Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ もりくに たちばな 橘 守国浮世絵師名一覧
〔延宝7年(1679) ~ 寛延1年(1748)10月17日・70歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 正徳四年(1714)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(正徳四年刊)    橘守国画『絵本故事談』八巻「摂陽江東画者後素軒橘有税」大野木市兵衛板              椎本才麿序・山本序周跋    ☆ 享保二年(1717)    ◯「日本古典籍総合目録」(享保二年刊)   ◇絵画    橘守国画『扶桑画譜』五巻 橘守国画 内藤道有編    ☆ 享保四年(1719)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保四年刊)    橘守国画『唐土訓蒙図彙』半紙本 楢村有税子 別号後素軒図画 宝文堂板    ☆ 享保五年(1720)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保五年刊)    橘守国画『絵本写宝袋』半紙本九巻 作者画工 橘守国 渋川清右衛門板」     ☆ 享保九年(1724)    ◯『独寝』〔燕石〕③106(柳沢淇園著・享保九年序)   〝今、京都は世継柳只【俗名太神】といふもの、画才すぐれてよし、世に用ひられなば名あらんもの、大    坂にて、橘有税【宗兵衛】といふもの、画きはめて美なる所多し、吉田秀雪といふもの、絵はすぐれて    よし、彩色に妙有ども、今はいづくにゆきたらんにかしらぬ也〟    〈橘有税が橘守国。吉田秀雪は長崎派の画人英元章、淇園の師である。『ひとりね』の執筆年は『日本古典文学大系』     『近世随想集』所収の中村幸彦解題によると、享保九年から十年ころとされる〉    ☆ 享保十二年(1727)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十二年刊)    橘守国画    『画典通考』半紙本十巻「摂陽橘辨次守国図画」大岡普斎著述 大野木市兵衛板    『雛形曙桜』十冊 橘守国画(頭書「又長谷川光信画 蓋享保二十年」)     ◯「日本古典籍総合目録」(享保十二年刊)   ◇服飾    橘守国画『絵本衣服雛形模様』二冊 万字軒中嶋丹次郎 橘守国等画    ☆ 享保十四年(1729)    ◯「日本古典籍総合目録」(享保十四年刊)   ◇絵本     橘守国画『絵本通宝志』九巻十冊 橘守国画    ☆ 享保十五年(1730)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十五年刊)    橘守国画『絵本通宝志』半紙本九巻「画師浪速橘有税」「作者画工浪速橘氏守国」               椎本才麿・後素軒橘守国序 渋川清右衛門板    ☆ 享保十七年(1732)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇謡曲(享保十七年刊)    橘守国画『謡曲画誌』十冊 橘守国画 中村三近子編    ☆ 享保二十年(1735)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保二十年刊)    橘守国画    『謡曲画誌』半紙本 「画工大坂橘守国」中村三近子編 毛利田庄太郎板    『扶桑画譜』大本五巻「画工浪華後素軒有税子橘守国」晩香散人内藤道有作    ☆ 元文五年(1740)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元文四年刊)    橘守国画『絵本鶯宿梅』七巻「作者画工 浪華 後素軒 橘守国」植村藤右衛門板      ☆ 延享二年(1745)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延享二年刊)    橘守国画『絵本直指宝』「作者画工 浪速橘氏守国」序「後素軒橘守国」渋川清右衛門板      ☆ 没後資料      ☆ 寛延二年(1749)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛延二年刊)    橘守国画    『有馬勝景図』一帖「摂陽江東画者 後素軒橘守国」大野木市兵衛板    『運筆麁画』 三冊「浪花 橘守国画図」田長興序 渋川与市板      ☆ 寛延三年(1750)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛延三年刊)    橘守国画『抛入岸之波』二冊「浪花画工 橘守国」釣雪野叟編 植村藤右衛門板      ☆ 宝暦二年(1752)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦二年刊)    橘守国画『絵本和歌の海』六巻 画図橘守国 伊勢屋差助板    ☆ 明和七年(1770)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明和七年刊)    橘守国画『絵本写宝袋』九巻 作者画工浪速橘氏守国 再板    ☆ 安永五年(1776)     ◯『歌舞伎年表』④28(伊原敏郎著・昭和三十四年刊)   (「安永五年(1776)」項)   〝正月十五日、中村座「懸賦歌(カゾエウタ)田植曽我」    (中村仲蔵秀鶴、本絵の草摺引という趣向で、朝比奈の草摺引大当たりという記事あり)    秀鶴、守国の絵本好にて、平生是を見て工夫すること有りしが、それへ附込まれて、いたゝかされしと    見へたり〟    〈橘守国の絵本を参考にしていたのは絵師に限らなかったのである〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇絵本 絵画(安永七年刊)    橘守国画『絵本和歌の種』三巻 橘守国画(注記「井蛙抄(宝暦二刊)の插画の部分のみを編集した改題改竄本」)    ☆ 天明二年(1782)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天明二年刊)    橘守国画『【本朝】画苑』六巻 画工後素軒有税子橘守国 伏見屋藤右衛門他板    ☆ 寛政十二年(1800)     ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱442(寛政十二年五月以前記)   〝橘守国    これまた町絵なれども、世のつねの浮世絵にあらず。世に所伝の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、    絵本写宝袋等を見てしるべし〟    〈山東京伝の『浮世絵類考追考』は橘守国を採らず〉     ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝大坂 本絵師銘人  後素軒橘守国〟   〝大坂 天明比 当時 橘守国〟    ☆ 享和二年(1802)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和二年刊)    橘守国画『謡訓蒙図会』十巻 画工橘守国 中村三近子編 生島小兵衛           (享保二十一年版『謡曲画説』と同本異名也)    ☆ 文化初年(1804~)    ◯『反故籠』〔続燕石〕②170(万象亭(森島中良)著・文化年中前半)   〝橘守国    書画一覧に伝有り、近眼にて左筆なり、稿本、皆自画自筆なり、業を探山に受く、と丹波屋理兵衛語り    き、或豪家に芥子園画譜全帙を蔵む、其比は只一部なりし故、帳中の秘とせしが、守国其家へ親しかり    ければ、請て数頁を模写したるを、古葛籠に入置、大切にせしを、或夜賊に奪れたり、此古葛籠、京都    の何れやらんの街の乾溝に捨有しを、改め見れば、守国が蔵書印こと/\く印て有ける故、早速呼出し、    引渡されし、と鍬形惠斎語りき、絵本鶯宿梅の末に出したる山水法は、芥子園【李笠翁なり】が画譜を    其まゝ出せり〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝橘守国【享保の比の人】    これは町絵なれども、世のつねの浮世絵にあらず、世に伝る所の絵本通宝志、絵本故事談、謡曲画史、    絵本写宝袋などを見てしるべし〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』と同文〉    ☆ 文政二年(1819)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政二年刊)    橘守国画『女中庸瑪瑙箱』一冊 守国画 植村玉枝子撰    ◯『増補和漢書画一覧』(聚文堂主人編 聚文堂版 文政二年刊)   (早稲田大学図書館・古典藉総合データベース)   〝守国(モリクニ)    橘氏、後素軒ト号ス。業ヲ探山ニ受テ一家ヲナス。刻板ノ密画ニ妙ヲ得タリ。其刻本数種、盛ニ世ニ行    ハル。延享中ニ没。門人ニ国雄、号皎天斎、称酢屋平十郎、此人名ヲ好ザルヲ以テ世ニ知ラレズ。生涯    困窮シテ終レリ。其筆スル所、毛詩図譜、刻本世ニ行ハレリ。其落款シテ後世ニ遺セル画モ無レバ、世    終ニ其名ヲ知ラザルガ故ニ、コヽニ附録ス。古来カヽル類ノ後世ニ伝ハラザルモノ多カルベシ。世人多    クハ目ヲ賤シミ耳ヲ貴メルコト歎カシキコトナラズヤ〟  ☆ 天保三年(1832)      ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年(1832)刊・『日本画論大観』中)   〝橘守国 後素軒と号す、探山に学ぶ、嘗て彫本を著す。名(ヅケ)て写宝袋と曰ふ。世に行る〟(原漢文)    ☆ 天保四年(1833)     ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③288(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝橘守国【享保比ノ人、延享中歿ス】     俗称惣兵衛、浪花ノ産也、居住(空白)、姓橘(空白)信、号後素軒〝    狩野探山の門に入て業を受、【探山付信、鶴沢氏、探幽門人、大坂ノ人ナリ】後、一家の画法を以て世    り雷鳴す、狩野流の骨法を不失、刻板の画に妙を得たり、精密奇巧、此人より起る、刻する所数種、天    保の今に至る迄盛に世に行る、書画ともに善す、文学博識の秀才也、故に世の画師の為に広く画法を伝    へ、粉本にともしからざる為にせんとて、勢力を費し、図を巧、傍に其意を誌して是を板刻せしむ、画    本の著述、古今に比類なし、名手世に知る処なり、土佐を始、倭絵の名家多しといへども、其業を已に    知るのみ、守国は委く人の為にせし故に、板刻画の汚名を受たり、画道に志ざし有ども、書籍を見ざる    俗家の者の為には、笠翁が画伝をも、委しく唐本を平仮名にしるして、其意を得さしむ、和漢一画法の    奥儀を極め、其業に達して画本をあらはし、諸職の助となして、是が為に、世上を其業の力を得る者幾    ばくならん、皆此精巧に仍れり、尋常の浮世絵師に列する人にはあらずといへども、板刻の絵に名を得    たれば、姑く爰に挙て、画者の釈尊とも云べき神伝の開手なるべし、門人多し、【〔頭書〕守ノ一字ヲ    名ノルモノハ、狩野幽家免許ノ弟子ナリ】     門人に、国雄皎天斎、俗称酢屋平十郎、     此人、名を不好ざるが故に、以て世にしられず、生涯を困窮して終り、其落款して世に遺せる画もな     ければ、人其名を知らず、古来かゝる類の後世に伝らざるもの多かるべし。世人多くは目を賤しみ、     耳を貴へる事、歎かはしき事ならずや      毛詩図譜【皎天斎国雄画、刻本世に行れたり】    守国筆絵本      絵本通宝志    絵本直指宝      同 写宝袋    同 鴬宿梅      同 故事談    同 唐土訓蒙図会〟    〈「画者の釈尊とも云べき神伝の開手なるべし」とは最大級の賛辞であろう。しかるに『増補浮世絵類考』の斎藤月岑     は、この浮世絵師・渓斎英泉の賛辞をなぜか削除している〉    ☆ 天保十一年(1840)     ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④96(東随舎著・天保十一年序)   〝近世、大坂に守国と申板下書是あり。自己の才覚を以て書したる絵本はあり。本絵師の用ゆべき物には    あらず。皆浮世絵師小児等の手本とする物なり。頼政の筆者も右同様に、絵本のなきまゝ、彼写本のう    ちの写宝袋と申絵本を最上の物と心得、其誤りを学びたるに必定せり。其故は、写宝袋に、近製の武器    甲冑を写し是あり。然し古代の武者絵などに用ゆべき物にて是なし。小具足の形も、前に申如く小手差    たる上にて、片袖なきものを鎧直垂なりとて、みだりに着せ、都て武者絵は誤りあり。是を真実の如く    心得て、頼政の図をくみたてたるに違ひなし〟    〈「頼政の筆者」とは、浅草寺に「頼政の鵺退治」の絵を奉納した高嵩谷のこと〉       参照 『古今雑談思出草紙』    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)     ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝橘守国 享保比の頃の人〔延元年卒す〕〈寛延元年卒す、七十才〉     俗称〔惣〕〈宗〉兵衛 名、有税 浪花の産也 居住(空白)      姓 橘 楢村氏、号 後素軒    狩野探山の門に入て業を受、(探山付〈本ノマヽ〉信、鶴沢氏、探幽門人、大坂の人也)後、一家の画    法を以て世に雷鳴す。狩野流の骨法を失はず、刻板の画に妙を得たり。精密奇巧、此人より起る。刻す    る所数種、天保の今に至る迄、盛に世に行る。書画ともに善し。文学も博識の秀才なり。故に世の画師    の為に広く画法を伝へ、粉本にともしからざる為にせんとて、勢力を費し、図を巧、傍に其意を誌して    是を刻せしむ。画本の著述、古今に比類なし、名手世に知る処也。狩野土佐を始、倭絵の名家多しとい    へども、其業を己に知るのみ。守国は委く人の為にせし故に、板刻画の汚名を受たり、画道にこゝろざ    し有ども、書籍を見ざる俗家の者の為には、笠翁が画伝をも委しく唐本を平仮名に記して、其意を得さ    しむ。倭漢画法の奥儀を極め、其業に達して画本をあらはし、諸職の助となして、是が為にも、世上に    其業の力を得るもの幾ばくならん、皆翁の丹志によれり、尋常の浮世絵師に列する人にはあらずと云共、    板刻の画に名を得たれば、姑く爰に挙。     門人多き中に、国雄、(号)皎天斎、俗称酢屋平十郎、此人、名を不好ざるが故に、世にしられず、     生涯を困窮して終れり。其落款して世に遺せる画もな〈け〉れば、人其名を知らず。古来かゝる類の     後世に伝らざるもの多かるべし。世人多くは目を賤め耳を貴る事、歎かはしき事ならずや〈以上、天     明七年上木の書画一覧を引るなり)      毛詩図譜 皎天斎国雄画 刻本世に行れたり    守国筆絵本      絵本通宝志  十冊   絵本故事談  十冊      同 直指宝  同    同 画典通考 同      同 写宝袋  同    同 謡曲画志〈中村三近編〉同      同 鴬宿梅  七冊   唐土訓蒙図会〈中村三近編〉十冊      同 野山草       雲筆麁画   三     〈南都名所図  一冊   有馬勝景図  一冊   絵本詠物選 五冊      本朝画苑   六    扶桑画譜   五冊   同 玉の壺      万歳武勇絵鑑 三    画志     三〟     月岑按るに、享保時代刻板の密画は唐土訓蒙図彙に始れるなるべし。夫より以前、かゝる細密の板本を    見る事なし〟    〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)より「画者の釈尊とも云べき神伝の開手なるべし」の記述を     削除。皎天斎国雄記事の出典「書画一覧」を加筆。「守国筆絵本」を増補。密画の元祖という『唐土訓蒙図彙』は保     保四年の刊行〉    ☆ 嘉永三-四年(1850-51)     ◯『古画備考』三十上「近世」中p1246(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)
   「丹青競行司」(相撲見立て絵師番付)     ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1388(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝橘守国 号後素軒、又有税子、俗称宗兵衛、大阪人、受業於探山、成一家、刻板ノ密画ニ妙ヲ得タリ、    其刻本数種、盛ニ世ニ行ハル、延享中没
   (補)[署名]「橘守国」
   是又町絵なれども尋常の浮世絵に非ず、世に伝ふる所の画本通宝志、同故事談、同写宝袋、謡曲画史等    を見て知べし、浮世絵類考〟    ☆ 嘉永七年(1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇橘守国([31]巻十之五 雑家 61/108コマ)   〝守国 姓詳ならず 橘氏 名は守国 後素軒と号す 又有税の印章あり(頭注:名歟号歟さだかならず)    通称惣兵衛 大坂に住す 板刻の密画に妙を得たりとぞ 鶴沢探山の門人 後に薙髪す 好みて雑学を    よくすといへり 寛延元年【或は延享中】没す 年七十    (以下『浮世絵類考』『和漢書画集覧』『画乗要略』『古今墨蹟鑑定便覧』『本朝古今書画便覧』記事 収録済み 省略)    「唐土訓蒙図彙」巻之十四【九左】云 浪華 画者 橘有税 印章〔衛 橘有税〕又序末云 享保己亥     孟春云々    (以下『唐土訓蒙図彙』の画工橘有税が〔衛 橘有税〕の印章を同じくする橘保国ではなく守国であること説く 省略)  ☆ 安政二年(1855)     ◯『古今墨蹟鑒定便覧』〔人名録〕(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   ◇「地下歌人之部」④135   〝橘守国【後素軒ト号ス、通称惣兵衛、頻リニ皇朝ノ雑史ヲ渉猟シ、大イニ雑書ヲ著ハシテ、時ニ鳴ル、    且画ヲモ能シテ著書ノ画等、自ラ画ク多シ】〟      ◇「画家之部」④203   〝橘守国【後素軒ト号ス、探山ニ学フ。曽テ彫本ノ画本ヲ著セリ】〟    〔署名〕「後素軒橘守国」    〔印章〕「橘有税印」「衛」「橘有税」「守国」「後素軒橘守国印」    ☆ 万延元年(1860)    ◯『浪速人傑談』〔続燕石〕②41(政田義彦著・万延元年後序)   (「画家」の項)   〝橘守国は、後素軒と号す、浪速の人なり、幼年より画を好み、鶴沢探山の門人となつて修行し、其妙を    得たりと云、実に近代の名画にして、殊に刻版の密画に於て、其の右にいづる人を聞ず、と或画家語ら    れし、生涯描く所の画帖、通宝志、鶯宿梅、画典通考を始め、すべて十五部に及べりと、寛延元年十月    十七日、齢七十歳にて卒せらる、墓は生玉の北久成寺にあり、    守国の子保国と云、亦名手にて、野山草詠新成などの画帖あり、保国子なくして養子にて家を継ぐ、保    春と云、保春の次を保之と云、近頃其家絶たり、浪速に於て旧き画家なりしに、惜むべし〟    ☆ 文久二年(1862)     ◯『本朝古今新増書画便覧』「シ之部」〔人名録〕④361(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝守国【鶴沢探山門人、橘氏、号ハ後素軒、通称惣兵衛、大坂ニ住ス、寛延元年ニ歿、七十】〟    ☆ 刊年未詳  ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕    (二段目 西)    〝前頭 橘守国  同 英一蜂  同 橘保国  同 月岡雪鼎〟  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝画人遊客     画法 法橋玉山/丹青 橘守国〟    〈「画法」と「丹青」の違いおよびこの二人が対になっているその理由が分からない〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪197(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝橘 守国    姓橘、猶村氏、名有税、称宗兵衛、号後素軒、浪花の産なり。狩野探山の門に入て業を受、〔割註 探 山は鶴沢氏、名守見、又良信、或は兼信、初め幽泉と号す。又探春斎とも云。探幽の門人、大坂に住す〕 後一家の画法を以て世に雷名す。狩野流の骨法を失はず。板刻の画に妙を得たり。精密寄巧此人より起 る。寛文(ママ)元年卒す。七十歳。刻する処数種、天保の今に至る迄盛に世に行る書画私に善す。文学も 博識の秀才なり。故に世の絵師の為に広く画法を伝へ、粉本にともしからざる為にせんとて、精力を費 し写を巧み傍に其意を誌して是を刻せしむ。画本の著述古今に比類なし。名手世に知る所なり。狩野土 佐を始、倭絵の名家多しといへども、其行を已に知るのみ。守国は悉く人の為にせし故に、板刻が画の 汚名を受たり。画道にこゝろざし有とも、書籍を見ざる俗家の者の為には、笠翁の画伝をも悉く唐本を 平仮名に記して其意を得せしむ。倭漢画法の定義を極め、其業に達して画本をあらわし、諸職の助とな して、是が為に世上に其業力を得るもの幾ばくあらん。皆翁の丹志によれり。尋常の浮世絵師に列する 人にはあらず共、板刻の画に名を得たれば姑く爰に挙ぐ。     絵本通宝志  十冊     同 玉の壺   五冊      同 画志    三冊     同 直指宝  同      同 詠物選   五冊      同 運筆麁画  三冊     同 写宝袋  同      同 本朝画苑  六冊      同 扶桑画譜  五冊     同 鴬宿梅  七冊     同 謡曲画志  十冊中村三近編 南都名所図   一冊     同 野山景  五冊     同 万歳武勇絵鑑 一冊     同 故事談   十冊     有馬勝景図  一冊     同 画典通考  同       唐土訓蒙図彙  一冊    享保時代板刻板の密画、唐土訓蒙図彙に始れる成べし。夫より以前かゝる細密の板本を見る事なし〟    ☆ 明治年間(1868~1911)  ☆ 明治十一年(1878)     ◯『百戯述略』〔新燕石〕④228(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝凡板木の委しく相成候は、享保四亥年中、大坂にて梓行したし候、橘守国が「唐土訓蒙図彙」に有之候    へども、方今之如くには無之〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝橘守国 通称惣兵衛、後素軒ト号ス、鶴沢探山ニ学ビ、皇国画ヲ善ス、浪花ノ人、寛延紀元ニ没ス、        年七十〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会〔4月11日~5月30日 上野公園〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝橘守国 後素軒ト号シ、画ハ探山ヲ学ブ。延宝元年七十一歳ニテ卒ス〟  ◯『扶桑画人伝』巻之二(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝守国    橘氏、名ハ守国、又有税ト云フ。後素軒ト号ス。通称惣兵衛ト云フ。大坂ノ人。鶴沢探山ニ画法ヲ学ン    デ其風致ヲ得タリ。曾テ彫物ノ画本ヲ著ス。寛延元年没、七十歳。明治十六年迄百三十六年〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十二年刊)    橘守国画『鳥獣毛筆画譜』橘有税 遠藤平右衛門(10月)    〈奥付には正徳四年原版とあり〉  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝京阪 板下画人壮    阪 橘守国    後素軒と号す、初探山に学び、後一家をなし、刻板の密画に妙を得て、刻本数種盛りに行はる〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
   浮世絵師 歴代大家番付〝浮世派諸大家 天明 橘 守国〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p235(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝橘守国    守国ハ其ノ名、又有税ト云フ、後素壯(ママ)ト号ス、通称総兵衛、大坂ノ人、皇朝雅史ヲ渉猟シ、又タ画    法ヲ鶴沢探山ニ学ビ、風致ヲ得タリ、本朝画苑、画典通考、画志、写宝袋、及ビ彫刻ノ画譜ヲ著ハス、    寛延元年歿ス、年七十(続本朝画史・鑑定便覧)〟     ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『浮世絵師便覧』p240(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝守国(モリクニ)    橘氏、京師の人、鶴沢探山の門人、絵本類多し、延享年中に死〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p30(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝橘守国 素軒    本性楢林氏、名有税、大坂の人。始め狩野探山守見門人、師と絶交して、後一家を為す。寛延元辰年七    月十九日歿す、歳七十〟     ☆ 明治三十年(1897)  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)    ◯『書画名器古今評伝』桜巻(西島・高森編 岩本忠蔵 明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(60/72コマ)   〝橘守国 名ハ守国、後素軒ト号シ、宗兵衛ト称ス、浪華ノ人。探山ニ学ンデ一家ヲナス。此人中年ヨリ    病ヲ得テ、足戸外ヲ踏マズ。数種著述ヲナシテ上本ス。寛延元年没ス、歳七十〟  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(28/103コマ)   〝橘守国【享保元~二十年 1716-1735】    猶村氏、名は有税、一に有里、通称宗兵衛、後素軒と号す、浪花の人、鶴沢探山の門に入りて画を学び    しが、後終に一家を為せり、板刻の画を善くし、また画名も高かりき、画法に関する著書には『画典通    考』の外数部あり、『唐土訓蒙図彙』は板刻密画の始めなりといふ、寛延元年没す、享年七十歳。      守国の画ける板本の主なるものは左の如し     『絵本通宝志』『同玉の壺』『同画志』  『同運筆麁画』『同直指宝』  『同詠物選』     『同本朝画苑』『同写宝袋』『絵本鶯宿』 『同扶桑画譜』『同謡曲画志』 『同野山景』     『同画典通考』『同故事談』『南都名所図』『有馬勝景図』『唐土訓蒙図彙』『同万歳武勇絵鑑』    (本伝は『本朝画工便覧』『浮世絵類考』等に拠る)〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(89/218コマ)   〝橘守国    通称総兵衛といふ 又有税と称す 素軒と号す 大阪の人なり 鶴沢探山に師事して狩野派の画法を研    究し 頗る其の風致を得たり 嘗て数種の画本を著述して 世に称せらる 寛延元年没す 年七十(扶    桑画人伝 鑑定便覧 名家全書 続本朝画史)〟  ◯『浮世画人伝』p37(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝橘守国(ルビたちはなもりくに)    橘守国、氏は楢林、名は有税、後素軒と号す、大阪の人なりき。狩野探山の門に入り業を受く、深山名    は守見、又良信、又兼信と云ふ、大阪の人にして探幽斎守信の門人なり。守国の画、精緻奇功、別に一    家の画風を為す、守の字を名乗るものは、狩野探幽斎が免許の弟子なり。守国既に狩野家の免許を得て、    画名一時籍甚(セキジン)たり。されば其本領は狩野の正風にあるも、板行の絵本多きこと以て、浮世絵師    の部に列す、浮世絵類考にも此意を云へり。守国博識多才にして、世の画師(エシ)のために広く画法を伝    へんと欲し、丹誠を尽して唐本を平仮名に訳して其意を得せしむ。一説に守国は不平の事ありて、師家    と絶交し、狩野に秘する所の、模本(モホン)を委しく板行して世に公にせり、所謂、写宝袋其他数部、今    日に至るまで、画家の重宝となすところのもの是れなり、さるによりて板下画工の誹を免かれずと云ふ、    然れど従来の画家と趣を異(コト)にし、洽(*アマネ)く世上に画法を知らしめし功績は決して没すべからざる    なり。守国は寛延元年七月十九日、七十歳にて没す、生前出板の書目は、絵本通宝志、同直指宝、同写    宝袋、同鴬宿梅、同故事談、同画典通考、同謡曲志、唐土訓蒙図彙、本朝画苑、万歳武者絵鑑、扶桑画    譜等なり〟    ☆ 明治四十三年(1910)  ◯「集古会」第七十九回 明治四十三年九月 於青柳亭(『集古会誌』庚戌巻五 明治44年7月刊)   〝吉田久兵衛(出品者)橘守国画 摂津国有馬勝景図 箱入一鋪 寛延二年板 筆彩色  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浪華名家墓所記』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十四年三月刊)   〝橘守国(画工)寛延元年十月十七日没 年七十 高津 久成寺    後素軒と号す、浪花に住す、探山の門人にして一家をなす、刻板の密画に妙を得たり、描く所の画本故    事談、訓蒙図彙、写宝袋、画典通考、通宝志、謡曲画誌、鴬宿梅、直指宝、此余尚多し〟  ☆ 昭和以降(1926~)     ◯『狂歌人名辞書』p232(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝橘守国、姓猶原氏、名は有税、通称徳兵衛、素軒と号す、浪花の画家、鶴沢探山に学びて一機軸を出せ    しが故ありて師家を破門せらる、寛文(ママ)元年十月十七日歿す、年七十〟     ◯『浮世絵師伝』p196(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝守国    【生】           【歿】寛延元年(1748)七月十四日-七十    【画系】鶴沢探山門人    【作画期】享保    大阪の人、橘姓、楢村氏、名は有税、俗称弁次、又、宗兵衛とす、後素軒と号せり、絵本写宝袋、同通    宝志等二十余種の絵本を作れり、板刻の精巧緻密なること特筆すべきものあり、彼は浮世絵師にあらざ    れども、浮世絵に及ぼす所の影響尠からざれば姑く此に載す〟     ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「正徳四年 甲午」(1714)p70   〝五月、橘守国の『絵本故事談』八巻出版せり〟      ◇「享保四年 己亥」(1719)p74   〝正月、橘守国の画ける『唐土訓蒙図彙』十五冊出版〟      ◇「享保五年 庚子」(1720)p75   〝九月、橘守国の『絵本写宝袋』九巻出版〟      ◇「享保一二年 丁未」(1727)p81   〝二月、橘守国の画本『画典通考』十巻出版〟      ◇「享保一五年 庚戌」(1730)p84   〝橘守国の『絵本通宝志』九巻出版〟      ◇「享保二〇年 乙卯」(1735)p88   〝正月、橘守国の画ける『謡曲画誌』十巻出版。    七月、橘守国の『扶桑画譜』五巻出版〟      ◇「元文五年 庚辰」(1739)p92   〝四月、橘守国の『絵本鴬宿梅』七巻出版〟      ◇「延享二年 乙丑」(1745)p97   〝十一月、橘守国の『絵本直指宝』十冊出版〟      ◇「寛延元年(七月十八日改元)戊辰」(1748)p99   〝此頃橘守国歿す。行年七十歳。(守国は狩野派の画工鶴沢探山の門人にして浮世絵にはあらざれどもよ    く風俗人物を画き、時の浮世絵画家に関係ある人なり。大阪の人にして、楢村氏、名は有税、通称弁次    といひ、後素軒と号せり。)〟      ◇「寛延二年 己巳」(1749)   〝七月、橘守国の『有馬勝景図』出版。    九月、橘守国の『運筆粗図』出版〟    ◯『本の覚』(三村竹清著「本道楽」・昭和十四・五(1939-40)年)   (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「浅草一覧図」   〝(伊勢の津の入江町の窪一斗といふ染物屋にて)橘守国の義経が床几に掛かり、弁慶が制札をかき、真    中に梅の木のある横物、少し色はあつたが、欲しかつた、私は其後、守国の肉筆を一向に見ない〟  △『増訂浮世絵』p74(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝守国の絵本もその種類は多いが、元来の修養が狩野で、絵本の内には狩野家の粉本のやうなものもあり    名所をかいたものもあり、所謂浮世絵ではないが、祐信と並べ称せらる。それは一に版刻の絵本を作つ    て居るからである〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔橘守国画版本〕    作品数:22点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:橘守国・楢村・大助・有税・後素軒・橘有税・楢村有税子・後素軒橘守国・橘大助    分 類:絵画6・絵本11・謡曲2・地誌2・画譜2・伝記1・図彙1    成 立:正徳4年(1点)        享保4~5・12・14・17・20年(8点)        元文5年  (1点)        延享2年  (1点)        寛延1~2年(3点)        安永7年  (1点)        天明2・6年(2点)    〈安永七年刊『絵本和歌の種』は「井蛙抄(宝暦二刊)の挿画の部分のみを編集した改題改竄本」とある〉   (後素軒名の作品)    作品数:1点    画号他:後素軒    分 類:絵本    成立年:元文5年        『絵本鴬宿梅』絵本・後素軒橘守国画・元文五年(1740)画   (橘有税名の作品)    作品数:2点    画号他:橘有税    分 類:絵画2    成立年:享保5年(1点)        正徳4年(1点)        『絵本故事談』絵画 山本周南作      正徳四年(1714)刊        『絵本写宝袋』絵画 橘宗兵衛(有税)作画 享保五年(1720)刊   (楢村有税子の作品)    作品数:1点    画号他:楢村有税子    分 類:辞書1    成立年:享保4年(1点)        『唐土訓蒙図彙』辞書 平住周道著 楢村有税子画 享保四年(1719)刊   (橘大助名の作品)    作品数:1点    画号他:橘大助    分 類:地誌1    成立年:寛延1年        『南都名所図』地誌 橘大助画 寛延元年(1748)刊