Top       鴬亭金升著 『明治のおもかげ』     その他(明治以降の浮世絵記事)
          (原本『明治のおもかげ』山王書房・昭和二十八年(1953)刊)           〔底本 岩波文庫『明治のおもかげ』岩波書店・2000年刊〕    ※( )内のカタカナはルビ。但し底本はひらがな  ☆ きよただ とりい 鳥居 清忠    ◯「劇画堂」p90   〝下谷(シタヤ)の松岡緑堂画伯の子息緑芽は、芝居が好きで劇画を得意としたので、「劇画堂」と号したが、    画は道楽に描き、法学を表芸(オモテゲイ)として判事になった。五代目菊五郎が『加賀鳶(カガトビ)』の狂言    に死神を出す時、緑芽の工夫した死神の画に依(ヨ)って扮装(フンソウ)を決めた事もあり、劇道には貢献し    た。    鳥居清忠(トリイキヨタダ)画伯は「二代目劇雅堂」と号し、商売人が素人(シロウト)の二代目を継いだのは面白い。    しかし松岡判事は素人(シロウト)ではなく立派な画伯であるが画家ぶらなかった。静岡地方裁判所に勤め同    地で終ったが、成人氏の画を見て「判事さんは立派な絵を描く」と驚嘆したそうな。東京では「画家が    判事になった」と噂していた〟     ☆ きよちか こばやし 小林 清親    ◯「臍」p82   〝『団珍(マルチン)』の挿絵を描いていた小林清親(キヨチカ)「後悔して臍(ホゾ)を噛(カ)んでいるところを描いて    下さい」と言われ、「困ったナ、ロクロ首だと楽に噛めるが」と考えた末、両手で臍(ヘソ)をグット引上げ    て噛む図を描き「飴(アメ)のような臍だ」と大笑いした〟    ◯「化按摩」p83   〝小林清親が京橋加賀町(カガチヨウ)にいた頃、何とかいう按摩(アンマ)が毎日のように出入していた。この盲人    は面白い男で、唄をうたうのみか踊りを得意にしているので、客が来て飲む時に座を持たせる事もあり、    就中(ナカンズク)新春(ハル)の書初(カキゾ)めの時などは、この按摩さん、盛んに余興の芸をやった。或年の試    筆の夜も、酔って頻(シキ)りに踊っていたが、     「先生、わたくしの顔に目を描いて下さい」と言うと清親は、     「宜(ヨ)し宜し、好男子(イイオトコ)にしてやろう」と胡粉(ゴフン)、緑青(ロクショウ)、朱の絵具皿(エノグザラ)を    引き寄せて、物凄(モノスゴ)い化物の顔にしてしまった。    これを見て一座の人々、ワッと笑い出し、手を叩いて囃(ハヤ)し立てると、当人は凄い顔になったとは思わ    ず「どうです、色男になりましたろう」と踊り狂っていたが、やがて帰る時分に顔を洗うのを忘れて表へ    出かけ、芸妓町へさしかかると、向うから来た雛妓(ハンギョク)がそれを見て「キャア」と叫んで逃げ出す、    怒り出す姐(ネエ)さんもあり、大騒ぎを演じた〟    ☆ たんけい いのうえ 井上 探景    ◯「六本指」p84   〝清親の門人に井上探景と言う青年があった。風景には天才の筆だと師も感じて探景の号を与えたが、他の    画はどうも粗忽(ソコツ)をして笑われる事があった。折角の人物の指を六本描いたり、または試筆に去年の    干支(エト)を描いたりした。或年浅草で湯に入っていたら火事だと言われ、狼狽(アワテ)て石鹸を顔一面に塗    ったまま衣服を着て帰宅して笑われた事もあり、時々滑稽(コツケイ)を演じていたが、風景は真面目(マジメ)に    好(ヨ)く描いた。惜しい哉(カナ)、若死をしたので世に知られずにしまった〟         ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯「喰わせ物」p240   〝或る家へ切れ切れになった古い絹を持って来た者がある。    「これは文晁(ブンチヨウ)の山水、大したものですが、去る所で御主人が浮気したのに奥さん大立腹(ダイリツプ    ク)で、御秘蔵の幅(フク)をこんなに切ってしまいました。それで五十円とは廉(ヤス)いでしょう、うまく継ぎ    合せれば役に立ちます」と言うに、経師屋(キョウジヤ)に命じ巧みに継合せて表装して五十円払い、百円散在    したが、鑑定家に見せると「真赤な贋物(ニセモノ)、十円でもいやだ」    ☆ べいせん くぼた 久保田 米僊    ◯「咄珍社」p99   〝京都に「咄珍社(トツチンシヤ)と言うノンキ連があった。世話人は錦隣子と言う画家と仙湖と言う銀行員、この    二人が先達(センダツ)になって五新堂と言う雅人も加わり年中気楽な遊びをしていたが、或時連中申し合せ    て喧嘩(ケンカ)付合いの担ぎ講と言う変わった約束をした。それはこの連中が往来で出会った時には必ず喧    嘩を始める事、そして人を集めて、宜(イ)い時分に双方踊り出して左右へ別れると言う事に決めた。    それからは京の町を歩くにも油断をしてはいられない。向こうから連中の一人が来ると、「ソラ来たぞ」    と身構えをしていると先方でも「いたナ」と睨(ニラ)みつけながらやって来る。わざと怖(コワ)い顔をした両    人が衝突して喧嘩を始める。「オヤ喧嘩だ」、「えらい喧嘩や」と通行人が駆寄(カケヨ)って見る見る人山    (ヒトヤマ)を築く騒ぎになると、もう此処(ココ)らで宜(ヨ)かろうと互(タガイ)に目の会図をして、突然「コラサ    ノサ」と踊り始めたので、見物は「オヤ」と目を光らせる中に両人は人の中を潜(クグ)って姿を隠してしま    い、定めの場所に落合って「アア面白かった」と手を拍(ウ)って笑う。それが一、二度はおもしろかったろ    うが、後には面白くなくなった。用達しの途中だから止(ヨ)せと手を振っても、合図は聞かずに喧嘩を売る    やら、意外の仲裁が飛び出して面倒になったり、一向面白くないので止(ヤ)めてしまい、今度は競馬の会と    言う珍妙な催しをして警察に睨まれ、果(ハテ)は雑俳専門の連中となって落着いた。    其処(ソコ)へ僕(著者鴬亭金升)が初めて京都見物に行って錦隣子、仙湖の両氏と懇意になり、祇園をぶら    ついたり、近江八景(オウミハツケイ)を巡(メグ)ったりしたが、関西で江戸の八笑人(ハツシヨウジン)、七偏人を明治の    世に真似(マネ)がのはこのトッチン社の連中であった。都々逸(ドドイツ)家の錦隣子とは世を忍ぶ狂号、実は    久保田米僊(クボタベイセン)画伯、仙湖氏は後に上京して雛人形の蒐集(シユウシユウ)に熱中し好古家として知られ、    西沢笛畝(ニシザワテキホ)画伯が二代を継いだ。米僊氏も米斎(ベイサイ)、金僊(キンセン)と言う立派な子息を残され    たが、東京へ移住してから晩年眼病を煩って失明の大厄に逢ったのは惜しい。一夜芝の桜田本郷町に氏を    訪(オトナ)い、祇園の話を始めると、氏は悄然として「人間の一番の楽しみは物を見る事であるとつくづく感    じます」と言われた時は胸迫って慰める言葉がなかった〟    ☆ ほうさい かさい 笠井 鳳斎    ◯「鳳斎」p84   〝大蘇芳年(タイソヨシトシ)の晩年の門弟に笠井鳳斎(カサイホウサイ)と言う青年があった。明治中期の頃、陸軍省に勤    務めて製図を熱心にやっていたが、傍(カタワ)ら芳年に就(ツイ)て人物を習い、密画を器用に書き、フトした    事から僕と知合いとなった。新聞の挿絵が描きたいと言うので、『改進新聞』の続き物を描くのに世話を    した。それが因(モト)で錦絵(ニシキエ)を引受け、勤めを止(ヤ)めて版画を専(モツパ)ら研究し、大正以後は肉    筆物の画家で売出したが、この人は粗忽(ソコツ)が何時(イツ)も話題に上り、そそっかしい先生だと笑われて    いたけれど、画は間違っていなかった。銀座の裏にいた時、先生がやって来て、帰りに挨拶して出て行く    と、程なく戻ってきて、格子をガラガラと開け、    「誠に相済みません。帽子を忘れました」と言って帽子を取ってまた叮嚀に挨拶して行ったと思ったらま    た引返して来た。    「包がありましたが、其処(ソコ)にありませんか」    「オヤオヤ包ですか。此処(ココ)にあります。お持ちなさい」    「どうも恐れ入りました。相愛らず忘れ物ばかりで恐縮します」    と頭を掻きながら出て行ったので、「よく忘れる人だナ」と噂をしていると、やがて莞爾々々(ニコニコ)しな    がら、また格子を開けたのに吃驚(ビックリ)した。    「笠井さん、まだ何か忘れ物がありますか。もう外(ホカ)には何も置いてありませんですよ」    「イエ、今度は品物ではありません。昨日清親先生の所へ伺いましたら、先生にお目にかかりたい用があ    ると仰(オ)っしやいましたので、明日伺いますからお伝えして置きますと申しました」    「アアそうですか。それは済みませんでした。さようなら」    「ハハハハ、今度は伝言を忘れたのだ」と大笑いをしたが、それにしても三度目にわざわざ引返して来る    のは、正直な人でなければ出来ぬ事である。三度目になっては止(ヤ)めようと言う気になるべき処を、言    いに来るところが可(イ)いと感心した。けれど或時は感心しない祖忽をやった事がある。      神田の東陽堂へ紹介して、『風俗画報』の画を描かせる事になり、駿河台の本宅へ同道した。主人は来客    だから待っていてくれと言って、奥の茶室へ通してくれたので、僕は床(トコ)の幅(フク)や釜(カマ)を見てい    ると、鳳斎は炉の傍に坐って巻烟草(マキタバコ)を吸っているので、    「鳳斎さん、その炉の中へ吸殻を入れちゃア下可(イケ)ませんよ。紙に包んでお持ちなさい」    「ハア、畏(カシコ)まりました」    と言っている中(ウチ)に女中が来て主人が逢うと言うので、僕は鳳斎を残して居間へ行った。話を済まして    今度は主人と共に茶室へ出て来て鳳斎先生に引合せた。いろいろ画の話をしている中に、何となく木の焦    げるような匂いがする。変だナと思って炉を見ると巻烟草が炉の縁に乗っていて、プスプスいぶっている    のに驚き、鳳斎の膝を突いて知らせると、先生気がつき、ハッとビックリした様子で巻烟草の火を消した    が、立派な紫の縁は真黒に焦げてしまったので、    「これはこれは、イヤこれは飛んだ粗相をしました」    と唾をつけて指で擦(コス)り出したけれど、焦げた穴はどうにもならない、主人は苦い顔をして見ているの    で、僕も閉口してしまった。      或時新橋近くの洋傘店(カサヤ)へ行き、帰る時に傍にあった傘を持って出て行くと、後から追いかけて来た    男が先生の手を掴(ツカ)んで、    「オイ、僕の傘を何で持ってゆくか」    と怒鳴ったので、よく見れば自分の傘でないのにビックリして、    「これは失礼した。決して盗んだのではありません。私の傘だと思って間違えました。御免下さい」    と詫びて傘を返し、それから引返して傘屋へ行ってみると、    「先生は何も御持ちになりませんでしたぜ」    と言われて考えて見ると、自分の傘は家に忘れて来たのであった。    こんな失策は始終繰返していたけれど、「泥棒と思われた時には、実に赤面しました」と先生度々この事    を話していたから、よほど弱ったらしい。    無邪気で慾(ヨク)のない好人物であったけれど、時世に伴(ツ)れぬ画風は終(ツイ)に振わず、昭和の初めに淋    (サビ)しい絶筆を残したが、地獄の絵葉書と肉筆の美人画に緻密な佳作もあった〟       以上『明治のおもかげ』2007.5.2 収録