Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春浮世絵師名一覧
〔享保20年(1735) ~ 文化11年(1814)1月12日・80歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   『義太夫年表』近世篇・第四巻・義太夫年表近世篇刊行会編  ☆ 明和七年(1770)    ◯『半日閑話 巻十二』〔南畝〕⑪343(大田南畝著・明和七年六月十五日)   〝鈴木春信死す    十五日、大和絵師鈴木春信死す。【この人浮世絵に妙を得たり。今に錦絵といふ物はこの人を祖とす。    明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかヽずして云、われは大和絵師也、何ぞや川    原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春    死して後養子春信と名のりて錦絵を出す】〟    〈二行割り書き「浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す」の意味がよくわからない。豊春の没年は     文化十一年(1814)とされる〉    ◯『役者裏彩色』明和七年刊役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31)   〝若女形之部    見立浮世絵師に寄ル左のごとし   【いわくあり開口】山下金作   森田座  何をされてもわつさりとする春信  〈鈴木春信〉    上上吉     吾妻藤蔵   市村座  武道にはちと角があつてよい菱川  〈菱川師宣〉    上上吉     中村喜代三郎 同座   どふみても上方風でござる西川   〈西川祐信〉    上上半白吉   中村松江   中村座  思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調〉    上上白吉    尾上松助   市村座  此たびはとかくひいきと鳥居    〈鳥居清満か〉    上上半白吉   瀬川七蔵   中村座  瀬川の流れをくんだ勝川      〈勝川春章〉    上上半白吉   山下京之助  森田座  風俗はてもやさしひ歌川      〈歌川豊春〉    上白上     尾上民蔵   市村座  うつくしひ君にこがれて北尾    〈北尾重政〉    上上      嵐小式部   森田座  いろ事にかけては心を奥村〟    〈奥村政信〉    ☆ 安永四年(1775)    ◯『義太夫年表』(安永四年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画「花襷会稽褐布染」署名「豊春画」正月二日より・結城座・浅田新兵衛板    ☆ 安永五年(1776)    ◯『義太夫年表』(安永五年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画「桜姫操大全」署名「豊春画」正月二日より・肥前座・板元不明    ☆ 安永六年(1777)    ◯『義太夫年表』(安永六年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画「義経千本桜」署名「豊春画」二月八日より・外記座・中嶋屋伊左衛門正板    ☆ 安永七年(1778)    ◯『義太夫年表』(安永七年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画か?    「菅原伝授手習鑑」署名なし 正月二日より・肥前座・板元不明    「妹背山婦女庭訓」署名なし 正月二日より・薩摩座・中嶋屋正板     〈署名はないが、参考までに取り上げた〉    ☆ 安永八年(1779)    ◯『義太夫年表』(安永八年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画か?「田村麿鈴鹿合戦」署名なし 七月六日以前・外記座・中嶋屋正板     ☆ 安永九年(1780)    ◯『義太夫年表』(安永九年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊春画    「碁太平記白石噺」署名「豊春画」正月二日より・外記座・中嶋屋正板    「碁太平記白石噺」八段目「敵討の段」署名「豊春画」来ル三月より・外記座・追加番付 中嶋屋正板    「新吉原燈籠濫觴」署名「豊春画」夏十五日より・外記座・中嶋屋正板    「ひらがな盛衰記」署名「豊春画」七月七日より・肥前座・板元不明     ☆ 安永年間(1772~1780)    ◯『増訂武江年表』1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「安永年間記事」)   〝浮世絵師鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成しを、清長が工夫より殊に美麗に成たり)、    尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟     ☆ 天明三年(1783)    △『狂歌師細見』(平秩東作作・天明三年刊)   (巻末「戯作之部」に続いて)   〝画工之部    哥川 豊春    北尾 重政 同 政演 同 政美    勝川 春章 同 春朗 同 春常 同 春卯 同 春英 同 春暁 同 春山    関  清長      うた麿 行麿〟    ☆ 天明四年(1784)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明四年)   「歌川画」(遊女)「歌川豊春画〔花押〕南杣笑楚満人梓彫」〔都立図書館〕    賛なし。帯「天明四甲辰」〈落款の「歌川」、大の月の漢数字を組み合わせて擬える〉  ☆ 天明五年(1785)    ◯「浄瑠璃年表」〔義太夫年表〕(天明五年刊)   ◇義太夫番付    歌川豊信画    「式三番叟」「吉水恵方土産」署名「絵師歌川豊信筆」正月二日より・薩摩座・中嶋屋正 西村新六板    ☆ 天明六年(1786)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」(天明六年刊)(『近世文芸 研究と評論』34~36号)    十一月 中村座 署名 鳥居清長筆 村山源兵衛正板        桐 座 署名 歌川豊春筆 松本屋万吉正板            〈「(番付の)形式が定まって以降、鳥居派以外の絵師が描いたのはこの時が初めて」とあり〉        森田座 署名 鳥居清長筆 金井半兵衛板 二板あり       ◯『歌舞伎年表』⑤36(伊原敏郎著・昭和三十五年刊)   (「天明六年」の項)   〝十一月一日、桐座、顔みせ、「雲伊豆幡揚(ムツノハナ(ミツギノハナ)イヅノハタアゲ)」    此の時の絵看板及び顔みせ番附を歌川豊春描けり。前年に二世鳥居清満死して、描く者なかりしならん〟    ☆ 天明七年(1787)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天明七年)   ③「豊春画」(婦人二人、絵と書の書き初めか、床の間に琴 香炉 床脇に碁盤碁笥)2-13/70     賛なし〈書に大の月〉  ☆ 寛政七年(1795)    ◯『【狂歌歳旦】江戸紫』狂歌堂主人(鹿津部真顔)序 萬亀亭主人(江戸花住)跋 寛政七年刊   〝(狂歌賛)有雅亭曽礼好兼      ひやうしよく暮を仕舞ふて初鶏も はやしのゝめにうたふ一声     (三番叟図)行年六十一翁豊春画〟    〈豊春は寛政七年六十一歳、生まれは享保二十年(1765)〉     ☆ 寛政十年(1798)    ◯「江戸顔見世番付諸板一覧」(寛政十年刊)(『近世文芸 研究と評論』34~36号)    十一月 中村座 署名 歌川新右衛門筆 村山源兵衛正板 二板あり        市村座 署名 鳥居清長筆   福地茂兵衛板         森田座 署名 鳥居清長筆   東田利右衛門板 五板あり        〈歌川新右衛門は歌川豊春とされる。顔見世番付の作例は過去天明六年に一度あるのみ〉    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯「シカゴ ウエストンコレクション 肉筆浮世絵」    歌川豊春画「牛に乗る小原女」紙本一幅    落款「行年六十五翁 一龍齋豊春画」印章「一龍齋」    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱445(寛政十二年五月以前記)   〝近来うき世絵をにしき絵にかき出せり。宝暦の頃のうき世絵にまされり。日本橋に住ス〟    ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝浮ゑ名人 歌川豊信(ママ)【春歟、重長門人ニアラズ】〟
   「歌川派系図」    ☆ 享和二年(1802)       △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)     昔絵は奥村鈴木富川や湖龍石川鳥居絵まで 清長に北尾勝川歌川と麿に北斎これは当世    歌川一龍斎豊春(他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』 式亭三馬自画作 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)   〝青本 草双紙は大人の見るものと極まる    〈草双紙が大人の読み物となったのは、安永四年(1775)刊、恋川春町作の『金々先生栄花夢』とされる〉    画工 北尾、勝川の浮世絵はやる。春章を俗につぼといふ    同  歌川豊春、浮世絵に名あり。鳥居清長、当世風の女絵一流を書出す。世に清長風といふ    同  一流ある画工、おの/\の画のかき方、当世風にかはる    作者 芝全交が社中万象亭、双紙を作る。恋川春町画作。万象亭、全交、可笑味をおもにとる〟     〝昔より青本の画をかゝざる人の名    奥村   鈴木春信  石川豊信  文調    湖龍斎  勝川春章  春好    春潮    春林   春山    春鶴    春常 【勝川門人数多あり】    歌川豊春 【此外にも洩れたる画者多かるべし。追て加之】〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化元年刊)    歌川豊春画『絵本江戸錦』二冊 笑話 東都画工歌川豊春筆 桜川慈悲成作 奧村喜兵衛板  ☆ 文化二年(1805)  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇歌川豊春(下24/110コマ)   〝文化二年豊春は押上春慶寺の普賢堂の額を画く、其図は日蓮上人龍の口遭難の所なり〟    (『読売』紙上局外閑人記事)    ☆ 文化五年(1808)    ◯「咄本年表」〔目録DB〕(文化五年刊)    歌川豊春画『宝入船七福大帳』松爾楼画(豊春)感和亭鬼武作    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝歌川豊春【一竜斎、日本橋後赤坂住】近来浮絵をにしき絵にかき出せり、宝暦の頃の浮絵にまされり〟    〈南畝の『浮世絵考証』記事に「一竜斎」の号と「後赤坂住」を加筆〉    ☆ 文化初年(1804~)    ◯『反故籠』〔続燕石〕②170(万象亭(森島中良)著、文化年中前半)   (「江戸絵」の項) 〝浮画は豊国が師歌川豊春が書たる者を妙とせり〟    ☆ 文化八年(1811)    ◯「常盤御前」肉筆(太田記念美術館蔵)    歌川豊春画「常盤御前」扇絵    落款「行年七十七 一龍齋豊春画」  ☆ 文化九年(1812)  ◯『山東京伝年譜稿』p92(水野稔著・ぺりかん社・1991年刊)   「七福神図」肉筆 鳥居清長・葛飾北斎・勝川春英・歌川豊春・同豊国・同国貞合筆    (永寿堂企画 文化七年ごろからこの年にかけて完成)    署名「一龍斎行年七十九歳 歌川豊春画」〈79才だとすると文化10年に相当するのだが〉  ☆ 文化十一年(1814)(一月十二日没・八十歳)    ☆ 没後資料  ☆ 文化十四年(1817)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「日本橋 古人・浮世画」〝豊春 号歌川 桧物町(姓空欄)正次郎〟  ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝三馬按、豊春号一龍斎、俗称庄三郎、但馬屋ト云。伝アリ別記ス〟  ☆ 文政十三年(1830)    ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p409(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   〝江戸絵は菱川より起りて、後鳥居庄兵衛清信と云者あり。初め菱川やうを学びしが、中頃画風を書かへ    歌舞伎の看板をかく。今に相続きて其家の一流たり。勝川流は宮川長春を祖とす。長春は菱川の弟子に    はあらねども、よく其風を学びたる者也。勝川流にては春章すぐれたり。歌川流は豊春より起る。豊春    は西村重長の弟子なり【重長は初めの鳥居清信の弟子なり。後に石川豊信といふ】此流にてはこの頃ま    で歌麿が絵世にもてはやされたり。其外あまたあれ共枚挙にたえず〟    〈喜多村筠庭は、豊春を西村重長の弟子とするが、何に拠ったものであろうか。斉藤月岑の『増補浮世絵類考』はこれ     を否定している〉  ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③303(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝歌川豊春【安永ヨリ、天明、寛政、享和、文化ノ間、享年七十余歳ニテ歿ス】     俗称庄三郎、但馬産ト云、居始芝三島町、後日本橋、落髪シテ後赤坂田町ニ住ス、号一竜斎、江戸の     産也    豊春は始め(空白)門人なり、後流行の風俗を画き、一家をなせり、操芝居の看板画をかけり、彩色に    委し、寛政の比、日光山御修復の節、彼地職人頭を勤めしとぞ、此人浮世絵妙手なり、浮世絵とて横に    かきし錦絵など多し、類考に云、近来浮世絵を錦絵に多くかき出せり、宝暦の比うき世絵を勝れりと云    々、草双紙の類は多くかゝず、弟子に高名の者多し〟    〈寛政の日光修復は12年(1800)とされる。本HP「浮世絵事典」【に】日光修復」参照〉
   「歌川豊春系譜」  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝歌川豊春 (安永より天明、寛政、享和、文化の間、享年七十余歳にて没す)     俗称 庄三郎(但馬屋と云) 居 始芝三島町 又日本橋近に住す 落髪して赤坂田町に住す     号 一竜斎 江戸の産なり    欄外.〔〈月岑云 豊春は石川豊信ノ門人歟 其説前ニモイヘリ〉〕     豊春は始め(空白)門人なり(附録に西村重長が門人と有るは非也と云々)後、流行の風俗を画き一家    をなせり。操芝居の看板画をかけり。彩色尤委し。寛政の頃、日光山御修復の節、彼地に職人頭を勤め    しとぞ。類考に云、豊春、近来浮絵を錦画に多くかき出せり(浮絵といふは、蘭画の俗にあぶらゑとい    ふものに比して画る遠景の山水を錦画に横に画し也)宝暦の頃の浮絵に勝れりと云々。草双紙の類は多    くかゝず。弟子に高名の者多し。     按るに、土佐結城の操座の看板を画く。此人の筆にて度々評判せられし珍敷図取をかきしと云り。其     後春英も是に次て劣らず書しものなるべし。今は春徳が筆なり。春亭も一両度書し事ありし。    〈月岑云〉柳島春慶寺普賢并の堂内に、日蓮上人竜の口御難の図あり。豊春が〈六十七の〉筆なり。此    図に豊信補画とあり、この豊信もしくは石川秀葩が事にして、豊春は豊信の門人にや。
   「歌川豊春系譜」      後年、豊春と名のりし者あり。文政の始なりし。           押上春慶寺碑    〈補〉     文化十一戌春 行年八十才 二代目歌川豊春       花は根に         元祖 歌川昌儔        名は桜木に          歌川妙歌            普賢像        歌川首 カ       のりのうてなも         大野規行            妙法の声       歌川豊秀                       歌川豊国                       歌川豊広                京師板行のよみ本に歌川豊秀といふものゝ画あり 未考 豊国の門人なる歟。      車僧轍物語  甲賀三郎巌物語 聚義雑放談等あり 尤拙し〟    〈「附録」とは笹屋邦教の「古今大和絵浮世絵始系」〉  ☆ 弘化二年(1845)    △『戯作者考補遺』p448(木村黙老編・弘化二年序)   〝豊春 桧物丁 正次郎〟    〈『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)と同じ〉  ☆ 弘化四年(1847)    ◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩155(三升屋二三治著・弘化四年序)   (酒井抱一の記事)   〝抱一公    屠竜先生は酒井侯の御由縁にして、築地御門跡の御宗門の上人なり、光琳風を学びて、世上に御画広く    認有て、今に筆の軸物数多くみゆ、下谷鴬塚村に閑居して、鴬塚様といふ、日頃よし原に遊びて、中に    も京町大文字屋の二階に遊び楽しむを好ミ給ふ、世上に光琳風を専らはやらせしは、此上人より始る。    古今稀なる御僧にして、さすが唯人ならず、姫路侯の御種と思ハるゝ処ありし、初は浮世絵師歌川豊春    の門なりしといふ〟  ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1397(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝歌川豊春【住日本橋、明和頃ヨリ寛政、号一龍斎】    或豊信トス誤カ、芝神明町ニ住云々別歟     近来浮世画ヲ錦画ニ書出セリ、宝暦頃ノウキヨ画ニマサレリ、    江川八左衛門曰、元大阪町ノ画馬屋ニテ、段々書アゲタリ
   (補)[署名]「一龍斎歌川豊春画」[印章]「一龍斎」「昌樹之印」ともに(白文方印)〟
   「歌川豊春系譜」  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪189
   「歌川豊春系譜」     ◇「歌川豊春」の項 ⑪221   〝歌川豊春    号一竜斎、俗称庄三郎〔割註 但馬屋といふ〕、江戸の産也。居始芝三島町、又日本橋辺に住す。後落 髪して赤坂田町に住す。〔割註 附録に西村重長門人と有非也と云也〕流行の風俗を画き一家をなせり。     月岑子按るに、曰柳島春慶寺普賢堂の額に、豊春七十一の画に豊信補画とある。もしくは石川豊信の 門人にや。尚尋ぬべしと有り。    土佐結城座の操看板を画くに、彩色尤も委しく珍敷図取を画きて度々評判せられし〔割註 後は春徳が 筆なり。春亭も一両度画し事あり〕。又春英も是に次て劣らず書しものなり。寛政の頃、日光山御修復 の節、彼地に職人頭を勤しとぞ。又浮絵錦絵に多くかき出せり〔割註 浮絵といふは、蘭画の俗に油絵 といふものに比して画る遠景の山水を錦絵に横に画きしなり〕。宝暦の頃の浮絵に勝れり。草双紙の類 は多くかゝず。弟子に高名の者多し。〔割註 本朝油絵の祖といふべし〕     押上春慶寺碑     花は根に名は桜木に普賢象のりのうてなも妙法の声      文化十一年戌春 行年八十歳                   二代目 歌川豊春 元 祖 歌川昌得〈明治31年刊『浮世絵備考』は「昌樹」〉                       歌川妙哥                       歌川 首〈明治31年刊『浮世絵備考』は「貢」〉                       大野規行                       歌川豊秀                       歌川豊国                       歌川豊広    後年豊春と名のりし者あり。文政の始めなりし    京師板行の読本に歌川豊秀といふ者あり。豊国の門人なるか。未詳〟    ☆ 明治年間(1868~1911)  ☆ 明治十一年(1878)   ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立) 〝寛政頃、鳥居清長巧者にて、専に行れ、歌川豊春、喜多川歌麻呂等も多分に画出し、勝川春章は歌舞伎 役者肖像を画き出し、門人多く、一枚絵多分に画き、世に被行申候、又其頃、東州斎写楽と申ものも、 似顔絵を画始候へども、格別行れ不申候〟    ☆ 明治十六年(1883)  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝祖宗略象 第四区 菱川・宮川派之類    歌川豊春     菱川ノ画家西村重長ノ弟ナリ、寛保ノ頃鳥居派ヲ学ビ、後一家ヲナス、一龍斎ト号ス〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会 4月11日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊春 画ハ歌川派ノ祖ニシテ文化十年、八十歳ニテ卒ス〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊春 遊女 一幅(出品者)若井兼三郎〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品)    哥川の祖豊春の傾城 池田英泉の花下傾城 蹄斎北馬の布さらし 魚屋北渓の稲苅 勝川春亭の子供遊    び等 何れも着色鮮美なるが 中にも哥川国貞(后二(ママ)世豊国)の田舎源氏の双幅最も艶麗なり     以上数幅は若井氏の出品なり〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝天明 歌川豊春    号一竜斎、其画する所、上品美麗、彩色殊に密にして、当時の風俗を能く写す。画風春章に相似たり。    歌川の始祖、其末流、今尚存す〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p300(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝哥川豊春    一龍斎ト号ス、家名ハ哥川、江戸ノ産ナリ、始メ芝三島町ニ住シ、後チ二本橋ニ住シ、落髪シテ赤坂田    町ニ住ス、豊春流行ノ風俗ヲ画キ、遂ニ一家ヲナス、又操芝居ノ看板ヲ画ク、彩色ニ精シ、寛政中頃、    日光廟修復ノ節、彼地職人頭ヲ勤メントゾ、此人浮世画妙手ナリ、浮世画トテ横ニカキシ錦絵ナド多シ、    類考ニ近来浮世画ヲ錦画ニ多クカキ出セリ、宝暦ノ頃ノウキ世絵ニ勝レリト、草双紙ノ類ハ多クカヽズ、    弟子ニ高名ノ者多シ、就中豊春(ママ豊国カ)豊広、豊久、豊丸、雪麿【◎ヲヤメ作者トナル名高シ】美麿    【後北尾重政トナリ、小川ト改メ、哥川トナリ、北尾ト改タム】式麿、秀麿、【二代目】哥麿【恋川春    町ト云シ人ナリ、画ヲ善ス故哥广呂カ妻ニ入夫セシ人ナリ、文化ヨリ天保ノ頃ノ人】等最モ顕ハル、安    永ヨリ天明寛正(ママ)享和文化ニ行ハル、享年七十余(燕石十種)〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川豊春 美人図 一幅(出品者)キヨソネ〟  ◯『古代浮世絵買入必携』p10(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝歌川豊春    本名 庄三郎  号 一龍斎  師匠の名〔空欄〕  年代 凡百十年前より百二十年迄    女絵髪の結ひ方 第五図・第七図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 大判、並判、中判、小判、細絵、長絵、絵本、肉筆    備考   歌川家の元祖なり、浮絵と称する横絵尤も多し。価は通常錦絵の半額乃至三分一位の割合な         り、又七福神の長絵あれども図柄不向なれば買入れぞるを良しとす〟    ◯『浮世絵師便覧』p208(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝豊春(ハル)    歌川氏、俗称庄三郎、一龍斎と号す、歌川家の祖なり、又浮絵の祖なり、西村重長門人、又石川豊信門    人ともいふ、詳ならず〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝歌川豊春 一龍斎    俗称但馬屋庄三郎。別号潜龍斎。歌川流の祖。文化十一戌年正月十二日歿す、歳七十八。浅草菊屋橋本    立寺に葬る。本所押上春慶寺にも碑有り。(豊春は豊後臼杵の人。京師に来て鶴沢探鯨を師とす。後江    戸に来て石川豊信の門に入り流行す。時装を画き一家を為せり。又操芝居土佐結城両座の看板を画く、    是安永中の事なり。始め芝三島町に住し、後剃髪して潜翁と改め、赤坂田町に住す)〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊春伝」p71
   「歌川豊春伝」      ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり〟     ◇「浮世絵師歌川雑記」p212   〝絵画叢誌に、歌川流は豊春に出で、豊春は一能斎と号す。文化年中の人にして、歌麿と名を斉(ヒトシ)う    せり〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (明治美術会展 創立十年記念・明治三十一年三月開催・於上野公園旧博覧会跡五号館)    葛飾北斎  橋下ノ図     木版  有阪北馬  富士山      水彩画    池田英泉  不忍ノ景     木版  歌川豊春  山水       木版    歌川国長  山水       銅鐫  北寿    三股川ノ景    木版    一立斎広重 雪景       墨画  鮮斎永濯  弁慶       水彩画    一勇斎国芳 唐土二十四孝ノ内 木版  小林清親  人物山水(十三面)木版          唐土二十四孝画帳 木版〟  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(32/119コマ)   〝歌川豊春 (浅草)松山町 本立寺    浮世画歌川派の元祖、四つ並べし戒名の中、歌川院豊春日要信士とある通常の石〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(35/103コマ)   〝歌川豊春【天明元年~八年 1781-1788】    通称庄三郞、一龍斎と号し、家号を但馬屋といへり、但馬の産といひ、また江戸の人なりとも云ふ、は    じめ芝三島町に住みしが、後ち日本橋辺に移り、晩年薙髪して、赤阪田町に転ぜり、石川豊信の門に入    りて画を学び、当時の風俗を画きて、終に一家を為しぬ、これ実に歌川流の始祖なり、殊に彩色に通じ    て、屡ば繰芝居の看版絵を画かり、また寛政の頃、日光廟修繕のをり、職人頭を勤めしと云ふ、文化十    一年正月十二日没す、享年七十有八、茲に本所押上の春慶寺なる普賢堂の前にある、豊春が辞世の歌碑    を掲げて、以てその伝を補ふ【墓は浅草菊屋橋本立寺にあり】      文化十一戌春 行年八十歳 元祖  歌川昌樹                   二代目 歌川豊春       花は根に            歌川妙哥        名は桜木に          歌川貢         普賢象           大野規行       のりのうてなも         歌川豊秀        妙法の声           歌川豊国                       歌川豊広〟  ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)136/218コマ   〝歌川豊春    通称但馬屋庄三郞といふ 一龍斎と号す 江戸三島町に住す 浮世絵を能くして世に称せらる 寛政年    中の人なり(扶桑画人伝 燕石十種)〟  ◯『浮世画人伝』p77(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝歌川豊春(ルビうたがわとよはる)    歌川豊春は通称但馬屋庄次郎、一龍斎と号しき、豊後国臼杵の人にして、初め京都に出で鶴沢探鯨を師    とし、後ち江戸に来り石川豊信が門に入り、当時の風俗を画き一家を起す、是則ち歌川派の始祖なり、    初め芝三島町及び日本橋桧物町等に住し、後ち赤坂田町に転住し剃髪して一龍斎潜蔵と云へり、豊春操    芝居土佐結城両座の看板を画き、意匠を凝らし彩色を巧にし大に好評を得たり。又春英、春徳、春亭等    も操座の看板を画きしと云ふ。豊春、寛政の頃、日光東照宮営繕の時、野州に出張して絵職人の頭たり    し事あり、豊春、板行の錦絵を画く事にも浮絵を専らにせり、文化十一子年正月十二日歿す、年七十八、    広徳寺前光明寺に葬る〟〈菩提寺、諸書は本立寺とする〉    「歌川豊春系譜」  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角カッコ(かな)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画(168/225コマ)    歌川豊春    当時の風俗を画き一家を為せり。采筆精美にして種々心匠を凝らし、許多(あまた)新奇なる図様を描出    せり。寛政中日光山堂宇修繕の事あり、豊春諸工の長となり、此の事を担当せしと云ふ。安永天明の人    なり〟  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年七月刊)   (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)   〝歌川豊春  「浅草寺図」  寛政頃    日下密門〟  ◯『新人国記』(横山達三著 敬文館 明治四十四年五月刊)    口絵(二ページ大折込口絵)浮絵    「浪花天満天神夜祭之図 哥川豊春画         板元 通油町北新道 丸屋市郎兵衛/小伝馬一丁目 須原(ママ)三郞兵衛」    〈「船渡御(ふなとぎょ)」の光景を画いた浮絵。本書は京都・大阪等の人情・風俗・気質を記した地誌。大阪を代表するに     ふさわしい天神祭を口絵にもってきたのは頷ける。しかしそれを江戸の出版である豊春の浮絵を起用しておこなったのか     よく分からない。〉  ☆ 大正以降(1912~)  ◯「集古会」第八十八回 明治四十五年(1912)五月(『集古会誌』壬子巻四 大正2年9月刊)   〝林若樹  (出品者)歌川豊春筆 浮絵阿蘭陀雪見図 一枚    三村清三郞(出品者)歌川豊春画 浮絵新吉原図   一枚〟  ◯『浮世絵』第八号 所収(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 上」相見香雨楼   〝押上春慶寺の普賢堂の扁額     鳥居清満筆 五代目坂東彦三郞 大星由良之助図     歌川豊春画 日蓮上人龍口御難の図 竪五尺余 幅二間ほど 金地に極彩色          普賢像 巾六尺位〟    〈豊春画「日蓮上人龍口御難の図」の由来について、当時(大正三年)の住職が相見香雨に語った内容〉   〝此の豊春の額は、寛政二年谷津会助といふものの寄進に係るものであるが、安政二年の地震に、天井と    共に墜落して、画面がいたく損したが為め 暁雲斎意信といふに、之が補修を托したのである、而して    もと豊春の落款もあつたのであるが、補修の際に意信はもとの落款の上へ金箔をおいて 今度は自分に    名を入れた、額の裏にも何だか書いてあります〟   〈この補修について、相見は次のように断ずる〉   〝妄りにもとの落款を塗抹して、補修した者が勝手に自己の名を入れるといふは、故人に対して無礼の罪    軽ろからず、よし暁雲斎が全然之をかき改めたとしても、その事由を記しおくべきものなり、此の落款    いかにも心なき業にして、惜みても尚あまりあるこどである〟    〈以下、先人の記事を引用して生年・出生地・師匠について解説(省略)次に歌川豊春と歌川豊信との関係に言及する〉   〝故高嶺秀夫氏の蔵品(今は多分東京帝室博物館の所有に帰して居るであろう)に、今様松風とも称すべき、    海浜遊女の図の掛物がある、その落款に歌川豊信筆とかいて、下に一龍斎の文字ある白文の丸印が押し    てある、さて歌川豊信なる者 従来の画伝諸書一も之を記すところなし、此の絵あるに拠りて初めて此    の名を知るのみである、然らば彼何者であるがといふことを詮議して見んに(中略)    吾輩は此の画を以て豊春の一生から申せば、中年若(もし)くは中年少しく後の作、彼の浮世絵では前か    きと愚観し、豊信は豊春の前名で、初め--恐らくは僅少の間--一龍斎豊信と称したるならんと推定    するの外なからんと考えるものである〟  ◯『浮世絵』第十号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「歌川豊春と彼一代の傑作 龍口御難図額 中」相見香雨楼   〝一、歌川一龍(ママ)豊信は豊春の前名か(記者説)〈「一龍斎」。記者とは相見香雨〉    一、歌川豊信は豊春の兄弟か      豊春の兄(本朝画家人名録)      豊春の弟(此花付録 浮世絵師略伝)    一、歌川豊信は豊春の門人か(浮世絵集、浮世絵買入必携)    以上三説 いづれも論拠薄弱にして未だ以て断案を下すわけに参らないのは、太(はなは)だ遺憾である    が、兎も角豊春伝中の一問題として、之を提出しておく〟  ◯『浮世絵』第十二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「歌川豊春と彼が一代の傑作龍口御難図額」下の一 相見香雨焉魚(10/27コマ)   〝 豊春の墓と一族(雑司ヶ谷の本教寺の墓碑と過去帳による)    豊春は明和には既に江戸へ下つて居て、その頃には田所町に住し、同六年即ち豊春三十五歳の年に長男    庄治郎を喪つた。寛政八年頃には中橋へ移つて居て、同年即ち六十二歳の時に妻に別れた、次に文化六    年七十五歳に次男が死に、同十一年の正月七日に娘がなくなつた、即ち妻子四人にみな先立たれた、殊    に娘は豊春よりは僅か六日前に死んだのであるから、豊春の晩年は悲惨なる状態であつたと想像せらる〟    〈明治40年、豊春の墓がある浅草本立寺が雑司ヶ谷に移転する時、同地に同名の寺があったため本教寺と改名〉   ◇「春慶寺の歌碑と豊春の門人」   〝         行年八十歳  二代目     文化十一戌春  元祖歌川昌樹 歌川豊春               歌川妙哥     花は根に      歌川貢      名は桜木に    大野規行         普賢象   歌川豊秀      のりのうてなも  歌川豊国         妙法の声  歌川豊広     右の名前の配列を写本の類考に誤写して、元祖歌川昌樹と歌川妙歌の二名を、歌川貢の前へならべて    かいたのがあつたものと見えて、転写本の類考は大抵そうなつて居る。又活版本の新増補類考もそうで    ある、それから妙な事に解釈せられて、一龍斎豊春は即ち二代目であつて、昌樹といふ別の人が元祖で    あるといふやうなこと思はれたらしい(中略)     元祖歌川昌樹は豊春なること申す迄もなく、妙歌は豊国春の娘であるが、此の娘が老父と扶けて家事    を取まかなつて居つて、門人共とも心易くして居たのが父子殆ど同時に死んだのであるから、追討の為    めに此の女の名も列したのであらう、二代目の歌川豊春なるものは一向に分羅図、此名此碑に厳然と刻    んであるのであるから、当時実在の人物には相違ないが、その伝記も作品も伝つて居ない、或は妙歌の    夫で、画技は拙、又はなくても二代目の名を襲いだものでもあるか(云々)〟  ◯「集古会」第百二十六回 大正九年(1920)一月(『集古』庚申第一号 大正9年2月刊)   〝三村竹清(出品者)歌川豊春 浮絵吉原大門図 一枚〟  ◯『浮世絵之研究』第四号(井上和雄編 大正十一年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「口絵の解説」(三)歌川豊春筆「遊女と禿」雨石斎主人   〝彼れの肉筆の一作品に「鳥山石燕豊房門人歌川豊春筆」とした落款があることを思ふと、石燕に学んだ    と云ふ説は確かである〟    ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵 歌川豊春「歳旦美人図」大幅〈小林文七嗣子〉  ◯『狂歌人名辞書』p154(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝歌川豊春(初代)、一龍斎と号す、通称但馬屋新右衛門、元と豊後臼杵の産、浮世絵歌川派の祖、文化    十一年正月十二日歿す、年八十〟    ◯『浮世絵師伝』p138(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊春    【生】享保二十年(1735)  【歿】文化十一年(1814)一月十二日-八十    【画系】石燕門人      【作画期】明和~文化    歌川氏、名は昌樹、俗称但馬屋庄次郎、後ち新右衛門と改む、一龍斎・潜龍斎・松爾楼等の号あり、歌    川派の祖なり。出生地は豊後国臼杵又は但馬国豊岡なりとの説あり、初め京都に出でゝ鶴沢探鯨に学び    しが、明和初期には既に江戸に移住せしものゝ如し。其が画系に就ては、西村重長門人・石川豊信門人    ・鳥山石燕門人等の諸説あれども、彼が肉筆美人画の一落款に「鳥山石燕豊房門人歌川豊春筆」とあり、    且つ画風に於ても石燕門人たることを首肯さるゝなり。彼が版画の初作らしきものに、明和五六年頃か    と思はるゝ二代沢村宗十郎(明和七年歿)の舞台姿の図(細判錦絵)あり、次で明和七八年頃の作には、    「琴棋書画」と題する四図(特大判)一組の美人画あり。それより安永年間に入りてに、専ら「浮絵」    の作に没頭し、江戸の各名勝風景の図及び外国風景の図等、相当多くの作に新機軸を出だす所あり(口    絵第三十二図参照)。天明六年十一月桐長桐座の顔見世番附と、寛政十年十一月中村座の顏見世書附と    は、特に彼が画きしものにして、後者には「絵師歌川新右衛門筆」の落款を用ゐたり、同時に芝居の絵    看板をも描きしとの説あれど如何にや。伝ふる所に由れば、寛政年間に日光霊廟補修の際、彼は徴せら    れて狩野某の配下に列し、自ら町絵師数人を率ゐて、殿堂其他の彩色に従事せしかば、当時斯界に其が    光栄を宣伝せられしと云ふ、これ即ち、彼の彩色の技に優れたりしを立証するに足るべきなり。彼が遺    弟等に依て建てられし記恩碑は、大正十二年震災前まで押上春慶寺の境内に存して、碑面には「歌川妙    歌」「二代目歌川豊春」等の名も見えたり。此の妙歌と云へるは、恐らくは彼が長女(清悟妙歌信女、    文化十一年一月七日歿)ならむとの説あり、然れども、画技には携はらざりしものゝ如し。又同寺内の    普賢堂には彼が遺筆に係れる「日蓮上人龍の口御難」の図額(安政四年、暁雲斎意信補修)を蔵しき    (大正十二年の大震災に記恩碑と共に焼失す)。住所は初め芝三島町、それより大阪町、田所町、中橋、    桧物町、赤坂田町等に転居せり。菩提所は浅草菊屋橋際の本立寺(日蓮宗)なりしが、同寺は、明治四    十年市外雑司ヶ谷字水久保へ移転せしかば、彼が墓石も今は其の地に在り(但し故ありて寺名を本教寺    と改む)、法名歌川院豊春日要信士。彼が門下には豊国・豊広の如き巨匠を出だし、其の末葉弥々絵え    て、其の流派今尚ほ絶えず、画系の盛んなること正に斯界に於ける代表的存在なり〟      ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p26   〝(歌川豊春)操人形の看板ばかりで無く、天明六年には桐座の絵看板、顔見世番附をも描いてゐる。当    時鳥居派に清長の名手あつたに拘はらず、豊春の之れに指を染たは、覇気に満た清長が一機軸を出すに    汲々として、家の業を疎にしたからでもあろうが、其四代を継いで家の業に復帰してからも、猶ほ豊春    は絵看板な描いた。寛政十年『猿若座の顔見世番附』に「絵師歌川新右衛門」とある。新右衛門とは豊    春の通称であるから、鳥居派の領分を侵触して居たことが知れる〟     ◇第二部「浮世絵師」「板上絵と成る絵」p92   〝蔦唐丸の『耕書堂漫筆』に「歌川豊春大人が東錦絵を彩るには、数枚筋彫をした板行画に一色づゝを、    絵の具皿にときたる岱赫墨にてぬり、紅、くさ色、藍などゝ傍らへ認め渡す云々」とあるを見ると、豊    春の盛時安永の末から天明へかけては、既に近頃まで行はれ居た彩色法であつたやうでもある〟    〈蔦唐丸(蔦屋重三郎)の『耕書堂漫筆』は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉          △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「豊島区」本教寺(日出町二ノ一五〇)日蓮宗(旧本郷常検寺、浅草本立寺及び本染寺の三寺合併して本    教寺と称す)   〝歌川豊春(画家)名昌樹、通称但馬屋庄次郎、一龍斎と号す。石川豊信に浮世画を学ぶ。門人に初代豊    国、豊広あり。文化十一年一月十二日歿。年七十八。歌川院豊春日要信士〟    〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を八十歳とする〉  ◯「集古会」第二百三回 昭和十年十一月(『集古』丙子第一号 昭和11年1月刊)   〝和田千吉(出品者)豊春画 三囲神社の浮絵 原色写真 一枚〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」    ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「烏合会」p217   〝 英朋の師の右田年英は、私の師年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健    康に、おおどかな筆致を有っていた。それに就いて想い起すのは歌川流の始祖豊春が豊後の臼杵(ウスキ)    の出で、右田氏と同郷である〟    〈英朋は鰭崎英朋〉      ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)    ◇「文化元年(二月十九日改元)甲子」(1804) p171   〝正月、歌川豊春の『絵本江戸錦』出版〟     ◇「文化一一年 甲戌」(1814)p185   〝正月十二日、歌川豊春歿す。行年七十八歳。(豊春は歌川流の画祖にして、俗称但馬屋庄次郎、生国は    豊後の臼杵の人、始め京都に出で鶴沢探鯨の門に入り狩野派の絵を学び、後江戸に来りて鳥山石燕、石    川豊信等に私淑し、遂に一家を成せるが如し。号を一龍斎亦潜龍斎といひ、芝宇田川町に住みしよりそ    の町名に因んで歌川と称せるなりといふ)〟    △『増訂浮世絵』p122(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝歌川豊春    歌川流の始祖として特に著名であるが、豊春の出生地については、諸説区々である。但馬豊岡ともある    が、豊後国臼杵の人といふ説が最も確からしい。初め京都に出て、狩野派の鶴沢探鯨に就いて、画技を    学んだといはれてゐる。而して宝暦末か明和の頃に江戸へ下つたものらしい。浮世絵は江戸に来て後に    学んだものと思はれるが、その師承については、鳥山石燕の門下といはれてゐるが、その作品から推す    と、石川豊信の影響が特に著しい。豊春の俗称は但馬屋庄次郎と云つたが、此の名を後に長男へ譲つて、    自分は新右衛門と改名し、又昌樹と云つた。一龍斎又は潜龍斎、潜翁などゝ号した。歌川の氏は、嘗て    芝宇田川町に住んでゐたのに因んで名乗つたのだといふ。    豊春の版画    豊春は浮世絵に携つたのが、割合に晩かつた為めか、錦絵の遺作は比較的少い。明和の半頃から役者絵    を作つたが、安永年間に、浮絵の法によつて、風景版画に新旗幟を翻した。江戸の風景ばかりでなく、    外国の風景図を作つてゐる。和蘭の図によつて新工夫を加へたものもある。豊春の版画は、浮絵を発達    させた点で、特に注目せらるべきである。    浮絵の劇場内部の図は、西洋の遠近法によつて、よく表現することを得たのであつて、豊春に至つて、    この種のものは殊に発達したのである。当時の人々は、清新の眼で以てこれを鑑賞したことであらう。    豊春の肉筆画    豊春はもと狩野派の手法を学んだので、筆の運用が巧であり、普通の浮世絵師より筆力が優れてゐる。    従つて肉筆の遺作は少くない。鏑木清方氏所蔵の美人図の大幅は、筆力によつて画いたもので、濃麗な    賦彩のもので重みもあり、堂々たる作である。本書に挿絵とした茶摘女図は頗る軽快な筆を用ひ、あか    ぬけのした所もあり、肉筆画の手腕の見るべきものがある。    豊春は寛政八年に、日光廟修繕の時、町絵師職人頭として仕事を担任したことがあつた。これ先例のあ    ることで、彩色に長じた絵師を撰むのであるから、豊春が此の選に当つたのは、特に彩色で名声を有し    た為めである。以て肉筆画に優れてゐたことも知られる。されば生涯を通じて肉筆を作つたことは少く    ない。殊に晩年には肉筆のみを画いてゐた。    豊春の墓所    八十歳の高齢を保ちて、文化十一年正月十二日に没した。法号を歌川院豊春日要居士と云ひ、浅草菊屋    橋の本立寺に葬つたが、明治四十年に、同寺は高田町雑司ヶ谷水久保に移つて本教寺と改称し、墓石も    そこに移されて現存してゐる。    豊春の門下    豊春の門には、歌川流を盛んならしめ、浮世絵中の中堅となつて、その末葉を世に繁からしめた初代豊    国が出て、之れと同門として豊広あり、その豊広の門から一世の大風景画家たる広重が出ている。而し    てその末流は愈栄えて浮世絵界を壟断するに至つた。豊春は実にその始祖として注目せらるべきである〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川豊春画版本〕    作品数:2点    画号他:歌川豊春1・松爾楼1    分 類:絵本1・咄本1    成立年:享和4年(1点)        文化5年(1点)    『絵本江戸錦』  絵本・桜川慈悲成作・歌川豊春画・享和四年(1804)序    『宝入船七福大帳』咄本・感和亭鬼武作・松爾楼画 ・文化五年(1808)序