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『古今雑談思出草紙』浮世絵記事Top
 ☆ 天保十一年(1840)    ◯『古今雑談思出草紙』東随舎著 天保十一年(1840)自序(『日本随筆大成』第三期・第四巻)
  ◇巻之八「画難坊、絵を論ずる事」④90   〝画難坊、絵を論ずる事    古き屏風を張直さんと、反古ども集めし中に見せし双紙の、はじめは鼠の喰ひ損じ、末へは破れてしれ    ざりしが、半残れる文章おもしろく覚へしもまゝ書写しける。其はじめの文面に寄て推察なすに、何国    の人なるや。画の道にうとからで、能画を見て其是非を分ち、正しからざる事は難をいふ法師ありしが、    是を画難坊と異名せり。それに画の道を尋ね問たる其人の名も、定かにしれ兼しぞ恨みなり。それらを    問答せる事を書したる者と見ゆ。     其文面に、庵主、画難坊に問て曰く、    絵の道は雅俗の二つに馴れ候て、雅なる者を本絵といひ、俗なるものをば浮世絵と号して、一流いやし    き事とて、書院掛物にも、屏風にもならざる様に片づけ、是有て候が、又本画と申訳をうけたまわりた    く存ずるなり。     画難坊答へて曰く、    昔しの画道は一筋にてあれども、浮世末流わかれける故、本絵といふ名目出来せり。是本末の義にて、    木の根本の事にて、其流派わかれて、はやくも賎しき流になる。末は木の枝葉の意にて、土佐流、狩野    流のごときは、絵の根本にて、動きなく正しく、枝葉の末流に揉れて、不正なる事ども出来、土佐流の    条にも粗申述たる如く、浮世又平、下賎の風俗、娼婦、舞子よふの絵を書たるより、星霜を経て其流れ    を汲もの、風俗変化致し、古き公家武家のすがたも、歌舞妓狂言の役者の省略形勢をうつし、児女子の    悦びける如く書なすが故、雅人は少なく、俗人は多ければ、此流、日々に盛んに成て、野鄙なる物多く    世に行なわる。床にかけたる名画の一軸より、まくら屏風に張たる浮世絵に目の付人多きが如し。     庵主問て曰く、    英一蝶ははじめ多賀長湖とて、永真安信が門人にて、狂画を専要にして、一家をなしたるものにて候が、    其末流に及んでは、浮世絵と混じたるよふなる義も是ある様に聞及びたるが、いかゞの事にや候ぞ。     画難坊答へけるは、    英流の末流に至つては、猶さら心得違ひの義も出来申べき義なり。其故は狩野家の様に、画家連綿して    相統致せば、数代伝来の絵本多く、古き弟子家も随身いたして、始祖の規矩準縄な守り、画法乱るゝ事    なけれども、又平、雪舟、一蝶がごときは、子孫相続も是なき故、定まつたる画法と絵本も伝来是なく、    何となく規矩を取失ひたる義と見へたり。     庵主が曰く、    何故、正風を捨て狂画を用ひ候ぞ。其趣意うけたまわりたし。     画難坊がいわく、    狂画は和歌の道にたとはゞ狂題なり。一蝶は弟子家の事なれぱ、所詮、筆法抜群たり共、狩野家の右に    出べきよふなきを計つて、正風体を捨て狂画の一風を書出して、世上に賞翫せられたり。讐へば歌の道    しらぬ人も、狂歌の可笑は俗事にもとけ安く、又たとへ筆意のつたなきも、狂画を書ば絵の巧拙をしら    ぬ児女子の目にも、其画を持はやすなり。況んや、一蝶が画才の筆力にて書したれば、今に至りても専    ら好む人多し。前にいへる如く、雅を好む人は少なく、俗人は多き世なれば、狂画はことわざに切落し    落ちといへる所、見込で心を用ひたるは一蝶が極意、唯此事にて候ぞ。探幽の弟子も、守景などは衆に    ぬきんでたれ共、唯正風のみ守景などは衆にぬきんでたれ共、唯正風のみおしへを守りたる故、左のみ    名誉も伝わらざる也。     庵主がいわく、    浅草寺に奉納ありし英流嵩谷が筆にて、鵺頼政の額〈本HP注、高嵩谷画「頼政猪早太鵺退治の図」〉は何も    笑しき節もなし。然れども、狂画と申ものにて是あるまじ。唯正風体の絵と見へたり。依て俗人は悦び    候へども、世上一流に浮世絵なりとて評議なすは、いかゞの訳にて候ぞ。〈本文の後に画像あり〉     画難坊がいわく、    なる程、世上の鑑定の通り浮世絵なり。然れども、勇威たくましく書たるゆへ、児女子は大に悦び思ふ    也。何によらず、古事を写すには物語りの軍書、記録等に、冠服兵器の身にまとひたる程のもの、武具、    馬具、器財、雑具、宮室、茅屋かまへども、その書籍の文章にならひ、其時代四民の風俗を写し、一事    の両様に出たるは、其宜敷に随ひて、画書其事跡の委しからざるは、上古、中古、其時代の冠服、兵器    等を絵本を以てたゞし、考計、評議決定して後にこそ、筆な取て図を地採の事は、土佐家も、狩野家も    同様の義にて、画家の門に入たるものは、初学の童子もしる所なり。然るに、左のみ上古の事跡にても    是なく、平家物語り、盛衰記抔の近き記録に出たる事にて、古図も多くある所なり。彼鵺頼政の筆者曾    以、記録の文面に懸り申さず、本絵の教へにもとり、我意にまかせて着せたきものを重ね着せ候なり。    景清、曾我兄弟、朝比奈を浮世絵師の写したるも同様の義なり。右の頼政の額を浮世絵と申事なれども、    席上の戯れ絵とは違ひ、大造なる奉納の額なれば、疎忽なる趣向にてもあるまじ。年来の大望にて、已    に成就の事と存じらる。其身の器量ありたけの事か。又は一蝶が極意にて、俗人の悦びを専用として画    を売の手段か。胸中いまだ謀るべからず。     庵主問て曰く、    古図に是ある鵺頼政の趣はいかゞの事にて候や。我意に任せたる義りうけたまわりたし。     画難坊答へていわく、    頼政が烏帽子に長き紐を付て後ろへ結び下たるは、能狂言などに是あることゝ見ゆ。古土佐の図に、武    士は皆額にて結びとめ、其余りを挟み置事なり。また彼図の如く長く下りたるは、弓射る時は弦にまと    ひ、手にからみ、大ひなる妨げある事なれば、曾て是なき筈なり。是則ち射芸不案内の沙汰なるべし。     庵主問けるは、    頼政が狩衣の下に腹巻着したり。又盛衰記十六の巻に、三位入道が芸等の事といへる条に、頼政の鵺を    射る時、鎧ひをば着ずして、直垂に袴計りなるはいかん。     画難坊答へていわく、    平家物語巻四の鵺の条に、頼政は頼み切たる郎等、遠江の国の住人猪早太に、母衣の風切にてはいだり    ける矢を負せ、只壱人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に山鳥の尾を以て矧たりけるとがり矢二すじ、    滋藤の弓に取添て、南殿の大床に伺候すとあり。右のごとく平家物語り、盛衰記ともに、頼政狩衣の下    に腹巻したる事も是なし。平家物語り巻一に、左兵衛尉家貞うす青の狩衣の下に、萌黄おどしの腹巻を    着て、弦袋つけたる太刀を差はさんで、殿上の小庭にかしこまるとあり。其余また東鑑の巻十建久元年    十月廿九日の条に、夜に入り右大将家御院参、布衣の侍十弐人御供あり。各々狩衣下着腹巻と見ゆ。増    鑑の巻九むらしぐれの書にも、大納言は唐香染の薄物の狩衣に赤き腹巻を透しに着せりとあり。是らは    狩衣の下に、腹巻着たる例にて候ぞ。頼政が腹巻着たる事は、何の書にも相見へず。平家物語りの狩衣    と、盛衰記の直垂と重ねて着せ、家貞と打こんじて腹巻着せたるや。狩衣の下に腹巻着せたるさへ、大    方ならず不穿さくに存ずる所に、又其下に直垂を着て、左右の袖をくゝり、又其左右とも籠手をさした    り。抑々右の手に直垂の袖をくゝり置事、皆武者絵に是あるは、弓を引べき為に、右手には小手をさゝ    ず素肌なり。然るに直垂の端より左右ともに、小手の甲見へたり。是いかなる事ぞ。其上、直垂の上に    こそ、小手はさすものなるに、弓手に小手をさし、妻手に脇の下にひたゝれ、上にて前後の紐を結び置    事なり。上下の相違は何事ぞや。右手の直垂の端より小手の甲見へたるは、譬へ本絵師の書たるにもせ    よ。みな過失としるべし。近製の小手のごとくなれば、屈伸自由にて、弓射るにわづらひなけれども、    専ら射芸の名誉を心掛る人は、猶弓籠手の製あり。古代の製は屈伸自在ならざる故に、弓射る者は右手    は素肌にて、直垂の袖くゝリおくなり。若直垂の下に小手を指物ならば、何の用にか右手計り袖を掛置    べきや。絵に心を用ひざるの甚だしきにあらずや。     庵主が曰く、    頼政が持たる弓形は、其時代の弓形にあらず。当世の弓形なり、然も当世の弓形は、日置弾正よりはじ    まるとも言り。何れにも弾正入道威徳は、明応の頃の人なり。然るに治承寿永の頃、六百有余年以前の    人に持せたるは、いかゞに候ぞ。     画難坊がいわく。    猪の隼太が着たる烏帽子違ひ候なり。其時代の者にあらず。元来烏帽子は、京極の観世おり、其外色々、    折し形とふしも是あり。和らかなる遊人々々の好みにて着するは、小笠原元長の随兵日記に、我家の折    ゑぼしなどゝ言事見へたり。彼早太が着したる烏帽子は、近世諸士の用ひぬる観世折の形をうるしにて    堅く拵へ、俗唱になつとふ烏帽子といへり。是又、時代の弁へもなく用ゆるやの事なりと見ゆ。扨又、    猪の早太事、盛衰記には郎等の丁七唱は、小桜を黄に返したる腹巻着せ、十六さしたる大中黒の矢の表    に、水破、兵破といふ鏑矢二さし、雷上動といふ弓を持せ、早太には骨喰といふ太刀を懐中にさしたり    と是有て、早太が着る物の事なし。郎等の唱が腹巻なれば、猪の早太も腹巻なるべし。古画には腹巻、    又は胴九に杏葉つけて書たる絵多し。然るに、右の筆者の書たるは、紺地の鎧ひひたゝれを着て、左右    ともに小手をさしたるはよし。然し是も又、直垂の上に着すべき小手を下にさし、右の手計り小手の上    に直垂の袖をかけ、露をしぼりたり。乃手は直垂の袖なし。写宝袋のおしへを守りたりと見遣もいと浅    ましき事なり。扨又、頼政の郎等は、桶層銕銅にても、然るべき程の者は、大袖付たる所の段縅しの鎧    ひを着せたり。古図に鎧ひを着せたるを見ず。早太が着具に相当せず。聊々古土佐の絵に、大将および    騎馬の兵士歩卒の着具、各々次第有事をしらずや。早太に頼政の着たる如くなる引立烏帽子を着せしめ    ば、大将の鐙ひずがたにも変るべからず〟    〈英一蝶は狩野派に学んだ故、筆法は抜群だが、狩野家の上に立つべくもないので、正風体を捨て狂画の一風を確立し     たという。そしてその一蝶の狂画は「切落し落ち」という極意からなるとする。この「切落とし落ち」という極意と     はどういうことかよく分からないが、剣術の一刀流に「切り落とし」の極意というのがあって、相手の打突を打ち落     として無効とすると同時にすかさず打ち込むことをいうらしい。これを要するに、狩野家伝承の「雅」を切り落とし     て、即座に「俗」に就いて切り返すという意味でもあろうか。後述には「一蝶が極意にて、俗人の悦びを専用として     画を売の手段」ともあるので、具体的には「俗人の悦び」そうな当世・世俗の世界を、自ら修得した狩野派の技法に     拠って画くということになるのろう。つまり「絵の根本」たる狩野家の技法をそのまま駆使して、描く対象を切り替     えるのである。狩野・土佐が専らとする「動きなく正し」い「雅」の世界を捨て、「風俗変化」する「俗」世界を専     ら画くというのである。この一蝶の試み、「探幽の弟子も、守景などは衆にぬきんでたれ共、唯正風のみおしへを守     りたる故、左のみ名誉も伝わらざる也」というところをみると、一蝶の狂画は狩野派を超える境地にまで達したとい     うことなのだろう。     しかしその一蝶流も子孫相続がないため定まった画法も伝えられず自ずと規矩を失って、末流は浮世絵が混じったよ     うな画風になってしまったと、画難坊はいう。その例としてであろうか、高嵩谷が浅草寺に奉納した扁額「頼政猪早     太鵺退治の図」に話題が及ぶ。庵主が問う、これは一蝶風の狂画ではなく単なる正風体の絵と見える、だが世上では     浮世絵だと評するのはどうしてか。これに対して、画難坊が言うには、具足・装束等の有職故実がでたらめで「本絵     の教へにもとり、我意にまかせて着せたきものを重ね着せ候なり」というもので、これでは「景清、曾我兄弟・朝比     奈を浮世絵師写したる同様」ではないかと手厳しい評価をする。以下に画像を載せておく。また「斎藤月岑記事」の     『武江扁額集』の記事を引いておく〉
    『武江扁額集』「頼政猪早太鵺退治の図」高嵩谷画(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)
   高嵩谷「頼政猪早太鵺退治の図」記事     ◇巻之八「画難坊、絵を論ずる事」④95   〝直垂の事は、不侫〈本HP注、画難坊〉が贅言に及ばず。しかれども、是をしる事難きにもあらず。後三    年の合戦古土佐の絵の巻物を見れば、直に発明のある事なり。飛弾守惟久が真蹟証拠明白なり。往古の    武士たど尋常のひたゝれ、小袴の上、すはやといへば上手をさし、脇楯に脛当着たる所、すなはち小具    足なり。扨其上へ鎧ひを着るなり。然るに何ぞや、鎧着る為の料にとて、片袖是なき異形なる衣服を製    し、平日着用あるべきや。且又、近製にもあるべきよふなし。又々古図に、早太揉足袋草鞋、また足半    にも書たり。熊皮の毛踏も相当らず。扨又、頼政、短刀を帯したる事、太刀の拵へは、早太が佩刀同前    たり。付短刀さげさしの事、是にも説あれども、言長ければ贅せず。右数か条の過失は、各々画中の把    要にて、書損これい大ひなるはなかるべし。過まつて改むるに憚る事なかれといへり。是をも忍ぶべく    ば、いづれをか忍ぶべからざらんや。是誠に浮世絵に紛れなきといふ看板を、自ら大ひなる額に書して、    神社仏閣こそ多き中に、江戸第一の繁花の霊場浅草の観音へかけ、これは万民の嘲弄のがるべきよふな    く、末世までも恥辱を残せり。俗人をばあざむき得たりとも、達人をば欺むくべからず。     庵主問て申けるは、    彼額、浮世絵なる事は其意を得たり。右の筆者〈本HP注、高嵩谷〉常々、草木花鳥などは生を写すを以    て専要の事と致せるよし。右の生を写す心よりは、古事を以て穿盤も有べき義に候わずや。     画難坊答へて曰く、    生写しの事は、一蝶が主意には通ぜざる也、了簡の取違ひとみへたり。花実烏獣の類ひ何よらず、生写    しは俗人の甚だ悦ぶ物なる故、一蝶は狂画をば書し、人の機嫌を取心より書たるなり。然るに、生を写    すは画の本意なりと心得違ひたるにて候べし。又頼政の古事に、吟昧の届かぬ事は、記録の詮義すべき    事共あり。元来一蝶しらぬ所が、浮世絵師の同様の気分にて、習ひのなき所にて候ぞ。鎧ひの袖をはじ    め、納豆ゑばし、弓矢等、何から何まで取集め生写しに仕たる所か。本鳥を生摸しにする物と心得たる    所なり。     庵主がいわく、    頼政の筆者、絵の学問甚だ狭きよふに聞ゆるなり。此義いかゞに候や。     画難坊がいわく、    仰せの如く狭き筈なり。書籍と違ひ古画の粉本は写し物にて、容易に出来ざる事故、画の学間成就し難    し。漸々板行の絵本などを取集て、拠ろなく最上の事と心得たりと見へ候なり。誠に井の中の蛙といふ    べし。勿論、名画の図を小さく地どり板本にしたるも、たま/\是ありといへども、天下の名画大図ど    ふ写すべきよふもなし。実に九牛が一毛たり。近世、大坂に守国と申板下書是あり。自己の才覚を以て    書したる絵本はあり。本絵師の用ゆべき物にはあらず。皆浮世絵師小児等の手本とする物なり。頼政の    筆者も右同様に、絵本のなきまゝ、彼板本のうちの写宝袋と申絵本を最上の物と心得、其誤りを学びた    るに必定せり。其故は、写宝袋に、近製の武器甲胃を写し是あり。然し古代の武者絵などに用ゆべき物    にて是なし。小具足の形も、前に申如く小手差たる上にて、片袖なきものを鎧直垂なりとて、みだりに    着せ、都て武者絵は誤りあり。是を真実の如く心得て、頼政の図をくみたてたるに違ひなし。古製の軍    器は、神社仏閣の宝蔵に納め是あるものを以て、古土佐の武者絵に引あて、且は新井白石の軍器考など    を以て相考へ発明なくては、武者絵一道の学問も中々成就いたし難し。当時の武具を以て、中古以前の    武者絵に用ゆべき事はなき事なり。若又、文亀永正の頃より、甲越の戦ひ、関がはら、難波御陣、近製    の甲冑着たる武者を絵がき、着具の品を正さんと欲せば、軍騎要略の義にしくはなし。製作は帯用通に    委し。武用弁略は取る事なかれ。扨又、江戸は天下の大都会にて、四民の集る所にして、将軍家の御膝    元なれば、伊勢、小笠原の武門の故実家、兵学者あり。軍礼家もあり。又武器軍用家あり。職原者あつ    て、和漢の学者、伎学の達人など挙ていふべからず。されば諺にいへる如く、盲目千人、目明千人なり。    容易の事にて欺むき得る事難し。     庵主がいわく、    一蝶が筆にて、名護屋山三郎と傾城かつらぎが事を書たる一巻は、全く浮世絵のよふに候が、此義いか    ゞ。     画難坊がいわく、    成程浮世絵なり。右のかつらぎが始終のごとき、女郎買のたてひき事、国中の形勢、道行の風情、其頃    の浮世絵に書なし、不破伴左衛門は芝居の敵きやくの姿に、月代を百日かづらとやらんいふものに書し、    名護屋山三郎は角前髪の色事師といふものに画書しは、風俗あしき義にて、浮世絵に一蝶が筆力を以て、    浮世絵を書く人々を悦ばしむるは、一蝶が本意なり。一蝶が絵巻物の践を自筆にて書たるものに、娼婦    の姿を写して、浮世絵の右りに出ん事を思ひ、自負の言葉を顕わして、浮世絵書く事を隠さず。又朝比    奈三郎の画に、鶴の丸の紋付たるは、其頃の芝居役者の紋所なるを、児女子は朝比奈義秀が定紋なりと    思へり。是らは絵師のすべき事にあらず。一蝶は鎌倉時代の古き事をも当風に書なし、直垂、水干、又    は小素抱なるべきものをも、上下長袴に画、下郎はしりまくりたるすりさげやつこに書たるもの有。此    故に画を好む人、一蝶を此道の異論なりと忌嫌ふは、此謂れにて候ぞ。     庵主、是を聞て大に感じ、深更にも成りしかば、問答は終りけるとなり〟      〈高嵩谷が浅草寺に奉納した扁額「頼政猪早太鵺退治の図」を、画難坊は誹る。「是誠に浮世絵に紛れなきという看板     を、自ら大ひなる額に書して、神社仏閣こそ多き中に、江戸第一の繁華の霊場浅草の観音にかけ、これは万民の嘲弄     のがるべきよふなく、末世までも恥辱を残せり」なかな手厳しい。      次に写生の説に論が及ぶ。嵩谷は常々「生を写すは画の本意なり」というが、これは嵩谷の心得違いだ。英一蝶の     生写しは俗人の機嫌を取るためにしていることであって、一蝶の主意ではない。自覚の上の技法選択であって、画の     本意だから生写しをするのではないというのである。要するに一蝶は一時変化流行する当世世俗を画くことはしたが、     それに専念したわけではないし、「動きなく正しい」雅の世界を捨てたわけではないというのである。      では「動きなく正しい」雅の世界はどこにあるかといえば、それは土佐狩野の紛本の中にあるとする。然るに嵩谷     は「板行の絵本などを取集て、拠ろなく最上の事と心得え」、それに拠って画いている。それでは「誠に井の中の蛙」     だと一笑に付す。そして本絵師が決して用いない浮世絵師小児等の手本とでもいうべき橘守国『絵本写宝袋』(享保     五年(1720)刊)を取り上げ、嵩谷はこれを最上の物と心得えて、その誤りまで引き継いだと断定する。なぜ「写宝袋」     を土佐狩野の本絵師が採らないのかというと、そこには最近の具足の写ししかないから、古代の武者絵などを描く場     合用を為さないからだとする。つまり「写宝袋」には本絵師が描こうとする「動きなく正し」い世界がないというの     である。画難坊にとって土佐狩野の粉本は、筆致等の技術を修得するための単なる手本ではない。「動きなく正しい」     有職故実を学んで、永遠に蘇生しつづける「気韻生動」を体得するもの、つまり不易の「雅」を身につけるためのも     のである。然るに浮世絵は当世のもの、流行を専らとする。      最後に話題を再び一蝶にもどし、不破伴左衛門と名護屋山三郎を描いた一巻を取り上げ、これは間違いなく浮世絵     だと断言する。「鞘当」で有名な不破・名護屋は役者絵である。一蝶自身も自分が浮世絵を画いたをこと認めている。     こちらは遊女だが、四季絵の跋に「娼婦の姿を写して、浮世絵の右りに出ん事を思ひ、自負の言葉を顕わして、浮世     絵書く事を隠さず」と書いている。役者も遊女も、本絵師は決して取り上げないものである。(「右り」(ミギリ)は右     の古めかした言い方か、それとも単なる衍字か)      では一蝶は浮世絵師か。しかし画難坊は一蝶を浮世絵師と見なしてはいない。なるほど浮世絵は描いたが浮世絵師     ではないとするのである。それが高嵩谷と違うところ、画難坊は嵩谷を浮世絵師と見なしている。この両者には根本     的な違いがあるという。それは写生に対する考えの違いに現れているという。嵩谷は写生を画の本意とするが、一蝶     の本意(主意)はそこにはない、ただ世俗を喜ばせるための技法として使用しているにすぎないからだ。(もっとも     「鎌倉時代の古き事をも当風に書なす」一蝶のこうした写生の姿勢を、画を好む人の中には「異論」だとして「忌み     嫌う」向きもあるとする)      一蝶自身の自覚はどうであろうか。一蝶の「四季絵跋」にこうある。「若かりし時、あだしあだ波のよるべにまよ     ひ、時雨朝帰りのまばゆきをいとはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、はしなきうき名のねざし     のこりて、はづかしのもりのしげきことぐさともなれり」(白拍子とでもいうべき吉原の遊女にまよった若かりし頃、     岩佐・菱川の上に立とうとして浮世絵を画いたことが、今ではみっともない浮き名を流す種となって、恥ずかしくも     煩わしいことになってしまった)これは一蝶後年の述懐ではあるが、一蝶の自覚でも浮世絵はネガティブに捉えられ     ており、自らを浮世絵師としてはいない。一蝶は粉本で身につけた狩野の技法を「岩佐、菱川が上にたゝん事をおも     ひて」)浮世絵(当世絵)を画くに使ったのであるが、それは若年の頃のあさはかな行為であったと、忸怩たる思い     で記しているのである。参考までに、以下、一蝶の「四季絵跋」をあげておく〉
    「四季絵跋」英一蝶著