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    本人編 【み】 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔本人編〕   大田南畝関係
  【美保崎・賤・晴雲妙閑信女】(みほさき・しづ・せいうんみょうかんしんにょ) ※◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・詩歌出典巻・頁年月日
「天明五のとし霜月十八日、はじめて松葉楼にあそびて
 香炉峯の雪のはだへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 いざゝらばふすまをはるのまつばやの玉だれのうちに冬ごもりせん」
〈松葉屋遊女・美保崎と初対面か〉
三保の松②506天明5年
1785/11/18
「天明六のとし正月二日、松葉楼にあそびて 一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や」天明6年
1786/01/02
「五月五日 くす玉をかける二階のあやめ草みすからかみの引手おほさよ」 〈吉原の端午の節句、松葉屋か〉天明6年
1786/05/05
「六月四日の朝 きてかへる錦は三保の松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳」三保の松②506天明6年
1786/06/04
「美人、衣を贈る 美人贈我錦衣装 孔雀双飛五彩章 夢断青楼消息絶 時開篋笥慕余香」
〈美保崎の身請け成立か。濱田義一郎著『大田南畝』によると、美保崎は松葉屋の新造、当時二十二歳とのこと〉
南畝集7
漢詩番号1331
杏園詩集三
③460
⑥85
 松葉楼中三穂崎 更名阿賎落蛾眉 天明丙午中元日 一擲千金贖身時」
〈天明6年7月15日、松葉屋三保崎を身請け、眉を落としてお賤と改名〉
巴人集②462天明6年
1786/07/15
「雨ふる日、坂本(下谷)にて をやまんとすれども雨のあししげく又もふみこむ恋のぬかるみ」
〈吉原松葉屋遊女・三保崎の許に通う〉
三保の松②507天明6年
1786/07/
「寄水恋 我恋は天水桶の水なれや屋根よりたかきうき名にぞたつ」 〈三保崎〉三保の松②507
「さんやわたりのしのびありきの比、雨ふりつづきて大路に水たかくいでければ
 ちぎりきな合羽の袖をしぼりつつ末の松葉屋波こさんとは
 おなじ心を 君をゝきてはだし参りをわれせずは末のまつばや波もこえなん」
「さんやわたりのしのびありきの比、雨ふりつゞきて大路に水たかう出たりければ  よみ人しらず
 ちぎりきな合羽の袖をしぼりつゝ末の松葉屋波こさんとは
三保の松
狂歌才蔵集
②507
①45
「浅草矢大臣前何がしのやどりをとふとて 大水にまはり道してゆみとつる心ははしる矢大臣門」
「浅草馬道のほとりに女をゝきてかよひけるに雨ふりて水出けるに よみ人しらず
 大水にまはり道して弓とつる心は走る矢大臣門」
〈お賤は身請け後、浅草馬道通り、矢大臣門(仁天門)前の某所に囲われたようだ〉
三保の松
狂歌才蔵集
②507
①45
「この頃ふりつづきたる雨にかよひの空いかゞならんと思ふ給へらるゝによべよりおほやけの事さへしげくて朝とく出なんとするに、れいのもとより消そこ給はれり。このひの月いかゝみるらんともいふべき心ばへなり
 ながめやるちさとの外もかくばかり光くまなき秋の夜の月」
〈「れいのもとより」とは身請けした賤(しづ)のことか。松葉屋の遊女・三保崎を身請けしたのは天明6年7月15日(『松楼私語』⑩11)。以降、お賤(しづ)と改名。狂歌は『徒然草』を踏まえる〉
巴人集②462天明6年
1786/08/15
「十五夜思ふ事侍りて 中々に松のはごしの月ならばみるべきものをつきやまの陰」美保の松②508
「題しらず やみぬればをのなき琴のねすがたをたゞかきなでゝみるばかりなり」
「やめる女のかたはらにそひふし侍りて よみ人しらず
 やみぬれば緒のなき琴のねすがたをただかけなででみるばかりなり」 〈病に臥すお賤〉
三保の松
狂歌才蔵集
②508
①45
天明6年
1786/08/
「八月二十八日、逍遥楼にうつりて 郭中の荘子のひびきあればにや逍遥楼とよばゞよばなん」
〈逍遙楼はお賤の寓居〉
三保の松②508
「秋のよ雨をきゝて たゞひとりつかふとなりのあまそゝぎあまりといへばすごきかくれ家」
「あらしはげしきあした、やめる女のもとを立出侍りて
 しづが家を野分のあしたいでゝいなばおかしけるとや人のおもはん」 〈逍遙楼のさま〉
三保の松②508
「九月尽 長月はよしつくるともいく秋かてうしをかへてつごもりのさけ」三保の松②508天明6年
1786/09/30
「冬日、逍遥楼の朝望
 小楼宜早起 起坐望朝暾 已蓄東山妓 兼開北海樽 径荒霜已下 楓老菊猶存 忘却鵬兼鷃 逍遥似漆園」
〈妾、阿賎の寓居。漆園は荘周を指す〉
南畝集6
漢詩番号1302
③416天明6年
1786/02/
「神無月十八日のよかみなり雨つよく雹さへふりければ 神無月しぐれの比にかみなりて夕立などはへうにをよばず」三保の松②508天明6年
1786/10/18
「題しらず くるすのゝかこひものかときく紅葉おりおり人のさたもうるさし」三保の松②508天明6年
1786/10/
「別荘節分 としのうちに春はきにけりふくは鬼外とやいはんうたとやいはん」
〈別荘は逍遙楼。この年の立春は12月18日〉
三保の松②508天明6年
1786/12/17
「閏十月十八日 冬がれに木のははみだれちるとてものこれる松のみさほたがふな
 冬がれのながめも花の江戸町や山屋のもみぢみねのまつばや」
〈閏10月の詠『三保の松』の順番通りにした〉
三保の松②508天明6年
1786/閏10/18
「江戸川にいけるふなをはなつとて 江戸川にはなつ一はのもみぢぶなむらさきごいの中にまじはれ」
〈江戸川の鯉は「紫鯉」と呼ばれ珍重されていた。南畝とお賤とふたりで紅葉鮒を江戸川に放生したというのであろうか〉
三保の松②508天明6年
1786/閏10/?
「十五年前反故堆 一章一涙尽余哀 夜来残夢青灯下 髣髴音容去不回  寛政己未孟秋十日   辺以冉」
〈お賤は寛政5年6月19日没。辺以冉は南畝〉
三保の松②509寛政11年
1799/07/10
「六月十九日、亡妾阿賤の十一三年の忌日に値ふ。感有り【法謚を晴雲妙閑と曰ふ。分ちて句首に置く】
 晴色連瓊浦 臨風望日辺 雲飛千万里 雨散十三年 妙偈経中理 余香夢後煙 閑吟時下涙 寄向九重泉」
南畝集15
漢詩番号2696
④388
文化2年
1805/06/19
「是政村に宿りけるやよひ廿あまり六日のあした十七年さきにうせにし人をゆめにみしかば
 今は世になき玉川の面影をこれまさしくも夢にみし哉」
調布日記⑨273文化6年
1809/03/26
「水無月十九日、晴雲妙閑信女の十七回忌の忌にあたりければ、例の甘露門につどふとて、しづのおだまきといふ七文字をかみにおきて、老のくりごとくりかへし、そぞろなるまゝにかいつけぬ
 しるしらぬ人もとひきて夢幻さだめなきよのつねやかたらん
 つくゞくとながめつる哉こしかたを思へばながき夏のひぐらし
 のちの世はかくとみのりの味ひをあまなふ露の門にこそいれ
 をみなへしをりつる時に思ひきや草の原までとはんものとは
 たむけつるとうとうことの言のはのちりやつもりて山となるらん
 まつのはのちりうせぬ名の高殿にちよを一夜の夢とちぎりき
 きのふけふいつか十年に七かへりたなばたつめの秋もちかづく

と、よみけるも猶も思ひのやるかたなければ
 夢幻むかしを今にくりかへすしづの小手巻はてしなきかも」
をみなへし②41文化6年
1809/06/19
「晴雲妙閑信女忌日
 晴れわたる夏のヽ末の草の原朝露わけてたれかとはまし
 雲となり雨となりしも夢うつゝきのふはけふの水無月の空
 妙なりしみのりの花をねざしにて露もにごりにしまぬはちすば
 閑にもしづの小手まきくりかへし思へば長き夏の日ぐらし」
あやめ草②75文化7年
1810/06/19
「季夏十九日、甘露門の集ひ。感有り
 一時流俗紀天明 少壮曾牽薄倖名 購得銭塘蘇小小 寄居山寺崔鴬鴬 春残病葉悲花萎 粉退幽魂化蝶軽
 十八年前如昨夢 覚来唯見夏雲晴」
南畝集17
漢詩番号3366
⑤162
「水無月十九日、甘露門の造作にて晴雲妙閑信女をとぶらふ長歌并反歌
 いくかへり かゞなへみれば 十とせあまり こゝのとせをや 過ぎぬらん そのみな月の けふの日も
 はつかにちかき 友がきの あるはすくなく なきは数 そふる中にも 末のつゆ あきなふ門の 山寺の
 もとのしづくの とく/\の ながれたへせず としごとに のりのむしろの からにしき たゝまくおしく
 思ふぞよ 思ひ出れば 久かたの 天あきらけき としの比 長雨ふりて 川水の みかさもまさり ひたしける
 水や空かと たどるまで 船をまつちの 山をかね 岡にのぼりし 高どのゝ 名におふ松の ことのはの
 ちりうせずして 山ざとに うつろひすみし 年月の 夢のうきはし とだへして むすびもとめぬ玉のをの
 長き別れも つれなしや つれなき色に いづるてふ 大田の松の 大かたの なげきならねど たちまじる
 うき世の事の よしあしの なにはにいゆき しらぬいの 心つくしの はてしなき このまどひこそ 久しけれ
 とにもかくにも 老にける 身をしる雨の 風さはぎ むら雲まよふ 折からの むかしを今に なすよしも
 なつの日ぐらし わすられなくに
 夕だちのふる事思ふひとしきりはれ行く雲のあとぞすゞしき」
放歌集②156文化8年
1811/06/19
「隅田川の花みんと、中田圃といふ処を過て大音寺の前にいづる道は、昔若かりし時山谷通ひに目なれし所なり
 今さらにおそれ入谷のきしも神あやうく過ごし時を思へば
 むかしみし鶴の園生の額もなし三本松やいくよへぬらん
 若かりし日の出いなりをいく年の関のやしきやこえて行けん
 ながめやる天水桶のたがためにむかし飛たつ思ひなりけん
 千束にあまる思ひや思ひ出る親の異見の大音寺前」
放歌集②180文化9年
1812/03/
「月ごとの十九日に物かきて人にあたふるは、晴雲妙閑信女の忌日なればなり。ことし水無月十九日、例の甘露門にまどゐして、じふくにちといふ五文字を上にして五首のうたを手向ぬ
 しづやしづしづのをだ巻はてしなくなど物思ふ夏のひぐらし
 ふねの中なみの上なる浮草のやどりもいつか六とせ七とせ
 くりかへす暦の数もはたまきにちうたばかりの手向とぞなる
 にごり江のみかさまさりてすむ人の門辺もむかしみえずなりにき
 ちかひてしはねもならべず松のはの枝もかはさず年をふるつか」
放歌集②197文化9年
1812/06/19
「としごとの水無月十九日は甘露門につどひて、晴雲忌のあとゝふ事になりぬ。ことしは十八日を卜して、もろ人ともにこのむしろにのぞみて、せいうんきといふ五文字を句の上に置て、いつまで草のいつゝのうたのことのはとはなしぬ
 せにかはるいまこそうけれうしとみしむかしは淵ときく飛鳥川
 せん年のいはほともなれうしろまへむすこけ衣きたるいしぶみ
 せいうんのいまは心もうせはてゝむちうつ駒のきだにすゝまず
 せきとむるいせきの水のうき舟にむつかしくのりきしかたを思ふ
 せんも万もいらず今日うちよりてむべあとゝひにきたる人々」
紅梅集②343文政1年
1818/06/18
「六月十九日、甘露門にて晴雲女廿七回忌 思ひきやしづの小手巻くりかへしはたとせあまりなゝつへんとは」紅梅集②368文政2年
1819/06/19
「六月十九日、甘露門に集ひて感あり 生死従来不自由 糟丘欹側錦江流 分明一部西廂記 二十余年已白頭
 【自由軒・糟丘・錦江、既に没す】」
南畝集20
漢詩番号4546
⑤503文政3年
1820/06/19
「水無月十九日、例の晴雲忌に甘露門にて 三十年にひととせたらず廿日にふつかにみたぬ日こそわすれね」あやめ草②86文政4年
1821/06/19
「六月十九日、甘露門浄栄寺晴雲の忌日の作 三十年前記会真 雲行雨散旧為新 可憐今日捻香者 不是当時灑涙人」南畝集20
漢詩番号4669
⑤537文政5年
1822/06/19