Top           『浮世絵展覧会目録』          浮世絵文献資料館                エルネスト・エフ・フェノロサ著     その他(明治以降の浮世絵記事)       「浮世絵評伝序」重野安繹撰「浮世絵展覧会目録緒論」エルネスト・エフ・フェノロサ識         (原本『浮世絵展覧会目録』蓬枢閣(小林文七)・明治31年(1898)刊)        〔底本『浮世絵展覧会目録』国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」〕         ※ 作品個々に対するフェノロサの解説は上記「近代デジタルライブラリー」参照        〈 〉内のカタカナは底本のルビ。( )内のカタカナ及び漢字は全て浮世絵文献資料館の私注     「浮世絵評釈序」(重野安繹)   〝蓬枢閣小林文七、客歳浮世絵歴史展覧会ヲ上野美術協会室ニ設ケ、今又上野新坂下伊香保温泉楼上ニ開カ    ムトス。是ニ於テ古来名匠ノ真蹟及刻本二百余種ヲ蒐メ、米人フェノロサ氏ヲ延テ其品隲ヲ請フ。氏欣然    允諾シ、之ガ評釈ヲ作リ、毎幀、審ニ色訣筆力ノ妙、意匠布置ノ巧、及師受流別ノ異同ヲ弁ジ、加フルニ    年時ノ先後ヲ以テシ、鑿々乎錙銖ヲ差ヘズ。思想ノ超、鑒識ノ精、邦人ヲシテ後ニ瞠若タラシム。而シテ    其属稿崇朝ナラズシテ成ルト云、即此書ナリ。文七来リテ緒言ヲ嘱ス。予聞ク、フェノロサ氏、本邦ニ遊    ブ十数年、心ヲ絵事ニ竭シ。逸品ヲ観レバ輙チ之ヲ購ヒ、貲費ヲ恡マズ。又常ニ画手ヲ雇ヒ、京畿ヲ往来    シ、到ル処名藍鉅刹ヲ叩キ、請テ其秘笈ヲ披キ、淹留動モスレバ数十日、尽ク其古画ヲ模写セシメ、或ハ    諸州ヲ跋渉シテ、山川風俗ヲ描画シ、満載シテ帰ルト。勤メタリト謂ベシ。氏ノ胸中既ニ成竹アリ。故ニ    此書ヲ成ス。兎起鶻落、此ノ如クノ敏且確ナリ。夫レ中ニ積ム者厚ケレバ。外ニ発スル者必ズ燦然トシテ    見ルベキアリ。知ラズ世ノ画師、果シテ如何ノ観ヲ為スヤ。       明治三十一年四月           文学博士  重野安繹撰〟     「蓬枢閣・小林文七、昨年(明治三十年)浮世絵歴史展覧会を上野美術協会室に設け、今年また、上野新坂下伊香保温泉楼    上にて開催する。ここに古来の名匠の真蹟及び板本、二百余種を集め、米人フェノロサ氏を招いて其の品評を請う。    氏、欣然として承諾しこの評釈を作る。毎幀、審らかに色法・筆力の妙、意匠・構図の巧、及び師・流派別の異同を述べ、    加えて年時の前後でもって区別した。明確にして少しの間違いもない。超絶した思想、精緻なる鑑識、邦人の目を見張ら    せるに十分である。しかもその草稿、崇朝ならずして(日の出から朝食をとる前=直ちに)成ると言う、即ちこの書であ    る。文七、来て、緒言を依頼する。余、聞く、フェノロサ氏、本邦に遊学すること十数年、心を絵事に尽くし、逸品を観    れと直ちに購入し、貲費(シヒ=財産)を惜しまず。また常に画工を雇い、京畿を往来し、到る処の名伽藍・大寺の門を叩き、    請うてその秘蔵を開き、滞在ややもすれば数十日、ことごとく其の古図を模写させ、或いは諸州を歩き回って、山川風俗    を描画し、満載して帰る、と。努力を尽くしたと謂うべし。氏の胸中には既に成竹(目論見)あり。故にこの書を成す。兎    起鶻落(書画や文章に勢いがあること)、その熟語のように俊敏にして且つ正確である。そもそも胸中に蓄積するものが    厚いので、外に発するものには必ずや燦然として見るべきものがあるはずである。しかしながら、世の画師が、果たして    どのような見方をするかは、分からない」     「浮世絵展覧会目録緒論」(エルネスト・エフ・フェノロサ)   〝浮世絵美術は日本の愛国家、好古家、社会学者、また美術愛翫家にとりて、特殊の興味あるべきものなる    に、従来其(ソノ)本国に於ては殆ど度外視せられぬ。之に反して外人は輓近(最近)二十年間熱心之が研究蒐    集に従事し、其結果今日最上乗の浮世絵は大抵日本に存せざるに至れり。巴里(パリ)の蒐集家中には一人    にして一万内外の標本を有する者あり。板物展覧会は屡々(シバシバ)巴里及倫敦(ロンドン)に公開せられ、有    名なる人士の之に関する編著多く、又米国にては其研究更に精細に進み、ボストンの美術博物館は浮世絵    各種の分類年代等を捜索せり。肉筆板物の浮世絵をば、時代に従ひて陳列し、且つ之に製作の年代を附し    たる完全なる展覧会は、一八九六年紐育(ニューヨーク)に開かれたるものを嚆矢とすべく、其際余は実に物品陳    列目録編纂の名誉を有しき。
   明治年間日本に於て、浮世絵に就き何等の注意を施したる美術愛翫家の極めて稀なるは、徳川時代より遺    伝せる僻見に拠るや疑を容れず。当時浮世絵を野鄙なり平民の美術なりとして蔑視したるは、やゝ英国清    教徒のシェクスピーア時代の劇場の粗野なるを嫌忌せしに似たり。明治の保守主義も亦(マタ)浮世絵を以て    些細無価値なるものとし、一八八〇年乃至(ナイシ)一八九〇年、日本の紳士が少許(スコシバカリ)の蒐集をなせる    に際し、外人は多く是等の実物を購求し去りぬ。但し輓近三四年間此風稍(ヤヤ)変じ、多数の美術愛翫家は    好機に乗じ、悦んで浮世絵肉筆を其蔵品中に収むれども、猶(ナオ)外人より見れば、浮世絵中要用なる部分    を成せる板物(板画)をば、正当に貴重するに至らず。去年小林文七氏は上野美術協会内に肉筆のみの浮世    絵展覧会を開き、大に公衆の注意を惹きしが、本年同氏は更に完全なる展覧会を催し、徳川幕府初期より    其末路に至る間、書物挿画を除き、各種の浮世絵を肉筆板物共に陳列せんとの計画あり。此展覧会は日本    固有の美術の重要なる一派を研究するにつき、日本人民の嘗(カツ)て得ざりし好機を始て与ふるなるべく、    亦之をして更に趣味多からしめんが為に、小林氏は余に托するに陳列品をば紐育展覧会に傚ひ、時代に従    ひて、撰択整理し、又其目録を編纂するの任を以てせり。余の知る所によれば、内部の証憑(証拠)により    て板物肉筆に精細なる年代を附するは、日本にては本会を以て嚆矢とすべし。紐育展覧会と本会との相違    は、重(オモ)に本会陳列の肉筆の数、板物に比して頗る多きにあり。浮世絵師は等しく肉筆板物に従事せし    なるが、紐育展覧会に於ては其肉筆の数板物に相応せざりき。
   外人をして浮世絵を賞賛措(オ)かざらしめし理由は、今や日本人の興味を喚起せんとせるものに等し。第    一浮世絵が平民美術の一派にして、歴史的特殊の価値を有せること是なり、貴族は其権勢を諸般の事物に    及せるが如く、又美術にも之を及したれども、権勢は美術に於ては大抵頽廃の種子たり。即ち徳川時代の    狩野派土佐派の美術は寧ろ悲しむべき無変動の状態に陥りぬ。加ふるに此の如きは多く抽象的思想又は虚    偽的社会の美術なること、猶十八世紀に於ける仏蘭西(フランス)宮廷の美術のごとし。たゞ其保護者の想ふ所    を知らしむるのみにて、遂に其保護者の何人にして、又何事を為すやを知らしめず。吾人は希臘(ギリシア)    の平民美術の一瞥を得んが為には何の悋(オ)しむ所かあらん。吾人が数世紀以前の欧洲の平民美術を知る    は板刻に拠るのみ。日本にては、徳川時代に至るまで、実際平民美術と称し得るもの無かりき。徳川時代    の緊要なるは啻(タダ)に大名武士の行為のみならず、又平民が自ら進んで独立生活を営むに至りしにあり。    貴族は其主義、文学、又美術をば尽(コトゴト)く過去又は支那より得来りしも、平民は遂に何等の先例伝説    を有せず。然(シカ)も猶自己特有の趣味、智識、又文化を開発し、以て今日の国民生活に対する大責任を果    しぬ。試(ココロミ)に想へ、若(モ)し日本が足利時代の蒙昧より、一躍して直に今日の輿論(ヨロン)を基とせる    立憲政治に至りたりとせば、果して如何なるかを。元禄以降江戸平民の富饒なる生活は、実に今日の国民    の学校たり。通俗の歴史小説、演劇、絵本、精細なる道中記、科学的事業の初歩、是等はすべて平民の階    級よりして、其名誉ある起原を発し、而して浮世絵は此新傾向の驚嘆すべき特殊独立の美術にして、画工、    手訣(画法)、標準、題目、及趣味につき、古代又は同時代の貴族派より得たる処殆ど無し。其大事業は板    絵の印刷、殊に之を色摺にする発明にあり。こは単に美術を廉価にし、全国民をして之を得(エ)易(ヤス)か    らしめ、稍々(ヤヤ)今日の新聞紙の功用を果したるのみならず、又その性質に適応せる色彩布置の新方法の    発明を促し、以て簡単なる平衡及調和に関する根本的原則を注意せしめき。若し外人にして斯の如き社会    学的興味ある日本の事物に専心留意すとせば、日本人は此国家的精神発展の必要なる一部 ── 縦令(タトエ)    微賤なりと云ふとも ── を釈了するに於て、一段の奮発を為さゞるべからざるなり。
   されど外人の浮世絵殊に其板物を賞するは、他に大に理由の存するあり。即ち普通の見解を以てするも、    是等板物が純乎たる審美学的優秀を有するにあり。欧洲板物の愛翫家又蒐集家にして、最上の日本古代板    物、例へば奥村政信、春信、清長、又北斎の板物の、意匠及手訣に於て、明に審美学上世界の好標本なる    を確信せざる者一人も無し。巴里の浮世絵板物の大蒐集家の一人は彩色印刷を業とせる大工場の長たり。    紙の撰択、紙質、線彫刻の性質、色の度の平坦、並列、重畳により、如何にせば最も簡単広闊巧妙なる結    果を得べきかの智識は、挙げて板物に存す。こは西洋人にとりては完全なる一の啓示にして、工芸美術の    みならず、工芸美術のあらゆる原理は実に之によりて変更せられぬ。西洋人が浮世絵を愛するの深理は此    美術が絵画の根音〈キイノート〉所謂楽典を弾ぜるに至り、若し美術が濃淡、色目、大小、形状の調和的関係に    従ひて色彩を点綴するにありとせば、かゝる困難なる湊合(総合)に奏効せんには、先づ其最も簡単なるも    のに熟達せざる可からず。而して其最も簡単なるは、大小、形状、濃淡、及色目をたゞ二色を用ゐて配置    するにあり。肉筆は調子の一致及純潔を得るに困難なれども、平坦なる木版より印刷せられたる板物は、    簡単なる着色を与ふること容易なり。かるが故に薔薇色及緑色を用ゐたる清信の諸作、又宝暦年間に於け    る清信の継続者の諸作は、簡単なる色彩排列の最上乗の文法となり、其完全にして一致せるは希臘装飾の    最佳なるものに比して勝れりと云ふも可なるべし。而して清満の三色摺、春信の五六色摺に至りては、此    文法の絶妙の修辞法に達せるを見る。西洋にては能く此点を理会せるが故に、工芸品製造所図案学校より    画学校に至るまで、孰(イズ)れも是等の板物をば蒐集し、以て生徒用の極めて有益なる標本とせり。全世    界中美術の根本的原則の最豊富なる出所は即ち板物にて、図案科の教授は最上級の生徒に対し、之に就き    て審美学上の講義を試みつゝあり。板物の表はせる諸原則と欧洲美術の純潔なるもの、即ち希臘、十四世    紀の伊太利(イタリア)、又ミレー、コロー派の仏蘭西美術の原則とは調和を失ふこと無し。最も簡単に又最も    鞏固に、是等普通の諸原則を現出せるは板物なるに、日本人がその美術教育上の無双の価値を認めざる唯    一の人民なるは奇とすべし。単純、一致、調子、濃淡、又調和即ち往々今日の日本美術に欠くる所は夙(ツ    ト)に茲(ココ)に明示せられぬ。
   また斯(カ)く歴史的に陳列せられたる浮世絵の標本は、日本人にとりて好古的価値ありとす。浮世絵は他    に記述せられざる事実の無双の倉庫なり。風俗、衣服、結髪法、模様の流行、室内の状態、市街の景況、    また過去の人心が田舎の風景に対する感情等は、完全なる浮世絵の蒐集によりて知るを得べし。浮世絵師    が以上の諸点に関し、力(ツト)めて年々の流行を逐ひしは、当時の人民が風俗に関する審美学上の特徴につ    き、鋭利なる興味を有せしを證す。婦人結髪の法は時として明(アキラカ)に一年以内に変化せりと思はるゝあ    り。此の如き細微なる社会学的事実をば、技芸上の審美学的諸性質と潜心比較したる後、吾人は精細なる    年代を附するを得るに至りしなり。    今日模様の応用又意匠に従事する人々にとりては、浮世絵の利多し。浮世絵師ばかり深く日本の意匠を渉    猟せしはあらず。殊に衣服の模様の過去に豊富なりしは、今日の布地の蒐集到底その一端をだに示す能(ア    タ)はず。上流社会の衣服の模様は、他派の作品によりて知るを得べきも、浮世絵に表はれたる平民衣服の    驚くべき珍奇なる意匠は、俳優蔵品により僅(ワズカ)に推測し得るのみ。浮世絵師は多く大商店又は工芸家    の為に模様を案じき、但し衣裳模様のやゝ普通なるものは、無彩色の模様本にて今日に伝りたるも、その    精巧なるは重に浮世絵によりて知らる。後来の意匠に関する多くの注意は、是等の研究によりて得らるべ    きこと疑を容れず。
   手訣上又年代上、浮世絵の歴史を完全に理会せんには、肉筆並に板物の全類を比較すること必要にして、    又大抵同画工の筆になれる要用なる書物挿絵の一類をも之に加ふべく、以上各種の作品は研究上互に相助    くる処あり。或画家例へば、長春の如きは、全く肉筆のみに従事し、又或画家例へば春信の如きは、殆ど    肉筆を書かず、然れども師宣、政信、春章、及北斎の如く、多数は三種に等しく名あり。当初板物に再現    せんと試みたるは、肉筆の諸性質なること疑なきも、後年に及び、板物の特有なる性質は独立に発見せら    れ、却(カエリ)て多少肉筆の諸性質に影響する所ありき。孰れにせよ吾人は一方を以て他方を推し得るが故    に、両者を併せ研究するの要あり。加之(シカノミナラズ)一画家の作品の完全なる年代の順序を得んには、往々    其画家の板物時代より全く分離せる肉筆時代をも含ましめざる可からず。即ち春章の板物は大概一七六五    年乃至一七八〇年に出でたれども、其肉筆は重に一七八〇年乃至一七九〇年に出でしが如し。当展覧会に    欠けたるは書物挿絵の類なりと雖(イエド)も、こはその範囲頗(スコブル)る広く、且つ肉筆と相陳列して調和    を得せしむるは大に困難なるを以て、之を加ふるの計画は廃したり。
   下文目録中には、他の材料より得らるべき画工の普通の伝記、或は作品の題目、演劇の歴史其他に関して    は、殆ど話説する所無し。余の希望は作品の精細なる比較に由りて得らるべき諸点、即ち従来の浮世絵歴    史に全く掲載せられざる諸点に就き、注意するに止めんとす。美術史に於ては其製作品こそ、最も必要な    る根本材料なれ。又美術愛翫家にとりては、美術史上最も緊要なるは審美学的性質の説明なり。要するに    美術史は美術史ならざるべからず。然るに支那日本の絵画の記録は、殆ど美術史と云ふを得ず、之を読破    するも手訣上の事に関して殆ど得る所無く、又其年代も或は之を欠き、或は不精密なるを以て著し、真正    の歴史は本会の如く年代的順序を試み、速きを貪らず、難きを忍び、作品を研究して後始て作り得べし。    故に余が観覧諸彦の注意を惹かんと欲するは、従来の書籍に全く見るを得ざる二点、即ち一は年代を附し    たこと、一は手訣上審美学的諸問題を釈了したる径路に存す。要するに以上二点の精細なる研究により、    吾人は始て浮世絵歴史の真正直接の智識を得べきなり。     明治三十一年三月               編者識〟     〈フェノロサの論点を整理してみる。    ①浮世絵は日本にとって格別な存在であるはずなのに、本国たる日本は無関心である。    ②ここ二十年来、外国の浮世絵収集熱はいよいよ高まり、今や最良の浮世絵は悉く外国の所有になっているほどである。     研究もまた然り。版画の展覧会がしばしばパリ・ロンドンで開かれ、著名人による編著も多い。またアメリカにおいて     は研究が更に精細に進み、ボストン美術館では浮世絵の分類別・年代別陳列を行っているし、1896年(明治29)には、     ニューヨークにおいて、史上初の制作年代を付した展覧会も開催された。    ③日本が浮世絵を無価値なものとして何等の関心をも示さなかったのは、徳川時代から続く偏見によるものである。明治     初年、外国人が大量の浮世絵を購入できたのはそのためである。    ④近年日本でも浮世絵評価の気運生まれたが、肉筆に関心が集まり、浮世絵にとって重要な版画はなお不等な扱いを受け     ている。    ⑤明治30年(1897)、小林文七氏が肉筆の展覧会を開催した。続いて今年、更に規模を拡充して肉筆に版画を加え、しかも     徳川期全般を網羅して、展示することになった。制作年代の添付は、ニューヨークの展覧会に倣ったものだが、これは     日本では初の試みである。ただ肉筆に比べて版画の作品数が少ないのはアンバランスである。    ⑥外国人が浮世絵に注目し称賛する理由。     ・浮世絵は平民美術の一派にして歴史的特殊価値を有するから     ・色摺を始めとする版画印刷術の革新的な発明は、作品を廉価にすることになり、これまで王侯貴族が独占していた美      術を、国民的なものにしたから    ⑦西洋人は、版画にこそ最も優れた美的価値を認めるのであるが、肝心の日本人自身がそれを認めないのは不思議である。     今日の日本美術に欠けているもの「単純、一致、調子、濃淡、又調和」これらが浮世絵版画の中に既に実現されている     というのに。    ⑧浮世絵は当時の風俗生活習慣及び美意識等、つまり近世文化をよく伝えるという点で好古的な価値が高い。特に庶民衣     服の模様・デザインに関しては、驚くほど斬新にして奇抜、そして豊富である。    ⑨浮世絵を理解するには肉筆・版画の他に挿画にも目を配る必要がある。これらは相互に影響し合っているからである。     しかしこの展覧会では、挿画の範囲が頗る広範囲なので、挿画を加えるのは断念した。    ⑩本目録は、作品の制作年代を付すこと、また画法上及び審美性の面から作品を論じることを目的とした。        フェノロサは浮世絵をまず時系列上に整理する必要性を説く。そしてそれに基づいて、画法等、技術面での因果・影響関    係を分析するとともに、作品に表れている美意識・美的価値とその変遷とを論じようというのである。現在では当たり前    のことだが浮世絵を嗜好品の対象として扱い、えてして骨董的な価値の方面にばかり注目しがちな明治三十年当時として    みれば、浮世絵を実証研究の対象として扱うフェノロサの姿勢は斬新であったに違いない。    フェノロサは浮世絵における挿画の重要性を説く。今でこそ、その重要性は広く認められてきたが、これまた明治当時の    日本人にはなかった視点であったろう。    またフェノロサは浮世絵のもつ文化史的な価値を強調する。これはおそらく浮世絵を美術絵画として論ずるばかりでなく、    文化的価値との関連で論ずる必要性を説いたものであろう。確かに、浮世絵は近世人の生活の中に深く根ざしていて、彼    らに娯楽・教養・情報等を伝える点において、メディアとして重要な役割を担っていた。従って、浮世絵を美術絵画的視    点で論ずるのは当然のことながら、作品に画かれた風俗習慣等の生活文化と美術絵画上に有する価値との関係を究明する    ことは是非必要であるし、また浮世絵のもつメディアとしての役割にも、もっと注目すべきだというのであろう〉