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中国編 【て】大田南畝が見た書画 〔中国・来日人編〕大田南畝関係
【程赤城】(ていせきじょう)※◯は欠字、◎は表示不能文字
分類記事・画賛等形態年月日場所出典巻・頁
御庇蔭を以胡氏書并程氏拙作不二山詩認候事、伝家之珍不可過之候。千万謝々(以下略)」
〈来日中の清人医師胡兆新の書と、南畝がかねて揮毫を依頼していた程赤城の書(南畝の富嶽詩)とを斡旋してもらった官医・小川文庵への礼状〉
不明文化1年
1804/10/01
長崎官舎
〈南畝実見〉
小川文庵宛
書簡66
⑲97
書・額字「(長崎清水寺の奥の院)
 
曠観 呉趨程赤城」
扁額文化2年
1805/03/12
長崎 清水寺
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴⑧538
宗淵春遊山谷 見奇花異草 則繋於帯上 帰而図其形状 名眼芳図百花帯 人多效之
 三月十八日の朝、包頭庫【俵物役所】にて、俵物の掛渡しを監せし時、程赤城に扇面の書をこはしむる
 に、右の語を書贈れり。其夜灯下にて説鈴を見しに、銭塘高士奇澹人の天禄識余を載す。その中に此
 語あり。奇とすべし」

〈高士奇は清の学者で澹人は字(アザナ)。『説鈴』をみて語句の出典を突き止めた南畝の好奇心は旺盛である。それにしても、程赤城はなぜ『天禄識余』のこの行を引いたのであろうか〉
扇面文化2年
1805/03/18
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴⑧552

七言絶句
文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章
 竜樹伝衆道有承 門開甘露称宜(落字アリ) 当途亦会尊禅意 位置原推最上乗
 慧カ楽簡(曾カ)経重海東 長松細草蔭雪中 晤時恍入三摩地 象数当前色不空
   右七言絶句二首恭賀竜門大和尚隆(陛)坐之喜
  日本文化元年環翠楼  法弟呉趨程赤城〔赤城一字胡瑒〕」

〈文化元年十月、竜門和尚が聖福寺の住職に就いたとき寄せた詩。これを南畝は翌二年九月二十三日書写した〉
不明文化2年
1805/09/23
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦又綴⑧663
書・額字「(山陽道、矢掛宿にて)
 蘋薌 額は呉趨の程赤城書なり」
文化2年
1805/10/25
矢掛宿主人
山名啓右衛門

〈南畝実見〉
小春紀行⑨53

七言絶句
「程赤城書、宇奈根村屛風におしてあり
 雨余花滴満紅橋 柳絮沾泥夜不消〔蘭外。沾粘誤〕暁桐忽無還忽有 春山如近復如遥 呉趨程赤城
 此比のけしきに似て面白き詩なり」
〈この詩は宋の葛長庚の七絶。なお、葛長庚の承句は「柳絮沾泥夜不消」とある〉
巻子本文化6年
1809/03/22
宇奈根村
〈南畝実見〉
向岡閑話⑨497
「青楼江戸町二丁目名主西村佐兵衛所蔵 三月十二日一見
 初代花扇書 (二行空白)

 冷雨幽亭不可聴 桃灯閑看牡丹亭 人間亦有痴於我 豈疑傷心是小青  程赤城」
〈程赤城が書した七言絶句は、明の才女・馮小青の七絶。程赤城は、和歌に名高い扇屋の遊女、花扇の書をみて、馮小青に擬えたというのであろうか。なお、原詩は「冷雨幽窗不可聽 挑燈閑看牡丹亭 人間亦有痴於我 豈獨傷心是小青」〉
巻子本文化14年
1817/03/12
西村佐兵衛蔵
〈南畝実見〉
丁丑掌記別58
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