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名所編大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔名所編〕大田南畝関係
(江戸・長崎・大坂・東海道・木曾街道等の名所)
【お】※◯は欠字、◎は表示不能文字
名所詞書・詩歌出典巻・頁年月日
おうさか
逢坂 (大坂)
「七夕郊行 誰道亀井水 伏自地中至 相逢阪曲亭 洗盞漱余酔 右逢坂」〈『蘆の若葉』⑧229〉南畝集12
漢詩番号2033
④182享和1年
1801/07/07
おうじやま
王子山(皇子陂)
「春日、王子山に遊ぶ。肴韻を得たり
 手携藜杖出西郊 村落風煙覆白茅 遥指古祠桑柘外 春芳未発百花梢」
 其の二 歌韻を得たり 皇陂春水引相過 隔樹遥聞鼓吹多 山下賽神何処女 東風不厭颭香羅」
南畝集5
漢詩番号0910-1
③313安永10年
1781/02/
「春日、諸子と同じく皇子陂に遊ぶ 春寒花比去年遅 節近清明未満枝 両個酒旗青入眼 鳥山西北隔皇陂」南畝集16
漢詩番号3030
⑤60文化4年
1807/02/
おうみはっけい
近江八景
「近江八景狂歌
 粟津晴嵐 いそとせの夢も粟津の粟のめしかしぐ間もなくはるゝ夜嵐
 勢田夕照 蜈蚣(ムカデ)より夕日のあしの長ければ大はし小橋わたるからはし
 三井晩鐘 三井寺の鐘引あげし弁慶が力もいまは寂滅為楽
 唐崎夜雨 真昼の日本晴の天気より雨の夜のゆかし唐崎の松
 矢橋帰帆 はらむ帆のかへる矢橋のはやめにてあんじるよりも安き水海
 石山秋月 うすぐらき石山寺の源氏の間さしいる秋の湖月一巻(クワン)
 堅田落鳫 松風をかぢる音かとよくきけばかたへの堅田ならぶ落鳫
 比良暮雪 山もりのひらのあは雪夕豆腐うりくる比やつぼと詠めん」
六々集
万紫千紅
②232
①281
文化12年
1815/03/
おうぎはま
扇浜 (羽田)
「春日、扇浜の漁村に次(ヤド)る【羽田名扇浜】
 春風澹々扇微和 籬畔軽帆下玉河 百代光陰皆客舎 清閑如此亦無多
 又 花紅樹緑一漁村 潮去潮来岸有痕 晩欲傾壷魚未得 閑庭立尽到黄昏
 浦風に若木のさくらさきそめて旅ねをすまの心地こそすれ
 いさり火の影か苫屋のともしかも夕くれなゐのうす花ざく」
玉川余波②139文化6年
1809/03/07
おおいがわ
大井川 (駿河)
「大猪川を渡る 日落長亭島田 西風吹雨暗春天 岸頭懸火明於昼 直度洪流大猪川」改元紀行附録
南畝集12
漢詩番号1938
⑧136
④157
享和1年
1801/03/02
おおうちじょう
大内城址(周防)
「城山懐古【大内義隆故城址】 城山石壁鎮周洋 始祖曾称琳聖王 手握朱明勘合印 寧知敵国生蕭墻」小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2785
⑨88
④416
文化2年
1805/10/19
おおかわ
大川 (隅田川)
「大川にかすみたつをみて 見わたせば大橋かすむ間部河岸松たつ船や水のおも梶」放歌集②177文化9年
1812/01/01
おおくぼ
大久保
「春日、菶仲と同じく郊行して大窪に至る
 春満平田十畝間 煙霞無尽正南山 晩来且欲尋幽処 携手同人未擬還
 【正南山、某侯の戸山園中に在りと云ふ】」
南畝集4
漢詩番号0644
③224
安永8年
1778/03/
おおさかかんしゃ
大坂官舎
「秋雨、浪華の官舎を辞す (詩なし)」 〈道修町三丁目『革令紀行』⑧408〉南畝集14
漢詩番号2500
④328文化1年
1804/08/18
おおもんぐち
大門口 (吉原)
「大門口を望む 衣紋坂曲つて大門開く 土手東に連らなつて北に到つて廻る
 両側の青簾相対して出づ 遊山一片水辺より来る

 「吉原細見」に云、衣紋坂此所往来路山曲にしてくるはをあらはさず。又「娼妃地理記」にみへたり。両側青簾とは中の町茶屋のすだれをいふ。水辺とは向島かまつさきか、なんでもすみだ川辺」
通詩選諺解①486天明7年刊
1787/01/
おかざきじょう
岡崎城 (三河)
「岡崎城【一名竜城】 麗譙高擢挿長空 二十七盤山郭中 憶昔竜城雲起日 三河草木八州風」改元紀行附録
南畝集12
漢詩番号1944
⑧138
④158
享和1年
1801/03/02
おかちやま
御勝山 (大坂)
「七夕郊行 鬱々将軍樹 長伝戦勝名 松風吹不尽 自作凱歌声 石御勝山」 〈『蘆の若葉』⑧228〉南畝集12
漢詩番号2030
④181享和1年
1801/07/07
おかやま
岡山 (備前)
「岡山城に入る 十里平田沃野閑 晩乗寒雨入岡山 洞開圜闠通城郭 芳烈遺風市井間
 【芳烈公は岡山侯の祖】」
「岡山、暁に発す 雨歇残雲宿霧重 晴天孤塔湧前峰 堂中五百阿羅漢 応是蕃山去後供」
南畝集15
漢詩番号2800
2801
小春紀行附録
④420
⑨90
文化2年
1805/10/26
おがわまち
小川町 (神田)
「小川町霞【子子孫彦会】 水ぬるむ小川まちまち家々に錦のきれの霞たつらむ」巴人集②391天明3年
1783/01/
おく
尾久
「あらきだといふ所にゆかんとて道にまよひて尾久村をすぐ
 あらきだのあらぬ方へと引れゆく狐の尾久の長き道筋
「花時、遍く諸園に游ぶ 其の六 欲踏青郊到墾田 窮途隔樹歩難前 汪々野日陂千頃 歴々風帆水一川
〈この日の遊山のことは『一話一言』⑭56にあり〉
をみなへし
南畝集16
漢詩番号3149
②31
⑤95
文化5年
1808/03/16
「辛巳三月十八日、尾久村の毓秀園に眺望す
 布帆阿娜帯春風 影上疎松一水東 野菜黄花金満地 山桜錦歩障連空」〈歩障は幔幕〉
南畝集20
漢詩番号4593-4
4596
⑤517文政4年
1821/03/23
おくやま
奥山 (浅草)
「浅草奥山に菊を植えしときゝて 奥山に植たる菊を門番の風の神殿ふきな倒しそ」放歌集②203文化9年
1812/09/
おしだて
押立村 (多摩)
「押立村の農家にいこふ 用水の引入ながき道筋に屏風かたかた押立のむら」玉川余波②117文化6年
1809/01/08
「武蔵国多摩郡押立村向新田にすめる長五郎といへるもの、年ごろ老たる母につかへて孝養を尽せしかば、御代官上坂安左衛門よりきこへあげて、寛保元年辛酉正月白銀を賜ひ、猶その四月押立村新田堤のうちにて田七段を賜り、はたその田をあらきはりすべき人夫の糧米六石余をそへてたぶ。宝暦十一年辛巳五月十五日長五郎病て死せしよりこのかた、その子につたへて今の長五郎にいたると云。夫孝は百行の本にして万善の主なり。天が下にありとしある人たれか父母の恩を蒙らざるものあらんや。父母いますときは愛敬のまことをつくし、いまさゞれば年忌の祭をわするべからず。天の時に従ひて農業の事をつとめ、地の利によりて作物の種を下し、身を謹しみて法度を守り、用をはぶきて奢の心なく、長く君の恵をあふぎ君の賜を守りて、千代万代の末までも、うみの子のいやつぎ/\につたへゆかば、もろこし人の門閭に旌表すといひけんんたぐひなるかも
 たまはりし門田に旌をおしたてて親につかふる道しるべせよ
 親の親子の子の末もなりはゐのゆたかにたもつとしのあら小田

 文化六年己巳孟春、命を奉じて玉川堤防を修す、道に多摩郡押立新田に過(ヨギ)る、因つて此の歌を書し以て長五郎孝孫に与ふ」
玉川余波②117文化6年
1809/01/20
おだわら
小田原 (相模)
「小田原駅の観山舎に宿す。友人桃李園酒を載せて至る
 投宿観山舎 閑庭隔市塵 鉄蕉横鳳尾 玉樹老竜鱗 美酒催微酔 他郷対所親 葛魚鮮作膾 不念故園蓴」
南畝集14
漢詩番号2480
④323文化1年
1804/07/26
「小田原城に入る 山城月出小田原 薄暮肩輿入郭門 不怯客衣寒節近 前程三日是郷園
 小田原の宿のあるじ、うつし絵に歌かきてよとこふ。そのゑは菊に犬なり
 やま人の菊の下梅雨うちはらふ手がひの犬や雲に吠えへけん
 また竹に鶏のかたかきたる くれ竹のよやあけぬらん一ふしのま長なき鳥の声ぞ聞ゆる」
小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2838
⑨101
④431
文化2年
1805/11/16
おちゃのみず
お茶の水
「舟、茗水を下る 吉祥橋下放舟初 茗水斜通礫水渠 直向墨田河上去 冷然清興在樵漁」南畝集16
漢詩番号2921
⑤27文化3年
1806/08/
おのみや
小野宮 (本宿村)
「小野の宮といふところにやどりけるに、花がめに桜をいけ置たりければ
 むさし野の小野の里人こころありて初ざくら手折一枝
「小野宮廟に謁す 延喜神名小野宮 春回旧府想皇風 半身古樹牛堪蔽 匠石徒過櫟社中」
〈内藤次郎左衛門に投宿〉
玉川余波②133文化6年
1809/02/21
おばすてやま
姨捨山 (信濃)
「姨捨山【欄外。信州嫗一葉勧進】
 さらしなや姨を捨てたる山あればひろふ神あり月よみのみこ」
万紫千紅①274文化11年
1814/
おやま
小山
「小山詞。五首
 小山何所有 歌舞満娼家 不見叢生桂 唯栽解語花
 朝辞東奥客 夕送下毛郎 借問二州路 別離誰短長
 其の二
 聞歓発小山 為歓携所有 莫将一椀茶 未及千鍾酒 其の三
 東方千万騎 来宿小山下 何用識使君 中有紫騮馬 其の四
 朝看思川水 暮看思川水 儂思若川流 君思亦何似 其の五」
〈南畝、将軍家治の日光社参に従行〉
杏園詩集二⑥46安永5
1776/04/15
おんまやだに
御厩谷 (番町)
「好花坊糸桜歌三十首 七番 御厩谷 さしのぼる日かげにいとゞうちはへてけさのさくらの色にえならぬ」花見の日記⑧48寛政4年
1792/03/
Top浮世絵師総覧名所編大田南畝関係