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☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信浮世絵師名一覧
〔元文4年(1739) ~ 天明5年(1785)5月25日・75歳〕
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕 :「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」  〔白倉〕   :『絵入春画艶本目録』   〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演年月日等のデータ     ☆ 延享三年(1746)     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(享保十八年刊)    石川豊信画『筒井筒京童子』墨摺 横本 三冊 口絵:紅摺絵 延享三年頃     ☆ 寛延元年(延享五年・1748)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛延元年刊)    石川豊信画    『姫小松恋若草』墨摺 横本 三冊 寛延元年頃      (白倉注「春信や重政画と擬せられていたが、豊信の代表作。断簡を採り集めて覆刻したものがある」)  ☆ 寛延二年(1749)     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(寛延二年刊)    石川豊信画『色つばな』墨摺 横本 二冊 寛延二年頃     (白倉注:扉絵と上巻第一図だけ合羽摺。豊信はなぜか合羽摺を使うことが多い)〈口絵は紅摺絵〉  ☆ 寛延三年(1750)     ◯『俗曲挿絵本目録』(寛延三年刊)    石川豊信画?    『雪づくし』(せりふ)豊信風画 和泉屋板〔寛延03/11/01〕「につたよしさだ、大もりひこ七かけあい八」    〈『俗曲挿絵本目録』に刊年はないが、立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演デー     タに拠り、とりあえず寛延三年に入れた〉    ◯「艶本年表」〔白倉〕(寛延三年刊)    石川豊信画    『色系図』墨摺 横本 三冊 口絵・紅摺絵 寛延三年頃     (白倉注:人物描写も大ぶりになり、祐信の影響がはっきりと表れた艶本)    ☆ 寛延年間(1748~1750)    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(寛延年間刊)    石川豊信画『色系図』墨摺 横本合本 一冊 寛延頃〈口絵は第1冊・第2冊とも紅摺〉    ☆ 宝暦元年(寛延四年・1751)    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦元年刊)   ◇絵本    石川豊信画『草花絵本』一冊 石川豊信画    ☆ 宝暦二年(1752)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦二年刊)    石川豊信画    『絵本東の森』二巻 東都画図石川秀葩豊信  鱗形屋孫右衛門板    『絵本俚諺草』三巻 画図石川豊信      須原屋茂兵衛板    『草花絵本』 一巻 画工◎篠堂石川秀葩豊信 鱗形屋孫兵衛板〈◎は日+旦〉    ◯「日本古典籍総合目録」(宝暦二年刊)   ◇教訓    石川豊信画『絵本譬草』二巻 石川豊信画    ☆ 宝暦三年(1753)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(宝暦三年刊)    石川豊信画『色通鑑』墨摺 横本 三冊 口絵・紅摺絵 宝暦三年頃  ☆ 宝暦七年(1757)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦七年刊)    石川豊信画『絵本末摘華』一巻 東都画図石川秀葩豊信 蕉亭主人序 鱗形屋孫兵衛板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(宝暦七年刊)    石川豊信画『春の風』墨摺 横本 三冊 宝暦七年     (内題「好色はるの風」白倉注「下巻末に、沢田東江作の洒落本『異素六帖』(宝暦七年)の宣伝がはいっている。      とすれば本書も六河亦次郞、柴田弥兵衛の刊行か」)      ☆ 宝暦九年(1759)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦九年刊)    石川豊信画    『絵本武勇太図那』三巻 東都画図石川秀葩豊信 鱗形屋孫兵衛板    『武者手綱』   二巻 東都画工石川秀葩豊信 西村源六板     (本書上書の改題再板也、発行年不明なれどここに載す)     ◯『俗曲挿絵本目録』(宝暦九年刊)    石川豊信画?『江戸町尽しのせりふ』(せりふ)豊信風画 村山板〔宝暦09/01/02〕    〈『俗曲挿絵本目録』に刊年はないが、立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演デー     タに拠り、とりあえず宝暦九年に入れた〉     ☆ 宝暦十年(1760)     ◯「艶本年表」(宝暦十年刊)    石川豊信画    『武蔵野の開光』墨摺 横小本 三冊 豊信か 宝暦十年〔白倉〕     (江戸、京、大坂の三都役者評判記の仕立て)    『好色春の風』墨摺 横本 二冊(全三冊)宝暦十年頃〔日文研・艶本〕     〈第2冊の巻末に宝暦六年刊『【北州】異素六帖』の宣伝あり「御買被成て御覧じませ 大評判/\」〉     ☆ 宝暦十一年(1761)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(宝暦十一年刊)    石川豊信画    『恋のたはむれ』(仮題) 墨摺 横短冊板 十二枚組物 宝暦十一年頃     (白倉注「豊信は、横長判(29×13㎝)の組物を三、四点作っているようだ」)    『色盛閨の錦』墨摺 横本 三冊 宝暦十一年頃    『若みどり』(仮題)墨摺 横短冊 十二枚組物 宝暦十年頃     (白倉注「後摺本か、合羽摺で彩色摺したものがある。珍しい形態だが、宝暦を中心にいくつか残っている。豊信画      「欠題組物Ⅱ」に同じ」)    ☆ 宝暦十二年(1762)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦十二年刊)    石川豊信画    『絵本◎合鑑』三巻 作者石川豊信  鱗形屋孫兵衛板    『女今川』  一巻 画工石川豊信筆 田むらよし尾女書 鱗形屋喜右衛門他板           (元文二年版にて西村重長の画あり)    ◯「往来物年表」(本HP・Top)(宝暦十二年刊)    石川豊信画『女今川錦の子宝』口絵「画工 石川豊信画筆」田むらよし尾書 村田屋治郎兵衛〔国書DB〕    奥付 宝暦十二年改 元文二年十一月刊〈豊信画は宝暦12年版〉     ☆ 宝暦十三年(1760)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦十三年刊)    石川豊信画『絵本花濃緑』三巻 江都石川豊信画 禿箒子讃 二酉堂序 須原屋茂兵衛板    ☆ 宝暦年間(1751~63)    ◯「艶本年表」(宝暦年間刊)    石川豊信画    『武蔵野の開光』二冊?石川豊信風 宝暦頃刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『色あそび』  墨摺 横本 三冊 宝暦年間〔日文研・艶本〕    ◯『続飛鳥川』〔新燕石〕①29(著者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物。元日に番付売、初狂言、正月二日始る、番付題代六文、一枚絵草 紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり、鳥居清信筆、其外、奥村、石川〟     ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「宝暦年間記事」1p170   〝浮世絵師鈴木春信、石川豊信(秀葩と号し、六樹園飯盛の父にして馬喰町の旅店ぬかや七兵衛といへり)、    鳥居清倍、山本義信(平七郎と称す)、鬼玉其の外多し〟    ☆ 明和元年(宝暦十四年・1764)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明和元年刊)    石川豊信画『江戸紫』三巻 画工石川豊信筆 作者浪花禿帚子 須原屋茂兵衛外版    〈「日本古典籍総合目録」は明和二年刊とする〉  ☆ 明和初期    ◯「艶本年表」〔白倉〕(明和初期)    石川豊信画『恋のめりやす』墨摺 横長本 一冊 明和初期    (白倉注「『季刊浮世絵』56号に、伝清長作として載っているものだが、豊信の晩年作なるべし。豊信はなぜか、横長     の春画を宝暦期にいくつも作っていて、本作もその流れの一つと考えられる」)  ☆ 明和二年(1765)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明和二年刊)    石川豊信画    『絵本千代の春』三巻 画工石川豊信筆 作者浪華禿帚子 川村儀右衛門板    『絵本喩問答』 三巻 画工石川豊信筆 作者浪華禿帚子 川村儀右衛門板     ◯「日本古典籍総合目録」(明和二年刊)   ◇絵本    石川豊信画『絵本江戸紫』三冊 石川豊信画 禿帚子作    ◯「艶本年表」(明和二年刊)    石川豊信画『肉蒲団』墨摺 横本 三冊 一部に紅摺絵(扉絵他) 明和二年頃〔日文研・艶本〕〔白倉〕     (白倉注「女の解剖図(元は祐信)が色摺ではいっているのが珍しい。また「美女三十二相」の解説があって『女大楽      宝開」のそれと類似している)    ☆ 明和六年(1769)    ◯「日本古典籍総合目録」(明和六年刊)   ◇和歌    石川豊信画『藻塩百人一首千尋海』一冊 石川豊信画 随時老人編 注記「明和書籍目録による」    ◯「百人一首年表」(明和六年刊)    石川豊信画    『藻塩百人一首』色摺口絵・挿絵・肖像 京〔跡見1783〕     奥付「画工 花洛 西川氏 画師 武江 石川豊信」随時老人撰     林権兵衛・武村嘉兵衛ほか 明和六年八月刊    『藻塩百人一首千尋海』色摺口絵・挿絵 京〔跡見22〕     奥付「選者 皇都 随時老人/画工 花洛 西川氏/画師 武江 石川豊信画        明和六年八月吉日 寛政四補刻 皇都書肆 林権兵衛 林伊兵衛 朝倉儀助」    〈〔跡見1783〕は〔跡見22〕の原本か。口絵と板元が異なる〉    『天明新刻 八千代百人一首宝海』口絵 挿絵 京〔跡見904〕     奥付「撰者 皇都 随時老人/画工 花洛 西川氏/画師 武江 石川豊信」        明和六年八月吉日 寛政四補刻        皇都書肆 林権兵衛 林伊兵衛 石田善兵衛 西村平八 竹村嘉兵衛」    〈随時老人は多田南嶺。西川氏は西川祐尹(スケタダ)か。上掲の『藻塩百人一首千尋海』も板元に異同はあるものの他は     まったく同じ記載であるから、出版事情は同じと見てよいのであろう。両本とも原本は明和6年刊、そして寛政4年、     補刻して出版したというのだろう。では画工との関係はどうか。祐尹は安永元年(1772)頃までの現存が確認されてい     るもののその後の出版はない、また豊信は天明5年(1785)すでに亡くなっている。したがって両者とも寛政4年(1792)     の補刻とは無関係。するとそもそも明和6年の原本が両者の合作と考えるほかない。それにしても「画工・西川」と「画     師・豊信」との違いは何によるものなのか、またどのような縁があってこの組合せになったのか、これらもよく分か     らない。さらにいえば「天明新刻」の角書をなぜ加えたのかも不明である。参考までに〔目録DB〕の上掲の書誌を引     くと〝注記「明和書籍目録による」〟とあるのみで、角書も画工名も板元についても記載がない〉  ☆ 明和七年(1770)    ◯「日本古典籍総合目録」(明和七年刊)   ◇絵本    石川豊信画『絵本明ぼの草』三冊 石川豊信画      ☆ 安永八年(1779)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永八年刊)    石川豊信画『絵本教訓種』三巻 筆者石川豊信 須原屋茂兵衛板     ☆ 天明四年(1784)     ◯『狂歌すまひ草』〔江戸狂歌・第二巻〕天明四年刊   〝虫  石川秀葩     ☆ 天明五年(1785)(五月二十五日没・七十五歳)       ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「天明五年」1p215   〝同(五月)二十五日、浮世絵師石川秀葩豊信卒す。(馬喰町旅舎ぬかや七兵衛といふ。狂歌師六樹園飯盛    の父也。浅草榧寺に葬す)〟    ☆ 刊年未詳     ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    石川豊信画『石川豊信画譜』一冊 石川豊信画    ◯「艶本年表」(刊年未詳)    石川豊信画〔目録DB〕    『好色修行むすこ』一冊 石川豊信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『唐冠華ういらう』三冊 石川豊信画 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『男女相生考見』 一冊 石川豊信風画      (注記「改題本に「太好艶書逢」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『筒井筒京童子』 三冊 石川豊信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『色道談合傘』  三冊 石川豊信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『肉蒲団』    三冊 石川豊信画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『色系図』    三冊 石川豊信画    石川豊信画〔日文研・艶本〕    『恋の中立』   墨摺 中本  一冊    「欠題艶本」   墨摺 横小本 一冊    『色智囊』    墨摺 口絵色摺 横本 三冊     ☆ 没後資料     ◯「序跋等拾遺」〔南畝〕⑱580(天明五年五月二十五日以降記)  (『史氏備考』所収)   〝石川豊信秀葩墓碣銘 大田覃  嗚呼余齔時。聞石川秀葩之名久矣。凡都下児女所玩図画人物花卉。至於繊姿弱質、意穠容冶、袨服靚粧、    綺麗粲目者、皆曰秀葩。秀葩度越流品。名伝一時。後数歳。初見其子子相。又見其父秀葩翁。乃知秀葩    為都下逆旅主人。翁没。子相状行請余銘焉。余既哭弔辞。按状。曰。翁諱豊信。号秀葩。石川氏。武蔵    州豊島郡。江戸人也。父宗貞。称五郎兵衛。母和田氏。正徳元年辛卯。生翁于江戸。幼喪父。為高原又    七道佐所養。有加藤七兵衛浄慶者。見翁質行謂可妻也。以其女妻之以嗣其家。時年二十五。生二男二女。    皆夭。延享三年丙寅。翁喪其妻。浄慶又以次女妻之。生二男一女。男長則子相。名雅。次男長女先死。    天明五年乙巳。夏五月二十五日。病終于家。年七十五。葬于浅草河上。黒船街。正覚寺。翁事親孝。居    家倹素。行修潔。足不渉倡門酒肆。而挙腕能描人物。曲尽其姿態。抑可謂奇矣。凡行旅之出於東都者。    率舎於伯楽街。及伝馬小街。而翁居伝馬小街。迎労必謹。飲飫必豊。是以担簦躡蹻者。皆悦而願舎於其    家矣。故家産亦苟完。自不至於匱乏。間則読書。或作詩。亦不経意云。子相性直而趨義。言不苟合。好    学節用。以幹家事。翁其有子哉。銘曰。    後素之質。発諸毫楮。可以寓心。豈為重糈。退隠于市。隠得其所。天地万物。孰不逆旅”    〈豊信は小伝馬町旅人宿主人・糠屋七兵衛。逝去は天明五年五月二十五日、七十五才であった。南畝が石川豊信の墓碣     銘を作ったのは、豊信の嫡子石川雅望(子相。狂名・宿屋飯盛)との縁によるもの。豊信は孝を重んじ質素でしかも     遊廓酒楼にも足を踏み入れない実直な人柄であった〉     △『万代狂歌集 巻六』(天明五年五月二十五日以降詠)  (『万代狂歌集』は六樹園(飯盛)の編集で文化九年九月の刊。その中に南畝の豊信追悼狂歌を所収。出    典は粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』に拠った)  〝飯盛が父の死しけるときいしかわしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて    つかはしける               四方赤良  いしふみをたつる飛脚はゆきとヽけ しらぬ根の国底の国まて  かしつきし父のみひとりさきたてヽ はヽとそはから気をやいたむる  しての山こへて七日になりぬれと  うちは涙の川つかえかな  はてしなき涙てのりをこへぬらん  老たるとしに不足なければ  とよのふとかきし紅絵のすり物も  ふてのあととへかたみとぞなる  来世には蓮のうてなをきつき置きて ふしんもいらすすぐに極楽 〟    〈なるほど「いしかわしうはをとふらふ(石川秀葩を弔ふ)」になっている。ずいぶん手の込んだ追悼である〉    ☆ 天明七年(1787)     ◯『狂歌才蔵集』〔江戸狂歌・第三巻〕四方赤良編・天明七年(1787)刊   〝老後述懐  石川秀葩    歯はかけて耳はきこえず目もみえず老てはちゑもさるが三匹〟    ☆ 寛政十二年(1800)     ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱443(寛政十二年五月以前記)  〝石川豊信秀葩 西村重長ガ門人也  宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ゐ(ママ)かや七兵衛といひしもの也。一生倡門酒楼にあそば  ず。しかるによく男女の風俗をうつせり。一枚絵多し。画本もあり〟    〈通称は糠屋七兵衛〉    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   宮川ノ門人ニアラズ 西村重長門人 小伝馬丁地主      寛保ノ頃   役者絵女絵   石川豊信             名人きれい事也    〈朱筆の「宮川ノ門人にアラズ」は前項古山師政の三馬按記「宮川門人ニアラズ」の誤入ではあるまいか〉    ☆ 享和二年(1802)     △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世      石川豊信  (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)        〝青本 白紙又は赤紙の画外題に、黄表紙をかけたる本をはじめて製す。是を青本といふ    同  絵師の名を草紙の終りへばかり出さずして、上中下の分ちなく、ゆきなりに名を誌す    画工 鳥居清秀、清重、富川吟雪、富川房信、田中益信、江戸絵と号して諸国のはやる    〈『式亭雑記』に「富川房信改め吟雪」とあり〉    同  奥(ママ)村重長、石川豊信の絵はやる。田中益信は草双紙の画作を著す    〈西村重長の誤記であろう。石川豊信は巻末の「昔より青本の画をかゝざる人の名」にあるから、この「画工」とは当     時評判の絵師という意味であろうか〉    作者 文字、通幸、和祥、丈阿、専ら双紙を作る。終に作者の名を出す事は此和祥より始まる〟     〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村   鈴木春信  石川豊信  文調    湖龍斎  勝川春章  春好    春潮    春林   春山    春鶴    春常 【勝川門人数多あり】    歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    ☆ 文化初年(1804~)     ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)   (「江戸絵」の項)   〝(奥村政信や元祖鳥居清信の漆絵記事あり)    夫より後、清信色摺の紅絵を工夫し、紅藍紙黄汁の三色を板にし以て売出せし所、余り華美なる物なり    とて差留られしが、幾程なくゆるされぬ。宝暦の頃まで皆是なり。其比の画工は清信が子の清倍、門人    清広、石川秀信、富川房信などなり〟    〈「秀信」は「秀葩」の間違いか「豊信」の間違いか。この石川秀信を石川豊信とみなした。また、本文は「紅絵」と     なっているが「三色を板にし云々」とあるから紅摺絵であろう〉    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝石川豊信【秀葩 六樹園宿屋飯盛の父 西村重長、後豊春門】    宝暦のはじめ紅絵に多し。小伝馬町旅人宿ぬかや七兵衛といひしもの也。一生倡門酒楼に遊ばず、しか    るによく男女の風俗を写せり、一枚絵多し。画本もあり、天明五巳年五月廿五日没、七拾五、浅草榧寺    に葬す〟    〈石川豊信はこの編者石川雅望(六樹園)の父。没年月日・享年・菩提寺を加筆。その他は大田南畝に記事を踏襲する〉    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)     ◯『江都諸名家墓所一覧』「浅草」「画」〔人名録〕②258(老樗軒編・文化十五年一月刊)   〝石川秀(ママ)信、号秀葩、天明五年五月廿五日、黒舟町正覚寺〟    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)     ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p409(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝江戸絵は菱川より起りて、後鳥居庄兵衛清信と云者あり。初め菱川やうを学びしが、中頃画風を書かへ    歌舞伎の看板をかく。今に相続きて其家の一流たり。勝川流は宮川長春を祖とす。長春は菱川の弟子に    はあらねども、よく其風を学びたる者也。勝川流にては春章すぐれたり。歌川流は豊春より起る。豊春    は西村重長の弟子なり【重長は初めの鳥居清信の弟子なり。後に石川豊信といふ】此流にてはこの頃ま    で歌麿が絵世にもてはやされたり。其外あまたあれ共枚挙にたえず〟    〈西村重長と石川豊信とを同人とする。喜多村筠庭は何に拠ったのであろうか〉    ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③293(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立) 〝石川豊信【宝暦ノ人】     俗称糠屋七兵衛【旅人宿、小伝馬町ニ住ス】西村重長門人也    宝暦の始め比、紅絵に多し、此人一生倡門酒楼に遊ばず、しかるに、よく男女の風俗を写せり、一枚絵    に多く、画本もあり〟    ☆ 天保十四年(1843)     ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「頭巾」の考証 ⑧148   〝石川豊信絵本〟
  ◇「針箱」の考証 ⑧171   〝宝暦中石川豊信 今此針さし小児の手遊に残れり〟     ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)  (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち) 〝石川豊信 寛延宝暦の頃の人     俗称 糠屋七兵衛(旅人宿)小伝馬町住す(地主なり)     西村重長門人也  号 秀葩    狂歌師六樹園飯盛の父也。宝暦の始、紅絵に多し。此人一生倡門酒楼に遊ばず。しかるによく男女の風    俗を写せり。一枚絵に多く、絵本もあり〈天明五年巳五月廿五日卒 浅草榧寺に葬す〉     〈月岑補〉狂歌万〔歳〕〈載〉集に     飯盛が父の死けるときいしかはしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて     つかはしける。                    四方赤良  いしぶみをたつる飛脚はゆきとゞけ    しらぬ根のくに底のくにまで  かしつきし父のみひとりさきたてヽ    はゝとそばから気をやいたむる  しての山こへて七日になりぬれば     うちはなみだの川づかへかな  はてしなき涕やのりをこへぬらん     をひたるとしに不足なければ  とよのぶとかきし紅絵の摺物も     ふでのあととへかたみとぞなる  らいせには蓮のうてなをきつき置て   ふしんもいらずすぐに極らく    〈月岑按、同時代石川豊雅といへる浮世絵師あり。一枚すりを見たり。豊信が男歟     亦曰、柳島春慶寺普賢堂の額に、歌川豊春七十一の画に、豊信補画とあり。この豊信にして豊春は門     人なりや尚尋ぬべし〉〟    ☆ 嘉永三年(1850)     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1390(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝石川秀葩豊信 西村重長門人、初名西村重保(ママ)、俗称孫三郎、江戸人、宝暦のはじめ紅画多し、小伝    馬町旅人宿、ぬか屋七兵衛と云者也、一生娼門酒楼に遊ばず、然るに能く男女の風俗をうつせり、一枚    画多し、画本もあり、又云、役者画、女の画名人、きれい見事也【浮世画類考】    秀葩、天明五年五月廿五日没、葬黒舟町正覚寺、遺跡志
   [版元印]蔦紋、八角内に「小」の字紋、三鱗印、    (補)[印章]「豊信」(鼎印)
   秀葩は、六樹園飯盛の父にして、馬喰町の旅店、ぬか屋七兵衛といへり、武江年表      □(ママ)篠堂[署名]石川秀葩豊信図 [印章]「石川氏」(方印)「豊信」(方印)〟    〈重保は重信の誤記だが、石川豊信と西村重信とを同人としたのは何に拠ったのであろうか〉    ☆ 嘉永七年(1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇石川豊信([31]巻十之五 雑家 50/108コマ)   〝豊信    姓しられず 石川氏 名は豊信 秀葩と号す 通称糠屋長兵衛 西村重長門人 江戸に住す 浮世画工    なり 寛保頃の人    『絵本俚諺草』巻三奥書云 宝暦二年申正月吉日 画図石川豊信 彫刻 佐脇庄兵衛〟    (以下『浮世絵類考附録』『浮世絵類考』記事省略 上掲参照)  ☆ 成立年未詳    ◯『過眼録』〔続燕石〕①176(喜多村筠庭著・成立年未詳) (「本草学」の項」享保六年)   〝(京都儒医松岡玄達江戸逗留)玄達旅宿、小伝馬町三丁目糟や七兵衛へ、七月十三日、旅籠代遣す、    【按るに、これ浮世絵師石川豊信が家なり、これが子は狂歌師六樹園飯盛なり】〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪202(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝石川豊信    号秀葩、俗称糠屋七兵衛、小伝馬町に住し、旅人宿を業とす。狂歌師六樹園飯盛の父なり。西村重長の    門人となりて、宝暦の始紅絵多し。此人一生娼門酒楼に遊ばず。然るに男女の風俗を写せり。一枚絵多    く絵本もあり。天明五巳年五月廿五日歿す。浅草榧寺に葬す。     狂歌万載集に(石川壮盛)  絵本末摘花 二冊     飯盛が父の死けるときいしかはしうはをとぶらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみて     つかはしける。                    四方赤良  いしふみをたつる飛脚はゆきこゞけ しらぬ根のくに底のくにまで  かしつきし父のみひとりさきたてヽ はゝとそばから気をやいたむる  しての山こへて七日になりぬれば  うちはなみだの川づかへかな  はてしなき涙てのりをこへぬらん  をひたるとしに不足なければ  とよのふとかきし紅絵のすり物も  ふでのあとさへかたみとぞなる  らいせには蓮のうてなをきつて置て ふしんもいらすすぐに極らく    月岑按、同時代石川豊雅といへる浮世絵師あり。一枚ずりを見たり。豊信が男歟〟    ☆ 明治年間(1868~1911) ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年(1878)成立)   〝正徳、享保の頃、羽川珍重、鳥居庄兵衛清信、西村重長、奥村政信、続て懐月堂安慶(ママ)、石川豊信等 が専に一枚絵画出し、梓に鏤めて世に行れ、彩色摺は紅と萌黄の二色に有之〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝豊信    石川氏、名ハ豊信、秀葩ト号ス、江戸ノ人、小伝馬町ニ住ス、旅人宿ナリ、通称糠屋七兵衛ト云フ。西    村重長ニ就テ浮世絵ヲ学ブ。常ニ花街又酒楼ニ遊ビ、能ク其ノ風ヲ熟視シテ画ク故ニ、男女ノ風俗ヲ能    クス。又紅絵又一枚摺ノ絵本等ヲ多ク画ガケリ。天明五年五月二十五日没ス、七十五歳、浅草黒船町正    覚寺ニ葬ル。明治十六年迄九十八年〟  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年(1888)一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年(1889)二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝宝暦 石川豊信    (*一字未詳)篠堂秀葩と号す。西村重政の門に学ぶ。則ち狂歌師六樹園の父なり〟    ◯「読売新聞」(明治25年(1892)2月11日付)   〝絵画流行の変動    近頃歌川派の古画頻りに流行し 歌麿の筆に成れるものは略画・板刻ものとも売れ足よく 続々再板を    目論むものさへ多かりしが 其流行の根元を尋ぬれば 昨年一昨年の頃に当りて 仏国巴里の美術家が    日本美術の参考品として 歌麿の画(ゑ)を出板したるが為めなりと云ふ 然れ共我国の画工は其実(じ    つ)歌麿が画体の野卑に傾くを厭ひて 却って石川豊信、歌川(ママ)春山若(も)しくは鳥居清長等(ら)の    墨跡を賞翫し 欧州美術家をして歌麿の上に尚ほ高雅の絵画ある事を知らしめんなど言ふ者さへあれば    にや何時の間にか世の嗜好変はり 古画家の間には此の豊信、春山、清長等の絵画に価値(ねうち)を置    きて売買する事となり 宝暦板の如きは一枚二十五銭の相場を有(たも)ちて 客への売値は五十銭以上    に及ぶと云ふ されば此先歌麿に次で世に出でんものは 此三人の墨跡にて大いに絵画好尚の進歩を来    したりと云ふべけれ〟    〈歌麿は歌川派にあらず。歌川春山は勝川の誤り。「宝暦板」とあるが該当するのは石川豊信くらいか〉  ◯『野辺夕露』(坂田篁蔭諸遠著・明治二十五年(1892)成立・国立国会図書館デジタルコレクション所収)   〝石川豊信墓    浅草黒舟待ち正覚寺に在り、天明五年五月廿五日死、名は豊信【墓所一覧/作秀信】号は秀葩、通称糟    屋七兵衛、小伝馬町に住す、旅人宿を営業とす、石川雅望の父也。其頃専(ら)流行の狂歌を詠じ、狂歌    の号は石川壮盛といひしは狂歌万載集に見えたり、其家業柄に似ず、頗(る)愿謹善く其身を脩正し、苟    旦(カリソメ)にも驕奢淫佚の行状なく、生涯娼門酒楼に遊ばず、大に卓(?)行の名有(り)、而も雅材あれば、    西村重長の門に入て絵画を学び、宝暦の始、其所画の紅画多し、彼青楼に登らず酒楼に至らざるに、能    く男女の風俗を摸したる一枚絵多し、又画く絵本も許多あり、墨画の出山の夜(釈?)迦を見るに、筆勢    甚(だ)雅致ありて、尋常の浮世画の類ならず〟    〈「墓所一覧」は『江都諸名家墓所一覧』、文政元年の項目に記事あり。「狂歌万載集」は『万載狂歌集』で天明三年刊。     「出山の夜(釈?)迦」は画題で「出山の釈迦」と思われる。◎は判読できなかった漢字。( )は補った送りがな〉    ◯『日本美術画家人名詳伝』p19(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝石川豊信    江戸小伝馬町ニ住シテ旅屋ヲ業トス、通称糠屋七兵衛ト云フ、西村重長ニ就テ浮世絵ヲ学ブ、常ニ花街    又ハ酒楼ニ遊ビ、能ク其ノ風ヲ熟視シテ画ク故ニ、男女ノ風俗ヲ能クス、又紅絵一枚摺ノ絵本等ヲ画ケ    リ、天明五年五月廿五日没ス、年七十五、浅草里舩町正覚寺ニ葬ル〟     ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝豊信(ルビなし)    石川氏、俗称糠屋七兵衛、明篠堂秀葩と号す、西村重長門人、始め西村重保といふ、紅画多し、天明五    年死、七十五〟     ◯『古代浮世絵買入必携』p1(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝石川豊信    本名 七兵衛   号 秀葩    師匠の名〔空欄〕   年代 凡百十年前より百四十年迄    女絵髪の結ひ方 第五図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 紅絵、一枚摺、大判、中判、小判、長絵、墨摺絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟     ◯『名人忌辰録』上巻p4(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝石川豊信 秀葩    俗通糠屋七兵衛。小伝馬町に住し、旅人宿と業とす。六樹国雅望の父なり。天明五巳年五月廿五日歿、    年七十五。浅草黒船町正覚寺に葬る(豊信は浮世画師西村重長に従ひて絵を学び、宝暦の頃紅絵を描き    て名誉ありき。性質温和謹直にして酒楼に登らず、娼門に入らず。然れども男女の風俗情態を写すに至    て、頗る真に迫りて遊閲に通ぜしものゝ如くなりきとぞ)〟     ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(30/103コマ)   〝石川豊信【宝暦元~十三年 1751-1763】    初名西村重保、通称糠屋七兵衛、明篠堂、また秀葩とも号す、狂歌師六樹園飯盛の父なり、小伝馬町に    住みて、旅籠屋を業とせり、西村重長に画を学びしが、此の人一生花街酒楼に遊ばざれども、善く男女    の風俗を摸写したりと云ふ、紅摺、一枚絵、また絵本をも画けり、天明五年五月廿五日没す、浅草榧寺    に葬る〟  ◯「集古会」第十九回 明治卅二年一月 於青柳亭(『集古会誌』明治32年6月刊)   ◇課題 七福神     天幸堂(出品者)石川豊信細絵 布袋川越図 一枚〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(18/218コマ)   〝石川豊信    通称を糠屋七兵衛といふ 秀葩と号す 江戸の人なり 西村重長に学ぶ 男女の風俗を画くに妙なり    天明五年五月廿五日没す 年七十五 浅草黒船町正覚寺に葬る(扶桑画人伝・江戸名家墓所一覧)〟  ◯『浮世画人伝』p49(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   〝 石川豊信(ルビいしかわとよのぶ)    石川豊信は、俗称糖屋七兵衛、秀葩と号しき。江戸小伝馬町なる、旅亭の主人なり。画の師は、西村重    長とて、享保の頃、文角、清春等と、名を等しうせしものなりしが、豊信ほと/\出藍の誉ありて、宝    暦の頃、紅絵に高評を得たり。生質温厚謹直にして、生涯青楼に遊びし事なし。然れども、巧みに男女    の状態を写して、頗(スコブ)る其の情に通ぜしものゝ如くなりき。天明五年五月廿五日、享年七十五才に    て歿し、浅草黒舟町正覚寺に葬られき。彼の狂歌の名人、国学の博識たる、六樹園石川雅望は、此の子    なりけり〟  ◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ)    石川豊信    秀葩と号す。有名の狂歌師六樹園飯盛の父なり。業を西村重長に受く。宝暦の初め画く所の紅絵多し。    豊信生涯娼門又は酒楼に遊あず。然れども能く其の趣を解し、当時男女の風俗を写せり〟  ☆ 大正年間(1912~1825)  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵〈小林文七嗣子〉    石川豊信「浴後美人図」絹本(半身裸体の人物)/「遊女禿二人図」  ◯「集古会」第百四十九回 大正十四年(1925)一月(『集古』乙丑第二号 大正14年2月刊)   〝林若樹(出品者)石川豊信 版画 天神 一枚〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)  ◯「集古会」第百五十五回 大正十五年(1926)三月(『集古』丙寅第三号 大正15年5月刊)   〝林若樹(出品者)石川豊信筆 細絵 八百屋お七 一枚〟    ◯『狂歌人名辞書』p154(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝石川豊信、初号西村重保(ママ)、秀葩と号す、通称糠屋七兵衛、浮世絵を西村重長に学び、後ち一家をな    す、六樹園石川雅望の父、天明五年五月廿五日歿す、年七十五〟    〈重保は重信の誤記〉     ◯『浮世絵師伝』p136(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊信    【生】正徳元年(1711)  【歿】天明五年(1785)五月廿五日-七十五    【画系】重長門人     【作画期】享保~明和    石川氏、俗称孫三邨、〈日偏+旦〉篠堂・秀葩と号す、初め西村重信といひしは西村重長の門より出で    しが故なり。『浮世繪師系伝』及び其他の書に『豊信は美男にて有しかば糠屋の娘恋慕して恋聟となり    し人なりといふ』と伝へたる如く、彼は小伝馬町三丁目なる旅人宿糠屋に養子となりて、其家代々の俗    称七兵衛を襲名せり。但し、其の襲名年代は未だ確証無けれど、凡そ延享四年即ち彼が三十七歳の頃な    らむかと思はる、而して、それを動機として前名西村重信を石川豊信と改めたるものゝ如し。彼が重信    時代の作は、享保十六年(二十一歳)の細判漆絵(役者絵)以下、延享元年頃まで、主として細判のも    の多し、其の間、元文二年版『女今川錦の子宝』、同三年版『女用文章』などの挿絵を画きたり。つい    で延享四年頃の作と思はるゝ大判竪長の漆絵「桜下美人の図」に、初めて〈日偏+旦〉篠堂、石川秀葩    豊信図」といふ落款を見る、蓋し、豊信落款の最初に近き作例と謂ふべし。延享、寛延年間は、漆絵と    紅摺絵との過渡期なるが其当時の彼の作品にも亦、漆絵と紅摺絵との両種ありて、前者には幅広柱絵及    び普通の柱絵、後者には大判竪絵に美人画の優れたる作あり。漆絵及び紅摺絵の諸作中、殊に裸体及び    半裸体の図(口絵第十八図参照)は、彼の非凡なる技倆を窺ふに足るものなり。斯くて宝暦年間に入り    ては、紅摺の美人画・役者絵及び其他の諸図あり、就中珍らしき例としては、背色を木目摺にしたるも    の二図(「細見を繙く若衆と禿」竪絵・「市川海老蔵の暫と少年」横絵)遺存せり。また彼が筆に成れ    る絵本類は凡そ左の如し。     ◯絵本東の森(宝暦二年)  ◯絵本俚諺草(同二年)  ◯壮盛末摘花(同七年)      ◯絵本武者手綱(同七年)  ◯絵本花の緑(同十三年) ◯絵本江戸紫(明和二年)      ◯絵本飛武呂山       ◯絵本千代の春      ◯絵本兆合鑑      ◯四季御所桜    彼は「一生倡門酒楼に遊ばず然るに男女の風俗を写せり」云々と、写本『浮世絵類考』にあるが如く、    其の性質温厚にして、家庭も亦円満なりし事を想像せらる。されば画風も頗る穏健にして、絵本に於け    る特徴は西川祐信の影響を受けし点もあり、それ等は後進に感化を及ぼす所尠からず、就中、春信・重    政等は、宝暦後半期に於て、彼に負ふ所ありしものと察せらる。然るに、彼の明和三四年頃の作を見る    に、著るしく春信風の特徴を帯びたり、蓋し此の時期を以て、彼が版画製作の最後と見るを得ベし。こ    ゝに特筆すべきことは、彼が祖先及び後継者等の関係を、其が後裔の一人西山清太郎氏によつて詳述さ    れたる一事なり。それに拠れば、石川は豊信の実家の姓にして、糠屋に入聟となりし後も依然としてそ    れを名乗りし事、石川家の祖先は北條氏直に仕へし者にて、代々源氏なりし事、豊信の実父は享保元年    即ち彼が六歳の時に歿し逸母は他へ再嫁して宝暦九年に歿せし事、実兄は水戸屋権左街門と称せしが、    宝暦二年に歿し、其の妻は安永七年に歿せし事、養父(糠屋七兵衛)は宝暦七年即ち豊信の四十七歳の    時に歿せしが、家督はそれ以前に豊信が相続せし事、養母は明和二年に歿し、豊信の妻(糠屋の娘)は    寛政三年に歿せし事、実子は八人(男五人、女三人)ありしが、末子(後に石川雅望即ち六樹園以外の    者は皆早世せし事、実子雅望の妻の実家は中村姓にして、雅望の子清澄は石川姓を名乘らず、中村屋清    三郎と称せし事、清澄の子梅太郎は後に加藤七兵衛と改む、これ糠屋の旧姓に復せしものと解すべく、    然らば糠屋は加藤姓なりしと思はるゝ事、石川家の菩提所は下谷蓮華寺なりしが、後ち市外染井墓地附    近へ移転せし事、中村家の菩提所は四谷永昌寺なりしが、後ち市外下高井戸へ移転せし事、糠屋の菩提    所即ち豊信及び其の子孫を葬りし寺は、浅草黒船町正覚寺(俗称榧(カヤ)寺)地中哲相院なりしが、後    ち正覚寺に合併されし事、豊信の法名は泰誉覚翁居士といひ、其の妻は心誉智覚信女(俗名未詳)とい    へる事などを明かにされたり(『浮世絵志』第八号・第九号参照)因みに、重信・豊信同一人説は大阪    版『此花』第十四枝に載せたる宮武外骨氏の考証を参考せり〟     ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「板上絵と成る絵」p88   〝『耕書堂漫筆』に「ある日石川豊信大人を訪ふらひけるに、机上に摩りへらしたる猪の牙あり、根附に    しては大きくもあり、紐を通す孔もなきまゝ、何するものぞと問ひければ、画をかく折々に之れにて紙    をこすりて認むるに重宝なるゆゑ、此ほど藤吉許へ音信ひしとき、譲りうけつかひ居るよし語られける    が、その折には深くも心にとめずして過ぎ、一年余も経ちたる後何れの画師の家にも此の猪の牙をつか    ひけるより、おのれも此の牙を鬻ぐ家を尋ね、此ごろ一本を求め戯作する時の料としぬ、おのれが知れ    るところにては浮世絵師のうちで、猪の牙をつかひ出されしは豊信大人を始めとす、又藤吉とは板摺工    にして、色摺物に上手の男なりけらし」とある〟    〈『耕書堂漫筆』は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉    ◯『恋の中立』刊年不明(国文学研究資料館「艶本資料データベース」所収)    〈見返しに相当する箇所に、誰の書き入れか分からないが次のようなメモがある〉   〝恋の中立 元禄の頃    (西村派)石川豊信画 又 重信  正徳元~天明五 七五才     西村重長ノ門人 延享四年糠屋七郎兵衛に入婿、石川名る 号 胆篠堂秀葩〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「宝暦二年 壬申」(1752)p106   〝正月、石川豊信の『絵本東の森』『絵本ことわざ草』出版〟   ◇「宝暦七年 丁丑」(1757)p111   〝正月、石川豊信の『絵本末摘花』出版〟   ◇「宝暦九年 己卯」(1759)p114   〝正月、石川豊信の『絵本武勇太図那』出版〟   ◇「宝暦一二年 壬午」(1762)p116   〝十一月、石川豊信の挿画に成る『女今川』出版〟   ◇「明和元年(六月十三日改元)甲申」(1764)   〝正月、石川豊信の『絵本江戸紫』出版〟   ◇「明和二年 乙酉」(1765)p120   〝正月、石川豊信の『絵本千代の春』、『絵本喩問答』出版〟、   ◇「明和六年 己丑」(1767)p124   〝正月、石川豊信の『絵本八代の春』出版〟   ◇「明和七年 庚寅」(1770)p124   〝十二月、石川豊信の『絵本あけぼの草』三巻出版〟   ◇「安永八年 己亥」(1779)p135   〝正月、石川豊信の『絵本教訓種』出版〟   ◇「天明五年 乙巳」(1785)p141   〝五月二十五日、石川豊信歿す。行年七十五歳。(豊信は通称七兵衛、馬喰町の旅宿屋糠屋の主人にして    絵画を好み、西村重長に就いて浮世絵を学び、明篠堂秀葩の別号あり。多く紅絵を画けり)〟    ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年(1936)一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝三村清三郞(出品者)石川豊信画 三福神図 一幅〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「浅草区」正覚寺(蔵前三ノ九ノ一)浄土宗、俗に榧寺といふ。   〝石川豊信(画家)通称糠屋七兵衛、秀葩と号す。浮世画を西村重信に学び、宝暦の頃紅画を描きて名あ    り。天明五年五月二十五日歿。年七十五。泰誉覚翁居士〟  △『増訂浮世絵』p97(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝石川豊信    豊信は、氏を石川と云ひ、かの狂歌師として文学者として名高い石川雅望六樹園戯作者宿屋飯盛の父で    ある。豊信の別号を明篠堂秀葩といふ。江戸の生れであつたらしく、西村重長について浮世絵を学んだ。    馬喰町の旅人宿糟屋の娘に懇望されてその婿養子となり、俗称七兵衛と呼ばれて、宿屋の主人となつた。    よく男女の風俗をを写し、遊里を描き、筆の上では恋の場面を表現するのに堪能であつたにかゝはらず、    狭斜の巷に濫りに足を入れなかつたと伝へらてゐる。    肉筆画に彩筆を揮つて巧なものであつて、余人の追随を許さないものがある。武岡忠夫氏所蔵の一人立    の遊女図はその優れたものゝ例である。    版画に於ても、色々工夫を凝らした人で、早い時代のものは、筆彩であるが、二色摺三色摺のものに於    て、立派な作品を遺して居る。(中略、帝室博物館所蔵)袖の下に文を隠した若衆の立姿図がある。    (中略)豊信の筆彩版画として優越したものである。また紅摺江の例としては、中村喜世三郎、市村亀    藏の図を挙げる。大判絵で紅摺絵の標本となすことを得るもので、版の数は少くて版画としての効果を    学げたものである。なほ紅摺絵の三枚続を切るべきを切らずにあるものがあるが、それには数寄者の古    い書入れで、宝暦元年とあり、また摺物の竹林七妍人図には乙酉と年記のあるものがあるから、明和二    年の作であることが分り、且つ春信の風と相似た点がある。なほ注意すべきは、所謂木目摺なるものを    作つたことである。もとより版画として、一つの試で、版画の背景に、木目の如くにして印刷したもの    で、一種の面白味がある。これ等は何れも帝室博物館の所有である。なほ絵本を作り、紅摺絵の大判柱    絵をも作つて、優れたものがある。豊信の画いた美人の顔は、激しい表情がなく、どれも穏かなふつく    りとした快さを見せて居る。大体豊頬で丸顔である。かくて版画界の一大勢力であつたが、明和の初か    ら、鈴木春信が俄かに優勢になつたので、豊信の盛時は終を告げたものといはなければならない。    天明五年五月二十五日没し、浅草区黒船町の正覚寺に葬られた。享年七十五歳と伝ふ。惟ふに浮世絵師    でありがな放埒ではなく、一生を無事円満に暮した人であるらしい〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〈「日本古典籍総合目録」は西村重信を同人とみて合計26とするが、本稿は別人とする〉   〔石川豊信画版本〕     作品数:21点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:石川豊信・秀葩・石川秀葩豊信    分 類:絵本13・艶本6(うち3点に疑問符)・教訓2・和歌1・絵画1・川柳1・植物1    成立年:寛延4年(1点)        宝暦2・7・9・13年(6点)        明和2・6~7年   (4点)        安永8年       (1点)     〈寛延四年(1751)の版本は『草花絵本』〉   (秀葩名の作品)    作品数:2    画号他:石川秀葩豊信    分 類:絵本2    成立年:宝暦7・9年