Top          林若樹 随筆・書誌      その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字     全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記。    『林若樹集』(『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)にも同じ記事があるので参照した。こちらから     引用した場合、その部分を〔~〕で表示した)   ◇巻一   (歌川広重三代)p5〈明治30年代前半記事〉   〝清水晴風氏曰 予は元来絵を習ひしことあらず 或時数年前死せし広重【二世と称す】来りて 弟子と    いふては如何なれど 社中になりて呉れよとの事に 承諾せしに 予に重春といふ名を与へて 広重よ    りの系図書を贈りくれたり 広重はこれより錦絵などに 広重門重春の名を署して出版せり これ己れ    に弟子あるを示さんとてなり 而して此広重は頭の無き人なれば 少しく困難なる絵は 予の所に来り    て相談せり 誠に生きた粉本にされし訳なり 曾て広重に 其許(そこもと)は二世と称すれど 二代は    既にあり 其後離縁され横浜に於て◎◎ 此人あるに二世とは如何 三世にして二世と称するもの他に    もあり 高畠藍泉の笠亭仙果を措きて二世種彦といひ 豊国の亀井戸豊国を差置きて二世と称するあり    其許も何か仔細あるかと問ひしに 予は二代広重と称さするならば 後に継がんとの約束にて入家せし    なれば どこ迄も二代なりといふ それは戸籍上の二代目也 絵の方よりいはゞ三代目なるべしと語り    しかど 承知せざりき 此広重病にかゝりしかば見舞に行きしに 今年五十三歳になりたれば 五十三    次に見立たる会をなすべしとて 話し合ひしが間もなく没しぬ 没後跡始末の相談を受けて整理をなし    けり 其後七年にもなりたるとき 石碑を建てんとせしが金はなし 依て一案を出し 此先生 生前度    々書画会等を催せしをもて 死後迄も同じ会にて人に厄介をうけんも妙ならずと 柳下亭種員と広重の    親戚の方にて二十五円宛(ずつ) 合せて五十円出してもらひ 石碑を建て置き それより立派なる招待    状を諸方に発せしに 皆々参会墓参せしが 此時集まりし金は御馳走するではなく 寺院にて折詰にて    追払ひしを以て 意外に経費少く 石碑の代を差引たる上 七十円と残りたれば そつくり後との者へ    渡したれば 其礼として広重の家にありたる初代よりの草稿等遺物は其侭(そのまま)予の手に帰し 両    方共満足したり〟    〈ここに云う「予」とは清水晴風。三代目広重の没年は明治27年3月、七回忌というと明治33年にあたる。これによって石     碑建立の費用を捻出したようであるが、実際に建ったのであろうか〉   (戯作者の晩年)p7〈上掲三代広重の記事に続いている。明治30年代前半記事〉    仮名垣魯文の末路も憐れなりき 末年新富町の家は七十円の借財の為めに差押へらるゝ 魯文は病気に    かゝる妻君は道具をうりて 日に五六戔にて暮すといふ境界 弟子達は沢山ありしも 皆寄りつかず     これも予が相談を受けて整理してやりたり 先づ二人の子供を奉公にやることになし それより家を売    りて二百五十円を得 これには七十円の借財は片をつけ 家財を売つて四十六円を得【横浜の道具屋に    バツタにうりたり 是見れば予にてもほしきものある故 思ひきりよきためなり】これにて当座のしの    ぎをつけたり 暫(く)して先生死後葬式の手伝もしたり 多(く)の弟子もありたれど 皆軽薄のものゝ    みにて 能く世話をせしは野崎左文氏のみ 若菜貞爾の如き 先生病気中奉賀帳を十二冊拵へ百廿円を    得しが 一時に渡しては直々遣ひ仕舞ひ給へば 己れ預り置くとの事なりしが 先生没後問合せしに     其内四十何円は先生に用立て 後と金は残れりとの事なりしが 石碑出来の後 後と金を請求せしに     生前貸金ありしといひて遂によこさず 久保田彦作のごとき 三円の香奠包はもてきしが 開きて見れ    ば白紙なり それに先生に貸金あれば差引きとあり 実に呆れたる者のみなりき 魯文翁も生前新聞等    にて 今の二六新報記者が人の内幕をあばく筆法にて 内済金として五十円とれば 弟子に分与すれば    よきに 其侭猫バヾになすといふ風故 我々には恰も石川五右衛門に於ける壬生小猿の如きものなりと    て 憚からざりし弟子さへありたり    かくの如く悪き事にて出世せしは 末路も大抵立行かぬものなり 伊東専三のごとき 一時は新聞主筆    の故を以て 人々伊東の名を聞けばふるへ上る程にて 会をすれば人はよる盛んなるものなりしが 一    度禁止の厄に遇ひてよりは 種々の新聞に◎◎◎も皆倒れ 今にては中山の祈禱坊主になり居れり    万亭応賀も末年は実に憐れなるものにて 根岸の奥に引込み 病気にて枕元には竹皮散乱するという風    にて 僅に幼少なる子供が 玩具のトンボを売りあるきて 露命をつなぎゐたりき〟    〈明治の戯作者のその多くは晩年窮状に陥って他人を顧みる余裕などなかったようである〉   (北斎漫画)p14〈明治30年代後半記事〉   〝武田信望翁談 『北斎漫画』第十四第十五編は 尾州の人 瀧(ママ)田杏斎の絵くところ 現存の人〟    〈瀧田は織田の誤植。織田杏斎(弘化2(1845)年~大正1(1912)年)は名古屋の絵師。この杏斎の談は飯島虚心の『葛飾     北斎伝』(明治26年刊)上巻に載っている。武田翁はそこから引いたか。但し、虚心の同書では「十四編十五編は、     北斎翁の遺墨をあつめたるものなれど、十五編に至り、丁数不足して(云々)」とあり、十四編まで杏斎が画いたと     は言っていない。なお十五編の出版は明治11年である〉      (河鍋暁斎)p16〈明治30年代後半記事〉   〝頃日 猩々暁斎の絵日記切れ二十枚程 手に入りたり 暁斎翁は晩年迄 此絵日記書れたりといふこと    にて 其内の一枚は暁斎画談に出て居れり 画家鈴木秋湖君の家に一年程【二冊合冊】あり 他にも余    程散せしならん 予の得たるは 先年没せし千住の玉成翁の珍蔵されしものかと 思はるゝふしあり    〔頭注〕鈴木秋湖住北三筋町 称鋋太郎 楓湖門人 親は金かしにて富豪也/呉山堂玉成〟   ◇巻二   (歌川芳兼)p55〈明治40年頃の記事〉   〝竹内久一氏の厳父は浅草田町一丁目に住し 屋号を上総屋と呼びたる提灯屋にて傘と提灯をとひさげり    通称を兼松【代々名は善次郎といふ】といへり 提灯を書くことに於ては名人の称ありて 其伎倆普通    の職人三人分のことをなせり 紋など画くにぶん廻しなど用ゆることなし これは疾(と)くに提灯の骨    の間数を知り居りて 一見して其見当をつくることを以てなり 家は芳(ママ吉)原の傘と提灯との其三分    の二は凡て引受け居たるを以て 家道は盛なりき 幼少より画を好み 当時行はれし浮世絵の大家国芳    の錦絵を多く集め 常に摸写して楽めり 店頭の障子に金時か鯰を押へ居る図を画き置きしに 一日     国芳其前を通行して 其図の奇抜なること 其筆意己れの筆に似たることを以て 其筆者の誰なるやを    問ひて 上総屋の兼さんなることを知り 己の名を言残して去れり 夫より国芳の門に入る時に年十七    にして 先生に名を貰ふ時は 御祝儀として二百匹を出すが例なりしが 兼さんは此雅金を納めずして    芳兼の号を貰へり これは春画に就て一の批評を下せしに 国芳其着眼の奇抜なるに感じて 直に名を    与へしなり 当時国芳の弟子を呼ぶ(ママに)皆呼びすてなりしが 兼松のみは兼さん/\とさん付なり     これは家も好くつけ届もよかりし故也    (以下、堤等琳に匹敵する提灯書きとの評判をとったという記事あり)    然れども提灯屋は嫌ひなりとて 四十のとき廃業して 浮世絵にも筆を執らず 後にはビラを書きて業    となし 田蝶と呼びたり 芳兼の名を廃せしは 豊国の弟子 下谷庵国春が国芳門になりて芳盛と名乗    りし時 癪にさはるとてよりの事也 芳盛は田町二丁目に住し 手習朋輩なりし縁により 共に国芳門    に手引したるなりとぞ 芳盛は千歳といへる土手の茶屋息子なりき 以上竹内久一君より聞く〟    〈竹内久一は歌川芳兼の実子でこの当時は東京美術学校彫刻科教授。この芳盛は二代目〉   (板下絵の値段)p58〈明治40年頃の記事〉   〝錦絵の板下絵の値段は 名人といはれし国芳にて一枚一分 他の芳宗【現在の芳宗は芳年の弟子にて二    代目也】芳ふじ等の弟子は二朱なり 而して国芳の武者絵の筆意巧みなる処は芳年に伝へ 意匠は芳兼     工夫画玩具絵は芳藤に伝はれり 云々 以上竹内久一君より聞く〟    〈錦絵の板下画料、国芳が1枚1分でその弟子が2朱。1両=4分=16朱だからその差は2倍である〉      (江戸の貸本屋)p75〈明治40年頃の記事〉   〝村幸の話に 維新前江戸に於ける有名な貸本屋は 本芝の長門屋 両国の加賀屋又兵衛 山谷の万屋弥    三郞等にして 長門屋にては雇人の十四五人も使い居たり 其頃 草双紙の出板は春が重(お)もなりき    其頃売行盛んなりしは 丁子屋の八犬伝、大島やの神稲水滸伝【これは板木一度大坂に行 後大しまや    に帰す】等にして 此等の売出に際しては 素人には小売せず 来幾日売出に付御申込下され度旨 本    屋並に貸本屋仲間に通知して 当日は出来の本を三宝に載せて店前に飾り 神酒を供したり 此日黒人    側にのみ売出すなれど 店前雑沓して中々買へざりし程の盛況なりき 其頃の封切本の借り賃は三分位    後に至りて二分二朱位に下落す 随分暴利を貪りしものにて これに就て一笑話あり 麹町の貸本屋沼    田やの御得意(麹町辺にての借人は重に御邸なりき)にて 八犬伝発兌毎に封切を差上置きしが 或時    売出当日に買出し得ずして差出ざりしに 其邸より直接に買ひにやりしに 直段は一部二分二朱にして    平素の見料は三分なりしとの事にて 大に今迄の不都合を責められし事ありしといふ されど其頃は多    く本を買ふよりも 借り人の方多く 随而 封切本を読む事は 其仲間中に一種のほこりとなす風あり    し故 貸本屋も繁昌せし也 予【村幸】は本芝の長門屋の分家にて 京橋の竹川町に住居せる長門屋に    奉公せしが 御得意とせし家は 卅間堀の芹川【十人衆】・紀ノ国屋【材木屋】・新橋の松坂屋・尾張    町のゑびすや ほていや等にて 始終出はひりをなしたり 小僧一人にても一ヶ月廿四五両位のかせぎ    をなしたり 而して普通貸本の日限は十五日間なり 長門屋などにては のれんをわける時は 主人よ    り五十両もらひしものにて 其頃貸本屋の真となるべき書籍は     八犬伝 百六冊  朝夷巡島記  美少年録     侠客伝(本Hp注)     水滸伝      三国誌    西遊記 四十冊  真田三代記     写本 楠廷尉秘鑑 二百四十冊  写本 太閤記 三百六十巻     玉山 絵本太閤記 八十四冊   重修太閤記    (本Hp注『南総里見八犬伝』『朝夷巡島記』『近世説美少年録』『開巻驚奇俠客伝』いずれも曲亭馬琴作の読本。     『絵本太閤記』は武内確斎作の読本、玉山は挿画を担当した岡田玉山)    等重(おも)なるものにして 此等を一通りあつむるは百両かゝりたれば 始めて家をもちしものには買    切れず 先づ裏店に一軒家をもち 自炊にてボツ/\買出し(貸本や仲間の本の市あり 其処にて求む    れば安価なりき)毎日貸本を背負ひあるき 御注文のものは御店に行きて借り来りて 又貸をなすなり    随分割のよき商売故 三年焼けずして商売をなせば 先前記のものをはじめ一通りの貸本を所持し 裏    店より表通りに出て 兎に角土蔵付の家にて小僧一人を使用する迄になるは普通の事也 されど此商売    は半ば 御たいこを叩いて世を渡りしものにて 皆のものよりは目下にみられ 飯を喰つて行けなどゝ    時分時になれば ◎◎◎行きても飯を供せられしもの也     それ/\御得意の客ありて 其家には他のもの出入せず 借人も中々義理堅く 予【村幸】の知人に     からだの弱きもの 貸本をなせしが 能く病気にて御得意廻りを怠りしが 十日にても廿日にても来る    のを待ちて 決して他よりは借りざりき 御邸などに新に出入せんとせば 先づ辻番の親爺に話こみ     懇意になりて手づるを求めて其御屋敷に入りこみ 或は門番につかませて御得意をこしらへもらふ 又    は知らぬ御邸に(の)門番には 御長屋のどなた様へ参ると 出たらめをいひて通りて 勤番部屋や御長    屋を廻りあるけば どこかで借りるもの也 若(もし)かりてなくして門を出る事能はざる時は(送状な    ければ門を出づること出来ず)お長屋のどこにても泣込みて 送り状をもらひて出るなり 故に人の気     をとること最(も)大切にして 能く主人の言ひしは 此年季を三年勤むれば どんな商売も出来ると    の事なりしは尤なり     貸賃の最も割の善きは春本にして水揚帖の如き買値は十匁にして 見料は一分取りたり 四ッと称する    十二枚の春画は 小さき本屋の暮の餅代に◎らへしものにして 暮より春に出せり 或屋敷にては国元    より初めての勤輩は 奥女中等へお土産として 新板のもの二三種宛を初春内に差上ぐるが例なりき     御坊主方にても初春殿中に於て 其御出入の殿様に御祝儀として 内々差上しものなりし事を聞けり     かゝれば四ッの如き出板は幾何(いくばく)出来たるものなりや 計算は出来ざる程なるべし 云々〟    〈村幸は芝の古書店主・村田幸吉。「水揚帖」は柳亭種彦作・歌川国貞画の春本『春情妓談水揚帳』〉   ◇巻五   (近藤清春画『金のざい』に付された式亭三馬の識語)p117 〈明治42年記事〉   〝清春は中村座の看板書(き)なり 清春没後に中村座の絵看板は鳥居家ものとなりて 今日に及べり    此話は通油町の治郎右衛門(栄邑堂といふ今は居所替れり)の話也    清春は「どうけ百人一首」を画きてより 目(め)盲(めし)いて云々 本私事にてかゝる事を知りたるも    のは今なく 僅(か)に三五人云々(採大意)       文化十四丁丑年春四月  本町庵三馬〟       (西村重長筆「江戸八景」)p123   〝己酉(明治四十二年)二月二日 青柳亭の珍書会 一年ぶりにて出席々上所見    西村重長筆「江戸八景」外題如何可考 一帖 十円五十銭 村幸買    一 ゑもん坂夜雨  二 あさ草の晴嵐   三 金龍山の暮雪   四 あたごの秋の月    五 品川のきはん  六 両国はしの夕照  七 すみだ川の落雁  八 うへ野の晩鐘      金龍山の暮雪 二王門あり 米饅頭店(摸写)〟   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185   〈この文の初出は『集古会誌』(辛亥巻五 大正二年四月刊)「会員談叢 竹内久一氏談」内容は同じだが、文の順序や言    い回し等に異同があるので、『集古会誌』所収の文に書き換えた。2023/03/23〉   〝ヱー国芳といふ人は面白い人だつたネ ベランメイでネ 丸で豊国とは意気が合はない 例へば書画会    で 人から先生一枚願ひ升(ます)なんかと云やァ ワッチャー未だ先生にやァなりやせん 先生ていふ    なアネ ソラあすこの隅に居る被布を着た人(豊国を指す)サ といふ按排だから 其弟子も同じくベラ    ンメイ計(ばか)り 然し師弟の情合といふものは至極厚かつた 師匠も弟子を可愛がれば 弟子も師匠    を慕つた 学問は無いが頭は中々善いし 能く人を知る明があつて 一ト廉の人物サ 此国芳の卅三回    忌に向島に建てたとき 芳虎は師匠の名をダシにして自分計り旨い汁を吸ふ ケシカラン奴だといふの    で 到頭除名して石には名を載せなかつた位 死んでからも皆ンナ師匠を大事にして居た ソンナ風で    人物が好いので 弟子も夫れ/\其特長を発揮した 工夫の旨い所は芳藤の玩具箱になるし 武者絵や    筆意は芳宗に伝はるし 鉄砲の巣口や刀を真直に見たとこを画くといふ風は芳年が伝へるし、一筆がき    や一寸の思ひつきは親父(久一氏厳父)芳兼に伝はつた様に 色々に其風を伝へて行った     一体玩具絵といふものは絵かきの内職で 閑の時に画いといて、絵双紙屋に買つて貰ふものだが 芳    藤は此方に善い頭を持つ居て 色ざしが旨く画面にむだのない様に画くのが名人だつたので 到頭玩具    絵で成功した     色ざしといやァ 師匠は墨書だけの板下をかいて それが彫り上がつて校合がすむと 其アトの>色ざ    しは大抵弟子の仕事になつて居た 弟子の芳藤といふのが此色ざしが旨かつた 夫れには銘々得意の色    があつて 芳員は好んでタイシヤを使ふといふ風い 銘々の好みが自然に出たものサ それから其墨刷    へ朱で色のつくところ丈(だ)けを塗つて 其紙の端に赤なら赤 黄なら黄と 墨でかきつけて廻すと     板木屋はかまはず其通り彫つて終つて 其色板へ黄なら黄と書いて摺師の方へ廻す すると摺師の方で    ケントウをつけて摺るのサ 摺師の方で色をぼかすには板ぼかし(又とくさぼかし)と拭きぼかしの二種    があつて 拭きぼかしといふのは 一旦色をつけた上を 湿れ雑巾でスット軽るく拭き取つて摺る さ    うすると能い按排にぼかしになる 板ぼかしといふのはトクサで其処を少し磨り減らしてら置いて刷る    ので トクサをかけるは摺師の仕事で 摺師の方の領分になつてゐる      それから浮世絵師は絵かきと称して本絵の方は絵師といつたものだ 其絵かきの方では 下図をつけ    るのに決して本絵の様に焼筆を使はない 朱筆で図をつけて其上を墨でかくのが法で 今でも浮世絵の    脈を引いて居るものは 朱筆で下図をつける 又粉本は種ねの名で通つて居た      前に云つた通り 国芳豊国とは肌が合はないので始終暗闘を続けてゐた それは豊国と国芳の錦絵    を競べると能く其消息が判る 或年広重が二人の仲を直した時 三人合作の東海道五十三次の錦絵を出    した 広重は景色には独得の伎倆があつたが 其画く人物は凡て国芳の筆意を模して居た     国芳は工夫に長じて居て 私の親父は芳兼といつて国芳の弟子だつたが 師匠を一つ困らしてやらう    と思つて 附地口に釘抜きを持つて行つたら 即座に柄の方の二本を足に見立てゝ 足長島にして了つ    た さういふ風で堀江町の附地口は終始国芳にきまつて居た     それから絵かきの収入といへば 板下や地口行燈だが 吉原の灯籠は一種の広告だから これは身銭    を切つて画いたものサ 一体師匠から名を貰ふには二朱宛持て行つたものサ だが親爺計りは只で貰つ    たそれに就ては面白い話があるンだが チヨツ差合いがあるから廃(よ)さう      それから弟子の中で師匠からさんづけにされるのは松さん(芳宗先代也)と私の親爺の兼さん計り 此    二人は重く用ゐられて居た     国芳門は皆ベランメヱ連中計りなので 名を呼ぶにも綽名で呼んで居た 芳年は綽名をドブ/\とい    つた 師匠の国芳にヒラ/\といふ尊号を奉つて居た これは顔が平びつたいから出たので 師匠の不    男なのは自分自身でも能く承知して居て 或年国芳模様何ンとかいふ題で 御祭の三枚続きを出したが    中は国芳の弟子連中を書いたもので 師匠計りは後向に画いてあつた いつも国芳自身をかくときは    後を向いたり紙を飛ばして顔の半面をかくしたりして画いてゐるから気を付けて御覧    〈三枚続きの錦絵は題は「勇国芳桐対模様」〉     其頃狂歌師で梅の屋鶴子(かくし)といふ人があつたが これは長谷川町の待合茶屋の主人で 此人が    国芳の為めには顧問になつて尽力したので 絵の方も又種々(注)の計画も 凡て此人の采配になつたの    だ だから此梅の屋の文台披露を万八楼で開いた時は 国芳も一肌ぬいで 弟子と揃の縮緬の浴衣で押    し出したといふ話サ    〈(注)『若樹随筆』には単に「種」とあったので、今までこれを「種本」の「種」と理解していた。それが「種々」だとすると     強いて「種本」と解する必要はない。ただ、鶴子が国芳に図案等のアイディアを提供していたという意味にかわりはな     い。つまり梅の屋は芳年の懐刀なのである。なおこの文台披露宴は万八楼での催しであるから、上掲嘉永6年河内屋     の書画会とはまた別ものなのであろう〉     国芳の弟子でネ「をかしかわらへ」といふ加州の駆付けの仕事師があつたが 此人は金が無いといふ    ので 加賀鳶の半纏をひつかけて 此会へ出て異彩を放つたといふ事もある 或時此人が長谷川町 俗    にいふ玄冶店の国芳の近火に駆けつけた時 途中でハッタと師匠にあつた 師匠 火はどこ迄来たッと    いふと 今和田平に付いた相だと 至極呑気相な返事なので 師匠 グヅ/\して居ちやァイケネヱじ    やねヱかと剣のみを喰はせると 此混雑の中で「和田平が悪くはあやまりませう」と洒落のめしたもの    だから いくらなんでもこんな中で洒落どころじやァネへ といつて怒つたといふのでも国芳の性分が    判る 此火事には国芳の家も焼けた    〈「加州の駆付けの仕事師」とは加賀藩お抱えの鳶職(火消し)〉     晩年に国芳は向島に引越して汁粉屋を出したが これは一寸の間のことだ 朝桜楼とつけたのは其時    からだ 死んだ時は矢ッ張長谷川町に戻つてからだと思ふ     国芳の弟子の芳年 此人は旨いには旨いが 一向頭の無い人で人間は極くつまらぬ男だが 所謂時代    の浪に乗つた人だ だから一生の中に筆が幾度変化したか知れない つまり一生を修行に終つて 未だ    自分といふものを大成しずに死んで仕舞つた 此芳年の売出し頃 即ち御維新少し前の武者絵の価は     一枚八十文から百文 三枚続二百五十文が相場で 三百文といふのは少なかつた     それから浮世絵師即ち彼等仲間でいふ「絵かき」の中での仕事は 前にいふ武者絵・玩具絵・美人絵、    風景絵 其他さしこ(刺子)絆纏(ばんてん)の絵や 一風違つて「ほりもの」の絵をかいたものだ 此    「ほりもの」が面白いや 絵かきがぶつゝけに背中に筆をとるのだから 其間は大事にして彫つてもら    ふ 能く人の云ふ通り 其間は厠の臭気に当ると腐るといつて 便所には行かれず 野屎を垂れる 湯    には這入れず 半病人の姿で仕上げを楽しむのだ 其上金がかゝる 一日に僅かほかほれない 先づ畳    の目三ッといざるとお仕舞とするのが法で これが一ト切りといつて二朱 辛抱強い奴は一日に二切も    三切りもほれて 早く上がる訳サ それからほりもの師の処では大勢待つて居るから 飯時になりやァ    替り番こに飯を奢らなけりやァならず といつて彼奴等のことだから鰻飯といふのが通り相場だが 中    々雑用がかゝる 彫り上る迄には身分不相応の入費を使ふ だから其出来上つた彫ものを大事にするこ    と夥しい 先つ第一衣服を着るつたつて 表こそ木綿ものだが 肌につく処は絹物をつける 顔や手足    は日にやけて真黒だが 背中だけは日に当てるなんていふことはめつたにない 湯に這入るたつて そ    うつと拭くといふ始末 何垢すり? とんでもない それは/\大事にしたものサ それから此彫物の    見せ場だ 先づ第一お祭 これが又面白いや 霊岸島のお祭りは能く落語家のいふ様に 三人つゝきの    彫物が出たつていふが うそじやァネェ それに其姿(な)りが面白いや 花笠を冠つて 縮緬のふんど    しを〆て 大手を振つて歩るくんだが 首ッ玉へ揃(そろい)の衣装を畳んで結(ゆわ)へて歩くなんザァ    滑稽極るものサ それから喧嘩の時ァ 先づ第一片肌ぬぎで彫ものを見せる 湯屋に行きやァ 先づ板    の間へドッカとあぐらをかいて 暫く空うそぶいて背中の自慢をしたものサ 今の様に大きな姿見があ    るじやァなし 折角のほりものも 自分じやァ 一生チットも見ることは出来ないし ソリャァ気の毒    なものサ     それから彫物の無くつてならないものの中に駕籠かきも居る これは誰れも気がつくが 未だ一つ無    くッちやァならないものがある それは鮓屋の若い衆だ 酢屋になくつてならないものは 大きなかん    てらと彫ものゝある若い衆だ これは酢の飯をさますとき 店頭で大きな団扇を持つて煽がせる時の用    だ 国芳の弟子で彫物のある奴が 金が無くなつて弱つて居ると 鮓屋へ雇はれて行け 只煽ぐ計りで    いくらかになるんだと すゝめたものサ     彫物をしない奴は其仲間じやァ無地といつて軽蔑したものサ 然し身体にやァ昔から毒だといつて     仕舞にやァきつと中風になるとさへいつた だから国芳と私の親爺は彫物はしなかつたが 晩年に国芳    が中気になつたので 弟子達ァ皆ンナ不審をして 師匠は彫物は彫らないし中気になる訳はネエ こり    やァきつとあんまり人に彫物の図をつけてやつた罰だらう といふことに決めて了つたのも大笑ひサ     一度国芳が彫物で失敗(しく)じつたことがある 両国の仕事師に頼まれて 頸の所に一匹の蜘をかい    て それから肩から背へかけて巣をかけた処の図だ すると其御袋が怒るまいことか 縁起でもネエて    んで 国芳の処へ怒鳴り込んだ時ァ 国芳も平あやまりにあやまつたといふことサ     役者の坂東勝之助の実父で 芝口に唐草の権太といふ仕事師が居た これは足首まで迄唐草を透間な    く彫つたので名高かつた〈『集古会誌』の文はここで終わっている。以下は『若樹随筆』に拠る〉     ほりものゝ会があつて 錫◎の頭に蝿を一匹ほつたのが 一等になつたといふ話があるが これは煙    管の会に廿八文の駄きせる多用大事に持ちこんで 地金惣体に吉野紙の様に薄くなつたのが優等とつた    といふ話と同じで 話は面白いがチット啌(うそ)らしい〟   ◇巻八   (司馬江漢の愛宕山奉納扁額)p223   〝五月廿五日 於南明館 浮世絵即売会所見    「相州鎌倉七里浜図」「西洋画士 東都 江漢司馬峻描写[Kookan](サイン)」    「寛政丙辰夏六月廿四日」    司馬江漢愛宕山奉納額    紙に油絵具にて画きたりと見えたり 上部に    昔掲城南愛宕廟 今帰郭北青山堂 泰西画法描江島 縮得煙波七里長                        辛未夏五 杏花園題〔印〕    画師百錬費工夫 写出銀沙七里図 万頃隔濤◎富嶽 居然目是対蓬壺                        董堂敬義〟       (司馬江漢の蘭画)p226   〝江漢先生は蘭画の法を以(て)日本諸国の風景を写真して世に知る者多し 江戸及び京大坂の市街(マチ)    に雲上に◎りて鬻者なり 皆先生の真似にして◎とす 然共門人にあらず 只真似たると云者にて蘭画    の法を知らざるものなり 先生既に老年になりければ 描(き)おさめに 此度浅草観音の堂中向て◎◎    分 防州岩国の錦帯橋は唐の西湖とも云へし 川はゞ百二十五間の処へ 橋五ッかけたり 中の三橋は    杭なし 先生爰に八日滞留して能(く)見たり 江戸の人は不見者多し 故に此風景を写して 額に掛た    り 先生日本にて始(め)て製する者 此蘭画と又銅板画とて あかゝねに自身にて彫刻して 地球の図    天球の図を蔵板にしてあり 是も世の人能知る者なり 後亦頃ろ地転儀とて 天文の書を著す 此天文    日本にて未だ開かれざる西洋の書を訳して珍説也 則(ち)此三品は先生日本創草する者也      文化己巳秋八月 門人塾徒誌     一 江戸芝愛宕山   鎌倉海辺の鳥(ママ) 始めは七里はま     一 京祇園神楽所   駿河サツタ富士     一 大坂生玉薬師堂  七里ヶ浜のづ     一 奥州仙台塩竃   石の巻之図     一 伊予宇和島◎霊  播州舞子のはま     一 土州天神の社   七里がはま     一 芸州宮嶋     上総木更津富士     一 筑後の久留米天神 鎌倉浦の図    又西洋画談末尾にも 略(ほぼ)同様の事を附記せり 此七里浜図 寛政八年に愛宕社に奉額してより     十数年を経たり 文化六年己巳には既に鎌倉海辺の図に代へたりと見え「始めは七里はま」とあり 此    図徹去してより数年 何人か蔵しけん 文化八年辛未には青山堂青山清吉の手に入りて 一軸に製せら    れ 蜀山の題詩を得るに至れり 他諸国にあるものは◎◎になりけん 此図今河井書店の有にして 売    価八百円と称す 絵画として鑑賞すべき価値はあらざれど 西洋絵伝来史の一材料としては博物館等に    て 買上げて然るべきものと考ふ〟       (亜欧堂田善の銅版画)p281   〝銅板画工田善は須賀川の人 六十余歳にして郷里に帰り 多く毛筆画を画けり 今須賀川に銅板四枚を    蔵す 一は大◎にして金龍山の図 一は小◎にして(空白)図等あり 元とは沢山ありしが 維新後四    枚をのこして 皆鋳◎し◎れりといふ 今も◎◎一枚位 他地方より出づることあり〟  ◯「稗史原稿に就いて〔附戯作写尺牘〕」(林若樹著『集古』所収 明治四十二年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』己酉(3) 8/14コマ)より収録)   ◇戯作者と画工の関係   〝昔時の稗史即(ち) 黄表紙、合巻、読本其他は現今の小説とは異り 其挿絵に重(き)を置きたるもの    殊に黄表紙の如きは画に趣向を凝らせしもの故 作者は画工に一指を染むるを許さず、且事実画工は又    夫れに改竄を加ふる如き頭脳を有せしものはあらざるが如(ごと)ければ、今原稿と版本と対照するに     殆(んど)皆注文通りにものして 画工は唯々(いゝ)として只原稿を清書したるに過ぎず 画工の名真に    空しからず(ママ)といふべし。然れども 後年豊国北斎等に至りては 絵組のことに就て作者との間に屢    (しばしば)争端を惹き起せしことも少なからず〟    〈ここにいう「原稿」とは、作者が挿絵の絵組や絵柄を指定するために作成するいわゆる「下絵」と呼ばれるもので、     画工はこれをもとに「板下絵」を画くことになる〉   ◇北尾重政宛、山東京伝の注文   〝京伝作『人間万事吹矢的』には「此草紙絵は吹矢の人形の気どりにて 御書可被下候(くださるべくそ    うろう) 上の段は人形の気どり 下の段は常の絵なり 此序文北尾先生(重政なり)へ御頼み 筆工    とも御書可被下候 文字アラク律儀にヨメ安キ様に」云々とあり、又此書は作の半迄『有金時有化物人    意吹矢的』の外題なりしを 末に至りて直せしなり、即(ち)其下の表紙に「上下にしるし候げだい(外    題)はやめて 此通りのげだいに仕(つかまつり)候間(あいだ) 割印御帳面(行事の帳面なり)へ此通    りの外題御記し可被下候」とあり〟    〈『人間万事吹矢的』黄表紙 山東京伝作・北尾重政画 仙鶴堂板 享和三年刊。上段は人形の体裁で下段は人。京伝     が重政に宛てた絵組の依頼である〉   ◇画工宛、十返舎一九の注文   〝一九作「三人生酔」(未刊歟)には 口絵の三美人に「きつねけん三人いづれもきれいによろしく御か    き可被下候 一九」とありて 次の三人生酔の図には、一九戯画並題と書して 直ちに版下にもならん    と見ゆる程に画きたる欄外に「こゝはやはり略画に此やうな風によろしく御かき可被下候 画先生 一    九」とあり、其他編中に「此様に略画に御かき可被下候」と記したるもの数ヶ処あり。一九は元来画も    達者にて「東海道膝栗毛」など自画なりといひ、偶々(たま/\)見る画賛など巧なるものあり、されど    之をみれば 或時は画工に清書させしこともありと見へたり〟    〈一九はそのまま板下としても良いくらいの下絵を自ら画いて画工に絵組みや絵柄を指示している〉   ◇歌川国貞・国直宛、式亭三馬の依頼    〝三馬の『二枚続吾妻錦絵』(文化八年稿)には「口上 当年は事多く候て 著述大延引 それ故下絵ざ    つといたし置候 よく/\かみわけて新図に図どり御たのみ申候 国貞君 三馬 わくのあんじも こ    としはおそくなり候ゆゑ 工夫いたし兼候 よく御救ひ可被下候」 又同作「清姫草紙」(文化九年稿)    「段々諸方よりおしかけられ 昼夜くるしくて/\なり不申候まゝ 下絵はいつものやうにつけ不申候    よく/\御工夫御相談可被下候 国直さま 三馬 どうでもよいからにぎやかになるやうに御たのみ     甚(だ)せつない音を出し申候」同六冊目ミカエシ「筆者さま 六冊ものにはチトむりなるすぢに候間     文句とかくこみ合申候 よろしく御うめ合せ可被下候」とあり〟    〈『二枚続吾妻錦絵』(合巻 式亭三馬作・歌川国貞画 仙鶴堂板 文化十年刊)多忙のため下絵がざっとしたものに     なってしまったが、後は宜しく頼むという三馬から国貞への懇願。     『【ひたか川】清姫物語』(合巻 式亭三馬作・歌川国直画 鶴喜板 文化十年刊)こちらは国直宛てのもので、原     稿の督促に追われているので下絵なしで作画してほしいという内容。この例は、戯作者側に下絵を画くところまでが     仕事の領分だとする意識があったことを示している。なおこの解説文〝同六冊目ミカエシ「筆者さま(云々)〟の意     味がよく分からない〉   ◇正月出版の稿本を板元に渡す時期   〝当時は早きは三四月頃より 著作に従事し 遅くも八九月頃迄には脱稿して 書肆の手に渡さざるべか    らず 然らざれば 夫れより公(おおやけ)の改(あらた)めを得て 画工、筆工、板木師、摺師、製本等    の手を経て後 初春の売出しの間に合はざればなり〟    〈作者の稿本(本文草稿+下絵)は、出来上がった段階で改(アラタメ=検閲)に廻され、それが通ると下絵は画工に渡る〉   ◇歌川国貞宛、式亭三馬、写本を督促   〝拙蔵三馬尺牘中「(前略)然らば兼て御約束申置候つる金様合巻元祖「高尾世之助」六冊出来上り 此    節改めに出し有之候 さがり次第早々差上可被申候間 兼約の如く早拵(こしらえ)に御染筆被下候やう    奉希(ねがいたてまつり)候 二ヶ年ながら延引にて 売出し遅(おそな)はり 板元・画・作三人とも勝    利を得不申候 たてひきと思召(おぼしめし) 当年ばかりは兼約の如く御急ぎ可被下候 先は御案内旁    (かたがた)早々頓首 六月十五日認置 国貞大兄 つる金さまへは下拙 請人に罷立(まかりたち) 貴    殿御写本早拵(はやこしらえ)の起請文を入れぬはかり 仍如件(よつてくだんのごとし)」    〈三馬の国貞宛書簡。「高尾世之助」とは『却説浮世之助話』三馬作・国貞画 鶴屋金助板 文化七年刊か。ここにい     う「写本」とは板下(絵)をいう。内容は、稿本が改め(検閲)を通ったら早速板下に取りかかってほしいというもの〉   ◇歌川国貞宛、山東京伝の督促    又京伝尺牘「(前略)岩戸や写本追々御したゝめ被下(くだされ) 大慶(に)奉存候 且又残り種本二冊    外々のをさし置(き) 相したゝめ全部出来仕候 さだめていろ/\御取込と奉存へ共 さしくり御し    たゝめ可被下候 売出しあまりおそくなりては ひやうばんもいかゞと案じ申候 何分御頼申上候(下    略)九月十九日 国貞様 京伝」とあり。文人画伯の懶性古今一徹といふべし。    〈作者が作成する「下絵」を「種本」と称し、画工が画く「板下絵」を「写本」と称していたようである。京伝は国貞     に、自分の稿本(下絵)を優先して板下を画いてほしいと頼んでいる〉   ◇歌川国芳宛、柳亭種彦の注文    種彦作「水滸伝」七編の初め「朱貴鵲画弓に響箭をとばせて快船をよぶ」の図に「朱貴の姿はからの正    本製にあるのを見てかき申候 ほんとうではなし是でわるさうなら どうか御直し可被下候、山水よろ    しきやうに御かき 中へさし合ひ候間こゝは雪のけしきでなく たゞ冬の山に 御かき可被下候」と記    せり。    〈『国字(かながき)水滸傳』七編(合巻 柳亭種彦作 歌川国芳画 仙鶴堂板 文政庚寅(十四)年刊)の見開き口絵に     関する注文〉   ◇歌川国貞宛、柳亭種彦の注文    国貞宛種彦尺牘に「然者(しからば)源氏二編目御とりかゝり被下候やう願上候 もし其前に御めにかゝ    り不申候て 口絵光氏と藤の方を色事の処 十五歳と朱がきに致し置(き)申候 それ故なでびんに致置    申候が 十六才とかきかへ候間なでびんでなくてもよろしく 其外は下書に直し候処無之候 ◯(ママ)料    理通絵の事 当年のは精進物のよし しかればげいしやよりはかげまか寺小姓か男色の方うつりよかる    べく奉存候 画のもやうもなんぞあんじつき候はゞ 又々可申上候 以上」とあり〟    〈これは『偐紫田舎源氏』二編の口絵に関する指示で、足利光氏の髪型を変更してほしいとのこと。「下書」とは種彦が     作成した下絵のこと。     『精進料理通』歌川国貞画 八百善著 泉市板 文政五年刊。種彦がこの料理本とどう関係しているのが分からない     が、精進料理に関するものだから、宴席には陰間や寺小姓など男色の方が相応しいのではないかと、図案を国貞に示     したのである。もっとも却下されたと見えて、刊本には芸者が侍っている〉   ◇画工宛、曲亭馬琴の口上    (中略。天保十二年、馬琴失明に関する林若樹の記事。以下『新編金瓶梅』(曲亭馬琴作・香蝶楼国貞     画)の九集一巻の末尾に朱筆でもって記された馬琴の画工宛口上)   〝画工様へ口上 一、作者旧冬より老眼衰(え) 当春より書き候事も画き候事も 少しも致(し)難(く)候    間 筆工は女わらべに代筆申(し)付(け)綴り立(て)候へ共、画わりは代筆致難候もの之(これ)無く候間    是非無く人物の形計りさぐり書に致し 朱にて注文書致させ置(き)候間 本文共に御熟読の上 此人物    に宜敷(よろしく)御書き成し可被下候 校合も女童に読せ 耳にて校合致候間 格別日間(ひま)入申候    跡二冊も稿本引続き出来致候間 御くり合成 当年は画写本早々御出来成可被下候(以下略)〟    〈「画わり」等の下絵作成は本来作者がすべきだが、もはやそれも出来なくなってしまった。今後は朱で注文書きするほ     かないが、ついては本文ともどもに熟読したうえで作画をしてほしいという、馬琴の苦渋に満ちたお願いである〉  ◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注   ◇「小説の本になるまで」(『版画礼賛』所収 大正十四年三月)   (全体の流れ)p1   〝(黄表紙・合巻等)軟派に属するものは、其(作者が作成する)稿本を地本問屋の行事の手で一応検閲し、    之を月番名主に差出し、忌憚に触るゝことなく出板差支なしとなると、許可の証たる行事の割印をして    其出板書肆に戻す、出板書肆は其稿本(之を種本といふ)を画工に廻す。画工は其種本に示す通りの下    図に拠つて板下をつくり、之を筆工に廻はす。筆工は又其種本に随つて画工の板下の余白に本文を清書    する。出来上りたる板下(之を写本と云)は愈々板木師に廻はされ、板木師は彫刻の上、著者再三の校    正を経て校了となると、刷師によつて刷り上つてから製本屋の手にかゝつて(黄表紙の如き少部数且つ    製本の簡単なるものは本屋の手で製本される)初めて一部の冊子となる。出板書肆は黄道吉日を撰んで    発売する。其発売の前日若しくは当日に其製本一部を地本問屋行事の手を経て其掛りの町年寄奈良屋    (館氏)市右衛門方、所謂館役所に納める。爰に於て数多の手数を経て出来上りたる冊子は初めて顧客    の手に渡るといふ順序になるのである〟    〈「画工は其種本に示す通りの下図に拠つて板下をつくり」とある。作者の作成する稿本(種本)には、本文原稿の他に、     絵組や絵柄を指定する下図(下絵)も含まれる〉   (「作者執筆の時期」)p2   〝青本と唱へらるゝ滑稽風刺を旨とする黄表紙やお伽話の赤本など、神数五枚を基準とする小冊子の出板    初期は、大抵春春の売出しを例としたので、作者の起稿も十月頃迄で充分間に合つたらうが、後には、    初春は元より四季を通じて、出板を続けたので、作者は年中執筆に追はれる様になつた。然し前半季よ    りも後半季の方がどうしても忙しかつたらしい。試みに文化五年中に地本問屋の行事の手に渡つた稿本    の数を挙げると、正月より三月まで十七部、四月より閏六月まで二十七部、七月より九月まで二十一部、    十月より十二月まで二十部、総計八十五部(以下略)〟    〈行事による検閲が終わると、稿本(種本)は画工のもとに送られ、画工はその稿本を基づいて板下絵を画く〉   (「作者と画工との関係」)p3   〝黄表紙、合巻の如き絵を主としたるものは、絵主にして文客たるやの感あるもの故、作者は趣向を尽し    て絵組の下図をつけ、画工は只唯々として其図を清書したる迄である。故に多くの草稿を取りて板本と    比較対照すると、其図様殆ど相同じく、偶々異同があれば、図面の配置上、人物の向きを取替へたる位    に止まつて居る。(馬琴の稿本に)     「人物の居所すべて取合せはこの下書に拘はらずかつこうよろしくめがひ上候」     「画は下画に拘らず思ひ付も御座候はゞ 可然御書つけ可被下候 とり合せ等とかく可然御工夫      ねがひ上候」    などゝ書して居るが、画工の重政や豊広が其朱書に随つて、充分自分の腕に任かせて筆を揮つたなら、    著作に就いて細心にして且つ神経過敏なる馬琴が決して其まゝに看過しようとも思はれない。必ずや後    年北斎と『三七全伝南柯夢』や『絵本水滸伝』の挿絵に就いて衝突したと同様な事件を惹起したことで    あらう。(注)    当時に於て作者と画工との関係は以上の如く対等の地位を為すものではなくして、作者は常に画工をに(ママ)    一段下(に)見下し、画工は作者に対して一目を置いて居たのである。然し豊国や北斎等が名声の江湖に    喧伝せられて社会上相当の地位を占むるに居つては、徒らに作者に首を屈せずして屡々衝突を見るに至    つたのである。然し一般に言へば、維新迄も草双紙の挿絵に就いては画工は作者に対して常に一目を置    いたもので、画工の腕を揮ふのは只錦絵にのみ限られて居たと言ふべきである。それに、画工は多く学    問の素養がなく、どうしても智識に於て作者に頭は上らず、又頭を上げやうともせず、只一介の職工を    以て甘んじて居たのである。彼のベランメエの国芳が一部浮世絵師の代表者として最適当の人物と考へ    る〟    (注)北斎が馬琴の下絵の通り画かなかったというトラブルについては、その真偽はさておき本HP北斎の項、明治三十       二年の『浮世画人伝』参照のこと   (「筆耕」)p15   〝筆耕も出板には無くて叶はざる専門の技術者であつて、読本や合巻の末に、往々彫師と其名を列ね記し    てあるは、作者が窃(ひそか)に其労を謝する心づかひであらう。然し其位置は、恰も浮世絵に於ける彫    師や刷師と同様に、所謂影の人故、如何なる人が従事してゐたか詳細の事は伝はつて居らぬ。専門に此    事に従つた人もあらうが、中には幕府の御家人の内職(見様によつては本職)として之に携さわつた人    もあらうと考へらるゝ。然し古くは画工の北尾重政は筆耕も兼ねてゐたし、渓斎英泉も同様であつた。    一九の著書の大部分は彼れの自筆と察せられる。彼の原稿「一ノ富当り眼」に一ヶ所も朱書の注文のな    いのも其事実を裏書する一であらう。松亭金水や晋米斎玉粒は筆工から作者となつた人達である。八島    定岡も、英泉と同じく、画も筆耕も作者も兼ねてゐる。而して其工料は前に引ける山崎美成の『海録』    巻三に「文字の書入も一枚十六文位なりしが今は中々左にてはあるまじ」とあるより推して高くなつた    として工賃としては最軽きものであつたのである〟   (「校合」)p15   〝校合とは今いふ校正のことである。愈々写本(板下)が出来て来て板木師(彫師)に廻り、彫刻が出来する    と、校合刷りを作者に廻送する。作者は誤字、缺画、ふりがな等を朱を以て訂正して板木師に戻す、板    木師は其校合に従つて入木、さし木等を以て訂正して又校合刷を出すこと再三。現今の活字と異り、一    旦板木に彫刻したるものを彫改むることゆゑ、其手数は非常のものである。作者も其労は容易でない。    就中、馬琴の如き極度に八ヶ間敷人にあつては、板木師の煩労は元より延いては出板遅延の為め、書肆    も迷惑を感じたであらう     (煩雑な校合の様子を伝える馬琴の鈴木牧之宛書簡 省略)    拙(林若樹)蔵、馬琴作『糸桜春蝶奇縁』等之七の校合本を見ると、多きところは半枚に数十ヶ処、少き    ところも二三ヶ処、誤字、脱字、缺画、ふりがな、句読等を朱もて訂正してある。其細心なる句読の圏    點の僅に缺けたるところにも注意を払つて居る。意を用ゐなければ如何なる故に筆を加へたかを苦しむ    程である。思ふにかく厳密なる校正は、敢て馬琴一人のみではあるまい。皆相当の労を費して居るので    あらう。されば、維新前の出板物は、今の人の知らぬかゝる裏面の事情が覆在してゐて、書肆や板木師    刷師、画師の労も、今に比して、余程の苦心を要したのである〟   (「草双紙の定価」)p17   〝紙数五枚を以て一冊の基準とした赤本や黒本や青本(黄表紙の本名)は、宝暦、明和の頃は一冊六文の    割りで、安永、天明の頃は一冊八文、二冊もの十六文、三冊もの廿四文に騰貴した。古板の再刷は一冊    七文の割であつた。寛政六年には一冊十文の割りになり、文化初年には十二文の割りになつて、古への    倍価となつた。文化三年に式亭三馬が『雷太郎強悪物語』前後二篇を著はし、従来の草紙の五枚を一巻    とし、前後二冊になしたので、手数もかからず、便利のため翌年より皆之に倣つて草双紙の風が一変し    て了つた。之を『合巻』と呼ぶやうになつた。    合巻ものの全盛であつた文化六年には、表紙も美麗になり、価も一匁から一匁五分になつたといふ。    文化の十四年には、あまり手を尽した色刷を禁ぜられ、一冊十六文の割で売つたといふ〟   ◇「団扇」(『書画骨董雑誌』百八十号 大正十二年六月)   〝江戸で発達した浮世絵は江戸産の団扇に応用され出した。私(林若樹)は団扇の古板木若干持つて居るが、    其の画工は清広、文調、清満、春信、春章、重長等を数へ、図は宝暦頃の二代目団十郎鳴神図を始め明    和安永天明迄の狂言がおもで、これ等は普通の浮世絵と同様に三色四色刷のものであつたのである。    此の時代には団扇には役者絵がおもで、美人や山水は先づ無いと言つて能い。それが享和頃から役者絵    と共に美人画も盛んになつて浮世絵と共に華美を競つた。維新前堀江町の団扇絵問屋は錦絵の範囲を侵    害するものだと言ふので、錦絵問屋から訴訟を起された。然し団扇問屋から古くからの板木を持出し既    得の権利を主張して勝つたと伝へられる。ツマリ団扇絵の変遷は浮世絵同様とあるといつて善い〟   ◇「川柳」林若樹    『日本及日本人』「川柳天の声」(大正四年六月~同年十二月号所載)     光琳に成金様の御ン名前    光琳にも色々あるもんだネエ     洋書からヤレ春信の歌麿の   浮世絵は儲かりますともちかける     浮世絵にゲオシャ・ハラキリ・リキシャメン  浮世絵を青い眼玉で買ひかぶり    『日本及日本人』「川柳天の声(二)」(大正五年間号所載)     広重忌まうける顔があつまりて 浮世絵に鑑定の要る馬鹿らしさ    『日本及日本人』「川柳天の声」(昭和九年六月~十年五月号所載)     下ぶくれ美人であれば又兵衛さ  よつく聴け写楽元来下手絵かき     浮世絵にばかり偽物があるがごと 惜しい事バレねば美術貴重品         ◇「うまの春」p577    〝いくよ/\幾代つきせじ君が春 午歳の男     明けく治まる丙の午のとしのはじめの日 それの別業にすきものども 各々秘めもてるおそくづの絵     たはれの文もちよりて 一日遊ひくらいつ 今其目録をつくりて午の春と題するになん  樹々若葉      とり/\に心の中も春めきて今朝立ちそむる午の年かな〟     〈明治丙午は明治39年、その年の正月、林若樹など古物蒐集の好事家たちが、それぞれ秘蔵する春画や戯文を持ち寄      って観賞会を催した。「うま(午)の春」はその目録〉    『恋の楽』菱川師宣筆  大本一冊      末尾に、此枕絵双紙は菱河氏大和一流之絵師にして筆曲をつくされたり 是を見るにむかしのあふ      てかたるにひとし よつて令板行者也 京寺町四條下る町菊屋長兵衛板    『恋の花むらさき』同上 大本一冊      末尾に、右此枕双紙一帖は倭国絵師菱川画所求之若輩之賞翫にならんとて板行者也 正月吉日 日      本画師菱河師宣筆 武城書林松会板行    『業平本朝のしのび』同上 大本二冊    『裏四十八手』同上 大本一冊    『無題号』  同上 大本一冊      鳥羽僧正の男根競を元としたるもの末尾、かのえ申の年 画工菱川師宣 板行柏屋 とあり延宝八      庚申年の出板なるべし    『五れいかう』同上 大本一冊      末尾に 右五れいかうの枕草紙は菱川氏吉兵衛と云し画工筆槨をつくしあやまる所もなく書れしを      一帖にして令板行者也 元禄八ッのとしいの正月 まつえ板行    『情のうわもり』同上 大本三冊      末尾に 此枕草紙上中下の替りたる品々に首書を加へ令板行者也 日本絵所 菱川吉兵衛師宣 大      伝馬町三丁目鱗形屋開板    『三世相性枕』 同上 大本三冊      末尾に 右此枕絵者やまと絵師秘術を尽し三世の相性をあらはし画に書れしを三帖にして令板行者      也 晩春吉日 近江屋九兵衛開板    『閨の盃』鳥居清信筆 一帖      末尾に 元禄十六癸未載正月吉祥日 洛陽絵本書肆寺町通り二條下ル二丁目 金屋平右衛門板    『無題号』奥村政信筆 大本一冊    『無題号』同上    大本一冊    『色道取組十二番』湖龍斎筆   色摺大本一冊    『対の雛形』   葛飾北斎筆  同 大本一冊    『歌まくら』   喜多川歌麿筆 同 大本一冊    「菱川師宣肉筆春画」一巻         『人間楽事』一名修身演義 中本一冊      柳亭種彦の春画好色目録に 春画刻本のはじめなるべし とあり又同書中 予が見たる本は白、う      すくれなゐ、うすはなだのたぐひいろ紙にきらをひきたるに摺りたるにて光悦本の諸本に似たり       とありこゝに出せるは半紙に刷りて丹緑をほどこせり 寛永頃の後摺本歟    『小夜衣』 半紙本五冊      天和三年板作者城坤散人茅屋子序 と春画好色本目録に見えたり    『花の名残』半紙本五冊      末尾に 天和四年歳子正月吉辰日 江戸神田新革屋町西村半兵衛 洛陽錦小路新町西へ居町(アト欠)    『好色訓蒙図彙』吉田半兵衛作 小本三冊      序に 時や貞享三年弥生中の五日 洛下の野人作書 無色軒三白居士みつから序 とあり末尾 貞      享三年丙寅弥生吉日 花洛銅駝坊 三右衛門 高辻 昆陽軒板    『【新板】好色江戸むらさき』半紙本五冊      末尾に 貞享三年八月吉日 作者石川氏 通油町板本    『梅のかほり』半紙本五冊      東陽幽叢拙氏夢遊軒序 貞享丁卯孟春日 小石川伝通院前書林梓之    『好色あを梅』半紙本一二四ノ巻 三冊      貞享の板行なるよし 画好色本目録に見えたり 玉梔軒有當子序    『【江戸貞女】小夜衣』半紙本五冊      序に 元禄二年初秋吉鳥書林新両替町四丁目松鈴堂渡辺保大謹てこれを述す とあり    『陰陽秘伝犯内書』  小本一冊      末尾に 大和絵師奥村新妙政信 山口屋権兵衛開板    『風流三国志』    枕本五冊      末尾に 宝永五年子正月吉日  寺町菊屋板    『風流艶色真似ゑもん』湖龍斎風の絵入 折本二帖    『夢想曾我の番付』黄表紙 森羅万象作 十丁 合一冊    『手まり歌三人娘』同         十五丁合一冊    『おかはなし』  同         十丁 合一冊    『【姉に身を打妹にしなふ】美太平記咡競噺』同 十丁 合一冊    『こひのうわもり』中本十五丁一冊      黒本の好色本なり 初めに男女贈答の文つくしあり 後にこひのうわもりと題して陰陽の道を述べ      末は和漢の物語を記す 菱川風の画なれど古し寛文頃のもの歟 柱に「せん」とあり    『無号題』黒本  中本廿三丁一冊      これも黒本にて四位少将小町、八幡太郎おのへの前、曽我十郎虎御前等和国の物語をしるす 画は      菱川風なれど時代少しく降れり 後の取合本歟 されど延宝頃のものなるべし 末数枚落丁歟    『吉原まくら』 菱川師宣筆 横本一冊      万治五年板にして毎葉春画あり 上に吉原遊女の紋所を付す    『遺精先生夢枕』恋川春町画作 十五丁合一冊      黄表紙なり夢に托して 大御所家斉公の乱行をしるす    『好色千本桜』 森羅亭万象作 十丁 合一冊      これも千本桜に擬したる黄表紙なり    『床喜草(とこよぐさ)』唐来三和序 小本一冊      画は政演歟 序の次の口絵松樹と松茸とのかたに 松かげにおへるきのこと人はいへど これはち      とせをへのこなるべし 平刈高 とあり 例ののゝ字なれば 朱楽菅江なるべし 序い甲辰とあれ      ば 天明三年印行なり 抱一上人の秘戯らしき事なと記しあれば 当時の狂歌師の楽屋落を元とし      たるなるべし    『子犬つれ/\』小本一冊      徒然草にならひて色欲と食欲とのことをしるす 古風の画あれども文化頃の印行なるべし    『春窓秘辞』  折本一冊      真顔・飯盛・焉馬・三馬・馬琴・岡持・京伝等十二名の合作にして十二ヶ月を題としてしるしたる      もの 蜀山の題辞あり 何れも各作者の筆蹟を其侭に刻せり 画は無し 文化中の印本ならん    『華月帖』   折本一冊      古画を抽きて影画としたり 天保七丙申の歳 加茂季鷹吾妻下りの家つとにせんとて刻したる由      跋に見えたり       『長枕褥合戦』平賀源内作  半紙本一冊      明和四年の印行なり 鎌倉の尼将軍の秘戯を脚色したる院本なり     同上           小本 一冊      万延元年平銀鶏 新たに序跋を付し小本に縮刷す    『痿陰隠逸伝』平賀源内作  小本 一冊    『肉蒲団』      一名覚悟禅 四冊    『則天皇后如意君伝』呉門徐昌齢著 二冊    『百戦百勝』           一冊    『杏花天』            四冊    『大東閨語』     大雅堂戯作 二冊    『春臠拆甲』      活々庵著 一冊    『営錦陣』    武林養浩斎繍梓 一巻      支那の春画なり 末尾に此一箇軸是微仲的筆邪柳伯虎所画未審其縁的雖然天啓以前之物亦是味外之      一滋味云爾巫山雲雨看巳低興尽全擬掛角◎展翫斜持憑鳳翼恰如夢裏上天梯 宝暦十三未冬 内兀激      妙題 と書入あり 支那板の覆刻歟    「古春画小柴垣摸本」一巻    『【まめ右衛門/後日】女男色遊』横本五冊    『女大学宝開』   大本一冊      宝暦頃の印行にて西川風の画なり女大学に擬す ◎軒開莖先生述 閨花書肆称悦堂開板とあり    『和将棊喜悦詰物』 西川風の画 横本三冊    『両面千里栄』         両面摺一枚      表に三都並に各所遊女の値段付をしるし 次に吉原賦といふ漢文あり 末に吉原の名物をしるす      裏は西川風の春画宝暦頃の印行歟    『昼夜夢開両面鑑』       両面摺一枚      各所の色里の値段付をしるす 西川風の春画あり これも宝暦頃歟    「春画寿語録」         三枚      一枚は「今様美人名開双陸」といひて上下女の品々 一枚は「源氏双六」 一枚は「江戸色里名異      女双六」と題し江戸の遊所をしるせり 共に天保頃の印行歟    『好色修行諸国隠門物語』    小本一冊      三都並に各地遊所の案内なり 山東京伝作と伝ふれど如何あらん歟        『艶色花月夜』草稿 ◎山人作  巻之一 一冊      『萍花漫筆』の著者桃花園三千丸の好色読本草稿なり    『星月夜吾妻源氏』草稿 暮々山人作 二篇上中下 三冊      仮名垣魯文の草稿なり 初篇は出板したれど 二編は刻成りたるや否やを知らず    『どゝ一節席占』草稿  梅亭金鵞作 一冊      破(ば)れの都々一を集めたるもの    「淡島椿岳大津絵春画」草稿  一折    「三代目広重春画」  草稿  数葉    『藐姑射秘言(はこやのひめごと)』大本前後二冊      黒沢翁満の作 後篇は安政六年秋刻成るよし 末尾に記せり    『逸著聞集』 写本一冊      山芋明阿弥か 古今の物語より好色のことを集めたるもの 写本もて伝ふ    『著聞通』  中本一冊      『逸著聞集』中より抜粋して 文政頃印行したるもの 蜀山蔵書目録に「近来『著聞通』と外題を      直し古色の序を刷りたり」とあるこれなり    『あなをかし』写本一冊      会津藩士沢田名垂の戯著写本もて伝ふ 以上『はこやのひめごと』『逸著聞集』『あなをかし』を      好色の三奇書と呼ぶとかや    『末摘花』  小本四冊      柳樽中より末番の句のみを抜きたるもの 初篇安永五年出板、二篇不詳、三篇寛政三年出板歟、四      篇享和元年出板        『色ひいな形』鳥ノ子紙刷 横本五冊      御所風、侍風、百姓風、町風、商職風と別ちたり 末尾に宝永八ッの春 大和絵師西川祐信 作者      八文字自笑とあり    『蜀山人手写僧尼孽海』一冊    『静海奇談』   小本一冊      初め漢文後に和国風俗の春画あり 安永頃の印行歟    『はつはな』   箱入一巻      壇浦に於ける女院判官文会のことを和文もてしるす絵五葉あり 喜多武清画くところ箱蓋の裏に      「春たてとひもとく梅のはなゑみにゑまひひらかぬ人はあらしな」と印行の短冊を貼す 文中の筆      跡は屋代弘賢に髣髴たり 伝ふるところによれば塙検校の戯作にかゝり 弘賢に書写せしめて印行      すと もしさならんには文化頃の板なるべし        『花の幸』        写本一冊      作者不詳・・・・・(ママ)の秘儀をしるしたるもの 如意君伝の和訳と見えたり    『媄事枕(ひじまくら)』  写本一冊      男女の道を説けり    『諸遊芥子鹿子』     横本一冊      西川祐信筆の・(ママ)画を挿入す 遊女と野郎との経歴談なり    『志道軒五癖論』夢外述  写本五冊      志道軒か遺稿を補綴せるものなるよし 序に見えたり    『しめしこと雨夜の竹かり』写本一冊      これも同じく男女の道を説けり 末に椙本某法印のしるしおかれしところとあり    『枕の数』文口主人篇   写本二冊      好色読本の序跋を纂輯せしもの    『元無草』志道軒著 寛延元年板  半紙本一冊    『土器お伝密夫顔見世番付』    一枚    『大和菊春雨曽我』土器お伝に関する摺物 一枚    『玉の盃』    式亭三馬合巻  二冊    『春情妓談水揚帳』初代柳亭種彦作 半紙本三冊    「淡島椿岳筆忠臣蔵春画」     一帖    「湖龍斎春画団扇画」一枚    「清長筆 同上」  一枚    「春潮筆 同上」  一枚    木彫志道軒像根付    一個    木彫美人行水像根付   一個    木彫裸体三平二満像根付 一個    春画刺繍巾着      一個    古銭風花雪月      一枚     右は面に風花雪月 背に男女交合の図四図あり 真鍮銭にて支那鋳造なり      古代牙彫裸体美人根付  一個    熊本産玩具土製木の葉猿 一個    摂州住吉産土製交合犬  一個    浅草人形男女公会像   一個    清水焼松茸形香合入同上 一個      加茂川人形男女交会像  一個    古代牙彫男女交会紐印 印文「将入佳興」一個    華山人所製素焼陽形   一個