Top            浮世絵文献資料館       その他(明治以降の浮世絵記事)                   市島春城の浮世絵記事
   出典:『芸苑一夕話』上下巻 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊      :『春城随筆』  早稲田大学出版部 大正十五年(1926)十二月刊      :『春城筆語』  早稲田大学出版部 昭和三年(1928)十二月刊)      :『春城漫筆』  早稲田大学出版部 昭和四年(1929)十二月刊      :『小精廬雑筆』 ブツクドム社   昭和八年(1933)十一月刊      :『春城代酔録』 中央公論社    昭和八年(1933)十二月刊      :『春城談叢』  千歳書房     昭和十七年(1942)八月刊      (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は原文ルビ 全角カッコ( )は原文の注記
 ◯『芸苑一夕話』上巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   ◇六 長谷川雪旦(60/253コマ)     江戸名所図会と渠(かれ)〈「彼」と同義〉     曲亭馬琴が、北斎も及ばずと、其の画を褒めた長谷川雪旦『江戸名所図会』の挿絵を書いて、世に    珍重されるに至つた。     『江戸名所図会』の珍とすべきは、其の記事にありと云はんよりは、寧ろ其の挿画にあるは言ふ迄も    ない。今日の人が、此の徳川期の江戸繁昌の有様を、目のあたり見るごとき心地を起し、大に興味を感    ずるは勿論、江戸時代に於ても、都会に出ることの出来ないものは、皆此書を繙き、江戸の光景を味は    ひ、其の臥遊に供した者で、江戸に出て国へ戻る時には、必ず土産に此の書一部を購うて持帰つたもの    だ。若(も)し此の書に挿絵が無かつたならば、殊に雪旦の画の如き、趣味ある写真の細画が無かつたな    らば、此の書も決して都鄙に広まらなかつたであらう。     『江戸名所図会』二十冊は、なか/\難儀した歴史を持つて居る。此の書の編者は、神田雉子町の名    主斎藤市左衛門が、完成の頃思ひ立つて筆を執り初めたのがそも/\の初まりで、秋里籬島の『都名所    図会』に倣つたものである。此の人は諱(いみな)を幸雄と云ひ、松濤軒とも云ひ、長秋とも云うた。相    当に学問のある人であつた。然るに、其の功を果さず世を去つたので、其の子幸孝(縣麿)が親の志を    紹(つ)ぎ、編輯十数年に及んだが、これも全部脱稿に至らぬ内に歿したので、其の子幸成(月岑と号す)    が又其の志を続(つ)ぎ、終に大成して版に上すまでに至つた。即ち斎藤家三代、約四十余年の苦心を積    むで、漸く成つたのが此の名所図会である。     冠山松平定常公が、此の書の巻首に序文を書いて居る。夫れを見ると、此の書のおそく世に出でたる    を慨嘆し、若し此の書が早く世にあらはれたならば、必ず洛陽の紙価を貴からしめたであろうに、余り    に年数を経たから、その内に秋里の『都名所図会拾遺』や、大和、河内、和泉、摂津等の名所図会が続    出して、大に期を愆(あや)まり、時を失した憾みがあると云うて居る。如何にも侯は急所を道破して居    らるゝが、併し、亦一面から考へると、晩(おそ)く出たのが本書の幸ひであつたかも知れぬと云ふもの    だ。若し此の編輯を企てた月岑の祖父の時代に成つたとしたならば、設令(たとひ)挿絵があつても、雪    旦の如き名画を闕(か)いたであらう。記事の如きも乾燥無味の、所謂昔風の名所記で終つたかも知れぬ。     冠山侯は、古来名所と云ふものゝ、徒(いたづ)らに形式に流れて、動(やや)もすれば主客顛倒の弊あ    ることを論じて居る。曰く、そも/\名所の称は、元(もと)和歌者流より出で、古歌にある地名でなけ    ば、設令山秀水麗の、吟詠に足る者ありとも、其の所を称して名所と呼ばぬ習慣となつて居る。秋里の    選むだ図会の如きは、正しく此の弊に陥つたものだ。云ふまでもなく名は客で、実は主である。実質に    於て名所とするに足るものあらば、之を名所と云ふに何の差支かあらう。そも/\武蔵野の広き、江戸    の繁栄なる、古歌に詠ぜられた所は少なしとは云へ、其の実に於て名所と為すべきものは、実に少なく    無いと、名所の真意義をよく道破して居るが、『江戸名所図会』の、他の類書に優る所以は、全く侯の    指導に基づき、編者が奮つて慣例を破り、和歌などに泥(なづ)まず、自由に勝区を撰むだからである。     全体、名所図会が、昔の名所記に較べて著しく異なる点は、実用の外に趣味を加へた所にあるのだ。    昔の名所記は、地名の考証沿革などに重きを置き、甚だ無味乾燥のものであるが、これは地名の考証の    外(ほか)に、其の土地に関係ある詩や歌や俳諧や、或ひは其の地の巨人の事跡や、風俗その他に至るま    で、凡そ趣味を感ぜしむるものは、皆取り込むであるのみならず、図を挿むで、文字の及ばぬ所を補う    て居る。これが名所図会の特徴と云ふべきものである。然るに、此の特徴を、図の方面に於て幾(ほと    ん)ど極度まで発揮したものは『江戸名所図会』であらう。     既に冠山侯の所説と引いて云うた通り、名所選択の形式を打破し、苟(いやしく)も実質の於て美とし    勝とすべき名区は、皆採ることになつたから、千紫万紅、絢爛眼を眩ずる様な名所図会が出来たのであ    るが、さて雪旦の趣味ある細筆の、之を助けるものが無かつたならば、『江戸名所図会』も、類書の冠    冕(くわんべん)がる名誉を博し得なかつたかも知れぬ。〈「冠冕がる」は第一位のようにみなすこと〉     『江戸名所図会』は何人も見て居るであらうから、委しく云ふは野暮であるが、実に挿絵の豊富なも    ので、其の図が如何にも深切に精細に出来て居る。其の写実の妙は、今日の写真と雖も及ばぬ所があり、    すべて活きて居り、且つ趣味がある。試みに、其の首巻を開いて日本橋魚市の雑沓の状を見よ。又十軒    店雛市の光景を見よ。誰か入念の深く且つ厚きに驚かざるものぞ。曲亭馬琴は、其の随筆『異聞雑稿』    に左の如く評してゐる。     江戸名所図会は、その功、編者は四分にして、其の妙は画にあり。遠境の婦女子の、大江戸の地を踏     むに由なきには、これにます玩物あるべからず。(中略)画図なくば、増補改正江戸志あれば、読書     の人には珍(めづら)げなからんを、幸ひにしてこの自妙の画あり。臥遊の為、いと/\宜(よろ)し。     この画工雪旦は余も一面識あれども、かゝる細画はいまだ観ざりき。縦令(たとひ)北斎に書かすとも、     この右に出ることなかるべし。          これは、曲亭馬琴が本書二十冊の内十冊出た時の評であるが、馬琴は、本書の編制や地名の考証等に、    種々誤謬を摘出して居るけれども、図画に対しては、満腹の賞讃を与へて居る。雪旦の此の書に対する    功は、斎藤家三代四十余年の功に較べて、優るとも劣ることは無い。     江戸時代に、幾百軒の貸本屋は、必ず此の書を備へたもので、冷熱なく観客が借覧したものは、『八    犬伝』にあらざれば『江戸名所図会』であつた。さて、何の為に新しく流行つたかと云ふに、其の図画    に趣味があつたからである。今日存して居る幾百の此の書が皆垢染みて居るのは、万人の手に触れた記    念であることは云ふまでもない。さて此の名誉ある画家は、此の書の巻尾に僅かに名を刻されて居るが、    誰の序文にも、跋文にも、一言此の画家に及んでおらぬ。実は当時、此の種の画家を尊敬しなかつたの    も無理はないが、今日はその真価を認め、元来文字に対して従たる関係である挿絵が、其の位置を顛倒    することになつた。例へば、昔し狂歌師や俳人などが、愚にもつかぬ狂歌や俳諧を版に上(のぼ)すに方    (あた)り、愛敬にとて書かせた画などの内に、歌麿や祐信の様な名手の画が挿さむである為に、今は其    の書が一冊幾十百円の価を有(も)つに至り、若し此の文字無からしめば、更に可(か)ならんになど、文    字を邪魔がる様にもなつた。『江戸名所図会』の如きも又其一例である。     『江戸名所図会』二十冊の挿画は、幾枚あるか知らぬが、多分此の書全部の五分の一、即ち冊に引直    すと、四冊ほどは絵であらう。さて此の絵は一枚と雖も机上の空想で書ける者でなく、一たび其の境を    訪うて「スケツチ」を執らねば、写実でならぬものであるから、雪旦は、江戸中の市街は勿論、名所と    し云ふものは、寺でも、神社でも、行かぬ所なく、終に郊外にまで踏み出して、足跡、武蔵の全土に遍    く及んで居る。その探討の場合には月岑が連れ立ち、此処(ここ)彼処(かしこ)と差図をしたり、図案に    就いても、いろいろの註文した。月岑自筆の日記が多く存して居るが、此の人の足跡も、幾(ほとん)ど    江戸の隅から隅に及んで居つて、日々の記事は、寺社其の他探討記である。月岑が晩年相当の画家とな    ることの出来たのも、雪旦に負ふ所が少なく無かつたのだ。     さて此の挿絵全部は、幾年を経て成就したか、委しく分らんが、恐らく一生の三分の一位は、これに    打込んだものであろう。雪旦の労も、大なりと謂はざるを得ぬ。これに対し、どれほどの謝金を得たか    と云ふと、いつぞや聞いて驚いたのは、其の報酬の如何にも少ないことであつた。今はよくも記憶して    居らぬが、先づ今日未熟の青年画家が、雑誌の挿絵を書いて受取る画料よりも遙かに少なく、おまけに    各所へ出掛ける旅費も、其の少ない料金の内から弁ぜざるを得無かつた。雪旦が赤貧洗ふが如き境遇で    一生を終つたのも不思議はない     渠(かれ)の凝り性     雪旦の経歴や為人(ひととなり)は委しくわからぬ。故人香雪前田翁が和泉橋通り徒士(かち)町二丁目    に住居した頃は、雪旦は其の筋向ひ東側に住み、香雪の先代夏蔭翁存命の折も、其の後も、往来したと    云うて、其の随筆に一二の逸事を語つて居る。その謂ふ所から想像して見ると、雪旦は近眼で、風采の    揚がらぬ人で、好む道には、利益をも抛擲して顧みなかつたと云ふから、名所図会の挿絵の如きも、欲    徳で書いたものでなく、感興が乗つて一生懸命に筆を揮つたものに違ひない。彼れの凝り性に就いて、    囲碁に関する逸事が伝はつて居る。     雪旦は非常の碁好きで、碁を打ち始めると、寝食を忘れて夢中になる。その癖、余り上手では無かつ    た。所謂下手の何好きとやらの組で、相手さへあれば、画筆を抛(なげう)つて、いつまでの打つ。画を    依頼するため人が訪ねて来る。偶々対局中であると、容赦なく誰彼の別なく断る。断るもよいが、我を    忘れて大声に留守だ/\と云ふから、戸外へそれが漏れて来客の気受けを害し、毎度家族が迷惑した。    又人の家を訪ねて打つとなると、人の迷惑は一向構はず、徹夜でも構はぬ熱心家であるから、随分人を    困らせた。香雪翁の祖父知雄といふ人は、なか/\上乗の碁打であつたので、雪旦稽古と云うて度々押    しかけて、時間構はず長座をするので、いつも迷惑がられたとは、香雪翁の自ら云ふ所である。     こんな調子では、家計などはどうでもよい主義で、気が向かなければ筆も取らなかつたらう。彼の貧    乏の原因も察せられる。彼が『江戸名所図会』の挿画の様なものを担当したのは、必ず自分が感興があ    つたからであらう。こんな性格の人であるから、随分「スケツチ」を取る為にあちらこちらを歩き廻り、    興に乗じて余計な散財なしたこともあるに相違ない。そして失敗したり、滑稽を演じたり、人の誤解を    招いたりしたこともあるであらう。     泥坊と間違はる     雪旦が『江戸名所図会』の画材を採集のため歩き廻る折、ふとしたことから盗賊の嫌疑を受けた。こ    れが芸苑に隠れもない話しとなつて居る。併し、似寄りの事が画家には随分あるから、事実どうかと思    つて居つたが、前川香雪翁の父夏蔭は、現に此事に与(あづか)つたと云ふ事で、香雪翁の随筆に委しく    載つて居るから、事実は確かである。但し前田の家で此の画家の冤を雪(すゝ)ぐに種々苦心したことな    どは、世間では知らぬことであるから、翁の「後素談叢」から、此の事に関する一節を、原文の侭(まま)    左に抄録する事にする。          雪旦は、毎月三四回位、その写すべき方角へ筇(つえ)を曳き、寺社、或ひは農家、商家といはず、図     どりをなすに都合よき所にいこひて、下図を作るを常とせしが、思ひかけず、窃盗の嫌疑をうけたる     一奇談あり。聖堂より湯島円満寺辺をうつしに出たる日、疲れて水道橋際の守山といへる鰻店に入り     て独酌し、御茶の水の景色をおもしろしと思ひ、立ちつ居(ゐ)つ見廻したりしに、漸く暮近くなりし     かば、盃をさめ飯を喫して帰りしに、其の夜崖下のかたより窃盗忍び入りて、金銭、衣服など、少な     からぬ物を盗み去られぬ。此の由、その筋へ訴へ出しとき、出入の者、又は来客などに、怪しと思ふ     心当りはなきやとの尋問ありしとき、此の夕刻、年五十余の坊主の、僧とも医者とも又俳諧師などと     もみえぬが来りて、あたりを隅なく見廻り、何やらむ手帳のやうのものにかきとめ帰りたるが、いか     にも迂散(うさん)に思はれし由、給仕の下婢(かひ)の告げたるが、若し其の夜忍び入らむ為に、足場     など細かに見て、かきとめ帰りしにはあらざるか。其の夜この盗難ありしなれば、旁々(かたがた)不     審に存する由、申し立しかば、其の人相、衣類などまで委細に聞きとられしは、町奉行支配同心及び     其の手先の者なりし。然るに、雪旦は、近眼といひ、人相もなみに変りし醜面なれば、忽ちにしか/\     の所に住める画工とは突き留めたれども、只かばかりの嫌疑にて直ちに引上げることもならざれば、     如何にせむと、手先ども案じ煩ひしが、我家(前田の家)には、門人の出入りも多くあり、特にかの     画工も折々は立入る様子なりとの事を探知せし故、或る夜窃(ひそか)に来りて、己が父(夏蔭)に面     会を乞ひ、内々其の人となりを告げられたしとの事に、かゝる疑ひの掛りし者とは知らず、平常の有     様を語り、一体町方は誰の手にて探りに来りしか。我が門人には安堂、蜂谷、中村など、与力にも三     人あり、同心にも秋山など、知己のあるに、さる人より尋ねる事あらば尋ねらるべきに、足下(そつ     か)等(ら)が直ちに内(ない)聞きに来ること心得難しと語りしに、其の手先は大いに麁忽をわび、急     ぎ帰りしが、当時の与力の権勢は強大なりしこと知られて、翌朝早く安藤源之進といふがたづね来り、     全く不心得の者、率爾(そつじ)に罷(まか)り出で、御尋問申したる失敬の段、何とも申し謝すべき処     なし。愚父(源之進の養父は安藤小左衛門といへる有名なる与力なり)がお詫に罷り出づべけれど、     先とりあへず、私が参上せりと詫び入りしに、父(夏蔭)も、さばかり立腹したるわけにもあらず、     殊に此の源之進は門人にてありし故、よきほどに応答したり。          雪旦が窃盗の嫌疑を受け、前田香雪の家が同人を知る関係から、探偵吏より尋問を受けた次第、並び    に香雪翁の父夏蔭翁が、尋問に対し率爾の無礼を咎め、時の警察も非を悟つて、失礼を謝した仕末は、    右の通りであるが、尚香雪翁は、謝罪かた/\来た、与力の子で前田の門下生である安藤に応答の模様    を、左の如く語つて居る。     全体、雪旦の人物行為など取り糺さるゝは、いかなる必要あるにや。彼れは我亡父の時代より出入し     て、其の性行はよく知れるが、決して不良の所為あるものとは思はれず。併し、わが保証するを待た     ず、御支配下なる神田雉子町の里正斎藤市左衛門(江戸名所図会の編者)は、とく知り居る筈なり。     かれには、江戸名所図会の真図を写すことを頼まれ居るよし、本人より聞ける事あれば、同人を糺さ     れなば能く知らるべし。さるにても、かく取り調べらるゝは何故ぞと、押返して問へば、実はかう/\     しかじかなりとて、水道橋の守山よりの訴へに起因することを物語りしにて、初めてそれとは知られ     しとぞ。     香雪が、其の父翁(ふおう)より聞くが侭(まま)の記事は右の如くで、雪旦は勿論逮捕を免れたが、彼    れの態度や性癖は、ともすれば、斯かる誤解を生じかねなかつたと見えて、香雪翁は更に左の如く語つ    て居る。     近眼の癖とて、目をとゞむべきほどの物ならぬをも、打返しくりかへし見る癖あるゆゑ、毎度父は、     戯れに、雪旦さん、そのやうに見ると、又泥坊の疑ひを受けますぞ、といひては笑ひしとぞ     此の記事を見ると、雪旦の面目躍如たるの思ひがある。芸術家には、兎角(とかく)此の様な意外の事    のあるものだ。     序(ついで)に云ふが、雪旦の嫌疑を受けた守山と云ふ鰻店は、維新後まで存して居(を)つたが、今は    無い。此の家はお茶の水の懸崖に掛出した面白い家で、仰いでは富嶽を望み、俯しては茶渓を瞰(み)る    と云ふ風流の構(かまへ)であつた。なぜに此家一軒ぽつつりこゝに在つたかと云ふに、水道番と云ふ名    義で許されたのである。丁度此の鰻屋のあたりに水道の樋の枡があつて、此の鰻屋は此の水で鰻を養ふ    から美味(うまい)と評判され、当時繁昌したものだ。     雪旦は江戸の人で、名は宗秀、巌岳斎、一陽庵などと号し、法橋に叙せられた。天保十四年、六十六    で歿した。其の子は雪堤と云ひ、巌松斎宗一と称した。やはり画をかいたが、親には遠く及ばなかつた。    併し、雪旦の名が『江戸名所図会』で喧伝したため、其の余沢で、贔屓にする人が市中に多くあつた中    に、新川新堀辺の酒問屋に引き立てられた。此の人は父雪旦と大分性格が変つて、小心家で節倹を旨と    したから、雪旦の時代は、家政が常に困窮であつたか、息子の時代には、却つて家道が豊であつたと云    はれる〟   ◇二五 松浦武四郎(170/253コマ)     暁斎(げうさい)差入の一札     彼れ(松浦武四郎)は、自らも画をよくしたから、近世の画家河鍋暁斎、田崎草雲などゝは懇意の中で    あつた。其の関係からでもあらう。草雲の如きは、身、蝦夷地を踏んだ事もないのに、蝦夷地の風景を    画いて居(ゐ)るものが少くない。多分、松浦の蝦夷地の「スケッチ」を粉本にしたものであらう。又武    四郎は、暁斎の画を喜んだと見える。彼れの家には、暁斎の大画が蔵されて居た。其の事は後に語るが、    こゝに一事の語るべきことがある。暁斎は大の飲抜(のみぬけ)で、どんな拠(よん)どころ無い筋から頼    まれた画でも、酒ばかり飲んで、すつぱかして了(しま)ふが例であつた。松浦はそれを知つて居るから、    或時、天満宮へ納める大きな絵馬額を暁斎に注文するに方(あた)り、例の違約を気遣ひ、ぎり/\決着    の証文を書かせた。その証文が、今自分の所蔵になつて居る     貴殿事、天満宮廿五拝え、各々私の揮毫仕候額面御奉納之由にて被仰付、難有存候。然る処若し出     来不申候はゞ、町絵師共え被仰付、私名前を書入被成候由、左様有之候共、一切申分仕間敷候也。     依ては右額面小形二円、中形三円、太宰府北野両社の大額は廿五円づゝ被下約にて、昨年より認め     来り候涅槃像も、落成後は兆殿司羅漢、元信寿老、並に信実歌仙、師宣屏風等被下候由、実に難有     仕合に奉存候。依ては月に両度づゝ必ず参上、額は小二枚、中一枚、相認め可申事、実正也。もし     違約致候はゞ、私名前にて、如何様凡絵師に被仰付、奉納被成候も、申分仕まじく候。涅槃像出来     不仕候節は、兆殿司、元信、返納可仕候。為後証、差入置一札、如件       明治十七年十二月十二日                             湯島四丁目二十二番地 河鍋暁斎           松浦武四郎殿     大酒飲の大づぼらなる暁斎に、二十幾枚の額を書かせるに、武四郎が如何に苦心したかは、斯(かゝ)    る厳重なる証文を取つたによつても察せられる。武四郎は、万一の為に若(も)し約束の期を過ぎて出    来ぬ場合は、凡庸絵師に書かせて、お前の名を署するが、それでよいかとまで念を押して居る。画家は、    己(おの)が名誉のため、拙手に代筆され、それに自分の落款を据ゑさせられる程、つらいことは無い。    武四郎は其の急所にまで触れて約束をして居(を)るが、暁斎は、果して約を履(ふ)むかどうか。此の    証文に拠ると、必ず月二回、松浦方に行き、筆を執らねばならぬことになつて居る。づぼらの暁斎に取    つては、随分難儀なことであつたらうが、涅槃の像が現に出来て居る所から推すると、天満宮奉納の額    も、二十数枚成功したらしく思はれる。それは何れにしても、武四郎より贈与の約束になつて居る信実、    兆殿司、元信等の画は、何れも幾千円の価(あたひ)のあるものだ。当時と雖も貴重の者であつたのに、    武四郎が謝礼に是れ程のものを惜気もなく与へる約束をしたのは、実にその大胆なるに驚かざるを得ぬ。    さて、是等の名画を謝礼に与へて書かせた涅槃像は、暁斎一代の傑作と云ふべきものである。次に之を    語らう        会者定離に泣く骨董に囲繞された渠(かれ)の涅槃像     武四郎は、多方面の趣味を有した好事家であつただけ、其の所蔵品は、皆ひねつた珍物のみで、一品    たりとも、人を驚かさぬはなかつた。さて彼れは、此等(これら)の珍玩を愛惜する余り、例の武四郎式    の一案を得た。それが暁斎に頼むだ涅槃像である。此の涅槃像だけは、徳川侯に帰せず、今尚松浦家の    宝物となつて、大切に保管されて居るが、頗る大幅である。     此の涅槃像は、釈尊に擬へた武四郎入寂の図である。高床に安臥して居る死骸に、細君が取附いて泣    いて居る外(ほか)、人間も動物も居らぬ代はりに、種々の骨董が雑然として床下に集まつて泣いて居る。    此の骨董の内には、茶器もあれば珠玉もあり、文房具もあれば書画もある。皆武四郎の愛翫措かざる所    のものであつて、斯様(かやう)なものを、愁ひ悲しむ如き姿に書くと云ふは、極めて困難の事であるの    を、流石(さすが)は暁斎で、皆何となく泣いて居るらしく見せて居るのは珍である。武四郎が、価高き    名画を謝物としたのも無理は無い。実は、こんな絵は、並大抵の絵師で出来るものではない。   ◇四七 蹄斎北馬(219/253コマ)     右手(めて)は北斎のため左手(ゆんで)は文晁の為に     『三国妖婦伝』や『自来也物語』などの挿絵で、多くの人に知られて居(を)る、浮世絵師北馬は、葛    飾北斎の門人で、北に自を名につけて居るのも、其の系統を現して居るのである。     此人は、通称を有坂五郎八ご云うて、幕府の小使であつた。文字もあり、画もかける所から、弟に家    を譲つて早く隠居の身分となり、好む道に志した。家が非常に貧乏であつたので、糊口のためにも絵筆    を執らざるを得無かつた。     当時は北斎の全盛時代であつて、終に其の門に入ることになつたが、元来天稟に画才があつて、ひど    く北斎に喜ばれ、北斎が輪郭を作つて下図を授けると、それに潤飾を加へて、立派に書き上げた。殊に    繊細な衣服の模様などを書くには、頗る上手であつた。北斎が書いた絵に北馬の助筆の加はり居るもの    は、どの位あるか、数知れぬほど沢山ある。又代筆も多くあるに相違ない。     此の人は器用な性質で、左の手でも画を自在に書き、書画会の席などに、左手の画を作つて、毎度人    の喝采を博した。此の左利きにつき、おもしろい話が伝はつて居る。     谷文晁、ある時此の人の絵を見て、其の画才に感じ、これほどの力あるものが、浮世絵の補助などし    てして居るは惜しいものであると、北馬に向つて此の事を言ひ出し、俺(わし)の処へ来て助手をやつて    はどうか。君は必ず後に一廉の画家になるに違ひないがと勧めた。     北馬は此の勧めを聞いて、云ふには、誠に御厚意は有り難い。実は家道の不如意である所から、銭を    得ることが急で、薄志弱行とは思ひながら、北斎の下職になつたのであるが、今更北斎の門を辞するこ    との出来かねる。併し、折角の御厚意もあれば、自分に叶うふことなら、先生の補助を致しませう。な    になりと御申付を蒙りたい。御指図に従ひ、拙筆を揮ひませうと答へた。文晁此の一諾を得て大いに喜    び、己が住まへる下谷二長町の宅付近に家を捜して、之を引移らしめ、種々指図をして、緻密なる着色    或ひは衣服装束などの模様を書かせて見ると、よく文晁の呼吸を呑込み、其の筆意を会得して、痒い所    へ手が届く様に、うまく書くので、文晁も、よい助手を得たと悦んだ。     或る時文晁、諸侯の席画に招かれ、帰路出しぬけに北馬を訪ひ、案内も請けず、づかづかと其の室へ    通つて見ると、北馬は、しきりに文晁より依頼の画に模様を画いて居る。文晁之を傍観し、忽ち気がつ    いて驚いたのは、左手を以て筆を遣つて居ることであつた。文晁、北馬に向ひ、君は右の手が利かぬの    あるかと問うたら、北馬は漸く筆を収め、妙な所を御覧に成りました。斯(か)く露顕に及ぶ上は、包ま    むやうもありません。実は、北斎の門に入つて北馬の号をも貰ひ、又その補助をなして、活計の幾分を    たすけられてゐる恩誼もあれば、之を棄てるわけにまゐりません。さりとて折角先生のお見出しに預つ    た恩誼も、大切に思はねばなりませんので、右手は北斎のため、左手は先生のためにせんと、試みに左    手を遣つて見ますと、格別右手と相違もありませんから、恩誼を混ぜぬ様、先生の為にい左手に筆を執    つて居りますと、意外の説明に、文晁更に、其の義理堅きと、左手運筆の縦横なるに感服し、今までは    左手の作とも心づかずありしが、如何にも熟練されたものだ。爾後も決して遠慮に及び申さず。自分よ    り依頼の分は、左手にて差支へなしと許した。乃ち北馬のひだり利の由来は、斯くの通りである。     北馬は、文晁より三年後れて、弘化元年の八月、七十四歳で没した。   ◇四八 葛飾応為(221/253コマ)     女僊志願の閨秀画家     葛飾北斎の三女を阿栄(おえい)と云うた。北斎の晩年、左右ひ居つたものは、此の女子のみである。    阿栄は親に習うて画を善くした。殊に美人画に妙を得た。北斎も常に美人画は娘に及ばぬと云うたと伝    へられる。阿栄は、父の傍らに在つて其の業を助けたが、後には己が名で絵入本などを書くに至つた。    現に版本になつてゐる高井蘭山の『女重宝記』の挿絵は阿栄の筆に成り、能く当時の風俗を写して居る。    阿栄、一旦南沢等明と云ふに嫁したが、離縁となつた。此の等明は水油屋の長男で、等琳に画を学むだ    が、実は妻の阿栄よりも技が拙であつた。阿栄は北斎の性質を受け、頗る勝気の女で、良人(おつと)な    ればとて負けて居らず、常にその画を批評して、忌憚なく拙なる処を指摘し、兎角折合よからず、終に    破鏡となつた。阿栄、それより人に嫁せず、応為と名乗つて、父の補筆など遣つて、傍ら台所を司(つ    かさど)つた。此の応為と云ふ名の由来は、父が娘を呼ぶに「オーヰ」と云ふのが常であつたので、そ    れが名となつたと云うて居る。     阿栄の性質は父によく似て覇気あり、すべての挙行は男子的で、小節に拘らず、任侠を好み、清貧に    安んじて、衣服などの好みなく、常に麁服を着(つ)けて一向頓着しなかつた。元来、面貌醜い方で、腮    はひどく突出して居つたので、父は「アゴ/\」と呼むだ。     此の女に畸行多く、画を作る傍ら、人相卜(うらなひ)を習ひ、晩には仏門に入り、誦念を事とした。    併し、最も奇なるは、女僊たらんの冀望を抱き、或る人に図つたら、茯苓を呑めば、僊人になれると聞    き、それから此の草を呑み始めたなどは、奇と云はねばならむ。     斯様(かやう)に変つて居(を)つたが、父には孝養を怠らず、品行も甚だよかつた。尤も、男の様に何    でも構はぬ流儀で、台所に立働くのが面倒とあつて、煮売屋より、煮豆の様なものを竹の皮に包んで購    ひ来り、三食とも済ますのが常で、阿栄の座辺には、いつも竹の皮が累々として散り乱れて居つたと云    ふ。北斎没して後は家を去り、門人や知人の家に寄宿し、六十六に死したと云ふが、死所は判然しない。   ◇六二 菱川師宣(248/253コマ)     例の粗相が     浮世絵師菱川師宣は、晩年、その家に年若い僕を置いた。これが性来粗忽もので、往々事を誤つて主    人に迷惑をかけ、或ひは遣り損なひが滑稽で、人を笑はせたりすることが度々あつた。     ある年の中元の夕がた、恒例により、僕に言ひつけて、門口に迎へ火を焚かせた。すると、間もなく    あわたゞしく走込むで来て、精霊様がお出になりましたと云ふ。師宣は笑ひながら、又例のそゝかし屋、    何を言ふことだ。精霊様が来るものか。驚くもので無いと制するを、僕は、いや全くお出になりました。    白の衣服を着け、自らは精霊軒幽霊なりと名乗られましたと云ふに、師宣も軒号のある幽霊は珍しいと、    門口に出て見れば、平素懇意の俳友高井立志が子の松葉軒立栄が、白地の浴衣を着て尋ねて来たので、    僕は、其の名の音がよく似て居るので、間違つたと知れ、師宣も吹き出して、一首の狂歌を詠じた。     何といふれい(例)の粗相が又いでゝしやう(性)れうけん(了簡)のなきうつけ者〟      ◯『芸苑一夕話』下巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   ◇四六 一陽斎豊国(118/236コマ)     渡世の筆と感激の筆     文政天保から安政にかけて、盛んに錦絵双紙を書いたので、世に知られた、二(ママ)代目一陽斎豊国と    いふ浮世絵師が、曾て江戸の蔵前なる札差某の隠居から、其の肖像を描くやう依頼を受けたことがある。    処が容易に筆を執らぬので、隠居は、やきもきして、頻りに催促してゐたが、漸く三年ばかり経つて、    其の絵が出来た。そこで、先方へ通知してやると、隠居は、使つてゐる一人の小僧を請取りに遣つた。    小僧は、軈(やが)て豊国から渡された隠居の肖像を請取つて、暫しは無言で、つく/\それを見詰めて    ゐたが、「あゝ、よく肖(に)た」と覚えず叫んで、頗る感に打たれたらしい様子であつたが、果ては、    不思議にも、ほろ/\と涙を零(こぼ)した。     之を見てゐた豊国は、なぜ泣くのかと、不審の余り、件の丁稚小僧に向つて其の訳を問うて見た。処    が其の少年の曰く、私の田舎に居る年老いた父の像も、斯様(かやう)に書いて貰つたら、常に遇ひたい    と思ふ時、それを見ては、恰(あたか)も膝元に居るやうな心持がするであらうに、それも叶はぬと思う    たので、つい、涙を流しましたと答へるを聞くや、豊国は深く感じて「お前の父は遠国にゐる人だから、    其の顔を写すことは出来ないが、其の代りに、自分は今直ぐ、お前の顔を写してやらう。それを国へ送    つてやつたら、お前が遇ひたいと思ふ以上に、お前を見たがつてゐる老いたる父が、さぞ喜ぶであらう    から」と即座に筆を執つて、見る/\少年の面影を、婉然(さながら)、生けるが如くに写し、彩色まで    も加へて与へた。     小僧は非常に喜んで、帰つて之を主人の隠居に出して示した。併し、隠居は甚だ不機嫌で、其の後、    飄然(へうぜん)と豊国がやつて来た時、隠居は散々苦情を言つた。「小僧の為にはすぐ目の前で書いて    やりながら、自分のものは、なぜ早く書上げてはくれなかつた。三年越しも待たせるとは酷い」と、皮    肉や愚痴を連発した。     其の時、豊国は厳然として隠居に言うた。「凡そ肖像といふものは、学問があるとか、徳があるとか    いふ人の面影を描くもので、貴下の如きは、失礼ながら別に学問があるでもなく、又徳があるでもない。    只の金持の老人だといふのみでは、どうも其の姿を書く気になれぬ。自分は、絵によつて渡世する身で    あるから、客の注文に応じて是非なく書くが、実は中心から好んでする訳ではない。然るに、御宅のあ    の小僧は、幼少ながら孝子であるから、肖像を書く値打も興味も出て来たのである。あの様な親孝行者    ならば、本人から乞はれずとも、自分は進んで書いてやりたい」と、滔々として説き立てたので、隠居    は一言もなかつたといふ。浮世絵師でも、名流になれば、流石、何処かに見識のある所が嬉しい。   ◇四七 葛飾北斎(119/236コマ)     渠(かれ)の大宣伝     葛飾北斎が、文化十四年十月、名古屋本願寺の別院に於て、百二十畳敷の半身の達磨を書いた話は、    彼れが一代の歴史を飾る一大事件とも云へる。     此の大画は、今尚別院に保存されて居るが、余りに大きい為に出し入れが厄介で、人の見る機会が幾    (ほと)んど無い。之は北斎の大作として有名である計りでなく、恐らく是程の大画は、何人の作にも無    からうと思はれる。全体、畳百二十枚と云ふ大きさは、縦幅十間、横幅六間に当るもので、誰にも大き    いと云ふ概念は起るが、はつきり、どれほど大きいと云ふことは、像の各部の寸尺を知らねば見当がつ    かぬ。北斎は、此の画を書くに就いて、引札を出して居るが、今それに拠ると、口が七尺、目が六尺、    耳が一丈二尺、頬が九尺、顔が三丈二尺とある。凡そこれで画の規模が思ひ遣らるゝであらう。     さて、此の大画を描きたる場所は、別院本堂の東北の方なる広庭であつて、一面に見上げるほど高い    足場のやうなものを作り、その両端に滑車を仕掛け、百二十畳敷の紙の上頭には軸を装置し、それに細    引の綱をつけ、画を滑車で上へ引き上げる設備をした。     さて又用筆は如何にと云ふに、勿論、毛筆など役に立つべきでない。毛書をする細筆と云うても、蕎    麦殻一束と云ふ訳なれば、面部を画く筆は、藁一束の大きさで、身体、衣紋を書く大筆に至つては、俵    をくづした薦(こも)を五つ程寄せた程の大きさで、なか/\一人の力では動かしかねる程のものであつ    た。墨汁は、勿論幾十の手桶に入れて場に運び込まれ、それを青銅の大水盤に取り分けて、硯に代へた    と云ふ仕末(しまつ)。僅かに一筆画けば、盤中の墨は忽ち尽きるのであるから、間断なく墨を桶より移    さねばならぬ。此等(これら)の補助として、場に在つた四五の門人の多忙なることは、目を廻はす程で    あつた。北斎は、襷がけで先づ鼻を書き、右眼より左眼、それより口、耳に及び、顔の輪郭に及び、胸    より以下は、俵筆(へうひつ)、或ひは棕櫚(しゆろ)帚を用ゐ、或ひは薄墨を以て暈取(くまど)り、或は    淡彩を施し、午後一時頃より揮毫を始めて、夕刻に至りて全く完成を告げたと云ふ。     当日、此の揮毫を見んとて集まりたる群集は、さしもに広き場の四方を填(うづ)めて、実に盛んなこ    とであつた。画成つて後、滑車の作用で、之を吊し上げ、凡そ七間ばかりの高さに及んだが、まだ半分    は地上に在ると云ふ始末であつた。実は、全部吊し上げる設備がなかつたため、見物人は、唯達磨の面    部を見るに過ぎなかつた。     北斎が斯(かゝ)る画を試みた動機は、常に繊細な画に筆を取つて疲れ果てたので、腕延ばしにと、或    る人の勧めに任せ、斯(かか)る挙に出でたのだと云ふ。此の出来事は、北斎が名古屋の門人墨僊の宅に    寓居して居つた時である。此の画を作る動機は何に在つたにせよ、実はこれが北斎の大広告であつた。    其の後此の縮画は、永楽屋東四郎に依つて印刷され、都鄙到る処盛んに行はれ、今に至るも芸園の談柄    となつて居る。     御前席画の離れ業(121/236コマ)     彼の画名は、啻(ただ)に市井の間に喧伝したのみでは無い、終には将軍家の耳にも入つた。或る時、    文恭院、放鷹の道すがら浅草の伝法院に立寄られた時、文晁と北斎を召され、席画を所望された。文晁    先づ筆を揮つて得意の画を作り、愈々北斎の書く番となつた。北斎、憚る色もなく将軍の前に進み出で、    幾丈(いくぢやう)と云ふ長い絹を展(の)べて、一気に刷毛を以て長く藍を引いた。将軍を始め並居る面    々、何を書くのかと、不審に思つて居ると、北斎は座を退き、戸外に出たが、やがて鶏を入れたる籠を    携へ来つたので、皆々愈々不審に堪へず、何をするかと見て居ると、北斎、徐(おもむ)ろに籠より鶏を    出して、其の趾(あし)に朱肉をつけ、之を絹上に放つた。無心、鶏は、あちらこちらを歩き廻り、歩歩    赤い趾痕を印するのを、皆々、何の故とも気付かず、意外の事に、各々手に汗を握つて居たが、北斎は、    適宜と思ふ所で鶏を捕へて籠に納め、恭しく一礼した。座に在る文晁、早くも画意を覚り、立田川の風    景、洵(まこと)におもしろしと称へたので、皆々、初めて成る程と感じた。     北斎は町絵師ではあつたが、権貴を畏れぬ膽気(たんき)を有して居つた。当日斯る離れ業を遣つたの    も、彼れが膽気を示したものである。〈文恭院とは徳川幕府十一代将軍家斉〉       ◇四九 大石真虎(124/236コマ)     版行の詫證文     大石真虎は、名古屋に隠れもない画家で、後には名声を四方に馳せた。    名古屋の或る町に町代を勤むる、何某と云ふがあつた。此者、身分の町人であるのを厭ひ、町代である    のを幸ひ、士人(さむらひ)気取りで、肩を聳やかして街路狭しと横行し、其の頭髪も士人に倣つて、前    額を狭く剃り明けて大髷に結つたが、真虎が其の近隣に住し、其士風を粧ふを片腹いたく思ひ、何とか    して彼の頭を町人並に剃り拡げて遣りたいものだと、妙な陰謀を企てた。元来此の町代は婿養子で、女    房は対して権力が無かつた。そこで一策を案じ、町代の平生行く髪結床に出かけ、店主に内々云ふには、    「お身達も知つて居る町代某殿は、養子の御身分で、何事も内儀任せだが、旦那は頭剃り方を人並にし    たいと望むで居らるゝけれど、何分内儀が士人風を好まるゝので、旦那も拠(よんどこ)ろなく狭く剃ら    るゝことは、お前承知の通りだ。実は旦那から内々の頼みだが、これから、来らるゝ毎に、次第々々に    剃り拡げて上げて貰ひたい。旦那は内儀に気兼があるから、直と頼み悪(にく)い。事の依ると、外面を    装ふためお前に小言を云ふ様なことがあるかも知れぬが、辛抱して貰ひたい」と云うて、金一分を遣は    し、誠らしく頼むだので、店主も真に受け、それからは、町代が来る毎に少しづゝ剃り拡げ、あゝ遣り    損つたと云うて、お茶を濁して居た。然る処、いつも/\剃り拡げ、遂には目立つ様になつたので、町    代大いに怒り、なぜいつも剃り拡げるのだと詰つが、店主笑つて相手にならぬので、町代愈々(いよ/\)    怒り、店主も終には実を告げ、大石さんが云々と云ふと、町代始めて真虎の仕業と知り、急に真虎を呼    び寄せ、自分の頭を弄(なぶ)り物にするは、何か怨みでもあつての事かと、さんざんに怒り、真虎より    いろ/\詫びても、なかなか承知せず「汝の如きものhあ、誤り證文を版にして置くがよい」と罵るを、    真虎もさるもの、家に帰ると、自ら瓦版に證文を彫りつけ、百枚余りも摺つて、仰せの通り、度々失礼    するかも知れぬから、版に摺つて来たと指出した。これには町代も呆れたが、此の事忽ち評判となり、    町代も流石に慚ぢて、それからは謹慎の人となつた。  ◯『春城随筆』(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十五年十二月刊)   ◇六 一鳳斎国広(24/284コマ)     徳川時代の将軍或は各藩の諸侯の中に画を学んだ人は少からずある、中には極めて上手の域に達して    玄人と云つてもよい人もあつた。しかし此等の画は狩野、土佐に非ざれば文人画風のものであつて、当    時頻りに流行した市井の画、即ち浮世絵を能くする諸侯があつたかどうかは疑問に属して居た、といふ    のは此の浮世絵は今こそ国民的の画だと云はれる迄に持て囃されて居るが、徳川時代に於ては士林が賞    翫するを屑(いさぎよ)しとしなかつたものである、随つて諸侯の如きはかゝる画を学んだり、画いたり    することを憚ったものである。     所が調べてみると、矢張り諸侯の中に此の浮世絵に非常に堪能な人があつたことが分つてきた。それ    は近年歌川豊国百年の追善忌を行つた折の天覧会に、豊国初め其の門人等の多くの作品の中に一諸侯の    物した浮世絵が両三点陳列されてあつた。一鳳斎国広といふのが即ち其れで、師の豊国の国の字を取つ    たものである。ところでこれは何処の大名であるかといふと、伊勢は亀山の城主で、石川日向守と云う    た人だ。身は藩主であつたが、化政時代の風気を潤沢に受けた人であると見えて、三代目の菊五郎に四    つ輪の紋所を与へたり、又師たる豊国の為めに年の字を丸くして紋の形にしたものを作つて其れを授け    たりしたやうな通人で、公務の余暇には好んで浮世絵風の美人や或は役者の似顔絵などを書いたりして    独り悦に入つた。其んな事からして豊国の娘のきんといふ者、是は後に一鳥斎国香女(くにかめ)と云    ふ女画師になつたが、其の者を師との関係から自邸に招き、傍らに置いて絵の具解きなどをさせ、又江    戸へ移つた時は乳母附のまゝ自邸に措いたといふ事である。さて右の展覧会に出た此人の画を見るに、    全く玄人跣足といふ位のもので、美人の立姿を書いたものなどは殆んど師の豊国と見紛ふ許りの出来で    ある。其の画には左の如き賛がしてあつた      似たか似ぬか何れをこれと白波の是や瀬川の間なるらん       ◇三四 草双紙(61/284コマ)     日本の小説は極めて古い時代から相当に発達して居たものであるが、しかし古代に於ては殆ど貴族の    間にのみ読まれたもので、民衆的に小説の読まれるやうになつたのは、ずッと下つて徳川期に入つてか    らのことだ。即ち版木といふものが盛んに行はれて、文章や挿絵を木版に彫つて広く一般に流布するや    うになつてからのことだ。其れ以前に於ては文章も絵も書いたものであるから、中々一般に及ぶ訳が無    く、先づ貴族階級に限られて其れが読まれたに過ぎなかつた。従つて其の小説が如何に傑作であつても、    低い階級に対しては殆ど何等の文化的勘化をも与へなかつたのは当然である。それが木版の作用に依り    広く一般民衆に及んで、女子供も小説を読むやうになつたのは、日本の文化史上に特筆すべきことゝ云    つてよい。     今茲に言はんとするのは特に草双紙についてゞであるが、是れは今いうた民衆的小説の最も熟した時    代の産物である。今日は草双紙の如きは殆ど高閣に束ねて見る人の無い。少しも漢字を交へずに、仮名    ばかりで、句読も切らず、虱のやうな小さな字を紙の全面に書き列ねたものを今読むのは、頗る面倒な    ことである。従つて若い人達には、殆んど草双紙を知らぬ者もあろう。が、徳川時代に於ては、此の草    双紙が種々なる著述家の手に依つて作られ、江戸は勿論、広く全国に行はれて、民衆的文芸として驚く    べき勢ひを有して居たのである。其の最も隆盛の時期を代表し、且つ草双紙の作者として最も有名であ    つたのは柳亭種彦である。種彦の草双紙には何人も知る田舎源氏を初め種々のものがあるが、此等の著    作は正に一世を風靡するの概があつた。当時曲亭馬琴は八犬伝其の他の大作に名声を馳せたが、どうも    一般の評判は馬琴に無くて寧ろ種彦にあつた。それで馬琴の本を出版し又は販売する書肆が時々馬琴に    向つていふには、先生もえらいや、世間では種彦先生の物を中々持囃して居る、畢竟種彦先生の作は書    き方が通俗的で、殊に艶つぽく、分りがよいからであらうと吹掛けた。独り書肆のみで無く、馬琴の友    人で、其の作の出る毎に批評したと云はれて居る殿村篠斎の如きも、頻りに種彦に感心して、あなたも    あれを余り度外に置いては可(い)かぬと注意した位である。そこで傲岸の馬琴は、ナニ俺にだつてあれ    位のことは出来ると、負けぬ気になつて非常に艶つぽいものを書いたのだ、例の美少年である。しかし    馬琴の持前の学問を衒ふ風はこゝにも附き纏うて、小説家の本領を離れ、兎(と)もすると長々しい考証    を担ぎ出すので、やはり一般の受けは種彦にあつた。     そこで草双紙に就て少しく考へて見ると、之れが其の当時に於てよくも工夫されたものだといふ事を    今更ながら感ずる。文体は必ずしも言文一致では無いが、殆んど其れに近いもので、全然漢字を用ゐず、    仮名のみで、極めて幼稚のものにも理解の出来るやうに書いてある点は、よほど民衆の味を持つて居る。    又草双紙の今一つの特長は、半ばは絵を以て目に訴へるといふ趣向で、各頁に亘つて絵が挿まれ、それ    を見れば大凡その意味が了解されるやうに工夫されてゐる。順々に紙を繰つてみると、次の頁は前の頁    と画面が直ちに接続する様に出来て居り、何百枚はぐつて見ても、其の経路が一目瞭然と分るやうに筋    を追うて描かれてある。斯様に何十冊、何百冊の長篇でも、初めから終り迄其れを飜(ひるがへ)して行    けば、文章を読まずとも略々其の大意が分る位に細密な絵を掲げてある有様は、ちやうど今日の活動写    真を見るやうな味ひがある。況んや其の本文の妙味に居つては、とても今の活動弁士の類では無い。固    より作者にもよるが、種彦の如きは、相当の学問もありながら、敢へてそれを振り廻はさず、極めて通    俗的で、しかも濃艶無比の文字を駆り、具(つぶ)さに世態人情の機微を穿つた点は、全く今日読んで見    ても三嘆の外は無い。あの位柔か味のある円転自在の文章は、古今の文学に於ても稀に見る所であると    思ふ。     草双紙の挿絵に就ては尚(な)ほ少しくいふ必要がある。当時の小説は絵に重きを置いた、勿論作者の    見識からいへば絵はお伴に過ぎぬと考へたのであらうが、一般の読者は先づ第一に絵を味(あぢは)つた    ものである。少なくとも絵が作者の言葉を非常に助け、ある意味に於ては文章以上の働きをしたのであ    る。当時は小説のみならず、一般に絵を入れることが大流行で、狂歌の本でも、俳諧の本でも、立派な    大家の絵が挿まれてあるものが少なくない。勿論狂歌の本ならば狂歌が本位で、絵はただ景物といふつ    もりであつたのだろうが、今日では基本を買ふ者は絵の為めに買ふので、肝腎の狂歌は寧ろ邪魔になる    位に考へてゐる、それだから当時北斎の如き、自分の技倆を信ずることの深い画家になると、中々作者    に負けて居らず、一体君の本の売れるのは文章の為めで無く、俺の絵の為めだなどゝ揚言して、屢々    (しば/\)作者と喧嘩したこともある位で、画家の鼻息が頗(すこぶ)る荒かつた。     実際、画家の威張るのも道理で、此の挿絵にうちては非常い骨の折れたものである。別けて草双紙に    於ては最も苦心を要し、一頁毎に連続した人物、或はその人物の行動を現はしてゆくといふことは、中    々容易の事で無かつた。それが動(やや)もすると何百頁、何千頁と追うてゆくのであるから、凡庸の画    家ではとても手に終(お)へない仕事である。種彦の如きは、田舎源氏の出版に当り、悉く自己の図案を    授けて、それに従つて描かしめた。田舎源氏はいふ迄も無く源氏物語に形どつてものであるが、併し時    代をずッと下げて室町時代としたものであるから、すべて衣服でも、調度でも、皆それ相応のもので無    ければならぬ。従つて普通の浮世絵師には一寸書けないことがあるので、種彦は非常に苦心して一々画    家に図案を授けたのである。全く田舎源氏が一般に受けたのは、第一に其の絵の極めて精妙であつた為    に相違ない。此の長編の小説について感ずることは、主人公の光氏がいかに美男子であるにしても、年    を取るにつれて段々老いてゆくのは当然である。厳密にいへば十頁も隔たれば其の顔に多少老けた所が    無くてはならない。更に何百頁も隔たればよほど年の寄つた面影が無くてはならぬのだが、挿まれた絵    を順順に見て行くと、チヤンと此の理窟に適つて居て、巻の進むに従つて段々光氏なり其の人々の顔容    に変化を来たし、明らかに年月の経過を現はして居る。是れは田舎源氏のみならず、挿絵に苦心した草    双紙はすべて同様だ。外人が日本の草双紙を見てあッと云つて感心するのはそこにある。     今になつて種彦を初め当時のすぐれた作者の遣り口を考へてみるに、其の頃として極めて新らしい行    き方をしたものと云へる。それは或る意味に於て今日西洋の作家の遣つて居る、或はそれに倣つて日本    のが遣つて居る所と甚だ近いものだ。馬琴流の堅苦しい文字などは用ゐずに、さら/\と仮名のみで綴    つてゆく点や、其の内容が人情本位であつて、特に濃厚な男女の関係を描き、きはどい処の描写も敢へ    て避けないて点や、又目に訴へる為めに連続的の絵を重ねて全くパノラマ式に事件の展開を示して行く    点などは如何にも新らしい試みであつて、特に其の絵を何百枚、何千枚と限りも無く重ねて行く如きこ    とは西洋にも余り類の無いことである。今日の活動写真は之れに似た趣(き)も見られるが、それが此の    時代に於て早くも行はれ、特に画中の人物が悉く活動して、巻の進むに従ひ年輩等も幾つ位とピツタリ    当て嵌る程度に描写して居るなど、寧ろ今日以上の点も無いでhあない。要するに此等の草双紙は其の    内容に於て、恋愛、性欲等人間の本能を主題とする今日の小説に比し、決して遜色の無い許りで無く、    其の挿入の絵画に於て、殆んど古今東西に例の無い趣向が凝されてある。さういふ草双紙が当時非常な    歓迎を受け、種彦等の作が一世風靡したのは決し偶然で無い。   ◇三五 木版と其の材料(64/284コマ)     徳川期に無比の発達を見た浮世絵の木版彫刻は、ある意味に於いて世界に誇り得るものである。如何    に印刷術が進歩しても、極めて精巧な物になると此の木彫に譲らねばならぬ。西洋人が日本の錦絵を珍    重する所以は一つは其の版といふ処にある。勿論其の版を彫る技術が巧妙で無ければならぬが、之に付    帯して色を着けて刷る刷り師の力も非常は助けをなしたもので、両々相俟つて西洋人の垂涎する錦絵が    出来上る訳である。然るに段々西洋風の印刷術の進むと共に、木彫の名人が次第に凋落して、今日では    将に絶えんとして居る。是れは日本の工芸美術の為めに遺憾なことで、何とかして之を保護存続したい    ものである。     此の版木のことについて自分が実地に感じた一二を云はう。自分は古い、絵の這入つた本などを、僅    かに残つて居る版木師に彫らせて見て、妙なことを感じた。其の本には文章の所もあり、絵の所もある    のだが、絵であらうが、文であらうが、版木師の彫る労は一つで、どちらでも同じやうに門外漢は感ず    る訳であるのに、実際はさうでは無い。版木師の方では絵ならば喜んで彫るが、字の方は成るべく御免    蒙りたがる。同じ刀を使ふ訳であるが、絵ならばどん/\捗るのに、文字の所は一向捗らぬ。それはど    ういふ仔細かといふに、絵の方は興味があるため、それに釣り込まれて捗るけれども字の方になると全    く無趣味で、仕事に飽いて堪らむと云うてゐる。成程木彫の如きも一種の芸術であるから、興味の有る    と無いとに依つて仕事の成績に相違を来たすのも、道理あることゝいはねばならぬ。     また昔版木を作る時には其の材料を撰ぶことが非常に八釜しく、極めて精巧な版を作るには桜に限る    といはれたものであるが、其の桜にも甲乙丙いろ/\種類があつて、一番よい桜は伊豆の桜であるとさ    れて居た。其れは一つは暖地の産である為めもあらうが、今一つは海と何等かの関係があるものと見え    て、伊豆の桜は版木の材料として日本一と云はれ、其の材を用ゐれば非常に彫り易く、又いかなる繊細    の箇所でも旨く彫れる。いふ迄も無く此の材は余りに柔らかくても余りに硬くても可(い)けないのだが、    其の硬軟中を得たといふ一種の材が即ち伊豆の桜である。ところが今日は最早や斯様な材は得られぬ。    やはり桜を使ふとはいひながら、其の材が軟らか過ぎ、且つ甚だ粗悪である。今日浮世絵などを複刻す    るに当つて、最も大切な部分、たとへば顔や毛髪や衣服の極めて細かな模様などになると、桜の材では    十分に行かぬ。其の材が軟らか過ぎ、且つ甚だ粗悪である。今日浮世絵などを複製するに当つて、最も    大切な部分、たとへば顔や毛髪や衣服の極めて細かな模様などになると、桜の材では十分に行かぬ。其    の為め此等の箇所には黄楊の埋め木をして、繊細の刀を揮ふことにして居る。さうして出来上つた画は、    素人の目では分からないが玄人が見ると直ちに埋め木であることを看破する。黄楊は桜よりも硬味が多    く、従つて繊細な彫りが出来るが、桜のやうなフツクリした味わひが缺けて居て、幾分ゴチ/\した所    がある。殆んど肉眼では弁じ得ない程度のものであつても、其の道のものには直ちに見分けが付く。か    ういう訳で今日では版を彫る技術も段々廃れて来た許りか、其れを彫る材料さへも良いものが無くなつ    て来たのは、我国特有の工芸美術の為めに惜むべきことである〟   ◇八五 錦絵の彫師と刷師(118/284コマ)     昔の錦絵では美人画に重きを置いた、されば彫師と刷師の苦心も亦美人画にあつた。彫師の方では頭    彫りと称して、顔や頭髪を彫るのが一番六かしいとされて居た。それ故普通の彫師は衣装其の他を彫り、    老手が頭彫りを担当したもので、それが出来上ると刷師の手に廻る。刷師の方でも最も骨の折れるのは    やはり面部や髪の毛等であつた。つまり筆者が如何に巧みに画を書いても、之れを旨く彫り又良く刷ら    ねば筆意が発揮しないので、此の意味に於て錦絵は一種の総合芸術であつた。従つて彫師と刷師はピツ    タリ腹を合せ、作者の気合を十分に心得ての上で無ければ成功せぬものであるが、どういふ訳か昔から    彫師と刷師とは非常に仲が悪く、常に何かと苦情を言うたりケチを附け合うたり、全く犬猿も啻(ただ)    ならぬ有様であつた。たゞ其の上に作者が在つて双方に対し絶えず八釜しくいふ為め、どうにか物が出    来上るので、彼等のみに任せて置けば仕事の成績は全く挙らなかつたに相違ない     彫師と刷師とは単に与へられた原稿通りに彫り、それを其の侭刷れば能事終るといふ訳で無く、前に    云うたやうに其の画家の心意気をよく理解せぬと、彫りも刷りも旨く行かぬ訳であるが、それに付今日    生き残つて居る彫師で、錦絵彫刻の奥義を心得て居る者の語る所によると、美人画を彫る者は若い者で    無いといかぬ、老人の彫つてものは、普通の人には分らぬけれども、其の道の者に見せれば、何処と無    く堅くて、生気に乏しい、若い気分が刀端に現はれて来て初めて画が生きて来る、それ故昔は美人画を    彫る者は常に遊郭に出入りした、それは単に道楽者が事に託しての遊びでは無く、やはり若い女に親し    まねばさういふ気分になれぬからであるといふた。芸術制作上に気分が大切であるとすると、之れも一    理あることだ。     ◇八六 版木芸術の行末(119/284コマ)      版木の彫り方に就て其の道の人から一二聞いたことがある。享保あたり若(もし)くはそれより前の版    木の彫り方を見るに大体深彫のものが多い。何故かと尋ねて見ると、昔は彫り方が後世と違つて、後世    は先づ刀を字なり画の輪廓なりに着け初め、すべて細い処を彫り終つて、最後に余白の処をノミで浚ふ    ことになつてゐるが、昔は逆に、先づ余白にノミを突き込んで中央から四囲に及ぼして浚ひ、それから    字や画に着けたものである。深く浚ふだけ骨も折れ敏速も缺く訳であるから、追々浅ぼりとなつたのだ    といふ。尚(なお)昔から版木を彫る法として必らず版木を机案の上に置き、枉げたり倒さまにするやう    なことなく、厳格に位地を正して刀を揮ふことを常例としたといふ。乃ち版木を顚倒すれば彫り易い場    合もあるが、それをせぬことが法となつてゐた。一寸考へると、形式に擒(とら)はれてゐるかにも見え    るが、実際は斯くせざれば、刷る場合に墨に淀みが出来、刷毛のサバキがよくなく、刷つた結果もわる    いというてゐる。又今日では写真作用で原稿を版木に貼りつけることが行はれてきたので便利のやうで    あるが、矢張彫師の手腕に待つことが多いのである。先づ写真の湿版をガラスからはがして其れを板に    はりつけるのだが、此の湿版は最も薄きを尚(たっと)び、之れを薄く写すにも之れをはがすにも専門的    技能を要するは勿論である。扨て十種の色があれば十枚の色版が要る、随つて十枚の湿版を作らねばな    らぬが、十枚を同時に写すことが出来ないから、それ/\に多少の相違があり、喰ひ違ひがある筈だ。    だから写真だからというて精確であると過信して其の侭彫つては飛んだ喰ひ違ひが生ずるので、彫師は    写真のみ依頼せず、必らず原書を傍らに置き、それに問うて彫ることなつてゐると聞いた。何の芸でも    局外者の考へる様な楽なものではない。尚又専門家の言ふ所に拠ると、木版彫刻の芸術も最早末だとい    うてゐる。或る説には此の芸術の衰微を防ぐ為めに特別保護を要するといふけれども、それは素人考え    で迚(とて)も維持が出来かねる、と云ふ訳は、昔は五年七年の年季を定めて小僧から打込んだから、其    の習熟で名伎(ママ)も出来たのだが、その年季奉公は今の時代に行はれず、年季奉公でなくとも、五年七    年の修業は今時到底出来難い、そこへ保護などあつては、ます/\気が緩むばかりで、到底維持は困難    である、要するに斯の道の持続は必らずしも生活問題にのみ繫つてゐないと語った。  ◯『春城筆語』(市島春城著 早稲田大学出版部 昭和三年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(212/221コマ)   (百道楽 八五 番付)   〝番付は芝居と相撲のとが通例であるが、その流行時代には何もかも番付の式に作つたことがある。学者、    僧侶、文人、墨客は勿論、芸者、孌童(カゲマ)、娼妓、私娼、茶屋女に至るまで番付があり、人格のない    寺、宮、橋、樹木などにも番付があつて、それ等が相応に弄ばれ、時代を経ると、それぞれの変遷など    も窺はれて興味もある所から、分類的に或は時代順に番付蒐集を道楽とするものが今でも可なりにある    から一類として挙げる〟   (百道楽 九一 春画)   〝風紀の取締が厳であるから、表面知れないが、春画を集める道楽は意外い多くある。古来画界の名人は    必らず此の方面に筆を弄して居るから、珍しい物が沢山ある。昔し大名で此の道楽をやつたものも相当    あり、故人中川彦次郎氏は此道の数寄者として評判があつた。堅くるしい意外の人で、内々此の道楽を    やつてゐる人が少なくない〟   (百道楽 九二 浮世絵)   〝此の蒐集の道楽は余りに知れ渡つてゐるから、爰に註するに及ぶまい。此絵も画の一類であるけれども、    手広く行はれてゐるから、特に一類としたのである〟  ◯『春城漫筆』(市島春城著 早稲田大学出版部 昭和四年十二月刊)   ◇鍬形蕙斎(35/245コマ)   〝 浮世絵師のあまたある中で、経歴に異彩のあるものが一人ある。其人は私の郷国越後の縁因のある北    尾、後の鍬形蕙歳で、越後から出た畳職を父として、宝暦十一年といふ昔し生れた。初め北尾重政に学    び、本姓赤羽氏であるのを、師の姓を名乗り、立派な浮世絵師として世に立つた。草双紙などの挿絵が    此人に依つて書かれたものは少なくない。殊に名所の図を作るに名を得て、神田明神に捧げた江戸全市    の筆を投じ、志を本絵に転じて一家を聞くに至つた事である。浮世絵師で狩野、土佐、四條などの本絵    を学んだものは決して少なくない。併し多くは浮世絵の地を作る為めの研究であつた。葛飾北斎などは    八宗兼学とも云ひ得るほど、他方面に本絵を学んでゐるが、どこまでも浮世絵師で終始した。本絵を書    くものが浮世絵に転じた例はいくらでもあるやうだが、浮世絵から本絵に転じ、そして成功した例は、    蕙斎を外にして私は著名の例を知らない。     蕙斎は狩野派も学んだが、最も私淑したのは光琳派で、其中にも中村芳中を喜び、且つ谷文晁にも学    んだと伝へられてゐる。斯人の画にはどことなく光琳の風が見える。殊に草略の画法を始めたのは、芳    中あたりより脱化したものではあるまいか〟   ◇走馬燈 下 東西芸術の相異(40/245コマ)   〝(前略)奔放自然の発達に任せた浮世絵に於ては純古たる日本芸術が存し、西洋人は日本人に先んじて    之れを激賞してゐる。若し西洋人が我が浮世絵を研究して其の美を感じた如くに他の諸芸術に対しても    相当の理解があつたら、必らず浮世絵の如く、尚それ以上にも鑑賞するであらう。現に西洋芸術も追々    行詰るので、我が芸術に着眼し、それに傚つて活路を開いたりしてゐる者は着々ある。我が能楽に傚つ    て舞台の革新を図つてゐる如きも著しい例である。但だ西洋人は換骨奪胎が巧みである為めに、邦人の    気の附かない模倣がいくらのある〟   ◇民衆芸術(74/345)   〝日本には久しい間芸術が十分理解されず、其の範囲がひどく極限され、当然芸術と見らるべきものでも、    卑俗の社会に行はるゝものは、芸術と見倣さなかつた時代がある。例へば浮世絵の如きものは、作者の    名まで署してあり、それが立派な芸術であるのに、俗画として擯斥され、芸術を以て目することが僭上    であるかに思はれたことがある。浮世絵の版画の如きは、彫師と摺師の手腕を藉りて原作以上発揮する    ものであるから、彫師と摺師の技芸も芸術に相違ないが、それ等は職人の業として芸術とは考へられな    かつた趣がある。四民の懸隔が甚だしく、貴族のみ重んぜられて、民衆が認められなかつた結果として、    民衆の為めに作られ、それに喜ばれたものは、どんな芸術でも一併に擯斥され、一向に注意を惹かなか    つたのも無理はない〟  ◯『小精廬雑筆』(市島春城著 ブツクドム社 昭和八年(1933)十一月刊)   ◇二四 亡びんとする木版彫刻(56/261コマ)     日本の木版彫刻は世界に誇る得べき固有の芸術である。日本の文化がどれほどこの芸術に負ふ所があ    るか絮説するまでもなからう。洋風の印刷術が開けた結果、惜いかな、今は追々この芸術が亡びかゝつ    てゐる。自分は他の同人と十数年稀書の複製を続けてゐる為めに斯道の名工と親しみ、折に触れて、彫    刻芸術の実際を耳にする便利がある。爰に聊か専門家より聞く所を語つて見よう。     現在東京の木版彫刻業組合のものは僅に百余人しかない。木版印刷業者の数もそれに準ずる。彫刻業    には字彫があり、絵彫があり、頭彫があつて、各々その業を分つてゐる。頭彫とは人物の肉体部を彫刻    するものを云ふので、これが一番むづかしい。即ち第一位を占むる上職人である。これが今日果たして    幾人あらうか。字彫と絵彫とを兼ねて能くするものは勿論名人である。印刷の方も墨摺りと色摺の二つ    に分れてゐるが、今日では専門の墨摺職は極めて少ない。     昔は御家人が内職に彫をやつたが絵彫や頭彫などは、矢張専門職工で無ければ、出来なかつたので、    御家人がやつたのは、大抵字彫であつた。     彫は一寸考へると機械的のやうに思はれるが、実は矢張り精神的修養を要するとその道のものは云つ    てゐる。美人彫りの上手と謂はれた或る彫工は常に遊里に出入した。人はその放蕩を嘲つたが、実は成    るべく若い女に接近する機会を作つて気分を若やがせる為めであつた。彫刻師も気分を尚(たっと)ぶこ    と創作家や画家に譲らぬのである。版木を見たばかりで、老人の彫つたのか、壮年の彫つたのか判断が    出来ると、老練の版木師は云ふてゐる。     版の彫方に就て古今多少の変遷がある。享保あたり、若くはそれより以前の版木の存してゐるのを見    ると、大体頗る深彫である。何故かと聞いて見ると、彫方が後世と違つて、後世は刀を先づ字や画の輪    廓に着け、余白の処はノミで浚ふが例となつてゐた。大体浅ぼりであるが、昔は字や画の輪廓に先づ刀    を着けず、余白の中央にノミを入れて、周囲に段々広げて彫つて行くのを例とした。後世よりはいくら    か骨も折れ、敏速を缺いたわけである。専門家の云ふのに、版を彫る時は、厳正に版木を机案の上に置    き、字も画も正しい位置に置いて刀を揮ふことを例とした。言ひ換れば、板木を顚倒すれば彫りやすく    あつても決してそれをせぬことが法となつてゐた。これは形式に擒(とら)はれてゐるかにも見えるが、    そんな訳ではなく、斯くして彫らねば、刷る場合に墨に澱みが出来る。刷毛のサバキもよくなく、随つ    て刷つた結果がよくないからだと云ふ。     今では写真(湿板)で写したのをガラスよりはがして、それを板に貼りつけるのだが、このはがした    湿版は薄いのを尚ぶ。勿論薄く写すのもこれをハガスのにも専門的手腕を要するのだ。理窟から云ふと    色版を幾枚か作るに、同じ物を写真で幾枚か写し、それを色それぞれの版下の絵に充つればよいやうで    あるが、実際は同じ物を五枚写せば五枚共多少の相違があるので無造作に同じ物を略(ほぼ)同じ時写し    たからと云ふて、それに依頼するとトンダ喰違ひが生ずると云ふてゐる。如何にも全く時を同じうした    写真でない以上は、いくらかの違ひはある筈である。彫師が唯写真にのみ依頼せず、実物を傍らに置い    て、之則るのはこの故である。     彫師と姉妹関係のあるのは摺師である。彫刻がいくら精良でも、摺りがよくなければ、彫の成績が決    して発揮されぬ。だから、彫師と摺師とは同心一体で、その呼吸がピツタリ合はねばならぬ。浮世絵の    ごとこ色版をいくつも重ねるものに於ては、摺り尤も大切で且つ熟練を要する。板を重ねるに就ては、    兎もすると板と板とが喰ひ違つて吻合しないこともあり勝(がち)だが決して斯かることは許されない。    美人絵の色版の内で口紅だけを点ずるに、他の紅色と異なるために一版を要するが、僅に一点だけを添    へるのであるから、少しでも位置が外れると全局のブチこはしとなる。上方では面倒がつて筆彩色でそ    れを点ずるが、江戸ではそれは版でないと云ふて取らない。流石に江戸の摺師はそこに見識がある。熟    達の摺師となると、手におのづから尺度があつて決して過つことがない。色の濃淡に就ても、刷の緩急    が大なる関係をもつ。人間の柔かい手で、うまく加減するのでそこに機械の能くし得ないフツクリした    味が出る。絵の原作に比して、幾等(いくら)優れたものが印刷されるのは、全く摺師の働きである。     摺師の武器とも云ふべきバレンと櫛形の製作を聞くに、その用ゆる材料によつて三種に分かる。第一    は竹の皮の繊維をより合せたもので、これが最も広く用ひらるゝ。第二は捻紙條(コヨリ)をより合せ    これに渋を引いたもので、アタリの軽い印刷に用ひる。第三は鉄線(ハリガネ)をより合はせたもので    金銀箔を摺る時に使ふ。材料が何であらうと、四本捻、八本捻、十二本捻、十六捻と、適当に組糸風に    より合せ、それをうづ巻線香の形に巻上げ、更にこれを竹の皮で包むのである。包み方にも呼吸がある    といふ。すべてより方は指先の破れるほど堅きを要する。八本念が一番使い頃だとしてゐる。鉄線バレ    ンはもと京都職人の秘伝であつたが、今は広く行はれてゐる。     櫛形は刷毛の一種で、墨摺りに私用する。大きさは三寸乃至(ないし)三寸五分。馬のエリ毛で拵へた    ものを、摺師の手で毛先を焼き、鯁(ママ)皮でそろ/\とおろし、天鵞絨のごとくシナヤカにして使ふ。    中本から大半紙本まで縦に四度、横に三度刷毛を使ふのが定法である。色摺用の刷毛は大小幾種か要す    るけれど、概して寸法は櫛形よりも小さい。墨摺りツケ墨は、折れ墨を漬込んでから一年位の所が最も    よい。余り古くなると、膠が薄らぎ過ぎてよくない。駄物にはドブと称する劣等墨汁を用ひる。色摺の    絵具に、姫糊を交ぜたり、奉書摺に水飴を使つたり、刷毛の代りにタンポを用ひたり、バレンの代りに    掌でこする場合などもある〟    〈櫛形はブラシのこと。鯁(ママ)皮は鮫(さめ)皮か〉  ◯『春城代酔録』(市島春城著 中央公論社 昭和八年(1933)十二月刊)   〈蹄斎北馬が谷文晁と葛飾北斎の助筆をしていたという挿話(『芸苑一夕話』上巻「四七 蹄斎北馬 右手(めて)は北斎    のため左手(ゆんで)は文晁の為に」)と同じ挿話に続いて以下の文あり〉   〝此一小話は文晁が浮世絵師の助筆を持つてゐたことを語ると共に、北斎にも亦助筆があつたことを語る    ものである。曾て見た文晁の極彩色の関羽の服装に金泥の繊細の文様があつたが、恐らくあんなことは    北馬あたりが助筆をしたものかも知れぬ。北斎にしても、要部は自身で書いたであらうから、或る部分    を助筆せしめたからと云うても、それは無難に通つてゐるに相違ない。    浮世絵師に於て、他の一例を挙げれば、初代豊国である。あの忙しい絵師は、輻輳してゐる画を一人で    なか/\書き切れなかつたので、門人に助筆をさせた。門人の誰れに助筆をさせたかと云ふと、国虎な    が其の一人である。その確証は早稲田の演劇博物館に蔵してある一幅の文書が之れを示してゐる。尚ほ    傍証となるべきものが坪内逍遥翁の書斎に蔵されてゐる。それはいろ/\の婦人の面貌と頭髪を豊国自    身が書いたものであつて、幾十となくあるが、皆余白の無いまでの断ち剪つたものだ。これは前年翁が    豊国研究をやつた折、豊国の遺族を訪うて割愛を得たものだと云ふが、何の為めに斯様なものが書かれ    てあるかと云ふと、門人に助筆をやらせる時の用に供するもので、草稿にそれを貼りつけて、衣服その    他は門人に委(まか)するのである。云ふまでもなく美人絵に最も難しとするはその面貌と頭髪にある。    読本や草双紙などになると、同じ人物が各頁に現はれて、喜怒哀楽種々のエキスプレションが顔に現は    れねばならぬ。それを現はすことは、難きが上に難く、到底助筆の成し得る所でないから、豊国自身が    忙がしい場合に応ずる為め予じめ書いて置いたものである。乃ちこれが下職を使つたことを間接に語り、    傍証たるべきものである。    要するに画は他人の手を交へないのが本則であるけれども、事実に於ては他人の手が加つてゐるものが    いくらもある。厳格に云へば合作と云はねばならんが、要部に触れない以上敢て差支ないこととして、    許されてゐて、合作とは見做さぬ。図外れの大作だの、非常に手のこんだ繊細の図になると、助筆に委    しても大局に障りのない所が少からずある。門人もない貧弱の画師は別として、画の大工場とも見らる    べき繁栄の画家となると、下職が相当にあつたことを想像して強ち過(あやま)たないと思ふ。唯だ私の    寡聞はそれを説くのに十分の材料を有たないこと遺憾とする〟  ◯『春城談叢』(市島春城著 千歳書房 昭和十七年(1942)八月刊)   ◇葛飾北斎(50/237コマ)   〝画師の伝の中で、最も卓抜なるものは蓋し北斎伝であらう。北斎ほど種々の流派を学んだものはない。    かれは春章の門に入り、また狩野融川の門にも入つた。菱川師宣の画風をも慕ひ、住吉広行に就て土佐    風を学び、また支那画を習ひ司馬江漢に西洋画をも学んだ。かれが縦横の筆を揮ひ得たのは偶然でない。    かれは最初木版彫刻を学びそれを業とした事もある。かれが版下を書くに一種他の画家の測り難い呼吸    を心得てゐたのは、この故であらう。かれは早くから西洋と交渉があつた。和蘭陀のカピテンが日本に    来たときかれに請ふて、日本の風俗を描かせ、それを本国へ持ち帰つた。かれが没後、西洋で北斎熱を    生じた端は既に生前に発してゐるともいへ得よう。     かれは時に非常の大画を作つて人を驚かした。名古屋で書いた大画は轆轤仕掛けで、やつと某寺の山    門に吊して大衆の覧に供した有名な話がある。そうかと思ふと煙草入の前金具の図案を細写してその長    を認められた。九十の高齢を重ね、一生九十三回居所を替へたなども外の画師にはない。またかれほど    多くの別号をもつてゐるものもない。数へ来れば二十近くもある。かれの筆になつた絵本(黄表紙・合    巻・読本・狂歌等)実に二百巻を数へる。この長い生涯にかれの画風もしば/\変じてゐる。しかし北    斎の真面目は名を署した、寛政の末四十歳前後より、享和を経て文化の末五十四五歳までに、現れてゐ    るといふが妥当であらう。     為一と改めてからは一種の癖を生じて来た。妙に筆を屈曲して勁刻の画を作るやうになつたのは、為    一と署してから晩年益々甚だしくなつた。人は一目して北斎の画を判ずる事のなつたが、実は悪癖であ    る。或る批評家は北斎の描く禽鳥の多くは皆目過大、羽翼勁短、猛悪の相を専らにし優美可憐の態を闕    くといふたが、人物も概ねその通りで、兇奸獰猛のところに最もその長所を見せてゐる。これは三国志    や水滸伝などを書くために、かうなつたのかも知れんが、晩年の諸作には力は見へるが優美は乏しいと    もいへ得よう。かれは老ても気魂は衰へず、百十歳に達したらば画は始めて神に達せんといつたといふ    位である。もしさらに天寿を保つたら、画境はまだ変じたかも知れぬ。とにかく浮世絵師中この人の絵    ほど異彩を放つてゐるものはない〟   ◇葛飾北斎家居の図(51/237コマ)   〝家蔵に曾つて、竪一尺幅四五寸の北斎の家居の状を図して反故があつた。北斎門人の北馬のものしたも    のであつたやうに覚へる。それには北斎が狭い室に寝てゐる。その隣室が台所も兼ねた茶の間とも云ふ    べき畳二枚くらいを敷くほどの処に、一婦人が長煙管で喫烟してゐる。これが娘のお栄で、其の側らに    は、飯器や二三の食器などがあつて、そこに蜜柑箱を仏壇に間に合はせたものがある。食物を包んだ竹    の皮などが雑然と散乱してゐて、見るかげもない侘住居の光景で、机や書物などは更らに無く、北斎は    寝ながら筆を把つてゐるが、彼れの覆ふてゐる夜着には袖が無いので一寸変に思ふてゐたが、北斎を夜    着の袖を不要としたと言ひ伝ひがある。多分此図は写真であらうと思ふてゐたが、あれほどの名匠もそ    の奈落の性格から貧居を更らに気にかけず、一旦他へ嫁した娘も良人に慊たらず、家に戻つてきて貧乏    生活の仲間入りをしてゐるなどは、北斎の面目が躍如として現はれて面白ろく思はれた。偶々某雑誌に、    お栄を中心として北斎の生活を小説にしたものを読んで見ると、挿画は可なり文飾されてゐたが、北斎    も娘も生活に無頓着で、衣類なども父子共通であつたことなどを云ふてゐるが、大体自分の持つてゐた    図に近かい材料を取つてゐるので、此図を思ひ出した。小説に拠るとお栄の嫁した良人は油屋佐助と云    ふて画名を等明と云ふた。余り上手でもなかつたと見へて、北斎はいつも罵倒した。娘が離縁となつた    のも、北斎が例の調子で画の拙劣を罵つたことなどが原因であつたらしく、お栄自身も親の仕込でいく    らか画がかけたから、北斎と較べて良人が劣つてゐるので慊たらず遂に世話女房をやめ北斎も寧ろ賛成    したらしい〟