本間久雄氏の撰文があって、それに依って、文久元年十    月十一日、紀州藩士、武内半助の男として、江戸赤坂、紀州邸に生れ、狩野立信の養子になって敬信と    云ったが、後に生家の跡を継いで旧姓に復したことが判った。本名は銀平、戒名は硯精院釈桂舟居士と    ある。なお、桂舟は一時芳年に就き、年甫と云ったとの説もあるので記して置く〟    ☆ けいほう たけだ 竹田 敬方    ◯『こしかたの記』「烏合会」p225   〝 竹田敬方は銀座生れで、年方門人、私(*鏑木清方)の入門前、小山光方とこの人とが先輩であった。    後、川端玉章門に属し、烏合会には墨絵の山水を出していた〟    ☆ げっこう おがた 尾形 月耕    ◯『こしかたの記』「やまと新聞と芳年」p38   〝 尾張町(*現在の銀座。「やまと新聞」は尾張町二丁目にあった)の西への隣地は南鍋町で、同じ側    には菓子屋の風月堂があった。外濠に近いところに兎屋誠という本屋があったのもその頃(*明治二十    年頃)である。大量出版で、延いて廉価本の元祖だったともいえよう。時々何割かで既刊本の廉価販売    を大々的に新聞広告で発表するという遣り口であった。土蔵つくりの間口の広い店先には絨氈が敷いて    あった。この店で辞書のような大冊の馬琴全集だの、菊判の仇討全集を買ったことがある。前者の挿絵    は月耕で、後者は清親だったと思う〟    ◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p97   〝 二十七、八年の戦役も終って、絵草紙屋の店を賑わした戦争ものが、だんだん店先から姿を消すと、    前々から美人風俗の新版、旧版がそれに代って吊り下げられる。中でも一ばん私を悦ばせたのは尾形月    耕さんの一枚ものの「美人花競」「婦人風俗尽」の組物であった。この先生の名は他の先輩と共に、と    云うより、もっと早くから親しみの深い名であった。ここに取り上げた二種のなかにも、「花競」の    「青柳」「花やしき」「夜桜」「松の花」「山茶花」「蘭」。「風俗尽」には「堀切」「四条納涼」    「閑家雪」「亀井戸」などは今も折々とり出しては、飽かず眺めて楽しんでいる。月耕さんはまた、上    野の展覧会へもよく出されていて、その後身、日本美術院でも、今で云えば同人の格で、いつも特色の    ある作を毎回出されたのに、どうしたものか今日では、ちっともその作品の消息すらきく折がない。先    頃の日本美術院の記念展にも見ることが出来なかったのは、その頃をよく知る私にはまことに淋しい気    がしてならない〟    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p29   〝(*清方)芝居の帰りにこの長谷川(*新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟    ☆ こうか やまむら 山村 耕花    ◯『こしかたの記』「烏合会」p220   〝 大正の再興日本美術院に同人となった山村耕花は、同じ月耕門の福永公美の紹介で烏合会に仲間入り    をした。時期は明らかにしないが、かなり末のことになる。耕花の本名は豊成、品川に名高い不動堂が    その生家で、美校の制服を着けた若々しい姿を、入会前からしばしば見かけたのである。他はすべて彼    より年上で、何ということなしにその差を意識する気味もあったが、今になって見ると、短い期間にし    ろ、耕花がこの集団に在ったことはやはりうなずけることなのである。近い頃、歌舞伎座の別館に、偶    然彼の芝居絵(木版)が沢山掛けられてあるのを見た。出版当時非常に好評だった松助の蝙蝠(コウモリ)安    は目に触れなかったが、勘弥のジャンボルジャンの如き、写楽後ありと云いたい思いで、開幕のベルも    空(アダ)に、その室を去ろうともしなかった〟    ☆ こうぎょう てらさき 寺崎 広業    ◯『鏑木清方随筆集』「かきぞめ」p19(昭和二十七年一月記)   〝江戸時分狩野三家の書初などというのは大層格式のある行事であったらしいが、天明とか、文化、文政    とか江戸の文化花やかだった時には、京都で応挙、呉春、江戸の文晁や抱一のような、市井でも大名を    馳せていた流行作家のかきぞめは、恐らくその時代の好尚を代表するような、派手で鷹揚な、生野暮(キ    ヤボ)うす鈍(ドン)の寄り付き難い席であったろうと想像に難くない。    明治にはまだそういう風が多分に残っていて、寺崎広業先生の天籟画塾の新年会などは、見ぬ世の文晁    が写山楼のそれを凌ぐものだろうといわれたし、また大正へかけても京都、東京とも、門人の多い塾で    は芝居だの歌三味線の芸づくし、一時はそれが競争のような形を呈して、各々差し合わぬようにとか、    たいてい日が毎年極(キ)まっていて、その席へ出る定連の客は松の内から月末までまんべんなくまわっ    て正月は暮れるということであった〟    ☆ こうび ふくなが 福永 公美(耕美) (周嘉(チカヨシ)参照)    ◯『こしかたの記』「烏合会」p224   〝 福永通次郎、その時は日本銀行へ勤めの傍ら、役者絵の豊原国周に就いて周嘉(チカヨシ)と号した。牛込    神楽町、俗に柿の木横丁に住んでいた。老父が健在で炭屋を営み、兄の松崎氏も共に暮らしていたが、    君は一生妻帯しなかったように思う。国周に就くほどだから勿論芝居好きで、この頃山の手の人たちは、    三崎座に定打の粂八一座の定連が多かった。福永君、高田(*鶴僊)君などもその仲間であった。その    うち尾形月耕を慕って門に入り耕美となった〟    ☆ こどう やまなか 山中 古洞    ◯『こしかたの記』   ◇「梶田半古」p163   〝 山中古洞は、半古入社直前まで、「読売」の社員であって、私(*清方)がこの新聞に勤めたのは先    生(*梶田半古)入社の後である。(*半古の入社は明治三十二年末か)     古洞自ら記するところに従えば、二十九年歳末に、紅葉と高田早苗その協議で古洞を入社させたので    あるが、あまり仕出かすところもないので、紹介者の紅葉、編輯長の中井錦城が心配して、紅葉は進ん    で四十四回完結の「西洋気質(カタギ)」を、自分の口述、春葉記の形式で提出する。錦城は「当世百馬鹿」    の諷刺漫画を考按して、古洞に活躍の機会を与えた。紅葉の「娘気質」は三十年四月からとあるが、そ    の一月元日始めて「金色夜叉」が掲載されて約二ヶ月続いたそのあとは九月五日から十一月六日までで    休載となる。「西洋娘気質」は恰(チョウ)どその空間を填めたわけになる〟      ◇「梶田半古」p164   〝 日清戦争の直後、美校の卒業生原貫之助という人が入社して、紅葉の「不言不語」に一回だけ挿絵を    かいたが、一回きりで止み、五月になって、「笛吹川」にかいたという。古洞は二十九年、原の退社に    代わって入社したので、それまで勤めていた官省を罷めて、一本立ちの画工に踏み切り、市ヶ谷本村町    から、京橋弓町(今の銀座西二丁目)に居を移した。天井の低い六畳の二階で、私は彼と大いに画を談    じ、後日の烏合会になるまでの推移(イクタテ)となったような相談を、たびたび重ねたのもここであった。    「当世百馬鹿」は前にもあるように、錦城の立案ではあろうが、この諷刺漫画は、古洞の持味がよく生    かされ、新聞の呼び物になった。読物の挿絵「娘気質」は師匠格の桂舟に折々加筆した分だけが評判に    なったと古洞は云っている。この他に、黙阿弥の正本「吉様参由縁音信(キチサママイルユカリノオトズレ)」が古洞の    挿絵を入れて掲載されたのを見ているが、それがたぶん在社最終のものであったろう〟    ◯『こしかたの記』「烏合会」p223   〝 会の先輩山中古洞は、一橋の藩士佐藤精一郎の息で、明治二年、麹町永田町の藩邸に生れた。名は舛    (ノボル)、仕えた官省は大蔵省であったと覚えるが、画は月岡芳年、熊谷直彦、石原白道(洋画)とに教    えを受けたと伝えられる。その骨格をいずれとも定め難いが、先ず芳年に得るところが多かったと見て    よいであろう。挿絵をもっぱらにするようになってからは、桂舟系と見做された。公開の大きい展覧会    は、絵画協会に「秋風五丈原」の題で諸葛孔明の大作を出して以来、出品しなかったようである〟    ☆ しずかた おおの 大野 静方    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p130    (明治三十三年記事)   〝 浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、容斎派の盛りの頃から歴史    画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はその擡頭は一層目立って、歴史    画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関係の出版は少年ものにも及ん    でいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を採り上げた。街頭にはまた    「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられていた〟    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(二)」p205   〝 昭和十七年に、大東出版社発行の、大東名著選というシリーズに、私の友人大野静方の「浮世絵と版    画」には、木版摺に関して極めて詳細な説明が行われている。それは主として錦絵のために説いたのだ    が、口絵とて全くこれと同じである。     この書は浮世絵発祥以来、その執筆時まで一貫して精密に記録して、その流派人のみならず、風俗を    画く作家も汎(アマネ)く取り上げ、人名の伝わらないものまで多数を収めてあるが、そこに最も特色を認    める。同じく友人山中古洞の「挿絵節用」(昭和十六年、芸艸(ウンソウ)堂発行)と共に、烏合会会員の両    君にこの好著あるのは私にとっても欣ばしい。二書とも、坊間なかなか得難かろうが、好事の人に薦め    たい〟    ◯『こしかたの記』「烏合会」p216    (烏合会会員)   〝 静方は本名兵三郎、明治十五年、深川木場に生れた。長兄山本松之助氏(笑月)は、「朝日新聞」に    社会部長だったことがある。次兄は今も健在な長谷川如是閑叟で、最も早く私は山本氏と相識った。三    氏の厳父山本金蔵氏が経営された浅草公園の花屋敷に、「やまと新聞社」が主催で百物語の催しがあっ    た時、まだ少年だった私も父に引き添うてその席に列した。文学を好む若主人の松之助氏は、厚手の鳥    の子紙に彩色絵入、筆がきの冊子、大和錦の表紙を附けた二冊揃いの美しいのを私に与えられた。弟の    大野君を同門に迎えたのは、それから四、五年経ってのことである。君は二人の兄の教養を受けたので    あろうが、多分に次兄の感化があるように思われる。「軍人の児女」に次いで「蔭日向」「農婦」など    いずれもデッサンの正確と、力のはいった描線、光の追究へと、それが皮相な洋風画に墜ちないで、新    しいと云うよりむしろクラシックの要素が多分に示されたのである〟    ☆ しゃらく 写楽    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「そぞろごと」①89(鏑木清方著・昭和十年(1935)四月)   〝昨年は芸者をかいたが、綺麗な顔を歪めたくないと思つたのでたいへんやりにくかつた。写楽のやうに    意地悪くかけたら面白いだらうと思つても見たが、私は写楽に倣はうとは露いささかも思はない。ああ    いふ見方は私はいやだ〟    ☆ しょうえん さかきばら 榊原 蕉園    ◯『こしかたの記』   ◇「烏合会」p219   (明治三十七年十一月、第十回、烏合会記事)   〝 蕉園のものは、夕闇が迫る秋の庭に小猫を抱いて立つ娘が、ちょうど作者の年頃で、背景の夜の萩に    は輝方の助筆が冴えて著しかったのが、あたりに明るい話題を投げた。明治十九年五月、神田小川町に    生れた。岩倉鉄道学校に教授だった榊原浩逸氏の女、三十四年に年方門に入る〟     ◇「烏合会」p220   〝 創立以来の有力な同志であり、同門の親友輝方が、我々の列を去ったことにまだ言及する折がなかっ    た。彼の一身上に思いがけぬ変化が起って、友人達も温かい気持ちで待っていた蕉園との結婚も、どう    なることか解らず、一時彼の消息は杳(ヨウ)として伝わらなくなった。ハッキリした日時を記憶しないが    三十七年頃であったろう。蕉園の出品もそれぎり望めなくなったのは是非がない〟    ◯『こしかたの記』「文展開設(二)」p250   (第四回文展)   〝 最も心を惹いたものとして、「供燈」(*菊池契月画、二等賞)の次に「秋のしらべ」「冬のまとゐ」    六曲一雙の榊原蕉園がある。今、その折の画冊を披いて見ても、古い私の印象がさのみ謬っていないこ    とを知るのである。蕉園は文展に、「もの詣で」「やよひ」「宴(ウタゲ)の暇(ヒマ)」と続けて出ている。    唐輪風に髪をとりあげた女が、勾欄に肱(ヒジ)を懸けて、半開の扇に拍子を取りながら、うたげのひま    に唱歌(ショウガ)するのに、花紛々と散りかかる。三等賞であったが、世評も高く、識者も認めた。出品    としては小さい方でも、今語ろうとする四回の屏風絵ともども、代表作と伝えらるべき佳品である。    「秋のしらべ」は女三人に女(メ)のわらわ一人。琵琶を弾くもの。身を横たえて音色に聞き惚れ眠りに    誘われる上臈(ジョウロウ)に、襠(ウチカケ)を着せかける切禿。横笛を手にしたまま耳を澄ますもあり、中央    に秋の灯が置かれている。唐輪、名古屋帯などに見て江戸初期の末でもあろうか。    「冬のまとゐ」は六人の人物で、うちの四人が歌留多あそびに耽ける。そのなかの若衆かとも見える年    若なのの母か姉かと思われるのが、炬燵から身を乗り出して、かるたの手を覗き込む。なおその炬燵に    は猫を抱く女児がある。中期元禄と見てよかろう。二つとも一蝶を想わせるのであったが、当時、松園    と比べて、塁を摩するとも、これに勝(マサ)るとも、とりどりの批評はあったが、美女の品定めに女ざか    り、娘盛りの優劣を論ずるに似て、それは見る人の好きずきというの他はあるまい。この二人はともか    くも美人画と称するジャンルを等しく代表する同時代の珍しい女流作家として長く尊重さるべきである。    ただ松園は優れた技巧を有って長寿を保ち、従って作品も多かったのに比し、蕉園は天稟の質に恵まれ    ながら惜しくも早世で、然も優秀な作品も悉くその所在を明らかにしない。画家の凡ては作品に繋(カカ)    っているのに、それが失われたのでは千秋の恨事である。今日明治以降の作品が展観される折も多く、    私も屡々相談に与(アズカ)るが、その都度(ツド)蕉園の文展初期に示した優秀作の行方が捜査の手掛かり    もないままに年を経ているのを懐悒(イキドオ)ろしくさえ思(オボ)ゆるのである。     輝方と蕉園のことは前にも記してあるが、この二人が漸く結婚したのは四十四年のことであった。四    十五年の正月三日に新婚の夫婦はうちつれて私どもを訪れた。その日であったか、時を措いてか、私た    ち四人で撮った写真がある。     大正期の初めには共に文展の中堅として、夫婦揃っての活躍が話題になったが、人生は儘ならぬと云    おうか、蕉園の作品に示された意気の充実は、却って婚前に認められるのに徴して、作者の環境の芸術    の及ぼす複雑な作用について、私はいつも深く考えさせられる。     上記の他に蕉園作品の主なものには、      「ねがひ」   大正二年、第七回文展      「灯ともし頃」  同三年、第八回文展      「かへり路」   同四年、第九回文展      「こぞのけふ」  同五年、第十回文展     かくして大正六年、蕉園の新作に接する機は永久に失われた〟    ☆ しんすい いとう 伊東 深水    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「緑蔭絵事を語る」①53(鏑木清方著・昭和七年七月)   〝北野恒富君の前期の作、昨日までの伊東深水君の作はそれら(*菊池契月、上村松園、中村大三郎の美    人画)とは全く違つた、生々しいまでの現実感と、男性が女性に対して生ずる性的官能をあるがままに    描き尽さうとした、頽廃期の浮世絵に共通するものがあつたが、現在では恒富君疾(トウ)にその境地を脱    却して古格に進み、深水君も亦た一種の詩の世界、あるひは想念的な世界に入ろうとして来ている〟    ☆ しんすい あでがわ 阿出川 真水    ◯『こしかたの記』「烏合会」   〝 阿出川真水は、柴田是真と久保田桃水に学んだ。東京の人、父は劇界人で五世菊五郎一家との関係が    深かったようである〟    ☆ すりし 摺師    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(二)」p204   〝 口絵の木版摺がどんな経過で出来るのか、その順序をかいつまんで述べることにしよう。     版画の制作が一人の力で出来る場合と違って、その頃の口絵の如く、画、彫、摺、と三者合作の形を    取っていたものは、先ず第一に画師が薄い紙(古くは薄美濃、後の雁皮の、いずれも礬水(ドウサ)のない    もの)に画いた版下を、彫師は桜材の板に貼って彫る(頭(カシラ)など特に精密を要する部分は黄楊(ツゲ)    に入れ木をして彫ることがある)。木版が出来上ると、奉書かまたは正(マサ)と云って、錦絵に用いた厚    目の紙にそれを墨摺にしたもの、それには礬水(ドウサ)を引いてあって、画師はあらかじめ頭(アタマ)のな    かに出来ている仕上りの考えに従って彩色をする。「さしあげ」と云って、摺紙はこれを手本に仕事を    するのである。その他に礬水のない美濃紙へ前と同様墨摺にしたのを凡そ二、三十枚ほどが要る。画師    は「さしあげ」で示した色を分解して、一つ一つそのための色板をこしらえる工作をしなければならな    い。これを色分(イロワケ)と云う。どの色にしろ濃淡とりどり、一つの色を出すのにも繰りかえしこれを重    ねる場合もある。用意された紙だけで足りた例はなく、念入りの口絵ともなればと摺の数(カズ)が百を    超えるのは珍しいことではなかった。     この色分は、慣れなければ手の下しようのない仕事で、その上時間のかかるために、夜を徹するのが    常であった。しかし、版下の修業も、私たちの後は漸く廃れ、殊に洋画の場合には、色を見分ける仕事    はすべて摺師がする習慣となったのと、日本画でも、版下画以外の人の作るものの多くなった為め、そ    こに一つの完成された画さえあれば、あとは彫師、摺師が引き受けて版画が出来るようになった。しか    し、実はその方が昔の錦絵のやりかたに近く、「さしあげ」の始まったのは、口絵からかと思われる。    浮世絵版画の頃は全く肉筆と違う技法に立っていたのが、時の風潮であろうかだんだん肉筆風になって    来たので、そこに摺の手本が必要になったのである〟    ☆ せいかつびじゅつ 生活美術    ◯『明治の東京』「明治の生活美術寸言」p181(鏑木清方著・昭和三十七年九月記)   〝私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と、清親一派の風景画が最初に    思い泛(ウ)かぶ、(中略)    生活美術に眼を注ぐと、住居につづいて床の間に懸けられる絵、家具、調度、服飾、装身具と亙るとこ    ろの限りを知らぬ。画と語るついでに掛物の画に及べば、古画は省いて、初期から中期には容斎、是真、    和亭(カテイ)、京都の楳嶺、雅邦、玉章、省亭(シヨウテイ)を挙げよう。(中略)    中期から始まった一般の会場芸術は、果たして生活に直結するものか否か、問題はあろう〟    〈清方は「風俗画」として、芳年の「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)」や「美人七陽華」を例にあげている。生活美術     と会場美術の対比は面白い。生活美術の範囲は甚だ広い。家屋内の生活調度品全体に及ぶようである。その中で、清方     は浮世絵を床の間の掛物とともに生活美術の分野に入れている。それだけ日常生活に密着していたというのだろう。さ     て、会場美術の方だが、これは展覧会場や美術館といった公共の場に展示される類をいうのであろうか〉    ☆ せいてい わたなべ 渡辺 省亭    ◯『こしかたの記』   ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p183     〝 省亭は同門ながら蔵前の札差の血筋を引いていると云われるように、等しく挿絵を画いていてもまる    きり肌合が違う。楓湖は常に展覧会にも出品し、画塾を開いて子弟を養成した。秀湖、広湖、紫紅、御    舟を出しているが、省亭は弟子を取らず、展覧会への交渉は殆ど無いと云ってもよい。画境も別に汎(ヒロ)    きを望まず、自分の好きな道をただ一筋に押し通した。抱一から是真──省亭へと流れる一脈の風韻はも    っぱら江戸市民の間に悦ばれて、延いては東京下町の裕福な町家に愛好者が多かった。省亭は遊芸が好    きで、代地河岸の深川亭を贔屓にし、河沿の小座敷で浅酌低唱を娯しんだと云う。当時同家ではどの座    敷でも瀟洒な省亭の小幅を眺めて盃を銜むことが出来ると、これがまた評判になっていた。     鳥越の住居では、土蔵の中に仕事場があったと云うのも、毎朝欠かさず、人力車で浅草の観音様に日    参したというのも伝聞している。令息の俳人渡辺水巴の主宰した俳誌「曲水」に出た水巴氏自らの筆に    なる「省亭伝」は唯一の資料なのだが、家蔵のものが焼失して引用し得ないのは残念である。私は遂に    一度も面会の機を得なかったが、師匠の年方がこの人に花鳥の技を学んだ縁故ばかりでなく、少年で画    のよしあしも弁えない時分から、面相筆の細いので少しの澱(ヨド)みもなくスーッと引く清爽な版画に    魅せられたのに胚胎(ハイタイ)する。     省亭の口絵では、明治二十二年春陽堂から出た石橋忍月の「露子姫」が初めであった。木版の墨一色    刷で、丸い束髪に網をかけ、前髪を揃えて切り下げた淑女の大首を円形の裡に収め、傍らに洋装の貴公    子の白馬に跨がったのが配してある。その時分見たきりの、黒白二色の印象が、濃彩のものにも増して    今なお鮮やかに記憶される。この時私の貧しい机の上に置かれたのは、別に桂舟の口絵のある、紅葉の    「南無阿弥陀仏」があった。他日私が挿絵画家を職として撰んだのと、この二冊の本との間にはどうや    ら切り離せない因果関係がありそうに思われてならない〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p183   〝 省亭の木版画にはある一つの色を極(キワ)立って強調するテクニックが眼につく。殊に緋色の場合がも    っとも多くて、漆のような黒もある。他には面相筆(ごく細い線を引く筆)の動きに和してとりどりの    色調のゆき交うのが、名手の曲を聴くにも似た陶酔に誘われる。    「春雨傘」では、大口屋暁雨の、助六を摸した加賀紋のある黒小袖のつや墨つぶしが画面を締め、「目    黒物語」には島田に結った娘が、白地の単衣に燃え立つような真紅(シンク)の帯を締めて、秋草の乱れた    なかに立っているが、この緋の色は妖(アヤ)しく眼に滲みる。「牧の方」では幼い実朝の着ている水干が    また赤い。省亭の使う赤口の朱の魅力は特殊のもので、肉眼にもしばしばこれを惜しみなく用いている。    抱一が良種の絵具を多く貯えたとよく聴くが、省亭もその心構えを怠らなかったと見える。木版画にも    この鮮やかな朱の冴えはソックリそのまま出されているが、これには名工吉田市松の並ならぬ苦心と、    画かきと摺師と互に相許した結果がそこに至ったのである。この両者一体の仕事は、二十三年から二十    七年まで続刊した春陽堂版の「美術世界」に依って緊密な基礎が築かれたものと見られる〟    ◯『こしかたの記』   ◇「口絵華やかなりし頃(二)」p184    (『美術世界』春陽堂・明治二十三年創刊号について)   〝 省亭はこれに表紙と見返し、巻軸と自分の持場として、この人独自の清爽洒脱な意匠と筆致を縦横に    揮った。中でも「御殿女中」「芸者とお酌」「墨堤月夜」「花菖蒲」の数点は、省亭画の風趣を愛好す    るものには、蒸し暑い夏の日にも、これに接すれば清風腋下に生ずる思いがしたであろう〟     〝 篇中の画、当代の分はそれぞれ現存者の執筆であるが、古画の分には省亭自ら模写に当たったものが    多くある。模写の条件としては問題だろうが、ものに依っては省亭脚色、あるいは合作と称してもよい    と思うのが尠くない。ここにいうその原作は容斎、是真、栄之のいくつかであるが、看者にとっては、    これははなはだ楽しめるもので、容斎は師弟のことなれば別として、是真と栄之に至っては、省亭とは    どこか通ずるもののある間柄と見えるから、脚色も合作もまことに渾然として味わえる。     「美術世界」の奥附にある宿所は、浅草西鳥越町十八番地だが、大正七年四月三日の逝去の時は、同    区三筋町である。省亭の実父吉川長兵衛は蔵前の札差で、佐竹侯の御用達をしたと云うから、苗字帯刀    を許される家柄である。歌道の嗜みが深く、前田夏蔭に学んだた、同門の友人渡辺良助が歿して家名の    絶えるのを憂い、まだ幼少の省亭にこれを継がせた。吉川家の菩提所は浅草今戸の古刹、慶養寺で、渡    辺家のは同地の河添いにある潮江院だと云う。柴田是真の墓所、今戸の弥福寺も近く、いずれも墨河の    ほとりに在る。     省亭逸人の生地は、神田佐久間町と聴くが、私もまた同じ町内で生まれている。私の方は左衛門橋に    近い河岸で、同じ河岸続きの石切河岸には、是真の対柳居が繁昌していた頃である〟    (『美術世界』明治二十七年の終巻号について)   〝 省亭は、十余図の花鳥、他に写生、印譜まで添えて、装釘、目次なども鮮やかに、善意を尽した。摺    師の市松、彫師の五島も部下を督して協力を吝(オシ)まず、店主の熱意に応えたのが、この巻を手にすれ    ばよく解る〟    ☆ ぜしん しばた 柴田 是真    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」(鏑木清方著)   ◇「人事素描」①48(昭和六年三月)   〝是真のところへお百姓さんが絵を頼みに来た、何が疳に障つたか、「是真の絵が田舎者に解るものか、    断つて了へ」といふ権幕で、取次の返事より先に、その大声で驚いて田舎の人は逃げて行つたのを、    思ひ返したところがあつたか、取次の者に呼び返させ、「先刻は俺が悪かつた、気の毒なことをした」    と言つて、即座に頼みの絵を画いてやり、その上御馳走はする、包んだ謝礼は何んと言つても受けず    に、田舎の人は狐につままれたやうな顔をして帰つて行つたといふ話を聞いた、これも有りそうなこ    とであり、江戸人らしく、匠人らしい。    是真は小作りで、いつも黒い羽織に雪駄穿きであるいたさうだ、名匠らしい話も相当に聞いてゐるが    面接の機は無かつた〟     ◇「凡人凡語」①132(昭和十八年一月)   〝肉筆の絵--掛物、この方では私の父がごく心安くしてゐたのと、父も好きだつたので柴田是真のも    のが割に多く、その他のもの、記憶があんまりないところを見ると、はじめて絵を識つたのは是真だ    と云つて間違ひはなさそうだ。    是真の絵の好者(スキシヤ)は多く江戸生えぬきの下町住居の人達で、御多分に洩れぬ家庭に育つて好きも    嫌ひもなく、私には是真といふものが深い関心をもつやうになつてゐた。    批判を云へばいろいろある。だが、今でも抱一、是真、省亭、と何処かに一筋糸を引いた、松魚(カツホ)    の初物を悦んだ父祖の好みは、やつぱり私の好みの中に動かすことの出来ないものになつてゐる。    床へかけて眺めるとか、手に取つて鑑賞する、さうした娯しみを思ふ時、是真の気の利いた半折だの、    色紙、短冊、画帖のたぐひは、自分の職業意識をまるつきり忘却させる。省亭の場合だつて同じこと    で、さう云へば何も誰それのと限らなくても、いつでもズブの素人の好者になつて文句なしに絵をた    のしむ境地にはひる時がある。    さういふのは、かいた人がやつぱり職業意識を棄てゝ、楽しんでかいたものゝ場合が多いやうで、格    の高い立派な絵、粛然として膝を正さずには対へないやうな絵、それはこの際まるつきり話題の他に    置くが、安坐(アグラ)をかいて番茶を飲んで、心おきなく楽しめる、私はさういふ絵がなつかしい〟     ◇「凡人凡語」①135(昭和十八年一月)   〝新年も床かざり、と云つても私のところなど何もしない。たゞ六畳の部屋の織部床に、是真の半折、    鍬の上にお供へを載せたのを昔から吉例として掛けること、二階の画室には前に抱一の短冊を掛け輪    柳を挿して静かに春を迎へるのである〟    ◯『こしかたの記』「発端」p8   〝(*幼児期、鍋屋の媼(ウバ)に茨木童子の絵をせがむ)そうだとすると前以って私に予備知識が無けれ    ばならないことになる。そこで考えられるのは、絵か芝居でその前に茨木童子を知っているということ    で、絵なら王子稲荷にある有名な是真の絵か、芝居なら明治十六年四月の新冨座に、黙阿弥が新しく書    いた「茨木」がある。それと同じ図でやはり是真の絵馬が浅草観音堂にもあったのだが、これはその時    に是真が菊五郎の為にかいて、新冨座からそこへ納めたものと記憶している。菊五郎の茨木はその扮装    (コシラエ)を是真の絵に拠ったと見て謬(アヤマ)りはないであろう。同じ年の十月興行「実録十人斬」で、菊    五郎が白塗でない惣髪の福岡貢を演じたのも憶えているから、鍋屋の媼に註文を出したのは、恐らく    「茨木」の芝居を見てからのことであったろう〟    ◯『こしかたの記』「柴田是真とその一門」p60   〝 わたしの家と柴田是真の一門とは、近しい付合があった上に、父がとりわけ是真びいきであったから    季節に応じて床の間に幅の多くは是真のものであり、また母が好んで挿した櫛等や、手廻りの調度は、    悉く是真の高弟泰真の手になる蒔絵であった。そんな関係で、幼少から眼に触れて来たこの派の作物に    は今以て格別な親しみを覚えるのである。     文化四年(*1807)に江戸両国橘町の宮彫師、柴田市五郎の子に生れた是真は、十一歳で古満(コマ)派    の蒔絵師坂内寛哉の弟子になり、十五の年には江戸の四条派鈴木南嶺に画を学んだ。蒔絵師にとって、    ひととおり画をかく素養は必要とされていたからであろうが、四条派を習っているうちに、凡ならぬ是    真の画才は、工芸の下地としての学習にとどまるのを許さなかったのは自明の理であったろう。恐らく    南嶺の慫慂(ショウヨウ)もあったと見てよいであろうが、二十四で、南嶺の添書を携え、京に上って岡本豊    彦の教えを受けた。その頃は何芸によらず、修行をするには上方でと云うのが常識になっていたので、    その過程を了えて江戸へ帰った是真は時好に適って、画でも、蒔絵でも、すばらしい躍進を遂げて世に    持て囃され、明治の新時代にはいって名声はいよいよ高まるばかりであった。初めて国会の開かれた明    治二十三年(*1890)には美術奨励の為めに、帝室の思召とあって「帝室技芸員」制度が宮内省に設けら    れたが、画家としては寛斎、草雲、永悳(トク)、雅邦、貫魚の五名が選に上り、是真は蒔絵の方で選ばれ    ている。この時是真は八十四歳、あくる二十四年に歿しているが、もうごく晩年には殆ど蒔絵の作は無    かったのだと思うし、世間では画名の方が高かったので、恐らく銓衡に当たった人達の間にも各論あっ    たに相違ない。     画にしても、蒔絵にしても、是真の特色は機智に富んで意匠にすぐれたところのある。是真が生れて    育った文化、文政は、江戸文明がいくたびか開花した、その最後の、爛熟し、洗練され、粋(イキ)だとか、    洒落(シャレ)だとか言って、当時の文化人が覓(モト)めていた花の、触(サワ)らば散らん花盛りであった。そ    れで思い寄るのは酒井抱一で、抱一と是真とは文献で伝えられる直接の交渉はとんと見ていないが、本    人は意識したか、しないかは問わず、是真を抱一に続けて考えることは許されてよかろう。一方が大名    の家に生れ、一方は市井の職人の家に生れた差と、天明と文政との時代差が、そのまま作品に影響して    いるのは当然として、蒔かれた種子は属を同じくすると見える。抱一は狩野も土佐も円山も修めて琳派    に赴いたが、是真の前の師匠南嶺の師南岳にも就いたことがあると伝えられる。是真の生れた年に抱一    は四十七、是真が豊彦に入門するのに僅か先立って抱一は六十八で歿しているが、上人の敬称で最も世    間に騒がれた時代を共に生きていたのである。抱一は「屠龍の技」で知られるように俳人としても著名    であるが、是真もまた俳句を嗜んで、画中に俳味の漲るのは共通した特長と誰も見る。私の経て来た時    代には、この抱一から是真に通(カヨ)って来た一派の風流がそこはかとなく漂っていた。旧幕臣の洋画家、    渡辺省亭はそれぞれ画の流儀は違っても、心はどこかで一つに触れ合うものを持ち伝えていた。     今日のように力作偏重の時世でもなかった上に、是真の妙所は軽快、洒脱、特に意匠に優れたところ    を賞するので、勢い大作は尠く、没後三、四回開かれた遺作展の出品をみても、覆紗画(フクサガ)きのも    のに、この人ならではと掌を拍(ウ)って讃嘆するのを多く見出すのであった。蒔絵には、榛原の葡萄の    飾棚を見ているが、画の方では壮時の作、王子稲荷扁額の「茨木の図」が代表作とされている。「国華」    百九十五号に色刷りの縮写があって、その解説によると、天保十一年(*1840)、二十四歳の作とあるが、    その年齢は生年の文化四年と歿年の明治二十四年(*1891)から推算して三十四歳の誤記であろう。     少し岐路にはいるが、この額について伝えて置きたい挿話がある。今は故人となったが私と同門の友    人で、後に日本美術院の同人になった荒井寛方が、ある時、王子稲荷の社頭に掲げてあるこの有名な額    の下地の金箔がところどころ浮き上っているのを見つけて、この儘に放置して年を一日も放って置くべ    きでないと説得した上、何の報酬も要らないから自分に補修させるようにと申し出た。社司もこの奇特    な申出を容れて、荒井君は相当長く掛ってこの面倒な仕事を仕了(オオ)せた。額を下ろして、剥がれかか    った箔と板との間に膠を差し込み押さえてゆくのは容易な業ではなかったろう。荒井君は若い頃国華社    に勤めて古画の模写に励み、後にはアジャンタ壁画の大規模な模写に当たったことは有名であるが、そ    ういう人だから従って古画の補修にも自信がはあったにしても、頼まれもしないのに我から進んで難儀    な仕事を買って出た芸術家の良心と勇気とは、称讃されていいことと今でも快い思い出に残っている。    古人は総じて律義(リチギ)だから、是真も地下で、これを徳としているであろう。     私が年々五月の五日に欠かさず掛ける「鍾馗」の小幅がある。濃朱に白く円窓を抜いて、そこに半身    の鍾馗が、逃げる小鬼を睨んでいる図で、七十七是真とある。これは私の初の節句に画いてもらったも    のと聴いていたが、年を繰って見ると明治十六年(*1883)、私が六歳の時になる。それにしても震災だ    の戦災だのに遭いながら、七十何年か端午の節句にこの掛物を掛け通して来たことは感慨深いものがあ    る。この他に小指二節ほどのごく小さな竹の文筥(フバコ)の拭漆(フキウルシ)したものに、小菊の折枝と、文    筥を結ぶ組紐に紙片をゆわえた蒔絵のしてある、これも是真の作である。硬い織物に金糸で定紋を縫い    などした守袋の巾着を、昔の子供は角帯を通して誰しも提げるのが慣いになっていた。この蒔絵の文筥    はその緒締にしたものである。     こうした話をするとたいそう富裕に育ったように聞えるかも知れないが、その時分趣味のよい暮らし    方をするのには、格別巨万の富を必要としないでも出来たので、下町に多かった是真愛好者の間では、    割合に汎くその作が行き亘っていたのである。     画と蒔絵のほかに、木版の絵と、独得の漆絵もあったが、それは鳥の子か雁皮のような面の滑らかな    紙へ、墨や絵具(エノグ)でなく漆を使って画を描くので、材料の性質から云っても、装飾的で工芸味に富    んだものになる。雛屏風(ヒナビョウブ)などが用途として最も好もしく思われた。木版画はその灰汁(アク)脱    (ヌケ)のした彼一流の奇才を揮うのに誂え向の素材で、嘗つて日本橋の榛原の主人が是真芸術の有名な愛    好者だった関係で、一枚摺のものや、団扇、扇子、また配りものにする刷物がいろいろあった。この刷    ものと云うのは、俳人が年の始に自句を披露する「春興」の刷物とか、文人、役者、その他の芸人が名    びろめ、引退、追善、などに当たってそれぞれ関係者の間に配るもので、いずれも紙を択り、摺を吟味    し、趣向を競ったが、誰も彼も是真の筆を得るのを誇りにした。河竹黙阿弥が明治十四年(*1881)十一    月に一世一代の作として「島鵆(チドリ)月白浪」を残して、立作者から引退する時に出来た「引しほ」と    云う題の、岩がくれの砂地に颯と汐が退(ヒ)いて、弁慶蟹が鋏を立てている是真の図は、こうした刷物    の代表的なものとして評判になったものである。     私などの経験に依ると、何に限らず昔の人は物を大切にしたこと今人の考え及ばないものがあった。    是真もたいそう紙を大切にする人で、こまかい裁ち落としでも、丸めて捨てるようなことをせず、始末    よく溜めて置いては、時に応じて興の赴くままに、例の俳味横溢した市井風物詩的な小品を、メモでも    付けるように心易くかきのこして行ったらしいのが、他のいろいろな筆跡と共に、死後はるかに年を隔    ててからまで、長持に収められて子孫を霑(ウルオ)すこと久かったそうである。私の手元にもそうしたも    ののいくつかを蔵している。     逸話のたぐいも折々散見するけれど、ここには少年時に家人から聴いたままのものを書き付けて置こ    う。是真の没年は私が画を習い始めたのと同時であったが、直接にも、間接にも知る機を得なかった。    今までにもついぞ写真を見たこともないが、至って小男で、いつ頃からかズッと坊主天窓(アタマ)であっ    たらしい。いつも雪駄穿(バ)きで、踵が隠れるほどの着流しに、黒縮緬の門付を裾長に着ていたという。    ある文献には黒羽二重とある。これは職分としてそれが普通と考えられるが、私には祖母から聴かされ    た、黒縮緬のゾロリとしたちょっと異様な風体が、いかにもその人と時代を窺わされる気がしてならな    い。私の祖母は鉄砂洲稲荷の社司の家から代地の第六天の社司鏑木の家に嫁いで来た人であるが、その    境内に是真の一の弟子池田泰真が住んでいて、そこへ折々前に云ったような様子をした是真が訪ねてく    るのに出合うことがあったそうである。江戸育ちには、あまり高名な人に接するのを何となく避ける性    分があるので、そんなふうを目敏く見付けると、許前の高声で「御新造」と呼びとめて、「柴田是真は    何も取って咥(ク)おうとは申さぬのに、」と皮肉を云われて当惑するとのことであった。     維新前後にかけて、朝日鶴之助と云う美男の人気力士があった。父採菊が小説にも書いているが、常    に芸人の好きな是真は殊のほかこの力士を贔屓にして何処へでも連れて行く。偶(タマ)に機嫌ききに来合    せた時、潤筆料が手にはいると、水引の懸かったまま懐中に捻じ込んで、石切河岸の川沿いに柳橋まで、    前に云った通の坊主で小男の、黒縮緬の、雪駄穿きの、老人が、見上げるような相撲取、然も力士切っ    ての美男と云われる朝日嶽を随えての道行には、振り返って見ない人はなかったと云うが、さもあろう。     是真は俳諧にも長じ、茶人でもあった。茶の宗匠の後家が良人に先立たれて手元もうすく乏しい勝ち    な生活を気の毒に思って、弟子を世話をしたり、自分も茶会に出るようにして後援していたが、ある大    名華族の隠居が、大様な殿様形式で思いやりがなく、懐石の席へも毎々来て「世話であった」と云った    調子でぬっと構えている上に、そこの家に迷惑をかけることが度重なるのを腹に据えかねて、「後家の    ところへ来て始終食い倒して、何が大名だ、」と面罵したので、隠居は怒りに顫(フル)えて、世が世なら    ただは置かぬ、と云ったがどうもならず、是真はひとり溜飲を下げていい心持になっていたという。     御一新からそう間もない時であったろう。皇室から是真に蒔絵の御用命があった。東京府知事の楠本    正隆からそのことを伝えられたところが、光栄を欣ぶかと思いの外、是真はそれに難色を示した。自分    はきのうまで前公方(クボウ)様の御治世に人と成ったもので、云わばそれを倒した朝廷方の御仕事をする    のは気が済まないとの言分であった。維新早々の東京人にとっては恐らく在り得る心境と察しられる。    この楠本と云う人は、新潟県令をした時に市民から大層慕われたそうで、私どもでも御付合をしていた    が、お時さんと云われた美しい夫人も寔(マコト)に優しい人であった。     楠本知事は懇々と情理を尽して説得されたので、然らば御時世も違うこと故、忰令哉に御用命あれば    果報の至りとなかなかウンを言わなかったそうであるが、明治五年芝御浜離宮に延遼館に壁画を画いた    と云う記録もあるから遂に時世には勝てなかったものと見える。     是真の長男令哉は蒔絵を継承し、次男の真哉は画道で立った。令哉はまた竹木の細工に特殊な技能を    持っていたので、父の蒔絵に使う素材は概してこの人の手になったと云われる。私の手許にある二、三    の品に見ても巧みなものと感心されるが、蒔絵の遺品はまだ一つも接していない。真哉の画には寧(ムシ)    ろ謹直を云える、素質が窺えて、父の軽妙洒脱とは全く反対の風格を見る。私が八九歳の時、この人の    手本を貰って、白玉の椿、硯と筆、鏝と植木鉢の三枚を習ったことがある。稽古には年齢が早過ぎたと    見えて、あとは続かずそれきりになって了った。真哉は父の高弟池田泰真の養子になって池田姓を名乗    ったが、私はたぶん母に連れられて云ったのであろうが、それは養子縁組の前か後か分明でない。泰真    とは前にも述べたように古い付合があったので、私も何度か薬研堀の住居へは行ったことがある。この    人は明治二十九年(*1896)に帝室技芸員になったが、是真が浅草上平右衛門町の石切河岸を通称で呼ば    れたように、薬研堀派を以って呼ばれていた。私の明確な記憶はごく晩年であるが、丈の高い、江戸の    生き残りの人によく見る長顔で、半白と云うよりは白髪の多いのを伸ばしたまゝ掻きあげた、温顔で物    静かな、見るから名匠と呼ぶにふさわしい好(ヨ)い風格を具えていた。工人、芸人、その職の何たるを    問わず、道を究めて到り尽した人のみに見られるゆたけさを、今にしてかえり見ると、先ずこの人の表    情が思い泛かぶ。久次郎と云って天保六年(*1835)、十一の年で内弟子にはいって二十五の安政六年    (*1859)に自立したという、第六天社内に一戸を構えたのがその時らしく思われる。是真は長生した母    によく仕えたということで、泰真がまだ内弟子でいた時分その実直さが老母の気に適って、銭湯の御供    にまで連れて行かれるので、これにはほとほと当惑したと後日によく述懐していたそうである。     真哉を養子に迎えた泰真は、師匠の息子のことではあり、泰真の人柄から推しても疎略のあるべき筈    はなかったが、惜しいことに、その結果は不幸に終わった。     私の幽かな記憶によると、真哉はごく寡言で、真面目な、ムッツリしたふうにも取られる、そんな点    は私の師年方にも似通っているが、師匠の方が明るかった。ああいう風格はいつの時でも画家や工芸家    には稀に見かけるところである。明治二十四年に「青年絵画協会」と云う、その名が示すように、同じ    伝統派ではあるが、極端な保守に慊(アキタ)らないで起った青年画家の芸術運動には、岡倉天心を会頭に    推し、真哉は同志の先頭に立って衆望を荷っていた。     真哉が柴田性に復帰したのは二十六、七年の内であったらしく、二十七年の絵画協会第三回共進会に    出て首賞になった「興福寺大塔図」には柴田姓になっている。翌二十八年の第四回には「加茂葵祭」を    出し、この時は全体の受賞率が低く、真哉、広業、丹陵等の幹部悉く一等褒状になっている。この展覧    会の終了して間もなく六月二十三日に真哉は突如自刃して世を去った。その動機については、揣摩憶測    が行われるばかりで真相は分からなかった。     芸術家に悩みの多いのは当然だけれど、真哉にも当時として断ち切り難い煩悶のかずかずが重なり合    ったことが想像される。そのなかの一つに父の画名のあまりに高く、その数寄者、後援者と云った層が    大きく、且つ経済上にも有力であったと推されるが、そういう間には真哉が、いわゆる是真風の画を継    承しないところになかなか強い抵抗があったように聴いている。私も真哉の作品にはごく僅かしか接し    ていないが、「興福寺大塔」は極めて正格な丸山派の描法で、この作品を見ただけでは革新的な野心は    認められないが、協会の統率者である岡倉天心の直接指導している美術学校には、観山、大観、春草等    の英才が満を侍して出番を待つ時期でもあった。真哉の死んだ翌年に、青年絵画協会は解体して日本絵    画協会となり、学校系の俊秀が脚光を浴びて、三十一年日本美術院が出来てから絵画協会はこれに併合    される形となった。真哉の享年は三十八歳である〟    ☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦    ◯『こしかたの記』「発端」p15   〝(*鉄砲洲稲荷神社)祖母がまだ生家にいた頃の神社は、今より北へ寄った稲荷橋の南袂、大川の河口    に近く、諸国の廻船が出入する船着場の河岸に在ったと云う。現地に移った時期はまだ訊いていないが、    三代目豊国と、二代目広重の合作「江戸自慢三十六興」という組物の錦絵には、旧地の風景と、境内の    富士祭での土産と見える麦藁の蛇を提げた町娘が画いてある。豊国の落款に喜翁とあるので、それが文    久二年の作と解る。鉄砲洲の稲荷と普通には呼ばれているが、「江戸名所図会」には湊稲荷となってい    る。雪旦の細密な写生による挿絵を見ると、この神社の景観がいかに勝れていたかが窺われて、眼のあ    たりこの実景に接することの出来なかったのが残念に思える。殊に境内の富士から、湊口に碇泊する数    多の巨船や、佃を越して遠く、鹿野山や、鋸山を見晴らす景色が、「助六」ではないが、浮絵のように    見えたのであろう〟    ☆ せんがい いがわ 井川 洗崖    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p186   〝(「都新聞」に)井川洗崖が入社して、永洗歿後長く「都」に挿絵を画いた「大菩薩峠」の机竜之介の    放れ駒の紋どころが目に残る〟    ☆ せんじ まつもと 松本 洗耳    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p186   〝(「都新聞」では)昔「やまと新聞」に芳年と年方が並んで挿絵を画いたように、一面を永洗、三面を    弟子の洗耳が画いた。洗耳はこの新聞の初めて試みた探偵実話風なものに連続執筆をして、「蝮(マムシ)    のお政」「法衣(コロモ)屋お熊」「五寸釘寅吉」などで、暗に咲く悪の華の体臭を伝えるまでの描写を見    せた。この特色ある挿絵画家は惜しいことに盛り短く世を去った。その後井川洗崖が入社して、永洗歿    後長く「都」に挿絵を画いた「大菩薩峠」の机竜之介の放れ駒の紋どころが目に残る〟    ☆ ちかのぶ はしもと 橋本 周延    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p29   〝(*清方)芝居の帰りにこの長谷川(*新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟    ☆ ちかよし 周嘉 (福永公美参照)    ◯『こしかたの記』「烏合会」p224   〝 福永通次郎、その時は日本銀行へ勤めの傍ら、役者絵の豊原国周に就いて周嘉(チカヨシ)と号した。牛込    神楽町、俗に柿の木横丁に住んでいた。老父が健在で炭屋を営み、兄の松崎氏も共に暮らしていたが、    君は一生妻帯しなかったように思う。国周に就くほどだから勿論芝居好きで、この頃山の手の人たちは、    三崎座に定打の粂八一座の定連が多かった。福永君、高田(*鶴僊)君などもその仲間であった。その    うち尾形月耕を慕って門に入り耕美となった〟    ☆ つねとみ きたの 北野 恒富     ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「緑蔭絵事を語る」①53(鏑木清方著・昭和七年七月)   〝北野恒富君の前期の作、昨日までの伊東深水君の作はそれら(*菊池契月、上村松園、中村大三郎の美    人画)とは全く違つた、生々しいまでの現実感と、男性が女性に対して生ずる性的官能をあるがままに    描き尽さうとした、頽廃期の浮世絵に共通するものがあつたが、現在では恒富君疾(トウ)にその境地を脱    却して古格に進み、深水君も亦た一種の詩の世界、あるひは想念的な世界に入ろうとして来ている〟    ☆ てるかた いけだ 池田 輝方    ◯『明治の東京』「築地川」p93(鏑木清方著・昭和九年五月記)   〝日露戦争の始まる二、三年前、私の先師年方がまだ繁昌だった時分、同門の池田輝方が木挽町生れ、私    は神田で生れはしたけれど育ちは木挽町、町を同じゅうして、同じ師に就いて同じ道を学べばおのずか    ら仲もよく、その輝方君が蕉園女史との恋物語はあまねく世間に知られていることであるが、ちょうど    その頃が二人の恋の芽ばえた頃、夏の夜の月かげ、橋の下の川瀬に砕けて、さまざまの水の綾(アヤ)、縺    (モツ)れ、ほぐれ、千々にみだるる光を凝(ジ)っと見つめていた輝方君が、だしぬけに、欄干についてい    た私の手を把(ト)って、     「ね、ね、あすこの水ん中に百合さんの顔が見える、ほら、ね」    そんな狂(キチガ)い染(ジ)みたことをいう輝方君を笑殺するには、私はまだ若かった。何にも見えぬ川の    面を二人は手をとり合ったまま黙っていつまでも見戍(ミマモ)っていた、その軽子橋〟      〈日露戦争は明治三十七年(1904)。その二、三年前というと、輝方二十四、五歳の頃である。後の池田蕉園は、この時     分、榊原百合、十六、七歳の少女であった〉    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p130    (明治三十三年記事)   〝 浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、容斎派の盛りの頃から歴史    画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はその擡頭は一層目立って、歴史    画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関係の出版は少年ものにも及ん    でいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を採り上げた。街頭にはまた    「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられていた〟    ◯『こしかたの記』   ◇「烏合会」p213   〝 その頃(*明治三十年代)輝方の家は、私と同町内で、三十間堀の川縁(カワベリ)にある六畳の二階に、    晃々と燿くランプの下で、洋紙を貼り合せた大画面を片端から捲きかえしながら、色白な輝方が双頬を    紅潮させて出品と取り組むのを又なく頼もしいものに見た。本名は正四郎と云って明治十六年二月木挽    町の家に生れた。父は家具職で兄がその仕事を襲ぎ、弟思いのいい姉もいた。二十八年に年方先生の神    田時代塾生として入門したのだが画の筋が善く、驚くほどの進歩ぶりだった〟     ◇「烏合会」p214    (明治三十六年三月五日~八日、第六回「烏合会」)   〝 第六回、三十六年は「花」(*課題)であった。ここでは輝方の二作、「墨染」「暮靄」が傑出して    いた。どちらも尺八か二尺の竪物で、一は「関の扉(ト)」に出る墨染桜の精、一は花散りかかる山の手    の住宅地らしい黒塀の前に、物思いに耽る女学生を画いた。相愛の仲と許された蕉園女を写したものと    すぐ見てとれる。私には、多く技巧を弄せずに、ゆったりとして凄艶の漂った墨染の立姿と、後年彼が    文展に出した「両国」とを、彼の最も好調な作と思える。好調の時のゆたかな調子は、学ぶともなく学    んだ清長の影響であろう。彼がその秋に日本美術院に出品の「江戸時代猿若町」に至ってそれが一層著    しい。聴く人は意外に思うか知らぬが、従来年方先生の塾では、あまり浮世絵についての知識を深める    機会はなかったのを、輝方の塾生時分、先生は文人幸堂得知所蔵の黄表紙を借覧して、これを輝方に写    させたことがある。この蒐集に清長の挿絵が多く、輝方は勿論、通い弟子だった静方にも、偶に師家を    訪う私にも、清長の世界を窺い知る又とない機縁になったのである〟     ◇「烏合会」p220   〝 創立以来の有力な同志であり、同門の親友輝方が、我々の列を去ったことにまだ言及する折がなかっ    た。彼の一身上に思いがけぬ変化が起って、友人達も温かい気持ちで待っていた蕉園との結婚も、どう    なることか解らず、一時彼の消息は杳(ヨウ)として伝わらなくなった。ハッキリした日時を記憶しないが    三十七年頃であったろう。蕉園の出品もそれぎり望めなくなったのは是非がない〟    ◯『こしかたの記』「文展開設(二)」p250   〝 輝方と蕉園のことは前にも記してあるが、この二人が漸く結婚したのは四十四年のことであった。四    十五年の正月三日に新婚の夫婦はうちつれて私どもを訪れた。その日であったか、時を措いてか、私た    ち四人で撮った写真がある。     大正期の初めには共に文展の中堅として、夫婦揃っての活躍が話題になったが、人生は儘ならぬと云    おうか、蕉園の作品に示された意気の充実は、却って婚前に認められるのに徴して、作者の環境の芸術    の及ぼす複雑な作用について、私はいつも深く考えさせられる〟    ☆ としかた みずの 水野 年方    ◯『鏑木清方文集』二「明治追懐」「年方先生に学んだ頃」②89(大正十二年八月)   〝年方先生は江戸神田の人、その江都の名も僅の後には東京と呼び換へらるる運命に迫つて居た慶応二年    の生れである。父の野中吉五郎は江戸の人ではないが、若くから都会へ出て鏝一挺で仕上げた左官の棟    梁であつた。先生も小さい時分は父君の職をつぐべく慣らされて、年季の小僧と一緒に弁当箱を担いで、    仕事場へ通っては土捏ねをして居たところが、名匠伝の月並めくが生来の画が好きなところから、漆喰    へ鏝で画く手すさびの花鳥山水、其の頃名代の伊豆の長八の幼なだちを偲ばせたものださうである。    (伊豆の長八は明治初年の左官の名人、漆喰に画ける遺作が多い。)    出入り場の旦那の中にそれを認めた人があつて、こんなに好きなものなら一つ習はして見たら何うか、    失礼ながら職人には惜しい品の良い子、骨細で色白な、あれあの日盛りの土蔵の屋根で仕事を為て居る    柄ではない、と説かれて見ると父君も今更のやうに其の痛々しさが目についてくる。親孝行な生れつき、    嫌ともいへず炎天の下に好まぬ職に精を出す子が沁々と不憫になつて来た。    月岡芳年の内弟子にはひつたのは先生が十四の時だといふ。其の頃の芳年翁は赤貧洗ふが如き独り住み、    昼夜根津の郭に入り浸りで殆ど家へは帰つて来ない。先生は絵を習ふより借金取の応対に苦しまなけれ    ばならなかつた。芳年翁の一生は近代の巨匠の中でも面白い逸話の連続であり、幕末から明治へかけて    の世相の反映殊に著しいものを観る。     (中略。〈記述は芳年の師匠国芳に移る。国芳の項参照〉)    仕事を仕込んでくれる師匠は家に落ち着かず、絵の修行に来た身が米代の心配、掛乞の言訳に末の見込    みが立たないと師の父は見切りをつけてしまつた。初めは実家へ隠して居たのも、酒屋や米屋へはさう    さう断り切れないので、小遣ひを母親に貰つては払つて居たのが知れると、気の短い職人気質から父は    たうとう先生を芳年の許から退(サ)げさせてしまつた。    其の頃輸出陶器の花瓶に山水や人物の密画を画く事が流行(ハヤ)つて、仕事の巧い人は相応の収入がある。    武内桂舟氏は其の中での善い顔の人だつたといふ事である。芳年の許を去つた先生は其の職を業とする    こととなつた。桃園の三傑、五條の橋といつた様なものを画材とし紅や金や緑の美しい密画を作るので、    母親の生家麻布広尾の猪岡氏に寄寓して其の制作に勉めた。先生の実母は故あつて先生の幼時に家を去    り養母の手に育てられたので、先生の好む道に赴く様になつたのには養母の誘導と庇護とに依ることが    多かったと聞く。(中略)    この静かな田園に在つて先生は陶画を生活の為めと父親を安心させる為めに画いて居たものの、先生の    本来の望みは到底長くこの職を続け得ることではなかつた。    明治十五年には芳年翁が上野の博覧会へ市原野の保昌を袴垂とを画いて出品する、当時錦絵は芳年の一    人舞台で其の名声は隆々として歴史画に美人画に往くところ可ならざるはなき優れた技を示して居た。    これを無関心に兀々(コツコツ)陶画に没頭することは、前途に大きな希望を有つ先生のどうしても堪へ得る    ところではない。陶画で多少生活に余裕もあり、それで得るところを研究の費に充てて、先生は再び芳    年の門に帰つた。師も常に愛惜した弟子の復帰を悦んで迎へた。    先生の仮寓は何年位続いたものか確には分らぬけれど、猪岡氏の女と恋に落ちたのは其の頃であつた。    女名は房子、世を早うした最初の夫人で、先生には一つ二つの年上であつたと思ふ。先生が先夫人との    成婚の時期は今明らかでない。     (明治十九年、清方の父・條野採菊等、「やまと新聞」を創刊。呼び物は三遊亭円朝の      人情話速記録と芳年の挿絵であった。中略)    芳年がこの交渉を受ける時、私の弟子に年方といふ者が居る、歳は二十そこそこだが熱心な男だ、一つ    使つて下さらないかと採菊に推薦した。今の挿絵のやうに要領だけ掴んで画くのと違つて、当時は画中    の人物の持ち物の末まで微細に調べて画いたもので、いかに達腕の芳年でも一日に三枚画ける筈もない。    私の記憶に誤りがあるかもしれないが初めは芳年二枚、年方一枚の担任であつたやうに思ふ。    推挙された先生は異議なく採用されて、尾張町のやまと新聞社へ通勤することとなつた。先生の宿望は    漸く実現されて志す道に向つたので其の歓喜は想像に余りある。勿論陶画の方も止めて社へは東紺屋町    の実家から通つた。其の時分徴兵適齢になると廃家を継いで戸主になると免されるので、世に兵隊除養    子といふものが行はれた。野中姓の先生が水野を名乗つたのも其の時からである。     (中略)    (「やまと新聞」社内)先生の机を控へた部屋は奥まつた物置のやうな木造の二階で、暗い為に天井に    朝顔の明り取が付いて居る。空気の流通の悪い室で、夏はものの十分とは居るに堪へ難いところへ、不    平も言はず通勤してその忍耐の強いのが社中の賞めものとなつてゐた。     (中略。新聞社に出入りする人々の記事)    優しい中に十分な機智と辛辣な皮肉を包んだ円朝翁。髪を今日のオールバツクといつたふうに苅つて後    ろへ撫で付け、今、ロイドのするやうな黒鼈甲の大眼鏡をかけ、炯々たる眼光先づ人を射る、豪放闊達    な芳年翁の中に、世慣れぬ年方先生の謹直な姿は、口の悪い連中に判官様、仙骨などといふ渾名を付け    られた〟    ◯『こしかたの記』「やまと新聞と芳年」p33   〝創刊紙の続き物は、円朝の「松操美人生埋(マツノミサオビジンノイキウメ)」。採菊は「廓雀小稲出来秋(サトスズメコイナ    ノデキアキ)」。四代目稲本(イナモト)楼の小稲と中野梧一とのことに取材したもので、この挿絵は芳年の推薦    に依って、まだ二十一歳の年方が画いた。挿絵は芳年一枚、年方二枚と覚えていたが、その一つはどう    しても思い出せなかったところ、「新聞集成明治編年史」を見ているうちにそれが塚原渋柿園の「欲情    新話」という花柳ものの現代小説であることが解った。年方のさし絵もそこに宿刷されてあったが、    (以下略)〟    ◯『こしかたの記』   ◇「年方先生に入門」p87   〝(*鏑木清方が)母に連れられて、神田東紺屋町の年方先生の許に弟子入りしたのは、明治二十四年七    月なかば過ぎてのことであった。先生は慶応二年の出生で、その時はかぞえて二十六歳になる。父は野    中吉五郎と云って左官の棟梁であったから、塗家造りの土間には、大小さまざまの竈(ヘツツイ)が列んでい    た。     大半紙一枚に朝顔の鉢植を、毛筆、淡彩で、覚束なく写生したものが、古い綴込帳に見出される。そ    の日附には八月一日とある。それが弟子入の後、通学の第一日なのであろう。これを見ていると、その    日の思い出が銀幕に写し出される古い映画のように、ぼやけながらも印象は蘇る。店蔵の竈の間を縫っ    てはいると、木造二階建が狭い中の間と共に建て継いである、その二階が先生の画室になっていた。南    北に高窓があって、東は二尺足らずの掃出し廊下が附いたのを背にいして、丈は低いが、平たくて大き    い机を据えて、先生はいつも挿絵をそこでかいていられる。私はその前に、机の左側を師の机にピッタ    リ寄せ、南側の高窓の光線を正面に受けた座に着いた。その世話は先生の御新造のしてくださるに任せ    て、私はただ「ここへ御坐りなさい」と、御新(ゴシン)さんの云うなりになっていた。もう少し前までは    三、四人の通い弟子が来ていたこともあったが、巣立をした小山光方、竹田敬方の二人が時々機嫌きき    に見えるだけで、通うのは私(*清方)一人きりであった。入門第一日目の課題として、写生の他に、    丁度その時連載され始めた桜痴居士の小説「天竺徳兵衛」第一回の挿絵を、礬水(ドウサ)のない薄美濃に    敷きうつしをすることであった。浪人すがたの徳兵衛が故郷に帰って柴刈娘に道を尋ねる。その黒の着    附の線を除けて、濃墨でベタ塗りにしたり、直線を定木で引くとは知らないので紆々(ウネウネ)に引いたと    ころが、木版下の場合には、黒の衣裳なら、線を除けて塗るに及ばず、薄墨を塗って置けば、彫師が心    得て黒く出るようにしてくれるのだと云うことも、直線は竹の曲(カネ)尺を定木に使って引くものだとう    いうのも、たちどころに解って、習うことのありがたさを知った。     私が上ってから間もなく、店の土間に有った竈は残らず片附けられて、そこに床の間の附いた客間が    新設された。先生の画名も高くなって来客も多くなり、相踵いで入門者も殖えて来たりした為であった    のだろう。私より一と月後れて、「やまと新聞」の彫刻師山本の息子で私と同い年なのが入門し、笠原、    浅野、田島、渡辺、と、これだけが一年ばかりの内に続いて弟子入をした。先生の机を中心に、左右向    き合って机を並べるようになったので、そうでなくても狭い室は、周囲を歩くことさえ容易ではなかっ    た。前に川辺御楯(ミタテ)に学んだという渡辺の他は、どれも同じように、敷写しか模写か、花ものの写    生をする程度なので、こちらの方は小机で用は足りたが、先生は版下以外の大きい制作には、画こうと    してもどうにも拡げる席がなかった。でも偶(タマ)には枠張の絹地の絵が出来たところを見ると、それは    日曜か、八月の暑中休みの間に画かれたものであろう。その他にも、深川の不動尊へ納める、祐天上人    が夢に不動の利剣を呑む図を画いた時などは、その出来上るまで自然休課にするより仕方がなくなった    こともある。何もそんなことの拘束があったせいでもなかったろうが、傍(ハタ)から見たところでは、上    野の展覧会、と云ってもその時代には、日本美術協会と、二十五年に出来た青年絵画協会があっただけ    だけれど、先生は別にどちらへも出品の用意をされる様子はなかった。この青年絵画協会は後の日本美    術院に続くもので、創立の時既に先生の名は、真哉、広業、丹陵、敬中、半古、月耕その他と共に審査    員として二十五名の中に挙げられていた。会頭は岡倉天心、上置と云ったところに雅邦、玉章が据えて    あった。後になって見るとこの会は、先生にも私にもかなり関係を有つものになった。それはもう少し    先きに述べるとして、この頃では先ず先生の身辺を顧みよう。     先生の名は粂次郎、水野と云う姓は、明治初年にはよく行われた徴兵除けの改姓だということに聞い    ているが、先生の生母は早く家を離れて、継母に栄之助と云う子が生れていたから、父の姓はそれに継    がせたいと、恐らくそう望まれたのではなかったろうか。併し後年この栄之助は、通称にはやはり水野    を名告って、呂童の名で尺八の大家になった。     先生もちいさい時から父の仕事を継ぐように仕込まれていたのだが、画工(エカキ)になりたい一心から、    十四才の時芳年の内弟子に住み込みはしたものの、丁度それは根津宮永町時代という、芳年がいかにも    頽廃期の浮世絵師らしい生活に没入して、近所の遊郭に入り浸っていた時分なので、職人気質の父親は    我慢し切れず、出世前の者を預けて置けるところじゃアねえ、と怒って退げて了ったのはその翌年の、    先生が十五歳の時と聞いているが、その時分に先生が画かれたという「青砥藤綱」の絵には、浮世絵畠    と見られる風はちっともなく、芳年の筆法もあまり窺えない。     室町の秋山から「雪月花」三組と、楠公が兵庫に鳳輦を迎える図と、盛綱の藤戸の渡、と、引き続い    て出たと思われる三枚続きがある。この内、明治十七年の出版届のある分が恐らく「年方」の署名を持    つ最初の錦絵と見てよかろう。前章にもあったように、芳年の推輓に依って、「やまと新聞」を画くこ    とになった十九年、二十一歳まで、芳年の許を離れてからの先生は、陶器の絵を画くことを学んで、父    の厄介にならず、自活の途を立てて居られたことは解るが、再び芳年の膝下に帰った時はハッキリしな    い。私の推量ではあるが、十七年に秋山から三枚続がつづいて出る前に、父の許しを得て復帰したので、    秋山が無名の青年の作に資本をかけてくれたのも、芳年の口添えが無ければ望めないことだったろう。     (輸出用の薩摩焼きの陶器について、樋口一葉の小説『うもれ木』中の記事を引用)私も先生(*芳    年)の花瓶に画かれた「桃園三傑」などを見ているが、一葉のこの小説は実兄が陶器を業にしていたの    に基づくといういことでもあり、且年代も殆ど同じところから、これを読むと先生が、継母の実家猪岡    氏の一室で花瓶や飾皿に精緻を極めた彩筆を執った様子がありあり偲ばれて来る。     猪岡氏の家のあった麻布の広尾は、芳年の漫画に、狸が蝙蝠傘を差して、原っぱの中を、千金丹売り    に化けてゆくさまを画いたほど、野萩、尾花のみだれ咲く片田舎で、二十になるやならずの先生が、朱    やら緑やら、夕日にかがやく金泥描きの、雲形、紗綾形(サヤガタ)と面相の筆を運ばれる傍には、いつも    猪岡氏の末娘の姿があったという。それは名を房と呼んで、後には私が一方ならず世話になった、御新    造さんに他ならぬ。私が弟子入をしてからも、先生の机の左、御自分の縫った肱突(ヒジツキ)に触れるほ    どに身を寄せて、先生の筆の動きを、さも愉しそうに凝(ジツ)と見入っていられる様子は、髪かたちは    変っても、広尾の野末に春を待つ、昔を今に同じ思いであったろう。     私の稽古はいつも学校の帰りからなので時間が乏しく、それでなくてもあまり勉強家の方ではなかっ    たから、一向に実が入らず、写し物には「飄々として海上の小舟の如し」という、先生の朱書きが附い    て返される始末で、格別に目をかけて下すった御新造には、どんなに張合のないことであったろうと遉    がに済まない気がしていた。     三時のお茶受時になると、何かしら、お茶と一緒に御新造の手で運ばれる。それを弟子達に取り分け    て、みんなで食べながら雑談に耽るひとときを、私は楽しみにして待っていた。私は先生に画を教わっ    たばかりではなく、その感化を受けたものが数々あるが、好物のうちに焼芋をかぞえるのもその例の一    つかも知れない。先生は殊の外その切焼が好きで、昼時をそれで済まされることが度々あった。私も久    しくそれに倣ったが、今日ではその頃で云う焼芋は全く影を消して了った。先生に受けた感化は何も焼    芋ばかりではない。先生は芸事に趣味はあったけれど師の芳年とは似もつかない堅人で、なんの道楽も    持ち合わず、派手な生活、派手な振舞を嫌われた。相撲が好きだったが、横綱、大関の花々しいのより、    上りも下りもしない地道な角力を取るからと云って、若湊という力士に好意を有たれた。江戸っ子で、    然も職人の子でありながら、その人柄や志操には、どうしても士人の出としか思えない節があった。浮    世絵の系統に育った為めに、先生はとかく美人画家として見られ勝ちだけれど、親炙(シンシャ)した者から    云うとそれは決して正しい見方とは云えない。前にも述べたように、処女作時代既に歴史画に発足して    から晩年まで、肉筆にも版画にもそれは終始一貫して少しも変りがなかった。明治三十年に始めて日本    画会の展覧会に「佐藤忠信参館図」を発表されてから、絵画協会と美術協会へ相当大作を続けられたけ    れど、凡てが歴史画で、美人風俗は僅か二、三作に過ぎなかった。     私が入門した時、先生は丁度「本多忠勝小牧山軍功図」の三枚続版下に色分をしていられた。本多平    八郎が蜻蛉切の大鎗を携えて、馬に一息入れている。それから続いて「村上義光(ヨシテル)」「小楠公」    「伊勢三郎」などの三枚続が次々に出来て、私達も追々この色分の手伝をするように仕込まれて来た。     歴史画に熱心な先生は、従って武具、甲冑(カツチユウ)に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町    か、佐柄木町かの東側に在った武具屋から腹巻だの、籠手(コテ)脛当(スネアテ)やら買い込まれるのが、参    考品とは云え、唯一の道楽でもあったのだろう。紺屋町の家の蔵と、画室のある二階屋とのつなぎにあ    たる狭いところには、いろいろ蔵書が収めてあったが、後のように調法な覆刻本のない時分なので、    「集古十種」や「貞丈雑記」「軍器考」などが、かなり場を取って積み重ねられていた。こうした雰囲    気の中にあって、私は江戸の浮世絵に就いては何も知らされることが無かった。また世の中の歴史尊重    の盛時だからでもあったしするので、「俊基東(アズマ)下り」とか、「経政竹生島詣」などを諳(ソラン)じ    て朗読するのを楽しんだ。声に出して本を読むのの好きな私は、先生や御新さんの云いつけで「英(ハナ    ブサ)草紙」や「繁々夜話」を、積まれた本の中から抽き出して来ては読んだ。未知の書物で始めて知る    数々の怪奇な物語にスッカリ興味を覚えて、成人の後、古本の会で求めたのが今も残っている〟     ◇「年方先生に入門」p95   〝 紅葉山人の「三人妻」に、桂舟、永洗、年方の三人が、それぞれに三美人を合作した口絵をかいた頃    は、木版の挿絵、口絵の最も全盛を極めた時であったろう。私はまだ神田紺屋町の先生の許に通って、    いつか自分も口絵に花を飾る晴れの舞台に登場する日を夢みないのではないが、世がのんびりしていた    上に自分も欲がなかったのか、少しも焦る気を起した覚えがない。今のように展覧会が憧憬の的になる    ような時代は夢想だにしなかった。とは云えその時にも上野では、守旧派の美術協会と、それに比して    は新派とも云われる青年絵画協会が対立して展覧会を開いていたが、社会の関心は至って薄く、同じ画    家でも私どものような挿絵志願の者には、遠縁の親類ぐらいにしか思えず、床の間へ掛ける掛物など何    処が面白くてかくのだろうと、私などは後々までそう思っていた。同じ社中でも皆が皆までそんなふう    に考えていたわけではなく、御楯に学んだ渡辺などは、育ちが育ちだけに、展覧会出品への志は自分で    ももちつづけ、傍の同門生にもこれを勧めてやまなかった。今になって思うと、後日先生が出品を続け    られるようになったのも、時の動きと共に、この人の存在が幾分の遠因になったのかも知れない。先生    の実力はいつなん時何処へ出してもヒケを取るものではないと、勿論私などにも解ってはいたが、社中    の誰かれの青年絵画協会へ出す作品の下絵を直したり、顔の仕上げに補筆をしてやったりはされても、    先生自身が出品を考えられる様子はちっとも見ることは出来なかった。何故か私にはそれが頼母しいよ    うな気がしてならなかった。     私が通っていた頃には、月に二度ぐらい鳥越に住居のある省亭さんへ行かれたのを知っている。大き    い折本にみごとな附立ての鶴のかしらを見た覚えもある。またその他にも、松原佐久と云う故実家にも    就いて、有職故実を学ばれた。小堀鞆音(トモネ)、梶田半古の両先生との交遊もそこから始まって、まだ    若々しい梶田先生を、紺屋町の二階に見たこともある。また、先生は、松原さんへ来るまだ若い人だが、    吉川(キツカワ)霊華と云うのは今に立派なものになる、と推奨していられた。私が十七、八だったろうから、    吉川さんは二十そこそこであったのであろう。これが吉川さんの名をきく始めであった〟    ◯『こしかたの記』「大根河岸の三周」p56   〝(*明治)二十六年四月大根河岸に祭礼があって、踊屋台が出たり、飾り物が辻々出来たりする他に、    芝居で大当たりの塩原多助(*前年正月、歌舞伎座にて三遊亭円朝原作『塩原多助一代記』の初演が尾    上菊五郎によって行われた)の昂奮がまだ醒め切らなかったと見えて、多助一代記の絵行燈を河岸中に    立てる話が極まって、年方先生の一門でそれを画くことになった、門弟一同と云ったところで、古い弟    子の小山光方の他は、私(*清方)同様まで写し物の初歩段階で、自力でものの形の画けるものは一人    も無い。私は新年の新聞にコマ絵を一度画くことがあって、画号が要(イ)るからと、昔からの仕来りに    従って師匠の「方」の字を貰い、その上に適当な字を師匠がいくつか書いて、そのうちからいいのを択    ぶことになったので、ここに苔の生えるほど使い古した「清方」の名は出来たけれども、その落款を入    れるに足る画の成るべくもない。河岸の小父さんなる三周(*青物市場大根市場の顔役。落語家円朝や    尾上菊五郎の後援者)に、「そんなものは画けません」と断ったが許してくれない。籤引(クジビキ)で引    き当てた私の画題は、大団円になる多助とお花の婚礼の図であった。仕上げはどうやら自分がしたけれ    ど、骨格となる下画は殆ど先生の手に成ったも同様だから、画いたというより実は写しものに彩色をし    たのに過ぎなかった。何事も質素な時分なので、材料も絹地を使わず寒冷紗に礬水(ドウサ)を引いて用い    たので、それも私たちばかりではなく年方先生もこの粗末な材料に画かれたのである〟    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p29   〝(*清方)芝居の帰りにこの長谷川(*新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟    ◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p97   〝 父(*条野採菊)の経営していた新聞(*「やまと新聞」)も、戦争(*日清戦争)などがあって元    のようにはゆかなくなり、先生はまだ関係は断たれなかったけれど、私ば半ば引き継ぐような形になっ    て来た。新聞代を払う読者は遠慮がないから、不評判の投書はかなり来たらしい。絵を始めてから四、    五年、十七、八の青二才には重荷過ぎた。     先生の今日の地位から見ると、神田紺屋町の家は似合わしくないので、谷中清水町に在る、大河内子    爵家の庭園の一部、まだ狐がいると云われた藪地を拓いて、新に起工され、二十八年の五月には、神田、    を引き払ってそこに移ると間もなく、私の大層厄介になった夫人は、引越しの取込みもまだ片づかぬ六    月の三十日にチフスを病んで、先生が展覧会へ、かねて望まれた歴史画の大作を続いて画かれるのを見    ずに逝かれた。     三十一年の五月に、末松子爵を会頭とする、日本画会の第一回展覧会があって、先生はその評議員に    推された時に、始めて大作を出品された。それは御物の収まっている「佐藤忠信参館図」で、私には御    新造さんを喪った先生が、まだ紅顔の少年であった、後の池田輝方を傍に、この大作を打ち込んでいら    れた姿を忘れない。     先生はかぞえて三十三歳であった〟    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p130   〝(*明治三十三年)その秋には、現代少女がハンモックに眠る「紫陽花」と、潯陽江頭、夜客を送る、    と云う「琵琶行」とを出品した。九月に入ってわが家の裏に工事が始まって制作にもさしつかえるので、    前田家の家中の一室を借りて漸く画き上ることが出来たけれど、その前にこの下画が出来た時に、今ま    での慣例に従って年方先生に見ていただくと、先生は白楽天が憔悴して見えるのがいけない、と云って、    デップリとした、酒客で大人らしい風貌に、筆を把ってスッカリ訂正して下すった。たしかにそれらし    い恰幅(カップク)と貫禄は備えたけれど、それでは私の意図に背く、そうかと云って先生の朱筆を無視す    るのも気が咎める。結局どっち附かずの表現に終わったが、それ以来、善くも悪くも判断は自分で極め    ることにした。     浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、     容斎派の盛りの頃から歴史画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はそ    の擡頭は一層目立って、歴史画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関    係の出版は少年ものにも及んでいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を    採り上げた。街頭にはまた「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられて    いた〟    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p192   〝 先師の年方は、時分の師匠だから云うわけでないが、挿絵画家としてこれだけ本格的な、基本の勉強    した人は珍しい。画系が、その伝統の上に立っているのは云うまでもないが、国芳、芳年と二代続いて    歌川派の様式から脱却した巨匠の後を承けて、先師はその性格に依る堅実な歩みを辿り、流派を超えた    一つの境地を築くことに努められたと見られる。     芳年は毎日画く新聞の挿絵にも、一々写生に拠ったものだが、先師もまたその通りにした。諸家の口    絵を比較通覧すると、年方のものは一番ムラがなく、与えられた仕事はいつも真向(マツコウ)から誠意で    当って、己れの好き嫌いは抑えるように心掛けられた。されば一般に出来、不出来は目立たなかったが、    鮮やかな記憶に上(ノボ)るもののうちから採ると、桜痴の「もしや草紙」、渋柿園の「最上川」「おあ    き」、浪六の「井筒女之助」、鏡花の「葛飾砂子」「辰巳巷談」等がある。     これらの諸先輩は、こうした仕事を愉しんで、他に何を求める雑念もなく、日夜動かす筆の先きの、    その命毛を熟(ジツ)と見つめて一生を送られたのである〟    ◯『鏑木清方随筆集』「かきぞめ」p19(昭和二十七年一月記)   〝私の師匠年方先生のところでは毎年七草が書初になっていたが、唐紙全紙の真中に師匠が先ず大きな筆    に墨を一杯含ませて玉(注、宝珠の玉)の中心から筆を下して、右へ大きく一回転して筆の尖(サキ)が中    心に還(カエ)ると、再び右に小さい円をひとまわり、かすれた筆端をやや斜に、筆の腹に含んだ水分をそ    のまま雲煙と散じて筆を抜く、元より一気呵成で何の補足もするのではない。それを見よう見真似に弟    子たちの大珠小珠がころころと師匠の珠の周囲をめぐる。私が弟子を持つようになってまたそれと同じ    ことが繰り返されて来た〟    ☆ としすけ 年甫 (武内桂舟参照)    ◯『こしかたの記』「口絵華やかなりし頃(一)」p189   (武内桂舟記事)   〝 中野区昭和通、真宗、正見寺にある墓碑に、本間久雄氏の撰文があって、それに依って、文久元年十    月十一日、紀州藩士、武内半助の男として、江戸赤坂、紀州邸に生れ、狩野立信の養子になって敬信と    云ったが、後に生家の跡を継いで旧姓に復したことが判った。本名は銀平、戒名は硯精院釈桂舟居士と    ある。なお、桂舟は一時芳年に就き、年甫と云ったとの説もあるので記して置く〟    ☆ としひで みぎた 右田 年英    ◯『こしかたの記』「烏合会」p217   〝 英朋の師の右田年英は、私の師年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健    康に、おおどかな筆致を有っていた。それに就いて想い起すのは歌川流の始祖豊春が豊後の臼杵(ウスキ)    の出で、右田氏と同郷である〟    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代    ◯『こしかたの記』「発端」p15   〝(*鉄砲洲稲荷神社)祖母がまだ生家にいた頃の神社は、今より北へ寄った稲荷橋の南袂、大川の河口    に近く、諸国の廻船が出入する船着場の河岸に在ったと云う。現地に移った時期はまだ訊いていないが、    三代目豊国と、二代目広重の合作「江戸自慢三十六興」という組物の錦絵には、旧地の風景と、境内の    富士祭での土産と見える麦藁の蛇を提げた町娘が画いてある。豊国の落款に喜翁とあるので、それが文    久二年の作と解る。鉄砲洲の稲荷と普通には呼ばれているが、「江戸名所図会」には湊稲荷となってい    る。雪旦の細密な写生による挿絵を見ると、この神社の景観がいかに勝れていたかが窺われて、眼のあ    たりこの実景に接することの出来なかったのが残念に思える。殊に境内の富士から、湊口に碇泊する数    多の巨船や、佃を越して遠く、鹿野山や、鋸山を見晴らす景色が、「助六」ではないが、浮絵のように    見えたのであろう〟    ☆ にしきえ 錦絵    ◯『こしかたの記』   ◇「鈴木学校」p25   〝 明治時代に東京で少年の時を送った人達は、宵闇が迫る夏の空に、蝙蝠(コウモリ)の飛び交う時分、絵双    紙屋に吊るされた数々の美しい錦絵に見惚れて、夜の遅くなるのも知らずに、我を忘れて立ち尽くした    昔の思い出を有つであろう〟     ◇「鈴木学校」p27   〝 暖簾の掛かった店の中には、右から左と幾筋も引き渡した細引の綱に、竹串で挟んで吊り下げた三枚    続は、二段、三段、役者絵あり、女絵あり、紅紫嬋娟、板数を重ねた刷色は鮮やかに、檐下に吊るした    ランプの照り返しに映えて見るものの魂を奪う。この照明具は他に見かけない形であった。店によって    は常の釣ランプだけのところもあったが、相当の店では、照り返しの為めもあろうし、また、風除の工    夫でもあったろう。丈、一尺四五寸、幅一尺足らずの格子に紙を張ってあるから小障子ともいえそうな    のを竪に二枚、骨を表に、屏風のように開いて、二枚の間には二寸五分ほどの竪板がはいる。この、云    って見れば「障子屏風」の懐にランプを置く仕組があって、これを店先の檐に、二つ、乃至、三つ、間    口に応じてこれを吊る。この時分電燈はまだ町中には見られなかったけれど、裸火の瓦斯(ガス)は有っ    たのだから、或いはこれを引いている店もあったろう。今は絶えて見るよしもないが、この照明は錦絵    を照らすにいかにもふさわしいものであった。     三枚続には、国周の役者絵も、芳年の風俗画もあったろうが、それと知ったのは十歳頃から後のこと    で、その前には只一枚物の横絵に、清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国の火事、箱根、    木賀の風景などは店頭に見た覚えがある。一枚物にはこうした鑑賞向きの品とは別に、千代紙、手遊絵、    その他の切抜絵は殆ど竪判に限られているが、こういうのは斜にした右の隅を例の竹串で挟んで竪形(ナリ)    に吊るし下げてある。組立絵、影絵、写し絵、台所道具、衣裳の着せ換え、猫のお湯、武者人形、相撲    づくし、魚づくし、面づくし、楽屋の役者に好みの鬘を切り抜いて冠せるのもあれば、尻取文句、いろ    はかるた、かぞえ立てたらきりがない。幼い子にして見れば、上の方に吊った立派な三枚続も欲しくは    あるが、それよりも小遣い銭をねだって買おうという当座の目あてはこの手遊絵や千代紙の方にある。    店の框(カマチ)に腰を下ろすと、ついそこにはまだ吊るさない分が、真っ白がコバを揃えて堆(ウズタカ)く    積み上げてある。飾ってあるのよりこの積み上げた奥深く、もっと素晴らしいのが潜んでいるような気    がしてならないのを、売り手の方はよく知っているから、いくらでも抜き出した見せてくれる。絵双紙    屋にとって子供の客はまたとない定得意なので、町の駄菓子屋と同じく何処でも嫌な顔は見せない。買    い物が済むと千代紙の二三枚でも、三枚続の上物でも、クルクルと程よく巻いてそこの店の名が刷って    ある掛紙を掛け、その上から正の截(タ)ち落しを軽く廻わして、指先でちょっと捻って渡してくれる。    鏡花作「三枚続」柳屋のお夏を知る読者があったら、そこに紅差した爪先を見出されるに違いない。     手遊絵でも芳藤のものなどは一時複刻を見たほどで、今でも何処にか好事(コウズ)の人の蒐集が残って    いればよいと思っている。私などは時折考えることだが、あの時分に絵草紙店もなく、従って身のまわ    りに手遊絵が無かったとしたら、生い立ちはいかに索莫を極めたであろうか。その作者達は多く「芳」    とか「国」とかを画号の頭字に置いていた。     時代の前後はあるが、版元を兼ねた店の中で私の見ているのは、人形町の具足屋、両国の大平、馬喰    町の綱島、室町の秋山、銀座の佐々木などだけれど、店売だけの家は店並の揃った町へ行けばいくらも    見られた。私は割に住居から手近かにあったので、新富座に近い大通の長谷川という、小体(コテイ)なが    ら蔵づくりの確(シツカ)りした店へ買いに行った。ちょうどその筋向こうの左り角に、初代左団次が住ん    でいたが、「め組の喧嘩」に書き下ろしからその持役だった、焚出し喜三郎が出て来そうな、どう見て    も芸人の住居には見えず、左団次その人の生活なり、芸風なりを思わせるいかにも手堅い外構えであっ    た。芝居の帰りにこの長谷川で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人立と、左団次の宮本無三四が白倉の    邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもので、どっちも国周筆の三枚つづきを    自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好    評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった。     東京で最後まで錦絵を吊っていた店は何処だったろう。私はずっと後に浅草雷門の取附(トツツキ)にあっ    た店で、勿論そこも雑誌その他の刊行物が主となって並んではいたけれど、「関の扉」の組立燈籠の切    抜絵を見つけて買ったことがある。本郷、本富士町で、牛肉店三枝の前にも一軒遅くまで、といっても    大正の期間、それが震災の後であったかどうか、定かでない〟    ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」「私の経歴」①17   (文部省の展覧会に出品した『晴れ行く村雨』に関する制作余談)   〝(上野の図書館の帰り道)不忍池を通つて、折から夏の雨に、あの画題を得たのである。夕立といつて    も、村雨といふ方が適当であろう。急ではあるが、細い雨に、池に描かれた波紋も、いひ知らず面白い。    まだ柔らかな、丈もあまり高くならない、うら若い蓮の葉の、風雨になびく様は、妙齢な美人の悩む姿    と調和するであろうと思つた。そして常に岡惚して居る鈴木春信の絵を、こゝに思ひ出されずには居ら    れなかつた、即ち私はこの蓮池の端に、春信の美人が、あめ風に悩む姿を想像して、独りほゝゑんだの    である。    さて参考とした見た本は、明和四年に出版された、春信画の『絵本千代の松』である。これにはあゝい    ふやうな姿の美人は無かつたのである。然し昔の浮世絵師には、既に筆を染めて居るものがある〟    ☆ はんこ かじた 梶田 半古    ◯『こしかたの記』「「読売」在勤」p147   〝「読売」にいた山岸の骨折りで、私はコマ画と呼ぶ種々の雑画をかくために、その社へ通勤するように    なった。と云っても、正式に入社したわけではなく、嘱託として、出勤の日給制という、至って栄えな    い待遇も、実は他に目指すところがあったからである。それは小説挿絵の担任者として梶田半古の存在    にあった。当時先生の清新で高雅な画風は、若い画学生に何かしら新しい希望と光明を与えたのである。    私は年方先生の薫陶を受けて、比較的堅実な技法を仕込まれては来たけれど、芳年伝承の筆法からは、    少しも早く脱け切りたいとのと踠(アガ)きが、旦暮(アケクレ)悩みの種であった。そう云う意は決してこれ    を貶すのではない。芳年は平常北斎を好いていた聴くが、そうありそうなことで、この二人の名手は各    々何処かで通ずるものを持っておる。私を肌合は恰(マル)で違うが、芳年の錦絵には並々ならぬ愛着を寄    せていて、蒐集の数から云ってもそう尠いほうではないであろう。これは何も大師匠に当る人への敬意    ばかりではない〟    ◯『こしかたの記』   ◇「梶田半古」p154   〝 明治三十五、六年、私のたびたび訪れた天神町時代が、画業の上から見て梶田半古先生の、次から次    へ前進の境地を求めて已まなかった時と云えるのであったが、家庭には、そこへ移ると程なく愛妻の薄    氷女史を喪う不幸に遭った。その為に生じた心の空洞(ウツロ)を充たさずにいられない衝動がそこへ導い    たものかも知れない。後になって考えると、その不幸への抵抗はやはり目に見えない大きな無理があっ    たのだと傷ましい。     今日あまり画蹟が多く伝わらない半古作品の内、国立近代美術館に収蔵されている「春宵怨」は三十    五年、第十二回絵画協会の出品で、生前から代表作と世評の高かったものであった。同じ年の第十三回    には、一見天平風俗と見える処女が、白い菊の花一輪を指頭に摘んで眺めている坐像で「秋」と題した。    次いで翌三十六年秋の第十四回に、健康そうな農婦が、実った稲の一束を抱えた「豊年」と題する作、    これらが最も脂の乗った盛りであったろう。その頃から挿絵の方面にはだんだん歩調を緩められたけれ    ども、「読売」の月曜附録に示される、要約された美しい線と構成の優れた素描は、当時を知るものの    間に今も話の種となっている。画稿の懸賞募集もあって、選は先生がされたが、入選者の中には富田渓    仙の名もあったのを憶えている。     先生の理想には、服装の改良と、新しい図案の創造とがあって、殊に服装のことでは、傍目(ハタメ)に    は、画業にも増して熱心だと見えるほど打ち込んでいられたのであるが、「読売」の首脳部もまたこれ    に協力して、新聞では今も昔も表玄関の観ある一面のトップに、全紙の半分を割いて提供したので、先    生の得意云うばかりなく、男女二種の服装を机上案だけでなく、さまざま苦心の末に実物を調製して、    モデルに着せて、仕立方の図解を合せて、紙上の連載発表された。     (東京美術学校、岡倉天心時代の奈良朝に擬した制服に関する記事、略)     先生もやはり新興大和絵の系列に連なるであろうが、この流には、上古の優雅な風俗生活を愛すると    ころから、自分の身辺にもその雰囲気を漂わせる傾向が著しいようで、冷泉為恭などは、幕末の騒擾の    中で、大和絵の絵巻にあるような生活をしていたり、それほどではなくても、松岡映丘君の常夏荘にも    そういう好尚は充分に窺えた。半古の改良運動も、ああした装いをした男女を、絵だの舞台だのでなく、    白日の下に放って見たかったのではなかったろうか。     新聞に出た女子服のモデルは、故薄氷女史の令妹で、豊頬にして端麗、その折に、そのまま写された    のが、三十五年の「秋」である。「春宵怨」もやはりそうだと聴いている。添田達嶺氏の「楓古と半古」    は、両大家に就いての資料として委しい記述に充ちているが、それに依ると、その時にモデルになった    酉子と云う方はつい近年まで生存されて、私の住む鎌倉に居られたそうである。     日本画の大家級では、規模の大小はあっても、私塾かあるいはそれに類して組織を有たないのは稀で    あった。半古門でも、矢来下の大通を隔てた向側の裏に塾があって、住み込みと、通いとの門生がいた。    小林(古径)前田(青邨)の二人もそれに含まれることは云うまでもない。古径の入門は三十二年、青    邨は三十四年とのことである。小林さんの紹介をしたのは山中古洞だと、後日古洞君が、その進境を驚    嘆しての懐旧談と共に聴いた。前田さんは、私が嘗つて同君の当時を回想して、紅顔の美少年、と何か    に書いたのを憶えていて、人に語り、私が人力車に乗って来るのを羨しく眺めたとも言う。     「白光会」と、半古先生自ら名付けられた研究機関が設けられた。集まるもの、山中古洞、筒井年峰、    富田秋香、小峯大羽、など、私も参加して、塾からは田代古崕を筆頭に、平尾良正、島守寒光、片岡古    城、あたりが出席した。半古門の古参としては上原古年が知られていたが、訳は知らず、疾に列を去っ    て、松本楓湖に属していた。古崕は、絵画協会に、彦根屏風に基づいた「寛永美人」の屏風で師匠に迫    る伎倆を認められ、世間からも将来を嘱望されていた。何回か集合はあったけれど、別に作品を持ち寄    ると云う具体的な動きはなく、先生からは、新しい図案の発展に協力されたいと云う提案があったが、    これもとうとう形に為さずに了った。服装の改良と云い、新図案の提唱と云い、先生の胸中には所謂純    正芸術以外の分野に志があったと見られる節がある。私の湯島切通に居た隣家に、高橋楽山と云う、鋳    金の蠟型を造る人があって、この人から先生の父が政晴と云う金工であったこと、先生も少時その手助    けをしていられたと云うような話を聞いた。先生の描線には金工の為る片切彫を感じさせるものがある    ことと、応用美術への関心の深さ、富山県立の工芸学校への赴任と、これら一連の傾向はやはり幼少時    の教養が素になったともよいであろう〟     ◇「梶田半古」p162   〝 挿絵画家の中に梶田半古を数えることは、半古先生にとってはたぶん迷惑なことであろう。先生が    「読売」在社の頃、月曜附録に随筆ふうの挿絵を折々画かれて好評だったが、京都の竹内栖風氏がこれ    を頼りに推賞されたと聞いて、先生は、挿絵で褒められたのではねと苦笑されたことがある。先生が新    聞の挿絵に始めて筆を執ったのは明治二十九年頃の「毎日新聞」で、小説は浪六だったと云うが、俠客    物で、画風がこれに適さないので読者には受けがよくなかった。続いて「都新聞」を画いたが、これも、    この新聞で圧倒的に人気のあった永洗の後を承けたので、前者の艶美な魅力を求める読者は、これにも    喝采を送らなかった。こうして新聞挿絵はあまり受け入れられないままに、富山県高岡の工芸学校教頭    として赴任されたのは、明治三十一年十月である。山中古洞の「挿絵節用」に依ると、金沢や富山に工    芸学校を創設した納富介山と云う人は、美術家を庇護することが好きで、鈴木華邨などもこの人の世話    になったそうである。半古は華邨に手解(ホド)きをしてもらったと伝えられるほどの間であるので、高    岡行の話の筋も解るようである。殊にその先は、前に久保田米僊と川崎千虎が赴任したという前歴のあ    るところではあり、とかく官歴が箔にもなる時節なので、あながち左遷でもなかったろうが、周囲は何    んとなくこれを気遣ったふうがあった。それには薄氷(ウスライ)夫人との婚後間のないこと、夫人の健康の    勝れぬことにも因ったろう。果たして任期一年に充たず、三十二年七月には辞任帰京を見たのであるが、    牛込矢来に卜居、三十三年、上根津、牛込山吹町、同、天神町と三たび居を易え、その天神町で夫人を    喪われた〟     ◇「梶田半古」p163   〝 三十三年一月一日から紅葉、(*長田)秋濤の名を連ねた「寒牡丹」で、読者は始めて半古画くとこ    ろの挿絵に接したのである。雪の降りしきるセント・ピータースブルクの夜、金髪を乱した少女がシォ    ールに半身を埋めて行き悩む、「冬の日は既に暮れて、厳寒膚を劈(ツンザ)く華氏の十九度、街頭の光    は黯(クラ)く狭霧立罩(コ)めて、仰げば落々たる星影冴(サ)えたり」と説き出す第一章、挿絵の第一作、    画者が更生の気魄を籠めた印象は忘れ難い〟    ☆ ひでただ かわい 河合 英忠    ◯『こしかたの記』「烏合会」p217    (烏合会会員)   〝 河合六之助(英忠)は水戸の生れ、英朋と同門で、画報記者として入社していたが、英朋はその新聞    に相撲取組で好評だったのは前にも記した通りで、英忠には能楽のスケッチの創案があった。私が演劇    スケッチを試みたのと同じ時である。英忠は制作方面でも能画に深い興味を寄せていた。烏合会の出品    には風俗画もあるけれども、歴史画に主として力を注いだ。この方面での大成を期待されたが惜しくも    早世した〟    ☆ ひでとも ひれざき 鰭崎 英朋    ◯『こしかたの記』「烏合会」p217    (烏合会会員)   〝 英朋の師の右田年英は、私の師年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健    康に、おおどかな筆致を有っていた。それに就いて想い起すのは歌川流の始祖豊春が豊後の臼杵(ウスキ)    の出で、右田氏と同郷である。そこに相通じる郷土性のゆたかさを見るが、英朋はよくそれを享けて、    年齢の若さはそれに情味を加えた。出生は明治十四年八月二十五日京橋入船町八丁目。師年英に就いた    のは明治三十年三月十七歳の時で、縁故を辿(タド)り祖父に連れられて入門したのだと云う。静方も、    英朋も、烏合会の後公開の会への出品がないので、世人に認められる機の乏しかったのが私には惜しく    てならない〟    ☆ ひろかた あらい 荒井 寛方    ◯『こしかたの記』「傘谷から京橋へ」p130    (明治三十三年記事)   〝浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月に    先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」他    に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は不    明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、容斎派の盛りの頃から歴史画    が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はその擡頭は一層目立って、歴史画、    歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関係の出版は少年ものにも及んでい    た。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を採り上げた。街頭にはまた「われ    とにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられていた〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 初代    ◯『明治の東京』   ◇「築地界隈」p83(昭和八年三月記)   〝鉄砲洲の湊稲荷、今もその社は繁昌であるが、前の社司甫喜山(ホキヤマ)氏は私の祖母の生家、江戸累代の    家筋であった。学校が近くなので私は毎日ここに寄って、御蝋(オロウ)、と呼ぶ人があると小さい蝋燭を    上げる御宮番の手伝いをしたりして遊んでいた。祖母がまだ生家にいた自分、一立斎広重が御宮を信心    で、御祭礼に燈籠をかいたという話を聞いたことがある。ところが二、三年前、稀書複製会本に、広重    の鉄砲洲稲荷燈籠の下図の綴込(トジコミ)が複製されたのを手にして、祖母の話に聞いたのがそれである    ことを知った。(中略)    維新前まで、湊稲荷は入江に沿って佃島に相対(アイタイ)していたので、今の稲荷橋の畔にあったという、    二代広重もよくかいている。境内の富士が画題に取扱われていた〟
  ◇「広重と安治」p184(昭和十八年一月)    (広重画の版本『絵本江戸土産』(嘉永三年(1850)刊)と、井上安治画の小判錦絵、東京風景百枚画帖     (明治十二、三年(1879、8)刊)を取り上げた随筆)   〝槍を立てさせ、供ぞろいをして馬上の侍が通るところを写している広重の絵と、汽車が走り、鉄道馬車    の通っているのを洋風技術で写生した井上安治とは三十年違うだけで、その時分にはあっぱれ近代風景    の実写であったろうと思われる東京新名所の絵が、今日では江戸と東京のひらきに倍する年齢を距(ヘダ)    つるに至ったのだから、明治時代が古い昔になったのに不思議はない。    広重の名所絵、何もこと『江戸土産』ばかりではないが、繁華な江戸の町を画いても、その画面にはい    つも埃が立たない、また都会の雑音が聞こえない。人の神経を焦立(イラダ)たせたり、癇癪を起させ、不    愉快になるような現象は毛筋ほども窺(ウカガ)われない。なんぼ住み善(ヨ)かった江戸だといっても、年    が年中小春日和のような気もちのいい日ばかり続いていたわけでもあるまい。うそ寒い曇り日も、夜っ    ぴで眠れないような空(カラ)っ風の吹き荒(スサ)む時節もあったに違いないのだが、広重のかいた江戸の景    色を見ていると、おまつりにも御縁日にも一向騒々しい物音はせず、サイレントの美しい映画を見てい    るようで、魚河岸の朝市でも、吉原、芝居町の賑わいでも、人は大勢右に左に歩いていて、それがいか    にも物静かで、火事と喧嘩は江戸の華だといわれた血の毛の多い群集とはどうしたって思われない。    私は勿論江戸の町の空気を直接に身に触れたわけではないけれど、井上安治の東京風景は私の生れた一、    二年の後に世に出ている。随(シタガ)ってそこに示された人里(ヒトザト)、木立(コダチ)、野なり川なり、そ    のたたずまいは私みずからの親しく触れて来た、というよりはこの風土が善から悪しかれ今日の私をつ    くりあげたのは、生きものでも、草木でもその土に適(カナ)うものその土にのみ生きる。安治の錦絵には    赤煉瓦の洋館も、鉄の橋も写されているけれど、象外(ショウガイ)に脈々として伝わるのは、広重以来の情    緒がどんな外界の変革に遇(ア)っても、ちっとも本質を変える事なくそのままに残されている。殊(コト)    によったら家康が江戸開府の時の俤(オモカゲ)さえ、何処にか姿を留めていたのかも知れない。(中略)    『江戸土産』の日本橋を見る。早朝なのだろう、橋上を往来するのは魚屋ばかりで、頭に置手拭をして、    背中にずらして小風呂敷の包を負うた男と、行商の一人がいる他は、河岸から買出しがえりの棒手振    (ボテフリ)が早足に魚の荷を担いでゆくのがうちつづく。西河岸には白い並蔵(ナミクラ)、一石橋を越して千    代田の御城が見え、中空に富士がかかっって、よくある図だが、いくら朝早くでもこの日本橋の静かな    ことよ。安治画(エガ)く日本橋夜景を見る。これは西河岸の方から見たところで、橋の上には鉄道馬車    が通り、橋の南袂(タモト)には高い洋館に燈火あかく、三菱の倉庫七棟連(ツラナ)って、その外(ハズ)れに白    々と大きい満月がさしのぼっている。油のような水面に月影は流れて、舫(モヤ)った舟は黒く、月に浮    かれてか行人の数も尠(スクナ)くはない。しかし静かな眺めである。    朝と夜との日本橋、大都会の中心を写したこの二つの景色の、広重は橋西を、安治のは橋東をそのまま    画いただけながら同じような静けさは、明治の東京そこここにいくらも接することの出来た風致であっ    た。    その後国運が進歩したのだからといえばそれまでだが、私などには広重から安治へと続いて来たむしろ    素朴な東京の、早春、梅花の薫るに似た、寂しく床(ユカ)しい都会風景、併せてその生活が懐かしい〟    〈清方の目には、井上安治の画く東京風景の中にも、広重以来の静謐な江戸情緒が絶えることなく漂い続けているよう     に見えたのである〉    ◯『こしかたの記』「発端」p16   〝 私に草双紙の絵ときをしてくれた鍋屋のばばや祖母の姉妹たちがまだ里にいた時分には、山東京伝や、    初代の広重も、御宮(*鉄砲洲稲荷)へいつも御参詣に来て居て、京伝の妹(黒鳶式部)は鍋屋のばば    と稽古朋輩だったことや、御稲荷さまの初午祭に、広重が燈籠をかいて納めたことも、祖母の話に聞い    ていたが、後年稀書複製会本にその下絵が、半紙横綴に殆ど原形のままらしいのを見出して奇遇を悦び    ながらも、若し祖母が在世でこれを見たらどんなに悦んだかと残念やるかたもなかった。     その小下画帳で見ると、画題は専ら江戸年中行事に拠る横物で、大きさは明らかではないが、弘化四    年とあくる嘉永元年の二年続いて、初午祭に掲げたことがわかる。他にやや小さく思える竪形が各三枚    ずつあって、それはどれも正月のものをかいている。     横物は、弘化の分に二十九枚、嘉永のが三十枚ある。十二ヶ月に配してあるが、正月が四つあるのに、    六月は三つ、九月は一つしかないといったふうに月配りはまちまちなので、この凡べてをかいたものか    元来控のことだから、適宜に選んで十二枚かいたものか、そのへんは不明である。併(シカ)し人物を主に    して略図の筆趣味に優れ、どれ一つを選んでも素描画い逸品として迎えられるであろう。     広重は安政五年に六十二で没しているから、弘化四年は五十一になる。私にその燈籠の話をしてくれ    た天保三年生れの祖母はちょうど十六七の娘であったわけである〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 二代    ◯『こしかたの記』「発端」p15   〝(*鉄砲洲稲荷神社)祖母がまだ生家にいた頃の神社は、今より北へ寄った稲荷橋の南袂、大川の河口    に近く、諸国の廻船が出入する船着場の河岸に在ったと云う。現地に移った時期はまだ訊いていないが、    三代目豊国と、二代目広重の合作「江戸自慢三十六興」という組物の錦絵には、旧地の風景と、境内の    富士祭での土産と見える麦藁の蛇を提げた町娘が画いてある。豊国の落款に喜翁とあるので、それが文    久二年の作と解る。鉄砲洲の稲荷と普通には呼ばれているが、「江戸名所図会」には湊稲荷となってい    る。雪旦の細密な写生による挿絵を見ると、この神社の景観がいかに勝れていたかが窺われて、眼のあ    たりこの実景に接することの出来なかったのが残念に思える。殊に境内の富士から、湊口に碇泊する数    多の巨船や、佃を越して遠く、鹿野山や、鋸山を見晴らす景色が、「助六」ではないが、浮絵のように    見えたのであろう〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代    ◯『鏑木清方文集』二「明治追懐」「俤草」②80(大正五年一月)   〝神田で生まれた私は、生まれるとすぐ二長町に引越して、それから間もなく南紺屋町(京橋)へ移住し    た、私の世の中に於ける記憶はこの紺屋町の小さい二階家から始まって居る、三歳の時といへば明治十    三年のことである。この家の裏に下が二室(フタマ)二階が一室(ヒトマ)の小(ササ)やかな家に四十恰好の画家    (ヱカキ)が住んで居て、細君と二人きりで小綺麗に暮らして居た。画家夫婦は、てうち/\あはゝより芸    のない、知恵の遅い幼児(ヲサナゴ)の自分を大層可愛がつていれたのださうである、画家の名は広重さん    ----よく鉄道馬車や、眼鏡橋や、赤い桜と、青い石とが印象に残つて居るあの東京名所の錦絵をかいた    三代目広重であらうと思ふ---広重さんは意気な人で、褞袍(ドテラ)に濡れ手拭で表をあるいて居る人で、    思ふに昔の浮世絵師をそのまゝの人らしかつた。紺屋町に居たのも長い間ではなく、私の家はまた築地    へ移り、八歳の時には木挽町へ移つたので、広重さんとの交際(ツキアヒ)もいつしか絶えてしまつた。木挽    町に居る頃私はその頃代地河岸に居た広重さんのところへ年始に行つたのを覚えて居る、たしかその時    女持の小扇へ縦に助六のうしろむきをかいてもらつたのを、かなり大きくなるまで持つて居た、その画    は初代、二代の流れを汲んで、遠目にも広重とうなづかれるものであつた〟    ◯『明治の東京』「築地界隈」p83(鏑木清方著・昭和八年三月記)   〝私の生れて間もなく、京橋の南紺屋町にいた家の隣家に、三代目広重が住んでいて、赤ん坊の私は、そ    の夫婦に可愛がられたのだと聞いている。少し大きくなってから、その頃は浅草の代地、今の柳光亭の    筋向うあたりに移っていたその人をたずねたこともある。五十いくつぐらいだったろうが、頭はなかば    禿げていて、痩(ヤ)せ形(ガタ)の人で、夫人は裁縫がうまかったという話である。私の持っていた小さい    扇へ、助六のうしろ向きをかいてくれたのを長く持っていたが、いつのほどにかなくしてしまった〟    ◯『こしかたの記』「発端」p9   〝 私は明治十一年八月に、神田川の近くに生れて、二歳の時は京橋の南紺屋町、今でいう銀座西一丁目    の銀座裏に居たという。それから築地一丁目、文海小学校の裏門前に移ったのは年齢に確かな覚えがな    い。銀座裏では、隣に三代目歌川広重が住んで居て、夫婦して私を可愛がってくれたと、これも後でき    かされたが、その家の見つきだけは物心が付いてからそこいらを通る折がいくらもあるので、私の居た    家と共に見覚えて知っている。     この広重は、浅草の代地河岸深川亭の前あたりに引越してからでも交際(ツキアイ)は続いて、ある初春、    代地の家ひ尋ねた時、平骨の扇子に助六のうしろ姿をかいて与えられた。それから程なく明治二十七年    三月、この人は亡くなった。妻女は仕立物がうまくて、後年横浜でそれを教えて余生を送ったときいて    いる。文献に拠ってその人は初代の養女辰とこの書にも記したが、高橋誠一郎先生がある誌上に書かれ    たもので、辰女は明治十二年十月に没し、私の知る妻女は、後妻の八重であろうと指摘された。私の、    隣家に居た年時をかぞえるとそれに疑いなく後妻のお八重でなくてはならぬ。今増刷に際してこれを訂    (タダ)しておくが、なお高橋先生は、この人が札差(フダサシ)の家の出であることを、先代没後初代を葬    ってある東岳寺に碑を建てたことをも伝えられた〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『鏑木清方随筆集』「宝船」p25(昭和十七年一月記)   〝ただに初夢というだけでなく、今日の時世、いやいや後にいつまでも訓戒になる宝船がある。    それは白河楽翁公(注、松平定信)が谷文晁に外国の軍艦(その頃いわゆる黒船)をかかせて、公自ら    「このふねのよるてふことを夢の間も忘れぬ御世のたからなりけり」と讃したものがあるということで    ある。    時代も新しことであるから今でも残っているのであろうが、私は本に出ていたものしか見ていない。さ    すがに楽翁であり、その趣向にもやはり時代の風潮というか、好尚というか、そんなものが倹約一点張    りのように思われいる公にも滲透してしているのに微笑される。原画がどこかにあるならば複製して、    初夢の宝船を再確認するのもよかろう〟    ☆ まこと つづき 都筑 真琴    ◯『こしかたの記』「烏合会」p224   〝 都筑真琴は明治八年静岡に生れ、旧姓興津、本名は誠。元旗本の都筑徳高の養嗣子で、宮内省匠寮に    仕えた。侍従職にいた同僚の田中素水と、四条派の久保田桃水に弟子入した。桃水は横山清暉と西山芳    園に学んで、穏やかなうちに爽気と潤気の含みある筆法の持主であったが、真琴はよくその正統を護り、    役所勤めの長かったのに因るとしても、江戸期の士人が南画を愉しんだのと何処か似たところのあるよ    うに、職業画人にはなり切らないで終った〟    ☆ まさかた おおいし 大石 雅方    ◯『こしかたの記』「湯島の住居」p112   〝 三十年の四月に、絵画協会の第二回展覧会があって、その時私は湯島天神の額堂に、赤ん坊を負って    眠る子守をかいて初出品をした。社頭嘱目の画材であったが、下画には先生(*水野年方)の朱がはい    っているのは云うまでもない。鑑別のやかましくない時代だから落ちはしなかったが、廻覧絵本の「た    けくらべ」や岡さんの小説の挿絵に注いだほどの熱情はどうしても起こらなかった。     挿絵画家を本来の目的とするものが、展覧会へも出して見る気になったのは、同門以外との交渉が始    まって、他流試合の心が動いて来たからであった。同門の大石雅方は、大蔵省へ勤めの余暇に画の勉強    をしていたが、役所だの、銀行だのに出ている同好の人達が寄って、書画研究会をこしらえ、年に何度    か集まる会合があり、大石もその仲間なので、私も勧められて、十六歳の頃からそれへ加入していたが、    廻覧本に絵をかくだけで、会の方は尻込みをしてさっぱり顔を出さなかった。大石の姉は田中夕風と云    って、北田薄氷(ウスライ)と同じ頃に、紅葉門下の閨秀作家として作品も少しは世間に出ていたが、この人    も平生は教師の勤めをして、弟と共に一家の生計を立てていた。小石川水道町の大石の家で、私は始め    て自分の育って来た環境に見たこともない生活を知り、そのうち大石に誘われて研究会へも出るように    なると、それぞれ流派も違えば境涯も違う人たちとの交際が始まって、ことごとくにもの珍しく、当座    は池に養われた魚が大川に出たようであった。〟    〈「岡さんの小説」とは上記、仙台の『東北新聞』が掲載していた岡鬼太郎の小説〉    ☆ やすじ いのうえ 井上 安治    ◯『明治の東京』(鏑木清方著)   ◇「広重と安治」p184(昭和十八年一月)    (広重画の版本『絵本江戸土産』(嘉永三年(1850)刊)と、井上安治画の小判錦絵、東京風景百枚画帖     (明治十二、三年(1879、8)刊)を取り上げた随筆)   〝槍を立てさせ、供ぞろいをして馬上の侍が通るところを写している広重の絵と、汽車が走り、鉄道馬車    の通っているのを洋風技術で写生した井上安治とは三十年違うだけで、その時分にはあっぱれ近代風景    の実写であったろうと思われる東京新名所の絵が、今日では江戸と東京のひらきに倍する年齢を距(ヘダ)    つるに至ったのだから、明治時代が古い昔になったのに不思議はない。(中略)    井上安治の東京風景は私の生れた一、二年の後に世に出ている。随(シタガ)ってそこに示された人里(ヒト    ザト)、木立(コダチ)、野なり川なり、そのたたずまいは私みずからの親しく触れて来た、というよりはこ    の風土が善から悪しかれ今日の私をつくりあげたのは、生きものでも、草木でもその土に適(カナ)うもの    その土にのみ生きる。安治の錦絵には赤煉瓦の洋館も、鉄の橋も写されているけれど、象外(ショウガイ)に    脈々として伝わるのは、広重以来の情緒がどんな外界の変革に遇(ア)っても、ちっとも本質を変える事    なくそのままに残されている。殊(コト)によったら家康が江戸開府の時の俤(オモカゲ)さえ、何処にか姿を    留めていたのかも知れない。(中略)    『江戸土産』の日本橋を見る。早朝なのだろう、橋上を往来するのは魚屋ばかりで、頭に置手拭をして、    背中にずらして小風呂敷の包を負うた男と、行商の一人がいる他は、河岸から買出しがえりの棒手振    (ボテフリ)が早足に魚の荷を担いでゆくのがうちつづく。西河岸には白い並蔵(ナミクラ)、一石橋を越して千    代田の御城が見え、中空に富士がかかっって、よくある図だが、いくら朝早くでもこの日本橋の静かな    ことよ。安治画(エガ)く日本橋夜景を見る。これは西河岸の方から見たところで、橋の上には鉄道馬車    が通り、橋の南袂(タモト)には高い洋館に燈火あかく、三菱の倉庫七棟連(ツラナ)って、その外(ハズ)れに白    々と大きい満月がさしのぼっている。油のような水面に月影は流れて、舫(モヤ)った舟は黒く、月に浮    かれてか行人の数も尠(スクナ)くはない。しかし静かな眺めである。    朝と夜との日本橋、大都会の中心を写したこの二つの景色の、広重は橋西を、安治のは橋東をそのまま    画いただけながら同じような静けさは、明治の東京そこここにいくらも接することの出来た風致であっ    た。    その後国運が進歩したのだからといえばそれまでだが、私などには広重から安治へと続いて来たむしろ    素朴な東京の、早春、梅花の薫るに似た、寂しく床(ユカ)しい都会風景、併せてその生活が懐かしい。     (中略)    井上安治は本名安二郎、探景と号して、小林清親の弟子、若くして歿した〟      〈清方の目には、井上安治の画く東京風景の中にも、広重以来の静謐な江戸情緒が絶えることなく漂い続けているように     見えたのである〉     ◇「明治の生活美術寸言」p181(昭和三十七年九月記)   〝私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と、清親一派の風景画が最初に    思い泛(ウ)かぶ、清親はこれまでにも紹介されて人の知るが、その門人で惜しくも早世した、探景井上    安治は、師風から殆ど一歩も出ないようでいて、どこか広重に通じる詩情と郷愁がしみじみ看者の心を    打つ〟    ☆ ようさい きくち 菊池 容斎    ◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p94   〝 丁度、日清戦争が境になって、挿絵の傾向と分野は、それまでにないあらたな展開がはじまって来た。    文学関係の出版が急にめざましい活動期にはいって挿絵の需要が盛んになり、有力な新人の擡頭が続い    た。     それに就いては明治の初期に、芳崖、雅邦よりも一般人には高名な菊池容斎をさし措いては、明治の    挿絵は語れないということを知らなければならない。私の経て来た体験について云えば、その時期での    挿絵の新風は、容斎とその門人、松本楓湖、渡辺省亭(セイテイ)の三人を、基点と云うか、源流と云うか、    とにかくそこから出ているのである。なお焦点を集注させると、そこには容斎の著、「前賢故実」があ    る。この挿絵は「晩笑堂画伝」に負うところが尠くないけれども、それより気の利いた挿絵的要約が次    代につづく人達に新風を生む示唆を与えた。楓湖の「幼学綱要」や「婦女鑑」は更に桂舟や永洗に大き    な影響を及ぼし、やはり容斎門の省亭は、年方へ直結して、間接的には私にまで及んでいる。華邨の師    の中島亨斎は容斎の門人であり、半古はまた華邨に多少の関係があったと思われる。またその頃には、    塾での教科用として「前賢故実」を用いたところがあった。半古社中、年方社中が使ったのは知ってい    るが、楓湖社中はなおさらそうであったろう。その本のなかで容斎は、塩谷高貞の妻を主題に、裸婦を    かいている。門人の省亭はまたそれを粉本に、山田美妙の小説「胡蝶」に裸婦をかいて、やかましい問    題になったのは、その後の文献にもたびたび載って、珍しいことでもないが、裸婦の美しさは省亭の方    にある〟    ☆ よしいく おちあい 落合 芳幾    ◯『こしかたの記』   ◇「やまと新聞と芳年」p31   〝 明治五年に条野採菊、西田伝助、落合芳幾の三人が官許を得て「東京日々新聞」を発行した。これは    日刊新聞ではあったけれど、美濃判一枚の木版摺で発行所は浅草茅町の採菊の宅であった。瓦版のやや    進化したようなものではあるがそれでも出費は嵩(カサ)んで、外へ出るのち一枚の羽織を融通しあった時    代もあったそうである(*以下略、銀座に進出した「東京日々新聞」の新社屋にガス灯による「日報社」    の文字について)芳年の小判の錦絵に、この光明赫奕たる炎の扁額を、東京見物の田舎客が土下座して    御来迎を拝むように合掌している漫画がある〟     ◇「やまと新聞と芳年」p34   〝 (*「やまと新聞」)錦絵附録に似たものは、これより十年程前に「東京日々」と「郵便報知」の新    聞記事に出たものの中から、所謂ニュース・バリューのあるものを錦絵にして画中に解説を加えたもの    が出たことがある。「日々」は芳幾、「報知」は芳年であった。戦争の硝烟がまだ去りやらぬ時世が反    映してか、陰惨な画面が殊に芳年のものに多かった。これは附録のように見えるけれど、出版者が新聞    社と相談ずくで売り出したもののように思われる。この版行は明治九年前後であるが、芳年は魁斎と名    乗った頃の国芳風から蝉脱して極端な写実に急転し、西洋新聞の銅販画の影響を露骨に取り入れ、皺と    陰影の多い手法を用いたのが、いかにも不穏な時代相を色濃く表している。芳年とは違って穏和で常識    人らしい芳幾までが、この時分はそれにかぶれているかに見える〟     ◇「やまと新聞と芳年」p30   〝 「やまと新聞」の創立者で、且つ社長であった、文人条野採菊は私の父である。小説家が戯作者と呼    ばれていた江戸時代に、山々亭有人(サンサンテイアリンド)の筆名を持って人情本や雑文をかいていた。幕末か    ら明治十年前後までの錦絵、主に芳年(ヨシトシ)、芳幾の錦絵には、画中に相当長い解説を、知名の文人が    書く習慣になっていた。有人の他、仮名垣魯文、高畠藍泉、山閑人交来、柳下亭種員などに交って三遊    亭円朝、松林(ショウリン)伯円の名も見える。父は当時朝野の文化人間への交遊が極めて広く、その中でも    福地源一郎(桜痴)には特に傾倒していたらしい。私の本名を健一とつけたのも、音が通じるので選ん    だそうである〟   〈「やまと新聞」の創刊は明治十九年(1886)。付録の芳年画『近世人物誌』は月一回の割合で明治二十一年まで配布され    た〉    ◯『明治の東京』「明治の生活美術寸言」p181(鏑木清方著・昭和三十七年九月記)   〝明治七、八年頃、『郵便報知新聞』『東京日日新聞』などの記事に取材して、芳年(ヨシトシ)、芳幾(ヨシチカ)    が写実の筆を揮った錦絵が発行された。今のニュース映画というところだろうが、維新後の不安な世相    を反映して、これから推すと生活に美術を求めるなど考えらるべくもなかった〟   〈芳年の弟子・年方、その弟子の鏑木清方が、芳年の兄弟弟子である芳幾に(よしちか)のルビを振っている。どういう    ことであろうか〉    ☆ よしとし つきおか 月岡 芳年    ◯『鏑木清方文集』二「明治追懐」②81(鏑木清方著・大正五年一月)   「俤草」   〝十一の歳、亡父が「やまと新聞」を創め、その挿画を芳年、年方の両先生が引き受けることゝなつて、    初に逢つたのは多分芳年翁であつたらう。(中略)    芳年翁の絵は私が絵に親しみをもつ最初の印象の強いものである。「やまと新聞」の厚い初号の配達さ    れたのは、よく晴れた日であつたと覚えて居る、絵の為に新聞の一頁をつぶすことは珍らしくなかつた、    初号の付録の、天璋院殿をかいた芳年筆の錦絵の刷り立ての匂ひは未だ忘れぬところである。芳年翁の    芸術についてはまた更めて説く機(オリ)もあらう、ただ新聞挿画の最も力のあつたものとして、その頃の    翁の挿画を推重する。私が翁の浅草須賀町の住居へ遊びに行く頃、翁は流れに臨んだ庭に面して大きな    机を据ゑ、円らな眼に大きい眼鏡をかけ、厚い唇に筆を舐(ネブ)つて板下(ハンシタ)をかいて居られた、今    思ひ出しても、その画室も、態度も、風采も、浮世絵の泰斗といふにいかにも相応したものであつた。    国芳や初代広重の折本をこの画室で見せてもらふのが楽しみで、「坊ちやんなか/\絵が好きですね、    一つ習にませんか」といはれたことを考へ出す。    ある時新橋の寿鶴といふ鳥屋で、円朝翁の話の速記があつた。……円朝翁の人情話は、「やまと新聞」    の呼物でその速記はいつもお茶屋や私の家で開かれた、話の始まる前に若い御弟子の年方さんが度々叱    られて居るのを見ては恐い人だと思つた、話が始まると翁は柱へ背を凭せて瞑目して聴いて居る、悲し    いところへ来ると、大きな眼鏡の下から涙がポロ/\こぼれる、終(シマヒ)にはすゝり泣く声さへ聞へる、    名人の至芸、名人を泣かしめて出来る挿画の、よいものが出来たのは当然である。私に画を習ひません    かといはれた明治の浮世絵の巨人は、私がその下流を汲んで画を学ぶに至つたとも知らずに世を去られ    た〟    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」①47(鏑木清方著・昭和六年三月)   「人事素描」   〝山中古洞君が「浮世絵誌」に芳年のことを続載して居るが、芳年伝の資料としてあれなどは容易に得難    いものであらう、久しい前谷崎潤一郎氏が芳年伝をやつて見たいと言つて居られたことがある、今日も    尚ほそんな興味を持ち続けて居らるるかどうかは疑問だけれど、氏と芳年とは結ばるべき何ものかを持    つことに於いて、さう聞いた時、多大な期待をかけていたのであつた〟    ◯『こしかたの記』「発端」p8   〝 「田舎源氏」「しらぬひ譚」「釈迦八相倭文庫」「北雪美談時代鏡」そうしたものを何遍となく見せ    られているうちに、いつか幼い私に忘れが難い影像をとどめたのは「時代鏡」の主人公で藤浪由縁之丞    という前髪立の若衆が幻術の蝶に乗っている姿で、私はその後とんとその画を見ていないが、今見たら    別にとり立ててかれこれいうほどのことはあるまい。ただ女とも見える美少年が蝶蝶の妖術を使うとこ    ろに、今も変りない少年の好奇心がそそられていたのであろうが、画を習うようになって、芳年(ヨシトシ)    の小判錦絵「美男水滸伝」にこの藤浪由縁之丞が、はやり蝶に乗って、長い文を繰り広げているのを写    したことがある。今私のあたまの中に色濃く残っているのは、どうもこの方らしい〟    ◯『こしかたの記』   ◇「やまと新聞と芳年」p31   〝 明治五年に条野採菊、西田伝助、落合芳幾の三人が官許を得て「東京日々新聞」を発行した。これは    日刊新聞ではあったけれど、美濃判一枚の木版摺で発行所は浅草茅町の採菊の宅であった。瓦版のやや    進化したようなものではあるがそれでも出費は嵩(カサ)んで、外へ出るのち一枚の羽織を融通しあった時    代もあったそうである(*以下略、銀座に進出した「東京日々新聞」の新社屋にガス灯による「日報社」    の文字について)芳年の小判の錦絵に、この光明赫奕たる炎の扁額を、東京見物の田舎客が土下座して    御来迎を拝むように合掌している漫画がある〟      ◇「やまと新聞と芳年」p30   〝 「やまと新聞」の創立者で、且つ社長であった、文人条野採菊は私の父である。小説家が戯作者と呼    ばれていた江戸時代に、山々亭有人(サンサンテイアリンド)の筆名を持って人情本や雑文をかいていた。幕末か    ら明治十年前後までの錦絵、主に芳年(ヨシトシ)、芳幾の錦絵には、画中に相当長い解説を、知名の文人が    書く習慣になっていた。有人の他、仮名垣魯文、高畠藍泉、山閑人交来、柳下亭種員などに交って三遊    亭円朝、松林(ショウリン)伯円の名も見える。父は当時朝野の文化人間への交遊が極めて広く、その中でも    福地源一郎(桜痴)には特に傾倒していたらしい。私の本名を健一とつけたのも、音が通じるので選ん    だそうである〟    〈「やまと新聞」の創刊は明治十九年(1886)〉      ◇「やまと新聞と芳年」p32   〝 「やまと新聞」は恐らく父の、相当練った腹案を実践に移したものであったろう。今この新聞を回顧    して見ると、そこには尠くも、三つの特色があったことは見遁せない。一世の名人円朝の創作人情噺を、    その頃漸く発達して来た速記術に依って毎日連載すること、次にはその頃全盛にあった巨匠月岡芳年が    円朝の挿絵を担当すること、もう一つは社長の採菊が小説、劇評、雑報に続いて筆を執ることであった。    父の奮闘は当然としても、円朝と芳年を独占出来る確信は、この新聞計画の大きな力であったに違いな    い。(中略)     創刊紙の続き物は、円朝の「松操美人生埋(マツノミサオビジンノイキウメ)」。採菊は「廓雀小稲出来秋(サトスズ    メコイナノデキアキ)」。四代目稲本(イナモト)楼の小稲と中野梧一とのことに取材したもので、この挿絵は芳年の    推薦に依って、まだ二十一歳の年方が画いた。挿絵は芳年一枚、年方二枚と覚えていたが、その一つは    どうしても思い出せなかったところ、「新聞集成明治編年史」を見ているうちにそれが塚原渋柿園の    「欲情新話」という花柳ものの現代小説であることが解った。年方のさし絵もそこに縮刷されてあった    が、その別項に左の記事が出ていた。「予(カネ)て各社の広告にて披露りしやまと新聞は昨七日を以つて    初号を初兌せり。印刷美麗にして記事中三遊亭円朝子が得意の続き噺を、例の速記法にて書き取りしも    のをも登載し、仮名新聞中にては最上等の部類ならん。又た二号には一ヶ月極めの読者に限り芳年翁が    画きたる上摺の錦絵を景物として添ゆる由なり。東京日々、」とある。この錦絵は後年の新聞附録に見    る機械版のものなどと違って、少しも手を抜かない本物の立派な大錦で、その時自宅へ配達されて来た    ものが今に保存されているが、それは十九年十月から二十一年五月まで、毎月欠かさずに続いて二十枚    に及んでいる。恐らくそれが全部であろう。これは画く方も容易ならぬことだったろうが、新聞社とし    ても、いかに物価の安い時代でもこれまで続けられたことは、昔の人の辛抱強さを語るに足りよう。芳    年と云い、円朝と云い、採菊の古い友人関係だからとは云え、どれだけの待遇をしたものか知らないが、    よくも長いこと一つの新聞紙に、少しも変わることなく協力した、この人達の義理固さに感心される。     錦絵附録に似たものは、これより十年程前に「東京日々」と「郵便報知」の新聞記事に出たものの中    から、所謂ニュース・バリューのあるものを錦絵にして画中に解説を加えたものが出たことがある。    「日々」は芳幾、「報知」は芳年であった。戦争の硝烟がまだ去りやらぬ時世が反映してか、陰惨な画    面が殊に芳年のものに多かった。これは附録のように見えるけれど、出版者が新聞社と相談ずくで売り    出したもののように思われる。この版行は明治九年前後であるが、芳年は魁斎と名乗った頃の国芳風か    ら蝉脱して極端な写実に急転し、西洋新聞の銅販画の影響を露骨に取り入れ、皺と陰影の多い手法を用    いたのが、いかにも不穏な時代相を色濃く表している。芳年とは違って穏和で常識人らしい芳幾までが、    この時分はそれにかぶれているかに見える。「やまと」の錦絵はそれから見るとずっと品がよくなって、    社会不安の漸く消散したのがありありと反映していると共に、芳年自身の芸境も維新以後の激しい苦悶    を経て、大成の域に達した。元来錦絵の取材は市民の享楽生活の中に求めるのが通例になっていたのが、    芳年の師国芳が通俗的な歴史画の境地を拓(ヒラ)いてこのかた、武者絵の範囲は拡がって、近世社会の史    実、伝説、今日で云えば大衆小説に匹敵(ヒツテキ)する世界が、専ら制作の対象として取り上げられて来て、    それが芳年錦絵の最も著しい特色となっている。松井栄吉出版の竪二枚続、綱島版の横二枚続の二種    はその技が円熟の高潮に達したものであり、竪二枚の中の、羅城門、一の谷、浪裡白跳張順、芳流閣だ    のの描写力の確かさはちょっと類がない。この絵が出た二十年前後が恐らく芳年の仕事の一番完成され    た絶頂だったろう。名声の高い真盛りだったからではあろうが、新聞が挿絵を遇するのに何んの拘束も    加えなかったのも、前後に例のないことであった。現在では新聞一頁の段数は十五段が常体のようだが、    その頃の新聞は五段か六段であったろう。一段五号活字で二十四字詰、曲尺で三寸のを、画面の都合で    竪にも横にも使う、竪の場合は三段抜き、横の場合は凡そ二段で、版は凡べて木版である。また切組と    云って周囲が必ずしも一定せず、草双紙のように、ジグザグに活字を組むこともあり、飛画と云って、    たとえば「山門五三桐」の山門の絵にするとして、一頁の上部に欄干へ片足かけて刀を抜きかける五右    衛門を描けば、グッと離して、水盤の傍に柄杓を右手に上を見上げる久吉をかくと云った工合で、今日    の眼で見たら羽目を外したあそびを見られても仕方がないであろう。     新聞に出る円朝の人情話は、たいてい市内の静かな座敷で速記をする。少憩の間を隔(オ)いて、タッ    プリ二席を弁じる。挿絵をかく芳年をはじめ社内の重だった数人が聴くので、私もその席に列するのを    楽しみにした。時には木挽町の私の家で催されることもあった。私の昭和五年の作「三遊亭円朝像」は    その席の、遠い、併し鮮やかに残る印象を追ったもので、置かれた調度はどれも日頃見馴れた我が家の    品である。円朝の妙技に酔う聴き手の中に、容貌魁偉と形容されそうな、額の広い、眼の円(ツブ)らな    芳年翁がいつも胸高に腕組をして、傍眼も振らずに聴き入っている姿も忘れない。昭和二十五年の作    「芳年」はその記憶に拠ったものである。     私がこの人に会ったのはまで絵の稽古を始めないうちで、三味線堀の水が天王橋の下を潜り、須賀橋    を右曲して大川に注ぐ川添の、浮世絵最後の巨匠が住むにふさわしい家へ、尠くも二度は行ったことが    ある。一度は物好きを凝らした箱庭をつくるのに態々(ワザワザ)京都まで焼物を誂えたりして、これを庭    に陳べて大勢の客をした時母に連られて見に行ったのと、その後正月遊びに行って、刷り上って来た板    下(イタオロ)しの三枚続を自分で捲いて土産にくれた。その御浜御殿の海上、西瓜合戦の絵は、「やまと」    の錦絵附録と一緒に綴じて帖にして保存している〟    ◯『こしかたの記』「大根河岸の三周」p55   〝(*落語家三遊亭円左)誰と云うとなく「狸」と云う渾名(アダナ)もあって、芳年が、月下で狸が腹鼓を    打つ画を描いた後(ウシロ)幕を、「やまと新聞社」から贈ったこともあった〟    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p29   〝(*清方)芝居の帰りにこの長谷川(*新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟    ◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p93   〝 先生(*水野年方)の師匠芳年は、私(*清方)が画道に入った翌二十五年に、まだ五十四歳の画家    には最も盛りの年頃に精神病で亡くなった。世間では慢心からだと云ったが、その制作のあとを見れば    異常神経がよく窺える。幽霊を屡々実在に見たと人に話したそうで、円朝の旧蔵であった、「幽霊百幅」    の中にある、梯子段の中途でうしろを振り向く女郎の幽霊は写生によると伝えられる。芳年の門流は広    く、先生の他には、年英、年恒、早世した年信、前名年忠で後に日本美術院の初期に活動した山田敬中    などが優れていた。年英の門からは、英朋、英忠。年恒の恒富から貞以に継がれている〟    ◯『こしかたの記』「「読売」在勤」p147   〝 「読売」にいた山岸の骨折りで、私はコマ画と呼ぶ種々の雑画をかくために、その社へ通勤するよう    になった。と云っても、正式に入社したわけではなく、嘱託として、出勤の日給制という、至って栄え    ない待遇も、実は他に目指すところがあったからである。それは小説挿絵の担任者として梶田半古の存    在にあった。当時先生の清新で高雅な画風は、若い画学生に何かしら新しい希望と光明を与えたのであ    る。私は年方先生の薫陶を受けて、比較的堅実な技法を仕込まれては来たけれど、芳年伝承の筆法から    は、少しも早く脱け切りたいとのと踠(アガ)きが、旦暮(アケクレ)悩みの種であった。そう云う意は決して    これを貶すのではない。芳年は平常北斎を好いていた聴くが、そうありそうなことで、この二人の名手    は各々何処かで通ずるものを持っておる。私を肌合は恰(マル)で違うが、芳年の錦絵には並々ならぬ愛着    を寄せていて、蒐集の数から云ってもそう尠いほうではないであろう。これは何も大師匠に当る人への    敬意ばかりではない〟    ◯『こしかたの記』「烏合会」p222   〝(*明治)四十一年の五月九日は、大蘇芳年の十七回忌に相当するので、それより少し繰り上げた三月    の会の時、遺作を並べることにした。それが偶然十七回展覧会(*烏合会)でもあった。芳年の肉筆鍾    馗(その時師の年方蔵で、今は芳年の跡を襲ぐ築地「きん楽」にある)と、三十六怪撰のうちの下画、    写真印譜、の三枚画はがきを、私が図案装飾して観覧者に出したのだが、これが分布をどうしたかは憶    えていない。     芳年の特色は錦絵にあるが、それがどれほど、また何を撰んだかもあきらかでないが、下画と写生に    は若い頃のものもあったけれど、肉筆は四条派を加味した筆法の、晩年のものが多かった。ただ一つ、    上野東照宮の広前に平常立てられた大衝立に、関羽、張飛、玄徳の三傑を画いたのは、珍しく壮年期の    よい作で、明治初期に、新富座主森田勘弥の頼みで別看板のために画いたのを、後に座から奉納したの    であろうが、これを借り出して陳列したので、神社でも新たに保存のためを慮ったものか、掛軸に改装    したと聞いたが、仄聞するところに依ると震災のみぎり所在を失ったとの説もあるが、どうか無事であ    ればよいと思っている。芳年が魁斎から大蘇と改めた時代で、強い癖は認めても遉(サス)がに浮世絵掉尾    の巨匠たるを恥じない気魄に充ちているのを見遁せない〟    ◯『明治の東京』「明治の生活美術寸言」p181(鏑木清方著・昭和三十七年九月記)   〝明治七、八年頃、『郵便報知新聞』『東京日日新聞』などの記事に取材して、芳年(ヨシトシ)、芳幾(ヨシチカ)    が写実の筆を揮った錦絵が発行された。今のニュース映画というところだろうが、維新後の不安な世相    を反映して、これから推すと生活に美術を求めるなど考えらるべくもなかった。    それが、十一年-十三年となると、同じ芳年の一枚絵でも美人画の組物が次々に出版され、婀娜(アダ)    たる風俗が写されている。「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)では、高名な会席茶屋の数々を写して、    それに各地の名妓を配したり、「美人七陽華」には宮中の女官を捉え、これに盛りの花を描いて妍を競    うなど、世の安定を示して余りある〟    ☆ よしふじ うたがわ 歌川 芳藤    ◯『こしかたの記』「鈴木学校」p28   〝手遊絵でも芳藤のものなどは一時複刻を見たほどで、今でも何処にか好事(コウズ)の人の蒐集が残ってい    ればよいと思っている。私などは時折考えることだが、あの時分(*明治十年代)に絵草紙店もなく、    従って身のまわりに手遊絵が無かったとしたら、生い立ちはいかに索莫を極めたであろうか。その作者    達は多く「芳」とか「国」とかを画号の頭字に置いていた〟    ☆ れいか きつかわ 吉川 霊華    ◯『鏑木清方文集』一「制作余談」(鏑木清方著)   ◇「連翹」①122(昭和十六年(1941)四月)   〝吉川(キツカハ)(霊華)が亡くなつてから、いつの間には十三年経つて了つた。(中略)忌日に橘香会の催    しで護国寺内の月光殿に、あまり大きくない幅の遺作をならべて、故人と交友のあつた人たちに見せ、    心静かに思ひ出を楽しませてくれたのは、いかにもこの人の後らしく、茶席の設けも床しくて、故人も    満足であつたらう。    (中略、生前の写真を見て)    元のまゝの吉川君、尤も生きてゐる時から、その時代にちつとも遠ざかるやうなことはなく、だが自分    の時代は確りと別に持つてゐて微動だにしなかつた人だつたが。    「ゆく水に数かくよりもはかなきは」といふ歌の心を絵にした『伊勢物がたり』の一幅、いつ見てもあ    れはいゝ、作者にして見れば半きれへ口上代りの手紙でもかくやうな、何の心だくみもない、それこそ    行く水のたゞ低きについて流れ去る。ほんの筆すさびであつたのであらう。至らぬものゝさうしたわざ    はただあらあらしいあとをとどむるのみとならうが、きけばあの絵は旅さきで、原稿がはりにかゝれた    ものであるさうな。    吉川君は紺紙金泥描きをいつも好んで作つた、もちろんよいものゝ数々を知つてはゐたが、今まで私は、    どつちかといへば、紙へものする白描のはうを好んでゐた。『普賢』を見てゐるうちに私は私の今まで    紺紙金泥がきにおろそかな見かたをしてゐたことを悔いるこゝろが生じて来た。    墨で描く時には墨つぎといふ、絵の具の時は何といふか、それがいかにも美しく、タツプリ含ませた金    泥が自由な筆の運びにともなひ、その末はたなびく煙のやうに消えて、また新たに渚によせる波がしら    ともその本末(モトスヱ)のみごとさは妙なる楽の音にきゝ惚るゝ時と同じく、我を忘れて立ちつくす。    いつ見ても倦かずたのしい筆蹟ではある〟     ◇「日記抄」①143(鏑木清方著・昭和二十三年(1948))    (十月二十七日、国立博物館にて開催中の「近代綜合美術展」へ行く)   〝吉川(キツカハ)君の『離騒』予に取りてはあれこれあれこれ思ひ出のかずかず尽くべくもなし。『離騒』が    出陳さるる時予は陳列の任にあたりしが、招待日の前日、聖上の御内覧あるに際し、左方屈源を画ける    分は届きて壁面に掛けたるも、右方河神龍を従へたる分、会場に届かず、大井の画室に経師屋の高築が    泊り込みて、こちらよりは催促の使を出すやら大騒ぎして、行幸前辛うじて間に合ひたる、あんなこと    は文展の楽屋何にも二度とはないことなり〟    ◯『こしかたの記』「烏合会」p215   〝 吉川霊華は下谷池の端に生れ、父は儒者である。この人とは後に再び金鈴社で盟いを結ぶ奇縁に恵ま    れたが、烏合会へは二回ほどの出品を見たのみであった〟                              以上『こしかたの記』2008.3.1 終了