Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代浮世絵師名一覧
〔明和6年(1769) ~ 文政8年(1825)1月7日・57歳〕
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ②〔早稲田〕  :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕   ③〔早大集覧〕 :『【早稲田大学所蔵】合巻集覧』〔日本書誌学大系101・棚橋正博編集代表〕   ④〔早大〕   :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕   :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   ⑥〔書目年表〕 :『【改訂】日本小説書目年表』    〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」   〔江戸読本〕:「江戸読本書目年表稿(文化期)」    〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』    「江戸絵本番付データベース」早稲田大学演劇博物館「デジタル・アーカイブ・コレクション」    『稗史提要』比志島文軒(漣水散人)編    『黄表紙總覧』棚橋正博著・日本書誌学系48    『江戸小咄辞典』「所収書目解題」武藤禎夫編    『噺本大系』  「所収書目解題」武藤禎夫編     角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能あるいは難読文字  ☆ 天明六年(1786)    ◯「日本古典籍総合目録」(天明六年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『阿房者寝待』すがる作・『無束話親玉』万倍作    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」豊国の項は、従来『無束話親玉』が豊国の処女作とされてきたが     「刊年の確証がなく疑問」とする。『黄表紙總覧』は二作ともに天明七年刊とする〉    ☆ 天明七年(1787)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明七年)   ③「豊国画」(藁を口と手にして居眠りする下女に、紐を手にして近づく娘)2-29/70     衝立に「未」と大の月 に「天明七丁」の印    ◯『黄表紙總覧』前編(天明七年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『噺錦画従長崎強飯』「哥川豊国画」 月池門人森羅亭    鶴屋板    〔陰徳両方吉事計〕 〔歌川豊国画・七珍万宝作〕      鶴屋板    〔阿房者寝待〕   「哥川とよ国画」万象亭門人竹杖すかる 鶴屋板     〈備考、この竹杖為軽は二世。天明六年、万象亭が竹杖為軽号を譲ったとする〉    〔無束話親玉〕   「歌川豊国画」 月池門人森羅亭    鶴屋板    〔作習酒佐字〕   「哥川豊国画」 二代目天竺老人    鶴屋板    〔光大寺噺〕    〔歌川豊国画・桜川杜芳作・板元不明〕  ☆ 天明八年(1788)    ◯『黄表紙總覧』前編(天明八年刊)    歌川豊国画    『苦者楽元〆』「豊国画」  月池出店七珍万宝 伊勢治板    『天筆阿房楽』「哥川豊国画」杜芳門人親慈悲成 伊勢治板    『書雑春錦手』〔歌川豊国画〕可笑門人雀声   伊勢治板    ☆ 天明年間(1781~1788)    ◯「日本古典籍総合目録」(天明年間刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『初春寿福円満』    ☆ 寛政元年(天明九年・1789)
 ◯『稗史提要』p375   ◇黄表紙(天明九年刊)    作者の部 春町 通笑 京伝 全交 三和 鶏告 桜川慈悲成 三橋喜三二 一橋山人 陽春亭         内新好 伝楽山人 伐木丁々 美息斎象睡    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 栄之 蘭徳 春朗 歌川豊国    ◯『黄表紙總覧』前編(天明九年刊)    歌川豊国画    『武茶執行押強者』「歌川豊国画」 桜川杜芳  伊勢治板     〈備考、以上三作、前年の天明八年の刊行予定が、板元の事情によって天明九年になったという〉    『御贔屓他之三舛』「歌豊国画」  桜川慈悲成 伊勢治板    『世の中承知重忠』「哥川とよ国画」和歌林泉  鱗形屋板    『大笑止浮鐘入』 「歌とよ国画」 七珍万宝  伊勢治板    『嘘無箱根先』  「哥川とよ国画」七珍万宝  伊勢治板    ☆ 寛政二年(1790)
 ◯『稗史提要』p377(寛政二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 通笑 京伝 全交 万宝 喜三二 信普 慈悲成 樹上石上 蔦唐丸 時鳥館    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 豊国 亀毛 桜文橋    ◯『黄表紙總覧』前編(寛政二年刊)    歌川豊国    『茶事加減役割番附』「豊国画」   万宝    伊勢治板    『意濃張智恵艶出』 「豊国画」   桜川慈悲成 伊勢治板    『御存知夜討蕎麦』 「とよ国画」  万宝    伊勢治板    『持来餅者餅屋』  「とよ国画」  桜川慈悲成 伊勢治板    『二日替』     「哥川とよ国画」桜川慈悲成 伊勢治板    ◯「国書データベース」(寛政二年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『ばけものつわもの 二日替』「哥川とよ国画」桜川親慈悲成作 伊勢治板    ☆ 寛政三年(1791)
 ◯『稗史提要』p378(寛政三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 万宝 慈悲成 新好 夜道久良記 大栄山人 秋収冬蔵 荒金土生    画工の部 重政 政演 政美 柳郊 豊国 蘭徳 文橋 春英 菊亭    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政三年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『馬鹿長命子気物語』「豊国画」 慈悲成   伊勢治板    『手遊張子虎之巻』 「豊国画」 桜川慈悲成 榎本屋板    『世諺鳥混雑賞賦』 「哥豊国画」万宝    榎本屋板    『信田褄時代模様』 「豊国画」 万宝    榎本屋板    『枯木華作者誓願』 「豊国画」 万宝    榎本屋板    『擲交野良之蒲鉾』 「豊国画」 三橋喜三二 榎本屋板    『京鹿子娘泥鯲汁』 「豊国画」 芝全交   和泉屋板    『真頬㒵老之仇浪』 「豊国画」 芝深交   和泉屋板    『尽用而二分狂言』 「豊国画」 大栄山人  和泉屋板     〈備考、曲亭馬琴の黄表紙初作とする〉    『今昔縁気ノ白綾』 「豊国画」 桜川慈悲成 伊勢治板    『化物夜更顔見世』 「豊国画」 桜川慈悲成 西村屋板    『壬生踊戯作面目』 「豊国画」 桜川慈悲成 秩父屋板    『御存知高麗屋伝』 「豊国画」 桜川慈悲成 和泉屋板    『大馬鹿抜目』   「豊国画」 桜川慈悲成 西村屋板  ◯「国書データベース」(寛政三年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『箱入娘面屋人魚』豊国画 京伝作 鶴屋板    ☆ 寛政四年(1792)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政四年刊)    歌川豊国画『けいせい金秤目』絵本番付 一冊 歌川豊国画    ◯『稗史提要』p280   ◇黄表紙(寛政四年刊)    作者の部 京伝 全交 慈悲成 楚満人 万宝 井上勝町 気象天業 信夫䟽彦 黒木    画工の部 重政 政美 豊国 蘭徳 清長 春英 井上勝町    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政四年刊)    歌川豊国画    『浮世操九面十面』「豊国画」  芝全交   泉市板    『恋女房染分茶番』「豊国画」  桜川慈悲成 泉市板    『為恐肝心堪忍袋』「豊国画」  見得坊   伊勢治板    『夏浴衣団七絞』 「豊国画」  桜川慈悲成 西村屋板    『神伝路考由』   歌川豊国画 気象天業  鶴屋板     〈備考は『神伝路考由』の作者、気象天業を北尾政美と同人とする説に否定的である〉    ◯「江戸絵本番付データベース」(寛政四年刊)    歌川豊国画正月 河原崎座「けいせい金秤目」「豊国画」版元不明    ☆ 寛政五年(1793)
 ◯『稗史提要』p382   ◇黄表紙(寛政五年刊)    作者の部 京伝 全交 三和 石上 楚満人 曲亭馬琴 鹿杖真顔 桃栗山人 畠芋助    画工の部 重政 政美 春朗 豊国 清長    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(寛政五年刊)    歌川豊国画『青楼育咄雀』「豊国画」桃栗山人作 秩父屋板    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政五年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『鼠子婚礼塵劫記』「豊国画」  馬琴     泉市板    『茶成◎茶番狂言』「豊国画」  森羅亭万宝  泉市板     〈◎は「手+本〉で「てほん」と読ませている〉    『染相生男女占襟』「豊国画」  芝全交    泉市板    『年寄之冷水曽我』「豊国画」  芝全交    泉市板    『どうけ百人一首』「豊国画」  恋川好町   泉市板    『大仕掛三界曽我』「豊国画」  鹿杖山人真顔 秩父屋板〈鹿津部真顔作〉    『天狗礫鼻江戸子』「豊国画」  桃栗山人   秩父屋板     『将棋指揮太平話』「豊国画」  森羅亭万宝  伊勢治板    『絵本巴一代記』 「豊国画」  南杣笑楚満人 西宮板    『猿尻金平牛蒡』 「哥川豊国画」桜川慈悲成  西村屋板    『初春寿福円満』 「豊国画」  桜川慈悲成  西村屋板    『尻◎御用神』  「豊国画」  芝全交    泉市板    『糸瓜皮歌袋』  「豊国画」  桜川慈悲成  西村屋板    『変化物春遊』  「うた川画」 桜川慈悲成  西村屋板    『御存之化物』                 西村屋板     〈寛政四年刊『御存之化物』(作者・画工ともなし)と『変化物春遊』を合成したもの〉    『二代大中黒』  「豊国画」  南杣笑楚満人 榎本屋板    『文覚勧進帳』  「豊国画」  南杣笑楚満人 榎本屋板     『青楼育咄雀』  「豊国画」  桃栗山人   秩父屋板〈立川焉馬作〉    『昔語銚子浜』  「豊国画」  森羅亭万宝  西宮板    『寿常盤仙米』  「豊くに画」 芝全交   〔鶴屋板〕    『七人上戸』   「豊国画」  桜川慈悲成  泉市板    『馬鹿功』    「豊国画」  森羅亭万宝  榎本屋板  ◯「国書データベース」(寛政五年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『朝比奈茶番曾我』「哥川豊国画」桜川慈悲成 西村屋板  ☆ 寛政六年(1794)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政六年刊)    歌川豊国画『絵本纐纈染』二巻 画工歌川豊国 鹿津部真顔序 和泉屋市兵衛板    ◯『稗史提要』p384(寛政六年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 全交 森羅亭 石上 慈悲成 真顔 馬琴 式亭三馬 千差万別 本膳亭坪平          築地善好    画工の部 重政 政美 春朗 春英 豊国    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政六年刊)    歌川豊国画    『百人一道戯講釈』 「哥川豊国画」 芝全交   泉市板     〈備考、芝全交の遺稿作とする。全交は寛政五年五月二十七日没〉    『大道具鱐幕無』  「豊国画」   唐来三和  泉市板    『御馴染花咲祖父』 「うた川豊国画」通笑すこし 泉市板    『第一御徳用物語』 「豊国画」   桜川慈悲成 泉市板    『揚屋町伊達豆腐屋』「豊国画」   恋川好町  泉市板    『絵本阿房袋』   「豊国画」   桜川慈悲成 西村屋板    『鎌倉頓多意気』  「豊国画」   桜川慈悲成 西村屋板    『鉢冠物語』    「豊国画」   桜川慈悲成 西村屋板    『敵打伊吾二拾巻』 「豊国画」   桜川慈悲成 榎本屋板    『天道浮世出星操』 「豊国画」   式亭三馬  西宮板〈式亭三馬処女作〉    『人間一心覗替繰』 「豊国画」   式亭三馬  西宮板  ◯「国書データベース」(寛政六年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『浮世の出星操』「豊国画」式亭三馬作 板元未詳  ☆ 寛政七年(1795)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政七年刊)    歌川豊国画    『絵本江都の見図』三巻 画工歌川豊国 森羅亭跋 和泉屋市兵衛板    ◯『稗史提要』p385(寛政七年刊)   ◇黄表紙    作者の部 通笑 森羅亭 三和 楚満人 慈悲成 馬琴 善好 坪平 十返舎一九 黄亀    画工の部 重政 政美 栄之 豊国 春朗 二代目春町 長喜 一九    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政七年刊)    歌川豊国画    『碁太平記白石噺』「豊国画」     四季山人   西宮板    『古手妻品玉手筥』「豊国画」     桜川慈悲成  西村屋板    『内弁慶堪忍袋』 「豊国画」     桜川慈悲成  西村屋板    『昔料理狸吸物』 「豊くに画」    桜川慈悲成  西村屋板    『山枡太夫物語』 「一陽斎画」    桜川慈悲成  和泉屋板    『大昔化物双紙』 「うた川画」    桜川慈悲成  和泉屋板    『弁慶御前二人』 「とよ国画」    桜川慈悲成  和泉屋板    『敵討義女英』  「うた川とよ国画」 南杣笑楚満人 和泉屋板    『嫁入桐長持』  「豊国画」     桜川慈悲成  西村屋板  ◯「国書データベース」(寛政七年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画    『徳若水縁起金性』歌川豊国画 樹下山人  板元未詳    『桃太郎大江山入』「豊くに画」桜川慈悲成 西村屋板    ◯『【狂歌歳旦】江戸紫』狂歌堂主人(鹿津部真顔)序 萬亀亭主人(江戸花住)跋 寛政七年刊    〝(狂歌賛)森羅亭      春の色に鴬餅のすきな粉 ちらすな花の客へ梅盆    (梅に鴬図)豊国画    〈森羅亭は森羅亭万象(森島中良)〉(出典はネット画像より)    ☆ 寛政八年(1796)
 ◯『稗史提要』p387(寛政八年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 石上 馬琴 一九 善好 宝倉主 誂々堂景則、楽山人馬笑 春道草樹    画工の部 重政 豊国 一九 春朗     ◯『黄表紙總覧』中編(寛政八年刊)    歌川豊国画    『多来福万両分限』「うた川画」石上     西宮板    『怪化競箱根戯場』「とよ国画」楽山人馬笑  西宮板    『譽高輪忠義石絵』「豊国画」 鴨野羽白    『東都自慢花名物』「豊国画」 望月窓秋輔  榎本屋     〈備考、文化七年刊は本書の再板とする〉    『歌等功雀高名』 「とよ国画」宝倉主    岩戸屋    『増補執柄太郎』  豊国画  南杣笑楚満人 泉市板    『敵討白石噺』  「豊国画」 四季山人   西宮板    『案内奇狐狸』  「豊くに画」春道草樹   岩戸屋  ◯「国書データベース」(寛政八年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『開帳詣笑南志』「豊国画」鴨野羽白作 虚呂利校 板元未詳(不明印あり)    ☆ 寛政九年(1797)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政九年刊)    歌川豊国画『美満寿組入』狂歌 一巻 談州楼焉馬作 四方歌垣真顔跋 上総屋利兵衛板          二代目清満門弟鳥居清長・東紫園春潮画・春好左筆・元祖鳥居清信画・二代目鳥居清信          勝九徳斎春英画・邦易祇画賛・嵩琳応求・歌川豊国画    ◯『稗史提要』p389(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成稿)   ◇黄表紙(寛政九年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 慈悲成 唐丸 馬琴 三馬 一九 馬笑    画工の部 重政 豊国 一九 春朗    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政九年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『三世相郎満八筭』「とよ国画」南杣笑楚満人 泉市板    『唯頼大悲智慧話』「豊くに画」式亭三馬   泉市板    『嘘八百万神一座』「豊国画」 楽山人馬笑  泉市板    『富士色板締曽我』「豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『押強者何茂八文』「豊国画」 桜川慈悲成  西村屋板    『如癡呆唐本啽囈』「豊国画」 式亭三馬  〔西宮板〕    『今度者鬼息子』 「豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『芝全交夢寓言』 「豊国画」 式亭三馬   泉市板    『福徳五色眼鏡』 「豊国画」 桜川慈悲成  西村屋板    『化物大閉口』  「豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『敵討姥捨山』  「豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『悖入宝山吹』  「豊国画」 石上     西宮板    『三才智恵』   「とよ国」 桜川慈悲成  西村屋板  ◯「国書データベース」(寛政九年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『唐人の寐言』「豊国画」式亭三馬戯作 板元未詳    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(寛政九年刊)    歌川豊国画『美満寿組入』一冊 烏亭焉馬編 上総屋利兵衛板     「歌川豊国画」     他に、二代目清満門弟鳥居清長画・東紫園春潮画・春好左筆・二代目鳥居清倍画     元祖鳥居清信画・勝九徳斎春英画・嵩琳・易祇    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(寛政九年刊)    歌川豊国画『三才智恵』「とよ国」桜川慈悲成画 永寿堂(西村屋)板    ☆ 寛政十年(1798)
 ◯『稗史提要』p390(寛政十年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 三和 楚満人 石上 慈邪成 馬琴 三馬 一九 唐丸 恋川春町遺稿          壁前亭九年坊 傀儡子 聞天舎鶴成    画工の部 重政 豊国 可候 清長 業平榻見 栄昌 春亭    時評〝東海道娘かたき打、豊国が画絶妙なり。是より豊国大に行はる〟    〈「東海道娘かたき打」とは式亭三馬作の『吾嬬街道女敵討』〉    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    〔嗚呼々孝経後日講釈〕〔歌川豊国画・式亭三馬作・西宮板〕    『黒手八丈狸金性水』 「豊国画」桜川慈悲成 西村屋板    『達磨大道花見毛氈』 「豊国画」桜川慈悲成 榎本屋板     〈備考、絵題簽の「午初春」を内容、挿絵、署名などから寛政十年(午)とするが、文化七年(午)刊のものしか      確認できてないという〉    『百合若大臣嶋眠』「豊国画」  南杣笑杣人 泉市板    『実生金栄花鉢植』「とよ国画」 石上    西宮板    『吾嬬街道女敵討』「豊国画」  三馬    西宮板    『其跡幕婆道成寺』〔歌川豊国画〕三馬    西宮板    『二文字鬼角文字』「豊国画」  桜川慈悲成 西村屋板    『鬼燈提灯教捷径』「豊国画」  九年坊   宝屋板     〈序に「壁前亭自叙」とあり〉    〔源平差引代物浦〕〔歌川豊国画・式亭三馬作・西宮板〕    〔棚穿鑿世界神屑〕〔歌川豊国画・式亭三馬作・西宮板〕     〈備考、以上の三作は西宮の新板目録にあるのみ、未見本〉    〔耕書舗百人首〕 〔歌川豊国画・樹下石上作・西宮板〕     〈備考、新板目録に載せるだけで実際の板行はなかったものと推定する〉    『敵討柳下貞婦』 「豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『一狂言狐書入』 「とよ国画」南杣笑楚満人 泉市板    『腹鞁臍囃曲』  「豊国画」 三馬     西宮板    『怪談奇発情』  「とよ国画」聞天舎鶴成  泉市板    〔初売大福帳〕  「豊国画」 十返者一九  嶋屋吉兵衛板     ◯「艶本年表」〔白倉〕(延宝六年刊)    歌川豊国画『恋の楽屋(内)』墨摺 小本 三冊 寛政十年頃     (白倉注「役者似顔絵(男女蔵、三津五郎)がはいっている。珍本」)    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十一年刊)    歌川豊国画    『俳優楽室通』一巻 画工一陽斎豊国 門人国政 口画 歌麿筆 式亭三馬輯 上総屋忠助板    ◯『今日歌白猿一首』(立川焉馬編・寛政十一年刊)   〝口上の幕に当りをとるものハ 鉄炮よりはきつい白猿  歌川豊国〟      〈寛政十年十一月、中村座の顔見世興行において、二十一歳の六代目団十郎が初めて座頭を務めることのなった。その     とき、寛政八年の引退以来、成田屋七左衛門と称して隠居していた五代目が、約二年ぶりに舞台に復帰して市川白猿     の名で口上を述べた。これを江戸の人々がこぞって大歓迎した。そして狂歌を詠んで祝意を表した。この狂歌集はそ     のとき披露された口上や白猿自身の狂歌、また人々から寄せられた狂歌などを編集してなったもの。豊国は上掲の狂     歌を詠んで祝福したのである。なおこの時狂歌を寄せた浮世絵師は他に、左尚堂俊満・勝川春潮。また勝川春好・勝     川春英・俵屋宗理(北斎)・歌川国政は狂歌のほかに挿絵も画いている〉    ◯『稗史提要』p392(寛政十一年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 石上 馬琴 三馬 一九 鉦扈荘英 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 豊国 一九 春亭 豊丸    時評〝天正より以後の事を書し、上梓すること、享保以前には憚らざりしにや、大坂軍記、其外あまた       見へたり、享保已後は、上梓を憚ることゝなりしに、此頃に至りて、浪花の玉山が絵本太閤記を       上梓して、大に行はる、夫にならひて、今年、筆のつらなりを顕はし、又、豊国が太閤記の錦絵       出て、共に行はれしが、幾程もなくて、前のごとく憚ることとなりたり〟    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十一年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『無造作行形曽我』「豊国画」  南杣笑楚満人 泉市板    『金春徳和家隠居』「豊国画」  樹下石上   泉市板    『東発名皐月落際』〔歌川豊国画〕曲亭馬琴   鶴屋板    『十六利勘略縁起』「豊国画」  山東京伝   丸屋板    『仮名手本胸之鐘』「豊国画」  京伝     蔦屋板    『金生樹継穂子宝』「豊国画」  石上     西宮板    『作者根元江戸錦』「豊国画」  桜川慈悲成  西村屋板    〈「日本古典籍総合目録」は式亭三馬作『俠太平記向鉢巻』の画工を豊国とする〉    『敵討沖津白波』 「豊国画」  南杣笑楚満人 泉市板    『幸給剛臆神』  「歌豊国画」 南杣笑楚満人 泉市板    『五体和合談』  「豊国画」  京伝     鶴屋板  ◯「国書データベース」(寛政十一年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『俠太平記向鉢巻』歌川豊国画 三馬戯作 西宮板    ◯『噺本大系』巻十三「所収書目解題」(寛政十一年刊)    歌川豊国・歌川豊広画『腮の掛金』「豊国画」「豊広画」桜川慈悲成編(板元名なし)    〈「見立」という小咄が歌川豊広作として入っている〉    ◯「日本古典籍総合目録」(寛政十一年刊)   ◇演劇    歌川豊国画『役者三十二相』一冊 喜多川歌麿・歌川豊国・歌川国政画    ◯『筆禍史』「侠太平記向鉢巻」(寛政十一年)p92(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝式亭三馬(菊池太輔)の著にして、画は北尾重政の筆なり、黄表紙三冊物、此書は絶版なりしにあらざ    れども、御用火消組の者を誹謗したるがため、騒擾を起したりとて、著者三馬は手鎖の刑を受けしなり、    『青本年表』に曰く     寛政十一年正月五日、式亭三馬並西村新六の二家、よ組鳶人足の為めに破壊せられ、遂に公事となり、     後ち人足数名は入牢し、新六は過料、作者は手鎖五十日に処せらる、其起因は客歳鳶人足間に闘争の     事実ありしに基づき、今春『侠太平記向鉢巻』の作を出せしに、其書中によ組の鳶を誹謗せし点あり     しとて、此騒擾を惹起せしなり、然れども三馬はこれが為めに其の名を高めしとなり〟    〈宮武外骨は『侠太平記向鉢巻』の画工を北尾重政とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は初代豊国     画とする。棚橋正博著『黄表紙總覧』は北尾重政とする〉
   『侠太平記向鉢巻』式亭三馬作・北尾重政(一説に歌川豊国)画〔『筆禍史』所収〕    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛政十二年刊)    歌川豊国画    『戯子名所図会』三巻 武江一陽斎豊国 曲亭馬琴 鶴喜板    『若紫』狂歌  一巻 画工歌川豊国  千種庵序 丸文板    ◯『稗史提要』p394(寛政十二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 一九 石上 鈍々亭和樽 色主 可候 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 可候 豊国 子興    ◯『黄表紙總覧』中編(寛政十二年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『二重緞子三徳平』「豊国画」  桜川慈悲成  泉市板    『二幅対栄花春袋』「豊国画」  樹下石上   泉市板    『孝行臼息子金持』「豊国画」  樹下石上   西宮板    『五体不具毒解薬』「豊国画」  香保留    西宮板    『子産黄金七変化』「豊国画」  蘭奢亭香保留 西宮板    『春長閑千金玉物』「豊国画」  長閑春道   板元不明     〈備考、本作品は『子産黄金七変化』の一部改刻改題再板本〉    『男一面髭抜亀鑑』「豊国画」  紫色主    西村屋板    『花見話虱盛衰記』「豊国画」  曲亭馬琴   山口屋板    『平仮名銭神問答』「豊国画」  京伝     蔦屋板    『娘敵討扇銀面』 「豊国画」  南杣笑楚満人 泉市板    『食言の大木』  「豊国画」  桜川慈悲成  西村屋板    『見物左衛門』  〔歌川豊国画〕いろ主    西村屋板  ◯「国書データベース」(寛政十二年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『春長閑千金玉物』歌川豊国画 作者・板元不記載    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(寛政十二年刊)    歌川豊国画『当世咄推故伝』歌川豊国画 烏亭焉馬作    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(寛政年間刊)   (〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    〔牡丹餅は七夕〕「豊国画」芝光交   泉市板    『和田合戦記』 「豊国画」七珎万宝  西村屋板    〔落噺常々草〕 「豊国画」桜川慈悲成 板元不明     〈備考、寛政十年刊説もあるが、文化七年板とする〉    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱445(大田南畝著・寛政十二年五月以前)   〝豊国    錦絵をかかず、墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ。歌舞伎役者の似顔をもよくかけり〟    〈文意未詳。この場合、南畝の「錦絵」は彩色摺の美人画を指しているようだが。「静嘉堂文庫本」は〝錦絵をよくす〟     とあり〉    ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝天明の頃は勝川春英、北川政信(ママ)、春章が輩、役者絵、女絵、風景を書て賞せられしが、寛改の末よ    り歌川豊国専ら歌舞妓役者の肖像に妙を得て、松本幸四郎か市川高麗威、助高屋高助か市川八百識、坂    本三津五郎か蓑助の頃、瀬川菊之丞か市川男女丞、岩井半四郎か久米三郎のむかし中村のしほ、嵐昔八、    片岡仁左衛門、物いふがごとし、舞台顔を絵かきて豊図が筆を振ひし跡を、国政又是につぎ、半に写楽    といふ絵師の別風を書き顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれけ    る〟    〈北川政信は未詳。役者の似顔絵は明和以来の勝川派より、寛政から登場してきた豊国、国政等歌川派の方が「物いふ     がごとし」でずっと刺激的であったようだ。写楽はよく顔立ちのよく写し取ったものの「艶色を破るにいたりて役者     にいまれける」役者としての色艶を破壊したとして役者たちから嫌われたいうのである〉    ◯『歌舞伎年表』⑥337(伊原敏郎著・昭和三十六年刊)   (「嘉永三年(1850)」の項)   〝三月十七日より、河原崎座、先年御咎有之、海老蔵こと御赦免ありて、此度当座へ下り、御目得狂言、    第一番目、一谷嫰軍記に書添て「難有御江戸景清」。    海老蔵口上には、五代め再勤とき、初代豊国、天岩戸に見たてし三枚つゞきを画き、此度も二代めの豊    国、天岩戸に見立てたる錦絵を出せし故、それに因みたる作意なりとなり〟    〈寛政八年(1796)に隠退した市川蝦蔵(五代目団十郎)が再勤したのは六代目市川団十郎が早世した寛政十一年五月以     降〉    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「歌川派系図」    ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和元年刊)    歌川豊国画『俳優三階興』二巻 東都画人歌川一陽斎豊国 式亭三馬著 西宮新六板    ◯『稗史提要』p396(寛政十三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 三馬 一九 傀儡子 可候 和樽 竹塚東子 香保留         福亭三笑 玉亭     画工の部 重政 可候 豊国 春亭 子興 歌川豊広    ◯『黄表紙總覧』後編(寛政十三年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『敵討布施利生記』「豊国画」楚満人   泉市板    『福貴自在金歳玉』「豊国画」樹下石上  泉市板    『父讐宇津宮物語』「豊国画」傀儡子   鶴屋板    『五齣浄瑠璃酒肆』「豊国画」傀儡子   鶴屋板     〈備考、『父讐宇津宮物語』と『五齣浄瑠璃酒肆』を合成した五冊本の『父讐宇津宮物語』も同年刊の由〉    『式亭三馬自惚鏡』「豊国画」三馬    西宮板    『昔噺枯木花』  「うた川豊国画」通笑 泉市板    『日本一癡鑑』  「豊国画」三馬    泉市板    『桜川話帳縅』  「豊国画」桜川慈悲成 西村屋板    『競腰業平形』  「豊国画」桜川慈悲成 西村屋板    『敵討根篠雪』  「豊国画」樹下石上  西宮板    『絵本報讐録』  「豊国画」玉亭子   山口屋板     〈備考、玉亭子は曲亭馬琴〉    ☆ 享和元~二年(1801~02)  ◯「死絵年表 享和元年」(本HP・Top・特集)    歌川豊国画「沢村宗十郎(三代目)」(3月29日没・49歳)「豊国画」上村与兵衛板    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」・1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には刊年がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと)    ☆ 享和二年(1802)    ◯「絵本年表」(享和二年刊)    歌川豊国画    『俳優三十二相』一巻 歌川豊国絵画 東子樵客戯造 曲亭子序 蔦屋重三郎他板〔漆山年表〕    『絵本時世粧』 二巻 東都歌川豊国著并画 式亭三馬閲 和泉屋市兵衛板            下巻奥付「文画 歌川一陽斎豊国撰」〔目録DB画像〕    ◯『俳優人相點顏鏡』豊国画 東子樵客著 享和二年刊(国書データベース)   「戯子卅二相點顔鏡」曲亭序 翫月堂(西宮)・耕書堂(蔦屋)板    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年(1802))〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    歌川一龍斎豊春  豊国  豊広 (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』式亭三馬自画作(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     〝青本 青本の趣向甚だ高慢になる。袋入のあとを青本にすることはやる    画工 絵のかき方また/\当世に移る。北尾、勝川、歌川、おの/\その名高し    同  歌麿当時の女絵を新たに工夫する。北斎独流のの一派をたつる    同  豊国、役者似顔絵に名誉。歌麿の錦絵、北斎の摺物世に行はる    作者 いづれもめでたし/\。千秋万々歳〟    ◯『稗史提要』p398(享和二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 新好 通笑 馬笑 傀儡子 石上 慈悲成 感和亭鬼武         木芽田楽 一麿    画工の部 重政 豊国 歌丸 豊広 長喜 春喬 菊丸    ◯『黄表紙總覧』後編(享和二年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『枯樹花大悲利益』「豊国画」  京伝     鶴屋板    『太平記忠臣講釈』 歌川豊国画 曲亭馬琴   鶴屋板     〈備考、次書の前編にあたることから、豊国画・馬琴作とする〉    『艶道無茶盛当語』〔歌川豊国画〕南杣笑楚満人 榎本屋板    『忠臣講釈坐巻』 「豊国画」  傀儡子    鶴屋板     『武家物奇談』  「豊国画」  花道     榎本屋板    『世帯評判記』  「豊国画」  曲亭馬琴   蔦屋板    『御覧親孝経』  「豊国画」  式亭三馬   山口屋板  ◯「国書データベース」(享和二年)   ◇黄表紙    歌川豊国画     『挑燈庫闇夜七扮』歌川豊国画 椒芽田楽 鶴屋板    『龢睦香物』   歌川豊国画 通笑   鶴屋板    ◯『江戸小咄辞典』(享和二年刊)    歌川豊国画『一口饅重』桜川慈悲成作 三崎屋板    ◯『【銀鶏一睡】南柯廼夢』〔大成Ⅱ〕⑳374(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   〝なんじ(編者注、平亭主人)呉橋が塾にありしころ、毛儀と号して、享和二年の春三月二十五日、百川 にて書画会を催ほしゝとき、歌川豊国と松露庵雨什として、式亭三馬をたのみて、さる人の世話をして おきし、筆島といふ芸者をつれて来たりしとて、自寛と呉橋がおほきに立腹して、爾が父に小言をいひ しを、圭斎と敬義として中へはひり、漸の事にて芸者をば、別席へおひやりし事、爾もすこしはおぼえ あるべし〟    〈呉橋は書家荒木呉橋。平亭主人の書の師匠。百川は当時書画会等でよく使われた江戸日本橋の料亭。雨什は俳人。筆     島は文化頃もてはやされた義太夫芸者。自寛は歌人・三島自寛。圭斎は谷文晁門人の大西圭斎か。敬義は書家・中井     董堂。享和年間、書画会に芸者を連れてくるのは珍しかったようだ。豊国と雨什、三馬を頼んで、芸者筆島を呼んで     興を添えようとしたのであろうが、生憎と、自寛と呉橋が立腹してしまったのである〉    ☆ 享和三年(1803)癸亥    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和三年刊)    歌川豊国画    『絵本戯場年中鑑』三巻 歌川豊国画 篁竹里   蔦屋重三郎他板    『役者此手嘉志和』二巻 歌川豊国画 烏亭焉馬  円寿堂    『戯場訓蒙図彙』 八巻 画人 九徳斎勝川春英・一陽斎歌川豊国 上総屋忠助板    『御伽かのこ』  一巻 画工 歌川豊国・歌川豊広筆 桜川慈悲成作 山林堂三四郎板    『俳優觹』    一冊 豊国画 東子樵客戯撰 播磨屋新七他板    ◯『稗史提要』p399(享和三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 可候 鬼武 三笑 石上 虚呂利 板本舎邑二 楓亭猶錦         萩庵荻声 徳永素秋 薄川八重成    画工の部 重政 豊国 可候 豊広 長喜 一九 春亭 秀麿 一九門人ゑい女    ◯『黄表紙總覧』後編(享和三年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『木颰杜野狐之復讐』「豊国画」  十返舎一九 西村屋板    『文盲先生珍学問』 「豊国画」  桜川慈悲成 西村屋板    『善悪角力勝負附』 「豊国画」  十扁舎一九 西村屋板    『敵討合邦辻』   「豊国画」  十返舎一九 榎本屋板    『俟侍開帳話』   〔歌川豊国画〕馬琴    鶴屋板    ◯「国書データベース」(享和三年刊)   ◇黄表紙    歌川豊国画『野干仇討美談』「豊国画」十返舎一九作 西村屋板   ◇西村屋「癸亥春新刻目録」『鼠嫁入』巻末)    『熊坂伝記 東海道松白浪』 全五冊 歌川豊国画 近日出来 さいしき絵入よみ本    『錦摺絵本 読本太閤記大全』全七冊 同上画   追々出来 さいしき摺〟    ◯「日本古典籍総合目録」(享和三年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画『滑稽素人芝居』一冊 歌川豊国画 桜川慈悲成作 大和屋久兵衛板    ◯『筆禍史』「絵本戯場年中鑑」(享和三年・1803)p97(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝篁竹里の著にして、挿画は歌川豊国の筆なり、全三冊、劇場に於ける正月の仕初より十二月の舞納に至    る迄の行事を記し、衣裳小道具等の図をも出せるものなるが、劇道の秘密を漏らせしとて「芝居太夫元    より擦当を受け絶版となりしものと伝ふ」と浅草文庫蔵本の添書にあれど、此類の羽勘三台図会、芝居    年中行事、戯子名所図会、戯場楽屋図会、戯場訓蒙図彙等、此前後に於て刊行されしもの多くあるに、    何等の事なくして、只特に此書のみが擦当を受けしといふこと、其真否判定し難し     〔頭注〕戯場年中鑑    役者の似顔絵をよくし、亦劇道通たりし初代歌川豊国の筆なれば、其妙趣賞玩に余りあるものなり〟
   『絵本戯場年中鑑』篁竹里著・歌川豊国筆     (東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)    ☆ 享和年間(1801~1804)
 ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」2p27)   〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、    同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵    岡北渓〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化元年刊)    歌川豊国画『俳優相貎鏡』一冊 歌川豊国画 浅艸市人著 山田屋三四郎板    ◯『稗史提要』p401(享和四年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 一九 東子 赤城山家女 待名斎今也    画工の部 重政 豊国 春亭 豊広 長喜 月麿 北岱    時評〝かたき打の本、いよ/\行はれ、京伝・馬琴、此年より始て敵打の作あり。今年の新刻かたき打       三分の二にして、其余わつかに戯作あり〟    ◯『黄表紙總覧』後編(享和四年刊)    歌川豊国画    『恋仇討狐助太刀』「豊国画」  十返舎一九  西村屋板    『東海道松之白浪』「一陽斎画」 春水亭元好  西村屋板     〈備考、「合巻」の造語の濫觴作とされる由〉    『信夫摺錦伊達染』「豊国画」  鬼武     村田屋板    『敵討水潜蜀紅錦』「豊国画」  南杣笑楚満人 泉市板    『敵討磐手躑躅』 「豊国画」  曼亭鬼武   山口屋板    『陸奥瞽女仇討』 「豊国画」  曼亭鬼武   村田屋板     〈本書は前書『信夫摺錦伊達染』の後編〉    『仇報孝行車』題簽「豊国画」  南杣笑楚満人 西村屋板    『恩愛猿仇討』  「豊国画」  虚呂利    岩戸屋板    『花筺復讐』   「豊国画」  鬼武     村田屋板     〈本書は『信夫摺錦伊達染』と『陸奥瞽女仇討』を合わせ五巻五冊にしたもの〉    『孝行車』    「豊国画」  南杣笑楚満人 西村屋板  ◯「国書データベース」(文化元年・享和四年)   ◇黄表紙    歌川豊国画    『【前編ハ猿仇討全部 後編ハ陸友綱合巻】両面出世鑑』内新好序 岩戸屋板     前編「豊国画」「虚呂利戯作」後編「時太郎可候画」「虚呂利作」    ◯「読本年表」(享和四年刊)    歌川豊国画〔中本型読本〕    『東海道松之白浪』豊国画 一九・春水亭元好作〈本書の改刻本『熊坂長範一代記』〉    〔奥州戦記〕   歌川豊国画 春水亭元好作〈「外題は後補墨書き、刊年の記載はない」とのこと〉    歌川豊国画〔江戸読本〕    『繪本敵討待山話』歌川豊国画 談洲楼焉馬作    〈後年、三升屋二三治は『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩151(弘化四年(1847)序)の中で次のような証言を残している〉     〝(立川焉馬記事)此人、一世の内残せしは、白石噺の七ッ目、歌舞伎年代記、敵討松山噺といふ本、歌    川豊国の筆にして役者似顔絵の始り(云々)〟    〈この「敵討松山噺」とは上掲の『繪本敵討待山話』のことと思われる〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化元年刊)    歌川豊国画『俳優相貌鏡』一冊 歌川豊国画 浅草市人撰 山田三四郎板    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集十八」「書物錦絵之部 第五四件」   (天保十五年十月「川中嶋合戦其外天正之頃武者絵之儀ニ付調」北町奉行の南町奉行宛相談書)   ◇「錦絵之儀ニ付申上候書付」(天保十五年八月付・絵草紙掛・名主平四郎の書付)   〝文化元子年中ニ候哉、橋本町四丁目絵草紙屋辰右衛門、馬喰町三丁目同忠助板元ニて、太閤記(絵本太    閤記)之内絵柄不知三枚続錦絵売出候処、右板元并画師(喜多川)歌丸(麿)・(歌川)豊国両人共、    北御番所ぇ被召出御吟味之上、板元は処払、画師過料被仰付候儀有之〟    〈( )は添え書き。橋本町の絵草紙屋辰右衛門とは松村屋辰右衛門か、また馬喰町三丁目の忠助とは山口屋忠助か。     松村屋は歌麿を山口屋は豊国をそれぞれ起用して、岡田玉山の『絵本太閤記』に取材した三枚続を画かせたのであろ     う。大坂の『絵本太閤記』は寛政九年から出版されてきたから、江戸で錦絵にしても差し障りはないと思ったのかも     しれない。しかし案に相違、彼らは北町奉行所から呼び出されて吟味に回され、板元は居住地追放、歌麿と豊国は罰     金に処せられた。なおこの文書で興味深いのは「画師歌丸」の表記。(喜多川)と(麿)は添え書きであるから原文     にはないものだろう。これは何を意味するのか。文化元年当時、署名は「歌麿」であっても読みが「うたまる」だっ     たので、記載者は「歌丸」と記したのではないだろうか。すると(麿)の添え書きは「うたまる」の「まる」の表記     を正したものと考えてよいのだろう。2013/11/02追記〉     ◇文化元年五月十六日落着の「仕置申渡書」   〝         馬喰町三丁目 久次郎店 忠助    其方儀、一枚絵草双紙問屋いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣弁罷在、太閤記時    代之武者一枚絵草双紙ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、売口多可有之と一枚絵に為認、名前・紋所等    其儘認、又は似寄紛敷様にも認、軍場之地名等書入候も有之、板行いたし候処、右之内其家筋より断受    絶板候も有之、然る上は、残之分右ニ可准義ニ候得共、其儘売捌、猶又異形之ものニ右時代之紋所等附    候草双紙をも板行いたし売出、且、新板之品は行事共ぇ差出、改請候上売買可致旨之町触をも相背、右    一枚絵之内ニは、行事共不差出分も有之、旁不埒ニ付、絵并板木共取上、身上ニ応じ重過料申付之〟   〝         堀江町二丁目 利右衛門店 豊国事熊吉    其方儀、一枚絵認渡世いたし、書物・双紙類新規ニ仕立候儀無用之旨、町触之趣相弁罷在、太閤記時代    の武者絵ニいたし候は、新規之儀ニ候得共、一枚絵商売之ものより相頼候ニ任せ、名前・紋所其の儘相    記、又は紛敷様ニも認、軍場之地名等も書入遣候段不埒ニ付、百日手鎖申付之〟    〈上記文書は天保十五年刊・一勇斎国芳画・佐野屋喜兵衛板の「川中嶋合戦」が問題になった時、町奉行所内で回され     たもの。文化元年の「太閤記」一件を参考に判断を下そうというのである。それによると「太閤記」に関する罪状は、     新規出版禁止令(寛政二年・1790)があるにもかかわらず、太閤時代の武者一枚絵を新たに出版したこと、そして名     前・紋所・戦地名等を書き入れたことにあった。板元山口屋忠助の場合は、その上、某家より抗議で板木は絶板にし     たのに在庫はそのままにして売り捌いたこと、また行事の改(アラタメ=検閲)を経ない無届出版であったことなどが加     算された。その結果、板元山口屋忠助は、絵と板木を取り上げられた上に財産に応じた重過料(五貫文以上罰金)を     命じられた。一方、歌川豊国に対する処分は手鎖百日であった。板元松村屋辰右衛門と絵師喜多川歌麿の「仕置申渡     書」はないが、山口屋忠助と豊国と同様の処分が下ったものと考えられる。     この「太閤記」一件は、これまでの出版統制のあり方に大きな影響を与えたとみえ、一件が落着したその翌日(五月     十七日)町奉行は「一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義     も決て致間識候」という文面の入った町触を発している。町触全文は本HPのTop「浮世絵に関する御触書」参照     2013/11/02追記〉    ◯『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245(文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈「絵本太閤記」は岡田玉山画〉    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   「文化元年」   〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜    多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共    手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし〟    〈岡田玉山画『絵本太閤記』の絶版処分は、江戸の歌麿・豊国が咎められたとき、「絵本太閤記」に習ったと、白状し     たために下ったもののようである〉    ◯『街談文々集要』p29(石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)   (「文化元甲子之巻 第十八 太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度            歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之。
    「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)
     絵本太閤記絶板ノ話    寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね    て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄    勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。    然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出せり。     太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正     甲冑酒、妾の片はらに朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。    是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左    の通。    一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味      の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候    一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候      儀、決て致間敷候    一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一      切認間敷候    一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候       文化元甲子五月十七日    右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎春童)画『太々     太平記』は天明八年(1788)刊とあり、『街談文々集要』がいう享和三年(1803)のものは見当たらない。『絵本太閤     記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化物太平記』は享和四     年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とあるのが、よく分からない。東     北大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれを言うの     であろうか。しかし、そのあとに続く、歌川豊国初代の記事「再板致候趣なりしが相止む」の意味も、それ以上に分     かりずらい。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板するという意味なのであろうか。結局のところ、企     画倒れになってしまったようであるが、それならば「此節絶板の品々」に名を連ねるのは不自然ではないのか。春亭     と一九の「太閤記」ものが名を連ねるのは分かるが、藤蘭徳と清春の「太閤記」ものがどうして入っているのか、よ     く分からない。ともあれ、以上が草双紙の絶版。     次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜     多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、     『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図     にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。     ともあれ、この一件以降、「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前     等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである。参考までに言     うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある〉    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化元年」2p30)   〝〔筠補〕五月十六日、「絵本太閤記」絶版仰付られ候趣、大坂の板元に仰渡され、江戸にては「太閤記」    の中より抜出し候分も残らず御取上、右錦絵書たる喜多川哥麿、歌川豊国など手鎖、板元十五貫文過料    の由、絵草紙屋へ申渡書付あり。これは其の頃「豊国大錦絵」に明智本能寺を囲む処、其の外色々書き    て咎められしに、「絵本太閤記」によりたる由を陳言せしかば、「絵本太閤記」に災及べるなり。この    絶版は惜しむべし〟    〈〔筠補〕とは喜多村筠庭の補注。『絵本太閤記』(武内確斎作・岡田玉山画)は寛政九(1797)年~享和二(1802)年刊。     豊国の絵は「明智本能寺を囲む処」で、次項『筆禍史』は「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」とする。このあたり豊国が     複数の「太閤記」もので検挙されたのかどうか、判然としない。ともあれ、岡田玉山の『絵本太閤記』に拠ったとい     う、豊国らの自白が決め手となって、『絵本太閤記』が絶板処分になったと、〔筠補〕の喜多村筠庭は見たのである〉    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」(文化元年・1804)p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太平記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり〟    〈手鎖五十日に処せられた豊国画は「賤ヶ嶽七本槍」であるという〉    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」     一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』     はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、     豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発     を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう     も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉    ☆ 文化二年(1805)
 ◯『稗史提要』p403(文化二年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 三馬 一九 素速斎 東紫 新好 鬼武 萩声 赤城山人         面徳斎夫成    画工の部 重政 豊国 豊広 月麿 石上    ◯『黄表紙總覧』後編(文化二年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『相馬太郎武勇籏揚』「一陽斎豊国画」十返舎一九  西村屋板     『玅見宮利益助剣』 「一陽斎豊国画」十返舎一九  村田屋板     〈本書は前書『玅見宮利益助剣』の前半三巻にあたる〉    『金生樹栄花鉢植』 「一陽斎画」  樹下石上   泉市板     『猫奴牝忠義合奏』 「豊国画」   馬琴     鶴屋板    『荏土自慢名産杖』 「豊国画」   京伝     蔦屋板    『敵討蠎蛇榎』前編 「豊国画」   楚満人    西村屋板    『敵討蠎蛇榎』後編 「一陽斎豊国画」南杣笑楚満人 西村屋板    『星宮大内鏡』   「一陽斎豊国画」十年舎一九  村田屋板     〈本書は前書『玅見宮利益助剣』の後半二巻にあたる〉    〔玉屋景物〕    「豊国画」   山東京伝   玉屋(景物本)  ◯「国書データベース」(文化二年)   ◇黄表紙    歌川豊国画『敵討妙見記』「一陽斎豊国画」十返舎一九著 岩戸屋板    ◯「読本年表」(文化二年刊)    歌川豊国画〔江戸読本〕    『復讐竒談稚枝鳩』 一陽斎豊國画 曲亭馬琴作    『櫻姫全傳曙草紙』 一陽斎豊國画 醒醒齋京傳作    歌川豊国画    『相馬太郎武勇籏上』一陽齋豊國画 十返舎一九作〔中本型読本〕    『四天王剿盗異録』前編 歌川豊国画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯『街談文々集要』p53(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化二(1805)年」記事「松本米三死絵」)   〝文化二乙丑年六月十一日、松本よね三死去〔添え書き「実子松本八十八」〕【俳名文車、家名松鶴屋、    松本小次郎養子、実ハ四代目吉沢あやめ子】    法号 浄誉取妙文車居士【行年廿八才、深川本誓寺乗性院】    一陽主人の画庵を訪ふに、文車の追善の為にとて、この肖像を写す、予そのかたハらにありて、そが辞    世の発句をかいつくる事になん。      まハりあいがけふは無常の風車      文車    或人の需に応じて            曲亭馬琴〟    〈「一陽主人」とは歌川豊国初代か。その豊国画く初代松本米三の肖像を見ながら、曲亭馬琴が文車に替わって辞世を     詠じ「死絵」を制作したのであろう〉    ☆ 文化初年(1804~06)
 △『物之本江戸作者部類』p147(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「読本作者第一」「山東京伝」の項)   〝優曇花物語七巻を綴る【印行の書賈右に同じ(筆者注、鶴屋喜右衛門)】唐画師喜多武清【文晁門人】 と親しかりければ、こたびは武清に誂へて作者の画稿によりて画かしけり(物語の説明あり。中略)趣 向拙きにあらねどもさし画の唐様なるをもて俗客婦幼を楽まするに足らず、この故に当時の評判不の字 なりき、京伝竊にこれを悔ひて、又桜姫全傳【五巻】を綴るに及びて出像(サシエ)を歌川豊国に画かしむ。 この書大(イタのルビ)く時好に称ひて、雅俗倶に佳妙とせり、その明年又うとふ安方忠義伝【六巻画ハ豊 国也】を印行せらる、いよ/\その新奇にめでゝ、これを看るもの只三都会のミならず、田舎翁も亦こ の佳作あることを知れり。京伝が作のよミ本多かる中にこの二種尤さかん也とす〟    〈京伝作『優曇華物語』は文化元年、『【桜姫全傳】曙草紙』は文化二年、『善知安方忠義伝』は文化三年の刊行〉    ☆ 文化三年(1806)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化三年)   ①「豊国画」(市川団十郎の「暫」)13/68〈十二ヶ月の大小と初午等雑節の日付一覧〉    「桃栗山人」狂歌・戯文〈談洲楼立川焉馬〉  ◯『稗史提要』p404(文化三年刊)   ◇黄表紙    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 一九 石上 鬼武 慈悲成    画工の部 重政 豊国 豊広 国長 春亭 国丸 北馬    ◯『黄表紙總覧』後編(文化三年刊)(〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    『雷太郎強悪物語』前編「歌川豊国画」式亭三馬   西宮板    『雷太郎強悪物語』後編「豊国画」  三馬     西宮板    『敵討柳田四郎兵衛』 「豊国画」  楚満人    西村屋板    『柳田四郎兵衛後編』 「豊国画」  南杣笑楚満人 西村屋板    『銘者正宗刀珎説』   歌川豊国画 十返舎一九  西村屋板〈備考、次書の前編とする〉    『銘正宗刀珎説』   「豊国画」  十返舎一九  西村屋板    『矢指浦前編』 絵題簽「豊国画」  一九     村田屋板    『矢指浦後編』    「豊国画」  十返舎一九  村田屋板    『敵討狼河原』  前編「豊国画」  京伝     蔦屋板    『敵討狼河原』  後編「豊国画」  山東京伝   蔦屋板    『恩愛猿仇討』  前編「豊国画」  戯呂利    岩戸屋板     〈備考、文化元年板『恩愛猿仇討』と『娘敵討陸友綱』の改題再板本。前者を前編、後者を後編とする。      なお後編にあたる『娘敵討陸友綱』は時太郎可候画〉    〔売初足袋世界〕   「歌川豊国画」式亭三馬   結城屋善助板(景物本)    〔春霞御嬪附〕    「豊国画」  京伝     万屋四郎兵衛板(景物本)  ◯「国書データベース」(文化三年)   ◇黄表紙    歌川豊国画『嵐山花仇討』「豊広画」十返舎一九戯作 岩戸板   ◇合巻    歌川豊国画『おとぎものがたり』豊国・豊広 式亭三馬作 板元未詳〈書誌による〉    ◯「読本年表」(文化三年刊)    歌川豊国画    『源家勲績四天王剿盗異録』後編 一陽齋豊国画 曲亭馬琴作〔江戸読本〕    『富士淺間三國一夜物語』一陽齋豊國画 曲亭馬琴作〔江戸読本〕     〈高木注、文政版は歌川国直画の由〉    『善知安方忠義傳』前編 一陽齋豊國画 山東京傳作〔江戸読本〕    『昔話稲妻表紙』 一陽齋豊國画 山東京傳作   〔江戸読本〕    『春夏秋冬春編』 一陽齋豊國画 振鷺亭主人作  〔江戸読本〕     〈高木注、文化十五年の後印本に鬼卵作の『四季物語夏編』がある由〉    『風聲夜話天橋立』前編 豊國画 十返舎一九作〔中本型読本〕    『敵討誰也行燈』 一陽齋豊國画 曲亭馬琴作 〔中本型読本〕    ◯「日本古典籍総合目録」(文化三年刊)   ◇読本    歌川豊国画    『四季物語』歌川豊国画 振鷺亭作〈『春夏秋冬 春篇』の後摺本〉   ◇滑稽本(文化三年刊)    歌川豊国画『酩酊気質』二冊 歌川豊国画 式亭三馬作 上総屋佐助板  ◯『戯場粋言幕の外』式亭三馬作 文化三年刊(『新日本古典文学大系』岩波書店)   (巻之上)p311・p315・p316   〝(やしきの女中、奥方の)御代参にいたゞいたるさいなんよけのお守りよりも、役者の紋の銀のはしと、    自筆の扇が大せつにて、豊国画の似顔を見ていたづらに心をうごかすは、もみうらの人情也〟    〈屋敷奉公に出ている着物に紅裏をつけた若い女中の楽しみは奥方に随って見る芝居見物だが、不断は豊国の画く贔     屓役者の似顔絵をみて胸をときめかしているのである〉   〝堀江町の豊国〟   〝和泉町へはいると、向こふか歌川豊国、竜雲斎、ふたり連にて羽織きながし、例のきれい事にて来    かゝる〟脚注に「未詳。浮世絵師、遠山政武(竜雲斎)か」   (巻之下)p341   〝三馬が書た五冊物の絵本で、芝居訓蒙図彙といふ本を見なせへ。春英(きうとく)と豊国(とよく)が    絵で委しいもんだ〟    〈『戯画訓蒙図彙』は享和三年刊。三馬が芝居全般について解説を加えたもの、九徳斎勝川春英と一陽斎歌川豊国が     画工を担当した。興味深いのは彼らの呼び名で、春英は九徳(きゅうとく)、豊国は(とよく)と実際に呼ばれて     いたのであろう〉    ☆ 文化四年(1807)    ◯「合巻年表」(文化四年刊)    歌川豊国画    『絵本巴女一代記』「豊国画」表紙「一陽斎豊国図画」戯作南仙笑楚満人 西宮新板 ②    『於六櫛木曾仇討』「豊国画」表紙「歌川豊国画」  山東京伝作    西与板  ②     〈草双紙に口絵が初めて登場するのは本作からの由〉    『復讎妹背山物語』 歌川豊国画 山東京山作   江見屋板 ①〈書誌による。板元は文化5年新版目録〉    『敵討島廻幸助舟』「豊国画」  南杣笑楚満人作 泉市板  ①    『敵討代九郎噺』 「豊国画」  面徳斎夫成作  西与板  ①    『菊酒屋娘庭訓』 「歌川豊国画」山東京山作   板元未詳 ①〈画像は天保12年刊〉    『菊童子配盃』   歌川豊国画 東里山人作   板元未詳(注:日本小説年表による)①    『敵討蘇生娘』   歌川豊国画 南杣笑楚満人作 西与板  ①〈書誌による。板元は文化4年新版目録〉    『道成寺伝奇』   歌川豊国画 山東京伝作   西与板  ①〈書誌による。板元は文化4年新版目録〉    『復讐娶唬谷』  「豊国画」表紙「絵師歌川豊国」式亭三馬作 西宮新板 ②    『二見之仇討』  「豊国画」  山東京伝作   鶴喜板  ①    『敵討浪速男』  「豊国画」  十返舎一九作  西与板  ①    『復讐娵嚇谷』  「豊国画」  式亭三馬作   西宮新板 ①    『矢指浦』    「豊国画」  十返舎一九作  村田屋  ①〈文化三年刊『矢指浦』の再版本〉    ◯「読本年表」(文化四年刊)    歌川豊国画    『梅之與四兵衞物語梅花氷裂』一陽齋豊國画 山東京傳作 〔江戸読本〕    『復讐竒語天橋立』  後編 一陽齋豊國画 十返舎一九作〔中本型読本〕    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文化四年刊)    歌川豊国画『数珠の親玉』一冊 豊国・清長・春好画 烏亭焉馬編 石渡利助板   ◯『蜘の糸巻』〔燕石〕②300(山東京山著・弘化三年成立)   〝文化の中頃にや、京伝、お六櫛木曾の仇討を作られし時、画師豊国おもひつきにて、巻中の人物はじめ    てやくしやの似顔になせり、又口絵といふ物【さうしのはじめに巻中の人物をいだし、讃などあり】を    はじめて加う〟    〈「お六櫛木曾仇討」は文化四年刊行の合巻『於六櫛木曾仇討』〉    ◯『市川白猿追善数珠親玉』(立川談州楼序・文化四年正月刊)    〈白猿追悼の肖像画。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所収の画像より〉      (『六部』白猿の似顔絵)「豊国画」      (他に鳥居清長筆・笑艸筆・六十四歳春好左筆 菱川宗理画・政奴画・辰斎画・北鵞画・     向島隠居之像葛飾北斎写之)      〈追悼詠〉    〝鳴神のをとに涙の大雨は此世の注連のきれてゆく雲 歌川豊国〟    〝いにしへ一切経を取得たるハ三蔵法師 今台遊法子と戒名もいとたふとし       念仏の百首をよみて西遊記孫悟空にもまさる白猿 かつしか北斎〟    〝写してもうつりてかなし氷面鏡 春好〟    〝はつ雪やきゆるものとハ知ながら 菱川宗理〟    〝我みちの筆も涙のこほりかな 清長〟    〝秀鶴が身まかりし比の句をおもひいでゝ 今又念仏百首     よまれて極楽の舞台に同座せらるゝ御仏にゑかう申て      仲蔵がましじやとおもふ暑哉といひしましらも南無阿弥陀仏 尚左堂俊満〟    ◯『無可有郷』〔百花苑〕(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   ◇(文化四年頃)⑦397  〝其歳(鈴木桃野、九歳頃)より稗史の合巻といふもの初れり【文化四年なり。お六櫛合巻の初なり。其   明年は双蝶々、吃又平等数種出る。爰におゐて、楚満人豊廣の輩漸々おとろへて、三馬、京山、国貞、   春亭、興子、京伝、馬琴、豊国は元の如し】〟    〈合巻「お六櫛」は文化四年、山東京伝作・豊国画『於六櫛木曾仇討』。「双蝶々」は文化五年、京伝作・豊国画『敵     討雙蝶々』か。「吃又平」は文化五年、式亭三馬作・国貞画『吃又平名画助刃』〉     ◇(文化七~八年頃)⑦397   〝予(鈴木桃野、十二三歳の頃)も画を学びたく思ひしが、父母の読書を勉めざるを怒りて許さず。ひとり    竊に豊国等が風を見習ひ、日々筆を取て人形をなす〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」(文化五年刊)    歌川豊国画    『八重霞かしくの仇討』「歌川豊国画」山東京伝作 鶴喜板 ⑤    『絞染五郎豪勢談』「歌川豊国画」表紙「歌川豊国画図」山東京伝作 蔦重板 ②    『女達三日月於僊』「歌川豊国画」表紙「歌川豊国画」 山東京伝作 丸文板 ②     〈山東京山は序で「凡ソ稗史埜冊ニ於ル作者ハ則チ生脚画人ハ是レ且脚ナリ」と云う。(扉の「扮名目次」を見る      と「生脚」には「たちやく」「且脚」には「をんながた」のルビがある)つまり、草双紙の作者と画工の関係を      芝居の立ち役と女形に喩えたのである。その上で、作に「妙態」があっても画に「奇容」が無ければ観るに足ら      ずとして、京山は画工の重要性を強調し、本作における京伝と豊国との関係は、まさにその「生脚」と「且脚」      に他ならず、まるで一対の明珠のようだと称えている〉    『敵討天竺徳兵衛』「豊国画」表紙「歌川豊国画」山東京伝作 伊賀屋板 ②    『小鍋丸手石入船』「豊国画」表紙「歌川豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板  ②    『岩井櫛粂野仇討』「豊国画」表紙「歌川豊国画」山東京伝作 西与板  ②    『熊女越路之仇討』 歌川豊国画   山東京伝作 西与板(注:日本小説年表等による)①    『絞染五郎強勢談』「豊国画」    山東京伝作 蔦重板  ① ◯ニ写・不明篆字    『鬼児島名誉仇討』「豊国画」    式亭三馬作 西宮板  ①    『復讎川字線由来』「豊国画」    山東京山作 伊賀屋板 ①    『敵討児手柏』  「豊国画」見返し「歌川豊国画」  曲亭馬琴作 江見屋板 ②    『伉俠双蛺蜨』  「豊国画」表紙 「歌川豊国画」  山東京伝作 泉市板  ②    『絲車九尾狐』  「豊国画」見返し「一陽斎豊国画図」山東京伝作 西与板  ②    『敵討女今川』  「歌川豊国画」  山東京山作 江見屋板 ⑤    『敵討木曾桟』   歌川豊国画   山東京伝作 榎本屋板(注:日本小説年表等による)①    『白藤源太談』  「歌川豊国画」  山東京伝作 鶴喜板 ⑤    『妬湯仇討話』  「豊国画」    山東京伝作 蔦重板 ⑤    『敵討雙蝶々』  「豊国画」    山東京伝作 泉市板 ①    『敵討宿六始』  「豊国画」    式亭三馬作 西与板 ①    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文化五年刊)    歌川豊国画    『復讐竒語天橋立』続編 一陽齋豊國画 十返舎一九作    『杣物語仙家花』 豊國・國貞画 南杣笑楚満人作    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝歌川豊国【一陽斎、芳町後堀江町住 豊春門人】    当世の風俗をうつす事妙なり、歌舞妓役者の似顔をも能くかけり、墨と紫ばかりにて彩色の錦絵をかき    はじむ、彩色摺画本ほか草紙絵あまたあり     岩井櫛粂野仇討 山東京伝作 七巻  白藤源太談 同 同〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』に号・住所・門流及び合巻(共に文化五年刊)書名を加筆〉    ☆ 文化六年(1809)    ◯「合巻年表」(文化六年刊)    歌川豊国画    『二日替連理花王』 歌川豊国画 山東京伝・京山作 泉市板(注:日本小説年表による)①    『孝行酒屋誉剣菱』「歌川豊国画」表紙「歌川豊国画」 山東京山作 泉市板 ②    『志道軒往古講釈』「豊国画」  見返し「歌川豊国画」山東京伝作 鶴喜板 ②    『累井筒紅葉打敷』「豊国画」  見返し「歌川豊国画」山東京伝作 蔦重板 ②    『其後日三伍大切』「歌川豊国画」山東京山作 伊賀屋板 ①    『笠森娘錦笈摺』 「歌川豊国画」山東京伝作 丸文板  ①    『躾草娘庭訓』  「歌川豊国画」内題「歌川豊国画」山東京山作 伊賀屋板 ②    『昔語紫色挙』  「歌川豊国画」表紙「国満画」  山東京山作 西与板  ①    『腹筋逢夢石』  「歌川豊国画」山東京伝作 伊賀屋板 ⑤     〈〔目録DB〕は滑稽本とするが、〔東大〕は合巻仕立の表紙のあることから合巻に収録したとある。      『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』補編に拠る〉    『勧善辻談義』   歌川豊国画 山東京伝作 伊賀屋板(注:日本小説年表による)    〈板元は文化6年新刊目録による〉    『道外物語』   「浮世絵師 歌川豊国」式亭三馬作 山城屋板 ①     〈享和元年刊・黄表紙『日本一癡鑑』の改題本。〔目録DB〕の分類は合巻だが〔東大〕の備考は滑稽本とする〉    『七福譚』    「歌川豊国画」式亭三馬作 鶴金板 ①    ◯「読本年表」(文化六年刊)    歌川豊国画    『稲妻表紙後編本朝酔菩提』前・後編 一陽齋豊國画〔江戸読本〕    『松染情史秋七草』    歌川豊国画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯「日本古典籍総合目録」(文化六年刊)>   ◇滑稽本    歌川豊国画『腹佳話鸚鵡八芸』一冊 歌川豊国画 山東京山作 文化六序  ◯『山東京伝書簡集』(歌川豊広宛・文化六年六月十八日付)   (『近世の学芸』p403 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝甚暑之節御座候へとも、益御康健御座被成恭喜奉存候、然者、木挽町にて尾上松介 浮牡丹の内 牡丹    燈篭を狂言にとりくみ候二付、私共明十九日見物に参り候、もし思召も御座候はゞ、明日はやく木挽町    勘弥芝居北となり茶屋 高しまや五助方迄 御出可被下候、明日之連は、まき町、いがや、京山、わた    くし、右之通に御座候間,少しも御気あつかひ無御座候、少しの御用は御さしくり、御出可被下候、ま    き町も御伝言御座候、以上      六月十八日     豊広様                                      京伝〟    〈この狂言は同年六月十一日より木挽町森田座において「尾上松助夏狂言一世一代」と銘打って上演された「阿国御前化     粧鏡」。烏亭焉馬の『江戸芝居年代記』によると、尾上松助と同栄三郞の評判がよく大当たりの由で、八月五日まで     興行を続けたとある。これは京伝から豊広への急ぎの手紙で、内容は、明日十九日早朝、芝居茶屋(高島屋)で、まき     町(槇町)すなわち豊国(初代)と地本問屋のいがや(伊賀屋勘右衛門)と実弟京山とで待っているから、是非見に来てほ     しいというもの。この芝居における豊国落款の役者絵をみると、小袖に「大當り」の文字が入った阿国御前役の松助や、     「巳八」(八月)の改(あらため)のある土佐又平役の栄三郞の錦絵があるから、これらの役者絵は豊国が実見した後に画     いたものとみてよいのだろう。ところで、豊広はこの誘いに乗ったのであろうか。分からない。しかし豊広は、渓斎     英泉の『無名翁随筆』(天保四年成稿)によると、「生涯役者絵ヲカゝズ」とあるから、たとえ見物したとしても画くこ     とはなかったはずである〉    ◯「日本古典籍総合目録」(文化六年七月刊)   ◇絵画・狂歌    歌川豊国画「介科(みぶり)」三葉 署名「豊国画」山東京伝賛 西村屋与八板 文化六年七月改印    1「鶩(あひる)の介科(みぶり) こゝろなや鴫立澤◯あるものを 鶩のさけぶ穐の夕暮 山東京伝」    2「餌をねらふ棟のとんびのとろゝ汁 摺鉢形(なり)の雪の一ッ家 山東京伝」〈鳶の身振り〉    3「山東京伝 盃の墨蒔絵かとうたがへば日の出にむけて飛(とぶ)からすなり」〈烏の身振り〉    〈この方面の戯画を集大成したのが弟子の国芳〉    ◯「朝寝坊夢羅久落話会披露之摺物」   (『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝文化六年己巳八月廿八日、開莚於柳橋大のし富八楼〟    〈夢羅久(夢楽)最初の落語会、この摺物に、春英・豊国・北馬・拙亭翠・泉目吉が絵を添えた。以下は三馬のコメント〉   〝歌川一陽斎 豊国ハ一龍斎豊春の門人、当時日本橋上槙町に住す。俗称熊吉〟    〈三馬のいう「当時」とは、泉目吉の記事に「当時本郷に住す」と「文化十一年秋物故」とあることからすると、この     画帖が仕立てられた文化十二年ではなくて、この落語会のあった文化六年なのであろう〉    ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)」記事「時世為変化」)   〝(加藤曳尾庵の随筆『我衣』からの引用記事)    寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり〟    ☆ 文化二~六年(1805~1809)頃
△『近世物之本江戸作者部類』p149(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「読本作者部第一」「山東京伝」の項)   〝本朝醉菩提六巻後編四巻共に十巻も亦是伊賀屋の板にて出像(サシエ)は豊国画きたり、當時この画工、例    としていまだ画ざる已前にその濡筆を受ながら技に誇りて画くに遅かり、醉菩提を板するに及て、伊賀    勘しば/\乞へども、豊国事に托して敢画かず、まづ板元に説薦めて羽二重の袷半折二領を製(ツク)らし    め、これを作者と画工に贈らしむ【その半折に京伝と豊国の花号(モン)をつけたり】、かゝる事は歌舞伎    の當場作者(タテツクリ)にこの例あればといへり、只この事のミならず、或ハ酒肉珍果を贈り、或ハ京伝と    豊国を伴ひて雑劇を観セ、或ハ酒楼に登ることもしば/\なりき、かくても豊国はなほ多く画かず、催    促頻りなるに及て、又板元にいふやう、巳(ママ己?)かう家に在りては雑客もたえず、且錦絵の板元に責    られて、よミ本のさし画ハ筆を把る暇あらず、吾為に権且(シバラク)隠宅(カクレガ)を作りて給ハれといふ    に、伊賀勘その意を得て、近辺なる裏屋二軒を借りて、其処に豊国を請待し、日毎に酒飯を餽りて画せ    けるに、折から三月の比なりければ、豊国が又いふやう、時は今咲にほふ花の三月なるに、かう垂篭て    のミ在りてハ気鬱して病ひを生ぜんとす、いかで隅田川辺に徜徉して保養せまくほしといひしを、伊賀    勘聞て思ふやう、もし一日ト外の出さバふたゝびこゝに帰るべからず、要こそあれと思案して、さり気    もなく答ていふやう、花を見まくほりし給ハヾ、遠く隅田河に赴くに及バす、吾とりよせてまゐらせん    とて、大きなる枝に咲満たる桜を許多買とりて、そを花瓶にも樽などへも活て、豊国の机辺に置ならべ、    その活花衰れバとり替え/\見せしかば、豊国畢にせんかたなくて日毎に件の出像を画く程に、伊賀屋    はさら也、京伝も折々この仮宅に来訪してうちかたらひつゝ慰めけり、是等の事ハ京伝の本意にあらね    ど、曩に優曇華物語の出像を唐画師(筆者注、喜多武清)に誂へて後悔せしに、桜姫全伝の作よりして    豊国に画して特に時好にかなひしかバ、是より豊国と親しく交りて功を譲ること大かたならず、その言    に、今浄瑠璃をもて譬るに、画工は大夫のごとく作者は三絃ひきに似たり、合巻の臭草紙はさら也、よ    ミ本といへども画工の筆精妙ならざれば売れがたしといふにより、豊国も亦みづから許して、その功吾    にありと思ひしかバ、是より合巻の奥半張に画工の名を上にして豊国画京伝作と署したり、既にかくの    如く画工に権をつけしかバ、豊国の恣なるをにが/\しく思ひながら竟に諫ることあたハ伝(ママず?)、    倶にその好ミに従ひつゝ二とせばかりにして稍印行することを得たれども、思ふにも似ず冊子の世評妙    ならず。損する程にあらねども、初に画工作者をもてなしたる諸雑費のいと多かりけれバ、板元の算帳    合ハず、加旃、この板元に不如意さへうち続きしかバ、活業既に衰へて他町へ転宅したりけり〟    〈版本における画工と作者の関係が初代豊国のあたりから変化したようである。豊国が画工を浄瑠璃の太夫に作者を三     味線弾きに見立てたのはその現れであろう。絵を中心とする合巻はいうまでもなく、文を主体とする読本まで、その     円滑な出版を望もうとすれば、時には採算を度外視した出費まで覚悟して、人気画工の機嫌を取らねばならない時代     に入ったのである。この記事は天保五年の時点のものだが、馬琴自身も、これまで柳川重信・葵岡北渓・歌川国貞等、     画工の遅筆にずいぶん手を焼いてきた。初代豊国以降、版元の願望より、一流画工の都合の方が出版計画に影響を及     ぼすようになったのである。なお京伝作・豊国画・読本『本朝酔菩提全伝』は文化六年刊。京伝作・喜多武清画・読     本『優曇華物語』は文化元年刊。京伝作・豊国画・読本『桜姫全伝曙草紙』は文化二年刊〉  ☆ 文化七年(1810)  ◯『山東京伝年譜稿』p92(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   「七福神図」肉筆 鳥居清長・葛飾北斎・勝川春英・歌川豊春・同豊国・同国貞合筆    (永寿堂企画 文化七年ごろから九年にかけて完成)    署名「文化庚午歳甲子之夜 歌川豊国画」    ◯「合巻年表」(文化七年刊)    歌川豊国画    『一対男時花歌川』後編「初日 歌川豊国画/後日 歌川豊広画」式亭三馬作 伊賀屋板 ②     〈前編を歌川豊国、後編を歌川豊広が作画を担当した。もともと「刎頸の交わり」ともいうべき仲であった豊国と三      馬が、読本『阿古義物語』(文化七年刊)の挿絵をめぐって(豊国の遅滞)不仲となる。それを伊賀屋が仲立ちし      て両者は和睦。この『一対男時花歌川』の出版はそれを祝した作品〉    『富士太郎梅隠家』歌川豊国画 山東京伝作 丸文板(注:日本小説年表による) ①〈板元は丸文新刊目録〉    『今昔小町譚』 「豊国画」千代春道改/橋本徳瓶作 伊賀屋板 ②    〈〔国書DB〕の統一書名は『小野小町戯場化粧』    『冠辞筑紫不知火』「歌川豊国画」式亭三馬作  鶴喜板 ①〈①の画像は弘化4年再版本〉    『歌字尽青柳硯』  歌川豊国画 山東京伝作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『夜鶴親父形気』  歌川豊国画 山東京伝作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『仇討金剛杖』   歌川豊国画 十返舎一九作 榎本屋板(注:日本小説年表による)     〈文化7年新刊目録には歌川豊広画とある〉    『毬歌娘形気』   歌川豊国画 式亭三馬作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『善知鳥俤』    歌川豊国画 山東京伝作  鶴喜板 ①〈書誌による〉    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化七年刊)    歌川豊国画『流轉數囘阿古義物語』歌川豊國・歌川國貞画 式亭三馬作    ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)   (三馬口上)   〝当年も何がなめづらしきしゆかう(趣向)をと、かんがへまする所に歌川豊国のぞミにしたがひ、せわ    狂言のせかいにて、かぶき芝居二日かハりのしうちになぞらへ、豊広豊国画工兄弟よりあひがきのさう    し、しかも急作につづりあはせ、御らんにいれ奉りまする。     (中略)    此所にてわけて申上まするハ、御ひいき思召あつき豊ひろ豊くに、おの/\さまがたへ御礼の口上、め    い/\に申上たうハぞんじますれども、こみあひましてかき入レの所もござりませねバ、しばらく御用    捨を希奉りまする。扨又、これにひかへましたる小せがれハ豊広せがれ歌川金蔵、つぎにひかへをりま    するハ豊国門人文治改歌川国丸、安治郎改歌川国安、これにひかへしかわいらしいふりそでは私門人益    亭三友、いづれもじやくはい(若輩)ものどもにござりますれバ、御とり立をもつて、すゑ/\大たて    ものとなりまするやう、豊ひろ豊くに私にいたるまで、ひとへに/\希奉ります、まづハ此所二日がハ    りのしん板はやり、うた川両人がつれぶしの御ひやうばん、おそれおほくも大日本国中のすミからすミ    までずいとこひねがひ奉ります。    豊国豊広口上    御礼のため、式亭歌川の惣連中御め見へいたさせまする。御ひいき御とり立御れいの口上ハ、私ども両    人ニなりかハりまして、式亭三馬口上をもつて申上奉ります。(後略)〟    〈この出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』に出ている。(本HP「浮世絵事典」の項「一対男時花歌     川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)もともと刎頸の交わりとでも称すべき間柄であった両者が絶交状態に陥ったのは、豊     国が三馬の挿絵を後回しにしたことが発端のようだ。みかねた板元・伊賀屋が間に入って仲裁した。この出版は和睦     のしるしである。下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に「年玉印」は歌川門の人々。い     わば一門あげての和解である。豊国が中央、左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の弟子たちが控える。名を列記す     ると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅の金蔵、そして国貞・国丸・国     安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人だけ離れて、三馬の門人側に座っている。この挿絵は豊国が画い     たのだろうが、この配置に何か意味があるのだろうか。そして挿絵の上部にやはり連中の名の入った提灯が下がって     いる。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞・国安・国政・豊国・国長・国     満・国丸・国久・国房と並んでいる)        『一対男時花歌川』前編・口上豊国画「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯『黄表紙總覧』後編「刊年未詳・補遺」(文化七年刊)   (〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの)    歌川豊国画    〔落噺常々草〕署名「豊国画」「芝桜川慈悲成作」板元不明     〈備考、寛政十年刊説もあるが、文化七年板とする〉    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(文化七年頃刊)    歌川豊国画『落噺常々草』署名「豊国画」桜川慈悲成作  ◯「死絵年表 文化七年」(本HP・Top・特集)(文化七年頃刊)    歌川豊国画「瀬川菊之丞(三代目)」(12月4日没・60歳)署名「豊国筆」河内屋源七板    ◯「日本古典籍総合目録」(文化七年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画    『滑稽四季の友』二冊 歌川豊国画 山東京山作    『座敷芸忠臣蔵』一冊 歌川豊国画 山東京伝作    『早替胸機関』 三冊 歌川豊国画 式亭三馬作 西村大助他板    『煙草二抄』  一冊 歌川豊国画 山東京山作    ◯『柳亭種彦日記』p139 文化七年(1810)正月廿一日     〝談州楼咄し初メ、北嵩子と同道、三馬子京伝子京山子豊国月まろ、夢楽談笑子等にあふ、玉豕子来〟    〈談洲楼焉馬の咄会。賑やかな顔ぶれである。蘭斎北嵩、式亭三馬、山東京伝・京山兄弟、初代歌川豊国、月まろは喜     多川月麿か、落語家は初代夢楽、初代立川談笑、漢学者柏菴玉豕〉   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕(岩本活東子編・安政三年成立)   ◇「式亭三馬」の項 ②71   〝大人(式亭三馬)が撰たる読本に阿古義物語といへる五巻あり、稿成て、故一陽斎豊国が許に稿本わたり    しかども、一陽斎いかなる故ありてか、繍絵半にして、其後をふつに画れず、やうやく遅滞に及びしか    ば、【その故か、半より末、国貞が筆也】式亭憤を発し、ひごろ刎頸の交り厚きを、かくまでに己を蔑    如にするその心根こそ悪けれとて、自ら一陽斎にいたり、まのあたりにこのことをもて罵り、その怠慢    を責しかば、豊国ぬし言を尽して詫たれども、式亭が怒解けず、これより何となく隔心いできて、此方    にては、吾作意する冊子には向後彼をして画しめじといへば、彼方にても、彼が作りたる冊子には吾ふ    つと画くまじなど罵りあひしが、書賈伊賀屋文亀堂があつかひにて、双方和解し、文化七庚午年、文亀    堂が上木せし一対男時花歌川といへる冊子は、三馬子が編述するところにて、前編六巻を一陽斎画きて、    これを初日と称へ、後編六巻を一柳斎豊広画きて、これを後日と呼び、初日、後日、二日替りの狂言の    ごとく執なし、ところ/\両子あひ画にせられたる所もありて、一入興ふかく、彫刻も細にいできて、    是をもて、式亭と一陽斎が和睦の媒となし、文亀堂発市に及びしかば、めさき殊に変りて、美しく面白    き冊子なりとて、看官の評判つよく行れたりき、と亡友一鳳斎国安子存生の内物語ぬ〟    〈三馬作『阿古義物語』(豊国・国貞画)『一対男時花歌川』(豊国・豊広画)ともに文化七年刊。この記述は『戯作     六家撰』の原本にあたる『戯作者撰集』にある。従って「亡友一鳳斎国安」から聞き書きしたのは『戯作者撰集』を     編集した石塚豊芥子である〉    ◇「式亭三馬」の項 ②72   〝文化のはじめ、合巻、読本、倶に流行し頃は、三馬、豊国等は、諸方の書肆に、種本、写本を乞需らる    ゝに、その約束の期に後れ譴らるゝに苦しみて、五日或は七日ばかりづゝ書肆の許に至り、一間を借り    て草稿を成し、または絵を画きぬとなり〟    〈『戯作者撰集』に同文あり〉    ◯『あやめ草』〔南畝〕②63(文化七年一月詠)   〝出女の化粧をするかたかきたる豊国の画に  頬べにの赤坂ちかき黒髪の油じみたる御油の出女〟    〈「出女」と言えば、当時は誰しも東海道・御油の客引き女郎を連想したようだ〉    ☆ 文化八年(1811)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化八年刊)    歌川豊国画『江戸紫贔屓鉢巻』一冊 清長筆 豊国画 春亭画 烏亭焉馬著    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    歌川豊国画    『梅由兵衛紫頭巾』「歌川豊国画」山東京伝作 鶴金板 ②     (前編見返しに作者・画工・板元の句あり。豊国の句      〝似顔絵ハかほを似するのミにあらず        こゝをか(画)けといハぬばかりや梅のふり 一陽〟    『男子草履打』「歌川豊国画」山東京伝作 泉市・山田屋相板 ②    『其写絵戯俤』「歌川豊国画」式亭三馬作 伊賀屋板 ②    『桜姫筆再咲』「歌川豊国画」山東京伝作 鶴喜板  ①    『鑓権三梅魁』「豊国画」  山東京山作 西与板  ②    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化八年刊)    歌川豊国画『加之久全傳香籠艸』歌川豊國・歌川國房画 梅暮里谷峨作  ◯『加之久全伝香篭草』宝山人谷峨編 若林・山崎板 文化八年正月刊〔国書DB〕    見返し「浮世絵師 歌川豊国画 歌川国房絵」    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(文化八年刊)    歌川豊国画    『江戸紫贔負鉢巻』一冊 烏亭焉馬編      歌川豊国画(似顔図)      詠「三升子の似かほかけよとのあつらへに筆をくいとまももなければ         絵のことはしろきをのちに駿河なるふじにくらべん市川の名を 歌川豊国」      〈他に鳥居清長・勝川春亭の画と狂歌、喜多川月麿の狂歌あり〉    『瀬川仙女追善集』一冊 遠桜山人(蜀山人)序・四方歌垣跋     豊国筆仙女肖像・豊国詠「俤は泪の露に墨すりてかく似顔画に残りをしさよ」     (菊図) 豊国・鳥居清長・栄之・辰斎・北馬・秋艃・曻亭北寿・五清・春亭・春英・北斎等画     (追善詠)三馬・飯盛・馬琴・京伝・京山・焉馬等     〈〔目録DB〕は成立年を文化七年とするが、三代目瀬川菊之丞は文化七年十二月五日没、この追善集は一周忌のも      のである。すると刊年は文化八年ではなかろうか〉   ◯『山東京伝一代記』〔続燕石〕②422(山東京山著・成立年未詳)   〝腹筋鸚鵡石【文化八年新板にて、いがや勘右衛門板、三編目忠臣蔵出る】魚禽獣の身ぶり、声音、此書    古今大当りにて、豊国画にて大にしきに数番出し、京伝自讃あり、此身振出て、青楼にて幇間芝居にて    チヤリ場に出し、素人まで酒席にて身ぶりを戯て、市中にも是を翫べり、東海道宿の髪結床障子、或は    暖簾などに画き、其はやる事如斯し〟   ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①67(文化八年三月十二日)   〝辛未三月十二日、両国ばし向尾上町平吉方にて書画会、会主三馬、(中略)      前日からの世話役      中ばしまき町 歌川豊国          同居 同 国満     本所五ツ目  同 国貞     京ばし銀座  山東京伝     中ばしまき町 同 京山〟   ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①72(文化八年四月二日)   〝ほり江町団扇屋(山形にトの印)遠州屋が団扇に、例の急案の画賛     絵は沢村源之助、【俳名訥子、家号きの国や、先宗十郎訥子の男、当時深川柳川町に住す】似顔絵師    歌川豊国の筆、【豊国は中橋上まき町に住り、俗称熊吉、予と交りあつし】    中村座おそけ久松の二番目狂言に、源之助の役割は、油屋清兵衛也、名は伽羅油よりも芳しく薫り、伎    は化粧水よりも麗しく艶なり、されば、贔屓を江戸の水、いま流行の一枚看板、花の露ぬれ事師の本店    にして、芸はよく練る油屋清兵衛、女中がたのうれしがり給ふをおもへば、金化粧も色をうしなひ、美    男鬘も名を恥べし、そも/\誰ぞや、あさもよし、紀の国屋の親方、      油やの役を見むとてびんつけの一番二番桟敷あらそふ    おなじ堀江町なる、いせや孫四郎が団扇絵の賛、    絵は豊国の筆、俳優人は市川七代目三升、はじめて助六の狂言大あたり也、        三升助六賛    市川の流れは絶ずして、しかももとの俳優ぞ伝はりける、されば、氷らぬ水の筋よく流行して、今こゝ    に団十郎が助六のうひかうぶり、七代つゞく抹額は、江戸紫の色をかへず、一ツ印籠のひとつまへは、    江戸桜の薫り高し、ぱつぱの鮫鞘にいひしへの俤のこり、蛇の目傘に今めきたる姿うるはし、そも/\    定紋の三升スは、見物の山をはかれる歟、そも/\替紋の牡丹は、芝居の富貴をあらはすか、遠くは正    徳のむかし/\、八王子の炭やく翁は、つがもないてふ詞をまねび、近くは文化の今に至れど、山谷わ    たりのやりて婆mで、君なら/\と贔屓して、こりやまたなんのことほぎ祝ふは、此狂言の大あたり、    ほまれは四海になり田屋/\     助六の入りはあまりし木戸口をまたくゞりまたくゞる見物    (中略)    おなじく岩井半四郎が、三浦の総角の図賛     半四郎は、俳名杜若、家号大和屋、其先は粂三郎、俳名梅我といへりし、今嫡子に娘形粂三郎あり、    伎は広し定紋の三つ扇、いよ/\舞台に高運を開く、名は薫る替紋の丁子車、ます/\世上に伎名を轟    せり、されば大入の見物は、岩井櫛の歯をひくが如く、大あたりの    芸評は、半四郎鹿子のかぞふるにいとまあらず、そもそも名をあげまきにあたる人、当時こゝにとゞま    るを思へば、総角の大和屋の太夫にして、杜若は三浦屋の太夫さんなるべし、いづれをいづれおやまの    開山、イヨありがたいかな、     郭公鶯も何あげまきがそのあくたいの初音きかまし〟    ◯『街談文々集要』(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化八年(1811)」記事)   ◇「薪水舞台納」p232     〝文化八、七月十五日より、堺町中村座にて、板東彦三郎舞台の名残、一世一代に、忠臣蔵と手習鑑の一    日がハりにして、彦三郎、由良之助・菅丞相の役を勤、大入大繁昌にて、十日ほどまへより約束なけれ    バ桟敷出来ず、其中にも忠臣蔵ハ長日にて、格別入ハなけれども、菅原の日ハ大入にて、爪もたゝぬほ    どなり(以下略)     (「木風子所蔵」の役者絵の模写あり。画中の題・賛・落款)    (題)「一世一代 菅丞相 板東彦三郎」    (賛)「大入の太鼓につれていかづちの世になりひゞく音羽屋の芸 山東京伝」    (落款)「豊国画」〟
   「かんしやうしやふ 板東彦三郎」豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
   「大ぼし由良之介 板東彦三郎」豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◇「天民翁書幕」p243   〝辛未霜月、葺屋町市村座ニおゐて、沢村源之助、四代目沢村宗十郎と改名す、小田原町より宗十郎へ贈    りもの、幕壱張、沢村宗十郎丈へ、小田原町よりといへる文字を、詩人天民書しなり、むかしより芝居    の幕などを、かゝる人の書たるといふ事をきかず、めづらしき事なり、去年も当座の顔ミせに看板壱枚    ハ、葛飾北斎が画し也、是も昔より鳥居家にて画き来りしに、時うつりかハれば、いろ/\さま/\に    なりゆくものなり、末々にハ二八そばや・煮うりミせのかんばんなども、諸家某が書て、奸坊の印など    押すやうにもなりゆくべし、筆任セ抄書〟    〈天民は大窪天民。北斎が看板を画いたという記事は文化六年の顔見世の時、文化八年のこの記事では「去年も」とあ     るから、あるいは七年も画いたか。「筆任セ」は文宝亭(二世蜀山人)の書留〉
   「源之助改 沢村宗十郎」豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 文化九年(1812)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化九年刊)    歌川豊国画『東名残門出錦袖』一冊 歌川豊国画図 三文字舎自休著 仙鶴堂他板    ◯「合巻年表」(文化九年刊)    歌川豊国画    『妹背山長柄文台』「豊国画」山東京伝作 鶴喜板 ①    『朝茶湯一寸口切』「豊国画」山東京伝作 鶴金板 ②    〈京伝の序に豊国の父の紹介記事〉    「歌川豊国の亡父倉橋五郎兵衛ハ人形をつくることを業とし、戯子(ヤクシヤ)の似顔の人形をつくるに妙     を得たり。されバ今豊国、似顔絵を業とすることおのづからの因縁なり。かねて亡父のつくれる故栢     莚(コハクエン)矢の根五郎に扮する人形あり。父のかたミとひめおきしを今の三升に見せしに、先祖の     似顔を今見ることのうれしさよとて感涙をおとしけれバ、豊国その志を感て、此人形をゆづり、今は     三升が所蔵の物となりぬ。亡父追福のためにもなるべけれバ、此ことをしるしてよと、豊国のいはる     ゝも孝養の一端なれバこれを趣向のたねとなしぬ」     〈天保年間に永楽屋から再板本が出ている由〉    『二人虚無僧』「豊国画」  山東京伝作 西与板  ②    『今昔八丈揃』「歌川豊国画」山東京伝作 伊賀屋板 ①    『咲替梅武士』 歌川豊国画 山東京山作 西与板(注:日本小説年表による) ①     〈板元は文化9年新刊目録による〉  ◯「死絵年表 文化九年」(本HP・Top・特集)(文化九年刊)    歌川豊国画    「瀬川路考(四代目)」(11月29日・31歳 追贈四代目瀬川菊之丞)三点     1署名「豊国筆」「極」(鶴金) 河内屋源七板     2署名「豊国画」「極」 清水板(□に「三」)     3署名「豊国画」版元印(入山形に「十」)    「沢村宗十郎(四代目)」(12月8日・29歳)八点     1署名「豊国筆」版元不明     2署名「豊国画」「極」(津弎) 山本久兵衛板     3署名「御好ニ付 豊国画」「極」 鶴屋金助板     4署名「御好ニ付 豊国画」改印・版元印なし     5署名「豊国画」「極」 版元印なし     6署名「豊国画」「極」(津弎) 版元印なし     7署名「御好ニ付 豊国画」版元印(入り山形ニ「十」)     8「雪道や跡へひかるゝ逆草鞋 三代目訥子」      署名なし 改印・版元印なし(〔早稲田・演博〕は「絵師:豊国」とする)    「沢村宗十郎(四代目)瀬川菊之丞(四代目)」六点     1署名「御好ニ付 豊国画」極印(津弎) 鈴伊板     2署名「御好ニ付 豊国画」改印・版元印なし     3署名・改印・版元印なし(〔早稲田・演博〕は「絵師:豊国」とする)     4署名「豊国画」「極」 清水板     5署名「豊国画」「極」 清水板     6署名「豊国画」二枚続 岩戸屋喜三郎板    「沢村宗十郎(四代目)同(三代目)」一点     〝父納(ママ)子之画像 四代目宗次郎〟署名「御好ニ付 豊国画」「極」 鶴屋金助板  ◯『街談文々集要』p268(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化九年(1812)」記事「路孝訥子終」)   〝文化九年壬申十一月廿九日、四代目瀬川路考死去、生年卅一才、法号、循定院環誉光阿禅昇居士    【初中村千之助ト云、桐座若太夫、後瀬川菊之助、後ニ路之助、夫より路考】    同十二月八日、四代目沢村訥子死去、生年二十九才、法号、善覚院達誉了玄居士    【初メ沢村源之助三代目訥子実子】    路考、寺ハ本所押上大雲寺、宗十郎ハ浅草誓願寺にて、両人葬礼の見物大群集、僅ニ十日の日隔て、西    方極楽浄土に赴く、追善の錦絵一枚摺・二枚続、江戸諸名家の書入【狂文狂歌】数多出板す、当時娘・    女中連ひゐき多き両人の事故、大にしきを求めんと絵屋の前押号/\、市の如し、其外三芝居惣役者、    手向追善の発句を売歩行、往還ニかまびすし、亦宗十郎・路孝の辞世の句      寒ぎくに一霜つらきあした哉  路考      雪道や跡へ引るゝ逆わらじ   訥子     (追善の戯作として式亭三馬作『地獄極楽道中記』の序を引く。略)〟
    「瀬川路考」「沢村宗十郎」(死絵)豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ☆ 文化十年(1813)    ◯「合巻年表」(文化十年刊)    歌川豊国画    『園梅かしくの枝状』歌川豊国画 山東京山作 蔦重板 ①〈書誌による〉    『朝妻船柳三日月』「豊国画」  山東京伝作 丸甚板 ②    『安達原氷之姿見』「豊国画   山東京伝作 鶴喜板 ①    『無間之鐘娘縁起』「豊国画」  山東京伝作 鶴金板 ①    『ヘマムシ入道昔話』表紙「豊国画」国直画 山東京伝作 泉市板 ①    『春相撲花之錦絵』 表紙「豊国画」前編 国直画 後編 国丸画 山東京伝作 蔦重板 ①    ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化十年刊)    歌川豊国画『雙蝶記』一陽齋歌川豊國画 醒醒齋山東京傳作〔江戸読本〕    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文化十年刊)    歌川豊国画『一盃綺言』一冊 歌川豊国画 式亭三馬作 石渡利助板    奥付「江戸 戯作者 式亭三馬作/浮世絵師 歌川豊国画」    ◯「文化十酉年 春三月狂言 森田座絵看板」   (『花競浮名読販』(国丸画 欣堂作 文政五年刊)口絵)   〝岩井杜若 木挽町森田座において浜の真砂に二番目にお染久松の七役大入大あたりなり(中略)此時の    三尺は哥川豊国子の筆なり〟    「春三月狂言 森田座絵看板」(国書データベース)〈一圓斎国丸模写〉  ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉    ☆ 文化十一年(1814)七月頃より病気 八月上旬全快    ◯「合巻年表」(文化十一年刊)    歌川豊国画    『磯馴松金糸腰簑』「歌川豊国画」山東京伝作 丸甚板  ①    『黄金花男道成寺』 歌川豊国画 山東京伝作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『人面樹鼻の親玉』「国満画」口絵「豊国画」桜川慈悲成作 板元未詳 ①    『己鳴鐘男道成寺』「豊国画」  馬琴作  泉市板 ⑤    『隅田春梅若詣』  歌川豊国画 山東京伝作 鶴喜板(注:日本小説年表による)     〈板元は文化十一年新刊目録による〉    『石枕春宵抄』  「豊国画」 山東京伝作 泉市板 ①    『濡燕子宿傘』  「豊国画」 山東京伝作 鶴金・蔦重板 ①    ◯『女達磨之由来文法語』(合巻・山東京伝作・歌川豊国画・文化十二年刊)(国書データベース)   (巻末 作者京伝の口上)   〝歌川豊国義、当戌の七月ごろびやうきに御座候ところ、さつそくくわいき仕り、当かほみせやくしや一    まいゑ并にゑそうしるい、あまたゑがき出板仕候〟〈下掲文化十二年に画像あり〉     『朝日櫛廓曙』(合巻・山東京山作・勝川春亭画・鶴屋金助板・文化十二年刊)(国書データベース)    〈後編五丁ウラに歌川豊国の消息を伝える山東京山の文あり〉   〝みなさま御ひいきあつき哥川とよ国義、久くびやうきにてひきこみをり候へども、当戌の八月上旬より    しゆつきん仕、ます/\まめそく才にて罷在候所、ひさ/\にしきゑるい相休居候ゆゑにや、故人にも    相なり候やうのうわさいたし、しゆつきんの後したゝめいだし候にしきゑるいは、二代目とよ国じやな    どゝのうわさは、あとかたもなき事に御ざ候〟    〈山東京伝・京山によると、豊国は「戌」の文化11年(1814)7月頃より病気になったが、8月上旬には全快なって仕事     に復帰したようだ。しかしこの間全く絵を画かなかったために、死亡との噂が立ったり、また復帰後も、売り出さ     れた錦絵類をめぐって、二代目豊国の仕業などという噂も飛んだらしい〉    ☆ 文化十二年(1815)  ◯「京伝像」「豊国像」(合巻『女達磨之由来文法語』巻末 歌川豊国画 山東京伝作 鶴金板 文化十二年刊)   〝〔京伝像豊国画〕はゞかりながら口上を申上ます 歌川豊国儀 当戌の七月ごろ病気に御座候ところ    さつそくくわいき仕り 当かほみせやくしや一まいゑ並にゑさうしるい あまたゑがき出板仕候 相    かはらずすゑ長く万々歳も御ひいきを願上げ奉り候 ついでながら わたくし儀並におとゝ 京山儀    もいく久しく御ひいきをひとへに/\に願上げ奉り候〔豊国像 京伝画〕〟〈戌は文化十一年〉    京伝像 豊国画 豊国像 京伝画 『女達磨之由来文法語』巻末(国書データベース)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十二年)   ①「豊国画」(市川団十郎似顔絵)18/68〈十二ヶ月の大小と彼岸等雑節の日付一覧〉    「のみてうなごんすみかね」狂歌賛「七十三翁桃栗山人於談洲楼著述」戯文    〈鑿釿言墨金(曲尺)は談洲楼・烏亭焉馬・桃栗山人の狂名〉    ◯「絵本年表」(文化十二年刊)    歌川豊国画『四天王大坂入』一冊 歌川豊国画 三文舎自休著 鶴屋金助板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(文化十二年刊)    歌川豊国画    『女達磨之由来文法語』「歌川豊国画」山東京伝作  鶴金板 ①    (作者・京伝の口上)    〝歌川豊国義、当戌の七月ごろびやうきに御座候ところ、さつそくくわいき仕り、当かほみせやくしや     一まいゑ并にゑそうしるい、あまたゑがき出板仕候〟    『夏がふみ開て水無月』「豊国画」  山東京山作  丸甚板 ⑤    『比翼紋紋目黒色揚』 「歌川豊国画」曲亭馬琴作  泉市板 ⑤    『冬編笠由縁月影』  「歌川国直画」表紙「豊国画」山東京山 丸甚板 ⑤    『蓑屋傘屋花雪降』   歌川豊国画 東西庵南北作 泉市板 ①〈書誌による〉    『娘清玄振袖日記』  「豊国画」  山東京伝作  西与板 ②    『絵看板子持山姥』  「豊国画」  山東京伝作  丸甚板 ①    ◯「日本古典籍総合目録」(文化十二年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画『馬鹿多訳合鑑』一冊 歌川豊国画 東里山人作    ◯『六々集』〔南畝〕②225(文化十二年二月詠)  〝岩井杜若がうつし絵姫のわざおぎをよめる   豊国がうつし絵姫のうつし画も及ばぬ筆の毛延寿哉〟    〈市村座正月狂言「増補富士見西行」より岩井半四郎の写絵姫役〉    ◯『街談文々集要』p351(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化十二年」記事「春狂言夷曲」)   〝市村座当春狂言『増補富士見西行』ト云、浄瑠璃狂言を興行す、吉例の曽我をやすみしハ、如何なる事    迚、江戸中にていろ/\の評ばんせし也、其節、寝惚先生、      百年も寿狂言に曽我なくバ初鰹をもくふな江戸ッ子      そがなくバよからんといふ狂言ハかの給金のかたむらの所為      何事の延喜の金歟京なまり曽我やめてしろ金の猫      嵐して三五の月や梅白し其きさらぎの富士見西行      後藤縫殿助 蜀山人        写絵姫              岩井半四郎      西行も写し絵姫の富士額ひあふげば高きおやま開山        西行法師             嵐三五郎      此春はたび/\雪を増補して山と入来るふじ見西行        豊国が画ける杜若の写絵姫ニ      豊国が写絵姫のうつしゑも及ばぬ筆の毛延寿かな        市川団十郎より、先生へ素焼の土瓶ヲ贈ル      座頭のすやきの土瓶土間桟鋪われぬ/\も何もかまわぬ        松本幸四郎の古手や八郎兵衛      ふる手屋の古きをもつて新らしき大極上の黒い評ばん        蜀山翁へ板東秀佳のもとより、酢を贈しとき      狂言を三津/\おして大入の酢ハ板東一のあじハひ      三津といふ名ハ日本の三ヶ津京大坂にまさる板東〟    〈「豊国が写絵姫のうつしゑも及ばぬ筆の毛延寿かな」の狂歌について、「杜若」は岩井半四郎。「毛延寿」は前漢、     後宮女性の似顔絵画家。彼は、古代中国の四大美人のひとりとされる王昭君を、自分に賄賂をさし出さないという理     由で、わざと醜女に画いた。それがために、王昭君は、漢民族の女性を妻にと申し出た匈奴の嫁として、皇帝より指     名され、西域に送られることになった。そのきっかけをつくったのがこの毛延寿。ただこの狂歌、豊国の岩井半四郎     の似顔絵と後宮の似顔絵師・毛延寿の関係がよく分からない〉
    『増補富士見西行』岩井半四郎・嵐三五郎・市川団十郎初代豊国画      (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ◯『七々集』〔南畝〕②252(文化十二年八月詠)  〝ことしの春中村芝翫のわざをぎに其九重彩色桜といふ九変化のかたかきたる豊国が絵に、四季のうたよ    めと芝翫のもとより乞けるに、よみてつかはしける  春 文使 老女の花見 酒屋調市  けそう文つかひは来り酒かふて頭の雪の花やながめん  夏 雨乞小町 雷さみせんをひく  雨乞の空にさみせんなる神のとヾろとヾろとてんつてんてん   秋 やりもち奴 月の辻君  辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん 冬 江口の君 石橋  冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石橋の獅子〟    〈中村座春三月興行大切所作事、中村歌右衛門の「其九絵(ママ)彩色桜」(烏亭焉馬著『江戸芝居年代記』)における九     変化。南畝は歌舞伎好きだが、上方役者の歌右衛門を贔屓する事はなかった。その歌右衛門から狂歌の依頼、心中は     いかに。しかし九役を巧みに詠み込んだのはさすがである〉    ◯『物之本江戸作者部類』p85(曲亭馬琴著・天保五年成立)   (「赤本作者部」「仙鶴堂」鶴屋喜右衛門の項)   〝文化十二三年の比、画工豊国が淨瑠璃本なる千本桜の趣を、当年江戸俳優の肖面に画きしを、鶴屋が印    行したれども、只一九が序あるのみにて、読べき所の些もなければとて、絶て売れざりければ、仙鶴堂    則(ち)馬琴に乞ふて、画に文を添まく欲りせり。馬琴已ことを得ず、千本桜の趣をその画に合し畧述し    て、僅に責を塞ぎたれども、こは本意にあらざりければ、仙鶴堂の代作にして、只その序文にのみ自分    の名号を見(アラハのルビ)しけり。かくて板をはぎ合し、書画具足の合卷冊子にして、戊寅の春再刷し、発    行しけるに、こたびは大く世好に称ひて、売れたること数千に及びしといふ。当時豊国が画きたる合卷    の臭草紙多く時好に称ふをもて、作者と肩を比るを、なほ飽ぬ心地して、いでや吾画をのみも売らせて、    その効をあらはさんとて、文なき絵草紙を書賈等に薦めて、遂に印発したれとも、只画のみにて文なき    冊子は、婦幼もすさめざりければ、豊国是を耻たりけん、又さる絵草紙を画かざりけり〟    〈「千本桜」を趣向取りした合巻の再刷とは『義経千本桜』(曲亭馬琴作・一陽斎豊国画)であろう。ただ「国書基本     DB」は刊年を文政二年(己卯)とし、馬琴の記事「戊寅(文化十五年)」とは一年のずれがある。『改訂日本小説     年表』も文政二年刊とし〝読本と合巻の折衷本〟と解説する〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十三年)   ⑧「豊国画」Ⅴ-p102「団十郎尽くめの焉馬の大小暦」(市川団十郎似顔絵)     標題「丙子朔日相生町家住松夷歌寿 大小 七十四翁 桃栗山人於談洲楼著述」     「のみてうなごんすみかね」狂歌賛     〈豊国画く跳ね鼠の描線に小の月。戯文で十二ヶ月の大小と彼岸等雑節の日付を表す〉    ◯「合巻年表」(文化十三年刊)    歌川豊国画    『雙蝶々名花草紙』 歌川豊国画 東西庵南北作 泉市板 ①〈書誌による〉     (バークレー東亜図書本「文化13」。①の成立年は文化十二年とあり)    『十六利勘略縁起』 歌川豊国画 山東京伝作  丸甚板 ①〈書誌による〉     (寛政十一年刊黄表紙、山東京伝作・北尾重政画『京伝主十六利鑑』の改題本)    『石枕春宵抄』  「豊国画」山東京伝作 泉市板 ②    『琴声美人伝』  「豊国画」山東京伝作 丸甚板 ①    『同八百屋娘姉妹』表紙「豊国画」歌川美丸画 緑亭可山作 鶴金板 ②    ◯「読本年表」(文化十三年刊)    歌川豊国画『再栄花川譚』歌川豊国画 曲亭馬琴作〔目録DB〕    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥132(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝(山東京伝、文化十三年九月七日)四更の比竟に没しぬ、時に年五十六、(中略)明日未の時、両国橋    辺回向院無縁寺に葬送す、法名智誉京伝信士【イ法名弁誉知海】この日柩を送るもの、蜀山人、狂歌堂    真顔、静廬、針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、    凡する者百余人なり〟    ◯『馬琴書翰集成』⑥232 文化十三年十二月二十二日 馬琴宛・歌川豊国(第六巻・書翰番号-来25)    (貼紙)   〝「画工歌川豊国中橋上槇町新道。文化丙子来翰」〟    (表書「馬琴大人 当用豊国」)   〝段々月迫候。御事あふく抔と御さつし申候。扨又、昨夕方絹地三枚下り申候。御受取可被下候。色々御    はなしも是有候へ共、いづれ近日参上致申上候。まづは用じのミ、早々頓首 極月廿二日〟    〈文化丙子は同十三年〉    ☆ 文化十四年(1817)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化十四年)   ①「豊国画小うつし」(市川団十郎似顔絵)19/68    「のみてうなごんすみかね」狂歌賛「桃栗山人於談洲楼著述」戯文    〈十二ヶ月の大小と彼岸等雑節の日付一覧。右腕に小の月〉    ◯「絵本年表」(文化十四年刊)    歌川豊国画『役者似顔早稽古』一冊 豊国画 十返舎一九序 鶴屋喜右衛門板〔漆山年表〕    ◯「合巻年表」(文化十四年刊)    歌川豊国画    『信田妻昔絵草紙』 歌川豊国画 山東京伝作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『気替而戯作問答』「豊国画」  山東京伝作 森治板 ①    『袖之梅月土手節』「豊国画」  山東京伝作 鶴金板 ①    『達模様判官贔屓』「豊国画」  曲亭馬琴作 鶴喜板 ②    『大磯俄練物』  「豊国画」  山東京伝作 山口板 ①    『雪明常盤松』  「豊国画」見返し「一陽斎豊国」十返舎一九作 山口板 ②    ◯「日本古典籍総合目録」(文化十四年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画『大千世界楽屋探』三冊 歌川豊国画 式亭三馬作 鶴屋金助板    ◯『山東京伝一代記』〔続燕石〕②425(山東京山著・成立年未詳)  (文化十四年九月七日記事)   “九月七日、京伝一周忌に当日を以て、其寡嫂百合、画工豊国に、亡父京伝の肖像を画しめて製装す。此    画を飾り、是を祭る、且、亡夫の旧友数人を招きて饗応す、豊国画像次に出す”    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥136(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝(文化十四年)秋九月、其寡嫂百合、画工豊国に亡夫京伝の肖像を画しめて則表装す。是月七日一周忌    に当るをもて、画像を掲てこれを祭り、且亡夫の旧友数人を招て饗膳す、百合言語譫々、応答錯誤せり、    来客皆嗟嘆す〟    ☆ 文化十四年~十五年(1817~18)
 ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「中橋 浮世画」〝豊国 歌川 号一陽斎 上槙町 倉橋熊吉〟    ☆ 文化年間(1804~1817)    ◯「日本古典籍総合目録」(文化年間刊)   ◇絵本    歌川豊国画『初代豊国錦絵帖』一帖 豊国画 風流役者地顔五節句・役者十二月・忠臣蔵十一段続   ◇滑稽本(文化年間刊)    歌川豊国画『穴手本忠臣裏皮肉論』二冊 歌川豊国画 一筆庵主人(渓斎英泉)作    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(文化頃刊)    豊国画『落噺常々草』桜川慈悲成作    ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)     ◯「絵本年表」(文政元年刊)    歌川豊国画    『以代美満寿』一冊 立川談洲楼焉馬序〔漆山年表〕      大和画元祖図鳥居清元図 五渡亭国貞画 武清筆 法橋玉山 春亭画 夸斎 秋艃筆      かつしか戴一筆 清信筆一円斎国丸縮写 国安画 豊国画    <この年 見世物 菊細工(細工人 仲登女 華喜知・市川団十郎 瀬川菊之丞 暫)両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「菊の細工物 両国広小路ニおゐて 市川団十郎 瀬川菊之丞 暫    二ッの人形大じかけ まわり道具早かわり 此外品々つくり物御座候(菊細工人)巣鴨 仲登女 華喜知     大入の山をなして 江戸中の袖の香 つたふ両国の菊 山東京山即興」    大判錦絵 署名「求応じて 豊国画」版元不明    ◯『馬琴書翰集成』①107 文政元年十二月十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-19)   〝不佞ハ例の大小も不仕候。然処、下谷辺の歴々方、御慰ミに被成候御自画のすり物へ、拙句を加入仕候    様被為命候。此貴人、豊国にうき世絵御学び故、豊国より此義申通じられ、豊国代句もまけにしてくれ、    そして只今直ニ認候様被申候。まづ御下画を拝見いたし候処、窓の内外に美女二人立り、窓の下に梅の    花さけり。よりて、彼使をしばしまたせおき、      元日はをな子の多きちまた哉  豊国代句      梅一輪窓のひたひや寿陽粧   馬琴    と、あからさまに認メ差上申候。只言下に吐出し候と申ばかり、一向をかしからず候〟    〈この下谷辺の歴々で、豊国に浮世絵を習っている貴人とは誰であろうか。三田村鳶魚の「歌川豊国の娘」によると、     豊国の娘きんが奉公に出た下谷御成道の石川家当主で六万石の伊勢亀山城主、石川主殿頭総佐のようである。〝その     殿様のお道楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号さえ持って     おられた〟とある。(『三田村鳶魚全集』第十七巻所収)通常ならこの手の大小画に揮毫はしないたのだが、相手が     歴々の画とあっては馬琴もさすがに断り切れなかったのである〉    ◯『甲子夜話5』巻之八十六 p62(松浦静山著・文政二年(1819)記)    (文政元年十月七日の大火に焼失した松浦家所蔵の品目)   〝戯画 一幅    大幅なり。此画は十余年前浴恩園の筵中、その夫人〔加藤氏〕予〈松浦静山〉が先年の旧事どもを尋ら    れて、君嚮(サキ)に豊雛と云へる歌妓を召したること有りと聞く。委く其状を語り給へ。予笑て、何(イカ)    にも言の如し。過し年江都在勤の御允を蒙し頃なりし。今の侍従津軽越州、柳班にて有りしとき、備前    支侯前田信州〔退老して号清閑斎〕と屢々相会して、席の事、御番所のことなど議論し、談畢れば時と    してその少婦を呼て、宴興を助けたりと答へぬ。然るに他日又園の集会に夫人一幀を携(タヅサヘ)〔風流    画工歌川豊国の所描〕、予に示て曰く。是先年侯家の図なりと。予展(ノベ)て視るに、上に予が青年の    肖図し、妾婢数員左右にあり、下に豊雛が姿を描けり。予黙て拝す。時に某閣老坐にあり、戯(タハムレ)に    言ふ。此図珍重せられんこと推察す。速に裱褙を加へられよと。予時に既に隠退。固より憚る所なし。    迺(スナハチ)諾して退き、遂に裱褙し、他日前客の会集ある時を竢(マチ)て、往て宴中にこれを披呈す。坐    席皆嬉観笑楽す。その前、予外函を造り、銘に張九齢が詩を題す。曰      宿昔青雲志 蹉跎白髪年、誰知明鏡裏 形影自相憐    〔河三亥に銘じて書せしむ〕蓋(ケダシ)窃(ヒソカ)に諷意を寓せり。主侯視て粛然たり。思ふに、予が在職    の頃は、侯も亦春秋鼎盛なりしが、旧事に感ぜられしや。是一時の戯と雖ども、灰失するは憾なきに非    ず〟    〈「浴恩園」は松平定信自ら造成した庭園。「豊雛」は富本豊雛。難波屋おきた、高島屋おひさと共に寛政の三美人と     称えられた芸者である。歌麿の錦絵で知られるが、初代豊国もその美貌を肉筆で写生していたのである。寛政四、五     年頃の作画であろうが、惜しいことに、文政元年、灰燼に帰したのである。箱書の「河三亥」は書家の市川米庵〉    ☆ 文政二年(1819)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文政二年)   ①「小うつし豊国画」(市川団十郎似顔絵)20/68〈鏡の裏に小の月〉    「のみてうなごんすみかね」狂歌賛「行年七十七翁桃栗山人於談洲楼著述」戯文    ◯「合巻年表」(文政二年刊)    歌川豊国画    『隅田春芸者容気』「豊国画」   山東京山作 西与板 ⑤    『春の海月玉取』 「豊国画」   曲亭馬琴作 鶴喜板 ④    『義経千本桜』  「一陽斎豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板 ⑤    『金草鞋』十二編 表紙「歌川豊国画」観雪斎月麿画 十返舎一九作 森治板 ⑤>    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文政二年刊)    歌川豊国画『義経千本櫻』歌川豊國画 曲亭馬琴作    ◯「歌川豊国 国丸像」(合巻『杉酒屋妹背山々』一圓斎国丸画 葛葉山人作 西村屋与八板 文政二年刊)    豊国像 国丸画 国丸像 国虎画 『杉酒屋妹背山々』巻末(国書データベース)     (二組の鏡餅が四段の棚に置かれ、その敷紙に豊国門人の名前あり。上段から)    歌川国長 歌川国光/歌川国貞 歌川国丸/歌川国直 歌川国虎/歌川国瀧 歌川勝之助  ☆ 文政三年(1820)    ◯「合巻年表」(文政三年刊)    歌川豊国画    『紫服紗茶人形気』 歌川豊国画 山東京伝作 板元未詳(注:日本小説年表による) ①    『信田妋白猿牽』 「歌川豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板  ⑤    『安達原穐錦木』 「豊国画」  曲亭馬琴作 山本板  ④    『大江山酒顚童子談』表紙「豊国画」国直画 十返舎一九 鶴喜板 ⑤  ☆ 文政四年(1821)    ◯「合巻年表」(文政四年刊)    歌川豊国画    『宮戸河三社網船』  「歌川豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板  ⑤④    『浮世形六枚屛風』  「歌川豊国画」柳亭種彦作 西与板  ⑤    『鶴子宝常磐松枝』   歌川豊国画 市川新車作 丸甚板  ①〈書誌による〉    『封文恵方吉書始』   歌川豊国画 山東京山作 板元未詳 ①〈書誌による〉    『菊累配羽觴』    「豊国画」  東里山人作 泉市板  ①    『六三之文車』    「豊国画」  曲亭馬琴作 泉市板  ①    『冨士浅間雪の曙』表紙「歌川豊国画」勝川春好画 月光亭笑寿作 泉市板 ⑤     『源氏山小金軍配』表紙「豊国画」  春扇画   月光亭笑寿作 鶴喜板 ⑤④     『花柳街寄恋白浪』表紙「豊国画」  渓斎英泉画 一筆庵可候作 鶴喜板 ⑤    『女名多右衛門』 表紙「歌川豊国画」勝川春好画 東西庵南北作 泉市板 ④     『哀也女刈萱』  表紙「豊国画」春扇改勝川春好画 東里山人作 泉市板 ④    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、豊国号一陽斎、芝神明三島町ノ産、俗称熊吉、委クハ別ニ記ス。門人アマタアリ〟    ☆ 文政五年(1822)    ◯「合巻年表」(文政五年刊)    歌川豊国画    『浮世一休花街問答』「歌川豊国画」柳亭種彦作 西与板 ④    『女容鏡七人化粧』  歌川豊国画 式亭三馬作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『月夜吉阿玉之池』 「歌川豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板  ④⑤    『瑠璃紫江戸朝顔』 「歌川豊国画」市川三升作 山口板 ④    『花角力息女大全』 「画工豊国」 東西庵南北作 丸甚板 ⑤    『家桜継穂鉢植』 上「歌川豊国画」山東京伝作 下「渓斎英泉画」山東京山補 泉市板 ⑤     〈山東京伝の絶筆。文化十三年、京伝は前編三巻まで執筆して死亡、そのあと山東京山が後編を補綴してなる〉    『庭教塵塚物語』  「一陽斎豊国画」山東京山作 板元未詳①〈画像は弘化四年版〉    『木曽穐錦籏揚』  「歌川豊国画」十返舎一九作 山本板 ⑤    『傾城三極子』    歌川豊国画 東西庵南北作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『契情吾妻鏡』    歌川豊国画 式亭三馬作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『風光白籏栄』    歌川豊国画 十返舎一九作 山口板 (注:日本小説年表による)     〈『木曽穐錦籏揚』の後編。板元は文政5年新刊目録による〉〉    『弘智法印岩阪廼松』表紙「豊国画」独醒舎国直画 墨川亭雪麻呂作 山本板 ⑤    『古今雛二対鴛鴦』 表紙「豊国画」歌川国直・北尾美丸画 晋米斎玉粒作 山口板 ④    『士農工商梅咲分』 表紙「豊国画」春好画   月光亭笑寿作 鶴喜板 ①    『恵方土産梅鉢植』 表紙「豊国画」歌川国丸画 欣堂間人作  鶴喜板 ①    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政五年刊)    歌川豊国画    『逢夜鴈之声』色摺 半紙本 三冊 ぴゐはふ/\の茂右衛門(二世烏亭焉馬)作 文政五年     (白倉注「豊国の代表作であるばかりか、歌川派の春画・艶本の封切となった記念碑的な艶本」)    ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政六年刊)    歌川豊国画『轡むし』一冊 応需豊国 九童亀岳(表紙)癸未文月             (文化四年丁卯七月十七日、俗名大谷徳次追善)    ◯「合巻年表」(文政六年刊)    歌川豊国画    『七草四郎傾城大寄』歌川豊国画 山東京山作 丸甚板(注:日本小説年表による) ①     〈板元は文政6年新刊目録による〉    『一番太鼓春の曙』「歌川豊国画」市川団十郎作(五柳亭徳升大作)西宮新板 ⑤④    『女夫織玉川晒布』「豊国画」  曲亭馬琴作 泉市・西与合板 ⑤④    『膏油橋河原祭文』「豊国画」  曲亭馬琴作 鶴喜板 ⑤④    『諸時雨紅葉合傘』「歌川豊国画」曲亭馬琴作 泉市板 ①    『比翼紋松鶴賀』 「歌川豊国画」柳亭種彦作 鶴喜板 ⑤    『重妻岩藤模様』 「歌川豊国画」山東京山作 丸甚板 ⑤④    『操競三人女』  「歌川豊国画」柳亭種彦作 山本板 ⑤    『仇縁誓紙治』  「歌川豊国画」扇舎梅幸作 花笠文京代作 丸甚板 ④    『昔語夜船始』   歌川豊国画 山東京山作 板元未詳(注:日本小説年表による) ①    ◯「艶本年表」(文政六年刊)    歌川豊国画    『絵本開中鏡』色摺 半紙本 三冊 文政六年〔日文研・艶本〕〔白倉〕           序「文政六未とし 猿猴坊紅之月成」猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)著     (白倉注「再摺本では、序文を「好亭のあるじ」に差しかえている」)    ◯『馬琴書翰集成』①138 文政六年正月九日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-23)   〝(文政五年、馬琴は合巻を休筆しようとするが、板元に口説き落とされた長子・宗伯の強い勧めもあっ    て執筆を決意する)無拠九月廿八日より、一向に考不申候而、合巻草稿に取かゝり、十二月中迄ニ、六    冊物合巻弐部、四十丁物二冊、十五丁物三冊、已上板元四軒へ認遣し候処、六冊物合巻弐部ハ、十二月    上旬ニ製本出来、うり出し申候。四十丁物ハ、板元風邪ニテ打臥、画工豊国も腫物ニて禁筆の時節故、    出板いたしかね、当秋出板のつもりニ成り候。十五丁物ハ前編のミ故、これも当春、跡十五丁認遣し、    当冬出板のつもりニ御座候〟    〈豊国が腫れ物で禁筆したため出版延期になった「四十丁物」の合巻とは何であろうか〉    ☆ 文政七年(1821)    ◯「合巻年表」(文政七年刊)    歌川豊国画    『殺生石後日怪談』初編 上「歌川豊国画」下 歌川国貞画 曲亭馬琴作 山口板 ⑤    『坂東太郎強盗譚』初編「歌川豊国画」 式亭三馬作  西宮新板 ①    『若衆振古跡鎗梅』  「歌川豊国画」 山東京山作  今利屋板 ⑤    『風俗女三国志』   「一陽斎豊国画」七代目三升作 山本板  ⑤    『襲褄辻花染』    「豊国画」   曲亭馬琴作  西与板  ⑤    『初便郭言伝』    「歌川豊国画」 尾上梅幸作・花笠文京代作 丸甚板 ①    『吉事正夢』     「豊国画」   姥尉輔作   今利屋板 ①    『籬節四季替歌』 表紙「豊国画」哥川国丸画 山東京山 鶴喜板 ⑤    ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文政七年刊)    歌川豊国画『殺生石後日恠談子』初編 歌川豊國・國貞画    ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(文政七年刊)    歌川豊国画『幾夜物語』色摺 半紙本 一冊 元来庵介米編 円寿堂丸屋甚八板    ☆ 文政八年(1825)(正月月七日逝去・五十七歳)    ◯「合巻年表」(文政八年刊)    歌川豊国画    『成田山御手の綱五郎』 「一陽斎豊国画」鶴屋南北門葉亀東作 今利屋板 ⑤    『坂東太郎強盗譚』中下 「歌川豊国画」 式亭三馬作 西宮新板 ①    『富士太郎廓初夢』前編 「豊国画」後編「美丸画」表紙「国貞画」山東庵京山作 丸甚板 ⑤     (備考「本書の画工としては三人(前編豊国、後編美丸、表紙国貞)が携わっているが、当時、豊国は      病気により絵筆が採れない状態にあったためと思われる」)    『仮名手本忠臣蔵』   「弌陽斎豊国画」表紙 国貞 普米斎玉粒 山本板 ⑤    『傾城水滸伝』初編   「豊国画」曲亭馬琴作 鶴喜板 ①    『梅桜対姉妹』     「豊国画」曲亭馬琴作 泉市板 ①    『会席料理世界吉原』表紙「豊国画」 国安画   市川三升(代作五柳亭徳升)岩戸板  ⑤    『女風俗吾妻鑑』  表紙「歌川豊国」歌川豊重画 市川三升(代作五柳亭徳升)今利屋板 ⑤    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政八年刊)    歌川豊国画『三ツ組盃』色摺 半紙本 三冊 猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 文政八年     (白倉注「上巻に折り込まれた大判「大焦◎(ネツ)開地獄」の珍図で知られている。改題再摺本に『春情秘女始』ありか」)    ◯『増訂武江年表』2p75(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文政八年」)   〝正月七日、浮世絵師歌川豊国死す(五十七歳。聖坂功運寺に葬す。称熊吉、一陽斎と号す。歌川豊春の    門人にして一家をなし、享和以来世に行はれたり。門人数多有り。柳島法性寺の碑蔭に見えたり)。     筠庭云ふ、豊国はじめ一向はやらず、芝辺に住みける故赤羽根金比羅に立願日参し、満限の日何にか     有りけん、絵を書きて、神明前の草子屋泉市が所に行きて、これを錦絵にして賜へ、写料は受不申と     頼みしが、不便におもひて板本これを刊行せしに、相応に售れたりしかば、随分出精して書かれよと     て、次々に絵を出し、それより漸々に行はれたり。この故にはやり盛りても、泉市が方をば粗略にせ     ざりしとなり。流行(ハヤのルビ)りし頃は中橋通横町に三笑亭可楽が隣家に居れり〟    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p349    (文政八年正月七日)   〝浮世絵師歌川豊国死、五十七、三田聖坂巧雲寺ニ葬す。称熊吉、一陽斎と号す、哥川豊春門人にして一    家をなし、享和以来世に行れたり、門人数多有之、柳島法性寺の碑陰に見へたり〟    ◯「歌川豊国死絵」五渡貞国貞画   〝文政八年 正月    実彩麗毫信士 三田聖坂功雲寺    俗名 一陽斎 歌川豊国 行年五十七才    この月七日、師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座                       五渡亭国貞
   歌川豊国死絵 五渡亭国貞画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)    ◯『続墓所一覧』写本 源氏楼若紫編 成立年未詳   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊国墓 辞世 七草の粥にも入れや仏の坐 聖阪 功運寺〟  ☆ 文政九年(1826)    ◯「合巻年表」(文政九年刊)    歌川豊国画    『伊達模様雲稲妻』歌川豊国画 山東京山作 今利屋板(注:日本小説年表による)     〈板元は文政9年新刊目録による〉    『笹色猪口暦手』前編「故豊国画」後編 歌川豊国(二世)画 柳亭種彦作 西与板 ⑤      (備考:序に「此冊子文政甲申冬十月前編三冊草稿なりて画る者/故豊国なりて酉秋九月後編の稿を脱し      て今の豊国が筆に継」とあり)    『尾上松緑百物語』表紙「弌陽斎豊国画」口絵「此所一丁/前の豊国画」尾上梅幸作 鶴喜板 ⑤              歌川豊国(二世)画    ◯『噺本大系』巻十五「所収書目解題」(文政九年刊)    歌川豊国画 『ますおとし』奥付「歌川豊国画」 林屋正蔵作 西村屋板    ◯「艶本年表」(文政九年刊)    歌川豊国画    『おつもり盞』色摺 半紙本 三冊 歌川豊国(上巻)・国虎(中下巻)画 文政九年〔日文研・艶本〕〔白倉〕           序「文政九のとしむつみ月 蓬莱山の麓に永年を送る隠人 猿猴坊月成著」     (白倉注「豊国没(文政八年、一八二五)後、仕掛りの作品を国虎が受け継いだもの。下巻の書入れに「故人豊国云々」      の文字が見える」)    ◯『尾上松緑百物語』(尾上梅幸作(花笠文京代作) 二世歌川豊国画 鶴喜板 文政九年刊)   (口絵 肖像画)〈豊国筆最後の合巻作品と思われる〉        肖像画 役者・狂言作者「此所一丁 前の豊国画」(国書データベース)    (肖像 花笠魯助(文京)・故尾上松緑(初代)・岩井半四郎(五代)・尾上菊五郎(三代)・市川団十郎(七代)  ◯『笹色猪口暦手』序(合巻・柳亭種彦作・歌川豊国画・文政九年刊)   (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)   〝此冊子文政甲申冬十月前編三冊草稿なりて画る者/故豊国なり、乙酉秋九月後編の稿を脱して、今の豊    国が筆に継ぐ     文政九年丙戌春発販  柳亭種彦誌〟    〈甲申は文政七年、その十月に草稿成った前編三冊分の挿絵は初代豊国、乙酉は同八年、その九月に草稿成った後編は     現在の豊国(二代目)。前編の巻末に「故豊国」とあり〉  ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「日本古典籍総合目録」(文政年間刊)   ◇人情本    歌川豊国画『閑談春の鶯』豊国画 墨川亭雪麿作    ☆ 刊年未詳    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    歌川豊国画    『江戸名所百人美女』一帖 歌川豊国画    『観世音霊験記』一帖 歌川豊国・歌川広重画    『吾妻げんじ』 一冊 歌川豊国・歌川国貞画    『昔の草双紙』 一冊 歌川豊国画    『浮世五色合』    歌川豊国画    『狂画』 一冊 歌川豊国画 山東京伝作      『若紫』 一冊 歌川豊国画 千種庵霜解他詠          (注記「漆山天童『絵本年表』は寛政12年1月刊とする」)    「今やう娘七小町/そとは小まち」豊国画 版元印あり    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    歌川豊国初世画    『梅好/閨の移り香』三冊 豊国画(注記「艶本目録による」)    『女護が島絵巻』一軸 一陽斎豊国(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『画本帆柱丸』 三冊 歌川豊国画(注記「艶本目録による」)    『天野浮橋』三冊 豊国画 月成編(注記「艶本目録による」)    初代豊国画?(「江戸時代の変態趣味」山崎麓・『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)    『会本執心蔵』春本  ◯『本之話』三村竹清著(『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝団十郎の秘画    或人の蔵書に、豊国が団十郎の秘事を秘画にしたる稿本ありて、然も種彦自筆の跋あり、それを読めば、    団十郎に泣つかれて刊行せざりしものゝ由。又聞き故、何といふ外題か、はきとしたる事はしらず〟    〈この豊国が初代だとするとこの団十郎は七代目か〉    ☆ 没後資料    ☆ 文政十年(1827)    ◯「合巻年表」〔早稲田〕(文政十年刊)    歌川国貞画    『東男連理緒』見返し「五渡亭国貞画」十返舎一九作・総州屋板           摺付表紙「応需豊国画」    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十年刊)    歌川豊国画    『春夏秋冬/色の詠』色摺 大本 二冊 好亭序・作 豊国・国貞画 文政十年     (白倉注「師豊国の遺作を国貞が引き継いだものだろう」)  ☆ 文政十一年(1828)    ◯「合巻年表」〔東大〕(文政十一年刊)    歌川豊国画(故人)    『塩汲車輪廻仇討』表紙「外題 故人豊国画」歌川国安画 恋川春町(二世)作 泉市板 ⑤    ◯『増補浮世絵類考』文政十一年八月(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「初代歌川豊国」の項)   「豊国筆塚碑」碑文成る(文政十一年八月記)
   豊国筆塚碑    〈碑文は『浮世絵編年史』関場忠武著・明治24年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)も参照した〉  ☆ 文政~天保  ◯「【江戸】戯作画工【次第不同】新作者附」東邑閣 辰正月〈文政3年・天保3年か〉   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (番付中央 行事・勧進元に相当するところ)   〝梅鉢紋 葛飾北斎 飛田財蔵 歌川豊国〟   (番付上段 東方)    〝新画工作者之部      画工 歌川豊国  同  蹄斎北馬  同  盈斎北岱  同  歌川国貞  作者 曲亭馬琴     羽栗多輔     画工 北斎◎◎〟    〈刊年等については本HP・Topの「浮世絵師番付」参照のこと〉  ☆ 天保二年(1831)  ◯『今昔虚実録』歌川豊国画 桜川慈悲成作 西与板 天保二年刊(国書データベース)   (口絵 初代歌川豊国似顔 桜川慈悲成肖像)   〝歌川豊国似顔 くまどりは実紅梅のかんのべに 一陽斎にひらく顔見世 故人自作〟   (桜川慈悲成の口上)   〝憚り乍ら此処にて鳥渡(ちょっと)口上の申し上ます こゝに矢の根五郎をあらはしましたるは 御    ぞんじの私兄弟分の故人歌川豊国 茶番狂言の画図に御坐ります 此義は只今の二代目歌川豊国     大江戸御なじみ深き先の豊国同様御ひゐき御取立の御礼 何がなと申しますに寄りまして わたく    し申しますは かげながら親の悦びいさみます 其の似顔と申認めさせ 御礼の為御覧に入れ奉り    ます 猶此上相替らず 今の豊国/\と御引立の程すみからすみまでと角かはらの      古人にかはりて 行年七十才の親父 桜川慈悲成申す〟    ☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③304(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝歌川豊国【寛政、享和、文化、文政中歿ス】     俗称熊吉、居始芝三島町、芳町、堀江町、上槇町川岸、油座住ス、号一陽斎、江戸芝三島ノ産、人形     師ヲ業トスル人ノ男    始め、豊春の門人なり、後、英一蝶の画風を学び、狩野家の筆意を旨とす、浮世絵は、玉山、九徳斎が    画法を慕ひ、一家の筆法をなす、豊広と一時行る、当世の風俗を写す事に妙を得たり、豊国の画の始め    ての板元は、神明前問屋和泉屋市兵衛也、泉市と云う、役者切画也、美人画并役者似顔、此人より行る、    中興の祖と云べし、草双紙、合巻、読本、錦画、数百部世にもてはやせり、一流の画風を以て江戸に雷    名す、門人夥し、文政中歿す、年五十三〟
   「歌川豊国系譜」      一陽斎筆画本彩色摺     画手本ニ、年玉筆   役者 合鏡  同 此手柏     似顔独稽古      役者 三階興     時世姿   文化、文政の間、此人の似顔画大いに行る、爰に於て豊国筆塚碑【柳島妙見境内ニアリ、門弟ヨリ建之、    山東京山撰文并筆】     或人曰、豊国画ハ、其骨法豊広ニ不及事遠シ、画法劣ルト云ヘドモ、流俗ノ眼ヲヨロコバシムル一妙     ヲ得タリ、戯場流行ノ時ニ逢シモノナリ、後年迄春画ハ不画シガ、歿故二三年前ヨリ、数部ノ春画ヲ     出セリ〟    ☆ 天保六年(1835)
 ◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序)(国会図書館デジタルライブラリー所収)   〝歌川豊国は一男一女なり、女子はかくし子なりければ、生涯父と不通也、男子は彫工に成たるが、放蕩    にて住所不定なり、因て弟子を夫婦養嗣にしたり、これを後の豊国といふ、画はいたく劣れり〟    〈後の豊国とは弟子の豊重。襲名後は本郷豊国と呼ばれた〉    ☆ 天保七年(1836)
 ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(天保七年刊)    歌川豊国画『浮世絵酒屋喜言上戸』三冊 歌川豊国画 鼻山人作 鶴屋喜右衛門他板    ◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)   〝文雅遊客    戯作 京ハシ 山東京山/似顔 アフラサ 哥川豊国    〈初代豊国、京橋の上槙町の油座住。死してなお豊国の役者似顔絵は評判が高かった〉  ☆ 天保八年(1837)
 ◯『馬琴書翰集成』④296 天保八年三月十日 林宇太夫宛(第四巻・書簡番号-85)   〝拙作半紙本上紙摺り合巻 絵草紙    『画本義経千本桜』合巻二冊     是は「千本桜」の狂言を、歌川豊国似がほ画に画き候ものにて、文は「千本ざくら」のままなり。私     かき入れ仕候ものに御座候〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、馬琴作・豊国画の合巻『義経千本桜』は文政二年(1819)刊行〉    ☆ 天保十一年(1840)
 ◯『馬琴書翰集成』⑤201 天保十一年八月二十一日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-56)   〝(『三七全伝南柯夢』文化五年(1808)刊)稿本といん本と御引くらべ被成御覧候処、ほく斎さし画稿    本とは同様ニハ候へども、人物之右ニ有ヲバ左リニ直し、或ハ添もし、へらしも致候。此心じつヲ以云    々被仰示候御猜之趣、少しも無違、流石ニ是ハ君なるかなと甚堪心仕候。小生稿本之通りニ少しも違ず    画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御座候。北さいも筆自由ニ    候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画がゝせ候さし画之稿    本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候。実ニ御推りやうニ相違御    座無候〟    〈六月六日、馬琴は『三七全伝南柯夢』の稿本を殿村篠斎に譲渡していた。篠斎は版本と稿本を比較して、人物の位置     や数が違うことを指摘し、北斎のこの作為に猜疑心を抱いたことを、馬琴に書き送っていたのであろう。作者の稿本     に従わない北斎も相当な天の邪鬼だが、馬琴もしたたかである。北斎のこうしたつむじまがりを計算に入れて、右に     配置したい人物をあらかじめ左に置いて稿本を画いていたのである。もっともこのような両者が長続きするとは思え     ない。画工まかせに出来ない馬琴と我が道をゆく北斎とでは、並び立つことは所詮無理である。文化十年(1813)の     読本『皿皿郷談』が最後になったのもやむを得まい。馬琴によると、自在な技量があって、なおかつ自分の稿本通り     に画いたのは、北尾重政・歌川豊国初代・歌川国貞の三人だけらしい。なおこの頃、馬琴は秘蔵していたかなりの量     の自作稿本を殿村篠斎に譲渡している〉    ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④98(東随舎著・天保十一年序)   〝今は浮世絵さかんにして、金岡にまさりて芝居役者の似顔生写しに書る者多し。勝川(ママ)春信おなじく    春章が類とし、風流なる傾城の写し絵、当世の姿、貴賤男女の遊興の気しき、四季ともに歌麿、北斎な    ど筆意を争ふ。わきて一家の風を成して高名なるは、一陽斎豊国といふもの大名にして、渠よくとふせ    いの人物を書に妙なる筆意にて、世の浮世絵書くものゝ及ぶ所にあらず。其門に国貞が類ひ、其数かぞ    ふるに暇なし〟    ☆ 天保十二年(1841)    ◯『馬琴書翰集成』⑤325 天保十二年十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝(九月十六日、歌川国貞来訪して馬琴の肖像を写す由の記事に続いて)昔年、豊国が京伝没後に肖像ヲ    画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日々面会之熟友なれバ也〟    〈初代豊国の筆による京伝肖像のできばえが良いのは、二人の間に親密な交友があったからだと、馬琴は見ていたので     ある〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯「合巻年表」(天保十五年刊)    歌川豊国一世画    『雷太郎姦勇物語』後編「豊国画」三馬作 森治板 ⑤ 改印-普勝     (備考:本書は『雷太郎強悪物語』(三馬作・豊国画・西宮新六板・文化三年刊)の改題後摺本)   ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)  (「役者似顔絵師 歌川」の項) 〝元祖 歌川豊国【豊春門人、植木町に住】    二代目豊国【豊国実子】    三代目豊国【初国貞、亀戸に住す】    豊国門人 国貞 同 国安      同 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】      同  国芳 其外、歌川の絵師は役者絵を出さず。こゝにしるさず、そのいにしへは、いま残りたる役者絵をみず、    たま/\見れども、古代の役者故、絵師を書ても当代に益なし〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   ◇「菊川英山」の項   〝(文化三四年の頃、堀江町の団扇問屋、故有て悉く豊国の新板画を不出、一年英山の役者画の団扇ばか    り出せし事有)〟
  ◇「歌川豊春」の項、(豊春門人)「歌川豊春系譜」   〝豊国 中橋槙町河岸に住す 門人多し 別に記す〟
  ◇「歌川豊国」の項   〝歌川豊国  寛政より文政迄の人      俗称 熊吉  居 始芝三島町 又芳町 堀江町 上槇町川岸 油座住す      号 一陽斎  江戸芝三島の産也  人形師の男    豊春の門人なり。後、一蝶の風を慕ひ、又玉山、九徳斎が画法をも慕ひ、一家をなす。豊広と一時行る。    (豊国始ての画の板元は神明前和泉や市兵衛也。役者切画也)当世の風俗を写す事に妙を得たり。美人    絵并役者似顔、此人より行る。中興の祖といふべし。草双紙、合巻、読本、錦画、数百部世にもてはや    せり。門人夥しくあり。文政八酉年正月七日五十七歳にして終る。実彩麗毫信士と号す。三田聖坂功運    寺に葬す。    此人の伝多しといへども、姑く爰に略〔す〕〈し〉別記に出す。文化文政の間、似顔画大に行れたり。    こゝにおいて門人多し。(類考云、墨と紫ばかりにて彩色のにしき絵をかきはじむと云々)    或人云、豊国は、其骨法豊広に不及事遠し。画法劣ると云へども、人目を喜しむる事妙を得たり。戯場    流行の時に逢しものなり。後年迄、春画は不画しが、歿故二三年前より数部を画り。多く松寿楼永年の    作なり。永年は二代の焉馬なり
   「歌川豊春系譜」      此余多しといへども、板下画不書ものは略之     一陽斎筆画本彩色摺     〈画手本〉年玉筆    〈役者〉合鏡     〈同〉此手柏(享和三癸未焉馬編)      似顔〔独〕〈早〉稽古〈文化〉     〈役者三階興(三馬編)  時世姿(二巻未自作の文あり)     同筆読本挿画      桜姫〔物語〕〈全伝〉    五冊 京伝作      稲妻表紙(一名本朝醒菩提)十五冊 京伝作      双蝶記   十冊 京伝作      阿古義物語 五冊 三馬作、豊国、国貞合筆      稚〈ワカ〉枝鳩   五冊 馬琴作      うとふ安方忠義伝 六冊 京伝作      四天王剿盗異録  十冊 馬琴作      敵討松山話    六冊 焉馬作      三国一夜物語   五冊 馬琴作      春夏秋冬     十冊 振鷺亭作      梅花氷烈     四冊 京伝作
   〈月岑補〉      豊国筆塚碑名 柳島妙見宮境内にあり、門弟より建之 四方真顔            〔山東京山〕銘文〔書〕〈選〉す〔并〕〈京山〉自書也     一陽斎歌川豊国、本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云り。宝暦の頃、芝神明宮の辺に住し、木偶彫刻の技     業を以自ら一家をなせり。曾て俳優の名人、市川栢筵の肖像を作るに妙を得たりき。明和の〔末〕初     ころに豊国を生り、幼名を熊吉と称す。性、画を嗜が故に、歌川豊春に就て浮世絵を学しむ。依て歌     川を氏とす。頗出藍の才あり。長に及で俳優者流の肖像を画に妙を得て、生気活動神在が如し。或ま     た美人時世の嬌態、梓本細筆、諸国流行し、華人蕃客も珍とし求む。茲を以、一陽斎の号、日の昇る     が如し。豊国の名一時に独歩し、画風自ら一家を成し、朱門の貴公子も師とし学ぶ。門人画業の徒に     於て良才乏しからず。実に近世浮世絵師の冠たり。惜哉、一陽斎、享年五十七歳にして歿せり。時に     文政八年酉正月七日也。三田聖坂弘運禅寺に葬る。法名を実彩霊毫と云、遺愛の門人等、一陽斎の義     子今の豊国と量て、亡師の遺筆数百枝を埋て碑を営み、亡翁の友人等も為に力を助け、桜川慈悲成子     をして余が蕪辞を需む。余もまた亡翁の旧識たり、故に固辞する事あたはず。其事を記て其乞に答ふ。       文政十一年戊子仲秋      狂歌堂四方真顔撰  窪世祥鐫                      山東庵樵者京山書并篆額        (碑陰に「歌川総社中碑」として門人の名あり)      〈但し『増補浮世絵類考』は碑陰のみ。表の碑文はなし〉      追善の絵に辞世の句とて      焼筆のまゝかおぼろの影法師    と記るせるは他人の句にして、辞世の句にあらざる事あきらかなり。    月岑云、豊国醒(粋)菩提の口画に遊女を画き、一枚の絵を上れば骸骨となる所を画り。此図杉田氏の解    体新書を見て画しは尤なれど、誤て小児の骨を写り。笑ふべし〟    ☆ 弘化二年(1845)
 △『戯作者考補遺』p448(木村黙老編・弘化二年序)   〝豊国 上槙丁 倉橋熊吉〟    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東 二段目)   〝名句 宝永 宝井其角  画師 文政 長谷川雪旦  似顔 文化 一陽斎豊国    戯作 文化 山東京伝  落噺 文化 三笑亭可楽  冊紙 文化 柳亭種彦(ほか略)〟  ☆ 弘化四年(1847)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化四年刊)    歌川豊国画『列女百人一首』口絵・挿絵・肖像〔跡見88〕    奥付「細画 葛飾卍老人 肖像 一陽斎豊国」緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化四年正月刊  ◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩151(三升屋二三治著・弘化四年序)   〝(立川焉馬記事)此人、一世の内残せしは、白石噺の七ッ目、歌舞伎年代記、敵討松山噺といふ本、歌    川豊国の筆にして役者似顔絵の始り(云々)〟    ☆ 嘉永二年(1849)
◯『国字小説通』〔続燕石〕(木村黙老著・嘉永二年序)   ◇「読本繍像之精粗」の項 ①302  〝文化の初に至て京伝が忠義水滸伝の口絵、唐山の水滸繍像に傚ひて、北尾重政が筆を奮ひて画きしより、    殊外に評判よかりし故、馬琴作の翻釈水滸画伝のゑを葛飾北斎画がき、京伝作の善知鳥全伝をば歌川豊    国絵がきて、皆々巧妙の手を尽せしより、諸作みなまな新奇を争ひて絵がくことゝは成たり、亦、さし    ゑに俳優の似貌を出すは、敵討松山鑑といふ本に、豊国かき始めしより、折節には似貌の本を出すなり〟    〈「善知鳥全伝」とは『善知鳥俤』(文化七年刊)か。「敵討松山鑑」は「国書基本DB」に見えない。ただ『絵本敵     討待山話』(烏亭焉馬作読本)と同じものだとすると文化元年刊となるのだが〉    ◇「草双紙画之精粗」の項 ①302   〝安永、天明の頃に至り、鳥居清長、北尾重政等より、追々絵様細かに成り、書入も段々密になりたれ共、    其頃までは、人物の眼目、つき目とて(目の図)如斯ゑがきしに、文化の比、歌川豊国が俳優の似顔に    画がき初しより、(目の図)如斯目に画がく事に成たり〟    ☆ 嘉永三年(1850)
 ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1398(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝(歌川豊春)門人 豊国【寛政ヨリ文化】    錦画を書に、墨と紫ばかりの画を好む、役者の似貌をも能写す、通三丁目、画馬屋息子、豊国たこ画を    書く【浮世画類考】
   (補)三囲社頭俳優并絃妓絹彩立      [署名]歌川豊国画[印章]「一陽斎」(朱文方印)「豊国」(白文方印)
   文政七年正月七日死、五十七歳、聖坂功運寺に葬、称熊吉、号一陽斎、豊春の門人にて一家をなす、享    和之末世に行はれたり、門人数多あり、柳島法性寺の碑陰に見えたり、武江年表    〈東洋文庫『増訂武江年表』は豊国の没年を文政八年(1825)とする。また「武江年表」の著者・斎藤月岑が編集した     『増補浮世絵類考』(天保十五年序(1844))も「豊国筆塚」(文政十一年(1828)建立)の山東京山碑文を掲載して、     文政八年没としている〉
   「歌川豊春系譜」
   「歌川豊国系譜」    ☆ 嘉永六年(1853)
 ◯『傍廂』〔大成Ⅲ〕(斎藤彦麿著・嘉永六年序)   ◇「似顔絵」の項 ①36   〝似顔絵は、いと古きよりあり。文徳実録(記事、略)。源氏物語末摘花巻に、髪長き女をかき給ひて、    鼻に紅をつけて見給ふに云々。是は常陸宮の似顔をかき給ひしなり。後世にいたりて、菱川師宣、西川    祐信など名人なり。其のち勝川春章、鳥居清長、また近来歌麿、豊国などもよくかけり。当時は若き男    女などの姿をかくに、肩をすくめ、肘を膚によせて、寒げに縮みたる姿にかけり。さる故に、衣冠の官    人も、甲冑の武士も、年若く容顔よきをば、皆さるさまにかけり。寒げに縮みあがりて、身すぼらしく    見ゆるがはやりものなり〟
  ◇「俗画」の項 ①99   〝むかしは西川祐信、菱川師宣ともに、一家を起したり。其後は鳥居清長、勝川春章、これら我若かりし    頃世に鳴りたり。又其後は歌麿、豊国ともに用ひられたり。それより国の字を名のる者あまたになりて    いと多くなりたり。これらの俗画をうき世絵師といへるは、いかなる故ならん。時世絵師とこそいふべ    けれ。何も憂事の故もなくては、うき世とはいふべからず〟    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇狂歌(安政元年刊)    歌川豊国画『出世鯉滝白玉』二巻 画工御馴染一陽斎豊国    ☆ 安政三年(1856)
◯『戯作六家撰』〔燕石〕②91(岩本活東子編・安政三年成立) (「一陽斎豊国」の項)    〝一陽斎豊国     豊国、号を一陽斎といふ、歌川豊春が門人也、芝神明前三島町の産にして、人形師の男也、俗称倉橋熊    吉といふ、初め芳町に住し、後堀江町に居す、又槙町油座に移る、歌舞伎役者の似顔絵の名人なり、又、    読本、草ざうし、合巻の類枚挙にいとまあらず、文政八酉年正月七日没す、年五十七、三田聖坂功雲寺    に葬る、     法号 得妙院実彩麗毫信士     辞世 焼き筆のまゝかおぼろの影法師〟
    国貞画「豊国肖像」(早稲田大学「古典籍総合データベース」『戯作六家撰』)    ☆ 文久元年(1862)   ◯『戯作外題鑑』〔燕石〕(岩本活東子編・文久元年)   ◇「寛政十戊午年」時評 ⑥85   〝東海道娘敵打、豊国が画絶妙也、是より豊国大に行はる〟    〈『稗史提要』に同文あり〉      ◇「寛政十一己未年」時評 ⑥87   〝天正より以後の事を書し、上梓すること、享保以前には憚らざりしにや、大坂軍記、其外あまた見へた    り、享保已後は、上梓を憚ることゝなりしに、此頃に至りて、浪花の玉山が絵本太閤記を上梓して、大    に行はる、夫にならひて、今年、筆のつらなりを顕はし、又、豊国が太閤記の錦絵出て、共に行はれし    が、幾程もなくて、前のごとく憚ることとなりたり〟    〈『稗史提要』に同文あり〉    ☆ 成立年(刊年)未詳    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧309(青葱堂冬圃記・成立年未詳)   〝山東京伝、歌川豊国とは兄弟の睦びありて、弐人とも世に知られたり、京伝の著作は大かた豊国の画也、    いかなる者かいひ出しけん、京伝が作せしとて画師が下手ならば行れまじ、されば豊国の上手ゆへなり    と云、また或かたにてハ、譬へバ豊国が当時の名人たりとも、作があしければ、本をもとむるものもあ    るまじ、さすれば京伝が妙作故なりと互に評しけるを、何者か尾に頭をそへて、色々と言葉を巧にして    二人ぇ告けれバ、何となく不和となり、次のとし、新刻絵草紙、京伝作、勝川春扇といふこのもしから    ぬ画師にゑがゝせ、豊国ハ橋本等瓶とかいふ名も知れぬものに著作いたさせ、画ハみづから筆をふるひ    ゑがき売出しけるに、いづれも甲乙なく大流行に而、板元ハ大に利を得たり、されバ此事世にいひふら    し、ふたりとも名誉たりし、地本問屋蔦屋重三郎、伊賀屋勘右衛門など取扱ふて、終に心直りしとぞ〟    〈山東京伝作・勝川春扇画の初出は文化七年の合巻『梅於由女丹前』。以降八、九、十一年まで六作、すべて合巻であ     る。橋本等瓶は橋本徳瓶の誤りか。徳瓶作・豊国画は文化七年刊の合巻『小野小町戯場化粧』。この挿話は文化六~     七年ものだが、京伝作・豊国画は文化七年にも六作品あり、六年の七作品、八年の六作品と比べて大きな変化は見ら     れない。春扇の起用は、京伝豊国不和の余波というより、それまで文化四年から七年まで合巻挿絵を担当していた勝     川春亭が別の戯作者と組むようになったことと関係しているのではないか。京伝・春亭の組み合わせは文化七年を最     後に以降はない〉    ◯「【中興/近代】流行名人鏡」(番付 一夢庵小蝶筆 板元未詳 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (中段 東)   〝能狂 正徳 福王茂右衛門  画師 文政 長谷川雪旦  似顔 文化 一陽斎豊国    戯作 文化 山東京伝〟〈福王雪岑、初代歌川豊国〉  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝画人遊客    彩画 故歌川豊国/精密 梅雅堂歌麿〟    〈この「故豊国」初代と思われるが確証はない。また梅雅堂は二代目歌麿(戯作者・恋川春町二世)の画号だが、なぜ初代     豊国と対になるのか分からない〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の系譜 ⑪189
   「歌川豊春系譜」     ◇「歌川豊国」の項 ⑪223   〝号一陽斎、俗称熊吉、豊春門人なり。後一蝶の風を慕ひ、又玉山九徳斎が画風をも慕ひ一家となす。 〔割註 豊国始ての画、板元は神明前和泉屋市兵衛とて泉市と云役者切絵也〕豊広と一時に行る。当世 の風俗を写す事妙を得たり。美人役者画似顔此人より行る。中興の祖といふべし。始三島町に住し、後 芳町堀江町上槇町河岸油座等に移住す。黒と紫計りにて錦絵を書初む。  一陽斎筆画手本彩色摺     画手本年玉筆      役者合鏡      同 此手柏 焉馬作  時世姿 女絵     似顔早稽古       三階興  三馬作      同筆読本     桜姫全伝    京伝作  双蝶記      同     稲妻表紙  同     本朝粋菩提   同    うとふ安方忠義伝 同     稚枝鳩   馬琴作     四天王剿盗異録 同    三国一夜物語   同     阿古義物語 三馬作     敵討松山話   焉馬作  四季物語     振鷺亭作  梅花氷裂  京伝作     (絵本、六作品名あり。略)     (読本、十二作品名あり。略)    豊国粋菩提の口絵に遊女を画き、一枚の紙を上れば骸骨と成る図を画り。此図杉田氏の解体新書を見て    画しは尤なれど、誤て小児の骨を写す。笑ふべし。     豊国筆塚碑名柳島妙見境内にあり。門弟より建之。     一陽斎歌川豊国、本姓は倉橋、父を五郎兵衛と云。宝暦の頃芝神明宮の辺に住し、木偶彫刻の技業を     以自ら一家をなせり。曾て俳優の名人市川栢筵の肖像を作るに妙を得たり。明和の初こゝに豊国を生     り。幼名を熊吉と称す。性画を嗜。故に歌川豊春に就て浮世絵を学しむ。依て歌川氏を氏とす。頗る     出藍の才あり。長ずるに及で俳優者流の肖像を画に妙を得て、生気活動神在が如く、或又美人時世の     嬌態梓本彩筆諸国流行し、華人蕃客も珍とし求む。茲を以て一陽斎の号、日の昇るが如く、豊国の名     一時に独歩し、画風自ら一品を成し、朱門の貴公家も師として学ぶ。門人画業の徒に施し、良才乏し     からず。実に近世浮世絵師の冠たり。惜哉。一陽斎享年五十七歳にして歿せり。時に文政八酉年正月     七日三田聖坂弘運禅寺に葬る。法名実彩霊毫と云。遺愛門人等一陽斎の義子、今の豊国と量て亡師の     遺筆数百枝だを埋て碑を営み、亡翁の友人等も為に力を助け、櫻川慈悲成子をして余が蕪辞を需む。     余もまた亡翁旧識たる故に固辞する事あたはず。其事を記て其乞に答ふ。         文政十一年戊子仲秋        狂歌堂四方真顔撰 窪世祥鐫                          山東菴樵者京山書并篆額    豊国歿後出板なしたる追善の絵に辞世の句とて、        焼筆のまゝかおぼろの影法師    と記せるは、他人の句にして、辞世にあらざる事明らか也。     追善肖像画国貞筆并に讃、この月七日師たる人と長きわかれとはなりぬ。然るに喪にこもりしあさ、     なみだとともに        すゝらばや粥の七種の仏の座〟    ☆ 明治五年(1872)
 ◯『傍廂糾繆』〔大成Ⅲ〕①142(岡本保孝著・明治五年序)   (斎藤彦麿著『傍廂』の「似顔絵」記事に対する論駁)   〝似顔絵 末摘花巻(中略)これを似顔絵など事々しくいふは、源氏物語の趣をしらぬ也。こゝは、たゞ    紫上に戯にかきすさびたるまで也。歌麻呂、豊国などの似顔と、ひとしなみにいふはわろし〟    ☆ 明治十一年(1878)   ◯『百戯述略』〔新燕石〕(斎藤月岑著・明治十一年成立)  ◇④226   〝歌川豊国は豊春門人に御座候処、享和、文化の頃より、春章の風を一変いたし、歌舞伎の肖像を画き出 し、文化の頃より天保の頃迄、絵入読本、一枚絵、多分に画、後年筆も上達仕候へども風韻無之、門人 国貞も同様にて、歌舞伎役者、当世の婦女の姿をば巧者にて、久く世に被行候〟
  ◇④228 〝板ボカシは、文化中、豊国等が筆の草双紙に始り、板木の一方を低く削りて、自らボカシに相成、尤一 つの板木にて、外の板は用ひ不申、村雲、黒煙、鮮血等に相用ひ候〟  ☆ 明治十四年(1881)    ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    歌川豊国画 遊女 画扇 一本〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『内国絵画共進会 古画出品目録』(農商務省版・明治十五年刊)   (内国絵画共進会(第一回)〔10月1日~11月20日 上野公園〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊国筆 女達磨(大田南畝讃)(出品者)安部信順〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯「第二回 内国絵画共進会」〔4月11日~5月30日 上野公園〕   1『第二回絵画共進会古画出品目録』(農商務省版・明治17年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊国 人物 一幅(出品者)中村重方 大分県〟   2『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊国  文政十一年五十七歳ニシテ卒ス〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝文化 歌川豊国    号一陽斎、豊春に従ひ、俳優の似顔を写すに妙を得たり。享和已来、専ら行はれ、浮世絵中の名人と称    せらる。門人多し〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 日本美術協会 3月25日~5月31日)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館          北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
   浮世絵師 歴代大家番付〝浮世派諸大家 文化 一陽斎豊国〟    ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p301(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝哥川豊国    熊吉ト称シ【一ニ熊八ニ作ル】一陽斎ト号ス、家名ハ哥川、初メ倉橋ト云、江戸芝三嶋町ノ産ニシテ人    形師五郎兵衛ノ男ナリ、初メ哥川豊春ノ門人ナリシガ、後チ改テ英一蝶ノ画風ヲ学ビ、狩野家ノ筆意ヲ    旨トス、浮世画ハ玉山九徳斎ガ画法ヲ慕ヒ、一家ノ筆法ヲ為ス、豊広ト共ニ行ハル、当世ノ風俗ヲ写ス    ニ妙ヲ得タリ、豊国ガ始メテノ板元ハ神明前ノ問屋和泉屋市兵衛ナリ【今ハナシ】役者ノ切画美人画幷    ニ役者似顔ゑハ此人ヨリ始マルト云フ、中興ノ祖ト云フベシ、草双紙合巻読本数百部世ニモテハヤセリ、    一流ノ画風ヲ以テ、江戸ニ名アリ、門人数多ヲ出ス、文政八年正月七日没ス、年五十三、三田聖坂弘運    寺ニ葬ル、法名実彩麗毫ト云フ(燕石十種・人名辞書)〟    ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『古代浮世絵買入必携』p22(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝豊国の初代と二代の区別    初代豊国の髪の結ひ方は第七図、八図、九図及び十二図の如し。尤も初めの図の物ほど高価にて、第十    図、十一図の物は甚だ廉なり。又二代豊国の髪の結ひ方は第十二図及び十三図の如し。    〈ここに言う二代目豊国とは前名国貞、これは国貞自身の自称で、現在は三代目豊国とされる〉
   「女絵髪の結ひ方」第一図~第九図第十図~第十三図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    ◯『古代浮世絵買入必携』p10(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝歌川豊国    本名 熊吉    号 一陽斎   師匠の名 豊春    年代 凡七十年前より百年迄    女絵髪の結ひ方 第七図・第八図・第九第十図・第十二図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、浮絵、細絵、長絵、絵本、肉筆    備考   二代豊国と間違易き故、女絵髪の結ひ方にて見分けを為すべし。第十図第十二図のもんは晩         年の筆なれば価甚だ廉なり〟    ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝豊国(クニ)      歌川、◯倉橋氏、名は熊吉、一陽斎と号す、豊春門人、墨と紫のみにて書たる錦画を工夫せり、文政八    年死、五十七〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『明治節用大全』(博文館編輯局 明治二十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「古今名人列伝 技芸家の部」(113/644コマより)   〝歌川豊国伝    豊国、俗称を熊吉、一陽斎と号す。江戸芝三島町の産なり。初め歌川豊春、安永より文化の間の人に学    び、後ち英一蝶の画風を慕ひ、狩野家の筆意を旨とす。浮世絵は玉山九徳斎に学び、別に一家をなす。    一時同門歌川豊広(寛政より文化迄の人)と共に行はれ、当世の風俗を写すに妙を得たり。美人絵・役    者絵は此人より行はる。中興の祖といふべし。門人頗る多く、文政年間に卒す〟   〈玉山九徳斎は未詳〉  ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝歌川豊国 一陽斎    俗称熊吉、歌川豊春の門人、文政八酉年正月七日歿す、歳五十七。三田聖坂功運寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』   (飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿。但し「浮世絵師歌川雑記」は未掲載)   ◇「浮世絵師歌川雑記」p220   〝【富士剣術新井柔術】吾妻街道女敵討(三冊)三馬作、豊国画、寛政十年板    文朝曰く、吾妻街道女敵討、豊国が画絶妙也。是より豊国大いに行わる〟
  ◇「浮世絵師歌川雑記」p221   〝文朝曰く、此年(寛政十一年)豊国が太閤記の錦画出でて、共に行われしが、幾程もなく、以前の如く    憚るごとくなりたり〟
  ◇「浮世絵師歌川雑記」p220   〝春、通気智之銭光記(三冊)京伝作、豊国画、同〈享和〉二年板。    文朝翁曰く、京伝銭光記より、大悲利益まで四部を四季と名づけて出板す。三冊合巻にして表紙を墨摺    にしたり。是合巻の権輿というべし〟
  ◇「歌川豊春伝」p80   〝豊春の没するや、門人等ふかくこれを悼み、亡師が嘗て信仰せし押上春慶寺の普賢堂の傍らに、一碑を    建てて記念となし、永く追慕の情を伝う。碑面に、花は根に名は桜木に普賢象、のりのうてなも妙法の    声、正面文化十一年戌春、二代目歌川豊春、行年八十、元祖歌川昌樹、歌川妙歌、歌川貢、大野規行、    歌川豊秀、歌川豊国、歌川豊広と刻してあり〟
  ◇「歌川豊広伝」p109   〝一説(野村氏類考書入)に、豊広は初代豊国の弟なり、又神田の社内に住せしというは非なり。始め豊    国と相競い腕力を揮い画きしが、豊国の画はよく時好に投ぜるをもて、大に行われ、豊広は筆力超凡な    りといえども、其の行わるること、終に豊国に及ばざりし。蓋し俳優似貌画、及び風俗美人画は其長ず    る所にあらず〟
  〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然    らん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざ    るがごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画    は、喜多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風    古体にして豊国のごとく行われざりし〟
  ◇「歌川豊広伝」p118   〝(豊広)かの俳優似貌画および風俗美人画の如きは、豊国に及ばざる所あれども、草筆の墨画にいたり    ては、豊広をもて上座におかざるを得ざるなり。これを要するに二人の腕力は、蓋し優劣なかるべし。    文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇は三馬国貞、小結一九北    馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をして北斎に対せしむるは、    少しく当たざるが如し〟
  〝かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、関のみ、関脇のみ。其の    実地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席にあらしむるは、これ蓋    し過誉にあらざるべし〟
   「文化十年見立相撲番付」     ◇「歌川豊広伝」p123   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師    と称し、殆ど土佐狩野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて    末に走り、骨法筆意を旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の    情なく、甚だしきは尊卑老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜ    しむ。これ豈浮世絵の本色ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざる    ものは、蓋し豊広、広重、国芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門を    うかがい、英氏のあとをしたい、終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画    世に行われずして止む。もし豊広の画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰う    ること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しきに至らざるべし。噫〟
  ◇「一世歌川豊国伝」p109
   「一世歌川豊国伝」     ◇「浮世絵師歌川雑記」p211   〝文化八年板、山東京伝戯作の草双紙、朝茶湯一寸口切の自序に、歌川豊国の亡父、倉橋五郎兵衛は、人    形をつくることを業とし、戯子の似顔の人形をつくるに妙を得たり。されば今豊国が似貌画を業とする    こと、おのずから因縁あり。かねて亡父のつくれる、故柏筵矢の根五郎に扮する人形あり。父のかたみ    とひめおきしを、今の三升に見せしに、先祖の似貌を今見ることのうれしさよとて、感涙をおとしけれ    ば、豊国其志を感じて、此の人形をゆずり、今は三升が所蔵のものとなりぬ。亡父追福のためにもなる    べければ、此のことをしるしてよと、豊国のいわるるも、孝養の一端なればこれを趣向のたねとなしぬ〟    〈文化九年の項「合巻年表」参照〉     ◇「浮世絵師歌川雑記」p215   〝一対男時花歌川の稗史は、式亭三馬、歌川豊国が喧嘩和解の媒として出板せしものなり。前篇を初日と    し、後篇を後日とし、初日は豊国画にして、後日は豊広画なり。画様細密にして彫刻甚だ美なり。当時    大に行われしこと、戯作者略伝に詳らかなり。    初日【井屋茨城全盛合巻】一対男時花歌川、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘左衛門板なり。    序の代りに、豊国、豊広、および三馬の門人等の像をかかげて俳優貌見世の体に倣う。三馬門人は馬笑、    三孝、三鳥、三友、等を載せ、豊広、豊国、の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、国丸、    国久、国房、等を載す。三馬の口上あり。    (前略)此所にてわけて申上まするは御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさま方へ、御礼の     口上、めいめいに申上とうはぞんじますれども、こみあいましてかき入の所もござりませねば、しば     らく御用捨を希い奉りまする。またこれにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえ     まするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人     益亭三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまする     よう、豊広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしん板、はや     り歌川両人が、つれぶしの御評判、おそれ多くも大日本国中の、すみからすみまでずいと、こいねが     い奉ります。まずはそのため口上さよう〟   ◇「浮世絵師歌川雑記」p217   〝鈴木白藤曰く、一陽斎豊国頃の草双紙より合巻とて、三冊、五冊、或は八九冊を一冊になし、漉返紙青    本にてなく、糊入紙五彩表紙に製し、画は至て精密なり。画工多き中にも、豊国最称せらる〟    ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下 金港堂(12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝中巻 目録 故歌川豊国「女三宮」〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(49/103コマ)   〝歌川豊国【寛政元年~十二年 1789-1800】    本姓は倉橋、父を五郎兵衛といふ、宝暦の頃、芝神明宮の辺に住みて、木偶彫刻の技を以て一家を為せ    しが、明和六年、豊国はこゝに生る、幼名熊吉、性画を嗜めるより、歌川豊春い就て浮世絵を学びて、    一陽斎と号し、出藍の誉ありき、後に一蝶の画風を慕ひ、また九徳斎の画風をも学びて、終に一家を為    せり、美人絵、および俳優の似顔絵を巧みに画き、豊国の名一時に顕れ、浮世絵中興の祖と称せらる、    読本、合巻、草双紙、錦絵等数百部を画けり、贄(し)を執りて門に入る者多かりしとぞ、初め芝三島町    に住みしが、後ち芳町に移り、更に堀江町、上槙町河岸油坐等に転居したりと云ふ、文政八年正月七日    没す、享年五十七、三田聖坂功運寺に葬る、法号実彩霊毫    (版本リスト二十三作、署名省略)    (本伝は『歌川豊国瘞筆之記』『増補浮世絵類考』等に拠る)〟  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(73/119コマ)   〝一陽斎豊国 (三田)聖坂 功運寺    真中に得妙院実彩麗毫信士としてあるが、即ち初代の名人豊国、左右に亦豊国院貞匠画僊信士、三香院    豊国寿貞信士とあるは、三代目までの戒名を、只供養の為め誌せしなり、右の横に大きく、歌川豊国事    と表してあり〟    〈「豊国院貞匠画僊信士」は初代国貞(自称は二代目豊国だが三代目)、「三香院豊国寿貞信士」が四代目豊国(二代国貞)〉  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(136/218コマ)   〝歌川豊国    倉橋氏 通称を熊八といふ 一陽斎と号す 五郎兵衛の男なり 江戸芝神明町に住す 歌川豊春に師事    して画法を研究し 頗る浮世絵を能くす 最も邦俗の美人及び俳優の似顔を描くに妙を得て 当世に称    誉せらる 蓋し浮世絵師中に於る 屈指の一名家なり 此の人亦人形を作るに巧(たくみ)にして 時に    名あり 乃ち之れを以て業となす 文政八年正月七日没す 年五十七 三田聖坂弘蓮寺に葬る 法名を    実彩麗毫といふ(扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p80(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝 歌川豊国(ルビうたがわとよくに)    歌川豊国は、俗称倉橋雲吉と云ひ、一陽斎と号す。父は倉橋五郎兵衛と称し、宝暦の頃、芝神明前に住    居し、木像制作を以て業と為せり。俳優市川柏莚(二世団十郎)の像を彫刻するに、頗(*スコブ)る妙を    得たる人なりきと云ふ。其子豊国、歌川の画祖豊春の門に入りて、歌川派の妙を得、加ふるに、一蝶、    玉山、春英が画風を折衷して、歌川派に調和し、更に一己の工夫にて、修飾和合して、時好に適応すべ    き画風を案出したり。婀娜(*アダ)たる美人、骨格逞(*タクマ)しき力士、艶麗なる俳優の似顔を描きて、    画筆巧を弄し神(カミ)に入る、これによりて、其名都鄙(*トヒ)に籍甚(セキジン)たり。されど其初めは、更    に流行せず、或日豊国芝神明前の絵草紙屋和泉屋市兵衛の処に行き、己れの携持ちたる下絵を市兵衛に    渡し、筆料は取らぬ程に、これを錦絵となし、販売し呉れよと、切に依頼しければ、市兵衛甚(*ハナハダ)    不愍(*フビン)に思ひ、快よく承引して、これを出板せしに其售(*ウ)れゆき甚よろしかりしかば、市兵衛    気を励まし、随分熱心励精あるべし、そこの下絵は我等必受引く可(ベ)しと云ひければ、豊国これに勢    を得て、鋭意画筆を揮ひ、必(*ズ)和泉屋に持行きて売弘めしより、其画次第に評判高く、遂に、隆々    の名を揚るに至る、されば、芝三島町より中橋通横町三笑亭可楽が隣家に、転居して、画名の全盛を極    むるに至りし時も、常に和泉屋市兵衛の恩誼を忘れしこと無かりきと云へり。    豊国既に嬌艶の画筆に其名喧(カマビスシ)く、貴顕公子の其門に遊ぶものさへありて、歌川の画風益々熾    (サカン)なり。豊広と豊国と共に豊春が門人にして、浮世絵の高手なりしかば、互に相(アイ)馳駆(チク)して    勢(イキオイ)、弟たり難く兄たり難き間柄なりしものから、遂に両人の間に不和を生じ、式亭三馬、仲裁の    労をとり、『一対男時花歌川』と題する合巻ものを作り、豊国、豊広両人をして、挿画(サシエ)を為さし    め、以て和睦を結びたりき、豊国は、文政八年正月七日に没す、享年五十七歳、三田聖坂功運寺に葬る、    法号は得妙院実彩麗毫信士。文政十一年八月、門人等、義子豊国と謀りて、碑を柳島妙見の境内に建立    せり、撰文は狂歌堂真顔、篆額は山東京伝なり、其辞世の句に、      焼筆のまゝかおむろの影法師    これは他人の代作なりと云ふものあり、或(アルイ)は然(シカ)る歟
   「歌川豊国系譜」    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(169/225コマ)    歌川豊国    一陽斎と号す。歌川豊春に就きて浮世絵を学び、又英一蝶の筆意を慕ひ一家をなす。殊に俳優の肖像を    画くに妙を得、或は美人時世の嬌態を写し、印本彩画諸国に流行し、内外人之れを求む。此に於て豊国    の名声一時に盛なり。門人亦良工に乏しからず。文政八年五十七にて没す〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)    (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)    〝一陽斎豊国 「芸妓図」   文化文政頃  高嶺俊夫     歌川豊国  「野田玉川図」 文化頃    鍋倉直〟   ◇『浮世絵画集』第二輯(明治四十五年(1912)五月刊)    〝歌川豊国  「花下の娼婦」 文化頃    高嶺俊夫     歌川豊国  「三囲」    文化文政頃  太田梅子〟  ◯「集古会」第八十三回 明治四十四年五月(『集古会誌』辛亥巻四 大正2年4月刊)   〝村田幸吉(出品者)初代豊国筆 道中行列図 六枚続  ◯「集古会」第八十五回 明治四十四年十一月(『集古会誌』壬子巻一 大正2年4月刊)   〝大橋微笑(出品者)双六 四種      豊国画 源氏双六/貞秀画 道中双六/広重画 江戸名所双六/松浦多気四郎 蝦夷双六〟  ☆ 大正元年(明治四十五年・1912)  ◯「集古会」第八十七回 明治四十五(1912)年三月(『集古会誌』壬子巻三 大正2年9月刊)   〝広瀬菊雄(出品者)初代豊国筆 大首似顔絵 二枚〟  ◯「集古会」第八十九回 大正元年(1912)九月(『集古会誌』壬子巻五 大正3年5月刊)   〝川喜田久太夫(出品者)     豊国画 福禄寿 三馬賛 扇子     豊国画 本町二丁目紅問屋たまや所出景物の冊子一冊 京伝作 年玉用の草双紙なり  ☆ 大正三年(1914)  ◯「集古会」第九十七回 大正三年三月(『集古会志』甲寅三 大正4年10月刊)   〝有田兎毛三(出品者)豊国筆 魚貝見立六歌仙役者絵 六枚〟  ☆ 大正四年(1915)  ◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵師掃墓録(四)」初代歌川豊国 荘逸楼主人     品位の高い美人絵から、春章・写樂とは又趣きの違つた真の似顔絵に一葉を開き、豊春が開鑿した歌    川の流れを長(とこ)しへに世に伝えた功績者、初代歌川豊国は俗称倉橋熊吉、一陽斎と号した、芝神明    前の人形師倉橋五郎兵衛の男、幼年の頃 一龍斎豊春の門に入つて 天明六年十九歳で万象亭作の黄表    紙『無束話親玉』の挿絵を描いた、似顔絵に妙を得たに就ては父からの系統的もあつたので、元来倉橋    五郎兵衛は似顔人形に巧みで 就中(なかんづく)二代目市川団十郎(栢筵)の容貌は 真に生けるが如き    ものであつた、其技を膝下に居て見もし、聞きもした彼は、他日似顔絵に覇をなした由縁である。     先見の明ある芝神明前の和泉屋市兵衛は、彼が始めて持参した下画を見て 其技の凡ならざるを見て    直ちに錦絵として是を世上に紹介した、果して其画風が時世に適した為、豊国の名忽ち四方に喧伝せら    れ、錦絵は云ふも更なり絵本・黄表紙・読本・合巻に至る迄 筆を染めること数知れず、遂に合巻之挿    絵はこの一派の独占と迄なつて こゝに歌川の基礎は固められた。     斯(かく)して豊国の勢力はし(ママ)ばらしいものであつた、画工は太夫だ、作者は三味線引だ、いくら    糸がよくつても 唄ふものが悪くちやァ聞かれないと、こう云ふ事には如才ない京伝なぞはいつも合巻    の奥半丁に、豊国画 京伝作と 画工の名を上にして署名した。     文亀堂伊賀屋勘右衛門、京伝作『稲妻表紙後編本朝酔菩提』の挿絵を豊国に頼んだが中々描かぬ、果    ては我家に程近い処へ二軒ぶつ通して家を借り、是へ豊国を招いて欵待おさ/\怠りなしである、丁度    弥生の花見時で 墨田の花が見たいと云ひ出した、出せば何時帰るかわからぬ、一策を案じた伊賀屋は    花満ちたる大なる桜の枝を数多(あまた)取寄せて、これを花瓶、樽なぞへ活けて座敷へ併(なら)べ、こ    れで何卒御辛棒をとやつた。     こふ云ふ工合に小児を賺(すか)すよふにして 漸く出来上つた十冊の挿絵は実に二年の月日を費やし    たと云ふ、かく一面に於て恐ろしく傲気の彼も 又一面には非常に謙譲であつた、それはいつも人に向    つて「わたしの絵は只(ただ)もう、ゑのぐをば隈(なぞ)つたに過ぎない」と、此対照が頗る面白い、豊    国の偉大なる点もこゝにあるんだらふと思ふ。住居は始め三島町から芳町、掘留、上槙町等へ移住し     文政八年正月七日、焼筆のまゝかおぼろの影法師 の一句を辞世として病没、年五十七、法号 特妙院    実彩麗毫信士、墓所三田聖坂の功運寺は(云々 以下 墓地への道筋記事 中略)勘亭流で大きく「歌    川」と書いた台石が見える、碑面の右は亀戸豊国、左は二代国貞の法名で、同じく右側面には「歌川豊    国事 元治元甲子年十二月十五日、二代目」と彫付けてあつて 全然後素亭豊国は没却されち居る〟  ◯「集古会」第百二回 大正四年三月(『集古』庚辰第五号 昭和15年11月刊)   〝野口栄太郎(出品者)豊国画 役者此手嘉志和 二冊合一冊 烏亭焉馬述 享和癸亥版  ☆ 大正五年(1916)    ◯『早稲田文学』p12「最近思潮」大正五年七月号   〝六月の美術界 豊国劇画を観て    朔日、大川端の高砂倶楽部楼上で、自筆版画納札会の余興として、豊国劇画の天覧があつた。初代豊国    始めとして、豊国の没後その師名を襲へる国重及び国貞をも劇画をも含んでいたが、その数は予期した    ほど多くはなかつた。    初代一陽斎豊国は勝川春章と共に似顔絵の完成者であると言はれてゐる。彼の役者画は鳥居清信や清満    のものゝやうに簡素ではなく複雑な色調と、表情姿態の程よき誇張とを持つてゐる。歌舞伎の形式美は    豊国によつて初めて絵画として結晶したのである。観客を魅する舞台の上の俳優の表情姿態を伝へるに    は清信や清満の絵は余りに粗末な記録に過ぎない。それを伝へるにはどうしても「程よき誇張」の筆の    豊国でなければならない。併しながら豊国の誇張は、鳥居清倍のものゝやうないかにも看板絵めいた、    目に余る誇張ではない。都人士が、舞台の上の俳優の動作のところどころから受ける一種の快感と同じ    程度の快感を伴ふ誇張である。    之れと共に、豊国の描ける俳優はよう其の癖を曝露してゐる。其の顔の特徴が実によく表はされてゐる    である。しかしながら此のやうな「癖の誇張」も、写楽ほど皮肉に行はれてゐない。謂はゞ、彼は鳥居    と写楽の中間を行つたのである。此の点が豊国の似顔絵の世に持て囃された原因の一つであらう。    豊国の此処に出ているだけの似顔会の中で最もよく顔の特徴を面白く表はされてゐるのは、尖つた頤、    釣りあがつた三日月眉、常にものに驚いたやうに瞠つてゐる眼、そして、ちよつと見ると唇といふもの    はなく、唯細かな歯列(はなみ)の下から小さな舌が花瓣(はなびら)のやうに覗いてゐるのかと想はれる    やうな口つきをしてゐる岩井半四郎と、八重鳳仙花のやうな淫らな紅い唇、豊艶な二重頤、そして妙に    肉感的な沢村田之助とであらう。殊にも、岩井半四郎の妖怪的表情の女は、豊国の描いた草双紙にも屡    々見るところのものである。此処もに(ママ「にも」の誤記か)、彼の六種の扮装を写せる「半四郎六人立」    といふのが一枚出てゐる。    豊国の俳優画の色調は決して派手ではない、其の基調をなすところのものは、黒か、然らざれば渋みが    ゝたものが多い。例へば、「今やう役者七小まち」の内の「草紙洗小町」を見るに、八つ橋の上に立て    る女形俳優の衣物は、粗い井桁綛(いげたかすり)を白く抜いた地黒で、それに配するに、麻葉鹿子の襟    と、帯と、裙から僅かに覗いてゐる長襦袢とは、稍々渋がゝつてゐながら然かもしつとりした紅である。    菖蒲の葉も黒味を含んだ緑で、その花と水とは灰色を含んだ藤色である。此の、地黒に稍々渋い紅を点    じた配色の着つけは、豊国の最も好むところだつたと見えて、「今様役者七小町」の七人みな同じ配色    の着つけであるばかりでなく、他にも屡々是を見るのである。    灰色を含んだ藤色や茶褐色を衣物に用ゐたのも屡々見るが、前者の例としては此処に「あやめ見物」の    三枚絵がある。此の図の欄干には明るい鮮かな黄を用ゐていたが、豊国は屡々細部に此のやうな黄を用    ゐて、主部の黒味渋味を引き立たせてゐる。地色の白と、細部に点じた紅や黄とが、主部の黒味渋味と    相点映する配色は実に気持のよいものである。    「観月図」の雲は写実を狙つた面白い描き方である。空は極めて淡い茶褐色で、明月と雲とは幻影のや    うに白く抜いて表はしてゐる。更にその上に、濃褐色でぎざぎざに縁(へり)どつた卵色の霊芝(れいし)    型の面白い雲を散らしたものである。尾上松助の足利尊氏、市川男女蔵の村上彦四郎を一枚の図一杯に    表はした「暫」の如きは、余り整ひ過ぎてゐて豊国としての面白味がない。    「見立寺子屋」三枚続もあつたが、人物の容貌姿態に諸家の模倣──殊にも女の肩のあたりの癖に歌麿    の感化を見ることが出来る。やつぱり豊国は俳優画に限るやうだ(以下二世・三世の豊国記事、省略)〟    〈全文は本HP「浮世絵事典」わ項「早稲田文学」を参照のこと〉  ◯「歌川豊国の娘」(三田村焉魚著『中央史壇』大正十年十月号(『三田村焉魚全集』17巻p282))   〝豊国は(倉橋熊吉)は、文化六年に西宮三次郎の娘そのを娶った。新郎は四十一歳、新婦は十六歳、二    十五違いの夫婦なのである。お半長右衛門を想像せざるを得ぬ。結婚の翌年きんが生まれた。そのは十    七歳で母になったが、赤ン坊をうるさがって、付き切りの乳母をおくほどな若い我儘な女が、何で初老    を越えた親のような豊国の妻になったろう。(中略)    豊国は杵屋六左衛門に習って三味線をよく弾いた。踊りも藤間勘十郎について稽古した。西宮三次郎も、    踊りを勘十郎に習ったから、豊国と同門である。それに素人芝居の仲間でもあった。我等は踊りが取り    持つ縁で、豊国は親父三次郎と懇意になり、心安くするうちに、娘のそのと、お半長右衛門を実地に演    じてしまったのだろうと想像したい〟    〈豊国とそのとの間に出来た子がきんで、後の国花女である。きん女は文化十三年七歳の時、下谷御成道の石川家に     「お画具(エノグ)溶き」として奉公に上がった〉      この石川家は、伊勢亀山の城主で六万石、石川主殿頭(トノモノカミ)遊佐(フサスケ)といわれた。その殿様のお道    楽は浮世画であって、俳優の似顔などを描かれた。そうして画を豊国に習われ、国広という号をさえ持    っておられた。江戸三百年の間n、浮世絵の弟子になったり、俳優の似顔を描いたりした大名は、この    石川主殿頭のほかにはない。無類一品の殿様である。豊国代々の紋章になったあの年の字を丸くした紋    所も、亀山侯の徽章であるのを、殿様が初代に襲用を許したそうだ。     〈以下、娘きんの国花女襲名とその画業のこと、またきんと倉橋家に関する記事がある〉      三田聖坂町の功運寺の過去帳を見ると(中略、豊国の祖父母・父母の戒名)豊国の分は、     実彩麗毫信士【文政八年正月七日】 中バシ歌川豊国【俗名倉橋熊吉】     真相如月信女【天保五年七月廿一日】豊国母    とある。倉橋氏の記載は、この後過去帳にない。塋域にも、このほかの法名を刻した碑はない。それは    養子たる二代目豊国が家を去ったから、倉橋家には人間がいなくなってしまったのである。ここに豊国    母とあるのは、養子源蔵(二代目豊国)が喪主であった証拠だと思う。そうして二代豊国の母と記され    た女は、『東錦歌川列伝』に「真相如月信女」は、二世の義母にて一世の妻なりとあるのを、漫然肯定    するのではないが、何としても初代のことと認めるよりほかはあるまい。この妻も、養子の源蔵も、汎    称して中橋、詳しくいえば上槇町の初代の宅にはいなかった。どこに至ろう。宝暦以来の旧居、芝の神    明町の人形屋の店舗を維持していたと思われる。かれが天保五年に没した後に、二代目が本郷春木町へ    退いたというのも、神明町から転じたのであろう。我等は、初代豊国がその妻と別居していたことを信    じたい。    〈以下、板木師(彫師)長子直次郎に関する記事があり、省略〉      滝沢馬琴が「後の為の記」に     歌川豊国は一男一女あり、女子は陰(カク)し子なりければ、生涯父と不通なり、男子は彫工になりたる     が、放蕩にて住所不定なり、因て弟子を夫婦養嗣したり、これを後の豊国といふ、画はいたく劣れり    と書いたのを尊重したい。一男というのが直次郎で、一女というのはいうまでもなくきん女である。    (中略)    二代目が死んで十年も過ぎて、国貞が国芳と激しく名声を争った末に、師匠の実子というので、国貞が    きん女に接近して、襲名の口実を得た。それまでは弟子達の間にも言い出されずにいたらしい。初めて    出版する錦絵に豊国女と書かなかったのも、二代目が門人扱いにしたのも、その女との関係が関係だけ    に、公然と初代豊国の娘だというのに、都合がよくなかったのであろう〟    〈「初めて出版する錦絵」とは、文政三年刊の役者絵で、瀬川菊之丞と関三十郎の似顔絵をいうらしい。それには「豊     国門人十一歳きん女画」とある由。これを出版する時、父豊国は「豊国女十一歳きん女」と署名させようとした。し     かし「本人は、門弟衆と同じように豊国門人と何故書かせないのかと言って、ついに豊国女とせずに、豊国門人と書     いて刊行してしまった」という挿話を記している。要するに、国花女は初代豊国の実子であったが、いわゆる婚外子     である。きん女が、実父豊国の勧めがあったにもかかわらず、「豊国女」の署名を用いず「豊国門人」としたのは、     その自覚の表れなのかもしれない〉  ◯「集古会」第百三十六回 大正十一年(1922)三月(『集古』壬戌第三号 大正11年5月刊)   〝林若樹(出品者)歌川豊国画 東都自慢花名物 望月窓秋輔作 中本 一冊〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵 歌川豊国「向島図」〈初代か三代目か不明。小林文七嗣子〉  ◯「集古会」第百五十三回 大正十四年(1925)十一月(『集古』丙寅第一号 大正14年12月刊)   〝三村清三郞(出品者)豊国画 御覧親孝経 享和二 三馬作〟    ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯「梅ヶ枝漫録(一)」伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝初代豊国の墓のある三田の聖坂の功運寺(現在は中野へ移転)のつけとゞけは、私共がしたり、初代豊    国の家内の後に縁づいた埼玉の粕壁の上村平兵衛といふ呉服屋 その上村の方でしました。    本郷の方は、全然かまはなかつたのです。夫婦養子をしたとか云ひますが、私は何とも聞きませんでし    た。    私の祖母は、初代の後妻だつたらうと思ひます。直次郎とかいふ息子があつた由ですが、放蕩のため行    方が知れないといふ話がありますが、母は何とも申しませんでしたから、知りません。「豊重」と云つ    てゐますが、国虎などは「国重」と云つてゐました(中略)    初代の絵が、末になつておちたといふのは、永い事飯をたべると腹痛がする。それで病んでゐました。    腕の鈍つたのは、そのせいかも知れません。弟子に代筆させたのは、どうですかしら、しかし酒を飲ん    でも、よそでは固くなる一方でした。家にかへると怒るのです。    あの商売で、勝負事は全く嫌ひでした。碁、将棋、双六かるた、何でも叱言(こごと)を云ひました。そ    れですから手なぐさみは、決してさせませんでした〟  ◯「集古会」第百五十五回 大正十五年(1926)三月(『集古』丙寅第三号 大正15年5月刊)   〝室井平蔵(出品者)豊国外 錦絵 花の隅田川 約三百枚 三帖〟  ◯「集古会」百五十六回 大正十五年五月(『集古』丙寅第四号 大正15年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)豊国 錦絵 妙義山参詣群集図 三枚〟  ◯『狂歌人名辞書』p154(快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川豊国(初代)、一陽斎と号す、通称倉橋熊右衛門、東都芳町に住す、浮世絵を豊春に学びて出藍の    誉あり、歌川派中興の祖、文政八年正月七日歿す、年五十七〟    ◯「集古会」第百七十五回 昭和五年三月(『集古』庚午第三号 昭和5年5月刊)    中沢澄男(出品者)豊国画 錦絵 海女鮑取の図 一枚〟 〈初代か〉  ◯「集古会」第百八十回 昭和六年三月 於無極亭(『集古』辛未第三号 昭和6年5月刊)    浅田澱橋(出品者)豊国画 錦絵 時世七福人 一枚 /同画 錦絵 今様三十二相 一枚〟〈初代か三代か〉    鈴木馨 (出品者)豊国画 猫児牝忠義合奏  一冊 文化二年    〈黄表紙〔国書DB〕の書名は「猫奴牝忠義合奏」〉    ◯「集古会」第百八十一回 昭和六年五月(『集古』辛未第四号 昭和6年9月刊)   〝浅田澱橋(出品者)豊国画 錦絵 芝神明揚弓女の図 一枚 江戸名所百人美女〟〈初代か三代か未詳〉  ◯『浮世絵師伝』p132(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国    【生】明和六年(1769)   【歿】文政八年(1825)一月七日-五十七    【画系】豊春門人      【作画期】天明~文政    歌川を称し、一陽斎と号す、倉橋氏、俗称熊吉、後ち熊右衛門と改む。父は俗称を五郎兵衛といひ、宝    暦の頃より芝三島町に住し、木彫人形師として名手の聞へあり、豊国其の家に生れて、幼より画を好む    こと甚だしく、ひそかに画家たらむことを志望せしが、恰も同町には浮世絵の大家歌川豊春の住めりし    を以て、乃ち其が門下に入りて薫陶を受く。天明六年発行の黄表紙『無束話親玉』(新〈ママ森〉羅亭万    象作)は、彼が草双紙に挿画せし最初のものなり、尋で翌七年の干支を有する中判錦絵の美人画あり、    されば彼が十八歳前後の頃、既に其の作品を発表せしものなる事を知るに足るべし。而して、初めは師    風に近き美人画を描きしが、漸次清長・歌麿等の特長を採り、寛政五六年頃に至りては、彼が技巧上に    非常の進境を示したりき。則ち其頃よりして、役者似顏絵に筆を染め、彼が出世作とも称すべき「役者    舞台之姿絵」(口絵第四十五図参照)数十枚の如きは、実に寛政六年より翌七年に亘りて発表せしもの    なり。固より、彼の役者絵は春英に多大の感化を受けしものなれども、しかも亦彼が天分に豊かなりし    事を認めざるべからず。寛政以後、享和を経て文化に入るや、彼が作品は美人画よりも役者絵を以て大    多数を占め、世人亦彼を目して似顔絵師と称するに至れり。然れども、其の数愈々多きを加ふるに従ひ、    其の技益々廃頽的傾向を生じ、徒らに時流に迎合して、芸術的向上を疎外せしが如き観なきにしもあら    ず、これ彼が爲めには悼むべきも、文化史的変遷を示したる点に於ては、寧ろ重視せらるべきものなり    とす。彼が未だ名を成さゞりし頃、芝の絵草紙問屋和泉屋市兵衛(略称泉市)に請ひて、初めて其が処    女作を発表せし事は、眈に諸書に記載する所なるが、そは要するに、彼と版元とが同町内に居住せしが    爲め、自然斯かる機縁を生ぜしものに外ならず。併し彼が斯界に名声を博し、且つ三島町より尾張町、    堀江町(或は芳町)、上横町等に転居せし後と雖も、尚ほ旧誼を重んじて、和泉屋の需めに対しては特    に厚く意を用ふる所ありしと云ふ。彼が、汗牛充棟も啻ならざる多数の作品中より、主要なる絵本のみ    を挙ぐれば左の如し。     ◯絵本匂扇子(寛政初頃)          ◯燕都乃見図(同七年)      ◯俳優卅六家撰集(国政と共画 寛政十一年) ◯増補戯子名所園舎(同十二年)      ◯役者三階興(同十三年)          ◯絵本時世粧(享和二年)      ◯俳優三十二相(同二年)          ◯役者此手柏(同三年)      ◯役者相貌(ニガホ)鏡(文化元年)      ◯役者似顏早稽古(同十二年)      ◯豊国年玉筆(文政十三年)    彼には一男一女あり、男は直次郎(豊年か)、女はきん(国花女(クニカメ))といひ、両人共多少画道に    たづさはりしが、直次郎は故ありて廃嫡となり、きんは後に他に嫁せり、乃ち門人豊重に他の女を配し    て夫婦養子とす、豊重は師の歿後間もなく二代豊国を襲名せり。彼が法名は得妙院実彩霊毫信士といひ、    三田聖坂弘運寺に葬れり。また、文政十一年八月門人等協力して、本所柳島妙見堂境内に一砕を建立し、    題して「豊国先生瘞」(四方真顔撰、山東京山書)といふ。碑背には門人等の連名あり、就中、国政・    国貞・国安・国丸・国直・国芳・国虎及び二代豊国等最も著名なり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天明六年 丙午」(1786)p143   〝此年、歌川豊国、青本『無束話親玉』に画く、蓋し処女作なるべし〟
  ◇「寛政九年 丁巳」(1797)p161   〝正月、鳥居清長・勝川春潮・同春好・同春英・歌川豊国等の挿画に成れる『美満寿組入』出版〟   〈『美満寿組入』は烏亭焉馬編〉   ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝正月、歌麿・豊国・国政三人の手に成れる『俳優楽室通』出版〟
  ◇「寛政一二年 庚申」(1800)p165   〝正月、歌川豊国の画ける狂歌書『若紫』。同じく豊国が画ける『戯子名所図会』出版〟
  ◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)p166   〝正月、歌川豊国の『俳優三階興』出版〟
  ◇「享和二年 壬戌」(1802)p168   〝正月、歌川豊国の『絵本時世粧』『俳優三十二相』出版〟
  ◇「享和三年 癸亥」(1803)p169   〝此年、芝居に関する絵本数多出版せり。    一月、勝川春英・歌川豊国両人の画にて式亭三馬の著作なる『戯場訓網図彙』八巻五冊、       歌川豊国画て篁竹里著作の『絵本戯場年中鑑』三冊。同じく豊国にて立川焉馬著作       の『役者此手嘉志和』二冊出版    正月、歌川豊広・歌川豊国両人の画に成れる『御伽かのこ』出版〟
>   ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804)p181   〝正月、歌川豊国の『俳優相貌鏡』出版。    五月、江戸の浮世絵師勝川春英・同春亭・歌川豊国・喜多川歌麿・同月麿等作画により手鎖五十日の    刑に処せらる〟
  ◇「文化四年 丁卯」(1807)p176   〝正月、鳥居清長・歌川豊国・勝川春好・菱川宗理・柳々居辰斎・葛飾北鵞等の画『追善数珠親玉』出版〟
  ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝此年、清長・豊国・春亭等の画に成れる『江戸紫贔屓鉢巻』あり〟
  ◇「文化九年 壬申」(1812)p182   〝九月、歌川豊国の画ける『東名残門出錦袖』出版〟
  ◇「文化一二年 乙亥」(1815)p187   〝九月、歌川豊国『四天王大阪入』を画けり〟
  ◇「文化一四年 丁丑」(1817)p190   〝正月、歌川豊国の画ける『役者似顔早稽古』出版〟
  ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝正月、豊国・国貞・辰斎・戴一・国丸・国安・春亭・武清・玉山等の挿画ある『以代美満寿』出版〟
  ◇「文政八年 乙酉」(1825)p200   〝正月七日、初代豊国歿す。行年五十八歳。(初代豊国は倉橋五郎兵衛といへる木版彫刻師の子にして、    父は歌川豊春の知人なりしより、幼時より豊春の門に遊び、同門豊広と共に浮世絵界に名声を博するこ    とに至りしなり。俳優似顔絵は其得意とするところなれども、前半生の読本等の挿絵も亦豊国独特の妙    を有し、師の豊春よりは遙に門人も多く〝、歌川派を盛んならしめたるも豊国一人の力多かりしなり。    一陽斎と号せり)〟    ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年(1936)一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝森潤三郞(出品者)歌川豊国画 鼠子婚礼塵劫記 一冊 曲亭馬琴作 寛政五年板    相良顕三(出品者)豊国画 錦絵 鳥羽絵の升六 一枚 小泉彫兼    〈改印「申七改」万延元年7月・清常板〉  ◯「集古会」第二百十回 昭和十二年三月(『集古』丁丑第三号 昭和12年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川豊国画 梅桜対姉妹 合巻 二冊 曲亭馬琴作 文政七年板〟  ◯「集古会」第二百十六回 昭和十三年五月(『集古』戊寅第四号 昭和13年9月刊)   〝中沢澄男(出品者)豊国画 妹背山長柄文台 二冊 京伝作 読切合巻 文化九年〟  ◯「集古会」第二百十八回 昭和十三年十一月(『集古』己卯第一号 昭和14年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)一陽斎豊国画 成田山御手の綱五郎 三冊 亀東作 読切合巻 文政八年〟  ◯「集古会」第二百二十回 昭和十四年三月(『集古』己卯第三号 昭和14年5月刊)   〝来原瓔助(出品者)豊国 板画 菊見の美人 一枚    小沢一蛙(出品者)豊国画 花方揃侠気名弘 四枚 役者絵の上に仮名垣魯文のせりひ文句あり〟  ◯「集古会」第二百二十三回 昭和十四年九月(『集古』庚辰第一号 昭和15年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)豊国画 朝茶湯一寸口切 二冊 京伝作 鶴屋金助版     元本は前後編・文化九年刊 後摺は一冊にて絵表紙無く 名古屋にて印刷せるものなり〟  ◯「集古会」(第二百三十一回) 昭和十六年五月(『集古』辛巳第四号 昭和16年9月刊)   〝森潤三郞(出品者)双六     歌川豊国(人物)・歌川広重(風景) 江戸名所書分双六 佐野屋富五郎〟  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年(1940)序)   「中野区」功運寺(上高田二ノ三〇三)旧芝三田・万昌院(旧牛込築土八幡町)今二ヶ寺合併 曹洞宗   〝歌川豊国(画家)初代、本名倉橋熊吉、一陽斎と号す。歌川豊春に学び歌川を称す。美人、力士、俳優    の似顔を描きて其名揚れり。文政八年一月七日歿。年五十七 得妙院実彩麗毫信士。      辞世 焼筆のままかおぼろの影法師〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊春門人〟  △『増訂浮世絵』p250(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川豊国    豊国の父は倉橋五郎兵衛といふ木像彫刻師で、芝の神明辺に住んで居た。豊春と知己の間柄で、豊国を    幼い時からその門に画ばせたのである。豊国は天明六年出版の黄表紙に挿絵を画いたのが最も早い作品    と思はれる。伝へによると、豊国がまだ人に知られず、自作の版画を世に出す途の無かつた頃、神明前    の絵双紙問屋泉屋市兵衛を訪れて、潤筆料はいらないから、此の下図が錦絵になつて世に出るやう助力    してとて懇に頼んだ。市兵衛はその志に感じて、義侠的に出版した処、案外の高評を得て、非常に売行    きがよかつた。爾後、豊国の画をすべて和泉屋で引受け、協力してくれたので、大に製作に励み、出版    する毎に益々評判がよく、忽ち世間に知られたのである。一陽斎と号した。    豊国は、美人風俗を画いて、構図色彩共に温順なるものを多く作つた。数人の婦女を組合せた三枚続な    ども、よほど上品にできてゐる。著しい才気煥発の作家ではないが、着実な態度で、製作に努力し、熱    心に修養を積んだ人である。肉筆絵にも立派な伎倆をもつてゐて、美人を画いたものが可なり多く現存    する。    豊国は又役者絵に特色をもつて居た。鳥居流の如くに一の典型によつたものでなく、春章や写楽に、そ    の範をとつたのであはあるが、また一種の特徴をもつた役者絵を作つてゐる。大抵、舞台に於ける姿を    充実に写したもので、豊国自身の想内に洗練されて、一種の妙味を見せてゐる。大錦判の役者舞台之姿    絵などは、揃物として、役者絵の代表作と見てよからう。後に国貞が豊国の名を継いで盛んに役者絵を    作つたのも、初代の風に基いたのである。    初代豊国は、文政八年正月七日、享年五十七で没した。芝三田聖坂の巧運寺に葬る。法号を得妙院実彩    霊毫信士といふ。この寺は今は東中野駅から七町ばかりの中野区上高田に移転した。文政十一年八月に    は、門人一同相謀つて、柳島妙見堂境内に、豊国先生瘞筆之碑を建てた。
   豊国初期の作風  豊国が何時から絵を描き始めたか、よくはわからぬが、父が豊春と友達なので、豊    国が入門したのであるから、可なり早くから描いて居つたものであらう。然し知られて居るものでは、    天明六年で版と称せられる無東話親玉(一冊)といふ黄表紙に画いたのはその古いものに属する。丁度    十八歳の時に当るが、然し出版が正月であるから、前年に画いたもので、十七歳の作である。なほ作画    年代を考へる材料としては、天明七年に成れる忠臣蔵の図がある。それには絵の内に羊の正月とあるか    ら、其の前年に画いたものと考へられるので、矢張り十八歳の暮あたりに画いたものであると思ふ。こ    の絵を見ると非常に巧いものである。さうすれば天明六年の黄表紙と未年の印ある美人画の如きは、豊    国の作品を見るには貴重な参考史料である。そこで豊国の初期の作風を考へると、余程鳥居清長の作風    を混へて居る。    また寛政二年の黄表紙の御存夜討蕎麦も清長の作風が余程見える。豊国の黄表紙は漸く世に認められて    来たを見えて、一年ましにその数そ加へた。試に小説年表を見ると、天明六年には一部、七年には三部    八年に三部、寛政元年に六部、二年には四部、三年には急に十七部に多きに至り、それから三四年の間    十部以上を画いてゐる。この数は必ずしも、全数を挙げて居るといへないが、造花して行つた有様はわ    かる。尤も寛政の初期の錦絵の作品は美人画が主で、或ものは春章などの絵に似て居るものもあり、ま    た、清長の風に似たものもあり、英之に似通つたものもあつて、色々の作風混へて居るのが著しく目に    つくのである。
   豊国の役者絵  なほ次に注意すべきは、豊国の画く人物が、段々に役者の顔に近い相貌をもつに至つ    たことである。これを黄表紙の中に見ることができる。即ち四年五年となる間に普通の人間の顔や美人    の顔でなく、舞台姿の顔に稍々近い相貌になるやうになつた。先づ役者を画き始めて立派なものを出し    たは、正に六七年の頃である。その内でも役者舞台之姿絵は、寛政六年と七年との二ヶ年の筆である。    豊国の出世作で非常な評判になつた。当時の有名な役者の舞台の姿を画いたので、多くは一人を題材に    して居るが、二人を配したものに、一人の男はかゞみ一人の女は立つて居るのがある。これはたちばな    や(三代市川八百蔵)が佐伯蔵人に、あふみや(中山富三郎)が芸妓兼富に扮したので、寛政六年の十    一月桐座の興行である。この役者舞台姿絵は、評判がよかつたので、数多く出版したが、全数幾枚に及    ぶか、明瞭ではないが、四十枚位は出来たであらう。何れもみな出来のよいものである。その代表品の    一つとして、まさつやを挿図とした。両臂を身につけて、両手と両足とを開いた形の相貌の間に、調子    がとれて、優越した図様となつてゐる。如何にも絵に働がある。かくて好評を博したので、乗り気にな    り油が乗つたのだらう。色々の役者絵を盛んに作つた。半身もあれば大首も出る。一枚毎に意匠を凝ら    して、続々立派なものを出版した。次の八九の二ヶ年は注意すべき作品の多く出た時で、豊国は役者絵    かきの泰斗として、押しも押されもせぬ名家になり済ましたのである。
   豊国の役者絵の基く所  さてそれ等の種々の役者絵は、豊国の独創であらうか。或は師の作風に拠つ    たものであるか。或は他の作家の風に倣つたのであるかと云ふことを考へなければならぬ。然しその画    系から推すと師匠とはまるで違ふ。豊国が役者絵に向つたのは、或る他の大きな力に関係するものであ    らう。恐らく勝川春英の感化に拠つて春英風となり、更に写楽の風に這入つて行つたものと思ふ。豊国    の初期の役者絵の多くが写楽の風に倣つたものであることは注意すべきである。丁度寛政六七年の頃が    写楽の全盛期であるが、其時代の写楽の絵を巧にとり入れたのが豊国である。然しながら豊国には又豊    国一流の作風があつて、仮令勝川春英の影響を受けたといふても、写楽に拠つたとしても只徒にそれを    摸倣して居るのではない。然らば豊国一流の絵はどういふものか。先づ其構図の上に特色がある。無論    写楽の構図に最も負ふ所が多いのではあるけれども、二人の役者を一図中に巧に案配する特殊な伎倆を    もつて居る。その構図は半身像に於ても、或は全身像に於ても、二人を重ねて描いたのである。此作図    法はその作品中に多く見られる所で、是れ実に豊国の最も好んで作つた図法であり、又それが豊国の特    色といへやう。
   豊国の全盛期  さてかうして役者の絵に非常な評判を得たので、油が乗り盛んに画き出した。其の油    の乗つて画いた時期のものが、最も尊いのであつて、既にその時に於て豊国の総べての芸術上の特色を    立派に発揮して居るのである。即ち寛政年間が最も良いのであつて、この後段々変化はあるけれども、    先づ此時を以て豊国の最盛期としなければならぬ。挿図の黒板塀を背景にした役者絵は寛政期のもので、    優作の一つである。構図も巧で、版画としての色調もよい。享和にはいると、余程作風が変り細絵の役    者が続々出版されたが、半身や大首の役者絵には及ばない。併し享和年間のものも亦見るに足るのであ    るが、文化になると、また余程落ちる。作図上に於ける緊張振も足りない。以前には一点の緩みもない    のが、此時になると遺憾に思ふ点が少くない。さうして文化になつて作品は益々多くなるけれども、其    作は余り立派なものではない。
   豊国の美人画  役者絵以外、美人絵に中々良いものがある。美人絵の立派なものは、役者絵をかく前、    寛政の早い頃に作つたのである。三枚続の大錦版が多いが、また極く早い頃のものには小判で優れて居    るものもある。天明未(ママ)年の忠臣蔵図の如きは、最も注意すべきものゝ一である。寛政の元年か二年    頃と思はれる紫好みの六玉川や、やはり紫を用ひ、且つ浮絵の法を応用した青楼三枚続の如きは、よほ    ど鳥居清長の風を帯びたものである。豊国は役者絵に於ても春英の風により、また写楽の影響を受けた    やうに、美人画に於ても亦当時最も名高かつた清長の風によつたのも、豊国の特性として摸倣に巧であ    つたことから、当然の行き方であつたらう。    また五年頃の出版かと思はれる有名な花鳥茶屋、しか茶やなど、三枚続になると顔の形が変つて、長め    になる。また鳥文斎栄之の影響を受けたものもある。風流八景の如きはその一例である。これはまづ七    年頃の作かと思はれる。これと殆ど同じ時位に画かれた風流七小町略姿絵は歌麿の図にでもありそうな    ものである。要するに、豊国は当時の大家の影響を受くることの著しかつた人である。然しその間にも、    豊国その人の特色の表はれて居るのは勿論である。まづ七八年頃は、役者絵を専ら画いたので、美人画    は少いが、やはりこの時期までに画いたのはよろしい。然しこの後画風が色々にかはり、十一年頃には    豊広と合筆で両画十二候といふ組の揃物を作つたが、その関係であるか、両者の画風はよく似て居る。    この風は享和年間まで続くが、この後は多く役者絵をかき、美人画としては、とり立てゝいふ程のもの    もない。
   絵本草紙類の挿絵  それから又黄表紙、合巻、絵本の類にも頗る骨を折り、その出版された数は四百    数十部の多きに達するであらうといはれて居る。寛政から享和頃にかけては随分盛んに画いた。役者を    画いた絵本で、寛政十三年出版の画図俳優三階興、享和三年の役者此手嘉志和、享和四年の俳優相貌鏡    などが有名である。なほ晩年のものであるが、文化十四年出版の戯場役者似顔画稽古も長く俳優をかく    ものゝ手本となつた。これ等は僅かに二三の例を挙げたに過ぎないが、豊国は非常な精力家で、出版屋    が豊国の絵ならば世の売行がよいので、豊国を方々追廻して絵を画かせて居る。
   それらの中で読本の挿絵で有名なのは、桜姫全伝とか稲妻表紙とか、或は本朝醉菩提とかいふものであ    る。元来当時の文学は作者と絵師との力で、世の中にもてはやされたので、此時代の小説家は、自分の    文章だけでは売れない。どうしても絵師の力を仮りなければならぬ。其為に小説家と絵師との間に、度    々争ひが出来て居るが、何時も絵師方に勝を制せられて、作者と絵師の名前を並べるにも、豊国絵京伝    作といふやうに絵師の名を先に書して居る。それが両者の争に於て、絵師の勢力を取られた結果である。    それを以て見ても、絵師の力が大きなものであつたと云ふことが窺ひ知られる。
   豊国先生瘞筆之碑に刻まれる門人  それに又、豊国は門人を養成することが、非常に上手であつたと    見え、門弟は非常な数である。文政十一年に豊国が死んでから四年目に、弟子達が集つて、柳島の妙見    堂に、豊国先生瘞筆之記を刻して碑を建てた。その背面に建碑者の連名があるから、豊国の門下を知る    には、最も都合のよい材料である。
     〈以下、門人の名あり。文政十一年の条参照〉

   とある。これによると、豊国の門人にまた弟子があつて、それ等の人々まで、筆塚の碑を建てることに    関係して居たのである。これを以て見ても歌川派の如何に栄えたかといふことがわかる〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川豊国画版本〕    作品数:405点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:豊国・豊国一世・歌川豊国・一陽斎・一陽斎豊国    分 類:黄表紙195・合巻140・読本19・滑稽本13・演劇絵画7・咄本7・絵本5・        歌舞伎3・艶本2・狂歌2・演劇2・絵画3・役者評判記1・浮世絵1・人情本1・        絵本番付1    成立年:天明6~8年 (7点)  (天明年間合計9)        寛政1~13年(138点)(寛政年間合計139点)         享和1~4年 (34点)        文化1~14年(149点)(文化年間合計151点)        文政2~9年 (49点)   (一陽斎名の作品)    作品数:9    画号他:一陽斎豊国    分 類:合巻5・読本2・黄表紙1・演劇1    成立年:寛政12年序  (1点)        文化2~6年  (4点)        文政2・5~6年(4点)    〈作品数403は三代目豊国(国貞)の566につぐ多さである。しかも、草双紙(黄表紙・合巻)だけで八割を越え     る。歌川派が草双紙の挿絵に進出して毎年夥しく生み出される作品の画工を請け負い、時に版元も作者も制御しきれ     ぬほど巨大な勢力を形成するようになってゆくのは、この初代豊国にみられるような旺盛な制作意欲を、派として受     け継いでいったからにほかならない。一枚絵と版本との両面で、版元との結びつきを強め、江戸の大衆文芸界にとっ     て必要不可欠な存在にまで、歌川派を高めたのが初代豊国なのである。なお、浮世絵とあるのは「今様娘七小町」〉