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   絵師編 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔絵師編〕   大田南畝関係
  【か】※実際に揮毫したかは問わない。◯は欠字、◎は表示不能文字
絵師詞書・詩歌出典巻・頁年月日
かつらがわ
ほしゅう
桂川 甫周
「桂川国瑞翁の画ける大津画の鬼の念仏に、国瑞の文字をいれて賛せよとこふ
 薏苡仁数珠 椶櫚葉夜鬼
 鬼のつのつき地の筆の命毛もみだのみ国の瑞とこそなれ

 今はなき人なればなり」
放歌集②185文化9年
1812/03/
かのう おさのぶ
狩野 養信(玉川)
「扈従郎内藤君(二字欠)、画院の伊川法眼栄信をして白梅、玉川義信をして紅梅を画かしめ、覃に命じて詩を作らしむ
 丹青称院画 紅白闘梅花 別有荊妻老 孤山隠士家」〈木挽町八代栄信と九代養信は父子〉
南畝集18
漢詩番号3900
⑤316文化11年
1814/06/
かのう きゅうい
狩野 休意
「狩野休意が老松のゑ まめ人のともに老べきしるしをみそよ相生のもろしらがまつ」
「同じく六十六部、矢立の筆にて堂のはしらにらく書する処
 らく書は無用といひし一寸のひまをぬすめる六十六部」
をみなへし②49文政5年
1822/06/
かのう そせん
狩野 素川
「ある人狩野素川のかきし福禄寿の画を携へ来り、南極を北極によみかへよといふに
 南極を北極にして見るからは此ゑしもとは吉原がすき
 素川をしれる人はほゝゑむべし」
放歌集②161文化8年
1811/07/
「百首狂歌画の巻首に題す
 予嘗て狂歌百首を書して家に刻す。福屋穣樹子見て之を喜び、乃ち太玄斎素川翁をして其の意を画かしめ以て巻と為す。絵事の妙、気韵生動、筆の至る所意亦至る。古云ふ詩は声有る画、画は声無き詩と。豈啻に詩のみならんや。狂歌亦然り。文政庚辰孟春七十二翁蜀山人書于杏花園」
紅梅集②384文政3年
1820/01/
かのう たんゆう
狩野 探幽
「狩野探幽画斎かしく梅の画に これがかのかの探幽が筆にてかく梅としきけばめでたくかしく」七々集
万紫千紅
②249
①284
文化12年
1815/08/
「おなじ日(文政五年二月十五日、上野)浄行堂にて探幽霊の画るといへる涅槃像をみる
 世の中のはかなきためししらせんと釈迦もごろりと横にごねはん」
あやめ草②99文政5年
1822/02/15
かのう ちかのぶ
狩野 周信
「周信のゑに、猩々雪を盃にうけもちたるかたかきたるに
 酔ざめにいざひとさしと盃も雪をめぐらす猩々の舞」
七々集
万紫千紅
②286
①296
文化12年
1815/12/
かのう ながのぶ
狩野 栄信(伊川)
「扈従郎内藤君(二字欠)、画院の伊川法眼栄信をして白梅、玉川養信をして紅梅を画かしめ、覃に命じて詩を作らしむ
 丹青称院画 紅白闘梅花 別有荊妻老 孤山隠士家」〈木挽町八代栄信と養信は父子〉
南畝集18
漢詩番号3900
⑤316文化11年
1814/06/
「木挽町松川といへるやどの額に、伊川法眼の画がける梅に福寿草をみて
 春風のふく寿そうそう咲いでゝ梅の立枝の花をまつかわ」
七々集
万紫千紅
②277
①295
文化12年
1815/11/
かのう ゆうせん
狩野 融川
「狐拳のかたを融川法師のかける三幅対の絵に詩歌せよと、秋田の大守の求によりて
 左 狐  をぎつねにめぎつねまじり拳酒もきはまる時はらん菊の園
 中 名主 名主組頭年寄交 門前高札守如教 常々急度能申付 在々何人放鉄砲
 右 鉄砲 てつぽうの玉の盃そこぬけにうつや一けん二けん三けん」
放歌集②190文化9年
1812/05/
「融川法眼の印陀羅の図にならへる寒山拾得の画に
 平生の竹帚とも見えざるは何だ羅葉か印陀羅様か
 寒山が寒中見舞数十通四睡の虎や千里くばらん」
放歌集②236文化12年
1815/04/
かのう ようせん
狩野 養川
「福禄寿亀をみる画。養川院法印のかけるなり 寿の高さくらべん福緑のひさごつぶりと亀の尾の山」六々集②211文化11年
1814/10/
「狩野養川の福禄寿の画に 寿をなしなふ川のほとりには頭の高き山とこそみれ」六々集②249文化12年
1815/08/
がんく
岸駒
「越前の岸 駒 可観の画に題す 飛来鶴一双 千載又千載 徘徊松竹間 謝絶蜉蝣輩 右、二鶴」
日出耕千畝 日入息三冬 経歴幾霜雪 蒼々太古松 右、日松間に生ず」
南畝集19
漢詩番号3952-3
⑤335文化12年
1815/01/