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   本人編 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔本人編〕    大田南畝関係
 (述懐・家族・住居等南畝自身に関する詩・狂歌)
  【そ】※◯は欠字、◎は表示不能文字
事項詞書・詩歌出典巻・頁年月日
ぞうしょ
蔵書
「蔵書 少小思蔵万巻書 老来稍覚得嬴余 病身甘作殉身計 故祇堆中一蠧魚」南畝集20
漢詩番号4501
⑤491文政2年
1819/09/
そつじ
即事
「癸丑十二月十日即事 南風忽反北風天 暖気為寒雨作煙 疑是神竜乗気去 溟濛雲霧路難前」南畝集9
漢詩番号1908
④144寛政5年
1793/12/10
そふ
祖父 (道寿君)
「念祖徳詩并序 吾祖考道寿君、秋九月八日を以て逝く。天明元年辛丑に至つて、実に三十有三年なり。吾諸を父母に聞く。祖考の人となりや、能く厳に能く和に、官に居ては己れを尽し、家に居ては心を尽し、筆札を善くす、最も釈氏を信じて、法華を読誦する者殆ど千余部、其の勇猛精進に至つては、持戒の比丘と雖も過ぐること能はずと。吾儕小子、荀くも稟粟を窃んで、上は父母を養ひ、下は妻子を育んで、晏如として以て今日に至る者、一に祖考の徳に頼る。罔極の恩、其れ忽にすべけんや。釈横川の『京華集』を按ずるに云ふ、「預め十王経を修するの説に拠つて、七七の外、更に三斎を加へて、以て十王の数に配す、三歳とは、曰く百日、曰く一年、曰く三年、是れなり。本朝の風俗、十斎の外、更に六斎を加へて、以て有終の喪を表す。六とは、曰く七年、曰く十三年、曰く十七年、曰く二十五年、曰く三十三年、曰く一百年、是なり」と。蓋し三十三年の斎為(タ)るや、其の来たること尚し。或いは云ふ、聖徳太子の創むる所なりと。慎終追遠は、曾子もまた云ふ、況んや霜露既に降つて、悽愴惻怛、往昔を追念して、感無きこと能はず。因つて窃かに是れが為の詩を作つて、以て昔人の祖徳を述ぶるの詩を比すと爾云ふ
 日往更四序 月来近重陽 陰雲灑雨足 白日若無光 霜露下満地 時菊発含芳
 悽愴思昔人 中心転悲傷 孫謀吾豈敢 祖徳安可忘 未報罔極徳 欲酬仰彼蒼
 昔吾在襁褓 毎蒙含餳恩 垂慈僅七月 宛乎去九原 既無識半面 不復記片言
 幸有遺書在 手沢猶自存 蠹魚食過半 墨花粲其翻 願言比懐壁 服膺及後昆
 其の二
 悠悠三十三 年歳一何速 我祖逝不帰 秋草幾已緑 行上郭北墓 乃在白山曲
 白山何律律 墳塋自相属 一朝託山丘 焉得処華屋 念之涙沾臆 欲帰且躑躅
 其の三
 祖先在世時 毎誦蓮花経 昏嫁一以畢 不復慕世栄 唯奉一乗法 所願在無生
 書写余金字 彫刻具彩霊 大乗欽無轍 小子愧有情 寧知鷲峰上 常懸心月明
 其の四」
南畝集5
漢詩番号1008-11
③345天明1年
1781/09/
「九月六日は母の忌日、八日は祖父、九日は父の忌日なり
 かぞいろのなくなりしよりしら菊の花にもそゝぐわが涙かな
 ねがはくは九月十日にわれしなん祖父ちゝわれと三世のみほとけ」
放歌集②164文化8年
1811/09/09
そぼ
外祖母
(渋垂氏)
「外祖母渋垂氏の墓に謁す【墓、四谷南寺町正覚寺に在り】
 四十六年弾指中 報劉日短未成童 外家無後留残碣 恐没荒煙野草中」
【外祖母、宝暦十三年五月三日を以て逝く。此に四十六年なり」
〈文化元年「親類書」⑳45 南畝の母の実母。渋垂氏は「元闕所物奉行早瀬吉右衛門同心」〉
南畝集16
漢詩番号3163
⑤99文化5年
1808/04/
「外祖母の五月三日、病み且つ雨ふるを以て墓に上らず。越えて六月初三、墓に謁す。墓前、紫陽花盛んに開く。感有り
 報劉余意謁墳塋 六十年前隔死生 今日看花猶濺涙 紫陽還有渭陽情
【外祖母宝暦十三年癸未を以て没す】
南畝集20
漢詩番号4609
⑤522文政4年
1821/06/03
そぼ
外祖母
(山口氏)
「外祖母山口氏、先人の家に寓す。予、幼くして撫養を蒙る。宝暦癸未五月三日を以て背かる。時に予成童なり、今に至つて五十年。聊か一絶を賦して以て追憶の懐ひを述ぶと云ふ
 五十年前夏五天 哉生明月没黄泉 報劉日短長相憶 令伯陳情表一編」
南畝集18
漢詩番号3630
⑤241文化9年
1812/05/03