Top          淡島寒月著 『梵雲庵雑話』     その他(明治以降の浮世絵記事)
         (原本『梵雲庵雑話』斎藤昌三編・書物展望社・昭和八年(1933)刊)               〔底本 岩波文庫『梵雲庵雑話』岩波書店・1999年刊〕
  ※( )内のカタカナはルビ。但し底本はひらがな  ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(御維新当時)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたものです。    大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌麿だ    とかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という古本    屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(クニヨシ)とか芳    年などの新らしいものが歓迎されたのです〟    ◯「私の幼かりし頃」p392(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝今では錦絵で大騒ぎであるが、その頃歌麿や写楽のような古い物は、大道の露店で売っていたが誰も顧    みなかった。私は浅草茅町の須原屋と砂砂糖の間に夜るばかり店を出していた、俗に坊主と呼んだ男か    ら写楽や歌麿なぞのものを唯の一枚一銭で沢山買って来て、私が明治十二年に馬喰町の家を廃業した時    くずやへ二束三束で売ったことがある〟  ◯「古版画趣味の昔話」p131(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝昨年(大正六年)の十月には、歌麿墓碑建設会の主催で、遺作展覧会が開かれたのに因(チナ)んで、私の歌    麿観を一言附添(ツケソ)えて置きたい。既に本誌の歌麿記念倍大号が発行され、諸大家の歌麿に関する考証    やら、批評やらが種々発表され尽したのである故、今更(イマサラ)蛇足とは思われるが、所感のままを列ねて    置く。私は古今の浮世絵師中、美人を画くに当って、艶美(エンビ)という点において、歌麿の右に出づるも    のは全く無いと信ずる。春信なども筆行(フデユ)きはよく、技巧も表現法も立派であるけれども、むしろ上    品に描いたものであって、艶美の点に至っては、到底歌麿に匹敵し得るものではない。美人画においては、    歌麿を以(モ)って浮世絵師中第一のものと称するに何人も異論はあるまいと思う〟     ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯「淡島屋のかるやき袋」p123(大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と達    磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱瘡神    を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉や国芳(クニヨシ)等が画いているが、    袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、紅、藍(ア    イ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太郎に熊がい    たのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来ている〟    ☆ えぞうしや 絵双紙屋    ◯「行楽の江戸」「七」(大正六年(1917)一月『新公論』第三十二巻第一号)   〝別嬪というと、この頃はよく何の店でも女の店の者がいるが、当時は女は店に出なかった。女が店に出て    いると日蔭町(ヒカゲチヨウ)じゃあるめいしと笑った位で、別嬪が座っていたのは絵双紙(エゾウシ)屋位のもので    あった。そして不思議に別嬪のいたもので、かや町の森本という絵双紙屋のお玉さんという娘は、その頃    一枚絵に出たほどの評判娘であった。当時は評判の女があるとすぐ一枚絵(錦絵(ニシキエ))に拵えたものだ。    一体当時は絵双紙はなかなか盛んなもので、馬喰町二丁目の山口、四丁目の木屋、横山町の辻文、両国の    大黒屋、人形町の具足屋、日本橋の大倉孫兵衛などは主なるもので、浅草見附から雷門までの間にも三、    四軒の絵双紙屋があった〟    〈「かや町の森本」とは、円泰堂・森本順三郎か。以下、馬喰町二丁目の山口は、錦耕堂(春錦堂)山口屋     藤兵衛。同四丁目の木屋は、紅木堂(木宗)木屋宗次郎。横山町の辻文は、金松堂(金港堂)辻岡屋文助。     両国の大黒屋は、松寿堂(大平)大黒屋平吉。人形町の具足屋は、具足屋嘉兵衛。日本橋の大倉孫兵衛は、     万屋孫兵衛(万孫)〉    ☆ きょうさい かわなべ 河鍋 暁斎    ◯「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通    の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞    がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企て    の如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役    者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵として    は出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作    物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった〟    〈『金花七変化』(合巻・鶴亭秀賀作・歌川国貞二代画)は万延元年(1860)の初編から慶応三年(1867)の     二十六編まで刊行。二十七編は明治三年(1870)、二十八編~三十一編まで仮名垣魯文作。『安愚楽鍋』明     治四年刊。『西洋道中膝栗毛』明治三年~同九年(1876)刊。『イソップ物語』(『通俗伊蘇普物語』)は     明治六年刊〉     ☆ きよちか こばやし 小林 清親    ◯「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通    の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞    がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企て    の如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役    者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵として    は出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作    物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった〟    ◯「明治初年の洋画」p189(昭和五年(1930)五月『画学生の頃』)   〝この時分の西洋崇拝は非常なもので、少しでも西洋臭のあるものなれば愛玩(アイガン)しました。この点で    小林清親の木版画など、もてた所以(ユエン)なのです。木版と言えばこの頃普仏戦争の戦争絵やミルトンが    盲目となったところの絵などが輸入されて、随分珍重されましたが、私も随分嬉(ウレ)しかったものです〟    ☆ くにちか とよはら 豊原 国周    ◯「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通    の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞    がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企て    の如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役    者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵として    は出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作    物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった〟    ☆ くによし うたがわ 歌川 国芳    ◯「淡島屋のかるやき袋」p123(大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と達    磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱瘡神    を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉や国芳(クニヨシ)等が画いているが、    袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、紅、藍    (アイ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太郎に熊が    いたのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来ている〟    ◯「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(御維新当時)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたものです。    大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌麿だ    とかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という古本    屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(クニヨシ)とか芳    年などの新らしいものが歓迎されたのです〟    〈蔵前の須原屋は浅草茅町の松成堂・須原屋伊三郎か〉    ◯「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝それから(維新戦争)後には、明治天皇奠都(テント)の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵師    の生活状態は随分悲惨であった。芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非常な    窮境であった。そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世(ナカミセ)で売っていた。であるから一流    以下は全く仕事がない状態で苦しかったことが明かになる〟    ☆ こうかん しば 司馬 江漢    ◯「古版画趣味の昔話」p129(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝その時分(明治初年頃)、東京で名高い古書店で、私のよく買いに行ったのは、三久、京常、その他、池    の端の斎藤とてわれわれ同好者間では、「バイブル」と綽名(アダナ)を附けておった店、それと、その頃藤    堂前(和泉町)におった今の好古堂などである。京常は主に軟文学に関する古本を取扱っておった店で、    かつて久保田米僊(クボタベイセン)氏がこの店で、オランダ絵を一枚一銭ずつで買った事がある。その頃は、    新(アラタ)に流行し始めた万国覗(バンコクノゾキ)からくり眼鏡(メガネ)の看板に、司馬江漢等の銅版画で、今な    らば珍品として騒がれるほどのものを惜しげもなく使用しておった時代であるから、オランダ絵の安価な    ことも、さまで驚くには足りないのである〟    〈久保田米僊は鈴木百年門の日本画家。日清戦争に画報記者として従軍。失明後は評論等に活躍する。明治     三十九年(1906)没、五十五歳〉    ☆ しゃらく とうしゅうさい 東洲斎 写楽    ◯「幕末時代の錦絵」p121(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝(御維新当時)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたものです。    大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌麿だ    とかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という古本    屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(クニヨシ)とか芳    年などの新らしいものが歓迎されたのです〟    ◯「私の幼かりし頃」p392(大正六年五月『錦絵』第二号)   〝今では錦絵で大騒ぎであるが、その頃歌麿や写楽のような古い物は、大道の露店で売っていたが誰も顧    みなかった。私は浅草茅町の須原屋と砂砂糖の間に夜るばかり店を出していた、俗に坊主と呼んだ男か    ら写楽や歌麿なぞのものを唯の一枚一銭で沢山買って来て、私が明治十二年に馬喰町の家を廃業した時    くずやへ二束三束で売ったことがある〟   ◯「古版画趣味の昔話」p127(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝(明治維新当時の錦絵・古書の閑却、排斥ぶりから、大正期の錦絵価格の暴騰や古版画趣味の隆盛へと変     遷する世相について)    明治初年頃には、浅草見附の辺などの路傍に出た露店の店頭に、つまらぬ黄表紙類を並べた傍へ、尺余の    高さに積んだを、選(ヨ)り取(ド)り一枚金一銭位で売っていたのである。この中には、素(モト)より下    らぬ絵もあったが、今から考えれば、嘘のようだが、写楽の雲母摺(キラズリ)なども確かに交っておった。    一枚一銭の絵が、僅か四、五十年の間に、幾百円に騰(アガ)るとは、如何(イカ)に時世の変遷(ヘンセン)とはい    いながら、夢のような話である〟    ☆ しゅんが 春画     ◯「江戸か東京か」(明治四十二年(1909)八月『趣味』第四巻第八号)    (幕末から明治初年にかけての両国の賑わい記事)   〝この辺のでん賭博というものは、数人寄って賽(サイ)を鼻(ハナ)っ張(パリ)が、田舎ものを釣りよせては巻き    上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです〟    ◯「幕末時代の錦絵」(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝まだその頃は、大道で笑絵(ワライエ)を売ってもやかましくない時代でしたから、古本屋の店には幾らも晒(サ    ラ)されてありました。。浅草見附の際(キワ)に名代(ナダイ)のいくよ餅というのがありまして、その家の前の    井戸のわきに、古本見世(ミセ)を出していました店などには、能く見かけました。また賭博師があって、そ    れを見による田舎者に銭をかけさして、野天ばくちをやって、結局田舎者の財布を空にさせたものです〟     ☆ とりいは 鳥居派    ◯「大津絵の紋と鳥居の名」p388(大正六年(1917)四月『錦絵』第一号)   〝鳥居風という瓢箪足(ヒヨウタンアシ)の絵を始めた清信(キヨノブ)、清倍(キヨマス)なぞという人はその頃有名な神社    前にいた絵馬屋で鳥居は綽名(アダナ)であったろうかと思う。(私の話はインチュイションで感じたことを    いうのだから、そのつもりで聴いて下さらねば困るが)それが後(ノチ)に至って丹緑(タンリヨク)で紅絵(ベニエ)    を始めたのであろうが、私が以前播磨(ハリマ)の国の鶴林寺(カクリンジ)へ行った時にその寺の観音堂の中に鳥    居風の『象引(ゾウビキ)』の古い小額(コガク)が上(アガ)っていたが、江戸の扁額(ヘンガク)がこんな遠方に来    ているのは意外の感がしたが、こういう鳥居派の絵を神社へ奉納するところから考えると、この彩色は最    初胡粉(ゴフン)を塗って段々と色を重ねて、最後に墨の線を引いたもので、こうしなければ板に書くには具    合がわるいからである、それが紙の描いても板の時の風が残ったのだと思う。これは自分が泥絵の具をつ    かうからふと思い浮かべた愚見であります〟    〈『象引』は歌舞伎十八番のひとつ〉    ☆ にしきえ 錦絵    ◯「幕末時代の錦絵」p120(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝私の子供の時分は、丁度御維新当時でしたから、錦絵(ニシキエ)はいずれもそれを当て込んだものが多く、彰    義隊(シヨウギタイ)だとか新徴組(シンチヨウグミ)だとかいったような、当時の戦争を背景に、紅に漆を交ぜた絵の    具を使って、生々しい血糊(チノリ)の附いた首などを画た絵が喜ばれました。その頃の錦絵といえばまあこ    ういった血腥(チナマグサ)いものが流行した。それをねらって、巧(ウマ)く成功したのが、彼の芳年翁などでし    ょう。     その時分横山町三丁目に、辻岡屋文助という錦絵屋がありました。この店は辻文といって通っていまし    た。主に百姓相手の店でして、馬喰町の旅館に泊っている百姓たちが、国元への土産にこの店から錦絵を    求めて帰ったものです。     馬喰町の旅館を中心として、両国へかけてこの辺には昔から錦絵の版元がありました。私の覚えていま    すのは、辻文、木屋、大平、加賀屋などというのがありました。     木屋というのは馬喰町四丁目にありました店で、大平は両国です。この大平というのは相撲の画で売出    した店でした。それから加賀屋というのは、大平の向側で芭蕉膏(バシヨウコウ)という生薬屋の少し手前でし    たが、いづれもかなりに繁昌したものです。     新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたもので    す。大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌    麿だとかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という    古本屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(クニヨシ)と    か芳年などの新らしいものが歓迎されたのです。     まだその頃は、大道で笑絵(ワライエ)を売ってもやかましくない時代でしたから、古本屋の店には幾らも晒    (サラ)されてありました。。浅草見附の際(キワ)に名代(ナダイ)のいくよ餅というのがありまして、その家の前    の井戸のわきに、古本見世(ミセ)を出していました店などには、能く見かけました。また賭博師があって、    それを見による田舎者に銭をかけさして、野天ばくちをやって、結局田舎者の財布を空にさせたものです〟    〈明治初年の版元、辻文は金松堂(金港堂)とも呼ばれた。木屋は紅木堂(木宗)木屋宗次郎。大平は松寿     堂(大平)大黒屋平吉。加賀屋は両国広小路の加賀屋吉右衛門。蔵前の須原屋は浅草茅町の松成堂・須原     屋伊三郎か〉    ◯「私の幼かりし頃」p390(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝 私の幼い頃、あの芳年(ヨシトシ)やなどの血のりの附いたような錦絵(ニシキエ)の流行(ハヤ)った時代!その当    時はあの薩長土や徳川のドサクサ騒ぎを子供に見立てて描いた錦絵が数百板(バン)も出来ていた。そして    それが皆二枚続や三枚続で、着物の模様やなにかで、それが何を暗示しているかが誰れにも分かったもの    だ、仮令(タトエ)ば薩摩は例の飛白(カスリ)、長州は沢瀉(オモダカ)、土佐は確か土の字であったと思う。その中    には色々の大名が喧嘩をしているのもあった。その頃の絵が今でもよく展覧会などでチョイチョイ見掛け    る。それより少し前のことだったが、本の口絵などの色気を禁じたことがあった、それは墨と藍(アイ)と混    合したような異様な色合であった。私の兄が「今度本の口絵の色が変った」といわれたことがあるが、そ    れもよほど幼い時だから記憶が全く薄らいだ。     なにしろ戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通の    絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞が    トンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企ての    如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役者    絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵としては    出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作物    挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった。     それから後には、明治天皇奠都(テント)の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵師の生活状態    は随分悲惨であった。芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非常な窮境であっ    た。そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世(ナカミセ)で売っていた。であるから一流以下は全く    仕事がない状態で苦しかったことが明かになる。     私なぞ錦絵でよく買ったのは、やはり役者絵であった。権十郎(九代目団十郎)、田之助、彦三郎など    を盛んに集めた。そしてその錦絵は三枚続き大底一朱で、一枚絵天保銭二枚位、よほど上等な奉書紙でで    も使ったのでなければ二朱なんていうのはなかった。また錦絵の続き物──五十三次だとか纏尽(マトイヅク)    しなぞを絶えず人形町の具足屋から出版した。その具足屋は今のねずみ屋(花車屋)の隣にあった。まあ    新版のよいのは具足屋か両国の大黒屋かといわれたものである。     今では錦絵で大騒ぎであるが、その頃歌麿や写楽のような古い物は、大道の露店で売っていたが誰れも    顧みなかった。私は浅草茅町の須原屋と砂糖屋の間に夜るばかり店を出していた、俗に坊主と呼んだ男か    ら写楽や歌麿などのものを唯の一枚一銭で沢山買って来て、私が明治十二年に馬喰町(バクロチョウ)の家を廃    業した時くずやへ二束三文で売ったことがある。それが今日非常の高価なものになったとは実に変れば変    るものだと思っている。     しかし錦絵の古い時代の物を観ると、何ともいえぬ味があるものでその時代の有様を知るには、この錦    絵をおいては外にその時代を目前に観ることはできぬと思うのである。     京伝(キョウデン)の『骨董集(コットウシュウ)』や、柳亭種彦(リュウテイタネヒコ)の『用捨箱(ヨウシャバコ)』、または『還魂    紙料(カンコンシリョウ)』等にもこの錦絵からどんなに考証を得て居るかもしれないのである。どうしてもその時    代を窺うには、これを外にしてよい材料は得られぬと思う。ですから今日の画工も今の時代の浮世絵を後    ちの者に遺(ノコ)して置てもらいたいと思う。尤(モット)も写真というものがあるからという人があろうが、    写真は写真で錦絵の如き木版の味は見ることが出きぬので絵師がちょっとした事にも心を用いて、たとえ    ば鏡に顔をうつして居る処とか、猫をからかって居る手つきとか、種々の小さな処に苦心の跡がある。そ    の苦心を筆で軽くあらわすを刀でうまく彫り行くような彫師の苦心、これをまた摺師がうまく彩色をあし    らって行く、幾人かの労力が一致した面白みは写真では見られぬことと思う。古い錦絵の日本のほこりと    ともに今に錦絵も後世の誇りとしたいのである〟    〈『金花七変化』(合巻・鶴亭秀賀作・歌川国貞二代画)は万延元年(1860)の初編から慶応三年(1867)の     二十六編まで刊行。二十七編は明治三年(1870)、二十八編~三十一編まで仮名垣魯文作。『安愚楽鍋』明     治四年刊。『西洋道中膝栗毛』明治三年~同九年(1876)刊。『イソップ物語』(『通俗伊蘇普物語』)は     明治六年刊。具足屋は人形町四丁目の具足屋嘉兵衛。大黒屋は両国の大平、大黒屋平吉。浅草茅町の須原     屋は須原屋伊三郎。山東京伝の『骨董集』は文化十一~十二年(1814~5)刊。柳亭種彦の『還魂紙料』は文     政九年(1826)刊、『用捨箱』は天保十二年(1841)刊。いずれも浮世絵を考証資料としている〉    ◯「古版画趣味の昔話」p127(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝(明治維新当時の錦絵・古書の閑却、排斥ぶりから、大正期の錦絵価格の暴騰や古版画趣味の隆盛へと変     遷する世相について)    明治初年頃には、浅草見附の辺などの路傍に出た露店の店頭に、つまらぬ黄表紙類を並べた傍へ、尺余の    高さに積んだ錦絵を、選(ヨ)り取(ド)り一枚金一銭位で売っていたのである。この中には、素(モト)より下    らぬ絵もあったが、今から考えれば、嘘のようだが、写楽の雲母摺(キラズリ)なども確かに交っておった。    一枚一銭の絵が、僅か四、五十年の間に、幾百円に騰(アガ)るとは、如何(イカ)に時世の変遷(ヘンセン)とはい    いながら、夢のような話である。この時代に、馬喰町(バクロチヨウ)に住む鼠取薬売を本業とする吉兵衛とい    うのが、この方で名が売れていて、黄表紙類の露店を張っていたのである。この一例に徴しても、当時錦    絵古書などが、如何ほど世人から冷淡に扱われておったか明らかに知られる。しかるに明治も十年近くな    ってからは、社会の秩序もやや整い、世間の人心も少しは余裕が生じて来たらしく、幾分(イクブン)か趣味    の方面に注意を払う人も見られるようになった。今、その年月は判然と記憶しないけれど、多分この時期    であったと思うが、吉原の廓内(クルワナイ)で、古い錦絵の陳列会が開かれたのである。これは場所の選定が    よかったためでもあろうが、これは古版画趣味を普及させるに与(アタ)って力があったらしい。これと前後    して、当時また猿若町(サルワカマチ)にあった劇場で、演劇に関する展覧会を開いて、紅絵(ベニエ)時代などから    当時のものに至るまで、役者絵の類を陳列して世人に鑑覧させたことがある。またその頃、浅草の松山町    に、我楽堂という骨董品店があって、其処(ソコ)に古い細絵の類を多く陳列したことがあって、追々(オイオイ)    に古い版画に対する趣味好尚が、世間に普及するようになって来たのである。     その時分、東京で名高い古書店で、私のよく買いに行ったのは、三久、京常、その他、池の端の斎藤と    てわれわれ同好者間では、「バイブル」と綽名(アダナ)を附けておった店、それと、その頃藤堂前(和泉町)    におった今の好古堂などである。京常は主に軟文学に関する古本を取扱っておった店で、かつて久保田米    僊(クボタベイセン)氏がこの店で、オランダ絵を一枚一銭ずつで買った事がある。その頃は、新(アラタ)に流行し    始めた万国覗(バンコクノゾキ)からくり眼鏡(メガネ)の看板に、司馬江漢等の銅版画で、今ならば珍品として騒    がれるほどのものを惜しげもなく使用しておった時代であるから、オランダ絵の安価なことも、さまで驚    くには足りないのである。     (中略、明治二十二年頃、蒟蒻本(コンニャクボン=洒落本)一冊が平均二銭か五銭という記事あり)     昨年(大正六年)の十月には、歌麿墓碑建設会の主催で、遺作展覧会が開かれたのに因んで、私の歌麿    を一言附添(ツケソ)えて置きたい。既に本誌の歌麿記念倍大号が発行され、諸大家の歌麿に関する考証やら、    批評やらが種々発表され尽したのである故、今更(イマサラ)蛇足とは思われるが、所感のままを列ねて置く。    私は古今の浮世絵師中、美人を画くに当って、艶美(エンビ)という点において、歌麿の右に出づるものは全    く無いと信ずる。春信なども筆行(フデユ)きはよく、技巧も表現法も立派であるけれども、むしろ上品に描    いたものであって、艶美の点に至っては、到底歌麿に匹敵し得るものではない。美人画においては、歌麿    を以(モ)って浮世絵師中第一のものと称するに何人も異論はあるまいと思う〟    ☆ にほんはんが 日本版画    ◯「日本版画について」p398(大正八年(1919)二月『振興美術』第三巻第二号)   〝一概に日本版画と言っても、なかなか大きい問題の事であるから、そうそう一日や二日で話し終る事は困    難であるが、私は、私の趣味の上から、大体、歴史的背景の上から日本版画を通覧して、それから、少し    く版画その物の内容に立ち入って見ようかと思う。    そもそも日本の版画のおこりはかなり古いもので、何帝の何年に始めて誰れが行(ヤ)り始めたかと言う事    は今言わないが、ともかく、極(ゴ)く古い所では、頗(スコブル)る原始的は、無彩色のものであった。しか    し、これも全然日本独特のものであったかと申すに、決してそうではない。支那の文化の影響をうけて出    来たものである。     彩色したものでは俗に言う「丹緑本」と言う奴で、これがまア、その内では最も古い物である。これは    ザット慶長ころのものである。「猿源氏」だとか、「鉢かづき」だとか言うものもある。しかし、これら    とてもまだ幼稚の域を脱することは出来なかった。大津絵にも素通りをして手彩色をしたものがある。こ    れはまた、今日から見ればなかなかに面白い。その当時、この「丹緑本」をば、世人は口を揃えて嘲り笑    って、殆(ホトン)ど小児のいたずらほどにも思わなかった。ところが何ぞ知らん、この単なる小児の悪戯式    の「丹緑本」こそ、後世に偉大な発達をとげた日本木版画の先駆者であったのである。     かくの如くにして版画は日本において古く産ぶ声をあげたが、次第々々に発育して、その最も麗わしき    壮年時代を見せたのは、たしかに安政以後、明治に至までの頃である。そして明治に至って少しく衰えて    来たのが、大正の今日再びまたその流行の熱度を高めて来たような次第であるが考えて見れば、こうなる    のが本当で、東洋──否、世界の何処(ドコ)へ持ち出してもその芸術的品位の確然たる我が日本版画に、    大正の日本人が再び目を見開き始めたのは真に慶賀すべき事である。現に新しい版画の会なぞが、盛んに    おこりつつあることも耳にしているが、まことの結構な事である。     今度は方面をかえて、版画そのものの色とか技術とか言うものについてちょっと述べて見る。現在欧州    人の間で尊ぶあの日本版画の色について考えて見るに、彼らの最も悦(ヨロコ)ぶ、あの紅とか紺とかは、始    めからあんな渋いものでは決してなかった。と言った所で勿論今日の絵の具ほどケバケバしいものでもな    い。其処(ソコ)に幾分か渋い所があったのであるが、当時比較的、生まであった色が、今日ああ言う色にな    ったのは長い年月の間に変色したからである。そこに貴さがあるのであって、彩色版画も極く始めには絵    の具をそのまま塗ったのである。その内に誰れかが、絵の具にヒメノリを混ずることを発明したのである。    それでもなお、緑青や、黄土は止まらない。大体、丹は黒くなるかたちがあって墨にまぜて使えば真黒に    なるほどである。今日、世人のもてはやす美術品となったのは、つまり、時代が、あずかって力があるの    である。昔の絵の具と今日の絵の具と違うと言えばあの「木園ジョ」の如き、あれはゴフンとエンジとを    混じて作ったものであるが、これなぞは今日全くないのである。今日では主として大概、西洋製のもの、    例えば「アニリン色素」の如きものでやるからして古(イニシエ)の物とは同じ版画でもその趣きの異ることお    びただしい。古のと、今日のとその好し悪しを云々(ウンヌン)するのでは決してないが、ともかく、日本版画    の真面目を今日の版画に発見することは非常に難いように私は考える。この意味から言えば、材料の異っ    て来た今日の版画は、すでに、古の形式から離れて、現代の、いわゆる現代の生み出した版画でなくては    ならないだろう。     総(スベ)て物が段々と発達すればするほど様々の道具が発明されるもので、かの「バレン」の如きも、錦    絵(ニシキエ)が盛んになった天明の頃発明されたのである。これは竹の皮で作られてあるが、これがために大    変に技術上に利益を与えた。今日なお東京に残っている「バレン」製造業は、たしか小石川に一軒あるよ    うにおぼえている。     木版画は大体、      (一)画家      (二)版木師      (三)刷り師    の三拍子がちゃんと揃わなくっては駄目である。ところが、昔にあっては、この三拍子の内の刷り師だけ    がきわ立って熟達していたので、唯(タダ)単に絵師が満足するだけでなく画そのものまで非常に美しい物    が出来た。当時は原画をかく画家が、簡単に、赤なら赤と書いて置けば充分であった。時には画家自身さ    え想像だにしなかった色が刷師によって出されることさえあった。要するに当時にあっては、この刷師と    言うものに偉大な才能と力がなければならなかったので、刷師には画家以上の心得が必要であった。こん    な理由で万一刷り師が劣いと来たら、まるで気分を壊してしまったのである。また、この版画の中にも、    同じ絵でありながら、一枚は一枚と色のちがったのがあったが、これは金銭なぞの都合で、刷師が各々別    々であったためである。     明治の初年はあの政治的変動のゴタゴタで、手馴れた版木師、刷り師が、絶えてしまったので、版画も    大に廃(スタ)れてしまった。しかるに今日は、前にも述べた如く版画が勢力を得て来て、刷師も版木師も画    家も、それぞれ新しい知識と技術とをこの上に示しはじめたばかりか、最近では、版画と言う物は、画家    自身が版木師であり、刷師であって始めてほんとうの美術品であると言うような意見まで出て来る有様で    ある。     版木は古は随分と厚い木を使って、正直に深く正しく彫ったものである。今日では厚さなぞもその当時    の三分の一にも達しない。画によっては版木を十五も二十も使わねばならないのがある。こうなると版画    も手の込んだ複雑なものである。西洋人たちが不思議に思ったボカシも、またカラズリも見れば理(ワ)け    もないようなものである。     私の家で昔、「軽焼」をやっていた当時、軽焼の袋にはどうしても木版刷の絵を入れる必要があったの    で、当時のはらはしとして、やはり私の家もその問屋仲間に這入(ハイ)っていた。浅草蔵前(クラマエ)の「エサ    キ屋」が私のところのを彫ったが、明治十五年あたりだったか、それを廃業と共に版木師に呉れてやった。    ともかく、木版も最もいいのが初刷りから十枚前後で、二百枚も刷ればもう駄目である。     今日では版画にしろ、その他の絵にしろ、普通の絵草紙(エゾウシ)屋とか書店とかエハガキ屋とかに並べ    られてあるが、昔は、この錦絵ばかりを専門に出していたものである。店先の、人目のよくつく所へ、竹    の片れではさんでズラリと吊り下げられていたものである。中でも、日本橋の大倉は有名なものであった。    両国の盛り場では相撲専門の大黒屋が人気を引いていたし、茅町では加賀屋、馬喰町(バクロチョウ)にはかの    芳文あり、それぞれ江戸人や地方の人の目を引いていたのである。当時は今と違って両国辺が最も繁華な    中心であって芝の日蔭町、日本橋の南辺、神田の雉子町(キジチヨウ)なぞみな盛りの場所であった。そこらに    は、この種の錦絵屋がずい分あって、飛ぶように売れて行ったものである。そしてまた、何か事があれば    ──例えば、心中があったとか、仇打があったとかそんな場合には忽ちそれを題にした版画が出たもので    ある。遊廓、芝居用等の細絵とかその他の刷り物なぞも盛んに出た。そしてそれらの主として春の楽しみ    に出されたものである。これで考えて見れば昔は昔でやはり、一種の規律というようなものが存在してい    て、ズボラでかつ、だだっ広いような処にチャンと引き締った所があったものである。     右のような次第で、その後には段々と今度は絵本が出るようになった。また月の大小に依って刷り物が    出る。主として狂歌の刷り物であったが、天明(テンメイ)、文政頃はその流行の極点であったようだ。これは    比較的数も少なく、構図が大変によかった。今日でさえなお、旧派の俳諧師仲間には残っている。     少し話が横へそれたが、しかし、今日までの所で考えてみてでも、要するになお日本版画は、右にあげ    た、「版木師」「刷り師」「画師」の三人が相揃わねばいいものは出来ないと言う一事が明(アキラカ)にされ    ているように思う。で画師には広い趣味、版木師には熟練、刷師には技術と天然の色を十分心得べきこと    が必要であろうと思う。     ともかく、今日までの右の次第で版画も続いて来たが、今後の発達は私には予想出来ないけれどたしか    に大きな変動が来ることはほぼ信じられる。すでに、版画が単に画師一人で作り出されねばならない時代    となったのであるから大きい変化である。かく観じ来れば、日本版画界における、移り行く世の姿もまた    面白い事ではあるまいか〟    〈日本橋の大倉は万孫、万屋孫兵衛。両国の大黒屋は大平、松寿堂、大黒屋平吉。茅町の加賀屋は加賀安、     加賀屋安兵衛か。馬喰町の芳文は未詳〉    ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信    ◯「古版画趣味の昔話」p131(大正七年(1918)一月『浮世絵』第三十二号)   〝昨年(大正六年)の十月には、歌麿墓碑建設会の主催で、遺作展覧会が開かれたのに因(チナ)んで、私の歌    麿観を一言附添(ツケソ)えて置きたい。既に本誌の歌麿記念倍大号が発行され、諸大家の歌麿に関する考証    やら、批評やらが種々発表され尽したのである故、今更(イマサラ)蛇足とは思われるが、所感のままを列ねて    置く。私は古今の浮世絵師中、美人を画くに当って、艶美(エンビ)という点において、歌麿の右に出づるも    のは全く無いと信ずる。春信なども筆行(フデユ)きはよく、技巧も表現法も立派であるけれども、むしろ上    品に描いたものであって、艶美の点に至っては、到底歌麿に匹敵し得るものではない。美人画においては、    歌麿を以(モ)って浮世絵師中第一のものと称するに何人も異論はあるまいと思う〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯「富士」p417(大正八年(1919)八月『新興美術』第三巻第八号)   〝昔から、この不二の山ほど、世人にもてはやされた山も少ない。それだけ、富士を好んだ人も多いのであ    るが、中んずく、富士党で有名なのは、さきにもいった、西行法師、不二行者とさえ云われた大雅、百富    士に有名な北斎、東海道五十三次で有名な広重なぞは、その尤(ユウ)なるものであろう〟    ☆ ほうそうえ 疱瘡絵    ◯「淡島屋のかるやき袋」p122(大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と達    磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱瘡神    を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉や国芳(クニヨシ)等が画いているが、    袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、紅、藍(ア    イ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太郎に熊がい    たのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来ている。    (中略)     この絵袋は錦絵(ニシキエ)として取扱われて、組合に加入して錦絵同様に名主の印が捺(オ)してある。    (以下、袋裏にある「口上書」の写しあり。略)    で袋は一朱までは水引のを結び切りで、二朱からは花結びにする。一分からはこの錦絵袋を出すが、しか    しこれも疱瘡痲疹の見舞に限ったもので、平生のは梅の花の輪廓(リンカク)のを用いている。この錦絵袋を摺    るのは、始め深川の江崎屋がやったが、後に柳原土手うなぎ屋東屋の先の団扇屋だった園原屋がやる事になった〟    〈淡島寒月の家は「淡島のかるやき」で通った有名なかるやき屋であった。深川の江崎屋は未詳。園原屋は     園正、海寿堂、園原屋正助か〉    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎    ◯「富士」p417(大正八年(1919)八月『新興美術』第三巻第八号)   〝昔から、この不二の山ほど、世人にもてはやされた山も少ない。それだけ、富士を好んだ人も多いのであ    るが、中んずく、富士党で有名なのは、さきにもいった、西行法師、不二行者とさえ云われた大雅、百富    士に有名な北斎、東海道五十三次で有名な広重なぞは、その尤(ユウ)なるものであろう〟    ☆ よしいく おちあい 落合 芳幾    ◯「私の幼かりし頃」p391(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通    の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞    がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企て    の如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。    役者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵と    しては出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)    の作物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった。     それから後には、明治天皇奠都(テント)の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵師の生活状態    は随分悲惨であった。芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非常な窮境であっ    た。そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世(ナカミセ)で売っていた。であるから一流以下は全く    仕事がない状態で苦しかったことが明かになる〟    〈『金花七変化』(合巻・鶴亭秀賀作・歌川国貞二代画)は万延元年(1860)の初編から慶応三年(1867)の     二十六編まで刊行。二十七編は明治三年(1870)、二十八編~三十一編まで仮名垣魯文作。『安愚楽鍋』明     治四年刊。『西洋道中膝栗毛』明治三年~同九年(1876)刊。『イソップ物語』(『通俗伊蘇普物語』)は     明治六年刊。大黒屋は両国の大平、大黒屋平吉〉       ☆ よしとし つきおか 月岡 芳年    ◯「江戸か東京か」p25(明治四十二年八月『趣味』第四巻第八号)   〝戦争(戊辰戦争)の後ですから残忍な殺伐なものが流行り、人に喜ばれたので、芳年の絵に漆や膠で血の    色を出して、見るからネバネバしているような血だらけのがある。この芳年の絵などが、当時の社会状    態の表徴でした〟  ◯「幕末時代の錦絵」p120(大正六年(1917)二月『浮世絵』第二十一号)   〝私の子供の時分は、丁度御維新当時でしたから、錦絵(ニシキエ)はいずれもそれを当て込んだものが多く、彰    義隊(シヨウギタイ)だとか新徴組(シンチヨウグミ)だとかいったような、当時の戦争を背景に、紅に漆を交ぜた絵の    具を使って、生々しい血糊(チノリ)の附いた首などを画た絵が喜ばれました。その頃の錦絵といえばまあこ    ういった血腥(チナマグサ)いものが流行でした。それをねらって、巧(ウマ)く成功したのが、彼の芳年翁などで    しょう。     (中略)    新版の錦絵を刷出(スリダ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたものです。    大道(ダイドウ)などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌麿だ    とかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前(クラマエ)の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という古本    屋が、一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳(クニヨシ)とか芳    年などの新らしいものが歓迎されたのです〟    ◯「私の幼かりし頃」p390(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝私の幼い頃、あの芳年(ヨシトシ)やなどの血のりの附いたような錦絵(ニシキエ)の流行(ハヤ)った時代!その当時    はあの薩長土や徳川のドサクサ騒ぎを子供に見立てて描いた錦絵が数百板(バン)も出来ていた。そしてそ    れが皆二枚続や三枚続で、着物の模様やなにかで、それが何を暗示しているかが誰れにも分かったものだ、    仮令(タトエ)ば薩摩は例の飛白(カスリ)、長州は沢瀉(オモダカ)、土佐は確か土の字であったと思う。その中には    色々の大名が喧嘩をしているのもあった。     (中略)    なにしろ戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通の絵    では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞がト    ンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企ての如    く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役者絵    は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵としては出    さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作物挿    絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった。    それから後には、明治天皇奠都(テント)の錦絵やなぞが盛んに売れたが、その当時は浮世絵師の生活状態は    随分悲惨であった。芳年なぞは弟子も沢山あってよかったようだが、国芳の晩年なぞ非常な窮境であった。    そしてある絵師なぞは人形を作って浅草観音仲見世(ナカミセ)で売っていた。であるから一流以下は全く仕事    がない状態で苦しかったことが明かになる〟    ☆ よしのぶ うたがわ 歌川 芳延    ◯「趣味雑話」「一」p137(大正七年(1918)二月『大供』第一号)   〝明治十六年頃だった。遊食会という会が起り、幾年か続いたが、古物などを持寄る会で、或る時墨堤(ボク    テイ)の言問(コトトイ)の例の茶亭(チヤミセ)に集り、玩具に因(チナ)める会だったが、竹内久遠、清水晴風、永井寸    洌、芳延、講武所の花屋、椿岳などが連中で、恐らくは玩具の遊びの会の明治初回の催(モヨオシ)だったろう。    その時椿岳が持参した出雲八重垣神社の木製の鶺鴒(セキレイ)が、『うなゐのとも』第一編に出ているのだ。    遊食会は手拭(テヌグイ)合せとか扇合せなどをやったもので、その昔馬琴(バキン)などのやった骨董持寄会な    どを引継いだわけである〟    〈この向島の遊食会とは清水晴風が主宰した「竹馬会」のことであろう。清水晴風は玩具の収集・研究にお     ける大先達。明治二十四年の初編から大正二年の六編まで刊行された玩具書『うなゐのとも』は彼の斯界     における集大成である。竹内久遠は彫刻家で明治二十四年より東京美術学校教授を務めた竹内久一。永井     寸洌は未詳。椿岳は画家・淡島椿岳、寒月の父。「馬琴などのやった骨董持寄会」とは古書画・珍物奇物     の品評会「耽奇会」。これは文政七年~八年(1824~5)にかけて行われた。詳しくは本HP「耽奇漫録」     の項参照。遡れば、古くは文化八年(1811)、山東京伝・京山兄弟が企画した「雲茶会」が、この種の会     の起源か。以降、「耽奇会」「竹馬会」と、江戸で育まれた民間レベルでの知の継承が地下水脈のように     続いていたのである〉  ◯「趣味雑話」「二」p140(大正七年(1918)三月『大供』第二号)   〝芳延は横浜行の陶器に絵を描いていた。狸を集めて火鉢や茶碗や、その他の器具も狸尽しであったが、当    時浅草奥山には狸がいたもので、迷子の狸をポリス君から貰(モラ)って千束(センゾク)町の自分の門口につな    いでいた。ところが座敷へ上られ、たれられたりして困っていたが、終に病死したから、石で狸の形を刻    んで、門口に立てて、狸の墓を拵えてやったが、今は跡方もない〟                                   以上『梵雲庵雑話』2007.4.27 収録