Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きょうさい かわなべ 河鍋 暁斎浮世絵師名一覧
〔天保2年(1831)4月7日 ~ 明治22年(1889)4月26日・59歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』       〔東大〕  :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』   『【明治前期】戯作本書目』日本書誌学大系10・山口武美著   「近代書誌・近代画像データベース」国文学研究資料館     ☆ 嘉永六年(1853)頃  ◯『浮世絵』第十号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「深大寺に於ける河鍋暁斎の画」山中共古著   (現住職の談として)   〝狂斎が狩野家を破門されし頃、先住の師のもとへたよりて此寺に数ヶ月居りし其間画きしもの〟    △深大寺住職の居間 群雀の図    △客殿に至る杉戸  巖に蘇鉄の墨画・竹林の図(唐画風のものと狩野の筆意のあるもの)    △庫裏の戸棚    角大師と蝸牛の首曳の図    △太子堂の八間天井 金眼墨龍 落款「狂斎洞郁陳之図画(花押)」     (狂斎と大工との間で天井寸法が共有されず、尾の方の板が二枚入らず)    △太子堂内     数匹の獅子    △長押の裏・内陣厨子の扉 雲形    △門(もん)脇の住居の壁  馬の図   〈飯島虚心の『河鍋暁斎翁伝』によると、狩野の免許を得て「洞郁陳之」と称したのが嘉永二年、養家の坪山洞山の許を出    るのが嘉永五年の十二月をされるから、深大寺に寄宿したのは嘉永六年以降  ☆ 安政二年(1855)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政二年刊)    河鍋暁斎画『東都花競』三帖 惺々菴狂斎 雷酔 是真ほか    ◯『近世列伝躰小説史』下 水谷不倒著 春陽堂 明治三十年(1897)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    「仮名垣魯文」野崎左文著    〝(安政二年、江戸大地震時のエピソード)夫婦とも戸外に逃出して一夜を明しぬ、斯る時にも素早きは    際物師の常とて、翌早朝一人の書肆来り、何ぞ地震の趣向にて一枚摺の原稿を書いて貰ひたし、と頼み    ければ、魯文は露店に立ながら筆を取りて、鯰の老松といへる趣向を附け、折よく来合せたる画師狂斎    【後ち惺々暁斎と改む/通姓河鍋洞郁】に、魯文下画の侭を描かせて売出せしに、此錦絵大評判となり    て売れること数千枚、他の画肆よりも続いて種々の注文ありて、魯文は五六日の間地震当込み、錦絵の    草稿を書くこと四五十枚に及び、皆売口よくして鯰の為めに思はぬ潤ひを得たりと云ふ〟(298/322コマ)    〈野崎左文は地震のあったこの日を十二月二日としているが、勘違いか、実際は十月二日〉  ☆ 万延元年・申(安政七年・1860)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(万延元年刊)    河鍋暁斎画『狂斎画譜』初編 狂斎画 六代目川柳序 須原屋佐助板     <七月 豹の見世物 西両国広小路>  ◯『観物画譜』186・187・190(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「今昔未見 舶来虎真図 口上(略)仮名垣魯文記」錦絵     署名「応需 猩々坊」恵比寿屋庄七板(改・申八月)   「舶来虎豹幼絵説 高橋轍斎先生原稿 假名垣魯文記」錦絵二枚続     署名「応需 猩々坊」恵比寿屋庄七板(申八月)  ◯『武江観物画譜』五十一(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「生物猛虎之真図 口上(略)仮名垣魯文記」錦絵     署名「応需 狂斎写生」恵比寿屋庄七板(申六月)    ☆ 文久元年(万延二年・1861)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文久元年刊)    河鍋暁斎画『能狂百図』二編 川鍋洞郁画 松亭金水編(写本)     ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)」(番付・文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝狂書 ひとりで聖人 西宮龍昇 〈未詳〉    狂画 こゝろを筆に 洞都狂斎〈河鍋暁斎〉    〈「ひとりで聖人こゝろを筆に」の評の意味と、それが狂斎とどう関係するのか、よく分からない〉     <十月 虎の見世物 江戸麹町福聚院境内>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「正真猛虎寫生図(戯文)仮名垣魯文記」錦絵 河鍋暁斎画 恵比寿屋庄七板(酉五月?)    ◯「大江戸当盛鼻競 初編」(番付 金湧堂 文久元年初秋刊)(番付集成 下)   「市坊佳品」   〝大物 これは/\     狂斎雷酔        あまり◎◎◎   花柳鳴助〟    〈雷酔は酒乱気味の河鍋狂斎(暁斎)。この頃から大物の雰囲気を醸し出していたのであろう。この時代の花柳流とい     えば寿輔であろうが、この鳴助との関係は不明〉  ☆ 文久二年(1862)(改印:戌月改)    ◯「合巻年表」〔東大〕(文久二年刊)    川鍋狂斎画(袋の画工担当)    『十勇士尼子柱礎』五編 錦朝楼芳虎画 表紙口絵 豊国 袋 狂斎画 仮名垣魯文作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(文久二年刊)   「滑稽狂画双六」「猩々狂斎画」和泉屋市兵衛 改印「戌十改」①②  ☆ 文久三年(1863)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文久三年)   ②「応需惺々狂斎〔◇中ニ「酔」字〕印」(猩々と鼓を拍つ万歳?(大名?))2-20/30    「瓢箪に「応賀」印」大小月入り狂歌賛     〈「せう/\が出てまふなら かやうもうす 大名なんぞも一句よまずはなるまい」とあるが…〉   ②「応需惺々狂斎〔◇中ニ「酔」字〕印」(おどけ願人坊主に笑う母子連れ)2-22/30     「大小」印 大小の月入り狂歌賛    「応需惺々狂(サ+(亥の図=斎)」(狐面、鯛車など子供の手遊び十二品)2-25/30     おめでた亥(ゐ)年玉 「大小」印 狂歌賛〈「大小」の印はあるが位置は不明〉    「応需惺々狂斎〔◇中ニ「酔」字〕印」(達磨踊り)2-25/30     「大小」印 狂歌賛〈大小表示不明〉    「応需狂斎〔◇中ニ「酔」字〕印」(おどけて島台を運ぶ小僧、笑いころげる大旦那)2-27/30     小僧と大旦那の台詞に句賛〈大小を織り込む〉     以上「卍亭」の狂歌や句賛    ◯「合巻年表」〔東大〕(文久三年刊)    川鍋狂斎画(見返し・袋の画工担当)    『十勇士尼子柱礎』 六編 猛斎芳虎画  見返し・袋 狂斎写・狂斎図 仮名垣魯文作    『雲龍九郎偸盗伝』 七編 錦朝楼国虎画 見返し・囊 狂斎画 仮名垣魯文作    『黄金水大尽盃』 十五編 一恵斎芳幾画 見返し・袋 狂斎画 為永春水作    『風俗浅間嶽』  十二編 朝霞楼芳幾画 見返し 惺々狂斎画 柳下亭種清作    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕(文久三年刊)    惺々周麿画「曲結雅画手本」1-3 「惺々周麿」上州屋重蔵 文久3年 ⑥     <三月 象の見世物 西両国広小路>  ◯『武江観場画譜』五十七(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「天竺渡来大評判 象の戯遊」錦絵五枚組 署名「応需 惺々周麿」恵比寿屋庄七板  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「天竺舶来大象之写真(賛)仮名垣魯文」錦絵二枚続 惺々坊筆(河鍋暁斎)ゑびすや板(亥四月)    ◯『文久文雅人名録』「気之部」〔人名録〕②233(文久三年刊)   〝画 狂斎【一号猩々菴、又醉雷坊】お茶ノ水 河(王偏+咼)洞郁〟  ☆ 元治元年(文久四年・1864)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文久四年)   ⑧「惺々狂斎」「夫婦の大相撲」Ⅴ-21    (頭に角を生やした女房、浮気相手からきた手紙を突きつけて亭主を責めている)    「卍亭」狂歌賛〈手紙に大の月、狂歌に小の月を詠み込む〉     ◯「合巻年表」〔東大〕(元治元年刊)    川鍋暁斎画    『釈迦八相倭文庫』五十三編(画)上冊 歌川国貞 下冊 惺々狂斎(著)万亭応賀 上州屋重蔵板                    表紙 惺々狂斎 見返し「狂斎」    (袋の画工担当)    『雲龍九郎偸盗伝』七編 錦朝楼国虎画 袋「惺々狂斎」仮名垣魯文作     ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(元治二年)   ⑤「応需狂斎」(商家の年始参り)24/24     出入宿(公事宿)久保田の口上〈子供の字凧に大小月〉   ⑧「惺々人狂斎〔カタツムリ〕」「長大な刀を頂戴」(衝立を背に武士が長刀を押し頂く)Ⅳ-扉 ⑤20/24    「元治二 卍亭」狂歌賛〈中国の大人が牛に乗る衝立・大の月を詠み込んだ狂歌〉    ◯「合巻年表」〔東大〕(慶応元年刊)    川鍋暁斎画(袋の画工担当)    『黄金水大尽盃』十六編 歌川国貞画 袋「惺々狂斎画」為永春水作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(慶応元年刊)   「東海道五十三駅滑稽道中双六」「狂斎」具足屋嘉兵衛 慶応1年10月 ②   「東海道五十三駅滑稽道中双六」「狂斎」政田屋    慶応1年10月 ②    〈版元は異なるが図様は同じ〉  ☆ 慶応二年(1866)     ◯「合巻年表」〔東大〕   ◇合巻(慶応二年刊)    川鍋暁斎画(袋の画工担当)    『黄金水大尽盃』十七編 一寿斎国貞画 袋「狂斎図」  為永春水作    『風俗浅間嶽』 十四編 一寿斎国貞画 袋「惺々狂斎画」柳水亭種清作    ◯「【一時雷鳴/流行批判】活模様浮世雛形(だてもよううきよひながた)」   (番付・慶応二年二月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝狂画 うかれびやうしや 猩々坊狂斎〈河鍋暁斎〉    狂文 ふでびやうし   仮名垣魯文〟〈戯作〉    〈「浮かれ拍子や筆拍子」の評、下掲明治三年記事「猩々狂斎の戯画」などを読むと、この頃の暁斎にぴったりの評価     だと思う〉     ☆ 慶応三年(1867)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(慶応三年刊)    河鍋暁斎画『能画図式』二冊 醒々狂斎筆 画工河鍋洞都 蓬枢閣蔵板    ☆ 慶応四年 戊辰(明治元年・1868)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(年)   ①「応需暁斎画」「慶応四豊年踊之図」65/68    (この年の初午や庚申等雑節を書いた札が小判などとともに乱舞するなか「ゑいじやないか/\」のかけ     声で踊り浮かれる人々)   ⑧「応需狂斎」「長居の年始客」(煙草盆から現れた竜が掛幅の富士向かって飛び立つ)Ⅰ-6     卍々亭の狂句と狂歌あり〈狂句に小の月を詠み込む〉  ☆ 明治二年(1869)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(明治二年)   ③「狂斎」(七福神・布袋・黄金をばらまく)9-69/70     狂句賛〈幔幕に大の月〉  ☆ 明治三年(1870)  ◯『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 植竹新出版 明治二十年(1887)   (国立国会図書館デジタルコレクション」( )は原文の読み仮名   〝暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる(門人梅亭鵞叟篇)    明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉方に於て、俳人其角堂雨雀なる者、書画    会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連(のみなかま)なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝早くから書画の    会莚に臨みしに、会主も頗(すこぶ)る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前より、早(はや)盃    を廻らし徳利の底を叩いて飲始めければ、人集り群々(むれむれ)を以て宴を開く頃には既に三升余の酒    を傾けたる故、暁斎氏は酔て泥の如くなる と雖(いへど)も、氏に酒気あるは龍の雲を得たるが如く、    虎の風に遇(あへ)るに似たれば、足も身体(からだ)も愚弱(くにや)/\にて座に堪られぬ程なれど、筆    を持てば益(ます/\)活発にて奇々妙々なる物を書(かき)出(いだ)すを、人々興じ、一扇書(かけ)ば茶    碗を差し、一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲(のん)だか七升飲だ    か、氏は鬼灯(ほうづき)提灯(てうちん)の如くになれども、筆を揮ひて屈せざり、折りから傍らにて    高声(かうせい)に噺(はな)す者あり、今日王子辺へ参りたるに、外国人壱騎乗切りにて来(きた)ると、    茶屋の者出(いで)むかへ、今日は御壱人なるかと問(とふ)と、馬鹿(ばか)を両人(りやうにん)召し連し    よし答へたりと云(いふ)が耳に入り、彼等に笑(わらは)して遣(やら)んと思ひ、足長島(あしながじま)    の人物に二人(にゝん)して沓(くつ)を履(はか)せ居(ゐ)る体を画き、又手長島(てながじま)の人物が大    仏の鼻毛を抜(ぬき)とる様(さま)を画きたりしに、画体(ぐわてい)高貴(かうき)の人を嘲弄(てふろう)    せしものと認(みとめ)られ、其の座に於て官吏に捕えられしかば、席上の混雑騒動は図に顕(あら)はせ    し如くなり、然れども此とき酔(ゑい)いよ/\甚(はなは)だ敷(しき)に至る、目は動かせども四辺(あ    たり)朦朧(もうろう)雲霧(くもきり)の中の如くにして、物の何たるを見分る事能(あた)はず、口は開    けども舌廻らざれば 詞(ことば)を出(いだ)す事能はず、只(たゞ)踊りの身振りして引かれ往き、終    (つひ)に獄舎に下されたり、斯(かく)て漸く翌朝に至り酔(ゑい)醒(さめ)、その事を聞て千悔万愧(せ    んくわいばんき)すれども詮業(せんすべ)なければ、只恐縮の外無かりし、同月十五日、御呼出(おん    よびいだ)しに成て、右の御糾(おんたゞ)し有たれども、何事を御尋ねあるも、更に覚えなければ、他    の御答は為(な)し難き由を述(のべ)、其日は御下(おんさげ)となり、再度(ふたゝび)禁錮させられたり    しが、翌年正月三十日に至り、漸(やうや)く官の放免を請(うけ)て、晴天白日を見る事を得たれば、忘    れざる内にと思ひ、牢獄中の有様を図して我が二三の子弟に示し、且(かつ)我が酒狂に乗ずるの戒めに    も為さばやとて、書置たりことの物有しかば、其侭(そのまゝ)に出して牢獄の中の苦しき様を記すに文    章を以て贅せず、此二三の画図に附(つい)て見て、後世の戒めともならば氏が本懐ならんのみ〟    〈飯島虚心の『河鍋暁斎翁伝』も手長足長の図が「貴顕を嘲弄するもの」と見なされたと記す。そして次のように述べる〉     ◯『河鍋暁斎翁伝』「第二章 画師暁斎」飯島虚心著   〝明治の初め、法律未だ全からずといへども、何瑣々たる一狂画の故をもて人を捕ふるの理あらんや。狂    斎の捕へられたるは、蓋し別にあるべし〟    〈逮捕については腑に落ちない点もあるとする。さらに逮捕理由については、以下のような証言も伝わる〉  ◯『美術園』第七号「雑報」明治二十二年五月 ※ 読点は原文に従う   〝明治三年不忍池畔に於て書画の会ありけるに、翁狂酔して戯画二葉を作りしが、その図当時の相国を諷    譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意ありとて、大不敬の科に坐して、囹圄(れいご)に繋がる〟    〈戯画の内容に触れていないが、それには「尊きあたりを侮辱し奉れる寓意」が認められるとし、時の最高権力者ともい     うべき相国(廷臣の最高位で現代の首相に相当する)と擬えているのではないかとする風評もあったようだ〉  ◯「江戸座談会-江戸の暮」(『江戸文化』第三巻二号 昭和四年(1929)二月刊)   (今泉雄作談)〈美術史家、岡倉天心らと東京美術学校創立・京都市美術工芸学校校長。昭和6年没82歳〉   〝それから狂斎が牢に入るときなんか大へんでした。    書画会の時に、弾正台の役人も沢山入りこんで居る中で、日本人が外人に尻をほられてゐる所をかいた、    これは誰だといふと、三條だといふので、とう/\弾正台の役人につれてゆかれた、その時「いやだ/\    俺アいやだ」といつたけれど、仕方がない。とう/\ひつぱられてしまつた。    其の書画会は、不忍弁天の龍池院といふ寺の座敷でやつた〟    〈弾正台は明治2年に発足した警察機関、後明治4年司法省と合併。三条とは新政府の右大臣であった三条実美を指すの     であろう。ここでの図様は「日本人が外人に尻をほられてゐる所」と極めて具体的、しかも吟味において、この日本     人は誰かと問われたとき、狂斎は三条と答えたとある。この談話の方が『暁斎画談』のいう「画体高貴の人を嘲弄せ     しもの」に、あるいは『美術園』(明治22年刊)「その図当時の相国を諷譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意あり」に     よく符合するように思う。三条は明治24年没、『暁斎画談』も『美術園』それ以前の出版である。そこに遠慮がなか     ったはずはないと思うのだが、果たして真相はどうか〉   〈以下、飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』と併せて、逮捕後の狂斎の動向を略記する〉   十月六日 貴人を嘲弄したという容疑で逮捕され、仮牢に収容される。門人等赦免を請うも許されず   同十五日 吟味で手長足長の図について問われると、外国人が日本の士を馬鹿にしたと、誰かが言うので        憤慨のあまり、あの様な図柄を画いたと弁明。   十一月(在獄数十日) 身体衰弱、息も絶え絶えという状態に陥り、いったん自宅療養に入る   十二月末 平癒するや再び獄にもどる   翌四年一月 判決が出て、笞五十の刑に処せられる  ☆ 明治四年(1871)    ◯「合巻年表」〔東大〕(元治元年刊)    河鍋暁斎画(袋の画工担当)    『藪黄鳥八幡不知』初編 錦朝楼芳虎画 袋「惺々翁画」山々亭有人作  ◯『早稲田文学』第25号p14「明治文学一覧」(明治30年(1897)1月3日刊)   〝今年(明治四年)の名人案内に、    戯作 は春水、応賀、有人、魯文    浮世絵は国周、芳幾、芳虎、広重、豊国、暁斎    銅版 は玄々堂緑山等五人〟    〈この豊国は四代目・二代目国貞。この「名人案内」は明治三年の「東京諸先生高名方独案内」と同様のものと思われ     るが未詳〉     ☆ 明治五年(1872)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治五年刊)    河鍋暁斎画    『大鈍託新文鬼談』初編一冊 暁斎画 万亭応賀著 藤岡屋慶次郎板    『河童相伝胡瓜遣』初編二冊 暁斎画 仮名垣魯文著    『蛸入道魚説教』 初編一冊 暁斎画 仮名垣魯文著    『豊年五穀祭』  初編一冊 惺々暁斎画 万亭応賀著 小林喜左衛門    『西洋料理通』  三冊   暁斎鈍鬼画 仮名垣魯文編    『世界都路』   前後編  暁斎画   仮名垣魯文編     ◯「合巻年表」〔目録DB〕(明治五年刊)    河鍋暁斎画『聖人肝潰志』河鍋暁斎画 万亭応賀作 明治五序    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治五年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『大鈍託新文鬼談』二号二冊 惺々暁斎画 万亭応賀著  山崎屋清七版    『蛸入道魚説教』 初編一冊 惺々暁斎画 仮名垣魯文著 桃源斎蔵版    『聖人肝潰志』  初号二冊 惺々暁斎画 万亭応賀著  栄久堂版    『豊年五穀祭』  二号二冊 惺々暁斎画 万亭応賀著  仙鶴堂版     『安愚楽鍋』   三編 惺々暁斎画 口絵「洗手恵斎謹写」仮名垣魯文著(明治五年孟春序)    『胡瓜遣』    初編二冊 暁斎画   仮名垣魯文著 万笈閣版    ◯「往来物年表」(本HP・Top)    河鍋暁斎画『窮理隠語』「惺々暁斎画」清原道彦作 万笈閣 明治五年刊〔国書DB〕    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治五年刊)    河鍋暁斎画    『珍奇物語』初篇   暁斎画  東江楼主人 東江楼版    『世界都路』巻2-7 惺々暁斎 仮名垣魯文 万笈閣版  ◯『書画五拾三駅』明治五年十月改印 沢村屋清吉板   (国立国会図書館デジタルコレクション)    惺々暁画「川崎・鞠子・袋井・藤川・大津」五図担当  ◯『明治東京逸聞史』①p19「博覧会」明治五年(1872)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝博覧会 〈文明開化評林(岡部啓五郎著)〉     今年三月十日から、月末までの二十日間、文部省博物館に於て、博覧会が催された。毎朝九時から、    午後四時まで、男女を問わず、一日おおよそ千人を限って、拝観が許される。切手は、同館及び諸方の    書店で出している。──     入場券のことが、切手と呼ばれている。拝観が許されるという表現に、多分に官尊民卑的な匂いがあ    る。この博覧会の陳列品を、川鍋暁斎(キヨウサイ)の描いた錦絵が出来ている。鳥類の剥製があるかと思う    と、信長の甲冑や陣羽織、清正の片鎌の鑓なども出ていて、その雑然たるところが面白い〟    ◯『香亭雅談』上下(中根淑編集・出版 明治十九年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※原文は返り点のみの漢文、書き下し及び(~)の読みや意味は本HPのもの。送りかな等の過ち、ご示教を願う   (上)   〝渡辺温 無尽蔵主人と号す、予向同して下谷西巷の某家を◎、時に無尽子『伊蘇普寓言』を訳述し、惺    惺暁斎をして其の画を作さしむ、暁斎僅かに二三紙を写して、遷延月に渉る、無尽子屡々其の家に往き    之を責めんとするも、多くは在らざるなり、一夕暁斎酔ひて来たりて曰く「我が為に酒を買はん、我且    つ散楽を奏さん」と、既にして(間もなく)且つ飲み且つ舞ひ、泥爛して昏睡す、無尽子其の酒の醒むる    を俟つて、以て宿諾を責めんと欲す、旦(あした)に至り之を視るに、被窩枵然として人無し、乃ち歎き    て曰く「意(おも)はざる、籠禽の還脱とは」〟(24/40コマ)※◎は(厲から草冠を取り除いたもの    〈『伊蘇普寓言(イソップモノガタリ)』は明治6年4・12月刊。従ってこの挿絵は明治5-6年頃のものと思われる。「被窩枵然無人」     とはもぬけの殻といった意味か〉  ☆ 明治六年(1873)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治六年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『浮世機関西洋鑑』初編二冊 惺々暁斎画 岡丈紀著  万笈閣版    『和漢三才図笑』 一冊 惺々暁斎画 万亭応賀著 仙鶴堂版    『新制兎美断語』 一冊 惺々暁斎画 万亭応賀著 山崎屋清七版    『当世利口娘』  一冊 暁斎画   万亭服部孝三郎著 山崎屋清七版    『天上大珍事』  一冊 惺々暁斎画 万亭応賀著 山静堂版    『豊年五穀祭』  二号 惺々暁斎画 万亭応賀著 仙鶴堂版   ◇翻訳翻案(明治六年刊)    河鍋暁斎画『通俗伊蘇普物語』六巻六冊 藤沢梅南・榊篁邨・惺々暁斎画 無尽蔵書斎主人訳述 渡辺氏版    ◯「日本古典籍総合目録」(明治六年刊)   ◇往来物    河鍋暁斎画    『皇国風俗往来』一冊 河鍋暁斎画 小川持正著 山城屋佐兵衛他板    『世界風俗往来』外編 口絵「惺々暁斎」橘慎一郎著 和泉屋市兵衛 明治六年夏刊    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治六年刊)    河鍋暁斎画『理解新文』暁斎画 万亭応賀 小林喜右衛門板    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治六年刊)    河鍋暁斎画    『世界蒙求』      口絵 惺々暁斎画 松居真房他 青藜閣 (4月)    『万国地理物語』上下  挿絵 暁斎画   東湾楼主人 紀伊国屋徳蔵(7月)    『横浜往来』      挿絵 惺々暁斎画 仮名垣魯文 万笈閣他(7月)    『文明開化童戯百人一首』挿絵 惺々暁斎  総生寛   椀屋喜兵衛(8月)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(明治六年刊)    河鍋暁斎画『童戯百人一首』挿絵〔跡見1252〕    見返し「惺々暁斎筆」椀屋喜兵衛ほか 序「紀元二千五百三十三年第八月 七杉子 総生寛撰」    〈紀元2533年は明治6年〉    ◯「往来物年表」〔国書DB〕    河鍋暁斎画『絵入世渡りもの語』「惺々暁斎」自笑庵主人(中金正衡)著 弘文堂 明治六年九月  ◯「高名三幅対」(東花堂 明治六年春改正)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝講談 佐賀町 木偶坊伯鱗/薬種 京バシ 笠原五郎兵衛/才画 本郷 猩々坊暁斎〟  ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   〝五月一日、画人狂斎、柳橋河内屋半次郎が楼上に於いて千枚画をなす。草筆の達者なり〟     ☆ 明治七年(1874)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治七年刊)    惺々暁斎画    『青楼半可通』一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 鶴屋善右衛門板    『母の導き』 二冊 暁斎画 土居光華訳    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(明治七年刊)    河鍋暁斎画『青楼半化通』河鍋暁斎画 万亭応賀作 星野松蔵板    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治七年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『馬鹿につける大妙薬』上中号二冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『西洋道中膝栗毛』十二編 惺々暁斎画 仮名垣魯文元述 総生寛次著 万笈閣版     『大鈍託新文鬼談』 二号 暁斎画   万亭応賀著 松林堂版    『太郎兵衛水掛論』 一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 山崎屋清七版    『近世あきれ蟇』一号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『権兵衛種蒔論』  一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 山崎屋清七版    『東京花毛抜』一二号二冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『蟲類大議論』 初号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『諸芸畑水練』 上号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『名物問答歌』 二号一冊 暁斎画   服部応賀著 小説社書林版    『驕人筆慄筺』 上号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 星野松茂版    『青楼半可通』 三巻三冊 暁斎画   服部応賀著 星野松茂版     『金庫三代記』   一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 千鶴堂版       『日本女教師』 二号二冊 暁斎画   服部応賀著 山崎屋清七版    『開化問答』  初編二冊 惺々暁斎画 小川為治著 二書房版    『智恵の秤』一~三号三冊 惺々暁斎画 万亭応賀著 仙鶴堂版    『開化自慢』  初編二冊 惺々暁斎画 著述並蔵版山口又市郎   ◇翻訳翻案    河鍋暁斎画    『母の導き』二巻二冊 暁斎画 土井光華訳 談山楼版    『世界蒙求』二巻二冊 暁斎画 平井正・松居真房輯 青黎閣他版     〈刊年は国立国会図書館デジタルコレクション画像の見開きには「明治六年稟准」とあり。暁斎画は巻一の口絵。      なお巻二に挿絵なし〉    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治七年刊)    河鍋暁斎画    『分限正札智恵秤』1-3号 挿絵    惺々暁斎 万亭応賀 仙鶴堂   (5月)    『諸芸畑水練』       口絵・挿絵 惺々暁斎 服部応賀 相模屋七兵衛(12月)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治七年刊)    河鍋暁斎画    『近世女大学』口絵 惺々暁斎画 土居光華著 泉屋市兵衛 (1月)    『当世利口女』挿絵 惺々暁斎画 万亭応賀著 山崎屋清七版(5月)    ◯「明治新聞雑誌文庫 所蔵検索システム」(明治七年刊・東京大学)    河鍋暁斎画    『絵新聞日本地』挿絵 暁斎 仮名垣魯文編 自家版 ※(明治7年6月創刊・3号 終刊)    〈日本最初の風刺絵雑誌とされる〉    ◯「往来物年表」〔国書DB〕    河鍋暁斎画『近世女大学』口絵「惺々暁斎」土居光華編 和泉屋市兵衛 明治七年刊    口絵柱「議官藤沢先生画」「河鍋狂斎先生画」  ☆ 明治初年(1868~)    ◯「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上p29)   〝(明治初年頃)    この際、歌川派の衰落を補充すべく、比較的清新な筆を揮って、新刊書の挿絵を描いて、一代に歓迎さ    れはじめた二画家がある。それは惺々狂斎と鮮斎永濯であった。前者は滑稽諷刺の諸著によろしく、後    者は新時代相を画くことにおいて、先ず写実的である点が歌川派を凌ぎ、かつ狩野派出だけに、上品で    もあった。明治八、九年以後、芳年が急に躍進して風俗画において彼と相対峙するに至ってからはそう    でもなかったが、松村の諸著の如きは、彼れの画で半分助けられていたといえる〟    〈松村は戯作者の松村春輔〉    ☆ 明治八年(1874)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治八年刊)    惺々暁斎画    『童女早学文』一冊 惺々暁斎画 服部応賀著    『怪化百物語』二冊 惺々暁斎画 高畠藍泉作 大黒屋平吉板    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治八年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『方今身代ばなし』 一冊 暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『藤兵衛活計論』  一冊 暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『終身千代美草』三号三冊 暁斎画 服部応賀著 山崎清七版    『吃驚懲面箱』 上号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版     〈早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」は明治七年刊とする。早稲田本は『驕人必慄筺』と      『懲面於祓函』下号との合本で、いずれも惺々暁斎画・服部応賀著〉    『懲面於祓函』 下号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社書林版    『活論学門雀』 三号六冊 惺々暁斎画 服部応賀著 山崎清七版    『童女早学文』 上号一冊 惺々暁斎画 服部応賀著 小説社版(下号は明治十三年刊)    『怪化百物語』 二巻二冊 惺々暁斎画 転々堂(高畠藍泉)著 和泉屋市兵衛他版    『開化問答』  二編   惺々暁斎画 小川為治著 丸屋善蔵版    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治八年刊)    河鍋暁斎画『通俗伊蘇普物語』巻一-六 篁邨・暁斎画 渡辺温著〈篁村は巻1のみ〉    ☆ 明治八年(1875)  ◯「皇国名誉君方独案内」(日明社 明治八年刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝美写真 日本橋通二 清水東谷/今様画 本郷傘谷 猩々坊暁斎〟  ☆ 明治九年(1876)  ※ 明治の博覧会や展覧会における全体の出展状況は本HP「浮世絵事典」の「博覧会」か「展覧会」の項にあります  ◯『米国博覧会報告書』第2巻「日本出品目録」(米国博覧会事務局 明治9年刊)   (フィラデルフィア万国博覧会 明治9年(1876)5月10日~11月10日)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝出品職工人名表     事務局採集之部     画類 東京 菊池容斎     同  同  河鍋暁斎     同  同  長谷川雪堤〟   〝日本出品区分目録      水色自画  躍鯉ノ図 出品主 東京 菊池容斎      水色自画  枇杷栖鳥ノ図・中世歌妓ノ図 出品主 東京 河鍋暁斎      水色自画  鷺鶩ノ図 出品主 東京 長谷川雪堤      新工漆画帖 三冊 柴田是真発明 水色画帖 渡辺省亭筆 出品主 起立工商会社〟    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治九年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画『今昔較』上下二冊 惺々暁斎画 岡三慶著 小林新造版    ◯『画家一覧』番付(永楽堂「明治九年第十二月新刻」)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※(相撲番付と同じ体裁)   〝行事 柴田是真 石切河岸/勧進元 菊地(ママ)容斎 於玉ヶ池〈番付中央〉    小結 松本楓湖 浅草栄久丁    前頭 猩々暁斎 本郷 〈張り出し〉    前頭 狩野永濯 呉服丁       三木光斎 池ノ端       伊藤静斎 長谷川丁〟  ☆ 明治前期  ◯「【当時一品】名誉博覧会」明治前期刊(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝洋造ノ自転車 お心しだい     猩々狂斎 ・鶴沢清糸・一立斎文車・都々逸坊扇歌・市川九蔵〟    〈この番付の刊年は明治七年と推定される。根拠は下掲本HP「浮世絵事典」の「浮世絵師番付」参照のこと〉    浮世絵師番付「☆明治前期」参照  ☆ 明治十年(1877)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十年刊)   ◇歴史戦記    河鍋暁斎画『鹿児島征討録』三編六冊 惺々暁斎画 川口宗昌編 甘泉堂版    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十年刊)    河鍋暁斎画    『智恵の庫』挿絵 暁斎   村山重武編  由己社          ※(明治10年創刊~終刊不明)    『魯文珍報』挿絵 河鍋暁斎 仮名垣魯文編 開珍社          ※(明治10年11月創刊~12年5月・34号 終刊)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治十年刊)   「宝山松開花双六」惺々暁斎・芳年・楊洲周延・梅素・広重・国周・誠一            ◯◯・素岳・宝丹 堺屋守田重兵衛版 明治十年頃 ⑤②⑩  ◯「内国勧業博覧会」(明治10年8月21日~11月30日・於上野公園)   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』4 内国勧業博覧会事務局    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝追加 第二区 第五類     錦絵 人物・鶏 画 河鍋洞郁 彫 浅井銀次郎 摺 武川清吉〟      (出品者)吉川町 松木平吉   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯    (国立国会図書館デジタルコレクション)     〝第三区 美術 第二類 書画     錦絵 人物・鶏 河鍋洞郁(出品人)武川清吉  ◯『懐中東京案内』二編(福田栄造編 同盟舎 明治十年十月届)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝廿三 有名の画家    浮世画 猩(ママ)々暁斎 湯島四町目〟〈浮世絵画家と見なされている〉    〈他に暁斎・芳年・永濯・国周・広重・芳虎・年信・周延の名があがる〉    ☆ 明治十一年(1878)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十一年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『道戯忠臣蔵』初編一冊 暁斎画 篠田仙果序 越山堂    『市の虎がり』  一冊 暁斎画 服部応賀著 山崎清七    『田舎問答』 初編一冊 暁斎画 松田敏足著 松田敏足   ◇教訓    河鍋暁斎画『文明余響』初編一冊 是真・暁斎画 三尾重定編 東崖堂    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治11年刊)    河鍋暁斎画    『座敷芸道化忠臣蔵』初編  惺々暁斎 越山堂(1月)②    『天網市虎狩』挿絵・表紙  惺々暁斎 万亭応賀 山崎清七(5月)    『修身説約』巻6-10 挿絵 惺々暁斎 木戸麟編 金港堂 (9月)〈群馬県 巻一-五の挿絵には署名なし〉    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十一年刊)    河鍋暁斎画    『魯文珍報』4号 挿絵 河鍋暁斎 仮名垣魯文編 開珍社(1月)     〈5-7号挿絵なし、9号の挿絵は立斎広重〉    『珍笑新誌』創刊 表紙 暁斎 野田千秋編 開珍社(6月)     ※(明治11年6月創刊~同年11月8号以後不詳)    『月とスツポンチ』創刊 表紙 惺々暁斎 柳亭仙果編 興聚社(10月)     ※(明治11年10月創刊~13年2月・56号 終刊)    『智恵の庫』26号 挿絵 暁斎 村山重武編 由己社(?月)     〈明治10年創刊〉  ◯『書画人名録』番付(大村福次郎 明治十一年二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション・番付その1・図書館送信限定)   〝行司 菊池容斎    名家 石切ガシ 柴田是真  (張出)名家 本郷 猩々坊暁斎    名家 スハ丁   松本楓湖〟  ☆ 明治十二年(1879)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十二年刊)    河鍋暁斎画『画本鷹かゝみ』初二編 三冊 河鍋洞郁・容斎 是真画    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十二年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『馬鹿の大妙薬』下号一冊 暁斎画 服部応賀著 小説社書林    『こんなもの』   一冊 暁斎画 万亭応賀著 山崎清七   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画『東京花毛抜』二号 惺々暁斎画 服部応賀著 山崎清七    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十二年刊)    川鍋暁斎画    『絵本鷹かゞみ』1-5編 絵本「編輯兼画工 河鍋郁都」 金花堂(6月)    『おさんの穴』 挿絵 惺々暁斎 望月誠著 思誠堂 (8月)    ◯『現今書画人名録』(高崎脩助編 椿窓堂 明治十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世画之部 惺々暁斎 湯島四丁目〟    (他に永濯・芳年・国周・進斎年道・広重Ⅲ・芳虎・周延・梅堂国政)  ◯「東京名誉二個揃」(番付・明治十二年夏、秋刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝奇画 本郷 猩々坊暁斎 〈河鍋暁斎〉    奇芸 車サカ 帰天斎正一〟〈手品師、西洋手品の開祖とされる〉    〈この番付に載っている浮世絵師は外に小林永濯のみ〉    ☆ 明治十三年(1880)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十三年刊)    河鍋暁斎画『咄表詩話』狂詩 一冊 暁斎画 梅沢堂山(柳水亭種清)撰    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十三年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画    『童女早学文』二号 惺々暁斎画 服部応賀 山崎清七〈一号は明治八年刊〉    『辰春鯰賀』一冊 暁斎画 寺内磯熊編 温和社    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十三年刊)    河鍋暁斎画    『馬鹿の大妙薬』下   挿絵 惺々暁斎 万亭応賀  山崎清七(1月)    『咄表詩話』1-3編  挿絵 惺々暁斎 柳水亭種清 山中市兵衛(4月)     (「柳亭種彦門人呂洌葉唄初舞台御目見之図」口上役は好亭酒盛と岳亭春信)    『東京花毛抜』2-3号 挿絵 惺々暁斎 万亭応賀  山崎清七(5月)     <絵手本>    『暁斎狂画』見返し「画鬼 暁斎狂画」誠工堂版(8月)②     ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十三年刊)    河鍋暁斎画『小学女用文』惺々暁斎 関葦雄 万笈閣  ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回)〔4月1日~5月30日 上野公園〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第八号(明治十三年五月序)   〝又兵衛 鬼之図 又兵衛筆 一幅(出品者)河鍋暁斎    又平  画巻  又平筆  一幅(出品者)河鍋暁斎〟    〈岩佐又兵衛かどうかは定かでない〉    ◯『皇国名誉書画人名録』番付 東京(北尾卯三郎編集・出版 明治十三年一月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝浮世画 猩(ママ)々暁斎 湯島四町目〟     (他に永濯・芳年・国周・広重Ⅲ・周延・芳幾・芳藤・芳虎・年信・梅堂国政・芳春・房種)  ☆ 明治十四年(1881)    ◯「絵本年表」(明治十四年刊)    河鍋暁斎画〔漆山年表〕    『暁斎漫画』初編一冊 画工河鍋洞郁 牧野吉兵衛板    『暁斎画譜』二帖   河鍋洞郁図  武田伝兵衛板    河鍋暁斎画〔近代書誌・近代画像データベース〕    『暁斎鈍画』一冊   河鍋暁斎画  大渓平兵衛岡板〈横小本〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十四年刊)    河鍋暁斎画    『暁斎画譜』一冊 画工兼出版人 河鍋暁斎 伊藤岩次郎板(3月)    『暁斎楽画』乾坤二冊 惺々暁斎筆(7月)     署名「雷酔菴「暁斎」印」「米汁翁「暁斎」印」「載嵩奇惺々暁斎「不明」印」     乾 蒲生重章(号褧亭)「暁斎画譜序」 坤 転々堂藍泉跋     刊記 明治十四年五月十六日板権免許 同年七月三日出板        画工 河鍋洞郁        東京書肆 出板人 武田伝右衛門/森田鐵五郎        彫工 大塚鐵五郎 〈外題「暁斎楽画」蒲生重章の序「暁斎画譜」〉    『暁斎略画』一冊 惺々暁斎 山静堂板(9月)  ◯『内国勧業博覧会美術出品目録』   (第二回 内国勧業博覧会 三月開催・於上野公園)    河鍋暁斎     河鍋洞郁 本郷区湯島四丁目      掛物地(三)絹 国姓爺南洋島城中放火ノ図 彩色画      掛物地(一)絹 妲巳蠆盆刑ヲ看ル図    彩色画      掛物地(二)絹 蛇雉子ヲ巻ク図      彩色画     河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会〔5月1日~6月30日 浅草海禅寺〕)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第四号(明治十四年五月序)   〝河鍋暁斎(出品)狂言面 十二個〟  ◯「東京書画詩文人名一覧」(番付 平野伝吉編・出版 明治十四年三月届)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ)   〝画 大家〈番付中央、行事・勧進元に相当する欄〉    猩々暁斎 ユシマ 柴田是真 平右衛門丁〟  ◯『明治文雅都鄙人名録』(岡田霞船編 聚栄堂 明治十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    〈この書は当時の詩・文・書・画・歌・俳諧・篆刻等における著名人のリスト〉   〝画 河鍋暁斎 洞都 湯島四丁目廿一番地〟    浮世絵師 人名録(『明治文雅都鄙人名録』)  ◯『皇国名誉人名富録』番付 東京(竹村貞治郎編・山屋清三郎出版 明治十四年四月届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※欄外に「席順前後御用捨希上候」とあり   〝画 大家一覧 錦画 猩々暁斎 本郷〟     (他に松本楓湖・長谷川雪堤・鮮斎永濯・長谷川雪堤・惺々暁斎)  ☆ 明治十五年(1882)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十五年刊)    河鍋暁斎画『暁斎酔画』三冊 河鍋洞郁画    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十五年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画『民権膝栗毛』初編二冊 暁斎画 蛮触舎蘇山著 二書房  ◯『明治名人伝』初編(岡大次郎編 鮮斎永濯画 小林鉄次郎版 明治十五年四月)    (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※( )の読み仮名は原文のもの   〝河鍋(かはなべ)暁斎(けうさい) (肖像に賛)      化物(ばけもの)も酔(ゑ)ふてねぶるか花の雨    伊豆国韮山の産にして、初め狩野家(かのけ)の門に入り、洞郁(とういく)と称し惺々翁(しやう/\お    う)と号す、狂画を好む故に狂斎(きやうさい)と自称せしが、狂画の興に乗じて官の忌嫌(きけん)に触    (ふれ)、囹圄(れいご)に繋(つなが)るゝ事ありて、後に暁斎(けうさい)と改(あらた)む。生来酒を好み    て他(ひと)の家に至れば、先(まづ)酒を乞(こふ)て後に談(だん)ず、酩酊の末(すゑ)必ず謡曲(うたい)    かつ舞ひ、筆紙(ひつし)を乞て戯画(げくわ)を作る、磊々(らい/\)落々(らく/\)として神(しん)に    入る、甚(はなはだ)妙(めう)なり、若(もし)紙を授(さづ)けざれば、壁障子をも嫌(きら)はず奇々(きゝ)    怪々(くわい/\)の図を作るの僻(べき)あり、明治十四年、第二内国勧業博覧会に墨画(ぼくぐわ)の鴉    (からす)一羽を出品して、金百円の価(あたひ)ありしと聞く〟    〈囹圄は獄舎。この泥酔騒動は明治三年十月のこと。上掲明治三年参照〉  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝河鍋暁斎(出品)    師宣 佐々木盛綱図 一幅・守景 霊昭女図 一幅・澄賀 法印書 一幅    又平 観花図    一巻・文清 惟麿像  一幅   ◇第四号(明治十五年四月序)   〝河鍋暁斎(出品)探幽狂画 二巻〟  ◯『第二回 内国勧業博覧会報告書 第1-4区』(農商務省博覧会掛 明治十六年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「第三区 美術 第三類 各種書画」の報告。河鍋暁斎 妙技二等の評)   〝妙技二等 墨画枯寒鴉図 東京府下本郷区湯島天神町 河鍋暁斎〟   〝枯木宿鴉ノ図ハ河鍋暁斎ノ出画ナリ。妙技二等ノ薦文ニ、◎曲ノ枝頭ニ泊鴉ヲ写ス、一気卒成警抜    奇峭、些ノ装点ヲ費サズ、神致活脱ニシテ平生狂戯ノ風習ヲ撤却セリト云フ。暁斎ハ狩野洞白ノ門ニ出、    後チ元明ノ画風ヲ学ビ、北宗ノ人物ニ長技ナリト自称シ、一揮千紙ノ快筆ナリト雖モ、俗眼ヲ悦スモノ    多ク、北宗ノ真致ヲ了シ、大雅ノ堂ニ上スベキモノ鮮シ。独リ此枯木栖鴉ノ幀ハ、較(ヤヤ)古法ノ丰神ヲ    掬シ、纔ニ一朶一鴉ノ墨痕ニ千鈞ノ力ラヲ含有シ、一美千醜ヲ掩ヒ、平常ノ面目ヲ洗換ス。爾来此筆跡    ニ歩シテ正途ニ帰セバ、画中ノ老彪ト称スベキモノナリ〟〈◎は杇(コテ)か〉  ◯『明治文雅都鄙人名録』(岡田霞船編 聚栄堂 明治十五年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 河鍋暁斎 洞都 湯島四丁目廿一番地〟    〈明治14年版人名録と同じ〉  ◯『読売新聞』明治15年5月31日付   〝昨日と今日の読売雑譚(ざふだん)に記載の通り、明一日より「愽笑戯墨(たはれごと)」の一欄を設けて、    外国のポンチに倣ひ、有名の画工永濯・暁斎の諸氏に依頼して、日々狂画一個宛(づヽ)を載る事に致し    ましたれば、一層御愛看を願(ねがひ)ます〟    〈他に清親・酔翁も狂画を寄せている〉  ◯『東京じまん』(加藤岡孫八編 加藤岡孫八出版 明治十四年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「皇国古今名誉競」   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平〟    〈現在と過去のその道の名人をいろいろな観点から面白おかしく対照する戯れ。暁斎の「白」は明治三年(1870)の泥酔     騒動の結末を暗に示したもの。一蝶の「罪」は元禄十一年(1698)の流罪を踏まえる。ただ一蝶の「上画」の意味がよ     くわからない。次の是真と吃の又平との組み合わせ、前者は実在で後者は芝居の登場人物、しかも又平が生業として     いたものは仏画ではなく大津絵、また「傾城反魂香」の芝居で画いたのは自画像である。これもどのような観点で一     対としたものかよく分からない〉  ◯『内国絵画共進会 古画出品目録』(農商務省版・明治十五年)   (内国絵画共進会(第一回) 10月1日~11月20日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝河鍋暁斎出品 岩佐又平筆 観花図 一巻〟  ◯『絵画出品目録』初版(農商務省編 国文社第一支店 明治十五年十月刊)   (内国絵画共進会 明治十五年十月開催 於上野公園)   ◯第二区 狩野派    河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神    ◯「名家一覧 盛家一覧」(番付 編者未詳 明治十五年刊)〔番付集成 下〕   〝盛家一覧     各画 ◎風  本郷 猩々暁斎  一流画 小梅 鮮斎永濯        ◎◎画 ◎◎ 大蘇芳年  俳優画 ◎◎ 豊原国周〟  ☆ 明治十六年(1883)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治十五年刊)   ◇開化滑稽風刺    河鍋暁斎画『滑稽笑抱会議』三巻 暁斎画 井上久太郎著 北村孝二郎    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十六年刊)    河鍋暁斎画    『現存名家画譜』中村惟徳編 中村佐太郎(上下 2月)            挿絵 上巻 柴田是真ほか 下巻 惺々暁斎・鮮斎永濯ほか    『絵本太平記』 挿絵 惺々狂斎 小林檉湖 中村頼治 東京同益出版社     巻13・14 奥付「繍絵者 惺々狂斎/小林檉湖」(3月)     巻15-26 口絵・挿絵 小林檉湖 惺々暁斎(12月)〈暁斎は、巻16の挿絵一葉のみ。巻27-40は翌17年〉    『民権膝栗毛』 口絵・挿絵 惺々暁斎 蛮触舎蘇山 金港堂(10月)    『滑稽笑抱会議』口絵・挿絵 惺々暁斎 井上久太郎 北村孝二郎(上下 11月)   ◯『絵画共進現存画家人名一覧表』(広瀬藤助編 赤志忠雅堂 明治十六年二月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝円山四條及雑派    東京  柴田是真    西京(ママ)  月岡芳年    西京  久保田米僯(ママ) トウケイ    渡辺省亭〟   〝古流及狩野派    トウケイ  河鍋暁斎    トウケイ    鍬形蕙林〟   〝歌川派 大阪 笹木芳瀧〟  ◯『東京大家二人揃 雷名見立鏡』番付 東京(東花堂(宮田宇平)明治十六年五月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝新談 林町 松林伯円 / 新画 本郷 猩々坊暁斎〟〈松林伯円は講釈師〉    〈他の浮世絵師は是真・楓湖・永濯・国周〉  ◯『龍池会報告』第壱号(明治十六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第一回巴里府日本美術縦覧会記事」     〈明治十六年六月、日本美術の展覧会がパリで開催される。それに向けて龍地会が選定した作品は、狩野・土佐・四條・     浮世絵を中心に、新画五十一幅、古画の二十二幅の合計七十三幅。そのうち浮世絵に関係ある作品は以下の通り〉    〝新画    河鍋暁斎  龍頭観音図  柴田是真  藤花ニ小禽図    小林永濯  少婦戯猫図  渡邊省亭  雪竹ニ鶏図    橋本周延  美人泛舟図  久保田米仙 宇治秋景図    中井芳瀧  婦女観花図〟    〈東京・京都の画家から三十余名を選抜して作画(全て懸幅)を依頼、それを榛原直次郎がすべて表装して送り出した〉   ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 鴻盟社等 明治十六年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝現今略伝 第二区 狩野派之類    河鍋洞郁【本郷区湯島四町目廿二番地】      狩野 人物 狂画     惺々暁斎ト号ス、初ノ号ハ狂斎、天保二年四月七日、下総古河ニ生ル、始一勇斎国芳ニ従ヒ、後前村     洞和ノ門ニ入ル、終ニ狩野洞白美信ノ弟子トナリ、尓来数家ノ風ヲ折衷シテ一家ヲナス、日常酒ヲ     嗜ミ、尤狂画ニ工ナリ、第二博覧会ニ妙技賞牌ヲ賜フ〟  ◯『明治文雅姓名録』(清水信夫編・出版 明治十六年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝画 暁斎 河鍋洞郁 湯島四丁目廿二番地〟   ☆ 明治十七年(1884)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十七年刊)    河鍋暁斎画    『武田三代軍記』口絵 惺々暁斎 東浦栄二郎 徴古堂(巻1 3月)〈全部で1-22巻〉  ◯『東京案内』(児玉永成編 錦栄堂 明治十七年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「東京大家書家人名録」の項)   〝河鍋暁斎  画 湯島四丁目    松本楓湖    浅草栄久丁    五姓田芳柳   浅草公園地    柴田是真    上平右衛門丁〟  ◯『絵画振起論並名家独案内』(岡村清吉編集・出版 明治十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝暁斎 河鍋洞郁 湯島四丁目二十二番地〟  ◯『大日本書画価額表』番付 東京(清水嘉兵衛編集・出版 明治十七年六月届)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝精密画一葉価額    暁斎 金七円 猩々暁斎 東京 湯島    是真 金七円 柴田順蔵 東京 上平右ヱ門町    楓湖 金四円 松本楓湖 東京 浅草栄久町〟    ◯「読売新聞」(明治17年6月15日付)   〝書画会 来る二十二日 柳橋の万八楼にて 仮名垣熊太郎氏が会主となり 新居披露の書画会を催され    る由にて 当日は暁斎(けうさい)翁が 席上にて千疋蛙(かはづ)の珍画を画れるといふ〟  ◯『今日新聞』創刊(明治十七年九月二十五日)    仮名垣魯文記 風刺絵「日本地」河鍋暁斎画  ◯「涅槃図」「太宰府・北野両天満宮奉納絵馬額」の依頼主・松浦武四郎への誓約証文    出典:『芸苑一夕話』上巻 市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊       (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇二五 松浦武四郎(170/253コマ)     暁斎(げうさい)差入の一札     彼れ(松浦武四郎)は、自らも画をよくしたから、近世の画家河鍋暁斎、田崎草雲などゝは懇意の中で    あつた。其の関係からでもあらう。草雲の如きは、身、蝦夷地を踏んだ事もないのに、蝦夷地の風景を    画いて居(ゐ)るものが少くない。多分、松浦の蝦夷地の「スケッチ」を粉本にしたものであらう。又武    四郎は、暁斎の画を喜んだと見える。彼れの家には、暁斎の大画が蔵されて居た。其の事は後に語るが、    こゝに一事の語るべきことがある。暁斎は大の飲抜(のみぬけ)で、どんな拠(よん)どころ無い筋から頼    まれた画でも、酒ばかり飲んで、すつぱかして了(しま)ふが例であつた。松浦はそれを知つて居るから、    或時、天満宮へ納める大きな絵馬額を暁斎に注文するに方(あた)り、例の違約を気遣ひ、ぎり/\決着    の証文を書かせた。その証文が、今自分の所蔵になつて居る     貴殿事、天満宮廿五拝え、各々私の揮毫仕候額面御奉納之由にて被仰付、難有存候。然る処若し出     来不申候はゞ、町絵師共え被仰付、私名前を書入被成候由、左様有之候共、一切申分仕間敷候也。     依ては右額面小形二円、中形三円、太宰府北野両社の大額は廿五円づゝ被下約にて、昨年より認め     来り候涅槃像も、落成後は兆殿司羅漢、元信寿老、並に信実歌仙、師宣屏風等被下候由、実に難有     仕合に奉存候。依ては月に両度づゝ必ず参上、額は小二枚、中一枚、相認め可申事、実正也。もし     違約致候はゞ、私名前にて、如何様凡絵師に被仰付、奉納被成候も、申分仕まじく候。涅槃像出来     不仕候節は、兆殿司、元信、返納可仕候。為後証、差入置一札、如件       明治十七年十二月十二日                             湯島四丁目二十二番地 河鍋暁斎           松浦武四郎殿     大酒飲の大づぼらなる暁斎に、二十幾枚の額を書かせるに、武四郎が如何に苦心したかは、斯(かゝ)    る厳重なる証文を取つたによつても察せられる。武四郎は、万一の為に若(も)し約束の期を過ぎて出    来ぬ場合は、凡庸絵師に書かせて、お前の名を署するが、それでよいかとまで念を押して居る。画家は、    己(おの)が名誉のため、拙手に代筆され、それに自分の落款を据ゑさせられる程、つらいことは無い。    武四郎は其の急所にまで触れて約束をして居(を)るが、暁斎は、果して約を履(ふ)むかどうか。此の    証文に拠ると、必ず月二回、松浦方に行き、筆を執らねばならぬことになつて居る。づぼらの暁斎に取    つては、随分難儀なことであつたらうが、涅槃の像が現に出来て居る所から推すると、天満宮奉納の額    も、二十数枚成功したらしく思はれる。それは何れにしても、武四郎より贈与の約束になつて居る信実、    兆殿司、元信等の画は、何れも幾千円の価(あたひ)のあるものだ。当時と雖も貴重の者であつたのに、    武四郎が謝礼に是れ程のものを惜気もなく与へる約束をしたのは、実にその大胆なるに驚かざるを得ぬ。    さて、是等の名画を謝礼に与へて書かせた涅槃像は、暁斎一代の傑作と云ふべきものである。次に之を    語らう        会者定離に泣く骨董に囲繞された渠(かれ)の涅槃像     武四郎は、多方面の趣味を有した好事家であつただけ、其の所蔵品は、皆ひねつた珍物のみで、一品    たりとも、人を驚かさぬはなかつた。さて彼れは、此等(これら)の珍玩を愛惜する余り、例の武四郎式    の一案を得た。それが暁斎に頼むだ涅槃像である。此の涅槃像だけは、徳川侯に帰せず、今尚松浦家の    宝物となつて、大切に保管されて居るが、頗る大幅である。     此の涅槃像は、釈尊に擬へた武四郎入寂の図である。高床に安臥して居る死骸に、細君が取附いて泣    いて居る外(ほか)、人間も動物も居らぬ代はりに、種々の骨董が雑然として床下に集まつて泣いて居る。    此の骨董の内には、茶器もあれば珠玉もあり、文房具もあれば書画もある。皆武四郎の愛翫措かざる所    のものであつて、斯様(かやう)なものを、愁ひ悲しむ如き姿に書くと云ふは、極めて困難の事であるの    を、流石(さすが)は暁斎で、皆何となく泣いて居るらしく見せて居るのは珍である。武四郎が、価高き    名画を謝物としたのも無理は無い。実は、こんな絵は、並大抵の絵師で出来るものではない〟  ◯「読売新聞」(明治17年12月14日付)   〝暁斎の烏 猩々暁斎氏の墨画の烏を 同氏の弟子英国人ゼーコンデル氏が 本国に送りしに 同々にて    最も賞美し 此の図を百枚認めて送ッて呉れとの注文が来たので 暁斎は毎日築地の外国館へ通ひ 絹    地へ揮毫し 昨日残らず認め終ッたといふ〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十八年刊)    河鍋暁斎画    『鼇頭熟語皇国文証大全』口絵 惺々暁斎画 久保田粱山著 金松堂(4月)    『武田三代軍記』    口絵 惺々暁斎  片島深淵  小泉行善(巻1 9月)     〈巻七まであるが挿絵なし、巻一の口絵のみ〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十八年刊)    河鍋暁斎画    『釈迦八相倭文庫』口絵 惺々暁斎 尾形月耕・挿絵 梅堂国政 万亭応賀 金松堂(上編 4月)              口絵 香蝶豊宣 暁斎補画・挿絵 香蝶豊宣(下編)  ◯『大日本儒詩書画一覧』番付 東京(倉島伊左衛門編集・出版  明治十八年二月)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画家部 東京 松本楓湖 五円以上        東京 勝川春亭 三円以下〟   〝画才  東京 柴田是真 二十円以上  画力  東京 猩々坊暁斎 二十円以上〟   〝画筆  東京 鮮斎永濯 十五円以下  画勢  東京 大蘇芳年  二十円以下〟   〝美画  東京 豊原国周 二十円以上  新画  東京 落合芳幾  二十円以上〟  ◯『現今日本画家人名録』赤志忠七 大阪(赤志忠雅堂 明治十八年三月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝狩野派 東京 人物 河鍋暁斎 洞斎〟    〈凡例によると、この人名録が収録するのは明治15年・同17年に開催された内国絵画共進会に出品した絵師〉  ◯『東京高名鑑』(加藤新編 滝沢次郎吉出版 明治十八年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝生田芳春 早川松山 橋本周延 長谷川雪光 長谷川周春 蜂須賀国明 梅素薫  豊原国周    大村一蜻 大竹国房 恩田幹延 尾形月耕  落合芳幾  渡辺省亭  河鍋暁斎 金木年景    竹内国政 月岡芳年 永島孟斎 村井房種  歌川芳藤  歌川国松  歌川国久 野坂年晴    松本楓湖 松本豊宣 松本芳延 小林清親  小林永濯  安藤広近  安藤広重 安達吟光    新井年雪 荒川国周 柴田是真 鳥居清満  守川国重  鈴木華邨〟  ◯『全国書画一覧』番付 東京(竹村貞治郎編集・出版 明治十八年届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝南北画大家之部 東京 松本楓湖〟   〝一流画 東京 鮮斎永濯 / 錦画 東京 猩々暁斎〟   〝陶器画 東京 松本芳信(ママ)〟  ◯「皇国書画名家二覧」(番付 竹村貞治郎 明治十八年刊)〔番付集成 下〕   〝陶画  東京 松本芳信(ママ)〟   〝◎◎画 東京 猩々暁斎  ◎◎画 東京 鮮斎永濯〟  ☆ 明治十九年(1886)    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十九年刊)    河鍋暁斎画    『後家の誡め』 挿絵 惺々暁斎 孤閨寒人 兎屋誠(2月)    『武田三代軍記』口絵・挿絵 惺々暁斎 編者不詳  文事堂(8月)    『丙戌後記』  口絵・挿絵 惺々暁斎 松浦武四郎 松浦弘(12月)  ◯「読売新聞」(明治19年3月13日付)   〝錦絵 此ほど今川橋の沢村屋より 猩々暁斎が筆を揮ひし義士の図が二枚 また馬喰町の綱島より芳年    の宮本武蔵試合の図が二枚続きが出版になりました〟    〈暁斎画の表題は「元禄日本(やまと)錦」 芳年の二枚続は表題が「武蔵塚原試合図」で「新撰東錦絵」シリーズの一つ〉  ◯「読売新聞」(明治19年4月14日付)   〝錦絵 今度本銀町二丁目武川清吉方より 惺々暁斎の画(か)いた義士討入の図六枚 並に深川西森下町    の松井方より芳年の画いた豹子頭林冲山神廟の図竪二枚続き(奉書摺り)が出板になりたり〟  ◯『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編 絵画堂刊 七月刊)   (東洋絵画共進会 4月1日~5月20日 上野竹の台)   〝河鍋暁斎は開場後参観の序、諸子の請に応じ即座に筆を染め、咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれ    ど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能は    ざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなしと云ふも過賞にあらざ    るべし〟  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十九年五月序)   〝河鍋暁斎 席画 竜頭観音図 一枚(出品者)佐野常民         絹本 鍾馗駆兎図 二枚(出品者)中村治兵衛〟   ◯『書画一覧』番付 東京(児玉又七編集・出版 明治十九年届)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画之部 浅草 柴田是真 十円以上        ユシマ  河鍋暁斎 七円以上        浅クサ 松本楓湖 二円位        浅クサ 荒川国周 二円位〟    ☆ 明治二十年(1887)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十年刊)    河鍋暁斎画    『暁斎画談』   上下 河鍋暁斎画 瓜生政和編 植竹新(4月)    『暁斎画談 外編』上下 河鍋暁斎画 瓜生政和編 植竹新(6月)  ◯「読売新聞」(明治20年9月13日付)   〝最近出版書『暁斎画談』    画名天下に聞えたる河鍋暁斎翁は 三歳はじめて蛙の写生をなせしより 今年五十八歳まで刻苦勉強実    物を写し 古画を摸し 画の為に狂(きゃう)したる人といふも可なる(酒に狂するは別として)ほどな    れば 外国人も慕ふて 弟子の礼を執るに至る 誠に名誉の事なり 今ま同氏の画談並(び)に同氏の奇    行をば 門人梅亭叟が集め 尚ほ同氏が是までの丹精になりし古画等を刻して内外篇四冊として発売せ    られたり 此書ありて翁の伎倆ます/\世に顕はるべし〟  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十年刊)    河鍋暁斎画『新発明思琴事あてもの』口絵のみ 表紙「尭斎」宮沢茂十郎 松泉堂(12月)  ☆ 明治前期  ※◎は判読できなかった文字   ◯「名家見立鑑」発行人・鈴木繁(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝当画屋新治郎    (見立ての文字判読できず)    小梅  鮮斎永濯(明治23年(1890)没)    福井丁 柴田是真(明治24年(1891)没)    浅クサ 淡島椿岳(日本画家・梵雲庵淡島寒月の父。明治22年(1889)没)    米沢丁 小林清親(大正4年(1915)没)    ◎◎丁 荒川国周(明治33年(1900)没)    浅クサ 松本芳延(明治23年(1890)没)    神田  月岡雪貢(切金砂子師、月岡儀兵衛。没年未詳)    本郷  猩々暁斎(明治22年(1889)没)    〈この番付は明治十年代のものか。住居は本郷の湯島〉  ☆ 明治二十年(1887)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治二十年刊)    河鍋暁斎画『暁斎画談』四冊 河鍋洞都著並画〈〔目録DB〕は瓜生政和(梅亭金鵞)編〉    ☆ 明治二十一年(1888)    ◯「合巻年表」〔東大〕(明治二十一年刊)    河鍋暁斎画    『明良双葉艸』八編(画)楊洲周延・惺々暁斎蒲画(著)万亭応賀(発)武川卯之助  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十一年刊)    河鍋暁斎画    『民権膝栗毛』口絵・挿絵 惺々暁斎 蛮触舎蘇山 嵯峨野彦太郎他(3月)    『粋の枝折』 口絵のみ  惺々暁斎 仮名垣魯文 安間ヤス(3月)〈都々逸集〉   <三月 手品(ノアトン)東京久松町千歳座>  ◯『観物画譜』211・212(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   (明治二十一年六月 力持 東両国中村楼)   「(力持による揮毫の図)仮名垣魯文漫誌」摺物 署名「如空暁斎画」版元不明    (本日席上に於いて八畳敷大紙上快筆 龍頭観音大士之実像 惺々翁暁斎先生揮毫)  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治二十一年四~六月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「新製品 第五号」   〝河鍋暁斎 百幅図 一幅(出品者)榛原直次郎〟  ◯「東京名家四方一覧」(番付 竹村貞治郎 明治二十一年刊)〔番付集成 下〕   〝銘画 根岸  河鍋暁斎  久松丁 安藤広重  ネヅ 大蘇芳年       米沢丁 小林清親  芝   橋本周延  下ヤ 鍋田国正〟  ◯「全国書画名家集覧」(番付 竹村貞治郎 明治二十一年刊)〔番付集成 下〕   〝◎画 ◎◎ 鮮斎永濯  狂画 ネギシ 猩々坊暁斎  陶画? ツキジ 吉田鳳斎?〟  ☆ 明治二十二年(1889)(四月二十六日没 五十九歳)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十二年刊)    河鍋暁斎画『暁斎百鬼画談』挿絵 河鍋洞郁 岩本俊(8月)  ◯『都の花』2-8 金港堂(2月)(本HP「挿絵年表(明治 雑誌・シリーズ)」明治22年参照)   〝此等小説の為め挿画を引受尽力せられし絵かきの隊長連は左の通り。亦た以て此等絵ばかりを諸君が御    覧になるも我国絵画美術の一端を知らることあるべし     惺々暁斎  鮮斎永濯 渡辺省亭 松本楓湖 河辺御楯 鈴木華邨 月岡芳年     五姓田芳柳 松岡緑芽 尾形月耕 武内桂舟 後藤魚洲 小林清親〟    ◯『明治廿二年改正新版書画名家一覧』番付 東京(児玉又七編集・出版 明治二十二年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝(上段 東西筆頭:服部波山 瀧和亭)    本所 豊原国周  石切河岸 柴田是真    銀坐 鮮斎永濯  根岸   河鍋暁斎    (中段)    アサクサ 大蘇芳年    (下段)    アサクサ 松本楓湖  ヤゲンボリ 梅堂国政  アサクサ 五姓田芳柳〟    ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭    和画諸流    (京都 円山応挙) 京都 抱一上人  京都 田中訥言   東京 月岡雪鼎  大阪 岡田玉山     大阪 長山孔寅  画  菊池蓉斎  尾州 浮田一蕙  (京都 尾形光琳)    (東京 瀧和亭)  大阪 松川半山  尾州 小田切春江  大阪 鈴木雷斎     大阪 長谷川貞信(京都 久保田米僊)    (東京 月岡芳年) 大阪 藤原信一  東京 歌川国松   東京 河辺暁斎 サカイ 中井芳瀧     東京 小林清親  大阪 若林長栄  東京 柴田是真  (東京 尾形月耕)  ◯『書画集覧』「明治廿二年改正新版」番付 東京(長谷川常治郎編集・出版 明治二十二年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    欄外「順席不同御容赦下され候」〈相撲番付のように字の大きさは異なる〉   〝書画高名家     柴田是真 平右ヱ門町  松本楓湖 栄久町   鮮斎永濯 小梅村  河鍋暁斎 金杉村     尾形月耕 ヤサエ門丁    英一晴  平右ヱ門丁     渡辺省亭 東三スジ丁〟  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治二十二年四・五月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「新製品 第四・五号」   〝河鍋暁斎     観音 左右猿図 三幅(出品者)斎藤伝吉     元禄美人    二幅(出品者)斎藤伝吉     鵞鳥図     一幅(出品者)斎藤伝吉     羅漢図     三幅(出品者)斎藤伝吉〟  ◯『美術園』第六号「雑報」明治22年5月   〝画工暁斎翁逝く    我国画家中奇抜の筆を以て有名なる画工猩々暁斎(河鍋洞郁)翁は中風症に罹り薬石其効なく、去る廿    六日遂に没死せられたか、惜てもあまり有事と云ふべし〟〈4月26日没〉  ◯『美術園』第七号「雑報」明治22年5月 ※ 読点は原文に従う   〝故河鍋暁斎(けうさい)翁    画伯河鍋暁斎翁が去月廿六日死去せられしハ前号に載せたるが、今其小伝をかゝけんに翁名ハ洞郁(だ    ういく)通称ハ周三郎、初め猩々(せうぜう)狂斎と号し後に暁斎とあらたむ、旧土井の藩士河鍋某の男    なり、天保二卯年四月七日下総の古河に生る、七歳にして井草国芳の門に入り後に前村洞和に従へり、    其後また狩野洞白(名ハ美信)を師とし、洞都と名告りたりしが、師の死後、自ら観る所ありて、顔    煇李・龍眼の風を慕ひ、又狂画に巧みにして、狂斎と自号せり、翁生涯の畸談多かる中に、十一歳の    時かとよ、御茶の水なる火消屋敷に寓しける頃、神田川の南岸に遊ひたりしに、折柄(おりから)川辺に    漂着せし若き溺死婦人の容態(かほかたち)、物凄きことは言ハん方なし、翁如何(いかに)思ひけん、    闇夜にまぎれて、水中に飛び入り、彼の首級(しゆきう)をねぢきりて、机下に秘(かく)し置き、人なき    折を見、欣然として之を写生しけるに、父なる人見付(みつけ)、驚くこと大方ならず、いたく翁を叱り    て、その首を奪い、やがて柩を納めて、その菩提寺に葬りしとぞ、翁性豪放不羈にして、酒を嗜み、日    々数升を尽す、酒気なけれバ筆を把らず、鯨飲(げいいん)の後ハ、必ず筆紙を乞ひて、漫に狂画を作る、    若し紙を与へざれば、障壁をも塗抹(とまつ)して、之に画けり、一年豊原国周が新居披露の書画会に臨    み、当時の豪估(がうこ)津国屋藤三郎が羽織をハぎて、硯池(すゞり)に浸し、筆に代へて忽ち鍾馗の図    をませり、又明治三年不忍池畔に於て書画の会ありけるに、翁狂酔して戯画二葉を作りしが、その図当    時の相国を諷譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意ありとて、大不敬の科に坐して、囹圄(れいご)に繋    がる年を越えて放免の後にハ、深くさとる所あり、狂斎の狂の字を改めて暁翁とぞ号しける、翁の画く    所の人物鳥獣虫魚の類ハ、すべて稍奇に過ぐるものありと雖(いへ)ども、筆々活動して真に迫る妙趣あ    るに至りてハ、凡手(ぼんしゆ)及ぶべくもあらず、その一時名誉を世に博したるも宜べなり、翁また乱    舞を善くし、古代の仮面数十個を蔵めて楽みとし、種々(くさ/\)の古物珍器を座右に陳べ置きて、愛    玩せしハ、絵事の余韻なるべし、嗚呼翁の妙技、翁の畸行、之を古に求むべきも、之を今に得べからず、    吾人悲しまざらんと欲するも得んや〟  ◯『皇国古今名誉競』東京(児玉又七編集・出版 明治二十二年十月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)(『番附集』所収)   (例 智仁忠 勝安房  智仁孝 平 重盛)   〝新画白 猩々坊暁斎  上画罪 英 一蝶    新画  柴田是真   仏画  どもの又平    細画  葛飾北斎   名画  瀧 和亭〟    〈この「皇国古今名誉競」は。明治14年の番付集『東京じまん』が収録する同名番付を踏襲したものだが、今回は     北斎と瀧和亭が加わる〉  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝下谷区 正行院(上三崎南町六四)日蓮宗    河鍋暁斎(画家)通称周三郞、猩々狂斎と号す。国芳に学び、狩野洞白に師事す。浮世雅と狩野派と折    衷して一新機軸を出せり。明治二十二年四月二十六日没。年五十九。本有院如空日諦信士。墓は瑞輪寺    墓地の一部にあり〟  ☆ 刊年未詳    ◯「艶本年表」「日文研・艶本」(刊年未詳)    河鍋暁斎画『はなごよみ』色摺 小判十二枚組物 署名「狂斎」  ☆ 没後資料  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『第三回内国勧業博覧会審査報告』第二部美術   (第三回内国勧業博覧会 明治23年4月1日~7月31日・於上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「美術総論」(博覧会・展覧会受賞歴)     雑派 河鍋周三郎(河鍋暁斎)(p293)     明治23年 第三回内国勧業博覧会 褒状  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十三年刊)    暁斎画『当世俳優修行』口絵・挿絵 如空暁斎[洞郁][中空] 南翠外史 春陽堂(8月)    ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家    格 別     弘 化  葛飾 北斎     明 治  河鍋 暁斎  浮世絵師 歴代大家番付     寛 保  月岡 雪鼎〟    ☆ 明治二十四年(1891)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十四年刊)    暁斎画『滑稽きばらし』口絵 暁斎・挿絵 清親・表紙 習古? 鴻里正吉編・出版(4月)  ◯『南越絵画共進会出品目録』(杉元平六著 南越勧美会 明治二十四年五月刊)   (第一回南越絵画共進会 五月十四日~同二十一日開催 会場:福井市)   〝第二館 古画部 花月楼     葵花図 惺々翁筆 寺田氏蔵〟  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付(樋口正三郎編集・出版 明治二十四年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝和画諸流 無論時代(第三番手グループ)    (筆頭)東京 大石真虎 河鍋暁斎     東京 歌川国松〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p210(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝河鍋暁斎    名ハ洞郁、又猩々狂斎ト号ス、幼名周三郎、天保二年下総古河ニ生レ、父ヲ甲斐喜右衛門ト云フ、幼稚    ヨリ画ヲ好ミ、七才ニテ東京ニ出テ、国芳ノ門人トナル、其後去テ十一才ニテ狩野銅白ノ門ニ入リ、是    ヨリ苦学勉励諸流ヲ研究シテ一格ヲ成ス、一代ノ奇談頗ル多シ、就中明治三年十月東京下谷不忍弁財天    境内林長吉形ニテノ書画会ニ、揮毫ノ事ニヨリ捕縛ニ成タルハ、奇事尤モ事談ニシテ、其詳細ハ暁斎画    訣ニ委シ、其後チ上野博覧会ノ出品ノ鴉ノ画ハ、其価金百円ナルニ、是レヲ買得為シタル人有ルヲ以テ、    其名誉ヲ知ルベシ、著ス処暁斎画訣、暁斎画譜、暁斎麁品〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『浮世絵師便覧』p233(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝暁斎(キヨウサイ)    河鍋氏、名は洞郁、惺々狂斎と号せしが、後に狂字を改めて、暁とす、後に剃髪して、是空入道といふ、    下総古河の人、明治廿二年死〟  ◯『内外古今逸話文庫』1編(岸上操編 博文館 明治二十六年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)     ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)が原文の振り仮名   (第四編「品藻」の項)   〝河鍋暁斎一信の羅漢を評す(333/426コマ)    河鍋暁斎嘗て芝増上寺の羅漢堂に詣(いた)り、逸見一信の画くところ見る(立志欄参看)帰りて人に語    つて曰く、技術に至りて直(ただち)に信服しがたしと雖も、其精力強絶に至ては企て及ばざる所なしと    云へり、暁斎にして猶(なほ)且(かつ)然り、然るを況(いはん)や常人をや(平林探溟)〟    〈立志欄に一信の小伝「逸見一信兄に疎まれて画工となる」あり〉  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』上巻p23(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝河鍋洞郁 暁斎    俗称周三郎、土井侯藩士、号在斎、後暁斎と改む。初め井草国芳の門に入り、後前村洞和に従へり、長    じて狩野寅洞白の門弟と成る。明治廿二年四月廿六日歿す、歳五十九。谷中瑞林寺地中正行院に葬る〟  ◯『内外古今逸話文庫』6編(岸上操編 博文館 明治二十七年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名   (第六編「文芸」の項)   〝暁斎が百福(ひやくふく)の画(ぐわ)御感に逢ふ(11/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    故猩々暁斎は戯画を以て世に持て囃されしが、先年の事とか、暁斎百福の戯画、畏くも聖上の御眼に触    れ、下司(かし)に命ぜられて揮毫を命ぜられしも、当時暁斎已に病死せしを以て、掛員(かゝりゐん)は    之を他の画工に画かしめて奉(たてまつ)りたるも、御意に叶はせられず、更に上命に依りて、翁の嗣子    暁雲に勅(みことのり)あり、今度は百布袋の図にして、旧蠟来(きうらうらい)丹精を抜んでて揮毫中の    よし、暁斎霊あらば如何に地下に感泣すらむ〟    〈暁斎の戯画、お多福百人図が明治天皇の目にとまり揮毫を命じられたものの、暁斎はすでに亡くなっていたので、代わりに     二男の暁雲が命を請け、目下「百布袋」を揮毫中との記事。暁斎は(明治22年没)没。「旧蠟」とは昨年の12月という意味。     そしてこの記事は明治27年3月刊・第6編所収のものであるから、この逸話は明治26年12月頃のものと考えられる。ところ     で明治天皇が目をとめたという暁斎の「百福図」、また暁雲が揮毫中であるという「百布袋」、これらはその後どうなった     のであろうか。暁斎の娘である暁翠の「百福図」はよく知られているようであるが〉  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』明治30年(1897)2月15日)   〝暁斎翁遺墨の衝立    本郷湯島の天神社拝殿に置きある龍虎の図の衝立は 故猩々河鍋暁斎翁の筆にして 筆力勇健雲起り風    生ずるの勢ひあり 美術家の同社に参詣するもの 常に之れに注目し 中には数百金をかげて懇望する    ものもありとかや 然るに此衝立の裏面は年来白紙の侭にして 甚だ体裁悪しかりしかば 氏子中種々    評議の上 裏の絵を 暁斎氏の遺児暁雲氏と暁翠女史とに嘱し 暁雲氏は巌上に鷲の図を 暁翠女史は    瀑布の図を 夫々揮毫し 此程既に落成したりといふ 尚ほ暁雲氏の鷲は 氏が信州戸隠山中にて得し    実物を写生せしものなりとぞ 兎に角一双の衝立に父子兄妹揃つて毫を揮ひしこと 不思議の縁にこそ〟  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都    (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈河辺は河鍋が正しい。江戸時代の大家に匹敵するとの格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(87/103コマ)   〝惺々暁斎【明治元年~三十年 1868-1898】    河鍋氏、名は洞郁、通称周三郞、在斎、狂斎、狂々斎等の号ありしが、後には暁斎と号す、また晩年に    薙髪して、是空入道といふ、下総古河土井侯の藩士にて幼少のとき、井草国芳の門弟となり、また前村    洞和にも従ふ、長じて後、狩野洞白に就きて学び、後終に一家をなし、殊に狂画に巧みなりき、明治三    年十月、東京不忍池畔に設けられし書画会に臨み、酔に乗じて戯画をものせし為め獄に下り、翌年四月    赦免せらる、此の時、狂斎を改めて暁斎と称す、明治廿二年四月廿六日没す、享年五十九、谷中瑞林寺    中正行院に葬る〟  ◯『明治人物夜話』「国周とその生活」p246(森銑三著・底本2001年〔岩波文庫本〕)    (明治三十一年(1898)読売新聞、国周談)   〝「その後、わたしア日本橋の音羽町へ新宅を拵えたことがある。それは随分普請もよし、植木は皆芸者    の名を附けて、ちゃんと出来上ったから、国輝(クニテル)がその時分やかましい奉書一枚摺へ、額堂の絵を    画いた散らしを撒いて、いよいよ新宅開きとなった。音羽町というところは、岡(オカ)ッ引(ピキ)なんぞ    が多く住まっていたが、わたしは豆音(マメオト)さんという岡ッ引の世話になって、着物なんか貰ったから、    その礼廻りをした。帰って来ると、昔、今紀文といわれた山城河岸の津藤さん、猩々暁斎(シヨウジヨウキヨウ    サイ)、石井大之進という、上野広小路へ出ている居合い抜きの歯磨き、榊原藩の橋本作蔵という、今の    周延(チカノブ)なんぞが大勢来ていた。     けれどもわたしも酔っているから、二階へ上って、つい寝てしまうと、何だか下でがたがたするから、    目を覚まして、降りてッと見ると、暁斎め、酒に酔ったもんだから、津藤さんの着ていた白ちゃけた彼    布(ヒフ)を脱がして、びらを画いた丼鉢の墨ン中へ、そいつを突込んだ。津藤さんはにがい顔をしている    と、暁斎はそれを引きずり出して、被布中一面に河童さんを画いちまった。あれも酒がよくないから、    みんな変な顔していると、今度は唐紙へ何か画くてェんで、畳台の二つ三つ庭へ並べ、その上へ二階の    上り口に建ててあった、がんせきの新しい襖を敷いて、机にしたもんだ。そうしてその上で絵を画くん    だから、芸者が墨を持って立っているのもいいが、拵えたばかりの襖の上を、どしどし歩くから、ポコ    ポコ穴が明く。そこでわたしも、あんまり乱暴で見かねたから、傍へ行って、暁斎坊主、ひどいことを    するな。よしなさい、といったが、酔っているから、つんけんどんにやったんだろう。     そうすると暁斎め、持っている筆で、わたしの顔をくるりと撫でて、真ッ黒にしてしまったから、わ    たしも怒る。歯抜きの石井大之進は、暁斎の奴、反ッ歯(ソッパ)だから、おれがそいつを抜いてやると、    りきむし、周延の橋本作蔵は刀を抜いて、斬ってしまうぞと飛びかかったから、暁斎め驚いて、垣根を    破って逃げちまったが、その時分中橋の紅葉川の跡がどぶになってたんで、そこへ落ッこちたから、ま    るで溝鼠(ドブネズミ)のようになったのは、わたしの顔へ墨を塗った報いだと笑った。     けれども暁斎は、あれほどになるだけ感心のことは、その後わたしの家へ尋ねて来たから、それなり    に仲が直ってしまったが、周延が刀を抜いた時には、どうもひどい騒ぎで、往来も止まるくらいだった」    (森銑三記事)     暁斎が国周の家の新宅開きに、酒の上で乱暴したことは、外のものでも読んだ記憶があるが、何であ    ったか、今思出されない。但し暁斎の酒癖の悪かったことは、諸書に見えている〟    ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(鳥井正之助編集・出版 明治三十五年正月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※ⅠはⅡより字が大きい。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師   〝故人皇国各派不判優劣   Ⅰ(江戸 谷文晁 〔平安〕森狙仙 円山応挙 長沢芦雪 松村呉春 越前介駒岸)    〔江戸〕酒井抱一 菊池容斎〔平安〕浮田一蕙 山口素絢〔大坂〕上田公長 〔オハリ〕田中納(ママ)言   Ⅱ(平安 尾形光林 土佐光起〔江戸〕伊藤若冲 狩野元信 葛飾北斎 河辺暁斎)    〔大サカ〕長山孔寅 蔀関月〟  ◯『明治奇聞録』(青木銀蔵編 エックス倶楽部 明治三十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の振り仮名   〝二二八 河鍋暁斎、酔ふて杉戸に落書す(122/137コマ)    河鍋暁斎、一日榛原の職人を連れて日本橋通二丁目の柳川へ登りしに、少しく勘定の足らざりければ、    金を取りに職人を遣りぬ、衣服も様子も卑しげなれば、跡にて女中が取扱ひの甚だ悪しきを悔しがり、    丁度新築の揚句とて、一間二枚なる糸柾の杉戸のありしを、硯箱取寄せて南京人の小便せるさまを墨黒    々と描きたるに、暁斎と知らねば柳川よりは直に榛原方へ掛合に及びぬ、暁も酒さめて甚だ其罪を詫び、    翌(あく)る日更に趣きて彼の南京人を岩に書直し、更(あらた)めて牡丹に唐獅子の図となしければ、主    人の一方ならず悦びて潤筆料として金十五円を贈りける、此の杉戸は今も同家に残り居れり〟   〝二二九 河鍋暁斎、春画百種を描く(122/137コマ)    明治十一年の頃なりき、猩々暁斎、岩崎家よりの頼にて「春画百種」を描がくとて画料として五百円を    受取りしが、六年も間少しも筆を執らざるに、明治十六年に至り更に五百円を齎(もたら)して彼の画を    督促しけり、暁斎これより三日の間に五十枚たけを描き上げ、僅かに千円の画料にて百枚かゝんは割に    合はねば是丈けにて勘弁し玉へとて再び筆執る気色なきに、又も五百円を与へければ渋々に承諾して十    日ばかりに次の五十板(ママ)を画きぬ〟   〝二三〇 河鍋暁斎、双龍を戸隠し(ママ)に奉納す(123/137コマ)    猩々暁斎が一生の大作は信州戸隠へ奉納したる双龍の図なり、縦廿五間に横十五間なるを唐紙十七枚つ    ぎにいて、上野なる今の展覧会の前に描きしに、墨を一面に撒散らしては水をサッと柄杓にて浴せ掛け、    初めは何の形とも付かぬが見る/\活(い)けるが如き龍と現はれぬ、戸隠にて掛処(かけところ)なけれ    ば、杉の枝を払て立樹(たちき)の間に掲げられて今の残れり〟  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年三月(『集古会誌』丙午巻三 明治39年5月刊)   〝村田幸吉(出品者)暁斎筆 狂言尽し 十二枚一袋〟  ◯「集古会」第六十回 明治三十九年十一月(『集古会誌』丁未巻之一 明治40年4月刊)   〝林若樹(出品者)     猩々暁斎 絵日記十二月ノ分 一冊     暁斎筆  小板木      一枚〟  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き   (河鍋暁斎)p16〈明治30年代後半記事〉   〝頃日 猩々暁斎の絵日記切れ二十枚程 手に入りたり 暁斎翁は晩年迄 此絵日記書れたりといふこと    にて 其内の一枚は暁斎画談に出て居れり 画家鈴木秋湖君の家に一年程【二冊合冊】あり 他にも余    程散せしならん 予の得たるは 先年没せし千住の玉成翁の珍蔵されしものかと 思はるゝふしあり    〔頭注〕鈴木秋湖住北三筋町 称鋋太郎 楓湖門人 親は金かしにて富豪也/呉山堂玉成〟  ◯『明治東京逸聞史』②p288「笹の雪」明治四十一年(1908)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝笹の雪 〈趣味四一・六〉     近藤碌山人というが、「江戸ッ子式の食道楽」という一文を書いている。その中から笹の雪以下数軒    の条を抄出して見よう。     笹の雪といえば、御形の松と共に、根岸の名物である。家は狭くて、あまり綺麗ではないが、何とな    く古雅で、市井の店という感じがしない。床の間には、恵比寿、大黒の二幅対が掛かっている。それが    両方ともに、豆腐を召上っているところで、筆者は暁斎である。少し大形の茶呑茶碗に、一片の餡掛豆    腐を入れて出す。山葵卸しが添えてあって、口に含むと、春の泡雪が溶けるような気がする。それで代    は一銭である。──〟  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年(1909)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※半角(よみ)は本HPの補注   ◇河鍋暁斎   〝暁斎外人を門弟とす(49/123コマ)    河鍋暁斎酒を好み、晨(あした)より杯を銜み昏に至りてやめず、或は痛飲連日、画債山積すれども少し    も意に介せず、客至るあれば唯酒を談じて毫も画に及ばず、ために往々画を責むる機を得ずしてかへる、    然れども一旦酒醒むるときは、大小紙絹手に手に従つて描写し、概ね稿をつけずして之れをなす、明治    の初年酒席に於て戯画を書き、忌諱に触れ、獄に於て拷問せられ、ために左腕萎縮して終身衣帯を約す    ること能はず、然れども右腕旧にまさりて愈(いよいよ)健、画法愈進む、英人コンデール弟子の礼をと    りて之れを学ぶ。外人の我画工を師とするものこれ前なからん〟   〝暁斎尻餅を撞て布袋となす(55/123コマ)    河鍋暁斎かつて知人と貪欲し、酔に情じて紙をのべ、裳を褰(から)げて尻に墨を塗り、紙上に尻餅をつ    き爭(とし)を加へて布袋となす、一座ために腹を抱へて絶倒す〟    〈「爭(とし)」の意味がわからない〉   〝河鍋暁斎の一筆鴨(106/123コマ)    河鍋暁斎得意の一筆鴉に、正価百円を附して絵画共進会に出品す、係官怪(し)みて其の価高きに失する    なきやを問ふ、暁斎笑つて曰く、貴官の言極めて理なれども、此の百円は単に鴉一筆の価にあらず、実    に我が腕熟練の価なりと、開会に及び、菓子商栄の主人之れを奇とし百円にて購(か)はんとす、自ら    も其の不廉なるを思へる暁斎、私(ひそ)かに五十円にて売らんと言ふ、主人聴かずして曰く、此の画若    (も)し五十円ならんには我れ豈に之を購はんやと〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(明治年間刊)    河鍋暁斎画『咄表討話』初編一冊 暁斎画 柳水亭種清著 柳心堂版  ☆ 大正以降(1912~)  ◯「集古会」第八十六回(明治四十五(1912)年一月)(『集古会誌』壬子巻二 大正2年9月刊)   〝横瀬菊雄(出品者)狂斎筆 烏 二幅〟  ◯「集古会」第九十二回 大正二年(1913)三月(『集古会志』癸丑之三 大正4年7月刊)   〝広瀬菊雄(出品者)惺々狂斎筆 円想中の天神 一幅〟  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝竹内久一(出品者)狂斎筆 万年元 虎の見世物錦絵 四枚〟  ◯『書画別号大観』(斎藤好道 田谷竜郷著 芳雲堂 大正四年(1915)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝畑狂言  河鍋暁斎〟   〝賣畫狂者 河鍋暁斎〟  ◯『浮世絵』第二号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝(文化時代から慶応末年にかけて浮世絵の納札(おさめふだ・千社札)を画いた画工)    国貞 国周 国輝 国峰 歌綱 是真 狂斎 綾岡 光峨(その他の画工名略)〟    〈本HP「浮世絵事典」【せ】「千社札・色札」参照〉  ◯『梵雲庵雑話』p391「私の幼かりし頃」(淡島寒月著・大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普    通の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判    之丞がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初    の企ての如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたもので    ある。役者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は    錦絵としては出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀    (マンテイオウガ)の作物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった〟    〈『金花七変化』(合巻・鶴亭秀賀作・歌川国貞二代画)は万延元年(1860)の初編から慶応三年(1867)の二十六編まで     刊行。二十七編は明治三年(1870)、二十八編~三十一編まで仮名垣魯文作。『安愚楽鍋』明治四年刊。『西洋道中膝     栗毛』明治三年~同九年(1876)刊。『イソップ物語』(『通俗伊蘇普物語』)は明治六年刊〉  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    河鍋暁斎画(◇は所蔵者)   ◇神田神社「狂獅子(表)」「鷲(裏)」図 衝立   ◇水天宮 「蘭陵王図」額 狂斎洞郁藤原陳之画 明治六癸酉年七月五日 竪五尺 横七尺         願主 霊岸島大国屋平吉 神田多町金萬屋辰五郎   ◇中村茂八所蔵    「枯木烏図」紙本墨画 尺二尺  /「羅漢図」絹本着色 巾二尺五寸    「鍾馗図」 紙本淡彩 巾一尺八寸/「高砂尉婆図」絹本着色 巾一尺三寸     (其他暁斎扇面幅十余点)   ◇細田安兵衛 雑画冊 二十余幀 紙本密画   ◇松木平吉    「地獄太夫図」絹本極彩色 巾約三尺    「閻魔と美人図」/「十二月画冊」以上二点極彩色   ◇村越庄左衛門「七福神」二曲屏風 絹本着色   ◇中村直次郎 「龍頭観音像」大幅 書画大観   ◇鹿島清平    「内裏雛図」 絹本極彩色 巾一尺五寸 立四尺    「三すくみ図」絹本極彩色密画 巾二尺五寸 立三尺五寸(国華二四)   ◇説田彦助 「傀儡子図」大幅   ◇霊雲寺  「鷲図」紙本墨画   ◇神木猶之助「十六羅漢図」紙本淡彩 巾二尺三寸一分 立五尺二寸五分  ◯「集古会」第百四十八回 大正十三年(1924)十一月(『集古』乙丑第一号 大正13年12月刊)   〝林若樹(出品者)惺々暁斎画 豊年五穀祭 中本一冊 万亭応賀著〟  ◯「明治文学初期の追憶」(市島春城著『早稲田文学』所収・大正十四年(1925)七月刊)   (市島春城所収の文書)   〝河鍋暁斎の松浦武四郎宛証文    松浦武四郎より天満宮へ奉納の額面を暁斎に書かしむるに付、期日までに約を果さば狩野大家の屏風そ    の他の品を礼に与へる、もし期日に至り成らざる時は、暁斎の名を以つて他の画家に書かせる。それに    て苦しからずといふ請書也〟    〈この天満宮とは湯島天神と思われる。湯島天神の宝物館には暁斎の扁額二点「野見宿禰と当麻蹶速図」     および「入船図」が収納されている。前者は明治七年の奉納の由。明治17年記事参照〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p81   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝猩々(シヤウ/\)暁斎(ゲウサイ)氏は魯文翁とは安政の大地震以来の旧知己で、魯翁の戯作本のさし絵は大    概此人が書いて居る。それ等の関係から仮名読新聞紙烏えや魯文珍報等へ氏の狂画が出るやうになつた    が、一種奇抜な筆趣ゆゑ続き物のさし画には不向(フムキ)で、書くものは風刺的の漫画のみであつたが、    之が恐らく今の新聞に出るパツク風狂画の嚆矢であつたかも知れぬ。或時同氏が仮名読社へ来て編輯局    の白壁へ戯れに酔筆を揮つた巨描(キヨベウ)の図が新聞廃刊後数年間保存されて居た事もあつた。さて是    は新聞挿画には関係のない余談ながら、同氏の逸話の一つとして現在私が見た儘のお話をすれば、或日    暁斎が魯文翁の仏骨庵を訪れた時、氏は名うての酒豪ゆゑ魯文翁も酒肴を出して持て成して居る処へ丁    度私も行き合せた。其処(ソコ)へまた信州あたりの製糸家だといふ人が尋ねて来て携帯した立派な画帖を    取出し、是は有名な文人の揮毫を請ひたいのであるが、其の手始めに先づ先生の一筆が願ひたいと魯文    翁の前へ差出した。翁は之れを見て幸い茲に暁斎先生が居られるから早速願つたらよからうと勧めたが、    其人はまだ暁斎の名も知らず且一見した処であまり風采の上らぬ大坊主であるから、其の技倆を危ぶん    でか聊(イササ)か躊躇気味に見えたのを、微醺(ビクン)を帯びた暁斎氏はひつたくるやうに其の画帖を手許    に引寄せ、横ざまに長く展(ノ)べて、傍らの手習筆(テナラヒフデ)を盃洗(ハイセン)の水で洗ひ復た墨を含ませる    と見る間に、画帖の七八葉分へ蜿蜒(エンエン)たる横線を黒々と引いて仕舞つた。其時の依頼者の迷惑さう    な顔は今も眼前に見えるやうだが、暁斎先生は委細構はず二三杯盃(サカヅキ)を重ねながら、サア是から    だ見て居なさいと今度は小さな水筆に持替へて、ウネ/\とした黒線の上へ数疋(ヒキ)の蛙が種々(イロ    /\)の姿で歩いて居る処を画(カ)き、最後に黒線(コクセン)の前後に頭と尻尾(シリヲ)を書き加へると是が長    蛇の形となつた。即ち数疋の蛙が脊中(セナカ)の上で行列して居るのを蛇が見送つて居る図と成つた。此    (ココ)に居つて依頼主も始めて其の手腕に敬服し、数回に渉(ワタ)つて数名の画家に頼むより図(ハカ)らず一    時(ジ)によい物が出来たと大歓びで持帰つた。氏にはこんな逸話は沢山あつて乱暴なのは或る書画会席    上で酔狂の余り立ち小便で柳を画いて一座を驚かした事もあり、其他『暁斎画談(ゲウサイグワダン)』の梅    亭金鵞翁の筆記を見ると略ぼ同氏の性格が窺はれる。又暁斎氏の酒好きであつた事は故竹の屋主人(篁    村(クワウソン)氏)が予根岸にありし頃同じ里に寓居の故暁斎翁を訪ひしに「ヤアよくこそコレ早くお酒を出    しな」と後(ウシロ)の方を向きて命じられたり、予驚きて見らるゝ如く曠着(ハレギ)にて只今外へ出がけなり、    御酒は又の夜ゆる/\と賜(タマ)はらんと断れば、翁声を低め「ナニ御迷惑は掛けません酒の出るまで居    て下さい。此頃喧(ヤカマ)しくてお客でなければ出しませんから」と云ひつゝ頭を撫でられぬ、予も酒の囮    (オトリ)になるは始めてなりと笑ひたり。と語られた通り、酒が無ければ一日も立行かず、その酒気を帯び    た時の画が却て非凡の出来であつたが、終に此酒が元となり明治廿二年四月に白玉楼中(ハクギヨクロウチウ)の    人となつた〟<  ◯「夏の思ひ出」今泉雄作(『江戸時代文化』第一巻第七号 昭和二年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    (麦湯屋)   〝町の広い所や池の縁なぞには葦簾張りをかけて、少しばかりの腰掛を並べて麦湯やが出て居た。麦湯へ    砂糖を入れて四文であつた。麦湯で聞えたのは、通二丁目に夕方から出た麦湯であつた。別に支度はい    らない、葦簾張りで腰掛を出す位なものだ。その麦湯に大きな行灯が出た。絵は狂斎が画いた。狂斎は    元、駿河台に居た狩野の門人であつた。狩野家は元来将軍家の抱へで無闇なものが画けなかつた。新し    い絵はあまり画かぬ事になつて居た。狂斎は色々勝手なものをかいて遂に破門されてしまつたので「破    門されりやア何ンでも画く」といつて春画なぞまで画く様になつた。その麦湯の行灯は三間程もある横    長いもので、それに蛙の大名行列を画いた。行列の鎗やお籠は皆んな草で作られて居る様に画かれてゐ    た。それがすばらしい評判になつて遠くから見にくると云ふ工合で、只見て居るわけにも行かぬから麦    湯がうんと売れたものだ。なんでも真黒になるまで-五六年-は出て居た後どうなつたかと思つたら、    外国人が買つて行つたと云ふことだ〟  ◯『狂歌人名辞書』p73(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝惺々暁斎、通称河鍋洞郁、挙空居士と号す、画を狩野洞白、歌川国芳に学びて一機軸を出し、殊に狂画    に長ず、明治廿二年四月廿六日歿す、年五十八、谷中正行院に葬る〟  ◯「江戸座談会-江戸の暮」(『江戸文化』第三巻二号 昭和四年(1929)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(7/48コマ)   (今泉雄作談)〈美術史家、岡倉天心らと東京美術学校創立・京都市美術工芸学校校長。昭和6年没82歳〉   〝猩々狂斎も貧乏がひどかつた、或る時羅凌王の面を百円で求めた。勿論狂斎の貧乏なるを 道具屋も知    つてゐるが、有名な人だからと思つて(ママ)仲々払はない 道具やの方で不躾に家まで催促に来ると、ウ    ンそうかといつて家にある物を全部質に入れ、売れる物は一切売つて、面一つにしてしまつた。それで    面をながめて酒をのんでよろこんでゐた。    根岸に狂斎の娘がゐるがあの時程困つた事はないと何時も話す。もうそんな人はなくなりましたね    (以上、舞楽「羅凌王」の面をめぐる挿話)〟  ◯「江戸座談会-奇人譚」(『江戸文化』第四巻四号 昭和五年(1930)四月刊)   ◇河鍋狂斎貧乏譚(10/37コマ)    河鍋狂斎貧乏譚(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯「集古会」第百八十一回 昭和六年五月(『集古』辛未第四号 昭和6年9月刊)   〝浅田澱橋(出品者)暁斎画 錦絵 上野山内打入之図 三枚続〟  ◯『浮世絵師伝』p45(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝暁斎    【生】天保二年(1831)四月七日  【歿】明治廿二年(1889)四月廿六日-五十九    【画系】国芳及び洞和・洞白等に学ぶ【作画期】元治~明治    古河藩士甲斐喜右衛門の子、下総古河に生る。幼名周三郎、故ありて河鍋氏を称す、名は洞郁、字は陳    之、画名は初め周麿といひ、別号を狂斎といひしが明治四年に暁斎と改む、其他酒乱斎雷酔・酔雷坊・    惺々庵・惺々等の数号あり、後ち剃髪して是空入道又は如空居士と称す。    彼れ幼時より画を好む事甚だしく、三歳の時より写生を始めしと云ふ。父も彼が画才を大成せしめんと    て、夙に江戸に出だし、湯島お茶の水の火消屋敷に居らしめ、七歳の時に初めて国芳のもとに入門せし    めき。それより十一歳の春に至つて、前村洞和の門に転じ、後ちまた狩野洞白の門となり、四年にして    業を卒ふ。爾來、漢の古画及び浮世絵の初期時代の肉筆画等を摸写研鑽して、こゝに彼れ独自の画格を    大成し、就中、鳥羽僧正を範とする所の一狂画に至つては、全く奇想従横の妙技を揮ひ、構想の千変万    化殆ど無尽蔵と称すべきに似たり。偶ま明治三年十月六日、不忍弁才天境内料理店三河屋方にて其角堂    雨雀主催の書画会ありし時、彼も出席揮毫せしが、其の画中に手長足長の図あり、画体高貴の人を嘲弄    せしものと認められ、即座に警吏の手に捕縛され、弁解其の効無く獄に下つて、翌四年一月三十日に赦    免となりぬ、それよりして狂斎の号を暁斎と改む。    彼が画風は自己の想化力に依る所多けれども、しかも根拠は厳密なる写生より出発せしものなり、既に    彼が年僅かに九歳の時、某所より死人の首を拾ひ来りて、熱心に写生せしが如き、早くも其処に鋭鋒の    閃きを見る。彼が後進を導くにも、常に写生を専らにせしめたりしと云ふ。其が門弟中に、英國人ゼー、    コンデールといふ者あり、本国にては油絵及び製図等を巧みにせしが、來朝以来日本の古画を集め、こ    れを研究し、遂に山口某を介して暁斎の門に入りぬ、暁斎も亦此人によりて得る所ありしが如し。    彼は性格磊落にして、酒を好むこと甚だしく、揮毫中と雖も常に盃を離さず、酒興加はれば、遂にそれ    が爲めに病を発し、ドクトル、ベルツの診療を受けしも、其の効無く根岸の宅(本郷湯島四丁目より転    居)に長逝せり。谷中瑞輪寺中、正行院に葬る。    彼が作品には画譜数種、版画若干図及び雑書の挿画等あり、肉筆は其の数頗る多し、版画中に於ては    「烏の図」最も著名なり。其の生前に蒐集せし古画肉筆物の多くは、遺言によりて鹿島清兵衛氏へ贈り    しと、蓋し、彼れが生前に鹿島氏より思誼を蒙りしこと厚かりしが爲めなり。遺子周三郎(暁雲)・と    よ(暁翠)、共に父に学びて画技にたづさはりき。(明治二十年版『暁斎画談』を参考す)〟  ◯「集古会」第百八十四回 昭和七年一月(『集古』壬申第二号 昭和7年3月刊)   〝相良顕三 横浜(出品者)河鍋暁斎画 親子猿の図 一枚 暁斎画譜の内〟  ◯「集古会」第百八十七回 昭和七年九月(『集古』壬申第五号 昭和7年11月刊)    三村清三郞(出品者)河鍋暁斎 狂斎朱鍾馗 一幅 款「慶応二乙丑五月五日 惺々人狂斎」  ◯『江戸絵から書物まで』朝野蝸牛編 昭和九年(1934)刊   (「(ち)画家、小説家、逸話」)   〝醒々暁斎    明治十年の頃、店先に酔人の身形もかまわず沢庵を竹の先へ結びつけ、肩に掛け瓢を打叩きながら入り    来る者あり。誰ならんと見れば、昰は如何に暁斎先生なり、ニコ/\して瓢を叩く、気転をきかして酒    を呼ぶならんと瓢をとり、中に酒を入れ出す、有難の一言にて去らんとす、先生一寸と扇面と筆を出し    一筆を請ふ、筆をもつた手をにぎり、扇面の右の端をポンとつく 返す筆先をすうと左端を引き、中央    に醒々暁斎と落款を書き放り出し帰る。後にて見る。なんだあの酔パラヒ奴、こんな物は絵でも何でも    ないと馬鹿にして悪口を言ふたが、好く見ると右が蛇の首左が尾でぐるりと扇面を巻いたもので、昰れ    ぞ紙面に溢るゝと云ふのだと、後世名人と言はるゝ人である事は無理もないと敬服した〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝河鍋暁斎生る(明治二十二年五月歿す。行年五十九歳)〟   ◇「万延元年(閏三月朔改元)庚申」(1860)p239   〝四月、川鍋暁斎の『暁斎画譜』出版〟   ◇「慶応三年 丁卯」(1867) p243   〝正月、川鍋暁斎の画ける『能画図式』出版〟  ◯「集古会」第百九十九回 昭和十年一月(『集古』乙亥第二号 昭和10年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)河鍋暁斎筆 錦絵 明治十年第一回内閣勧業博覧会図 三枚続〟  ◯「集古会」第二百回 昭和十年三月(『集古』乙亥第三号 昭和10年5月刊)   〝木村捨三(出品者)狂斎画 団扇絵 狂言伯母ヶ酒 一枚〟  ◯「集古会」第二百一回 昭和十年五月(『集古』乙亥第四号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)     惺々暁斎画 明良二葉草 六編の袋 一枚 以上二点鯉の絵あり     暁斎 団扇絵鯉の図 一枚〟  ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年(1936)一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝中沢澄男(出品者)団扇絵 大黒天に鼠の図 惺々狂斎 一枚〟  ◯「集古会」第二百五回 昭和十一年三月(『集古』丙子第三号 昭和11年5月刊)   〝三村清三郞(出品者)惺々暁斎画 朱鐘鬼乗獅図 一幅〟  ◯「集古会」第二百十四回 昭和十三年一月(『集古』戊寅第二号 昭和13年3月刊)   〝中沢澄男(出品者)河鍋暁斎画 天網市虎狩 一冊 服部応賀作 明治初年〟    ◯『集古』戊寅第五号 昭和十三年十一月刊)   〝林若樹所蔵の草稿 猩々暁斎 絵日記切レ〟  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「動物画の名人列伝 烏の糞と同居した暁斎」p276   〝猩々暁斎の烏の画は、特に傑作が多いと思っていたら、故条野採菊翁の談に「白分が一時住んだ根岸の    家の二階の壁や床の問にまで白い汚ない斑点があったので家主に聞くと、この家は暁斎先生のいた家で、    二階には烏を放し飼いにして写生していたそうですからその糞の痕ですよ、といわれ、なるほど先生の    しそうなことだと思った」と、名作のある所以(ユエン)〟    〈条野採菊は戯作者名・山々亭有人。「東京日日新聞」「やまと新聞」を創刊。鏑木清方の実父。明治三十五年(1902)没、     七十一歳〉  ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p87(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝暁斎(ぎようさい)    河鍋氏、俗称周三郎、周麿、洞郁、陳之、惺々狂斎をも号とした。下総国古河の藩士、甲斐喜右衛門の    長子、幼時より画を好み、歌川国芳の門に入つたが、のち前村洞和につき、軈て幕府の絵所狩野洞白に    学んだ。明治維新後は最も活躍した画人の一人。肉筆を主としたが、風俗画や諷刺画の版画にも活躍し    ている。何れも彼一流の特徴を出している。頗る酒を好み、逸話に富んでいた。古画研究にも新機軸を    出している。天保二年四月生れ、明治二十二年四月、五十九才で歿している〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔川鍋暁斎画版本〕    作品数:24点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:洞郁・惺々・惺々庵・狂斎・惺々狂斎・河鍋洞郁・暁斎・河鍋狂斎・河鍋暁斎    分 類:絵画13・合巻3・能狂言3・往来物1・風俗1    成立年:天保11年序(1点)        万延1年  (1点)        文久1・4年(2点)        慶応3年  (1点)        明治5~7・20年序(4点)(明治期5点)   (暁斎名の作品)    作品数:1点    画号他:暁斎    分 類:日蓮    成立年:天保11序        『東都本化道場記』日連・蓮翁著・暁斎等画・天保十一年(1840)序   (河鍋暁斎名の作品)    作品数:15点    画号他:河鍋暁斎    分 類:絵画10・合巻2・草稿1・往来物1・遊戯(双六)1    成立年:万延1(1点)        明治5~7年(3点)(明治期合計4点)   (河鍋狂斎名の作品)    作品数:1点    画号他:河鍋狂斎    分 類:狂言1    成立年:記載なし        『狂言艸』狂言・河鍋狂斎画   (惺々狂斎名の作品)    作品数:2点    画号他:惺々狂斎    分 類:合巻1・絵画1    成立年:文久4年(1点)        『釈迦八相倭文庫』五十三編下・合巻・万亭応賀作・惺々狂斎画・文久四年(1864)刊        『惺々狂斎楽画』絵画・惺々狂斎画・成立年記載なし   (河鍋洞郁名の作品)    作品数:4点    画号他:河鍋洞郁    分 類:絵画1・放鷹1・能狂言2    成立年:文久1年 (1点)        慶応3年 (1点)        明治20序(1点)   (惺々庵名の作品)    作品数:1    画号他:惺々庵    分 類:絵画1    成立年:記載なし        『東都花競』絵画・圭岳、惺々庵画