Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞(豊国三代)浮世絵師名一覧
〔天明6年(1786) ~ 元治1年(1864)12月15日・79歳〕
 別称 五渡亭 一雄斎 琴雷舎 月陂楼(月波楼) 香蝶楼 英一螮 北梅戸 桃樹園 富眺庵 富望山人     一陽斎豊国(三代 自称二代)  通称 亀田屋庄五郎 角田庄蔵  ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕   ②〔早稲田〕  :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕   ③〔早大集覧〕 :『【早稲田大学所蔵】合巻集覧』〔日本書誌学大系101・棚橋正博編集代表〕   ④〔早大〕   :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館   ⑤〔東大〕   :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕   ⑥〔書目年表〕 :『【改訂】日本小説書目年表』    〔漆山年表〕 :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔狂歌書目〕 狂歌書目集成』    〔江戸読本〕 :「江戸読本書目年表稿(文化期)〔中本型読本〕:「中本型読本書目年表稿」    〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕   :『絵入春画艶本目録』    〔~〕は立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」の上演年月日等のデータ     角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能あるいは難読文字  ☆ 文化四年(1807)  ◯「国書データベース」(文化四年)   ◇黄表紙    歌川国貞画『不老門化粧若水』「国貞画」曲亭馬琴作 板元未詳    〈上野車坂、万屋(髪油・紅・白粉等化粧用品商)の初春景物本〉  ☆ 文化五年(1808)  ◯「合巻年表」(文化五年刊)    歌川国貞画    『吃又平名画助刃』「国貞画」    見返し「歌川国貞画図」式亭三馬作 西村源/西宮新合板 ②    『敵討富士之白酒』「豊国門人国貞画」見返し「歌川国貞画」 山東京山作 丸文板 ②     奥付「文化五年戊辰正月吉祥月/絵草紙作人式亭 三馬書/浮世絵師歌川氏 国貞筆」     〈刊年未詳の後印本の摺付表紙は勝川春亭画で鶴屋金助板〉    『玉藻前竜宮物語』「豊国門人国貞画」式亭三馬作  高津屋伊助板? ①〈扉に入山型+「本」〉    『有田唄お猿仇討』 歌川国貞画   式亭三馬作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『錦木塚孝女仇討』 歌川国貞画   山東京山作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『蟒蛇於長嫐草紙』 歌川国貞画   式亭三馬作  浜松屋板 ①    『三浦難波復讐』 「豊国門人国貞画」十返舎一九作 森治板 ⑤    『復讎油屋お染』  歌川国貞画   山東京山作  丸文板(注:日本小説年表による)①     『鏡山誉仇討』  「豊国門人国貞画」見返し「歌川国貞画」山東京山作 江見屋板 ②              表紙「豊国画」序に「山東京山作画は歌川の国貞がことし目見への初瀬川」とあり    〈補注は「国貞は二十三才、草双紙に手を染めたのは、下谷車坂町の油小間物問屋万屋四郎兵衛の景物本で「文化四     年丁卯極月」の序文年記をもち、師走十七・十八日の浅草寺年の市に際して刊行された馬琴作『不老門化粧若水』     が最初であろうか。いずれにしても、文化五年が一般読者に対する初目見えの年ということになり、本年刊行の十     三部の合巻作品で画工を勤めている」とする〉    『復讎勝山結』  「豊国門人国貞画」見返し「歌川豊貞画」山東京山作  岩戸屋板 ②    『浪速男嗣編』  「豊国門人国貞画」見返し「歌川国貞画」十返舎一九作 西与板  ②     〈文化四年刊『敵討浪速男』(十返舎一九作・歌川豊国画)の後編。画工が豊国から弟子の国貞に代わった〉    『時鳥相宿噺』  「豊国門人国貞画」千歳松武作 山口屋板 ⑤    『両禿対仇討』  「歌川国貞画」  式亭三馬作 鶴喜板  ①    『敵討乗合噺』  「国貞画」    姥尉輔作  伊賀屋板 ⑤      〈以上の作品の内、どれが初作かについて、鈴木重三氏は、京山作・国貞画・文化九年刊の合巻『歳男金豆蒔』から     「京山子のかゞみ山をかいたが初ぶたい、それからつゞいて三馬子のどもの又平」という記述を引いて、『鏡山誉     仇討』を初作とする。鈴木重三著「歌川国貞の画歴と業績」(『絵本と浮世絵』所収)〉  ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文化五年刊)    歌川国貞画    『杣物語仙家花』豊國・國貞画 南杣笑楚満人作    『両禿對仇討』 歌川國貞画 式亭三馬作  ◯『鏡山誉仇討』(豊国門人国貞画・山東京山作・江見屋吉右衛門板)          〔早稲田大学「古典籍総合データベース」画像より〕   〝山づくし/川づくし 卑下詞 山東京伝/歌川豊国合作(うけあいのさく)    東西/\しばらく/\京伝中橋おじやまながら二人の若冠(わかて)を卑下申そう。京伝弟の音羽山四角    な文字もちとばかり読おぼえたる童子経、人誉たるがゆへに多(たんと)勿書(かゝず)ととめてもとまら    ぬ若葉山、そんならかいて三笠山、全部紙数二六夜きやうだい山東京山作、画(ゑ)は歌川の国貞がこと    し目みへの初瀬川、まだ早川とおしかりも、たゞ江戸川の御ひいきを頭にいたゞく冠山(うひやま)鳥居    をこえぬ位山、はんもとがたのおすゝめで一番かゝせて御手洗川、どふぞあたればよしのかわ(中略)    よい評判を待乳山、ふた子やまの作と画もまはらぬ筆の墨田川、外題を彩(いろどる)藍染川、お初天神    手向山鏡山の誉の仇討いざ立よりて一冊ヅゝかいて深山の奥までもとゞく願は富士の山(攻略)〟    〈山東京伝と歌川豊国、山と川尽くしの口上で、弟京山及び弟子国貞の首途を言祝いだのである〉    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝国貞【五渡亭 豊国門人】    【三国伝来墻壁之外】玉藻前竜宮物語 式亭三馬作 三巻〟    〈大田南畝の『浮世絵考証』に国貞の項目はない。合巻『玉藻前竜宮物語』は文化五年刊。文化五年は上記のように     国貞初登場の年にあたる。その国貞に雅望は一項を立てた。光るものを認めたのであろう〉  ☆ 文化六年(1809)  ◯「合巻年表」(文化六年刊)    歌川国貞画    『金神長五郎忠孝話』「歌川国貞画」式亭三馬作 西村源板 ①    『岩柳縞手染色揚』 「歌川国貞画」岡山鳥作  板元未詳 ①    『東織角力大全』  「歌川国貞画」式亭三馬作 西宮新板 ⑤    『復讐爰ハ高砂』  「国貞画」  姥尉輔作  伊賀屋板 ①     『匂全伽羅柴舟』  「国貞画」  曲亭馬琴作 板元未詳 ①    『敵討賽八丈』 前編「豊国門人国貞画」後編「国貞画」曲亭馬琴作 蔦重板 ③    『操競雙生渡』 前編「歌川国貞画」  山東京山作 鶴喜板 ②            後編「前編歌川国貞画/スケ後編勝川春扇画」    『東男連理緒』   「国貞画」絵題簽「国貞画」「美丸画」十返舎一九作 村田屋板 ②    『松緑高砂話』   「国貞画」絵題簽「歌川国貞画」姥尉輔作   伊賀屋板 ③    『復讐西海硯』   「国貞画」見返し「歌川国貞画」十返舎一九作 近江屋板 ②    『英◎復讐噺』   「歌川国貞画」絵題簽「国貞画」十返舎一九作 森治板  ②     〈◎は「嶽」の山を「獄」の下に置く漢字〉    『松梅竹取談』    歌川国貞画 山東京伝作 西与板  ①    『復讎勝山結』    歌川国貞画 山東京山作 板元未詳 ①  ◯「読本年表」(文化六年刊)    『国字小説小櫻姫風月奇觀』歌川國貞画 山東京山作〔江戸読本〕    『侠客金神長五郎忠孝話説』歌川國貞画 式亭三馬作〔中本型読本〕    『昔唄花街始』      歌川國貞画 式亭三馬作〔中本型読本〕  ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (「文化六年(1809)」記事「時世為変化」)   〝(加藤曳尾庵の随筆『我衣』からの引用記事)    寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり〟  ☆ 文化七年(1810)  ◯「合巻年表」   ◇合巻(文化七年刊)    歌川国貞画    『高尾丸剣之稲妻』「縮師宣図/国貞筆」見返し「歌川国貞画」山東京伝作 蔦重板  ②    『却説浮世之助話』「葛飾 歌川国貞画」題簽「国貞画図」  式亭三馬作 鶴金板  ②    『戯場花牡丹燈籠』「国貞画」     絵題簽「歌川国貞画」山東京伝作 岩戸屋板 ②     〈序の扇面に「豊国画」とある由〉    『歌祭文於三茂平』「歌川国貞画」式亭三馬作 森治板  ①    『名揚巻両個助六』 歌川国貞画 式亭三馬作 板元未詳 ⑥    『昔雛女房気質』  歌川国貞画 山東京山作 岩戸屋板 ①〈板元は文化7年岩戸屋新刊目録〉    『菅原流梅花形』 「歌川国貞画」岡山鳥作  西村源板 ①    『小説娘楠樹』  「春亭画」見返し「勝川春亭画」山東京山作 近江屋板 ②    『誂染劇模様』   歌川国貞画 山東京山作 丸文板  ①〈板元は文化7年丸文新刊目録〉    『早引説要集』  「歌川国貞画」山東京山作 西村源板 ①  ◯「読本年表」〔江戸読本〕(文化七年刊)    歌川国貞画『流轉數囘阿古義物語』歌川豊國・歌川國貞画 式亭三馬作    ◯「日本古典籍総合目録」(文化七年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画    『当世七癖上戸』三冊 歌川国貞画 式亭三馬作    『客者評判記』 三冊 歌川国貞画 式亭三馬作    ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)    〈『一対男時花歌川』の出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』に出ている。(本HP「浮世絵事典」の     項「一対男時花歌川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に     「年玉印」は歌川門の人々。いわば一門あげての和解である。豊国が中央、左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の     弟子たちが控える。名を列記すると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅     の金蔵、そして国貞・国丸・国安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人だけ離れて、三馬の門人側に座っ     ている。この挿絵は豊国が画いたのだろうが、この配置に何か意味があるのだろうか。そして挿絵の上部にやはり連     中の名の入った提灯が下がっている。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞     ・国安・国政・豊国・国長・国満・国丸・国久・国房と並んでいる)
   『一対男時花歌川』前編・口上豊国画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)  ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①62(式亭三馬記・文化七年六月~文化八年十月)    (文化七年六月記事)   〝【文化五年】春発市、どもの又平大津土産名画の助太刀八冊もの、【予が著述、国貞画】、十軒店西村 源六板にてうり出せしが、雷太郎にまさりて大あたりなりし、(中略)歌川豊国門人歌川国貞は、ども の又平の絵ざうし初筆也、此とき大きに評よくて、其翌年よりますます行われて、今一家の浮世絵師大 だてものなれり【本所五ッ目渡し場の際に住居す、則渡し場のあるじ也、俗称庄五郎といふ】柔和温順 の性質なり〟    〈「国書基本データベース」(国文学研究資料館)は「どもの又平大津土産名画の助太刀」を『【大津土産】吃又平名     画助刃』とする。「雷太郎」は『雷太郎強悪物語』豊国画〉  ◯『山東京伝書簡集』(歌川国貞宛・文化年間)   (『近世の学芸』p404 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝(前略ママ)岩戸や写本追々御したゝめ被下大慶奉存候、且又残りたね本二冊 外々のをさし置相したゝ    め全部出来仕候、さだめていろ/\御取込と奉存候へ共 さしくり御したゝめ可被下候、売出しあまり    おそくなりてはひやうばんもいかゞと案し申候、何分御頼中上候(下略ママ)      九月十九日      国貞様                           京伝〟    〈この手紙における関係者は、地本問屋・岩戸屋喜三郞と画工・歌川国貞と戯作者・山東京伝であるから、合巻出版の     打ち合わせと思われる。この三者による合巻は、文化七年刊『戯場花牡丹燈籠』・同八年刊『咲替花之二番目』『染     和解手綱』・同九年刊『薄雲猫旧話』とあるが、この書簡の作品がそれらのいずれなのか、定かではない。さて、こ     こにいう「写本」とは、国貞が京伝の稿本に沿って作画した「挿絵」をいうのだろうか、また「たね本」とは構図等を示し     た京伝の稿本をいうのであろうか。とすれば、頃は九月、正月の出版にむけて、稿本はすべて出来上がったからあと     は宜しく頼むというのであろう〉  ☆ 文化八年(1811)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化八年刊)    歌川国貞画    『客者評判記』三冊 葛飾浮世絵師 本所五ッ目住 歌川国貞画 式亭三馬編 鶴屋金助板    『沢村かゞみ』一冊 傚老師歌川豊春之図 一雄斎国貞 永下堂波静作 西村屋与八板    ◯「合巻年表」(文化八年刊)    歌川国貞画〔早稲田〕    『阿波大尽鳴門之写絵』「国貞画」  橋本徳瓶作 大坂屋板 ①    『関取梅川契情梅川』  歌川国貞画 式亭三馬作 西宮新板 ①    『近江源氏湖月照』  「歌川国貞画」見返し「五渡亭主人画」紀の十子作 西村源板 ①⑥     (⑥の書誌「紀十子代作岡山鳥。紀十子は紀伊国屋沢村訥子である、作者を俳優にして合巻を出版せし祖」)    『艶競二人忠兵衛』  「浮世絵師 五渡亭歌川国貞画」   式亭三馬作 西宮新板 ①    『先読三国小女郎』  「歌川国貞画」山東京山作 鶴金板  ②    『咲替花之二番目』  「歌川国貞画」山東京伝作 岩戸屋板 ②    『女俊寛雪之花道』  「歌川国貞画」山東京伝作 森治板  ②    『偖其後稲妻物語』  「歌川国貞画」山東京山作 西与板  ⑤    『花角力白藤源太』  「国貞画」  山東京伝作 泉市板  ①    『染和解手綱』前後編 「勝川春扇・歌川国貞画」山東京伝作 岩戸屋板 ①    『昔語釜箇淵』    「葛飾 歌川国貞画」式亭三馬作 鶴金板 ②     〈天保年間刊の『浜真砂石川草紙』は本書の改題後印本〉    『凧雲井物語』    「絵師歌川国貞」  式亭三馬作 鶴金板 ②    『操の松枝』     「五渡亭歌川国貞画」岡山鳥作 西村源板 ③    ◯「日本古典籍総合目録」(文化八年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『台所譚』一冊 歌川国貞画 山東京山作  △『物之本江戸作者部類』p70(曲亭馬琴著・天保五年成立)    (文化年間記事)   〝歌舞伎役者の名を仮て、臭草紙に其名をあらはすことは、文化年間書賈西村源六が、澤村宗十郎のなほ    源之助とひし比、其名を借て、ある人に代作させし臭草紙、当時婦女子に賞玩せられて、甚しく行れし    かば、是より地本問屋等、当場(タテモノのルビ)の役者の作と佯り、臭草紙を年毎に印行することになりた    り。その代作をすなるものは、狂言作者の二の町なるが、画工国貞を介(ナカダチ)にしてその稿本を書賈    に售(ウル)等、予(アラカジメ)その役者の毎(トモ)に名を借りて、些の潤筆を利とせる也とぞ。さるを給事(ミ    ヤヅカヘ)の女房市井の婦女子等さへ、代作なりとは得もしらで、愛玩すること甚しかりしに、近ころは代    作なることやうやく聞えて、婦女子のすさめぬも多かれとも、猶田舍にては眞作也と思ふもあれば、今    に至りて印行す〟    〈『改訂日本小説書目年表』(山崎麓編・昭和四年成立)は、「合巻本」の部、文化八年作に『近江源氏湖月照』をあ     げ、紀十子代作岡三鳥・歌川国清画とし、さらに解説して〝紀十子は紀伊国屋沢村訥子である。作者を俳優にして合     巻を出せし祖〟とする。「国書基本DB」の方も同作品を文化八年刊とするが、画工は国貞とする。なお「二の町」     とは二流の意味〉    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①67(式亭三馬記・文化七年六月~文化八年十月)    (文化八年三月十二日記事)(歌川豊国の項参照)    〈両国橋向尾上町中村屋平吉方に式亭三馬の書画会あり、前日からの世話役として、歌川豊国、同国満に続き〝本所五     ッ目 歌川国貞〟とあり〉  ◇(文化八年三月廿六日記事)①65   〝座敷手品する楠生亭英洲が扇子の賛、絵は国貞画、文化八年三月廿六日昼、作文(中略)扇面の絵は、 箱の中より雀の飛出たるかた、石を打て羊とするは、初平仙人のつもり、細工芋をもつて石とするは、 弘法大師の座敷手妻なり、雞卵箱中に入て雀となることは、月令にもいまだきかず、何がしのふり占は、 高野山のやどろくもいまだしるべからず、めくら仙人の術をきはめずして、めあき千人の目を驚かすは、 細工手品の元祖と呼ばれし楠生亭英洲なるべし〟    〈(中略)に“英洲は本所割下水のさき、切みせなどのある近所なり、庭に大木の楠あり、故に楠生亭と呼ぶ、彼は細     工手品の達者なり”の記事あり〉  ☆ 文化九年(1812)  ◯「合巻年表」(文化九年刊)    歌川国貞画〔早稲田〕    『歳男金豆蒔』  「一雄斎歌川国貞画」山東京山作 西与板」    『薄雲猫旧話』  「歌川国貞画」   山東京伝作 岩戸屋板    歌川国貞画〔目録DB〕    『出世娘振袖日記』歌川国貞画 山東京山作    『家桜霞引幕』  歌川国貞画 山東京伝作    歌川国貞画〔東大〕    『旧内裡鄙譚』  見返し「歌川国貞画」式亭三馬作 森屋治兵衛板     〈序に「文化七庚午七月脱稿/仝九年壬申正月発市」とあり〉     ◯「書簡 202」〔南畝〕⑲259(文化九年八月四日付)  (牛込御門外薬屋、亀屋勘兵衛(壺天主人)宛)   〝只今画工国貞来談候間、席画をたのみ罷在候〟    〈この席画は実現したのであろうが、その後の消息記事は見当たらない〉    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化九年)   ⑧「(一?)雄斎国貞画」Ⅴ-7「七代目のういろう売」(ういろう売りに扮した団十郎)    「あさね房夢羅久」戯文と狂歌    〈装束に「◯◯通宝」の銭型を配して大・小月を入れる。戯文に恵方や初午などの日付を織り込む〉  ◯「死絵年表 文化九年」(本HP・Top・特集)    歌川国貞画    「瀬川路考(四代目)」(11月29日・31歳 追贈四代目瀬川菊之丞)一点     「五渡亭国貞」二枚続 「極」 河内屋源七板〈「文化九」が「文化十」と改変された版もある〉    「沢村宗十郎(四代目)」(12月8日・29歳)一点     「五渡亭国貞画」「極」 河内屋源七板    ◯「日本古典籍総合目録」(文化九年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『往古模様梅若松』一冊 歌川国貞画 立川焉馬作  ☆ 文化十年(1813)  ◯「合巻年表」(文化十年刊)    歌川国貞画    『吾妻花歌妓気質』後編「独酔舎歌川国直画」前編「歌川国貞画」式亭三馬作 森治板 ⑤    『児ケ淵桜之振袖』前編「五渡亭国貞画」後編「歌川国直画」山東京伝作 河源板 ⑤    『戻駕籠故郷錦絵』前編「一雄斎国貞画」後編「歌川国満画」山東京山作 鶴喜板 ①    『二枚続吾嬬錦絵』歌川国貞画 式亭三馬作 鶴喜板 ①〈板元は文化年新刊目録による〉    ◯「日本古典籍総合目録」(文化十年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『蔵意抄』一冊 歌川国貞画 万寿亭正二作 西村源六板    ◯『馬琴書翰集成』⑥323 文化十年(1813)「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」    〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。画工の部では師匠豊国に次ぐ関脇     の地位、作者の部と比較すると、山東京伝に次ぐ式亭三馬と同格である〉  ☆ 文化十一年(1814)  ◯「合巻年表」(文化十一年刊)    歌川国貞画    『駅路鈴与作春駒』「五渡亭国貞画」曲亭馬琴作  岩戸屋板 ⑤    『封文不解庚申』 「一雄斎国貞画」市川団十郎(七世)作 川源板 ①    『古今化物評判』 「五渡亭国貞画」談州楼焉馬作 西与板 ①    『堤雪水仙丹前』  歌川国貞画  山東京山作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『復報四屋話』   歌川国貞画  尾上三朝作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『扇々爰書初』  「五渡亭国貞画」尾上三朝作  河源板 ②  ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文化十一年刊)    歌川国貞画『狂言竒語古今化物評判』五渡亭國貞画 談洲楼焉馬作    ◯「日本古典籍総合目録」(文化十一年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『春廿三夜待』三冊 歌川国貞・歌川国繁画 岡山鳥作 西村与八他板  ☆ 文化十二年(1815)  ◯「合巻年表」(文化十二年刊)    歌川国貞画    『三人長兵衛誉忠字』 歌川国貞画 山東京山作 丸文板 ①〈板元は文化7年新刊目録〉    『正月八百屋門松』 「一陽斎社中 独酔舎国直画」山東京山作 泉市板 ①    『伊達道具鳥羽累』 「歌川国貞 歌川貞繁画」 市川団十郎作 河源板 ①    『両面摺娘年代記』 「五渡亭画」  山東京山作 西与板  ①    『女劇時世姿』   「歌川国貞画図」式亭三馬作 西宮新板 ②    『正本製初編』   「歌川国貞画」 柳亭種彦作 西与板  ⑤    『国性爺倭談』   「五渡亭国貞画 歌川貞繁画」東西庵南北作 西与板 ①               一の巻口絵「此所スケ 国貞門人貞繁画」               四の巻「是より末拾五葉 歌川貞繁画」  ◯「死絵年表 文化十二年」(本HP・Top・特集)    歌川国貞画「尾上松緑(初代)」(10月16日没・72歳)二点    1署名「好ニよりて 国貞画」「極」 川口屋卯兵衛板    2署名「国貞画」二枚続 「極」 鈴伊板〈涅槃図の体裁〉  ☆ 文化十三年(1816)  ◯「合巻年表」(文化十三年刊)    歌川国貞画    『毬唄三人長兵衛』「国貞画」  曲亭馬琴作 丸文板 ②①    『梅幸茶婀娜染色』 歌川国貞画 式亭三馬作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『蝶鵆曽我俤』  「歌川国貞・柳烟楼歌川国直・歌川国芳画」 山東京伝作 河源板 ⑤    『正本製二編』   見返し「浮世絵師歌川国貞 絵本作者柳亭種彦」柳亭作 西与板 ⑤    『任俠中男鑑』  「一雄斎歌川国貞画図」式亭三馬作 鶴金板 ②     ◯『柳亭種彦日記』 文化十三年   ◇ 八月十二日 p153   〝正本九ノ巻の残り少しかきつぐ    国貞子きたり、隅田川花やしきへゆく、秋草さかり也    夜松亭子よりはんかんふ二冊かりきたる〟    〈正本は文化十二年から始まった国貞画の合巻『正本製』。隅田川花やしきは佐原菊塢が創設した向島百花園。新井白     石の『藩翰譜』を借りた松亭は漢学者鳥海松亭か〉   ◇ 八月卅日 p160   〝萩寺へ行ク、萩ハなかばすきちりはてたり    国貞子へ行、留守也〟    〈萩寺は亀戸の龍眼寺。萩の名所であった。同じく亀戸に住む国貞に寄ったが留守であった〉  ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥132(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝(山東京伝、文化十三年九月七日)四更の比竟に没しぬ、時に年五十六、(中略)明日未の時、両国橋    辺回向院無縁寺に葬送す、法名智誉京伝信士【イ法名弁誉知海】この日柩を送るもの、蜀山人、狂歌堂    真顔、静廬、針金、烏亭焉馬、曲亭馬琴、及北尾紅翠斎、歌川豊国、勝川春亭、歌川豊清、歌川国貞等、    凡する者百余人なり〟  ☆ 文化十四年(1817)  ◯「合巻年表」(文化十四年刊)    歌川国貞画    『鶬(ヒバリ)山後日囀』「琴雷舎国貞画」曲亭馬琴作 丸文板 ②    『初春絵草紙番附』 「歌川貞繁画」表紙「国貞画」橋本徳瓶作 丸文板 ⑤    『五色潮来艶合奏』 「歌川国貞画」 式亭三馬作 鶴喜板 ②    『宿の花朝貌物語』  歌川国貞画  沢村曙山作 河源板(注:日本小説年表による)     〈板元は文化十四年新刊目録による〉    『曽我たゆふ染』  「歌川国貞画」 柳亭種彦作 西与板 ②    『五大力海賊』    歌川国貞画  三枡作(五柳亭徳升代作)(注:日本小説年表による)①    『艶容歌妓結』   「一雄斎国貞画」式亭三馬作 西宮新板 ⑤    『長髦姿蛇柳』   「国貞画」   山東京伝作 河源板 ②     〈十丁ウラに「国貞画/山東京伝作/栄松斎書」とある由〉    『正本製』三編    国貞画    柳亭種彦作 西与板 ⑤  ◯「死絵年表 文化十四年」(本HP・Top・特集)    歌川国貞画「沢村田之助(二代目)」(1月28日没・30歳)三点    1署名「一雄斎国貞画」「極」 河内屋源七板    2署名「一雄斎国貞画」「極」 川口屋卯兵衛板    3署名「一雄斎国貞画」二枚続 「極」 伊勢屋利兵衛板  ☆ 文化十四~五年(1817~1818)  ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「深川 浮世画」〝国貞 歌川 号五渡亭 琴雷舎 一雄斎 月陂楼 五百羅漢渡場 亀田屋庄五郎〟  ☆ 文化年間(1804~1818)  ◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化年間記事」)   〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、    泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯「絵本年表」(文政元年刊)    歌川国貞画    『市川三升狂歌』一帖 香蝶楼国貞画 塵外楼清澄等校〔目録DB〕    『天の浮橋』五渡亭国貞 文政元年成立(注記「挿絵節用による」)〔目録DB〕    『以代美満寿』一冊 立川談洲楼焉馬序 〔漆山年表〕      大和画元祖図鳥居清元図 五渡亭国貞画 武清筆 法橋玉山 春亭画 夸斎 秋艃筆       かつしか戴一筆 清信筆一円斎国丸縮写 国安画 豊国画  ◯「合巻年表」(文化十五年(文政元年)刊)    歌川国貞画『筆始清書冊史』「国貞画」文尚堂虎円(三亭春馬)作 丸文板 ④    ☆ 文政二年(1819)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政二年刊)    歌川国貞画『狂歌棟上集』二冊 国貞 烏亭焉馬 竹川藤兵衛板  ◯「合巻年表」(文政二年刊)    歌川国貞画    『湯尾峠孫杓子由来』「国貞画」表紙「くに貞筆」十返舎一九作 山本板 ④               見返し「哥川国貞画」     『万福長者出世蔵』  歌川国貞画 式亭三馬作 (注:日本小説年表による)①    『千瀬川一代記』前編「右十五丁 一雄斎国貞画」後編 歌川貞繁画 柳亭種彦作 丸文板 ④    『三虫拇戦』  前編 歌川国貞画 後編 歌川国丸画 柳亭種彦作 ①    『袷鏡婦俊寛』 表紙「歌川国貞画」勝川春扇画 月光亭笑寿作 西宮新板 ⑤    『万福きつねの嫁入』表紙「国直画」(加賀文庫本) 表紙「国貞画」(専修大本)              十返舎一九画・作 山本板 ①    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文政二年刊)    歌川国貞画『狂歌棟上集』二冊 一雄斎国貞画 談洲楼焉馬撰 竹川藤兵衛板    ◯「歌川豊国門人」(合巻『杉酒屋妹背山々』一圓斎国丸画 葛葉山人作 西与板 文政二年刊)    豊国像 国丸画 国丸像 国虎画 『杉酒屋妹背山々』巻末(国書データベース)     (二組の鏡餅が四段の棚に置かれ、その敷紙に豊国門人の名前あり。上段から)    歌川国長 歌川国光/歌川国貞 歌川国丸/歌川国直 歌川国虎/歌川国瀧 歌川勝之助  ◯『増訂武江年表』「文政二年」2p63(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝此の秋、浪花より下りし一田正七郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、浅草寺奥山にて見    せ物とす。遠近の見物夥し。狂歌      観音の加護にてはやるかご細工皆人ごとにほめざるはなし     筠庭云ふ、文政二年の春、難波天王寺に、九丈六尺の釈尊涅槃像を竹籠にて作れるが、殊の外はやり     て、其の秋細工人江戸に来り、大なる関羽の坐像、并びに其の外さま/\小さきものども作りて、浅     草寺の境内に見せものとす。思ふに取りくづしたる竹をも用ひしなるべし。此の見せもの終りて、江     戸の細工人どもさま/\大造(オオヅクリ)なるものを見せたり。此の翌年頃、彼の大坂籠細工、上野山下     にも作りもの出したれども、これは最早見物評判なし〟    〈細工物による見世物の一大ブームを引き起こすことになった一田庄七郎の籠細工記事である。浮世絵への言及はない     が、国貞のものが残されているのであげておく。なお、この籠細工のことは川添裕著『江戸の見世物』(岩波文庫)     に詳しく紹介されている〉
   一田庄七郎 籠細工 関羽像 五渡亭国貞画    (RAKUGO.COM 見世物文化研究所「見世物ギャラリー」「見世物絵世界へようこそ」川添裕解説)     <七月 見世物 籠細工(細工人 一田正七郎)浅草奧山>  ◯『観物画譜』6-7( 朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)    6「籠細工 細工人 浪花一田正七郎」錦絵 「応需 国貞写」山本屋平吉板     〈ブログ「見世物興行年表」に三枚続あり〉    7「浪花細工人 一田正七郎」錦絵 「応需 五渡亭国貞写 中川芳山堂・山本屋平吉板      (細工は豊干禅師図)  ◯『武江観場画譜』一(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「籠細工 浪花細工人 一田庄七郎」錦絵 「応需 五渡亭国貞写」山本屋平吉板  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「(豊干禅師・関帝像等の籠細工の図)」錦絵二枚続 「五渡亭国貞写」上村与兵衛板      <七月 見世物 籠細工(細工人 亀井町笊籠師・酒呑童子等)両国広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「江戸の花両国籠細工」錦絵「五渡亭(以下欠)」上村与兵衛板   「江戸の花 籠細工」錦絵三枚続 「応需 国貞写」伊勢屋利兵衛板     <七月 見世物 ギヤマン細工(大灯籠・蘭船)両国橋東詰>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「題名なし(蘭船・大灯籠・インコを配した美人画)」錦絵三枚続 「五渡亭国貞画」伊勢利兵衛板    ☆ 文政三年(1820)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文政三年刊)    歌川国貞画『昔噺桃太郎』一冊 歌川国貞画 十返舎一九作  ◯「合巻年表」(文政三年刊)    歌川国貞画    『四季物語郭寄生』 表紙「国貞画」歌川美丸画 古今亭三鳥 西宮新板 ⑤    『合せ鏡対乃振袖』「五渡亭国貞画」東西庵南北作 山本板  ①    『碁太平記白石噺』「一雄斎国貞画」本町庵三馬  西宮新板 ⑤     〈寛政七年刊・黄表紙『碁太平記白石噺』豊国画・式亭三馬作の改刻再版本〉    『二箇裂手細之紫』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  丸文板 ④    『桔梗辻千種之衫』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  鶴金板 ⑤    『弘法大師誓筆法』「国貞画」   曲亭馬琴作  森治板 ⑤    『松竹梅女水滸伝』前編「歌川国貞画」式亭三馬作 山本板 ⑤    『小説由井ケ浜』 前編「国貞画」  山東京山作 森治板 ①     (京山「文政三年庚辰首夏脱稿 同年初秋梓行」)    『絵傀儡二面鏡』 「歌川国貞画」柳亭種彦作  西与板 ⑤    『勧善花咲爺』   歌川国貞画 十返舎一九作 山本板 ①    『昔噺舌切雀』  「国貞画」  十返舎一九作 山本板 ①    『昔噺桃太郎』   歌川国貞画 十返舎一九作 山本板 ①    『正本製』四編  「歌川国貞画」柳亭種彦作  西与板 ①     <正月 見世物 造り物(虎)両国東広小路>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「虎のあそび 柳亭種彦賛」錦絵 「一雄斎国貞画」鶴屋金助板  ☆ 文政四年(1821)  ◯「合巻年表」(文政四年刊)    歌川国貞画    『松竹梅女水滸伝』後編「五渡亭国貞画」式亭三馬 山本板  ⑤    『伊呂吉由縁藤沢』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  伊藤板  ⑤④    『娘金平昔絵草紙』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  鶴喜板  ⑤    『娘修行者花道記』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  山本板  ⑤    『時花模様由禅染』「歌川国貞画」 式亭三馬作  西宮新板 ⑤④    『江戸花三升格子』 歌川国貞画  式亭三馬作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『娘狂言三勝話』 「香蝶楼国貞画」柳亭種彦作  鶴金板  ⑤    『忍草売対花籠』 「歌川国貞画」 柳亭種彦作  岩戸板  ①    『小夜衣物語』  「一雄斎国貞画」十返舎一九作 伊藤板  ⑤    『鏡山旧錦絵』  「五渡亭国貞画」晋米斎玉粒作 西宮新板 ⑤④    『道中双六』   「歌川国貞画」 柳亭種彦作  西与板  ①     『金草鞋』十四編 表紙「国貞画」 喜多川月麿画 十返舎一九作 森治板 ⑤    ◯「日本古典籍総合目録」(文政四年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『茶番狂言早合点』初編 五渡亭国貞画 式亭三馬作 西宮新六板     <二月 看々踊り 葺屋町河岸>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「(かんかん踊り)」錦絵三枚続 「五渡亭国貞画」山本屋平吉板    ☆ 文政五年(1822)  ◯「合巻年表」(文政五年刊)    歌川国貞画    『まゐらせ候操封皮』前編「国貞画」後編「花蘭斎北尾美丸」山東京山作 森治板 ⑤    『八百屋万神楽太鼓』歌川国貞画  楚満人作   板元未詳(注:日本小説年表による)①    『鯨帯博多合三国』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  伊藤板  ④⑤    『昔模様戯場雛形』「五渡亭国貞画」亀東作    丸文板  ①    『昔語成田開帳』 「歌川国貞画」 山東京山作  山口板  ⑤    『赤本昔物語』  「五渡亭国貞画」談洲楼焉馬作 山本板  ①    『繫馬鐙総邦』   歌川国貞画  福亭禄馬作  板元未詳(注:日本小説年表による)①    『岸柳島物語』   歌川国貞画  式亭三馬作  森治板 (注:日本小説年表による)     〈板元は文政五年新刊目録による〉    『正本製』六編   歌川国貞画  柳亭種彦作  西与板 ①    『江戸廼花両個助六』表紙「五渡亭国貞画」緑亭可山作 山口板 ⑤              前中編 歌川貞虎画 後編 歌川貞房画    『照子池浮名写絵』 表紙「国貞画」渓斎英泉画 亭馬琴作 森治板 ④  ◯「七変化女眼かづら」初編(早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」「芸海余波 附巻」所収)    柳亭種彦作 歌川国貞画 文政壬午春興 鶴屋金助版    〈種彦の戯文と国貞の画で、ほろ酔いの眼・悋気の眼・さげすむ眼など七種の「眼かつら」を画いたもの〉     七変化女眼かづら 歌川国貞画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆ 文政六年(1823)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政六年刊)    歌川国貞画    『江戸紫訥子頭巾』二冊 五渡亭国貞画 岩井紫若撰    『家具名尽文章』 一冊 応需国貞画 十返舎一九作  ◯「合巻年表」(文政六年刊)    歌川国貞画    『当世染戯場雛形』「五渡亭国貞画」鶴屋南北門人亀東作 丸文板 ⑤     (備考:文政五年刊の後編)〈亀東は鶴屋南北の別号〉    『小脇差夢の蝶鮫』「歌川国貞画」柳亭種彦作 伊藤屋板 ⑤④    『女郎花喩栗嶋』 「国貞画」  柳亭種彦作 西与板  ⑤④    『新うつぼ物語』 「歌川国貞画」柳亭種彦作 鶴喜板  ⑤④    『水木舞扇猫骨』 「歌川国貞画」 柳亭種彦作 泉市・西与合梓 ①    『結合縁房糸』  「五渡亭歌川国貞画」尾上菊五郎作 山口板 ⑤              後編巻末「歌川国貞 歌川国丸 両画」    『忍弾仇汐汲』  「五渡亭国貞画」瀬川路考作  西宮新板 ①    『梅桜春道行』  「五渡亭国貞画」山東庵京山作 岩戸板  ⑤    『夢合寝物語』  「五渡亭国貞画」山東庵京山作 山本板  ⑤④    『楠歌舞妓礎』   歌川国貞画  山東京山作  森治板  ①     (注:『小説由井ヶ浜』の後編)〈山東京山作・歌川国貞画・森治板・文政三年刊〉    『正本製』六編   歌川国貞画  柳亭種彦作  西与板 ①    『東模様連理巣籠』表紙「五渡亭国貞画」勝川春亭画 礫川南嶺 山口板 ⑤    ◯「日本古典籍総合目録」(文政六年刊)   ◇分類なし    歌川国貞画『江戸花三升顔見世』二冊 五渡亭国貞画 立川焉馬稿・市川三升補  ◯「往来物年表」(本HP・Top)    歌川国貞画 十返舎一九編 山口屋藤兵衛〔国書DB〕    『頼朝武功往来』表紙 国安画 口絵「国貞画」 文政六年刊    『家具名尽文章』表紙 国安画 口絵「国貞画」 同    『児女長成往来』表紙 国安画 口絵「国貞戯毫」同    『万福百工往来』口絵「国貞画」        同  ☆ 文政七年(1824)  ◯「合巻年表」(文政七年刊)    歌川国貞画    『菊酒屋千歳諸白髪』 「五渡亭国貞画」墨川亭雪麿作 東屋大助板 ①    『殺生石後日怪談』初編 上 歌川豊国画 下「歌川国貞画」曲亭馬琴作 山口板 ⑤    『江都錦双蝶曾我』前編「五渡亭国貞画」後編 歌川国直画 市川三升作・五柳亭徳升代作 山口板 ①    『当南枝稲妻表紙』  「五渡亭国貞画」市川団十郎作(五柳亭徳升代作)西宮新板 ①    『童蒙話赤本事始』  「国貞画」   曲亭馬琴作 森治板 ①    『燈籠踊穐之花園』  「国貞画」   柳亭種彦作 山本板 ①    『皿屋敷反古合紙』   歌川国貞画  梅幸作・花笠文京代作 板元未詳 ①    『糸桜飜蝶分酔』   「五渡亭国貞画」山東庵京山作 岩戸板 ①    『三国白狐伝』    「五渡亭国貞画」市川三升作・五柳亭徳升代作 鶴喜板 ①    『曾我祭東鑑』    「五渡亭国貞画」鶴屋南北門葉亀東作 丸文板 ①    『菊酒屋累扇』    「五渡亭国貞画」山東京山作 森治板 ①    『正本製』七編     歌川国貞画  柳亭種彦作 西与板 ①    『あとみよそわか』表紙「五渡亭国貞画」歌川国直画 忍ヶ岡常丸著 山本板 ①    『玉櫛笥両個姿見』表紙「国貞」   浮世庵国直画 墨川亭雪麿作 丸文板 ①    『海中箱入恩着』 表紙「国貞画」   歌川国信画 関亭伝笑作  鶴金板 ①  ◯「読本年表」〔中本型読本〕(文政七年刊)    歌川国貞画『殺生石後日恠談子』初編 歌川豊國・國貞画    ☆ 文政八年(1825)    ◯「合巻年表」(文政八年刊)    歌川国貞画    『帯屋於蝶三世談』「五渡亭国貞画」林屋正蔵作  西与板 ①⑤    『児淵紫両人若衆』「歌川国貞画」 市川三升(代作五柳亭徳升) 泉市板 ⑤    『近江表座敷八景』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  泉市板  ⑤    『唐人鬢今国姓爺』「歌川国貞画」 柳亭種彦作  鶴喜板  ⑤    『流行歌川船合奏』「歌川国貞画」 尾上梅幸作(代作花笠文京) 丸甚板 ①    『繽紛博多小女郎』 歌川国貞画  瀬川路考作  丸甚板 ①    『郭春道中双六』  五渡亭国貞画 山東京山作  丸文板(注:日本小説年表による) ①     〈板元は文政八年新刊目録による〉    『昔噺赤本事始』  歌川国貞画  曲亭馬琴作  森治板 ①    『夏木立恋繁枝』  歌川国貞画  墨川亭雪麿作 山本板 ①〈板元は文政八年新刊目録による〉    『花栬名所扇』  「歌川国貞画」 柳亭種彦作  伊藤板 ①    『縁結文定紋』  「国貞画」   曲亭馬琴作  西与板 ①    『桜時被袖笠』   歌川国貞画  市川三升(代作五柳亭徳升) 板元未詳(注:日本小説年表による) ①    『明烏雪惣花』  「五渡亭国貞画」山東庵京山作 森治板 ⑤    『常夏物語』   「五渡亭国貞画」十返舎一九作 山口板 ①    『正本製』八編   歌川国貞画  柳亭種彦作  西与板 ①    『富士太郎廓初夢』表紙「国貞画」前編 豊国画 後編 美丸画 山東庵京山作 丸甚板 ⑤    『仮名手本忠臣蔵』表紙「国貞画」弌陽斎豊国画 普米斎玉粒作 山本板 ⑤    『八人芸楽屋種本』表紙「国貞画」歌川国安画  江南亭唐立作 丸文板 ⑤  ◯「咄本年表」〔目録DB〕(文政八年刊)    歌川国貞画『落噺可楽日記』歌川国貞画 三笑亭可楽作  ◯「往来物年表」(本HP・Top)(文政八年刊)    歌川国貞画『富商呉服往来』国貞画 十返舎一九編 山口屋藤兵衛    ◯「艶本年表」(文政八年刊)    歌川国貞画    『恋相撲繽十二手』初編 色摺 半紙本 一冊 猿猴坊月成作 文政八年〔日文研・艶本〕〔白倉〕     (白倉注「初編といえども、実は(文政七年刊『恋相撲四十八手』)国虎画の続編」)    『精くらべ玉の汗』三巻三冊 国貞画 嬌訓亭(為永春水)作〔目録DB〕     (注記「日本艶本目録(未定稿)等による」)    『百鬼夜行』   色摺 半紙本 三冊 猿猴坊月成(二代烏亭焉馬)作 文政八年〔白倉〕     (白倉注「「百妓夜行」にもじって怪談仕立てにした国貞の艶本初作」)  ☆ 文政九年(1826)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政九年刊)    歌川国貞画    『三芝居役者細見』一冊 江戸画師五渡亭国貞 五柳亭徳升撰 山口屋藤兵衛他板    『狂歌の集』一冊 北渓 西山 文晁 南湖 閑林 国貞 蹄斎 抱一 国直 嶌蒲 桜川慈悲成賛             辰斎 為一筆 六十翁雲峰 六樹園序 徳成蔵板     ◯「合巻年表」(文政九年刊)    歌川国貞画    『一寸見南枝巨登志廼新版』「歌川国貞画」 市川三升作 五柳亭徳升代作 泉市板 ④    『ちやせんうり話の種瓢』 「五渡亭国貞画」墨川亭雪麿作 山本板 ①    『姫万両長者鉢木』  前編「歌川国貞画」後編 北尾美丸画 曲亭馬琴作 森治板 ⑤    『皇国文字娘席書』「五渡亭国貞画」尾上梅幸作 花笠文京代作 丸甚板  ①    『後三年手煉義家』「五渡亭国貞画」市川三升作 五柳亭徳升作 今利屋板 ④    『勝角力橋場菴崎』 五渡亭国貞画 鶴屋南北作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『伊勢参廻紀伊国』 歌川国貞画  瀬川路考作 夷福亭宮守代作 板元未詳(注:日本小説年表による)①    『雁金紺屋作早染』「歌川国貞画」 柳亭種彦作 鶴喜板  ⑤    『大龢荘子蝶胥笄』「歌川国貞画」 曲亭馬琴作 泉市板  ⑤    『四十七手本裏張』「歌川国貞画」 鶴屋南北作 今利屋板 ⑤    『人形筆五色絲蔵』「歌川国貞画」 柳亭種彦作 山本板  ⑤    『蛙歌春土手節』 「歌川国貞画」 柳亭種彦作 伊藤屋板 ⑤    『彦山霊験記』前編「歌川国貞」後編 歌川貞兼画 東里山人作 岩戸板 ①    『児桜法華房』  「歌川国貞画」 尾上梅幸作  花笠文京序 泉市板 ⑤    『女扇忠臣蔵』  「五渡亭国貞画」鶴屋南北作 丸文板 ⑤    『契情身持扇』  「五渡亭国貞画」山東京山作 森治板 ①    『笠松峠雨夜菅簑』表紙「国貞画」歌川国安画 墨川亭雪麿作 表紙「雪麻呂作」 丸文板 ①    『尾上松緑百物語』口絵「此所一丁/前の豊国画」歌川豊国(二代)画 尾上梅幸作 鶴喜板 ⑤    ◯「人情本年表」(文政九年刊)    歌川国貞画『閑談春之鴬』初編 歌川国貞画 墨川亭雪麿    ◯「艶本年表」〔白倉〕(文政九年刊)    歌川国貞画    『閨中艶書/用文章』色摺 半紙本 一冊              表紙「猿猴坊月成先生撰」序「文政こゝのつのとし弥生 七五山人しるす」     (白倉注「猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作。往来物の艶本」)    『風俗◎妓(スイコ)伝』色摺 半紙本 三冊「不器用亦平画」落書庵景筆(二世烏亭焉馬)作 文政九年     (白倉注「続編と称して『粋蝶記』(文政11年)『◎妓伝続編』(一妙開程芳=国芳画作 文政12年)が出ている」)     〈◎は「辶」+「者」+「甬」の合成字。「通者」(粋(スイ)=粋(イキ)な者)の意味を込めた戯語か〉    『五大力恋之柵』  色摺 中本  二冊「不器用亦平」猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 金玉堂板 文政九年     (白倉注「色摺六巻三十丁を合巻二冊にしている。前年中村座で上演された鶴屋南北の「盟三五大切」の評判を当て      こんで作った草双紙形式の艶本。凄惨な殺しの場面の図で知られる」)    『開談夜之殿』   色摺 半紙本 三冊 猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 文政九年     (見返しに「百妓二篇」とあって、前作『百鬼夜行』の続編であることが知られる。ただし内容には関連性はない)     『宝合』      色摺 中本 二帖 猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 文政九年     (白倉注「当代人気の役者の似顔絵に「男根図」を添えたもの。後編は女性主人公名に「女陰図」を描いている」)  ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」(文政十年刊)    歌川国貞画    『かなかき三国志』歌川国貞画 西馬作(注記「挿絵節用による」)〔目録DB〕    『三芝居細見』  一冊 江戸画師五渡亭国貞 五柳亭徳舛撰 山口屋藤兵衛板〔漆山年表〕    『狂歌竹豊集』  一冊 画工五渡亭国貞・五湖亭貞景・富川房信? 便々館序〔漆山年表〕     ◯「合巻年表」(文政十年刊)    歌川国貞画    『絵図自慢歌妓容気』「五渡亭国貞画」山東庵京山作 森治板  ⑤    『雲竜九郎偸盗伝』初編「歌川国貞画」式亭三馬作  西宮新板 ①    『都鳥浮寝隅田川』 「歌川国貞画」 市川三升作 五柳亭徳升序 泉市板 ⑤    『相合駕江之島詣』 「五渡亭国貞画」墨川亭雪麿作 山本板 ⑤    『牽牛織女願糸竹』 「歌川国貞画」 曲亭馬琴作  西与板 ①    『伊達摸様廓寛濶』  歌川国安画  五柳亭徳升作 鶴喜板 ①    『枝珊瑚京打笄』  「五渡亭国貞画」尾上梅幸作 花笠文京代作 佐野喜板 ④              「国貞門人貞秀画」(両国橋広小路の風景画(4ウ・5オ)の署名)    『重妻比翼仕立』  「五渡亭国貞画」山東京山作  岩戸板 ⑤              「貞秀画」(後編12ウ屏風)    『菊寿童霞盃』初編 「五渡亭国貞画」山東庵京山作 山本板 ⑤④    『契情身持扇』二編 「五渡亭国貞画」山東庵京山作 森治板 ⑤    『東男連理緒』   「五渡亭国貞画」表紙「豊国画」十返舎一九作 総州屋板 ②              (①の注記によると文化六年刊の本文補修、外題を再版したもの)    『いろは演義』   「五渡亭国貞画」鶴屋南北作  丸文板 ⑤    『柳糸花組交』   「歌川国貞画」 柳亭種彦作  伊藤板 ⑤    『正本製』九編   「国貞画」   種彦作    西屋与板  ⑤    『志賀春金漣』 表紙「国貞画」北尾美丸画 市川三升作 山本板 ⑤    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(文政十年刊)    歌川国貞画『狂歌竹豊集』一冊 国貞・貞景等画 便々館撰     ◯「艶本年表」(文政十年刊)    歌川国貞画〔白倉〕    『春夏秋冬/色の詠』色摺 大本 二冊 好亭序・作 豊国・国貞画 文政十年     (白倉注「師豊国の遺作を国貞が引き継いだものだろう」)    『艶本恋の楽や』色摺 半紙本 三冊 文政十年            「不器用又平」猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 本文題「文盲我話」     (白倉注「有名な淫婦かわらけお伝と、三代目板東美津五郎、五代目瀬川菊之丞との三角関係のスキャンダルを扱っ      たもの」)    『十二小町之内』小錦十二枚組物 文政十年頃      (白倉注「かよひ小町、さうしあらゐ小町、玉つくりの小町、雨ごゐの小町、あふむ小町、しみづ小町、穴なし小町、関の      戸の小町、他四図。絵暦集」)    『逢身八景』 色摺 中本 三冊「不器用亦平」落書庵景筆作 文政十年     (白倉注「本文は「仲町の夜雨・吉原の暮雪・霞関の夕照・両国の帰帆・駒形の落雁・隅田川の秋月・二丁町の晴嵐・      上野の晩鐘」)    歌川国貞画〔日文研・艶本〕    『上方恋修行』色摺 半紙本 三冊 文政十年           第一冊 衝立「梅図」「不器用又平筆」第三冊 衝立「竹図」「不器用又平筆」    『温泉の図』 色摺 小判三枚続 文政十年か           「不器用絵師 出茂の亦平筆」袋「亥ノ春 温泉」    『泉湯新話』 色摺 半紙本 三冊 文政十年           序「はんもと 分寸堂識〔「もみぢ帒」印〕」           上 「何寄実好成著述」           中 衝立「薄図」 「不器用又平画」屏風「葡萄図」「不器用又平筆」           下 船中の調度品に「不器用又平筆」     ◯「文政十年丁亥日記」①73 文政十年三月廿二日(『馬琴日記』第一巻)   〝画工英泉来ル、二月中たのミ置候あやめ兜の画本出来、持参。且、国貞雑(ムシ二字不明)之事、勧解    被申述。右之意味合、予も申述おく。其後、帰去〟    〈「勧解」とは和解の意味であるが、仲裁したのは英泉か。すると国貞と馬琴との間の紛争ということになるが、この     あと国貞が来訪して、忰孝貞の名弘書画会への参加を要請しているところをみると、そうでもなさそうである〉      〝画工国貞来ル。右ハ、国貞忰孝貞名弘書画会、来る(ムシ二字不明)日万八にて催候よし、すり物持参。    宗伯罷出、挨拶いたし、廿七日ハ無(ムシ二字不明)ムキ有之ニ付、出席いたしがたき旨、断おく。    (ムシ二字不明)帰去〟    〈歌川国貞の忰、孝貞の名弘書画会は文政十(1827)年三月二十七日、両国柳橋万八楼での開催であった〉       ◯「文政十年丁亥日記」①104 文政十年五月十二日(『馬琴日記』第一巻)   〝西村屋与八より使礼。過日約束いたし候合巻稿本二冊、国貞方よりとりかへし、被差越之。請取、返書    遣之〟    〈この西村屋与八板、合巻稿本とは何であろうか。国貞の許にある馬琴自身の稿本を取り戻すというのであるから、国     貞は挿絵をまだ画いていなのだろう。馬琴はその続きを執筆するために稿本を取り戻したのであろうか〉     ◯「文政十年丁亥日記」①200 文政十年十月六日(『馬琴日記』第一巻)   〝(飯田町の清右衛門へ、かねてより所望せし屏風貼交ぜ用書画を遣わす)短冊三枚・屋代氏書壱枚・外    山修理権太夫光施卿染筆大色紙紙壱枚・椒芽田楽画曽我五郎少将之図壱枚・琴嶺画信州名産海老之図壱    枚・同駱駝図壱枚・冠山侯之書一行物壱枚・波響画鱒図壱枚・地紙布袋画壱枚・菊盟之書地紙弐枚・    素絢之画扇子壱本・国貞国丸国直寄合書之扇子壱本、合て十五種なり〟    〈屋代氏は屋代弘賢であろうか。外山光施の書。椒芽田楽は名古屋の戯作作で馬琴門人。馬琴の『近世物之本江戸作者     部類』「赤本作者部」には〝尾州名護屋の藪医師にて神谷剛甫といふものなり〟とある。琴嶺は馬琴の長子宗伯の画     号。他に、池田冠山の書、蠣崎波響の画、山口素絢の画、そして国貞・国丸・国直による寄せ書き。菊盟は未詳。こ     れらを屏風の貼り交ぜ用として、馬琴の女婿である清右衛門に贈ったのである〉     ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨140(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政十年・1827)   〝傚顔見世番附小伝    淫婦小伝(インフコデン)といへるは、天明寛政の頃、芝に名高きお伝と云し義太夫節の名人あり、そが門弟    にして其業にも秀(ヒイデ)たれば、師の名を継で小伝といふ、今や戯場役者秀佳【古是の業の男、三代    目板東三津五郎】が妻たり、抑(ソモソモ)淫婦にしてみそか男多かる中に、路考【三代目路考養子、菊三    郎が男、六代目瀬川菊之丞】に密通して其事かくれなく、世の中の噺草とはなりぬ、さるを何人か戯れ    つくりけん、顔見世の入代り番附に似せて、其たわれ男の数々を、浮世絵師歌川国貞が筆して写し出つ、    桜木に載せて専らにもてあそぶに、程無く其判を禁じらる、此番附摺出すの費(ツヒヘ)、百金に余れりと    かや、又利を得る事二百金に過たりと、痴呆(タワケ)たる事にしはあれど、大江戸の広き、他国にはあらじ、    予も亦痴漢(タワケ)の数に入て、乞見て爰に写し、後の笑草とはなしぬ    (顔見世番付風小伝の写しあり。署名は「不器用絵師 出茂又平筆」)〟     ◯『歌舞伎年表』⑥170(伊原敏郎著・昭和三十六年刊)   (文政十年(1827)の項)   〝今年三津五郎の妻小伝の情夫の数々を、顔見世の入代りり番付に似せ、国貞筆にて出す。程なく判を禁    ぜらる。此惣用百金に余りて二百金を利したりと。詳しくは「巷街贅説」巻二にあり〟        ☆ 文政十一年(1828)    ◯「絵本年表」(文政十一年刊)    歌川国貞画    『狂歌四季訓蒙図彙』五渡亭国貞・五湖亭貞景・呉北渓 便々館琵琶丸編〔漆山年表〕    『夏の富士』二巻  五渡亭国貞画 山東京山作 森屋治兵衛他板〔目録DB〕       ◯「合巻年表」(文政十一年刊)    歌川国貞画    『返す返す丸に文月』歌川国貞画 柳亭種彦作 西与板(注:日本小説年表による) ①     〈板元は文政十一年新刊目録による〉    『伊呂波引寺入節用』初-三編「歌川国貞画」柳亭種彦作 鶴喜板 ⑤    『ぬしや誰問白藤』 後編「歌川国貞画」歌川国芳画 市川三升作 佐野喜板 ⑤    『今戸土産女西行』「五渡亭国貞画」曲亭馬琴作  森治板 ⑤    『怪談岩倉万之丞』「五渡亭国貞画」鶴屋南北作  山本板 ⑤    『紅葉狩吾嬬錦絵』「五渡亭国貞画」墨川亭雪麿作 泉市板 ⑤    『裾模様沖津白浪』「歌川国貞画」 鶴屋南北作  泉市板 ①              「此半丁 五亀亭貞房画」(2ウ)「十童 亀岳/印(つる屋)」(7オ)    『前々忠臣孝記』 「歌川国貞画」 蓬莱山人作  西与板 ⑤    『懐中鏡山開』  「歌川国貞画」 蓬莱山人作  岩戸板 ⑤    『繡絵雙白澐』初編「五渡亭国貞画」尾上梅幸作 花笠文京代作 丸甚板 ④    『爰佃天網島』  「五渡亭国貞画」市川三升作 五柳亭徳升序 鶴喜板 ⑤    『忠臣狸七役』表紙「国貞画」歌川安秀画 十返舎一九作 丸文板 ①    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政十一年刊)    歌川国貞画『狂歌四季訓蒙図彙』二冊 国貞・北渓画 便々館撰 琵琶例    ◯「艶本年表」(文政十一年刊)    歌川国貞画    『仮名手本夜光玉』色摺 半紙本 合本一冊 文政十一年〔日文研・艶本〕〔白倉〕〈◎は「月」+「並」〉     上巻 巻頭言「仮名手鑑夜光玉 驇◎缺頭茂述(たけだいつものさく)(本文略)            悪疾兵へ景筆述(あくしつびやうゑかげふでのぶる)」(白倉注「悪疾兵衛景筆(二世烏亭焉馬)」)        襖絵「松図」  「婦㐂用又平画」     中・下巻「悪疾兵衛景筆」「婦㐂用又平画」        巻末広告         蝶千鳥曽我譚   三冊 落書庵景筆述 不器用亦平画         妹背山女教訓   三冊 同      同         色よしの人目千本 三冊 同      同〔白倉〕     (白倉注「後編に『艶本忠臣蔵』(内題「口吸心久莖(ちゆうしんごら)後編」)国芳画(文政十二年)がある。ともに浄瑠      璃「仮名手本忠臣蔵」のパロディ本である)」)    『三国女夫意志』色摺 大本 三冊 文政十一年〔日文研・艶本〕            上 衝立 張り交ぜ 「婦㐂用又平画」            中 衝立「鳥居図」 「婦㐂用又平画」            下 衝立「松図」  「婦㐂用又平画」     ◯『馬琴書翰集成』①210 文政十一年正月十七日 殿村篠斎宛(第一巻・書翰番号-41)   〝一昨年冬中綴り候合巻、板元ハ西村やニ御座候。画工国貞方ニ子細有之、昨年も画出来不申、当年にて    三年越シニ罷成候〟    〈この年、文政十一年、馬琴は合巻『今戸土産女西行』を出版しているが、この画工は国貞である。すると国貞にあり     とする「子細(訳有り)」とは、馬琴との拘わりではなさそうであるが、何であろうか〉    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p(藤岡屋由蔵・文政十一年記)   〝文政十一子年三月角力に、阿武松緑之助、横綱注連を張、日の下開山となる。    是、谷風・小野川此方初ての横綱也、雷電も谷風を憚りて横綱を掛ず、然るを長州にて八百両程も出し    て横綱に致すなり〟
     「阿武松緑之助」五渡亭国貞画(香山磐根氏「相撲錦絵の世界」)     ◯「文政十一年戊子日記」①373 八月十日(『馬琴日記』第一巻)   〝(板元大坂屋半蔵より)美少年録報条の画、美少年国安ニ画せ出来、見せらる。画がら不宜候得ども、    そのまゝにいたし、筆工へ可遣旨申聞け、返之〟    〈『近世説美少年録』初編は翌文政十二年に刊行されるが、それに先だって国安画による報条を出すというのだろう〉      ◯「文政十一年戊子日記」①374 八月十一日(『馬琴日記』第一巻)   〝大坂や半蔵来ル。美少年録報条の画、国安方ニて出来かね候旨、国貞弟子画(一字ムシ)出来よし、持参、    被為見之〟    〈どういう事情によるものか、国安画は出来ず、結局国貞の弟子のものが採用された。『近世説美少年録』初編の画工     は、結局国安ではなく国貞であった〉     ◯『増補浮世絵類考』文政十一年八月(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「初代歌川豊国」の項)   「豊国筆塚碑」(文政十一年八月記)の「歌川総社中碑」に名を連ねる
   「豊国筆塚碑」      〝国貞社中 貞虎 貞房 貞景 貞秀 貞綱 貞幸 貞考 貞歌女 貞久 貞信 貞広〟     ◯「文政十一年戊子日記」①390 九月四日(『馬琴日記』第一巻)   〝大坂や半蔵来ル。美少年録壱の巻本文之残り十二丁・同絵わり三丁わたし遣ス。右潤筆内金拾両也持参、    請取之。画工国貞、本文一トわたりよミ申度旨、申候よしニ付、右稿本、明朝国貞方へ遣し、明後日取    戻し、筆工ぇ遣し可然旨、談じおく〟    〈『近世説美少年録』の初編。国貞の挿画制作がいよいよ始まる。画工が作画の前に予め本文を読んでおきたいと申し     出るのは稀なのであろうか〉     ◯「文政十一年戊子日記」①392 九月六日(『馬琴日記』第一巻)   〝大坂屋半蔵来ル。今日、画工国貞より使を以、昨日見せ候美少年録壱の巻稿本返却いたし候ニ付、只今、    筆工中川氏ぇ持参、わたし置候旨、申之〟  ◯「文政十一戊子日記」①413 十月四日(『馬琴日記』巻一)   〝美少年録二の巻板下筆工丸九丁、今日大半ぇわたし候節、画工国貞、無程かほ見せ、にづら画ニて弥出    来かね可申候へば、正月うり出しの間ニ合かね候ニ付、ふりかへ三ノ巻より末、国安ニ画せ可然旨、内    談いたしおく〟    〈歌川国貞、十一月の顔見世興行を控えて、役者「にづら画(似顔絵)」の方が忙しくなり、そのため挿絵を担当して     いる『近世説美少年録』の正月出版が、間に合わない恐れが出てきたので、国安の起用を考えたのであろう。「大半」     は板元大坂屋半蔵〉     ◯「文政十一戊子日記」①414 十月五日(『馬琴日記』巻一)   〝(大坂屋半蔵来訪)国貞事、昨ばん、半蔵参りかけ合い候処、ぜひ/\画き度候間、出精いたし、間ニ    合せ可申旨、国貞申ニ付、任其意候よし、告之。板元得心候上は、拒障可申いはれなし。いづれも宜様    いたし候へと、返答に及ぶ〟    〈国貞は是非やりたいと云う。馬琴は板元大坂屋半蔵が得心ならば……と承知する〉     ☆ 文政十二年(1829)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文政十二年刊)    歌川国貞画『三都俳優水滸伝』二冊 画工五渡亭国貞 五柳亭徳升作 鶴屋喜右衞門板  ◯『江戸流行料理通』三編 八百善主人著 画 和泉屋市兵衛 文政十二年刊(国書データーベース)    挿絵「応需国貞画」(二階酒宴光景)    ◯「合巻年表」(文政十二年刊)    歌川国貞画    『偐紫田舎源氏』初編「歌川国貞画」 柳亭種彦作 鶴喜板 ⑤    『風流列女伝』 初編「五渡亭国貞画」墨川亭雪麿 山本板 ⑤④    『正本製』  十二編 歌川国貞画  柳亭種彦作 西与板 ①    『傾城怪談冬廼月』表紙 「国貞画」   北尾重政画 乾坤坊良斎作 尾上梅幸校合 蔦吉板 ①    『鶉権兵衛物語』後編表紙「五渡亭国貞画」北尾重政画 林屋正蔵作  柳亭種彦校合 西与板 ⑤    『月廼夜神楽』 下巻表紙「国貞画」初編 歌川国芳画 市川三升作  佐野喜板 ①     ◯「読本年表」〔目録DB〕(文政十二年刊)    歌川国貞画『近世説美少年録』初編 歌川国貞画 曲亭馬琴作    ◯「艶本年表」(文政十二年刊)    歌川国貞画〔白倉〕    『源氏思男貞女』色摺 半紙本 三冊「不器用亦平」画 東園明景筆(落書庵景筆)作 文政十二年〔白倉〕     (白倉注「同音題名で『源氏思名貞姫』がある。こちらは十返舎門人芳々広々亭序、陰莖斎雁高作で、画師は歌川国      盛である」)    『浜廼真砂子』 色摺 半紙判枡型本 二冊 文政十二年か           「婦㐂用絵師又平筆」「婦㐂用絵師出茂の又平画」     (白倉注「『艶色松づくし』(仮)『艶色梅の友』の合冊本か。改題再摺本に『千代乃詠』『千世の詠』がある」)    『色日記』色摺 半紙本 三冊 不器用叉平 元来庵介米(二世烏亭焉馬) 文政十二年     (白倉注:改題再摺本か。『上州仕入・結加美事』)    歌川国貞画〔目録DB〕    『風俗三国志』初編三冊 不器用亦平画 悪失兵衛景筆作     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)〈二編三冊は天保元年刊〉    『雪月花艶本』 三冊  月喜代釜平(国貞)画 艶二楼好成作     (注記「改題本に「雪月花」あり、日本艶本目録(未定稿)による」)    『会本雪月花』 三冊 歌川国貞画    歌川国貞画〔日文研・艶本〕    『三體志』色摺 半紙本 三冊 文政十二年         序「己丑はつ春 東都の淫史 百垣(モモカキ)千研(チスリ)戯題」         一冊目 衝立「柳図」 「不器用又平画」           二冊目 衝立「助六図」「ふキ用又平画」衝立「波図」「又平画」         三冊目 署名なし     ◯「文政十二己丑日記」②52 三月十二日(『馬琴日記』巻二)   〝(板元)大坂や半蔵来ル。(中略)画工国貞事、其外用談・雑談等、長座及数刻、夕方帰去〟    〈国貞は当時『近世説美少年録』の挿絵を担当していた〉     ◯「文政十二己丑日記」②53 三月十四日(『馬琴日記』巻二)   〝(板元)大坂や半蔵来ル。画工国貞事未致決着候よしにて、彼是物語に及び、其後帰去〟    〈板元大坂屋半蔵と国貞との間に何事か問題が生じているらしい〉     ◯「文政十二己丑日記」②72 四月十七日(『馬琴日記』巻二)   〝(大坂屋半蔵来訪。『近世説美少年録』)さし画の事、板木師原吉ヲ以、尚又、国貞えかけ合せ候処、    画料引にて不承知のよしニて、画稿返し遣候よし。今日、原吉、尚又本所え罷越、かけ合可申旨申よし    ニ付、左候ハヾ無用に可致、外画師へかゝせ可然旨、談じ遣す〟    〈原吉は板木師原田吉十郎。この人物が国貞のもとへ挿画を催促に行ったところ、国貞は画料引を(引き下げか)承知     せず、馬琴の画稿を返してよこしたのである。馬琴は他の画工の起用に傾いている〉     ◯「文政十二己丑日記」②74 四月廿一日(『馬琴日記』巻二)   〝画工国貞一義ニて、是迄絵は一丁も出来かね候に付、其談、きびしく口上書を以、申遣す〟    〈「美少年録」の事態は膠着したままのようである〉      ◯「文政十二己丑日記」②75 四月廿三日(『馬琴日記』巻二)   〝大坂屋半蔵来ル。過日申遣候画工之事也。其後、原田吉十郎を以、国貞方へ両三度かけ合候処、とかく    決着いたしかね候間、乃断候。然ル処、英泉義も、石魂録後集画せ候節、義絶同様之手紙差越候ニ付、    今更たのミ候事難儀の趣、申之。いづれ花山方、北渓事問に遣し、かけ合之上、何レとも取極可申間、    四五日見合せ可然旨、及相談〟    〈大坂屋半蔵は国貞を断念する。しかし何が原因かよく分からないが、大坂屋は英泉とも『松浦佐用媛石魂録』後編     (文政十一年(1828)刊)で義絶状態にあり、今更頼み難いとする。そこで北渓の起用を考えたようである。ただどう      して花山こと渡辺崋山経由で問い合わせるのか、不思議である〉     ☆ 文政年間(1818~1829)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(文政年間刊)    歌川国貞画『狂歌芝居百首』一冊 歌川国貞画 諫鼓堂編 鈍々亭版    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(文政年間刊)    歌川国貞画    『春夏秋冬/色之詠』四冊 歌川国貞画 文政頃刊     (注記「春の部夏の部の改題本に「逢妓の婦◎」あり、日本艶本目録(未定稿)等による」)    『三国女夫意志』三巻 婦喜用又平画 悪疾兵衛景筆作 文政末頃刊     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『泉湯新話』三冊 不器用亦平画 何寄実好成作 文政年間刊     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『夜光玉』 三冊 婦喜用又平画 悪疾兵へ景筆作 文政末頃刊     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    国貞画「子供行列」「国貞画」板元未詳 文政~天保頃 ⑥     ◯「日本古典籍総合目録」(文政年間刊)   ◇人情本    歌川国貞画    『沖津白波』歌川国貞画 鶴屋南北作    『恐可誌』 歌川国貞画 東里山人(鼻山人)作    ◯『柳多留』   1 国貞も下女が面には筆を捨て 「柳多留101」文政11【川柳】      注「あまりのひどさに」〈絵にも描けない美しさとは間逆〉   2 国貞の名画ひゐきの評(ママ)具物 「柳多留102」文政11【川柳】   3 似顔画き羅漢の横つらに住み 「柳多留108」文政12【川柳】     〈羅漢寺は本所五ツ目。亀戸に転居するまえの国貞である〉    〈国貞は似顔絵の名人。必ずしも役者だけでなく、後年には山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・     烏亭焉馬などの戯作者と、北斎・一陽斎豊国および自身の肖像をも描いている。『戯作六家撰』〔燕石〕②92(岩本     活東子編)〉  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝錦絵 うつくしく書たる江戸のにしき絵はこれもむさしの国貞の筆〟    〈「錦絵」の中で絵師の名が登場するのは国貞ひとり。刊年未詳だが選者の没年等を考慮して文政と天保の間に入れた〉  ☆ 文政~天保  ◯「【江戸】戯作画工【次第不同】新作者附」東邑閣 辰正月〈文政3年・天保3年か〉   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (番付中央 行事・勧進元に相当するところ)   〝梅鉢紋 葛飾北斎 飛田財蔵 歌川豊国〟   (番付上段 東方)    〝新画工作者之部      画工 歌川豊国  同  蹄斎北馬  同  盈斎北岱  同  歌川国貞  作者 曲亭馬琴     羽栗多輔     画工 北斎◎◎〟    〈刊年等については本HP・Topの「浮世絵師番付」参照のこと〉  ☆ 天保元年(文政十三年・1830)     ◯「合巻年表」(天保元年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     二編(画)国貞  (著)種彦 鶴屋喜右衛門板     三編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『紅白菊蝶の曲舞』 (画)五渡亭国貞(著)柳泉亭種正作 柳亭種彦校合 蔦屋吉蔵板    『代夜待白女辻占』 (画)歌川国貞 (著)曲亭馬琴 西村屋与八板    『傾城三国志』 初編(画)五渡亭国貞(著)墨川亭雪麿 佐野喜兵衛板    『風流列女伝』 二編(画)五渡亭国貞(著)墨川亭雪麿 山本平吉板    歌川国貞画〔早大〕    『恵土錦廓春風』「五渡亭国貞画」「香蝶楼国貞画」            市川三升口授 五柳亭徳升作 和泉屋市兵衛    『浮世源氏絵』 初編 歌川国貞画 山東京山作    歌川国貞画〔目録DB〕    『誂染遠山鹿子』初編 歌川国貞画 柳亭種彦作 山本平吉板    『昔同今物語』 歌川国貞画 鶴屋南北作     ◯「日本古典籍総合目録」(天保元年刊)   ◇人情本    歌川国貞画『玉川日記』六・七編 歌川国貞画? 為永春水画     ◯「艶本年表」(天保元年刊)    歌川国貞画    『風俗三国志』色摺 半紙本 前後編六冊「不器用又平画」悪疾兵衛景筆(二世烏亭焉馬)作 天保元・三年〔白倉〕           前編見返し「不器用又平妙画」扉「壬辰春 色顛山人」〔日文研・艶本〕           〈〔日文研・艶本〕の前編は壬辰(天保3年)刊の改刻本〉  ☆ 天保二年(1831)    ◯「絵本年表」(天保二年刊)    歌川国貞画    『劇場一観顕微鏡』下帙二冊 肖像東都香蝶楼歌川国貞画 黙々漁隠著 鶴屋喜右衛門板(上帙は天保元年刊)〔漆山年表〕    『於染久松色読販』絵入根本 五冊 歌川国貞画 鶴屋南北作 鶴屋喜右衛門他板〔目録DB〕    ◯「絵入根本」(「絵入根本の世界」大阪市立図書館・第50回大阪資料・古典籍室1小展示資料)   ◇絵入根本(天保二年刊)    歌川国貞画『於染久松色読販』六冊 歌川国貞画 四世鶴屋南北作     (解説「上方出版の多い絵入根本の中で作者も画工も江戸で出版だけが大坂である」とある)     ◯「合巻年表」(天保二年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     四編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     五編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『小野小町浮世源氏絵』二編(画)国貞  (著)京山   森屋治兵衛板    『苅萱桑門筑紫廼写絵』  (画)歌川国貞(著)立川焉馬 蔦屋吉蔵板    『昔々歌舞妓物語』二日目 (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 西村屋与八板    『小町紅牡丹隈取』 (画)歌川国貞 (著)鶴屋南北  和泉屋市兵衛板    『傾城三国志』 二編(画)五渡亭国貞(著)墨川亭雪麿 佐野屋喜兵衛板    『怪談鳴見紋』(画)五渡亭国貞(著)鶴屋南北 山本平吉板(十五ウ「香蝶楼国貞」)    歌川国貞画〔早大〕    『戯場稿本当現建』初二編 梅蝶楼国貞画 立川焉馬作 西村屋与八板     『合物端歌弾初』歌川国貞画 笠亭仙果作・柳亭種彦校 鶴屋喜右衛門板    『浮世源氏絵』 二編 歌川国貞画 山東京山作    『今昔虚実録』 歌川国貞画 桜川慈悲成作    歌川国貞画〔目録DB〕    『世話字綴三国誌』歌川国貞画 墨川亭雪麿作 山本平吉板    『傾城気質夜梅川』歌川国貞画 市川団十郎作・五柳亭徳升代作 山口屋藤兵衛板    『月廼夜神楽』二編 国貞?国芳?英泉? 市川三升作・五柳亭徳升代作     ◯「咄本年表」〔目録DB〕(天保二年刊)    歌川国貞画『十二支紫』香蝶楼国貞 文雍画 三笑亭可楽作 山口屋板    ◯「日本古典籍総合目録」(天保二年刊)   ◇歌舞伎    歌川国貞画『声色早合点』一冊 五渡亭国貞画 五柳亭徳升作     ◯『馬琴書翰集成』②26 天保二年四月二十六日 殿村篠斎宛(第二巻・書翰番号-4)   〝度々被仰下候『田舎源氏』、昨日初編・二編四冊、披閲いたし候。なる程、よく出来候。娘子ども御歓    び候も、ことわりニ御座候。車あらそひのやつし、国貞画大出来也。藤壺をまことの不義にせぬも、大    ニよし。しかし、まつたく合巻に限るすぢにて、件々糾せバ埒もなき事のミ御座候。(中略)義太夫ぶ    しの略文也。まつたく合巻物の体裁にあらず。これも新奇といハヾいふべし。古人京伝にくらべ候へバ、    その才十段も下ニ候処、これが只今の戯作者の一大家に候ハヾ、才子ハなきもの也と、一嘆息いたし候    事ニ御座候。(中略)国貞の画、尤妙ニ御座候。種彦ハ画わり出来不申候故、人物の所◯(ママ)斗画キ、    画工の心まかせに画せ候よし。それ故歟、拙作を画せ候より、十段もよろしく御座候。あの手際にてハ、    よミ本のさし画などハ、いよ/\宜しかるべきに、よミ本のさし画をゑがゝせ候へバ、十段も劣り候。    合巻ハ、紙中せまく候上、筆工を書入候故、よく画がしまり申候。さし画ハ其義なく、且人がらも格別    のもの故、さし画はわろく御座候。国貞ハ、只今合巻の画において、一大家といひつべし〟    〈『偐紫田舎源氏』の国貞画の見事さは、作者柳亭種彦が画工国貞の意に任せたところからくると、馬琴は考えている。     「拙作を画せ候より、十段もよろしく御座候」。しかし馬琴にはそれが出来ない。自らの画稿を画工に与えて決して     「画工の心まかせに」はしないのである。馬琴は作品の隅々まで自分の望んだものが実現されていなければ我慢でき     ない。(実際には思うようにならず、結局妥協せざるをえなくなり、嘆くことが多いだが)再三にわたる校正は無論     のこと、板元の不手際に愚痴をこぼし、筆工にこだわり、画工の遅筆にいらだち、悪しき彫りに憤慨し、摺りにも細     かい注文を出す、人任せに出来ない性分なのである。しかし「画工の心に任せた」国貞の合巻は別格であった。「国     貞ハ、只今合巻の画において、一大家といひつべし」と、その技量を高く評価していた。ところが読本挿絵の方はそ     うはいかない。国貞が合巻に見せるその手際の良さで、読本の挿絵に取り組んだなら、さぞかし見事なものが出来あ     がるだろうに、と多少皮肉を込めて馬琴は云う、しかし生憎そうはならない、それどころか「十段も劣り候」という     ていたらくである。読本挿絵における、馬琴の国貞評価は甚だ低いのである。確かに馬琴作・国貞画は圧倒的に合巻     の方が多い。もっとも読本がないではない。文政十二年(1829)の『近世説美少年録』初編(二編以降は北渓画)、天     保五年(1834)の『開巻驚奇俠客伝』三集は国貞画ある。また『近世説美少年録』の続編にあたる『玉石童子訓』弘化     二年(1845)~四年は豊国(国貞)画である。ちなみに国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」によれば、馬琴作     ・国貞画の作品数は27点、そのうち読本は上記3点、あとは24点全て合巻である。馬琴は読本においては国貞起     用に積極的でなかったのである。ただこれは馬琴に限らない。「日本古典籍総合目録」は豊国三代(国貞)の合巻3     61点に対して、読本は僅か9点にしかすぎない。国貞といえば合巻というのが当時の定評なのであった〉     ☆ 天保三年(1832)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(天保三年刊)    歌川国貞画『追善瀬川ぼうし』二巻 香蝶楼国貞・一勇斎国芳画 琴通舎英賀著 鶴屋喜右衛門板     ◯「合巻年表」(天保三年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     六編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     七編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『花街雀竹夜遊』前帙(画)歌川国貞(著)笠亭仙果作 柳亭種彦校合 鶴屋喜右衛門板    『菊寿童霞盃』(画)五渡亭国貞(著)山東庵京山 山本平吉板    『傾城三国志』(画)香蝶亭国貞(画)墨川亭雪麿 鶴屋喜右衛門板     (表紙の画工担当)    『つれつれ草玉盃』歌川国芳画 表紙 国貞 山東京山作    歌川国貞画〔目録DB〕    『奇妙頂礼地蔵道行』歌川国貞画  柳亭種彦作    『三津瀬川上品仕立』歌川国貞画  柳亭種彦作    『勧善五常の玉』  歌川国貞画  緑亭川柳作    『向人廓山彦』   五渡亭国貞画 坂東簑助作 浜村輔代作 山口屋藤兵衛板    『妖狐天網島』   歌川国貞画  立川焉馬作 和泉屋市兵衛板     ◯『噺本大系』巻十六「所収書目解題」(天保三年刊)    歌川国貞画『十二支紫』「香蝶楼国貞画」三笑亭可楽作 山口屋板(表紙は一勇斎国芳、挿絵は他に文雍)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB画像〕(天保三年刊)    歌川国貞画    『瀬川ぼうし』 二冊 香蝶楼国貞・一勇斎国芳・北渓画 琴通舎英賀著 鶴屋喜右衛門板     (角書【瀬川五代家譜】瀬川家五代の追善集、画像133/134コマに以下の追善句あり     〝姿絵をものする折からに 噂して袖も干かたし春の雨 香蝶楼国貞      筆とるたびに 梅ちるや我持わさの色も香も    一勇斎国芳〟    (45/134コマ、 通環亭真袖の追善歌に国貞画く五代目の団扇似顔絵。「国貞画」)    (73/134コマ、 玉鉾道広の追善歌に北渓の玩具春駒の図。「北渓」)    (88/134コマ、 宝珠亭舟唄の追善歌に似顔絵。「一勇斎国芳画」)    (109/134コマ、梅屋の追善歌に国芳の五代目の扇面似顔絵。「一勇斎国芳画」)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保三年刊)    歌川国貞画『秋の七種』色摺 半紙本 三冊 「婦喜用又平」序「◎(ボボ)山人」(桃華園三千麿)    ◯「日本古典籍総合目録」(天保三年刊)   ◇歌舞伎    歌川国貞画    『芝居細見三葉草』三冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬二世作 森屋治兵衞・山口屋藤兵衞 正月刊    『三升花八代集』 一冊 歌川国貞画  立川焉馬二世作    『声色早合点』  二編 五渡亭国貞画 五柳亭徳升作 西村屋与八他板     ◯『馬琴書翰集成』天保三年正月廿日    ◇篠斎宛、七月朔付書翰(二巻・書翰番号-38)②165   〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日    より早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝ    うれ捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口    屋藤兵衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六    等、一向うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、    二万三万づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大    問屋にてハ、ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候    を、反故同様に田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合    巻類ハほねを折るは無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)    をさし候亡者のにしき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御    座候。ヶ様之事を聞候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟     〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟     ◇桂窓宛、七月朔付書翰(第二巻・書翰番号-40)②172   〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六    万枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本    残り、困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座    候。多くハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かく    のごとくうれ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟    〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が婦女子、特     に武家の奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じくする合巻や道中双六に     及んだという、馬琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、享年五十七才。瀬川菊之丞は天保     三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に     数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
   一勇斎国芳画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」  歌川国安画「坂東三津五郎」「瀬川菊之丞」    (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)       (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p130   〝天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と    号す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん〟     ☆ 天保四年(1833)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保四年刊)    歌川国貞画    『大当【国貞画】声色』三編 一冊 香蝶楼国貞 五柳亭徳舛序 西村屋与八板    『役者必読妙々痴談』 二冊 国貞風ノ画 三芝居士口授 玉紅老人編    『役者妙々後夜の夢』 二冊 国貞風ノ画 三芝居士論    『妙々痴談返註録』  二冊 五渡亭国貞画 烏亭主人 小善斎蔵版    『返咲浪花の裡梅』  一冊 歌川国貞画 立川焉馬 西村屋与八板    『俳優畸人伝』初二編 四冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬述 山口藤兵衛板    『さんばそう』 二冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬撰 森屋治兵衛他板    ◯「合巻年表」(天保四年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『肱笠雨小春空癖』     前帙(画)国貞(著)笠亭仙果作・柳亭校 西村屋与八板     後帙(画)国貞(著)笠亭仙果作・柳亭校 西村屋与八板    『偐紫田舎源氏』     八編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板<     九編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板     十編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板    『傾城三国志』三編下帙(画)香蝶楼国貞 (著)墨川亭雪麿 鶴屋喜右衛門板     (表紙の画工担当)    『五節供稚童講釈』後編 一二冊 歌川国芳画 三四冊 歌川国安画 表紙 国貞 見返し 京水画 山東庵京山作    『殺生石後日怪談』五編三~四 国安画 表紙 国貞 馬琴作    『七奇越後砂子』上冊国安画 中冊泉晁画 下冊五雲亭貞秀画 表紙 国貞 墨川亭雪麿作      (備考「本書が四人の画工によって画かれているのは、天保三年七月六日に国安が没したことによるもので、見返       しの表示は三冊とも国安画となっている」)    『霞帯〆如月』 歌川国安画 表紙 国貞 五柳亭徳升作    歌川国貞画〔早大〕    『吾妻花所縁裲襠』香蝶楼国貞画 式亭虎之助作 山本平吉     (表紙の画工担当)    『鏡山故郷の錦絵』歌川豊国画 表紙 国貞 見返し「豊国画」巻末「歌川国貞画」柳亭種彦作〈この豊国は二代目〉    歌川国貞画〔目録DB〕    『忠臣蔵替伊呂波』初編 香蝶楼国貞画 墨川亭雪麿作  ◯「国書データベース」(天保四年成稿)    墨川亭雪麿作『絵本仮名手本忠臣蔵』歌川国貞画 天保四年二月十五日雪麿序    表紙「天保四癸巳仲春 山本平吉板」(書誌:林若樹旧蔵 版下本)    〈画工未確認。明治42年の「集古会」に出品した林若樹の記事には画工名がない〉    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」(天保四年刊)    歌川国貞画『延命養談数』見返・巻末「香蝶楼国貞画」巻末「国貞画」桜川慈悲成作 山本板    ◯「日本古典籍総合目録」(天保四年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『人間万事虚誕計』後編 香蝶楼国貞画 滝亭鯉丈作     〈前編は式亭三馬作・歌川国直画で文化十年刊〉   ◇歌舞伎(天保四年刊)    歌川国貞画    『返咲浪華の裡梅』一冊 歌川国貞画 立川焉馬二世作 西村屋与八板    『声色早合点』  三編 五渡亭国貞画 五柳亭徳升作 西村屋与八他板    ◯「国書データベース」(国文学研究資料館)   ◇歌舞伎(天保四年)    歌川国貞画『芝居細見三葉草』三冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬二世作 森屋治兵衞・山口屋藤兵衞 正月刊            (上・中村座 中・市村座 下・森田座)     ◯「天保四年癸巳日記」③324 二月九日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。よミ本稿出来候哉ト問ん為也。俠客伝三集一の巻、本文半分程出来のよ    し申聞、(中略)画工ハ国貞ニ可致旨も、及示談。俠客伝二集、大坂ニてハ正月廿五日ニうり出し候よ    し。江戸ハ製本弐百五十部うり畢。此節(一字ムシ)百部仕入候よし也〟    〈昨年末十二月十七日記事では、故柳川重信のあと、『開巻驚奇俠客伝』の画工として、板元丁子屋は蹄斎北馬の起用     を考えていたようであったが、馬琴の意向もあったのだろう、結局国貞に落ち着いた〉     ◯『馬琴書翰集成』③34 天保四年三月八日  殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-11)   〝(『俠客伝』三集)画工は国貞ニいたし候〟    〈『開巻驚奇俠客伝』の初集(天保三年刊)は渓斎英泉画。二集(天保四年刊)は柳川重信。そして三集(天保五年刊)     は昨年閏十一月死去した重信に代わって歌川国貞が担当することになった。昨年末、板元丁子屋は北馬を推薦したの     であったが、恐らく馬琴が難色を示したのであろう。結局、国貞に落ち着いた。しかし馬琴は読本の国貞をあまり高     く評価していない。とするとネガティブな起用ではあろうが、では国貞に代わる画工が他にいるかと問われれば、北     斎以外にないのであるが、彼を起用できない以上、いるはずもないのである〉     ◯『馬琴書翰集成』③51 天保四年(1833)四月九日 河内屋茂兵衛宛(第三巻・書翰番号-14)   〝(「俠客伝」三集)画工国貞、二月下旬より団扇の画、并ニ役者にしき画、こみ合居候よしニて、今以    さし画ハ一枚も出来不申候。さて/\はり合なく、こまり申候〟    〈当時、国貞は役者似顔絵の第一人者。錦絵の注文が混み合い、読本挿絵に支障が出始めたのである。板元からすると、     錦絵の方が経済的効率は高い。昨年の正月を振り返ってみると、ひと月足らずで役者の死絵が三十数万枚も出る時世     である〉     △『近世物之本江戸作者部類』p204(曲亭馬琴著・天保五年成立)   〝(天保)四年【癸巳】俠客伝第三集五巻を綴る。この稿本三四月の比成就したるに、画工国貞が出像遅    滞の故に甲午の春正月五日発兌す〟    ◯『馬琴書翰集成』③57 天保四年(1833)五月朔日 小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-16)   〝『俠客伝』三集五冊、四月八日比迄ニ、不残稿し畢り候。但し、序、惣目録・口画等、壱の口七丁ハあ    とへ残し、いまだ稿し不申候。画工国貞、一向ニさし画出来不申、今に一枚も画キ申候故、張合なく候    間、右七丁ハ、さし画出来の上ト、まづ中入り休ミ致候〟    〈昨年は柳川重信の道楽と春画優先と病没に悩まされ、今年は国貞の役者似顔絵に苦しめられている〉     ◯『馬琴書翰集成』③67 天保四年五月六日 河内屋茂兵衛宛(第三巻・書翰番号-18)   〝『俠客伝』三集ハ、四月上旬、不残書をハり、筆工も五の巻迄、不残出来申候。然ル処、画工国貞より、    今以、さし画壱丁も出来参り不申候故、先ぇより差支ニ可相成哉と、甚心配いたし罷在候得ども、何分    丁平殿旅行ニ付、画工之様子わかりかね候。丁子やぇは、画工へさいそく、無油断いたし候様、折々申    遣し候事ニ御座候〟    〈「丁平」は『開巻驚奇俠客伝』の板元、文溪堂・丁子屋平兵衛。この当時大坂に向かっていた。丁子屋は気むずかし     く時にわがままな戯作者や画工を引き連れて出版まで持ってゆく能力が傑出しているようで、馬琴はその江戸不在を     心配している様子だ〉     ◯『馬琴書翰集成』③68 天保四年五月十一日 河内屋茂兵衛宛(第三巻・書翰番号-19)   〝『俠客伝』三集さし画、本所国貞子方より、今に一枚も出来不参候間、甚心配いたし候。尤、丁子やよ    りも、度々無油断致催促候得ども、いつもおなじ口上ニて出来かね、甚こまり入候よしニ御座候。一体    かの仁、何か気に障り候と、一年も二年も引ずり候事、折々有之候故、此度も、左様之事ニハ無之哉と    存候事ニ御座候。平兵衛殿、在宿ニ候ハヾ、又相談も致し方可有之候得ども、何分ニも旅行中の事ニて、    致し方なく候。もし、丁平殿帰府之比迄も、右さし画出来不申候ハヾ、相談いたしとり戻し、外画工ニ    かゝせ候様ニも可致候。此段、丁平殿着被致ハヾ、御咄し被成可被下候〟    〈国貞「何か気に障り候と、一年も二年も引ずり候事、折々有之候」とある。今を時めく国貞ではあるが、これが通っ     てしまうとは驚きである。今回もそれかと兆す懸念に、さすがの馬琴も処置なしの様子。とはいえ、口絵や挿画なし     には、合巻はいうまでもなく読本でさえジャンルとして成り立たない。常なら丁子屋平兵衛の出番であるが、生憎大     坂行きで不在である〉     ◯「天保四年癸巳日記」③387 五月十六日(『馬琴日記』第三巻)   〝国貞さし画(『開巻驚奇俠客伝』三集)今以未出来ニ付(云々)〟    〈国貞、故柳川重信のあとを引き継いだものの、柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』をはじめ担当作品がたてこんでいる     のか、仕上がりが遅れている〉      ◯『馬琴書翰集成』③71 天保四年五月十六日 殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-20)   〝(「俠客伝」三集挿絵)画工国貞、今以さし画一枚も出来不申候。この画工、当時流行抜群故、勢ひ甚    しく、少しも気に入らぬ事候へバ、一年も二年も引ずり、不画事、毎度有之。先年拙編『白女ノ辻占』    などハ三年引ずり、やう/\出来候事も候へば、此度も、何ぞ板元よりきびしくさいそくいたし、気に    障り候哉と存候得ども、丁平旅行中ニて、様子わかりかね候〟    〈国貞が挿絵の筆を執ろうとしないのは、板元の厳しい催促に臍を曲げたからではないかと、馬琴は見ている。三年も     の間待たされたという馬琴の合巻『代夜待白女辻占』は文政十三年(1830)の刊〉     ◯『馬琴書翰集成』③74 天保四年五月十六日 小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-21)   〝『俠客伝』三集さし画画工国貞、二月中より今以、一枚も出来不参候。此画工、甚流行故、勢ひ甚しく、    少しも気に入らぬ事あれバ、一年も二年も引ずり候。先年、『白女辻占』の画抔も、三年めニてやう/\    出来候事有之。此度も、板元きびしくさいそくでもせし故に、わざとかゝぬ事かと猜し候のミ。丁平旅    行中故、様子わかりかね候。依之、はり合無之候間、同集ハ、さし画の様子次第ニ可致、見合せ候事ニ    御座候〟     ◯「天保四年癸巳日記」③403 六月 九日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子屋平兵衛来ル。(六日、大坂より帰府の由)俠客伝三輯、国貞画延引の義に付、示談数刻〟     ◯『馬琴書翰集成』③81 天保四年七月十三日 殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-22)   〝『俠客伝』三集の画工国貞、一向ニさし画出来不申候。六月上旬、丁子や平兵衛帰府いたし候処、右已    前、同人実母身故いたし、彼是とり紛れうち過、やう/\六月下旬より、壱の巻さし画弐丁、二の巻さ    し画三丁、共に五丁出来。引つゞき画候よしニ候へども、今以、あとハ壱丁も出来不申候。丁平も無油    断催促いたし候よしニ候へども、よみ本のさし画はほねをれ候故、骨の折れぬにづらのにしき画の方、    便利と見え、手古でも動キ不申候間、板元もいたし方なく、一日/\とうち過申候。かゝる勢ひニ候へ    バ、第四集を急ギつゞり遣し候ても、当暮のうり出しニハなり不申候。来年の暮ならでハ、出板成りが    たしとしりつゝ、只今よりつゞり立候も、尤気がなく候故、四集ハ今に一枚も稿し不申候。三集も、口    絵・惣もくろく等ハ、稿し遣し候へども、序ハいまだかゝず候。さればとて、合巻の作ハ、いよ/\い    なに御座候間、一日/\と廃業ニて、何の評のかの評のと、益にもたゝぬ筆ずさみに日をくらし、或ハ    友人ニ被頼候詩歌やら、額字様のものを書候て、つまらぬ月日を送り候なり。『金瓶梅』三集ハ、五月    下旬、四冊分二十丁つゞり遣し、是も国安死去いたし候ニ付、国貞に画をかゝせ候故、今以出来不申候。    これも廿丁切りニて、当年ハ間ニ合申まじく候〟    〈国貞の遅筆には実母の死という事情もあったようだが、馬琴は「よみ本のさし画はほねをれ候故、骨の折れぬにづら     のにしき画の方、便利と見え、手古でも動キ不申候間、板元もいたし方なく、一日/\とうち過申候」と、役者似顔     絵を優先する国貞の姿勢にも原因があると見ている。ともあれ三集の挿画は遅れに遅れ、馬琴の気持ちもうんざりの     様子。このペースでは四集の出版は年内どころか来年の見通し。それではとても筆を執る気にならない。三月、丁子     屋と取り決めた三~四集十冊続き出版など到底無理だというのである。ところで影響は「俠客伝」と留まらない。     『新編金瓶梅』の挿絵も、昨年七月に死亡した画工国安に代わって国貞が担当することになっていた。これも同様に     遅れている。七月十四日付、小津桂窓宛(書翰番号・第二巻-23)③91にも全く同じ記事あり〉     ◯「天保四年癸巳日記」③436 七月廿四日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来ル。予、対面。俠客伝四集稿本、催促也。国貞方、同書三集の絵とかく出来かね候間、    四集は重信婿重政に画せ度よし抔、被申之。并に、美少年録画工北渓事抔、予、示談。そのまゝ同人に    画せ候つもり、示談〟    〈国貞の『開巻驚奇俠客伝』三集は依然として不調である。しかし丁子屋は四集連続出版を諦めず、馬琴に原稿を催促     している。そして挿画の方は柳川重清の婿・重政(二代目重信)の起用を考えていた。なお『近世説美少年録』の画     工北渓についてはそのまま継続である〉     ◯「天保四年癸巳日記」③472 九月十八日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来る。予、対面。国貞画三集口絵残り二丁、昨夜やうやく出来(云々)〟    〈読本『開巻驚奇俠客伝』三集、国貞担当の挿画はすったもんだの末やっと終了した〉     〝芝神明いづミや市兵衛より使札。神明祭ニ付、如例、手製甘酒一重、生姜一把、被遣之。金瓶梅画、国    貞方より当月中出来のやくそくニ付、表紙外題画稿の事頼来ル〟    〈合巻『新編金瓶梅』(泉屋市兵衛板)の画工も国貞であるが、読本『開巻驚奇俠客伝』の挿画ほどの切実さは感じら     れない。ほぼスケジュール通り進行している様子だ。十月十日の日記を見ると「当月中出来のやくそく」は守られな     かったようだが、許容の範囲内なのであろう。やはり国貞は読本が苦手なのであろうか〉     ◯「天保四年癸巳日記」③489 十月十日(『馬琴日記』第三巻)   〝芝神明前いづミや市兵衛来ル。予、対面。合巻物金瓶梅、画廿丁之内、十丁やうやく昨日、国貞より出    来のよしニて、今日、筆工金兵衛方ぇ遣し候よし也〟    〈「やうやく」とあるところをみると、国貞の挿画は「俠客伝」だけでなく『新編金瓶梅』の方にも、曲折があったの     だろう〉       ◯『馬琴書翰集成』③108 天保四年十一月六日 殿村篠斎宛(第三巻・書翰番号-27)   〝『俠客伝』三集のさし画、やう/\九月十八日ニ出来揃ひ、夫より彫刻差急ギ、此節追々ほり出来、い    まだ揃ひ不申候得ども、十一月一日より校合ニとりかかり罷在候。十二月中旬下旬迄ニハ、ぜひ/\出    板可致候〟       〝同書(「俠客伝」)四集ハ、八月中旬より稿本ニ取かゝり、これも引つゞき、来正月中旬迄ニ、ぜひ/\    うり出し度よし、丁子や平兵衛達て願ひ出候間、任其意、赤中より昼夜出精いたし、十月廿九日ニ四集    五冊、不残稿本出来いたし、筆工ハ両人ニて、半冊づゝ引わけ、書せ候故、書画板下と稿本と、半冊ち    がひニて同時ニ出来、手廻し尤神速ニ候処、大坂板元河茂より急状到来、十二月中うり出しニ不成候て、    正月うりニ成候てハ、捌あしく御座候間、大延しにいたし、四集ハ明々年未正月二日うりニ致し度よし、    申来候。是ニて秋中よりの出精、画餅ニ成候故、五集の作ハ断候て、已来かゝぬつもりニ、書状大坂ヘ    出し候〟       〝『金瓶梅』ハ、画工国貞故、夏中より引ずらせ、やう/\十月ニ至り、画写本出来ニ付、十二月下旬な    らでハ出板致まじく候〟    〈国貞の遅筆の他に大坂板元河内屋茂兵衛と江戸板元丁子屋平兵衛との出版方針の相違が、馬琴の創作意欲に悪影響を     与えているのである〉     ◯「天保四年癸巳日記」③472 九月十八日(『馬琴日記』第三巻)   〝丁子や平兵衛来る。予、対面。国貞画三集口絵残り二丁、昨夜やうやく出来(云々)〟    〈読本『開巻驚奇俠客伝』三集、国貞担当の挿画はすったもんだの末やっと終了した〉     〝芝神明いづミや市兵衛より使札。神明祭ニ付、如例、手製甘酒一重、生姜一把、被遣之。金瓶梅画、国    貞方より当月中出来のやくそくニ付、表紙外題画稿の事頼来ル〟    〈合巻『新編金瓶梅』(泉屋市兵衛板)の画工も国貞であるが、読本『開巻驚奇俠客伝』の挿画ほどの切実さは感じら     れない。ほぼスケジュール通り進行している様子だ。十月十日の日記を見ると「当月中出来のやくそく」は守られな     かったようだが、許容の範囲内なのであろう。やはり国貞は読本が苦手なのであろうか〉       ◯「天保四年癸巳日記」③489 十月十日(『馬琴日記』第三巻)   〝芝神明前いづミや市兵衛来ル。予、対面。合巻物金瓶梅、画廿丁之内、十丁やうやく昨日、国貞より出    来のよしニて、今日、筆工金兵衛方ぇ遣し候よし也〟    〈「やうやく」とあるところをみると、国貞の挿画は「俠客伝」だけでなく『新編金瓶梅』の方にも、曲折があたのだ     ろう〉       ◯「天保四年癸巳日記」③493 十月十四日(『馬琴日記』第三巻)   〝芝泉市より使札。過日申遣し候金瓶梅三集外題の画の事、国貞存寄にて、荒物ニ付、おれん・啓十郎二    人並ニいたし候てハいかゞ可有之候哉、予に問候様、被申候よし也。然ども右男女は悪人也。悪人のミ    外題へあらハし候事、勧懲の為、不宜とて、悪ませて画せ候様、返翰ニ申遣ス〟    〈国貞が外題画を「おれん・啓十郎」の二人並びにしてはどうかと提案した。それに対して、悪人を外題にするのは勧     善懲悪の趣旨に悖るとして宜しからずと、馬琴は回答したのである〉    ◯『馬琴書翰集成』③117 天保四年十一月六日 小津桂窓宛(第三巻・書翰番号-28)   〝『金瓶梅』三集合弐冊、当夏中より画工国貞ニて引ずられ、十月上旬、やう/\右の画出来、それより    急ニ筆工へ廻し、五七日已前、やう/\一弐終り、只今ほり立申候。これハ、十二月おしつめならでハ    出板致まじく、御地ぇは正月廻り可申候〟             〝『俠客伝』三集、画工国貞ニて幕支候趣、先便得貴意候処、やう/\九月十八日ニ至り、さし画・口絵    共、不残出来(中略)当冬出板、心もとなく存候処、丁平よほどきびしく画工へさいそくいたし、夫故    九月中旬迄ニ、画ハ不残来候得ども、画工と絶交同様之間がらニ相成り、うすゞみ・つや墨・色ざし、    ふくろ・とびら等の画もやうハ、別画工・今ノ柳川ニ画せ候〟    〈『俠客伝』三集の年内決着を目指す板元丁子屋は、流行絵師国貞と「絶交同様の間がら」になりながらも厳しく催促     して何とか間に合わせる見通しをつけた〉       ◯『江戸現存名家一覧』〔人名録〕②309(天保初年刊)   〝東都画 池田英泉・鳥居清満・立斎広重・勝川春亭・葛飾北斉(ママ)・歌川国貞・歌川国芳・歌川国直・        柳川重信・柳川梅麿・葵岡北渓・静斎英一〟         ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③305(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「歌川豊国」の項
   「一陽斎豊国系譜」〝初代豊国門人 国貞 俗称別記ニユヅル〟      ◇「歌川国貞」の項 ③308   〝歌川国貞【文化二年頃ヨリ天保ノ今ニ至ル】     俗称庄五郎、居本所五ッ目、後亀井戸ニ住、姓(空白)、武州葛飾郡西葛西領産、号一雄斎、一ニ五     渡亭、樹園、数号アリ、天保四年ヨリ英一蝶    国貞は本所五ツ目渡し場に住り、依て五渡亭の号有り、【蜀山人此号ヲ贈リシト云】自ら若年の頃より    浮世画を好みて、師なくして役者絵を画り、豊国門人と成、始て監本をあたへしに、浄書を見て豊国驚    しと云り、豊国が門に入り、程なくして、文化の始め、【二三年ノ比】草双紙の板下を画けり、【山東    京伝作、始メテノ作ナリ、国貞始テノ画ナリ、妹背山ト云、江戸屋ノ板】其より年毎に画く、錦絵は、    中村歌右衛門大坂より下りし比【在原系図梅若狂言、切狂言於旬伝兵衛猿廻シ堀川ノ段ヲ勤ム、二番目    狂言富岡志山開出村玉屋新兵衛ノ狂言、是歌右衛門ガ目見ヘ狂言ニテ、カハリ千本桜、古今マレナルア    タリナリ】数品を画て発市す、【馬喰町西村与八板元】団扇絵【歌右衛門猿廻シ与次郎ウチハ絵ヲ初テ    画シ也】草双紙大いに行れて、おさ/\師豊国におとらず、一時聞人となり、今一家をなせり、画風は    豊国の骨法を学得たり、後に一流の筆意を以て、一蝶、嵩谷が筆法を慕へり、師歿して後、いよ/\自    立して、浮世絵、役者似顔画に名高く、数百部の、合巻、草双紙を出せり、読本は二三部に過ず、画手    本の類は未出ず、当世の風俗を写すに妙ある事、よく豊国の画則を学び得たり、当時の名手と云べし、    門人多し、委き伝は別に誌す      絵本役者夏の富士      役者似顔早稽古     其他、枚挙するに遑あらず
   「一雄斎国貞系譜」      按るに、近頃、国貞は英一蝶の画印を用るを度々見たり、五渡亭国貞と画名を書き、花押は英一蝶とあ    り、いかなる事にや、嵩谷の裔嵩凌とか云人の門に入て、故人の名跡を望むことにや、役者似顔の錦絵    には似付かぬ画名を慕し事なり〟    〈英一蝶は英一螮の誤記か〉    ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②92(岩本活東子編)   (五渡亭国貞の項)〝天保四巳年、嵩谷の画裔嵩凌が門に入りて、英一螮とも号す〟    〈国貞の英流への入門は天保四年(1833)、師は高嵩凌であった〉     ☆ 天保五年(1834)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保五年刊)    歌川国貞画    『笑門春徳和歌』一冊 宝田千町画  表紙国貞画 山口屋藤兵衛板    『三芝居細見』 一冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬序 山口屋藤兵衛板    ◯「合巻年表」(天保五年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『其裏梅真砂白浪』     初編(画)香蝶楼国貞(著)中村芝翫 竹内孫八板     二編(画)香蝶楼国貞(著)中村芝翫 竹内孫八板    『偐紫田舎源氏』     十一編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十二編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十三編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『邯鄲諸国物語』      初編(画)歌川国貞 (著)柳亭種彦 西村屋与八板     二編(画)歌川国貞 (著)柳亭種彦 西村屋与八板    『恋山崎妹背相駕』画)香蝶楼国貞(著)式亭小三馬 鶴屋喜右衛門板    『昔語尾花振袖  画)歌川国貞 (著)中村芝翫 山口屋藤兵衛板    『新編金瓶梅』三集 表紙「香蝶楼国貞画」(著)馬琴 和泉屋市兵衛板     (表紙の画工担当)    『宇治拾遺煎茶友』青蔦亭泉晁画 表紙 国貞画 墨川亭雪麿作    『巳成鐘響数千里』歌川国直画  表紙 国貞画 墨川亭雪麿作    『絵本曾我物語』 一遊斎重政画 表紙 国貞画 南仙笑楚満人作    歌川国貞画〔目録DB〕    『若衆哉梅之枝振』   歌川国貞画 柳亭種彦作    『浮世々説』      歌川国貞画 柳亭種彦作    歌川国貞画〔早大〕    『夜討曾我人形製』前編 歌川国貞画 三亭春馬作 山本平吉板     ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保五年刊)    歌川国貞画『開巻驚奇俠客伝』三集 国貞画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(天保五年刊)    歌川国貞画『狂歌忠臣蔵』二冊 国貞・英斎画 鶴廼屋等編    ◯「日本古典籍総合目録」(天保五年刊)   ◇滑稽本    歌川国貞画『口上茶番早合点』一冊 歌川国貞画 五柳亭徳升作 川口宇兵衞板   ◇歌舞伎    歌川国貞画『芝居細見三葉草』三冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬二世作 森屋治兵衞・山口屋藤兵衞 正月刊  ◯「日本経済新聞」「夕刊文化」2011/2/1日、夕刊記事    天保五年八月十六日 両国柳橋・河内屋にて、花笠文京主催、浮世絵師の「画幅千枚かき」書画会    参加絵師、香蝶楼国貞・一勇斎国芳・渓斎英泉・歌川豊国・前北斎為一    (被災した花笠文京を支援するための書画会)
   画幅千枚がき(引札)  ◯『馬琴日記』第四巻 ④248 天保五年十一月十五日付   〝いづみや市兵衛来ル(中略)金瓶梅稿本、折あしく打身等ニて、出来かね候間、当暮出板の間に合(ママ)、き    のどくニ存候へども、しばらく用捨いたし、来冬出板のつもりニいたし可然旨、委曲示談。(中略)并に過    日、国貞より出来の金瓶梅の画ハ、国貞筆に書候も、門人代画なるべく存候事抔、件々示談。泉市、大ニ望    を失ひ、帰去〟    〈和泉屋市兵衛は合巻『新編金瓶梅』の板元。それでも来春の出版に向けて馬琴に再三催促し、馬琴も〉    ☆ 天保六年(1835)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天保六年刊)    歌川国貞画『俳優三十六花撰』一冊 香蝶楼歌川国貞画 北渓図 柳亭種彦序 文栄堂板     ◯「合巻年表」(天保六年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     十四編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十五編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十六編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十七編(画)国貞  (著)種彦   鶴屋喜右衛門板    『其裏梅真砂白浪』三編(画)香蝶楼国貞(著)中村芝翫・市村羽左衛門 竹乃うち板    『歌祭文縁合弾』   (画)香蝶楼国貞(著)式亭小三馬 山本平吉板    『怪譚桂の河浪』   「五渡亭国貞画」(著)林屋正蔵  西村屋与八板    『邯鄲諸国物語』 三編(画)歌川国貞 (著)柳亭種彦 西村屋与八板     (表紙の画工担当)    『つれつれ草日くらし硯』国よし画  表紙 国貞 京山作    『復讐曲輪達引』    歌川国芳画 表紙 国貞 山東京山作      (備考、文化五年刊『伉俠双蛺蝶』(山東京伝作・歌川豊国画)の改題改刻本)    『銀金具蝶対鋲』    貞斎泉晁画 表紙 国貞 墨春亭梅麿作    歌川国貞画〔目録DB〕    『賑式亭福ばなし』香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    『花兄魁草紙』  香蝶楼国貞画 立川焉馬二世作 山口屋藤兵衛板    歌川国貞画〔早大〕    『倭字筆乃寿』 「五渡亭国貞画」曲亭馬琴作 森屋治兵衛板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保六年刊)    歌川国貞画『俳優三十六歌仙』一冊 国貞画 三世落栗庵 文栄堂版    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(天保六年刊)    歌川国貞画『俳風狂句百人集』俳諧師肖像 扉「歌川国直画」〔跡見1894〕    (四世川柳肖像)「国貞写」宝玉庵三箱編 文英堂 天保六年刊  ◯「芝居番付画像データベース」(東京大学文学部所蔵資料デジタル画像・歌舞伎関係資料)   ◇絵本番付(天保六年刊)    歌川国貞画 九月 市村座「仮名手本忠臣蔵」「此所応需 国貞」     ◯「艶本年表」(天保六年刊)    歌川国貞画〔白倉〕    『寿栄志らが女夫久舎』色摺 半紙本 三冊「婦喜用又平」画 東園明景筆作 天保六年     (内題『寿栄白髪女夫草』白倉注「上巻第三図「女夫ぐさ」は吉原の大店の内部を吹抜屋台図に描いていて貴重」)    『春画/五十三次』小錦 五十六枚組物「不器用亦平」天保六年     (白倉注「これらの小判には、中判を四ッ切にしたもの、大判を八ッ切にしたものとがあって、それぞれ一丁がけに      摺って裁断する。また美濃判を六ッ切にしたものがあって、これはほとんど正方形に近い」)     『吾妻花恋の細見』色摺 中本 一冊 不明 国貞画 天保六年頃    歌川国貞画〔日文研・艶本〕    『艶紫娯拾余帖』色摺 大本三冊 天保六年頃      一冊目「月」見返し「做信実朝臣筆意 婦器用又平画〔浮世絵師/富時弟一◎〕」            艶紫娯拾餘帖 金勢堂開板            序「顕春宵秘戯図 琴臺翁〔東條耕印〕◎◎書〔◎◎◎〕」      二冊目「雪」(衝立画「藤図」落款「婦㐂用又平画(瓢簞に「ナマズ」)」)      三冊目「花」(衝立画「竹図」落款「◎蝶子又平画」     ◯『異聞雑考』〔続燕石〕②257(滝沢馬琴・天保六年閏七~八月記事)   (「猩々小僧」髪毛・眉毛・睫の赤い兄弟の記事)   〝当時、歌川国貞が画にて、この兄弟の肖像を板せし錦画出しかば、予も四五枚買とらして、遠方なる友    人がり贈り遣はしたりき〟      ◯『甲子夜話 三編2』巻十八 p84(松浦静山・天保六年閏七月記)   (松浦静山、絵師を遣わし、赤髪の兄弟、猩寿・猩美の肖像を写さしむ)   〝嚮(サキ)に人を遣はして赤髪童を写させたるとき、返(カヘリ)告るには、我より先に画工国貞〔世に謂ふ浮    世絵かきなり。江都の市中に住す〕来りゐて、かの童の真を写す。これは町奉行なるが、窃(ヒソカ)に命    じて、町年寄の手より肖像を描て呈覧すと。定めし是は輪門水府などの覧(ミ)らるべきに就ての、下地    なるべし。又頃日、坊間にこの童の形を錦絵に搨(スリ)いだせる有り。国貞の画なり。然れば官呈の下絵    を、かゝる開版には為しならん。されぱ後世に伝へて益あるに非ざれども、又かの童の真面目、且赤髪    の状、眉毛も同色なるは、斯図その真を得たるべし。因て前図ありと雛ども、迺(スナハチ)再び次に移謄す〟    〈歌川国貞の写生は町奉行の命によるものとのこと。松浦静山はこれを「輪門水府」がこの兄弟を呼び寄せるための準     備であろうと見ていた。いわゆる下見の代わりである。輪門は輪王寺宮(寛永寺門跡)であろうか。水府は水戸斉昭     を指すのであろう。それにしても町奉行はなぜ国貞に命じたのであろうか。「輪門水府」のような貴人に供する肖像     とあれば、それ相応の本絵師、町絵師の起用があってもよさそうなものである。しかし町奉行はそうしなかった。で     は町奉行は国貞の技倆を高く評価して直々に命じたのであろうか。どうもそんなにことは単純でもなさそうである。     「町年寄の手より」とあるから、その起用に町役人の筆頭である町年寄が関与しているのは間違いない。おそらく国     貞を推薦したのは町年寄なのである。幕臣側からみれば下々のことは下々の手で行わせたのである。この距離感、つ     まり町年寄を通して間接統治するところから生ずる武家と町方の距離感は、平戸藩主・松浦静山の次のようなことば     にも表れている。「世に謂ふ浮世絵かき」。国貞の起用は見世物に等しいこの兄弟に見合ったものと考えるべきなの     かもしれない。無論、浮世絵師の中で、国貞は肖像画の第一人者であるという評価があって、それを認める幕臣たち     もいたに違いないであろうが、町方(浮世)のことは町方(浮世)を題材とする浮世絵師にという思考回路が厳然と     してあっての起用と考えられよう〉     <七月 見世物 猩々に似た童子の見世物 両国>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「豊前国宇佐八幡宮神領小浜村産 兄猩寿・弟猩美」「香蝶楼国貞写」    〈上掲、松浦静山の云う赤髪兄弟の肖像画である〉     ☆ 天保七年(1836)    ◯「絵本年表」(天保七年刊)    歌川国貞画〔漆山年表〕    『芝居細見三葉艸』三冊 五渡亭国貞 又香蝶楼 又歌川国貞画 立川焉馬模 森屋治兵衛他板    『かくれ里の記』 一帖 鳥文斎栄之翁古図 香蝶楼国貞 蜀山先生戯墨                天明元年四方赤良跋、花笠野史跋    『とふの菅薦』  一冊 香蝶楼国貞・後素園国直・朝桜楼国芳・柳川重信・葵岡北渓・               法橋雪旦・雲峯・行年六十翁可庵武清筆 梅多楼藏板     ◯「合巻年表」(天保七年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     十八編 (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     十九編 (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     二十編 (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     二十一編(画)国貞  (著)種彦   鶴屋喜右衛門板    『常盤染鴈五紋』     上(画)国貞   (著)梅麿    蔦屋吉蔵板     下(画)香蝶楼国貞(著)墨春亭梅麿 蔦屋吉蔵板    『裏表忠臣蔵』     初編(画)香蝶楼国貞(著)市川白猿 和泉屋市兵衛板     二編(画)香蝶楼国貞(著)市川白猿 和泉屋市兵衛板     三編(画)香蝶楼国貞(著)市川白猿 和泉屋市兵衛板    『土筆長日楽書』 (画)香蝶楼国貞(著)墨川亭雪麿 山本平吉板    『新編金瓶梅』四集(画)国貞   (著)馬琴   和泉屋市兵衛板     (表紙の画工担当)    『囲碁手段鶴巣籠』歌川貞虎画 表紙 国貞 瓢亭種繁作    歌川国貞画〔早大〕    『雲綾瀬月夜合樹』香蝶楼国貞画 墨川亭雪麿作 山口屋藤兵衛板    『伽三味線筆の操』歌川国貞画  式亭小三馬作 山本平吉板    『勝角力二代顔』歌川国貞画  式亭小三馬作 和泉屋市兵衛板    『昔模様娘評判』香蝶楼国貞画 山東京山作  和泉屋市兵衛板    歌川国貞画〔目録DB〕    『読宮城野忍』歌川国貞画 柳亭種彦作    ◯「読本年表」〔目録DB〕(天保七年刊)    歌川国貞画『高尾船千字文』歌川国貞画 曲亭馬琴作〈寛政八年刊本(栄松斎長喜画)の再刻本〉    ◯「国書データベース」(天保七年)   ◇歌舞伎    歌川国貞画『芝居細見三葉草』三冊 香蝶楼国貞画 立川焉馬二世作 森屋治兵衞・山口屋藤兵衞 正月刊            (上・中村座 中・市村座 下・森田座)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保七年刊)    歌川国貞画    『夫は深艸是ハ浅草百夜町か里宅通ひ』色摺 半紙本 三冊 天保七年     「婦喜用又平画」好色外史(花笠文京)序 女好庵主人(松亭金水)作 隠好堂(金幸堂)板     (白倉注「天保六年一月、吉原全焼。その後の仮宅営業(三百日限り)から取材。場所は花川戸、聖天町、浅草など」)    『春情妓談水揚帳』色摺 半紙本 三冊「婦喜用又平画」九尻亭佐寝彦(柳亭種彦)作     (白倉注「種彦・国貞コンビによる艶本の一つ。本書によって種彦が筆禍を受けたとも云う。話の流れと画とが一致      していて、読む・観るに愉しい傑作艶本」)    『嘉理の婦美』  色摺 半紙本 三冊 猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作 天保七年             内題「和国艶史雁文章」(白倉注「歌舞伎「雁金五人男」の艶本化」)    『蝶千鳥』    色摺 半紙本 三冊「婦喜用又平」落書庵景筆(二世烏亭焉馬)作 天保七年     (白倉注「歌舞伎脚本仕立ての艶本。上巻扉に『春色曽我模写画』。『てふちどり』は再編本」)  ◯『狂歌十符(とふ)の菅薦(すがごも)』緑樹園序・山川白酒跋 梅多楼蔵板 天保七年四月刊   (六樹園七回忌・塵外楼三回忌 追善)   (口絵)「六樹園石川雅望肖像 香蝶楼国貞画」「塵外楼石川清澄肖像 後素園国直画」      狂歌十符の菅薦 香蝶楼国貞画 後素園国直画(国書データベース)  ◯『江戸名物詩』初編 方外道人著 天保七年刊   (国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝鶴屋錦絵  通油町    役者の似顔を国貞の筆  狂言写し出し三都に響く    近来別に流行の画有り  田舎源氏数編の図〟  ◯『馬琴書翰集成』④154 天保七年二月六日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-42)   〝当春、葺屋町芝居ニて、曾我狂言ニとり組、「八犬伝」をいたし候よしハ、先便ニあらまし申述候キ。    正月廿五日前より、名題看板其外、追々かん板上り候ニ付、国貞画のにしきゑ、毛乃ニ菊五郎女形の処、    現八に海老蔵に二枚つゞき、又、伏姫ニきく五郎、金碗大輔ニえび蔵、但し、いづれも曾我時代の本名    有之。右にしき画抔、うり出候処、きく五郎一人ニて、よき役のミいたし候ハんといふにより、えび蔵    役不足ニて、あらそひ出来。依之、「八犬伝」ハやめ候よしニて、右の看板、不残とりおろし候。仕か    け・道具立等、多く出来候処、止メニ成候故、金主の損ニ成候〟    〈同年三月二十八日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-43)④165)には〝市村座ニて、「八犬伝狂言」延引ニ成候     ハ、もめ合のミニあらず、申年に犬の狂言ハ不宜とてやめ候よし、人々申候故、一笑いたし、申年に犬の狂言忌ムな     らば猿若いかに戌の年には と口ずさみて、亦復自笑いたし候ひキ〟ともある〉     ◯『馬琴書翰集成』④196 天保七年八月六日 殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-52)   (八月十四日、両国万八楼において開催予定の馬琴古稀の賀会記事)   〝七月廿五日より会ぶれの為、江戸中廻勤、十日あまりもかゝり可申候。野生ハ歩行不便故、駕籠にて両    三日罷出、その余ハ親類共を名代ニ出し候。かゝる折にハ、雅友より俗人の方、たのもしきものニて、    拙作を一たびも彫刻いたし候書賈ハさら也。さもなきも打まじり、画工は国貞国直をはじめ、日々か    ハる/\ニ差添、廻勤いたし候〟    〈当時の歌川派の総帥、国貞が馬琴の古稀祝いに一肌脱いでいるくらいだから、国直のみならず、歌川派総出で廻勤に     協力したのかもしれない。古稀祝いの書画会の様子は、天保七年十月二十六日付、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-     65)④221を参照のこと〉    ◯『馬琴書翰集成』④221 天保七年八月十四日 馬琴、古稀の賀会、於両国万八楼   (絵師の参加者のみ。天保七年十月二十六日、殿村篠斎宛(第四巻・書翰番号-65)④221参照)   〝画工 本画ハ      長谷川雪旦 有坂蹄斎【今ハ本画師になれり】 鈴木有年【病臥ニ付名代】      一蛾 武清 谷文晁【老衰ニ付、幼年の孫女を出せり】 谷文一 南溟      南嶺 渡辺花山    浮世画工ハ      歌川国貞【貞秀等弟子八九人を将て出席ス】 同国直 同国芳 英泉 広重 北渓 柳川重信      此外、高名ならざるものハ略之〟        ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』初編「ス部」〔人名録〕②53(天保七年刊)   〝画 香蝶【名国貞、号香蝶楼主人 一五渡亭】亀井戸天神前 角田庄蔵〟     ◯「大江都名物流行競」(番付 金湧堂 天保七年以前)   (早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 番付「ちり籠」所収)   〝文雅遊客    鬼神 シタヤ  偐紫種彦/鉄棒 五ツメ 香蝶楼国貞   〈『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦と画工の国貞、まさに鬼に金棒、無敵のコンビという見立てなのであろう〉  ◯『かくれ里の記』〔南畝〕①318(天保七年刊)   〈鳥文斎栄之の古図を模写し、香蝶楼国貞の名で挿絵。栄之の項参照〉    ☆ 天保八年(1837)     ◯「合巻年表」(天保八年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     二十二編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板     二十三編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板     二十四編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板    『花栬対之舞風流』 (画)五渡亭国貞(著)墨春亭梅麿 蔦屋吉蔵板    『邯鄲諸国物語』四編(画)歌川国貞 (著)柳亭種彦 西村屋与八板    『琴声女房形気』  (画)歌川国貞 (著)山東京山 鶴屋喜右衛門板    『菊寿童霞盃』三編 (画)香蝶楼国貞(著)山東京山 山本平吉板     (備考、初編は文政十年刊、二編は天保三年刊)    『結神末松山』   (画)香蝶楼国貞(著)十返舎一九遺稿 山口屋藤兵衛板     (表紙の画工担当)    『東海道五十三駅』二編 一勇斎国芳画 表紙 国貞 鶴屋南北作    『妹背結千筥玉章』   五雲亭貞秀画 表紙 国貞 墨春亭梅麻呂作    『総累赤繩取組』    渓斎英泉画  表紙 国貞 楽亭西馬作    歌川国貞画〔目録DB〕    『三馬叟黄金種蒔』香蝶楼国貞画 式亭小三馬作     『新孝行車』   歌川国貞画  楚満人一世作>    歌川国貞画〔早大〕    『江戸紫手染色揚』香蝶楼国貞画 式亭小三馬作 佐野屋喜兵衛板    ◯「艶本年表」(天保八年刊)    歌川国貞画    『二世紫浪花源氏』 色摺 中判折帳 一冊「婦喜用又平図」佐祢比古編著 天保八年頃〔日文研・艶本〕〔白倉〕              柳のもとにさ祢ひこ(柳亭種彦)序     (白倉注「のちに続編が出て、二冊本として再摺。『偐紫田舎源氏』の十四編(天保六年)までを素材にして艶本化」)    『恋のやつふぢ』  色摺 大本 三冊 不器用又平画 曲取主人(花笠文京)著 天保八年〔日文研・艶本〕〔白倉〕     (内題「男壮里見八犬伝」第一冊序言「不器用又平(ぶきよまたへい)の妙筆を賞翫あれ」とあり、扉の序に「春心発      動する又平(ぶきようさい)の妙手、老男老女を壮健(わかやがす)、画工の神仙昔はしらず、当世の時に逢津絵(あ      ふつゑ)」ともあり)〈不器用を「ぶきよ」とも「ぶきよう」とも読んでいたか〉     (白倉注「曲亭馬琴作『里見八犬伝』の艶本化」)    『花鳥余情吾妻源氏』色摺 大本 三冊 天保八年頃〔日文研・艶本〕              「婦喜用又平画〔瓢簞に「なまづ」印〕」「東都 大鼻山人編著」    『須磨琴』     色摺 半紙本 三冊「婦喜用又平」左弥(ママ)比古(柳亭種彦)作 天保八年〔白倉〕     (白倉注「『偐紫田舎源氏』を原作者が艶本化したものの一つ。主に文章をパロディ化することに力点が置かれてい      る」)    ◯「【東都高名】五虎将軍」(番付・天保八年春刊・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝秀業 ウキヨ絵 葛飾前北斎・コキウ 鼓弓庵小輔・三味セン 播广太夫蟻鳳       雛師  原舟月 ・飾物 葛飾整珉〟          〝浮世画師 歌川国貞・歌川国直・葵岡北渓・歌川国芳・蹄斎北馬    〈浮世絵師として国貞・国直・北渓・国芳・北馬の名が見える。しかし、北斎は別格と見え、斯界の第一人者である三     味線の鶴沢蟻鳳や雛人形師の原舟月などと共に「秀業」の部の方に名を連ねている。やはり浮世絵師の中では飛び抜     けた存在なのである。それにしても、一立斎広重と渓斎英泉の名が見えないのは不思議な気がする〉     ☆ 天保九年(1838)    ◯「絵本年表」〔目録DB〕(天保九年序)    歌川国貞画『絵本ふる鏡』三冊 歌川国貞画 桜井蛙麿序 須原屋伊八他板    〈序および挿絵の「国直」印により画工は歌川国直と思われる〉    ◯「合巻年表」(天保九年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     二十五編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     二十六編(画)国貞  (著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     二十七編(画)国貞  (著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『竹取物語』     初編(画)国貞 見返し 京水画(著)京山 森屋治兵衛板     二編(画)国貞 見返し 京水画(著)京山 森屋治兵衛板    『邯鄲諸国物語』 五編  (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 山本平吉板    『新編金瓶梅』  五集(画)国貞(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    『菊寿童霞盃』  四編(画)国貞(著)京山 山本平吉板     (表紙の画工担当)    『怪談春の雛鳥』初編 五雲亭貞秀画 表紙 香蝶楼国貞 林屋正蔵作    歌川国貞画〔早大〕    『人形手新図更紗』香蝶楼国貞画 墨川亭雪麿作 山本平吉板    『花楼閣高峯太鼓』歌川国貞画  墨春亭梅麿作 蔦屋吉蔵    『染浴衣菊新形』 香蝶楼国貞画 式亭小三馬作 蔦屋吉藏板    『絵図名所杖』  歌川国貞画 山東京山作 佐野屋喜兵衛板      〈二編以降の外題は『絵図見西行』〉    歌川国貞画〔目録DB〕    『絵図見西行』  歌川国貞画 山東京山作    『まさる商』三編 歌川国貞画 式亭小三馬作    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保九年刊)    歌川国貞画『狂歌双調集』一冊 歌川国貞画 六朶園二葉編 六津美連     ◯「艶本年表」(天保九年刊)    歌川国貞画    『春情肉婦寿満』三冊 不器用又平画 猿猴坊月成作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『花廼都路』色摺 大本 三冊「婦喜用又平画」恋痴庵主人(為永春水)作 金幸堂菊屋幸三郞 天保九年〔白倉〕     (白倉注「『花の都』『五十三次花廼都路』は再摺本か」)    『須磨琴』 三冊 又平画 佐禰比古(柳亭種彦)作〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)      ◯『馬琴書翰集成』⑤24 天保九年六月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-6)   〝閏四月中、市村芝居ニていたし候、「八犬伝狂言錦画」もかひ取置候。是亦今便ニ差出し候。近来、紙    ことの外高料のよしニて、錦画の価いたく登り候。「八犬伝」残り弐枚の分ハ、おろし直段壱枚三分づ    ゝ、又芝居ニていたし候錦画ハ、おろし直廿四文づゝに御座候〟    〈「閏四月中、市村座芝居」とは「歳戌里見八熱海」。こちらの卸値は二十四文。同書翰によると小売値は三十二文の     由。しかしなぜ「曲亭翁精著八犬士随一」の卸値だけ「三十文」ではなく三分」としているのかよくわからない〉
   五渡亭国貞画「歳戌里見八熱海」(絵師「国貞」・外題「歳戌里見八熱海」と入力すると画像がでます)    (早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム 新規検索)       <なお立命館大学アート・リサーチセンター「歌舞伎・浄瑠璃データベース」の「歌舞伎・浄瑠璃興行年表」は、外題     を「戌歳里見八熟梅」とする>     ◯『馬琴書翰集成』⑤46 天保九年九月朔日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-10)   〝俳優松本幸四郎、当月五日物故いたし候。中村玉助も、当七月死候よし。両人とも死後の錦画国貞画キ、    致出板候。幸四郎ハ七十五才トあれども、午ノ生年なれば、七十七才なるべし。大立物ながら敵役ニて、    且老人ナレバ、その錦画多くうれずと云。玉助ハ上方役者なれども、江戸に久しく居たれば、江戸にて    死後の錦画出たり。是ハよくうれ候と云〟
   香蝶楼国貞画「松本幸四郎」死絵(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ☆ 天保十年(1839)     ◯「合巻年表」(天保十年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     二十八編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     二十九編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     三十編 (画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     三十一編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『大晦日曙草紙』      初編(画)国貞    見返し 京水筆(著)京山 蔦屋吉藏板     二編(画)香蝶楼国貞 見返し 京水筆(著)京山 蔦屋吉藏板    『昔模様娘評判記』四編(画)香蝶楼国貞(著)山東京山  和泉屋市兵衛板    『手綱染余作春駒』  (画)香蝶楼国貞(著)墨春亭梅麿 蔦屋吉藏板    『児雷也豪傑譚』 初編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板    『菊寿童霞盃』  五編(画)国貞(著)京山 山本平吉板    『新編金瓶梅』  六集(画)国貞(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    歌川国貞画〔目録DB〕    『雪月花娘鋭勇伝』初編 香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    『難波男井筒雁金』   歌川国貞画  式亭小三馬作    『若紫東顔見世』    歌川国貞画  五柳亭徳升作    『安達原筆操』     香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    歌川国貞画〔早大〕    『霞帯春空解』歌川国貞画 三亭春馬作 山本平吉板     ◯「日本古典籍総合目録」(天保十年刊)   ◇人情本    歌川国貞画    『縁結月下菊』歌川国貞画 柳亭種彦作    『多気競』  初・二編 歌川国貞画 三亭春馬作    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保十年刊)    歌川国貞画『春情肉婦寿満』色摺 半紙本 三冊「不器用又平筆」猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作     (白倉注「他にも画中に「婦喜用又平画」「交蝶子又平画」などの隠し落款が見える。各図にムラがあり、とくに下      巻は、後に二代目国貞になった梅堂国政の筆になるかといわれている」)    ◯『増訂武江年表』2p93(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保十年」)   〝三月朔日より、亀戸天満宮開帳。(筠庭云ふ、天満宮開帳に奉納もの種々あり。中にも木彫細工人寄合    ひ、さま/\のものをつくれる額、又歌川国貞「田舎源氏」を書きたる美麗なりき。当時国貞天神前に    住す。裏家なり〟      ☆ 天保十一年(1840)    ◯「合巻年表」(天保十一年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     三十二編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     三十三編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     三十四編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板    『竹取物語』     三編(画)国貞(著)京山 森屋治兵衛板     四編(画)国貞(著)京山 森屋治兵衛板    『昔模様娘評判記』五編(画)香蝶楼国貞(著)山東庵京山 和泉屋市兵衛板    『隅田川月の姿見』初編(画)香蝶楼国貞(著)式亭小三馬 山本平吉板    『仙女香七変化粧』  (画)香蝶楼国貞(著)花街楼春馬 山本平吉板    『大晦日曙草紙』 三編(画)国貞 見返し 京水筆(著)京山 蔦屋吉藏板    『怪談春の雛鳥』 二編(画)香蝶楼国貞(著)林屋正藏 川口宇兵衛板    『邯鄲諸国物語』 六編(画)歌川国貞 (著)柳亭種彦 山本屋平吉板    『敵討賽八丈』 (画)国貞 表紙 芳鶴 (著)曲亭馬琴 蔦屋吉藏板     〈初版は蔦屋重三郎板・文化六年刊〉    『新編金瓶梅』  七集(画)国貞 袋 抱玉(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    『廓花勝山話』 (画)香蝶楼国貞(著)山東京山 岩戸屋板     (表紙の画工担当)    『春色眉五柳』上冊 貞斎泉晁画 下冊 五風亭貞虎画 表紙 歌川国貞 美図垣笑顔作    『取合三組盃』二編 歌川貞秀画 表紙 国貞 山東京山作    歌川国貞画〔目録DB〕    『善悪振分道中数語録』香蝶楼国貞画 美図垣笑顔作    『過世結弥生雛草』歌川国貞画  曲亭馬琴作    『稲妻染女伊達姿』香蝶楼国貞画 式亭小三馬作 蔦屋吉藏板    『新曲琵琶湖』  香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    『忠臣文庫』   歌川国貞画  美図垣笑顔作    『福話』     香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    歌川国貞画〔早大〕    『俳優楽屋雑談越路之怪』歌川国貞画 立川焉馬二世作 和泉屋市兵衛板    『廓花勝山話』     歌川国貞画 山東京山作 川口宇兵衛板    ◯「日本古典籍総合目録」(天保十一年刊)   ◇人情本    歌川国貞画    『以登家奈幾』初~四編 歌川国貞・渓斎英泉画 為永春水作     〈「日本古典籍総合目録」は国貞ではなく国直画とする〉    『多気競』  三編   歌川国貞画 三亭春馬作     ◯『馬琴書翰集成』⑤155 天保十一年正月八日 小津桂窓宛(第五巻・書翰番号-40)   〝『金瓶梅』七集上帙廿丁ハ、書画共九月下旬ニ出来候へ共、下帙廿丁ハ画工国貞方ニて長引、十月下旬    ニ書画共出来申候。上帙ハとかく出板可致処、板元勘定高にて手配り間違い、上帙の彫刻存の外長引き、    画もほり崩し、ふすまのもやう下ゑ等をぬすミ略し、うるハしき写本を甚あしくいたし候上、歳杪ニ至    りてもほり揃ひかね、やう/\十二月廿八日ニうり出し候。下帙廿丁も引つゞき出来、十二月廿九日夕    七時ニほり揃ひ、板元の小ものこの日拙宅ぇ三度往来いたし、二丁づゝ校合いたし遣し候へバ、直ニ板    木師へ持参いたし直させ候。幸ひニこの板木師青山故ニ、校合はやくかた付候。依之、下帙ハ当春六日    ニうり出し候〟     ◯『馬琴書翰集成』 天保十一年八月二十一日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-56)   ◇ ⑤197   〝(視力が極端に低下した馬琴は「八犬伝」等の校合に苦しむ)『金瓶梅』八集も同様ニ候へども、是ハ    平がな故ニ、二冊目より下ハ拙媳ニ代筆致させ、どやらかうやら六月大暑前ニ綴遣候。画割ハ代画之者    無之候間、手さぐりニて画かき候ニ付、頭二ッ有人抔出来、或は襟胸ニ目鼻有人抔いでき候へども、さ    すがに国貞故、板下ハ如例宜敷出来、上帙四冊ハ書画とも板下出来、只今彫立居候間、此分ハ当冬早く    出板可致候。下帙四冊ハ、国貞画ニて幕支、板下いまに壱丁も出来かね候へ共、下帙も出板之節、二部    御覧ニ入候様可仕候〟    〈長年組んでいる国貞だからこそ、たとえ拙い画稿でも、馬琴の意をくんで描くことが出来たのであろう。「拙媳」と     あるのが、馬琴の長子故宗伯の嫁・おみち。馬琴の目となって音読、代筆、校合に精を出していた。合巻の「金瓶梅」     はひらがな主体なのでまだしも、これが「八犬伝」の読本となると、おみちの負担はかなりのものであった〉      ◇ ⑤201   〝(『三七全伝南柯夢』文化五年(1808)刊)稿本といん本と御引くらべ被成御覧候処、ほく斎さし画稿    本とは同様ニハ候へども、人物之右ニ有ヲバ左リニ直し、或ハ添もし、へらしも致候。此心じつヲ以云    々被仰示候御猜之趣、少しも無違、流石ニ是ハ君なるかなと甚堪心仕候。小生稿本之通りニ少しも違ず    画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故ニ御座候。北さいも筆自由ニ    候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北さいニ画がゝせ候さし画之稿    本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致候。実ニ御推りやうニ相違御    座無候〟    〈六月六日、馬琴は『三七全伝南柯夢』の稿本を殿村篠斎に譲渡していた。篠斎は版本と稿本を比較して、人物の位置     や数が違うことを指摘し、北斎のこの作為に猜疑心を抱いたことを、馬琴に書き送っていたのであろう。作者の稿本     に従わない北斎も相当な天の邪鬼だが、馬琴もしたたかである。北斎のこうしたつむじまがりを計算に入れて、右に     配置したい人物をあらかじめ左に置いて稿本を画いていたのである。もっともこのような両者が長続きするとは思え     ない。画工まかせに出来ない馬琴と我が道をゆく北斎とでは、並び立つことは所詮無理である。文化十年(1813)の読     本『皿皿郷談』が最後になったのもやむを得まい。馬琴によると、自在な技量があって、なおかつ自分の稿本通りに     画いたのは、北尾重政・歌川豊国初代・歌川国貞の三人だけらしい。なおこの頃、馬琴は秘蔵していたかなりの量の     自作稿本を殿村篠斎に譲渡している〉     ◯『古今雑談思出草紙』〔大成Ⅲ〕④98(東随舎著・天保十一年序)   〝今は浮世絵さかんにして(中略)わきて一家の風を成して高名なるは、一陽斎豊国といふもの大名にし    て、渠よくとふせいの人物を書に妙なる筆意にて、世の浮世絵書くものゝ及ぶ所にあらず。其門に国貞    が類ひ、其数かぞふるに暇なし〟    ☆ 天保十二年(1841)    ◯「合巻年表」(天保十二年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『偐紫田舎源氏』     三十五編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 鶴屋喜右衛門板     三十六編(画)国貞  (著)種彦   鶴屋喜右衛門板     三十七編(画)歌国貞 (著)柳種彦  鶴屋喜右衛門板    『大晦日曙草紙』     五編(画)国貞 見返し 京水(著)京山 蔦屋吉蔵板     六編(画)国貞 見返し 京水(著)京山 蔦屋吉蔵板    『児雷也豪傑譚』     二編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板 袋 国貞 英泉 国芳     三編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板 袋 魚屋北渓 国貞 広重 谷文晁    『邯鄲諸国物語』     七編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 山本平吉板     八編(画)歌川国貞(著)柳亭種彦 山本平吉板    『大師河原撫子話』(画)歌川国貞 (著)曲亭馬琴  蔦屋吉蔵板     〈文化三年刊の同名黄表紙(画工酔放山人(北尾重政)蔦屋板)の改刻版〉    『兄弟丸蒔絵文箱』(画)香蝶楼国貞(著)墨川亭雪麿 山本平吉板    『怪談春の雛鳥』三編(画)香蝶楼国貞(著)万亭応賀 川口屋宇兵衛板    『新編金瓶梅』 八集(画)国貞 袋画工 抱玉(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    『竹取物語』五・六編(画)香蝶楼国貞 見返し 京水(著)山東菴京山 森屋治兵衛板     (表紙の画工担当)    『浪華潟美棹差櫛』一勇斎国芳画 表紙 国貞 宝亭文雪作    『熊野御前花見車』渓斎英泉画  表紙 国貞 馬舎春鳥作    『娘要文宝箱』  五雲亭貞秀画 表紙 国貞 美図垣笑顔作    歌川国貞画〔目録DB〕    『世話俊寛島物語』 歌川国貞画 笠亭仙果作    『福話の後日』 香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    『恋渡操八橋』 香蝶楼国貞画 式亭小三馬作    『恵花雨鉢木』 歌川国貞画  美図垣笑顔作    ◯「艶本年表」(天保十二年刊)    歌川国貞画〔白倉〕    『梅好閨乃伝染香』色摺 半紙本 三冊 又平画 いろは陳房序 紀行安作     (白倉注「春水作『春色梅児誉美』の艶本化」)   ◯ 肉筆「シカゴ ウエストンコレクション 肉筆浮世絵」    香蝶楼国貞・英一珪画「短冊を結ぶ美人図」絹本一幅    落款「香蝶楼國貞戯画 九十叟英一珪戯筆」印章「弌螮」「信重」    〈『古画備考』の英一珪の記事「天保十四年十一月廿一日歿、九十二」に拠り、天保十二年の作画としたようだ〉     ◯『江戸見草』〔鼠璞〕下57(小寺玉晁著・天保十二年記)   〝(三月)十九日、水野正信、加藤何某と三人同道にて、吹屋町芝居見物、次にとぢ入し似顔、後に絵双    紙屋にて見しに、再吹屋町芝居へ入し如く、余り能似たりし故、爰に入    (綴じ込み似顔絵)「あつ盛 尾上栄三郎」「熊谷直実 市川海老蔵」「石川五右衛門 嵐吉三郎」    「大形久吉 板東彦三郎」「笹野三五兵衛 関三十郎」「さつま源五兵衛 嵐吉三郎」「香蝶楼国貞画」    「馬喰町三丁目 江崎屋辰蔵板」〟    〈水野正信、加藤某は小寺の同僚、尾張の藩士か。彼らが見た芝居は「筆魁曽我福贔屓」か。ただし、ここに所載の似     顔絵はその芝居のものではない〉     ◯『馬琴書翰集成』⑤308 天保十二年(1841)七月二十八日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-89)   〝『金瓶梅』九集八冊之稿本割入、代筆致させ、六月稿了遣候。画工自筆ニ成かね候間、手さぐりニ人物    之かた斗ヲ書候て、注文書委敷かゝせ候所、国貞よくのミこみ心得候て、奇妙に画キ候由、家内之者申    聞候〟    〈さすがは「合巻の国貞」面目躍如たるものがあるのだろう〉     ◯『著作堂雑記』243/275(曲亭馬琴・天保十二年九月十六日)   〝辛丑秋九月十六日、丁子屋平兵衛同道にて、画工国貞亀井戸より来る、我肖像を写さん為なり、この挙    は我本意にあらず、丁平が薦めによれり、終日酒飯のもてなしあり、写し得て帰去、其後八犬伝第九輯    五十三の巻下のさし画に、我肖像を載せたるに、他人は似たりといへども、我家の内の者どもは、さば    かり似ずといへり、我左眼病衰して、かすかに見ることを得ざれば、似たるや似ざるや未だしらず、然    れども肖像は、其当人をかたへに置て見くらべては、似ざる事自然の理なり、却て肖像の似たりといふ    は、只其趣あるのみ、写真は得がたきものなるべし、是にて肖像の真ならぬを悟るべし〟    〈『南総里見八犬伝』の最終回に馬琴の肖像を載せるため、板元の丁子屋は、当時肖像画に評判の高かった国貞を起用     した。しかし馬琴は肖像画に対して一家言をもっていた。「昔年豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是     ハ日々面会之熟友なれバ也」(天保十二年十一月付、殿村篠斎宛)、つまり一陽斎豊と山東京伝のように、日々面会     するような仲でなければ写真とでもいうべき肖像画は無理だというのである。それに比して国貞とはこれまで一二度     ちらっと会ったことがあるだけ、むろん長時間対面するようなことは一度もなかった。内心気が進まなかったのは当     然であった。しかし不満を鬱屈させながらも要求を受け入れてしまうのが馬琴の常で、やはり丁子屋の薦めに従った。     だがこの国貞に対する違和感というか、馴染めない距離感のようなものが、馬琴の心中あったことは間違いあるまい。     果たしてこの肖像画に対する周囲の受け止め方はそれぞれ別であった。丁字屋など他人は似ているという、しかし家     族のものは似てないという。では本人の馬琴はというと、これが既に失明していて見ることが叶わない。おそらく国     貞は馬琴に漂う弱さと頑なさが同居するような窮屈な感じを写し取っているのだと思う。丁子屋が似ているとしたの     は肖像画にそのおもむきが現れていると感じたからではあるまいか。一方家族のものたちは四六時中生活を共にして     いるから、他人が感じる雰囲気は既に自然化してしまって殆ど感じず、関心は専ら容姿の形似の方に向かったのかも     しれない。以下、国貞の馬琴肖像画と、天保七年(1736)馬琴の古稀を記念して画かれた長谷川雪旦画の肖像画をあげ     ておく〉
   香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」    (早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第9輯巻53下)
   巌岳斎雪旦画「滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠」    (早稲田大学「古典籍総合データベース」)     ◯『馬琴書翰集成』⑤315 天保十二年十月朔日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-91)   〝(「八犬伝」九輯)さし絵ハ柳川重信、家内病難ニ付出来兼候間、英泉ニ絵がゝせ、末壱丁、小子肖像    ある所ハ国貞ニ画かせ、右さし画板下共、昨今不残出来、追々彫立候事ニ御座候〟    〈文化十一年(1814)から続いた『南総里見八犬伝』は、天保十三年(1842)正月の「結局編」と同年三月の「結局下編」     をもって漸く終幕を迎える。最終巻「巻之五十三下」「囘外剰筆」において、馬琴は二十八年間を振り返って感慨や     ら楽屋話などをかたる。そして最後の挿絵には香蝶楼国貞の筆になる馬琴自身の肖像を掲載して締めくくったのであ     った。同日付、小津桂窓宛にも同記事あり(第五巻・書翰番号-93)。国貞画の馬琴肖像は十一月十六日、殿村篠斎     宛書翰(番号97)参照〉     ◯『馬琴書翰集成』⑤325 天保十二年十一月十六日 殿村篠斎宛(第五巻・書翰番号-94)   〝九月十六日に、丁平不慮に国貞同道致、拙宅ぇ罷越候間、終日酒飯之もてなしに家内を騒せ、愚面を写    させ候。是迄国貞とハ、対面壱両度にて、終日面談は当秋初ての事ニ候。肖像の下画ハ未ダ不出来へど    も、『八犬伝』九輯五十三の下のさし画ニ、拙像を画せ候処、丁子屋家内之者抔ハ、よく似たりとて誉    候由ニ候へ共、小子家内之者ハ、さばかり似ずと申候。然バ、肖像ハ只其趣あるのミにて、其人と引く    らべ候てハ不似事と存候。勿論、国貞と面談は、此度初てニ候へバ、癖抔のミこみ候までもなく、率爾    ニ写取候故も可有之候。昔年、豊国京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是ハ日々面会之熟友な    れバ也〟    〈「八犬伝」の板元丁子屋平兵衛が国貞を同道して、四ッ谷信濃坂にある馬琴宅を訪問したのは、最後の挿絵となる馬     琴の肖像を写すためであった。丁子屋の身内では馬琴に似ていると出来映えを誉め、逆に馬琴の家では似てないとい     う。もちろん馬琴は失明しているから、自分では判断できない。ただ肖像は一度や二度の面接では不十分で、日常を     共にするくらいにその人となりに接していないと真を写すことは難しいと、馬琴は判断したのである。というのは、     初代豊国の筆による京伝肖像のできばえが良いのは、二人の間に親密な交友があったからだと、馬琴は見ていたから     である〉    △『吾仏乃記』p452「家説巻四」(曲亭馬琴著・天保十二年記事)   〝「百七七 画工国貞、解の肖照を画きし事」   八犬伝刊行の書肆丁字屋平兵衛、予が為に画工国貞に課て肖像を画せまく欲す。当時国貞の家は本所亀    戸村に在り。天保十二年辛丑九月十六日、丁字屋平兵衛、国貞を将て吾居宅に来れり。解、国貞と親し    からず。文化年間、歌川豊国が家にて一たび相見えしのみ。今日酒飯を薦めて晤譚の間、国貞則懐紙に    吾肖照を写す事数扁、畢に写し得たりけん、哺時に至りて辞去しけり、十三年壬寅夏五月、国貞が画く    所の予が肖像稍成りぬとて丁平則籰に掛たる儘齎し来て呈閲す。解既に老眼病衰して是を観ることを得    ず。況自賛を題すべくもあらず、只其可否をお路・興邦等に問へば、おみち等が云、実に趣はあるに似    たれども、さばかり肖たりとは見へずといへり。只今裱褙を急ぐべきにあらねばそが儘に蔵め置しむ。    意ふに肖像は只其趣きあり而已。其人と見比べぬれば似ざるも亦自然の理也〟
   香蝶楼国貞画「曲亭馬琴肖像」    (早稲田大学「古典籍総合データベース」『南総里見八犬伝』第九輯巻五十三下)    ☆ 天保十三年(1842)    ◯「合巻年表」(天保十三年刊)    歌川国貞画〔東大〕    『大晦日曙草紙』     七編(画)国貞 見返し 京水筆(著)京山 蔦屋吉蔵板     八編(画)国貞 見返し 京水筆(著)京山 蔦屋吉蔵板    『児雷也豪傑譚』四編(画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板                 袋 山田抱玉 国貞 前北斎    『旅硯振袖日記』  (画)香蝶楼国貞(著)美図垣笑顔 川口宇兵衛板    『偐紫田舎源氏』三十八編(画)国貞(著)種彦 鶴屋喜右衛門板     〈天保十三年七月十三日、作者柳亭種彦死亡のため未完のまま本編で終了〉     『新編金瓶梅』 九集(画)国貞 見返し 香蝶楼精画(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    『竹取物語』  八編(画)国貞(著)京山 森屋治兵衛板     (表紙の画工担当)    『絵巻物今様姿』一声斎芳鶴画 表紙 国貞 美図垣笑顔作    歌川国貞画〔目録DB〕    『京鹿子振袖日記』歌川国貞画 山東京山作 藤岡屋彦太郎板    『俳優楽屋雑談』二編 歌川国貞画 立川焉馬二世作(注記「日本小説年表による」)    『奇縁結赤縄』 歌川国芳画 式亭小三馬作    『鴛鴦物語』  国貞画   山東京山作    『鴛鴦譚』   歌川国貞画 山東京山作(注記「日本小説年表による」)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天保十三年刊)    歌川国貞画    『春色初音之六女(うめ)』色摺 大本 三冊「不器用又平画」天保十三年                嬌訓亭腎水(為永春水)作 文永堂     (白倉注「春水作人情本『春色梅児誉美』の艶本化。中巻扉絵に好亭主人の狂歌がはいっている。同巻後扉絵には      「天の邪鬼の説」とて、男女の顔と性器が入れ替った図がある)    『四季の姿見』色摺 大本 三冊「不器用又平画」好色山人(花笠文京)作     (白倉注「同年作の『春色初音之六女』に比べてもう一つ生彩を欠くので、門人の代筆かともいわれている」)     ◯「日本古典籍総合目録」(天保十三年刊)   ◇人情本    歌川国貞画『多気競』四・五編 歌川国貞画 三亭春馬作     ◯『馬琴書翰集成』⑥12 天保十三年二月十一日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-2)   〝旧冬より中本春絵本一件、旧冬大晦日ニ右板を五車程町奉行ぇ差出し候儘、暫御沙汰無之候所、当正月    下旬に至り、右一件の者不残召被出、丁平初中本春絵本の板元六七人、組合家主ぇ御預ケニ相成、中本    之作者越前屋長次郎事為永春水ハ、御吟味中手鎖ニ成候由聞え候。丁平御預ケ中ニ候ヘバ、『八犬伝』    売出しも遠慮致、右壱件相済候迄、三四月頃ならでハ売出す間敷存候処、小子ぇ無沙汰ニ急ニ売出し候    ハ、必訳可有候得ども、外事とハ申ながら、板元御預ケ中新本売出し候てハ、不慎の様ニ聞え候て、後    の障りニハ成間識哉と、小子等ハ不安心ニ存候得ども、板元久敷拙宅へ不参候間、其訳知れがたく、ひ    そかに阽ミ候事ニ御座候。春水門人金水、其外鯉丈抔云ゑせ作者、中本綴り候者有之ども、夫等ニは御    構なく、春水のミ召被出、御吟味の由聞え候。春絵本ハ中本より猶御吟味厳敷候間、国貞抔も罪可蒙哉    といふ噂聞え候。寛政の初、しやれ本一件之例をおし候得バ、此御裁許如何可有之や、気の毒ニ存候。    但近来ハ、草紙改メ方肝煎名主七人ニ被仰付、其ともがら稿本を下改致、かいはん差ゆるし候へバ、行    事割印致、版元ぇ渡し候。春絵本をのぞくの外、中本ハ皆改相済候物ニ候得ども、上より御下知ニ候ヘ    バ、名主の下改も御取用ひ無之候ニ付、板元・作者の申訳ニハ成がたく候半と存候。しかれども、名主    下改致候中本ハ、板もと・作者の罪、先例より少しかるく候半歟と、恐乍奉存候。此義ニ付てハ、猶く    さ/\の意味有之候得ども、可憚事なきニあらねバ致省略候。余ハ御遠察可被成候。種彦も御支配より    戯作ヲとゞめられ候事、愈実説の由聞え候。『田舎源氏』『諸国物語』等之板元鶴屋・山本抔、大ニ力    を落し候ハんと存候。しかれども合巻草双紙ニハ未ダ何之御沙汰無之候へども、『金瓶梅』之板元泉市    抔も悄地ニ阽ミ候や、当春抔ハ例ニ替り、未ダ年礼ニも参らず候。況『金瓶梅』十集編述の頼も無之候。    人情の異変、今ニはじめぬ事ながら、此頃の人気、是等ニて御亮察可被成候。夫ハとまれかくまれ、    『八犬伝』結局編、本意のごとく売出し、是のミ悦敷存候〟    〈天保十二年大晦日、町奉行は中本と春本を大量に没収した。翌十三年正月下旬、丁平(丁子屋平兵衛)などの板元は     組合家主へお預けになり、作者の為永春水は吟味中から手鎖に処せられる。松亭金水や滝亭鯉丈はお構いなし。国貞     は春本の件で罪を蒙るにちがいないとの噂が流れた。また『偐紫田舎源氏』の作者・柳亭種彦が小普請支配より戯作     を止められたという「実説」が広まっていた。天保十三年正月には、馬琴の合巻『新編金瓶梅』九集と読本『南総里     見八犬伝』の完結編が出版された。「金瓶梅」の方は、合巻草双紙には未だ何の沙汰も無いのであるが、ことの成り     行きを悄然と見守るしかなかった。「八犬伝」方は、文化十一年(1814)の初編刊行以来、実に二十八年、途中から失     明し長子宗伯の妻お路の代筆を得て、遂に大団円を迎えたのである。感慨無量のものがあったことだろう。それにし     ても金水や鯉丈に対する「ゑせ作者」のレッテル貼りは、狷介な馬琴らしいといえばいえるのだが、狭量で思いやり     のない仕打ちである〉     ◯『馬琴書翰集成』⑥21 天保十三年四月朔日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-3)   〝(『近世説美少年録』四輯)さし絵の事、是迄のとふりニてハ彫刻細密にて、障りニも可成や、難料候    間、板下ハ只今国貞ニ画せ置、秋迄見合外聞合、或は伺ひ候上ニて彫ニ出し可申候。(中略)中本一件    ニて、御預ケニ成候板元六七人ハ、三月中旬、右御預ケ御免ニて、作者春水ハ、手鎖未ダ御免無之候得    ども、外中本作者・画工抔ハ、御呼出無之候間、落着ニ至り候ハヾ、かろく相済候半とて、一件の者共、    難有り悦居候。種彦戯作を禁ぜられ候といふ風聞も、空言ニ候や、『田舎源氏』十三編とやら四十編と    やら、此節板元鶴屋ニて彫立候由、先日丁平の話ニ御座候。(改革による株仲間解散のため、従来の仲    間行事による名主改め方が機能せず、出版手続きに混乱が生じた旨の記事あり、略)当年の新板物ハ、    諸板元見合罷在候。合巻物抔も、外題花実ニ致間敷旨、被申渡候。是ハ名主の了簡ニて、御下知ニハ無    之候。風聞ニハ、昔のごとく二冊三冊の黄表紙ニ可成抔申候。何れまれ、『金瓶梅』ハ九集限りにて可    有之存候。大錦絵抔も、廿文より高直之品売間敷旨、被仰出候間、三十弐文売の大錦絵を、多く摺込候    板元ハ損を厭ハず、十九文宛ニおろし候を小売ニて廿文宛ニ売候よし聞え候〟    〈改革の余波は馬琴の読本『近世説美少年録』・合巻『新編金瓶梅』にも及んだ。「美少年録」は〝五月下旬迄ニ稿本     九冊出来致、残り一冊ニ致候処、右御改正ニて画餅ニ成果候〟(第六巻・書翰番号-5)となって、その続編にあた     る『新曲玉石童子訓』の刊行は弘化二年(1845)。また「金瓶梅」も中断し、十集は弘化四年の刊行となる〉     ◯『藤岡屋日記 第二巻』p271(天保十三年五月)   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟   〈天保十三年の五月、昨年十一月の芝居移転令と時を同じくして禁じられた役者似顔絵を出版したという廉で、「飛騨内    匠棟上ゲ図」と「菅原操人形之図」が手入れに遭い、絵師の国芳と豊国、板元の伊賀屋・古賀屋等を含めて関係者七名    が三貫文(3/4両)の罰金を科せられたという記事である。役者似顔絵の禁止については、天保十三年の六月の町触が    よく知られているが、十二年の十一月の禁止令は確認できてない。(本HP「浮世絵辞典」「う」の「浮世絵に関する御    触書」参照)竹内は霊岸島とあるから宝永堂竹内孫八か。「せり」は糴(セリ)売り(行商)の意味。摺師の久太郎は、翌十    四年の冬、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」の流行に便乗して出版した小形版「土蜘蛛の絵」(貞秀画)の出版が咎    められて、罰金三貫文に処せられている(『藤岡屋日記 第二巻』②413)なおこの藤岡屋の記事で不審なのは「豊国    事、庄蔵」というくだり。庄蔵とあるからこの豊国が国貞であることは疑いないが、国貞の豊国襲名は天保十五年(弘    化元年・1844)四月とされる。(『藤岡屋日記』第二巻②419)藤岡屋は、この天保十三年五月の記事を、国貞が豊国    を襲名した後に書き改めたのであろうか。ところで、この件に関しては馬琴も、記録を残している。下出、天保十三年    (1842)九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』(第六巻・書翰番号-10)参照のこと。2013/09/20追記〉      △『吾仏乃記』p475「家説巻四」(曲亭馬琴著・天保十三年記事)  〝「百八六 御政事御改革の諸令、并に窮達時有り、四たび蔵書沽却の損益」    壬寅(筆者注、天保十三年)夏五、六月より、田舎源氏と云長編なる合巻の画冊子を絶板せらる。板元    鶴屋喜右衛門を町奉行遠山殿へ召よせて、吟味是あり。(中略)    作者柳亭種彦はこの年七月下旬病死したる故にや、只絶板せられしのみにて、今に至るまで裁許なし。    板元鶴屋は僥倖を得たり。種彦は実名を高屋彦四郎と云小十人の小普請なれば、始めより作者を召出さ    れず。こゝをもて、田舎源氏の画工国貞もこの一件を免れたる也〟     ◯『【江戸現在】広益諸家人名録』二編「ス部」〔人名録〕②91(天保十三年夏刊)   〝画 香蝶【名国貞、別号英一螮】亀戸町 角田庄蔵〟     ◯『馬琴書翰集成』⑥30 天保十三年六月十九日 殿村篠斎・小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-6)   〝中本一件落着之事、六月十五日、清右衛門罷越、実説初て聞知り候。九日より三日うちつゞき御呼出し、    御取しらべニて、十一日ニ落着致候。板元七人并ニ画工国芳、板木師三人ハ過料各五〆文、作者春水ハ    尚又咎手鎖五十日、板木ハ不残手斧にてけづり取、或ハうち砕き、製本ハ破却之上、焼捨被仰付候。是    にて一件相済候。右は北奉行所遠山殿御かゝり御裁許に候。春画本も右同断の由ニ候。寛政のしやれ本    一件より、板元ハ軽相済候。春画中本之画工ハ、多く国貞重信ニ候得ども、重信ハ御家人、国貞ハ遠    方ニ居候間、国芳壱人引受、過料差出し候。春画之板元ニ成候板木師、并ニ中本之板木師ハ、こしらへ    者ニ候間、過料ハ丁平差出し候半と存候。右一件ハ相済候へ共、又丁子屋とかり金屋を南町奉行へ被召    出、当春板元無名ニて売出し候、ドヽイツぶしの中本之御吟味有之由聞え候。是ハ去年中、深川遊処ニ    て男芸者之うたひ候、ドヽイツといふさハぎ歌流行ニ付、春水夫ヲ集メ、深川芸者之名ヲ記、画を英泉    ニ画せ、中本ニ致、板元無名ニて売出し候所、よく売候由聞え候間、此御吟味ニて、丁子屋・雁がね屋    被召出候由聞え候へ共、是ハ風聞のミにて、虚実ハ未ダ不詳候。前文之役者似㒵、遊女・芸者之画、不    相成候ニ付、地本屋・団扇屋等致当惑、内々日々寄合致、生娘を板し候事、御免ヲ願候半歟抔申候由聞    え候。左様之義願出候ハヾ、又御咎ヲ蒙り候半と、苦々敷存候。『田舎源氏』重板致候者有之由聞え候    得ども、是も売候事成間敷候。『八犬伝』ヲ合巻ニ致、春水ニ綴らせ、森屋・丁子屋合板にて、近日出    来之由聞え候得ども、長篇之続キ物御禁制ニ候へバ、是も売候事成間敷候〟    〈中本(人情本)一件の決着は、遠山北町奉行の裁許で、作者為永春水は手鎖五十日。画工歌川国芳は過料五貫文。春     画と中本の画は歌川国貞と柳川重信の手になるものが多いが、「重信ハ御家人、国貞ハ遠方ニ居候間、国芳壱人引受     過料差出候」とあり、なぜか重信と国貞はお咎めなしのようである。御家人と亀戸居住は江戸町奉行の管轄外という     ことなのであろうか。春水編・英泉画の「ドヾイツぶしの中本」とは「日本古典籍総合目録」に『度々一図会』とあ     るものであろうか。この板元らしい丁子屋・雁金屋が召喚されたようだが、これも風聞のみで真偽不明。『八犬伝』     を合巻化したという春水の作品は未詳〉     ◯『吾仏乃記』滝沢解(曲亭馬琴)記 天保十三年記事(八木書店・昭和62年刊)   (家説第四)p475   〝壬寅夏五、六月より、田舎源氏と云長編なる合巻の画冊子を絶版せらる。板元鶴屋喜右衛門を町奉行遠    山殿へ召よせて、吟味是あり。売徳を鞠問せられしに、一編に附金拾五両ばかりなるべし、と答まうし    しと云。其書い一編は二十頁を二冊にしたる者にて、三十一、二編あり。若其売徳を上納せば金三、四    百両なるべきに、作者柳亭種彦はこの年七月下旬病死したる故にや、只絶板せられしのみにて、今に至    るまで裁許なし。板元鶴屋は僥幸を得たり。種彦は実名を高屋彦四郎と云小十人の小普請なれば、始よ    り作者を召出されず。こゝをもて、田舎源氏の画工国貞もこの一件を免れたる也〟    〈町奉行としては、『田舎源氏』を絶版に処したものの、戯作者・種彦は御家人(町奉行の管轄外)の上に、既に死亡し     ているので、これ以上の追究は出来ないとしたのだろう。それで画工国貞と板元鶴屋も沙汰なしになったようだ〉  ◯『馬琴書翰集成』⑥50 天保十三年九月二十三日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-10)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其    絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有    之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ    候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ    画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せ    られ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ    存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さ    る若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。    是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠    景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、    後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事を    せし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取    候て、後便ニ可掛御目候〟    〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名から『藤岡屋日記』の国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と国貞画「菅原操人形之図」に相当す     ると考えられる。(『藤岡屋日記 第二巻』p271・天保十三年(1842)五月記事)『藤岡屋日記』が過料処分の理     由を「役者の似顔ニ致し」たためとするのに対し、馬琴の方は「似顔ならねど」「役者絵に紛識」として絶版処分に     している。このあたり相違が何を意味するのかよく分からない点もあるが、いずれにせよ、役者似顔絵にとって厳し     い時代が続いているわけで、その第一人者たる国貞にとっては、なお受難の時代が続くのであった〉    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p394(藤岡屋由蔵・天保十三年記)   ◇不知火横綱免許   〝両国回向院にて勧進相撲興行    肥後、不知火諾右衛門、横綱免さる也〟
   「不知火諾右衛門」   ◇「歌川国貞」の項   〝歌川国貞 〈後改豊国〉〈天明六年丙午の出生〉          文化二年の頃より天保の今に至て盛也      俗称 角田〔庄五郎〕〈庄蔵〉  居 本所五ッ目 後亀井戸天満宮門前に居す 後柳島      姓(空白) 武蔵葛飾郡西葛西領産      号 一雄斎〈一に〉五渡亭 香蝶楼〈北梅戸 富望山人 冨眺庵〉 樹園         月波楼(文化の頃よりと云々)        英一蝶〈天保四年より英一桂の門に入て、かく号すといふ。香蝶楼と号すも、一蝶が実名信香            の香と一蝶の蝶をとりて名つけたり〉    国貞は本所五ツ目渡し場に住り〈渡船の株式其家にある故〉仍て五渡亭の号有り(蜀山人此号を贈りし    と云)若年の頃より浮世画を好み、師なくして役者絵を書り、豊国の門人となりて、始て臨本〈てほん〉    をあたへ、その浄書を見て、豊国も其鍛練を驚しと云り。幾程なくして、文化の始め(二三年比)草双    紙板下を画り(京山始ての作、国貞始ての画、妹背山、江見屋板)是より年々に発市す。錦絵は中村歌    右衛門大坂より下りし頃(在原系図、梅若狂言、切狂言お旬伝兵衛猿廻し堀川の段を勤、二番目狂言、    富ヶ岡恋山開、出村玉やの狂言、是歌右衛門が目見ヘ狂言、二のかわり二千楼、古今まれなる大当り也)    数品を画て発市す。     欄外〈国貞、始ての板元は西村や与八也〉    団扇絵(歌右衛門、猿廻与次郎の画うちはゑを始て画くなり)草双紙大ィに行れて多く画出し、又役者    似顔絵は師豊国にまさりて〈俳〉優の故実を正し、当世の美人絵は殊に工夫を凝し、花街娼妓の風(時    世によりて格別の易り有)深川、品川、四谷、新宿、根津、弁天、松井町、常盤町、お旅、谷中、三田、    三角、其余の賤妓に至る迄、風俗を分ち画出せしかば、一時に其名を轟し、三都片鄙迄も賞しあへり。    天保十五辰年春、師の名を継て〈一陽斎〉歌川豊国と号す(二世豊国と名書を記す。按るに二世にあら    ず三世也)画風は豊国の骨法を学得、又一蝶、嵩谷が筆意をも慕しかど似るべくもあらず、読本を画る    ものは尤少く、出来宜しからず。門人数多あり〈弘化二乙巳、薙髪して肖造と号す。翌年柳島に別宅し    て、国貞の名は門人国政にゆづり、養子として亀戸の居をゆづれり〉〈元治元年甲子十二月十五日卒、    行年七十九才、亀戸村光明寺に葬。肖像の錦絵に辞世の歌とてあり      一向に弥陀へまかせし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏  豊国老人〉     絵本役者夏の富士(役者素顔の絵本 彩色摺)     絵本戯場顕微鏡〈ムシメガネ〉(彩色摺)     侠客伝 (読本 馬琴作)     阿古義物語    五冊 三馬作 豊国と合作     小桜姫風月奇観  四冊(京山作)  玉石童子訓 (馬琴作)    〈国貞の画、天保の末よりやゝ衰へたり。改名の時二世豊国と書たるを見て、何人の狂歌にや      歌川をうたがわしくもなのり得て二世の豊国偽〈ニセ〉の豊国    按るに、近頃国貞英一蝶の画印を用るを度々見たり。五渡亭国貞と画名をかき、花押は(花押にはある    べからず、印歟。本文誤なるべし)英一蝶とあり、いかなる故ある事にや、嵩谷の裔嵩陵の門に入て、    故人の名跡を望むとにや、役者似顔の錦絵には似付かぬ画名を慕し事也(月岑按るに、英〔一珪〕〈嵩    陵〉の門に入て、英一螮といふ印面を見て、此作者一蝶と見違へしにや
   「歌川国貞系譜」       切組燈籠絵といへるもの、元は上方下り也。夫故京の生洲、大阪の天満祭など古板にあり。寛政の末に    や、北尾政美蕙斎画き出し、吉原のとうろう〈俄〉芝居の図などをあらはしけるか。文化中、歌川国長    豊久の両人多く画き出して、世に行れたりしが、天保の頃よりは新板少くなれり〟  ☆ 天保十四年(1843)  ◯『藤岡屋日記』   ◇豊国画絶板 ②337   〝五月十九日 此節豊国の画、子供踊りの錦絵、絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也〟     〈豊国とあるが、五月廿四日の記事と同じであることから、国貞のことであろう〉   ◇国貞画絶版 ②340   〝五月廿四日 子供踊錦絵、国貞画、板行御取上ゲ也、売々(買)御差留、其外役者名前紋付候もの、同様    ニ御差留也〟〈国貞の「子供踊錦絵」は未詳〉  ☆ 天保年間(1830-1844)  ◯「江戸自慢 文人五大力」(番付 天保期)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝風流時勢粧 倭画    香蝶楼国貞 歌川国直 歌川国芳 柳川重信 渓斎英泉〟    〈「時勢粧」とは現代流行の風俗という意味、それを画く「倭画」とはすなわち「浮世絵」のこと。国貞を筆頭とするこれら     の面々が当時の浮世絵界を代表する大立者であった。ただ不審なのは北斎の不在。北馬のように画家として別に登場     するわけでもなく、この番付には北斎の痕跡がないのである〉  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)(当春国貞改 豊国襲名)     〈改名時期については、上掲『藤岡屋日記 第二巻』p394(藤岡屋由蔵・天保十三年記)の加筆記事が「天保十五辰年春」    とし、また仮名垣魯文の「天保甲辰年(改元弘化元)当春先師の名を嗣ぎて一陽斎歌川二世豊国と改号す」(『増補私の    見た明治文壇1』所収)などを参考にすると、天保十五年春(正月)と見てよいのだろう。また次のような資料もある〉     ◯「三世歌川豊国(上)」荘逸楼主人著(『浮世絵』第十二号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(24/27コマ)   〝(国貞の三代豊国襲名時期について)私は(天保十五年)の正月説に賛成する、これは外ではない二世三    世襲名襲名披露の配り扇が証拠立つて居る、画は島田髷の振袖姿の娘と、裃を着けた児童の図で、これ    へ左の文が添えてある。      睦月七日は師の忌日なれば墓もふでせしに、うからのよりて師の名をつげよとあるにいなみがたく      やがてぞ其意にまかしぬ、野坡うしの句を思ひ出て朋友(ともどち)へかいつけおくりぬ        長松が親の名で来る御慶哉          国貞改二代目 歌川豊国〔年玉花押〕〟     画と云ひ、野坡の句を挙げたと云ひ、此襲名が夏でなくつて春である事は立証すべきもの(云々)〟    〈子供の裃すがたといい、睦月七日の師・初代豊国の墓参といい、はたまた野坡の句を引いて、自らを丁稚奉公の長松     に擬え、一人前になった今は親同様の豊国を名乗って「御慶(新年を祝う詞)」の挨拶をするというのである。やはり襲     名は正月(睦月)なのである〉  ◯『戯作花赤本世界』合巻(式亭小三馬作・歌川国貞画・弘化三年刊)   (国書データベース画像)   〝(小三馬口上)うた川国貞ぬしおとゞしのなつ豊国と改名いたされました(云々)〟    〈天保十五年夏の改名も留意しておきたい〉  ◯『藤岡屋日記』②419 国貞、豊国襲名記事   〝(天保十五年)此頃歌川豊国弟子五渡亭国貞、二代目豊国と成、此時沢村訥升、沢村宗十郎訥子と改名    致し、梅の由兵衛を相勤ル也。右看板を国貞、豊国と改名致し、始而是を書也〟   〈ARC番付ポータルデータベースによると、訥升の宗十郎襲名公演は、天保15年7月の市村座「沢村咲初由兵衛」とのこと〉  ◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (記事は天保十五年冬。下記国芳の「土蜘蛛」の絵が出板されたのは天保十四年八月)   〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口    の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁    ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、    四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ    りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ    ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の    禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟    〈今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」(一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」の絶板にも懲りず四天王ものが出版に     なった。(国芳の「土蜘蛛」は処分されなかったが、その後に出た玉蘭斎貞秀の「土蜘蛛」は処分された)ここに言     う「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三界図絵」。「岩戸神楽」とは「国貞改二代豊国画」の署名のある     「岩戸神楽乃起顕」。つまりこの年、改名したばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続きの一勇斎     国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、町老(町年寄か)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して高値で売     られたようである。2011/03/25記 2021/10/14訂正〉    〈この天照大神の出現を、天保十四年(1843)閏九月の老中交代劇、水野越前守忠邦の老中罷免、阿部伊勢守正弘の老     中就任を戯画化したものと、捉えていたが、一方で、如何に痛快な出来事とはいえ、時流に敏感な江戸の出版界が、     一年以上も前のものを、わざわざ出版するであろうかという疑問もある。ところが『浮世の有様』の弘化二年(1845)     正月の記事に「水野越前守殿にも再勤後、種々の取沙汰なりしが、又御登城御差留に旧冬相成し由、慥に江戸表より     申来りしと云」とある。(本HP「浮世絵の筆禍」天保15年(弘化元年)の項参照)水野越前守の老中再辞職は、正式に     は弘化二年の二月二十二日だが、前年の天保十五年(1844)冬の江戸では辞任の噂が流れていた。そうすると「岩戸神     楽乃起顕」を水野再辞職の判じものだと考える輩も出てこよう。2013/11/12追記〉
   「岩戸神楽乃起顕」国貞改二代豊国画(月刊京都史跡散策会・第22号)  ◯「百人一首絵抄」錦絵 佐野喜板 出版開始   (国立国会図書館デジタルコレクション)    「国貞改二代豊国画」「国貞改二代一陽斎豊国画」    改印 六十八番まで 名主単印 七十番以降百番まで 名主双印〈双印は弘化四年から〉  ◯「【当世名人】芸長者華競」(番付・弘化元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝万画 北斎 卍    稀人 曲亭馬琴〟
  〝浮世 香蝶楼    程吉 一勇斎
  〝画景 一立斎広重    画作 一筆庵英泉〟    〈この番付には「甲乙なし」とあるが、字の大きさや配置からすると、一番格上なのが、戯作の第一人者・馬琴と対に     なっている北斎、次ぎに香蝶楼国貞と一勇斎国芳、そして広重・英泉のようである。国貞の「浮世」とは当世を活写     する能力に優れているという意味であろうか〉    ☆ 天保頃    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川国貞画    「歌舞妓水滸伝忠臣蔵国貞双六」国貞画    加賀屋吉衞門 天保初 ②    「(まさる)商七福双六」   「国貞画」   式亭三馬店  天保  ② 小三馬作    「忠臣蔵出世双六」     「香蝶楼国貞画」板元未詳   天保  ②    「天神記国貞双六」      国貞画    加賀屋吉衞門 天保初 ②    「中村芝翫当双六」     「五渡亭国貞画」新勢堂    天保頃 ④  ☆ 天保十四年~弘化四年(1843-47)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川国貞画    「奥奉公二偏 娘一代成人双六」「一陽斎豊国画」 上州屋重蔵  改印「村」①② 万亭応賀作    「伊勢物語業平寿娯六」    「一陽斎豊国画」 藤岡屋慶次郎 改印「渡」② 松亭金水作    「奥御殿御祝儀双六」     「一陽斎豊国画」 辻屋安兵衛  改印「渡」① 万亭応賀作    「本朝賢貞勇女双六」     「歌川豊国画」  木屋宗次郎  改印「村」①    「本朝貳拾四孝双六」     「一陽斎豊国画」 和泉屋市兵衛 改印「渡」⑧②    「天地人長久双六」      「一陽斎豊国画」 若狭屋与市  改印「濱」①② 万亭応賀作    「武芸立身舘双六」      「一陽斎豊国画」 上州屋重蔵  改印「渡」④②⑥ 万亭応賀作    〔源氏物語双六〕       「一陽斎豊国画」 伊勢利    改印「渡」②    「御好ニ付染模様仕立双六」  「画工一陽斎豊国」太田屋佐吉 (名主単印)②     「奥御殿御祝儀双六」     「一陽斎豊国画」 川口屋宇兵衛(名主単印)⑦ 万亭応賀作  ☆ 弘化二年(1845)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(弘化二年刊)    歌川国貞画『相撲節会銘々伝』二冊 国貞画 立川焉馬撰    ◯「合巻年表」(弘化二年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『福徳天長大黒柱』二編「国貞改二代目一陽斎豊国画」「万亭おう賀述」山崎屋清七板    『釈迦八相倭文庫』初編「国貞改一陽斎豊国画」「万亭応賀作」上州屋重蔵板    『紫菜浅草土産』 初編「国貞改 一陽斎豊国画」「春馬改 十返舎一九作」山田屋佐助板                絵題簽「模古図 隣春画」    『女忠節二面鏡』後編「俗名肖造 国貞改二代目豊国」「俗名凉仙 京山作」森屋治兵衛板    『貧富交換欲得』「画工国貞改 一陽斎豊国画」「作者春馬改 十返舎一九作」     序「…香蝶楼の高居をとひたるに、此度国貞を改めて、先師の画名に交換(トリカヘ)ばやと物語せられし       は時にあひてをかしければ、われも一九と換たる戯号に丁度絵師作者草紙の外題に因(ヨシ)あれば       幸事に思ひ…」    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『乳母さうし跡追話』歌川豊国画 山東京山作 佐野屋喜兵衛板    『福禄寿長者千宝』歌川国貞画 式亭小三馬作(注記「日本小説年表による」)    『無漏早咲西行桜』歌川豊国画 磯部一九作 (注記「日本小説年表による」)    『教訓乳母草紙』二~四編 歌川豊国画 山東京山作 佐野屋喜兵衛板    『復讐道中双六』歌川豊国画 柳下亭種員作    『大国初夢話』 歌川豊国画 万亭応賀作 若狹屋与市板     ◯「読本年表」〔目録DB〕(弘化二年刊)    歌川豊国三代画『玉石童子訓』初・二編 一陽斎後豊国画 曲亭馬琴作〈『近世説美少年録』四集の続編〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(弘化二年)    歌川豊国三世画   「新板相撲出世双六」「歌川国貞改豊国画」山本屋・和泉屋(弘化二年)② 立川焉馬著   「奥奉公出世双六」 「国貞改二代豊国画」上州屋重蔵(弘化二年)⑤②⑩ 万亭応賀作    〈改印未詳。刊年を弘化二年としたのは、国貞の豊国改名が弘化元年の春とされるから〉  ◯『馬琴書翰集成』 弘化二年正月六日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-30)   ◇ ⑥115   〝(「金瓶梅」十集之事)残り廿丁の絵は、国貞豊国方にて今以出来不申候。去年春二月、稿本残らず    渡置候処、二ヶ年ニ及其絵出来兼候事、実ニ呆れ果候ていらち候へども、詮方無之候。右之絵組を是迄    の通(二字ムシ)ハ、何も六ヶ敷事ハ無之候。(中略)右の板元泉市も、先年御咎手鎖以来、甚怕れ候    て、『金瓶梅』十集之事抔ハ、今ニ申も不出候〟     ◇ ⑥116   〝国貞豊国と改名之事、早く御伝聞のよしニて云々被仰越、承知仕候。如貴意之、国貞既ニ高名にて、其    師ニも勝り候へバ、豊国ニならでもの事ニ候得共、寅卯両年ハ机の上隙也し故ニ、黄白を得ん為ニ、去    年の秋書画会興行を催候ニ付、名とすべき事なき故に、名弘会と号候て、豊国ニ成候と聞え候。錦絵抔    に二代豊国と書候得共、実ハ三代也。前之豊国在世の時、黄白の為ニ末の弟子を養子分ニ致、豊国没後    二代目豊国と改名致、其折名弘会抔も、廿年ばかりむかしの事ゆへ、知りたる人も多く候。然ども、其    豊国ハ未熟ニて行ハれず、無程壮年ニて没し候間、豊国の跡ハ絶候。爾るに国貞豊国と改名の事ハ、師    より被譲たるニあらず、既ニ二代の豊国あれバ、三代たる事分明なり。後の豊国の跡ニ立ん事を恥てニ    代と書とも、知たる人をば欺き難かるべし。彼等の心術、かゝること多かり。己等ハ不承知ニ候。国芳    も近来ハ劣らず行れ候得ども、画才無候へバ、錦画之外ハ大きニ劣り候。猫児狂の絵抔にて御合点可参    る奉存候〟    〈国貞は師の初代豊国を超えて既に高名であり、いまさら改名するまでもないと、馬琴は見ていた。しかし、寅卯(天     保十三・四)の改革で仕事が激減する中、国貞は、昨年(天保十五年)の秋、黄白(金銭)を得るため書画会を開催     した。ただ、名分のない書画会を興行することも出来ないので、豊国襲名を大義名分にしたというのである。しかも、     国貞が三代を名乗らず二代目としたのは、二代目豊国の後に立つことを恥じたためだと、馬琴は推測している。さて、     この頃の国芳は国貞に劣らない人気があったようだが、馬琴に言わせれば、錦絵以外は全く問題外だとする。板本の     挿画となると、国貞は圧倒的な力量を誇っていたのである。同日付、小津桂窓宛書簡(番号31)参照〉     ◯『馬琴書翰集成』⑥121 弘化二年正月六日 小津桂窓宛(第六巻・書翰番号-31)   〝(『新編金瓶梅』十集の事)旧冬十一月ニ至り、四十丁之内廿丁半ハ書画共出来、十二月上旬黙老人ぇ    差贈り候。残廿丁の画ハ豊国より出来不参候。去年春二月より遣し置候所、壱ヶ年ニて其画出来かね、    黙老人ハ不及申、小子とてもいらち候得ども、人手ニ任候事、実ニせん方無之候。国貞事、豊国と改名    の義ハ、早く御伝聞の由、さこそと奉存候。国貞既ニ高名之事故、改名せずとも不足有間じく、且豊国    の名ハ、昔年養子分之弟子ニ譲り候所、其人ハ画も下手ニて、且壮年ニて没候間、豊国より直ニ受次ニ    もあらず、此度の豊国ハ三代目に候間、おも正敷も無候得ども、一昨年より暫机の上隙也しを補ん為歟、    去秋書画会を催し候ニ付、無名の会ハ難致候間、無拠改名致、名弘と号書画会興行の処、殊ニ盛会也し    由、人の噂ニ聞知し候。夫より以来、錦絵多く出板自由ニ成候ニ付、豊国渡世不相替世話敷候間、『金    瓶梅』の画ハ板本ニならぬもの故、出来かね候事ニ而、外ニ訳ハ無之候へ共、余り久敷成候間、呆れ候    外無之候〟    ◯『浮世の有様』(著者不詳・弘化二年二月か)   〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p963   〝水野越前守御役御免になりて、一天下大に喜悦せしところ、無(一字欠)掛姦佞邪智を振ひ、上の明を    くらまし再勤せしさへあきれ果たることなるに、上座となりしぞ胆を潰さゞる者迚は只一人もなく、阿    部牧野を始め土偶人のごとくに思はれしに、漸々(ママ)水越引込、阿部上座となりぬ。此人の受領伊勢守    といいて、大に発明なるよし評判有にぞ。水野しくじり此人出るやいなや、天の磐戸を押開き天照神の    出ませる様の絵を画く、これを板行す。すべて此類の板行直に御咎を蒙りて悉く絶板になりしがとも、    其絵所々に散乱せし事ゆへ、天下の人これをしらざる者なし。恐入べきことなり〟    〈水野越前守忠邦の老中失脚は天保十四年(1843)の閏九月十三日、市中こぞって歓迎したところ、翌十五年(弘化元年)     六月二十一日、僅か九ヶ月のあまりで再び老中に復帰、市中は暗転大いに落胆する、しかし政局は更に動いて、弘化     二年二月二十一日、水野(水越)は再辞職、老中首座には阿部伊勢守が就任した。世の人々は、阿部伊勢守を伊勢の     縁で天照大御神に擬え、暗鬱たる世に光をもたらすに違いないと、そんな寓意をこの錦絵の中に読んだのである。20     09/11/20記〉    〈上記『事々録』の記事(天保十五年冬)から、この天照大神の出現を、天保十四年(1843)閏九月の老中交代劇、水     野越前守忠邦の老中罷免、阿部伊勢守正弘の老中就任を戯画化したものと、捉えていたが、一方で、如何に痛快な出     来事とはいえ、時流に敏感な江戸の出版界が、一年以上も前のものを、わざわざ出版するであろうかという疑問もあ     った。ところが『浮世の有様』の弘化二年(1845)正月の記事に「水野越前守殿にも再勤後、種々の取沙汰なりしが、     又御登城御差留に旧冬相成し由、慥に江戸表より申来りしと云」とある。水野越前守の老中再辞職は、正式には弘化     二年の二月二十二日だが、前年の天保十五年(1844)冬の江戸では辞任の噂が流れていた。そうすると「岩戸神楽乃     起顕」は再辞職を戯画化したとも考えられる。2011/04/26追記〉
   「岩戸神楽乃起顕」国貞改二代豊国画(月刊京都史跡散策会・第22号)     △『戯作者考補遺』(木村黙老編・弘化二年序)   ◇p319   〝翻蝶楼国貞    俗称を亀田屋庄蔵といふ。豊国の門人にして出藍の誉あり。原(モト)本所五ッ目の渡し船の事を管す。因    て五渡亭の号あり。又香蝶楼、翻蝶楼、月波楼の数号あり。往歳(サキツトシ)大御所様、本所御成の時、国    貞を呼しめて、御前にて浮世絵を画がゝしめ給ふ。国貞、即座に頼政鵺を射て菖蒲の前を恩賞に賜はり、    猪隼太と倶に鵺を荷ひて帰る所を画がく。最も善出来たり。大君大に賞し給ふといふ。稀代の名誉とい    ふべし。性、至孝なり。其母の肖像を画がきて座間の床に懸置、朝夕是を拝す。【父は国貞が幼年の時、    死して其面㒵をしらざるゆゑ、肖像を懸ざるなるべし】師豊国の像をも同じく懸置たり。豊国没後に男    子ありといへども画を好まで余の業をなせし故、同門の徒相謀りて、天保十五年、国貞を勧めて豊国の    名を嗣がしめたり。国貞、其業(ワザ)に精神を竭(ツク)すこと最(モットモ)勉励せり。黙老、嘗て一神仙の像    を画せしめたるに、国貞大に喜て曰く、当時僕(ワレ)に画を需むる者夥しといへども、皆是俳優(ヤクシヤ)    娼妓(オヤマ)の肖像(エスガタ)、或は相撲(スマヒ)人の似㒵(ニガホ)、読本の差絵(サシヱ)、艸双紙の類にて、潤筆    は多く得(ウ)れども、百歳の跡、後世に伝ふる物をゑがゝする人なし。今此神仙の図を命ぜられしは、    僕(ワ)が大幸なりといふ。扨、其画を出し入れなすに、妻子も度毎(タビゴト)に手洗ひ切火打(キリビウチ)し    て、いと大切に尊崇(ソンソウ)せり。此一事を以ても、業を等閑(ナヲザリ)にせざるを見るべし。    安政二卯の年、古稀の齢に至るにより、諸友人のすすめに従ひ、両国橋東の割包店にて、年賀の大会を    なせしに、劇作の諸◯人、三芝居の作者諸俳優、北里の忘八妓婦の類、市街の侠客雇役の頭よりしての    贈り物、車に積み台に充て、かぞへ尽しがたしとなむ。国貞も亦、己が画たる故人、長寿の人の画像の    にしき絵に手拭を取そへて、それ/\贈りぬ〟
  ◇p448   〝国貞 初五ッ目渡シ場 亀田や庄五郎〟    〈『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)参照〉     ☆ 弘化三年(1846)     ◯「合巻年表」(弘化三年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『大晦日曙草紙』     九編(画)豊国 見返し 京水(著)京山  蔦屋吉蔵板     十編「俗称凉仙 京山作」「同偗蔵 豊国画」蔦屋吉蔵板 見返し 京水画    『児雷也豪傑譚』     五編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板(備考、初版は天保十四年刊)     六編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板     (備考、六編から十一編までは一筆大人(渓斎英泉)作。美図垣笑顔は弘化三年九月五日没)    『戯作花赤本世界』「国貞改二代豊国」表紙 芳鶴画 式亭小三馬作 蔦屋吉蔵板    『紫菜浅草土産』二編(画)一陽斎豊国 絵題簽「隣春写」(著)十返舎一九 上州屋重蔵板    『教草女房形気』初編「国貞改豊国画 俗称肖造」「京山作 俗称凉仙」山田屋庄兵衛板 見返し 京水画    『竹取物語』九編(画)国貞 袋 京水画(著)京山 森屋治兵衛板     (備考〔書目年表〕は九編の刊行を天保十三年と記すが、未詳のため、とりあえず弘化三年に立項の由)    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『女夫矮狗恋小田巻』歌川豊国画 万亭応賀作(注記「日本小説年表による」)    『春日長鬚々野話』 歌川豊国画 式亭小三馬作 丸屋清次郎板    『京鹿子娘道成寺』 川豊国画  山東京山作    『虚八百万人一座』 歌川豊国画 式亭小三馬作    『武芸立身館雙六』 歌川豊国画 万亭応賀作(注記「日本小説年表による」)    『都模様大内錦』  歌川豊国画 式亭小三馬作 (注記「日本小説年表による」)    『縁組大福帳』 一陽斎豊国画 万亭応賀作 山崎屋清七板    『福神妹背扇』 歌川豊国画  万亭応賀作 若狹屋与市板    『忠孝雙蝶々』 歌川豊国画  柳下亭種員作    『昔語恋仇浪』 歌川豊国画  万亭応賀作    歌川豊国三世画〔早大〕    『都鳥花の魁』「一陽斎豊国画」見返し「門人国貞画」万亭応賀作 川口屋宇兵衛板    ◯「読本年表」〔目録DB〕(弘化三年刊)    歌川豊国三代画『玉石童子訓』三・四編 一陽斎後豊国画 曲亭馬琴作    ◯「日本古典籍総合目録」(弘化三年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画    『茶番独案文』一冊 一陽斎豊国画 万亭応賀作    『稽古三味線』三冊 歌川国貞画 一筆庵主人(英泉)作      ◯『浮世の有様』「正月雑事」(著者不詳・弘化三年正月記)   〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p1021   〝於江戸又当春はんじものゝ錦絵を出だす。其図は安倍泰成玉藻前を調伏し、神鏡を以てこれに迫り、白    弊を打付、三浦介義澄弓箭を手挟んで玉藻の右に有、狐の眷属共玉藻が後に旗差物にて、何れも得物/\    を以て軍粧をなす有様の神鏡へうつれる所の図也。其訳江戸よりして、申来りし趣左の如し。こは大坂    にて錦絵を商へるもの、其絵に添へて遣はせし書付の写し也      此度江戸表玉藻前の錦絵は、水野一件に付殊の外大売に御座候。此節板木御取上げに相成、夫故江      戸にも一枚も無御座候。直段高印。    泰成 阿部伊勢守 玉藻前 水野越前守 三浦 牧野備前守    鏡の光明にあらはれし狐は、先達てしくじりし役人方、右の内、鳥居玉垣差上ゲ 鳥居甲斐守、ふん銅    は後藤三右衛門、其外大工鍛冶いろ/\の狐あらはれ、玉藻前着物は水もやうらん菊みくすの印、すゝ    きの模様は、水野は野原に成印也。水野見立よく/\御らんなさるべく候〟    〈水野越前守忠邦は、天保十五年(弘化元年)六月二十一日、老中首座再任。同年九月六日、南町奉行鳥居甲斐守忠耀、     (耀蔵)罷免。そして弘化二年二月二十一日、水野が再辞職する。老中首座には阿部伊勢守が就任。以降、牧野備前     守と共に幕政を主導する。後藤三右衛門は水野忠邦の命を受けて天保通宝を鋳造した人だが、私腹を肥やしたという     咎で、弘化二年(1845)十月、斬首に処せられた。阿部と牧野の老中就任は、水野忠邦が失脚した天保十四年閏九月直     後であったから、一連の政局の流れを見ると、結果として阿部伊勢守が天保の改革を断行した水野一派を一掃したか     たちに見えるのである。安倍泰成ならぬ阿部伊勢守が、伊勢神宮ゆかりの鏡でもって、玉藻前(水野忠邦)の正体     (九尾の狐・中国では殷の紂王を誘惑して国を滅亡させた妲己)を見破り調伏したという趣向である。2009/11/21記〉
   「安倍泰成調伏妖怪図」香蝶楼豊国画(簡易検索蘭に「安倍泰成調伏妖怪図」に入力すると画像が出ます)    (国立国会図書館・貴重書画像データーベース)  ◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (西 三段目)   〝戯作 イイダ丁 曲亭馬琴  女画 カメイド 二代目豊国  画一流 ケンヤタナ 鳥居清満    印刻 京バシ  山東京山(ほか略)〟  ☆ 弘化四年(1847)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(弘化四年刊)    歌川豊国画『烈女百人一首』一冊 細画葛飾卍老人 肖像一陽斎豊国 緑亭川柳編     ◯「合巻年表」(弘化四年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『釈迦八相倭文庫』     五編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀  上州屋重蔵板     六編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 豊国門人国政画     七編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 国政画    『女郎花五色石台』     初編上帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板 袋 英泉画     初編下帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板    『勧善青砥演劇譚』     初編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板     二編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板     三編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板 見返し 門人国政画    『龍王太郎英雄譚』     二編(画)一陽斎豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板     三編(画)一陽斎豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板    『遊仙沓春雨草紙』     初編(画)香蝶楼豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板     二編(画)香蝶楼豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板    『大晦日曙草紙』     十一編(画)香蝶楼豊国 見返し 京水画(著)山東庵京山 蔦屋吉蔵板     十二編(画)香蝶楼豊国 見返し 京水画(著)山東屋京山 蔦屋吉蔵板 二十ウ「俗称肖造/豊国画」    『教草女房形気』     二編(画)豊国   二十ウ「俗称涼仙/同肖造」(著)京山 山田屋庄兵衛板     三編(画)歌川豊国 二十ウ「俗称庄造/豊国画」(著)京山 山田屋庄兵衛板    『五色染苧環冊子』初編(画)香蝶楼豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板    『新編金瓶梅』  十集(画)国貞改豊国 後豊国 見返し 英泉画(著)馬琴 和泉屋市兵衛板    『琴声美人録』  初編(画)豊国 見返し 国政画(著)京山 佐野屋喜兵衛板    『葛葉九重錦』  初編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板    『竹取物語』   十編(画)豊国 見返し 門人国政画(著)京山 森屋治兵衛板    歌川豊国三世画〔早大〕    『浮世源氏絵』十四編 歌川豊国画 見返し 門人国政画 山東京山作 森屋治兵衛板    『其由縁鄙俤』初二編 一陽斎豊国画 一筆庵可候作 鶴屋喜右衛門板    『菊寿童霞盃』 九編 歌川豊国画 山東京山作 山本平吉板    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『忠義教誡赤松譚』初編 一陽斎豊国画 如淵外史作 上州屋重蔵板    『婦美車田舎艸紙』   歌川豊国画 一筆庵主人作(注記「日本小説年表による」)    『誂織博多譚』  二編 歌川豊国画 一筆庵主人作(注記「日本小説年表による」)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(弘化四年刊)    歌川豊国三代画    『松白浪熊坂伝記』一陽斎豊国画 春水亭作    〈文化元年刊・黄表紙『東海道松白浪』(初代豊国画)の改題本〉    『玉石童子訓』  五編 一陽斎後豊国画 曲亭馬琴作    ◯「艶本年表」〔白倉〕(弘化四年刊)    歌川国貞(三代豊国)画    『春色閨の栞』色摺 半紙本 三冊「浮世又平」淫斎白水(英泉)作 弘化四年     (白倉注「のち『偽紫女げんじ』として改題再摺。英泉はこの時期戯作者名、一筆庵主人を名乗って作者として、作      者として活躍」)  ◯『著作堂雑記』265/275(曲亭馬琴・弘化四年記)   〝京橋なる本屋蔦屋吉蔵が板にて、八犬伝を合巻に綴り改め、上方より来つる戯作者某に綴らせて、画は    後の豊国になりと云、この風聞今年【弘化四年】六月の頃聞えしかば、八犬伝の板元丁子屋平兵衛ねた    く思ひて、吾等に相談もなく、亦八犬伝を合巻にすとて、文は後の為永春水【初名金水】に課せて是を    綴らせ、画は国芳の筆にて、其板下の書画共丁秋七月に至り稍成りし時、初て予に強て曲亭校合として    出さまほしといひしを、吾肯んぜず是に答て云、吾等此年来、他作の冊子に名を著して、校合など記さ    せし事なし、思ひもかけぬこと也とて、其使をかへしたり、彼蔦屋吉蔵は利にのみはしるしれものにて、    吾旧作の合巻冊子を、恣に翻刻して新板と偽るもの、是迄二三板出したれども、いふかひなくてそが侭    に捨置たり、蔦吉は左まれ右まれ、丁平は八犬伝の板元にて、作者猶在世なるに、吾等に告げずして、    是迄合巻の作はせざりける金水の為永に課て、是を合巻に綴らせしはいかにぞや、彼金水は其師春水の    遺恨にもやよりけん、丁子屋板にて彼が著したる冊子に、吾等の事をいたく譏りたりとて、伊勢松坂な    る桂窓が告げたりしことさへあるに、こたび丁平の做す所、義に違ふに似て心得がたけれども、夫将利    の為にのみして、理義に疎き賈豎のことなれば、いふべくもあらず、蔦吉板の合巻八犬伝は、書名を犬    の冊子と云、初編二編四十丁、今年丁未九月上旬発板の聞えあり、丁平のは初編二十丁、書名をかなよ    み八犬伝と云、近日発行すべしと正次の話也、蔦吉の課たる作者の巧拙は未だ知らず、金水が手際にて    よくせんや、否可惜(アタラ)八犬伝をきれぬ庖丁にて作改めなば、さこそ不按塩なるべけれと、いまだ見    ざる前より一笑のあまり概略を記すのみ〟    〈笠亭仙果作・三世豊国画『八犬伝犬廼草紙』と二世為永春水作・国芳画『仮名読八犬伝』の挿話である。共に嘉永元     年(1848)刊〉      〝蔦屋吉蔵、又美少年録草ざうしにせんとて、後の十返舎一九に約文させて、画は後の歌川豊国筆にて、    弘化四年冬十月上旬出板の聞えあり、因て取よせて、閲せしに、多くは美少年録の抄録にて、初編二冊    □□野の段に至る、その約文、一九が其身の文をもて綴たる処は、前と同じからず、抱腹に絶ざる事多    かり、丁子屋平兵衛又此事を聞知りて、弥憤りに堪ず丁平も又美少年録を合巻ものにして、蔦吉が烏滸    (オコ)のわざはいふにしも足らず、丁平の恣なる、予を蔑(ナイガシロ)にするに似たり、懐ふに当今は寅年    御改正の後、書肆の印本に株板と云物なく、偽刻重板も写本にて受ぬれば、彫行を許さるゝにより、同    書の二板も三板も、一時に出来ぬる事になりたるは、夫将に戯作の才子なければ、人の旧作を盗みて、    利を得まく欲しぬる書賈の無面目になれる也、独歎息のあまり、録して以て後の話柄とす〟    〈三世十返舎一九作・豊国画『新靱田舎物語』嘉永二年(1849)刊の裏話〉      ◯『神代余波』〔燕石〕③129(斎藤彦麿著・弘化四年成立) 〝浮世絵師といふは、菱川師宣といふもさら也、其後、鳥居清長、勝川春章、また其門弟ども、今の世の    風俗、遊女、戯場の俳優人、相撲人など、その者を見るが如くよくかきたり、近き頃は、豊国が門弟な    る国貞いとよくかけり、又その門弟、並びに門弟ならぬ画だくみの、この頃かけるを見れば、男女とも    肩をすくめ、肘を膚につけたるさまにて、寒げにちゞみあがりたる姿にかけるは、いかなる故ならん、    時世のさまとは云ひながら、いやしげに見ゆるなり〟     ☆ 弘化年間(1844~1848)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画   「伊勢物語業平寿娯六」「一陽斎豊国画」藤岡屋彦太郎 弘化頃 ⑨ 松亭金水作   「賑式亭繁栄双六」  「豊国狂画」  式亭三馬店  弘化頃 ②   「義経出世双六」   「一陽斎豊国画」万屋吉兵衛  弘化頃 ②  ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第二十五編「遊戯」p322   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝柳亭種彦と云人、文政十二年以来源氏物語を擬して偐紫田舎源氏と題し草冊子を著す。乃ち前に云合巻    是也。絵表紙凡て十二三編摺、其精製にして美なること未曾有也。近世の合巻皆絵草紙也と雖ども、此    の美密に及ばず。然も表絵表紙背黒漆紙なりしを田舎源氏は背も紋染紙を用ふ。是より草冊子又一変し    て各々此製に倣ひ、前に紫が筆の文にも劣らずと云は、此冊子のこと也。田舎源氏小冊一編各二冊也。    仮名文一行四十五六字、半丁廿七行一紙五十四行、蓋毎紙精密の絵ありて、其畳紙に書をかくこと従来    の如し。画工は歌川国貞、後に豊国と改む、今江戸一の浮世絵師也。然も此冊子には特に筆力を尽し、    従来の風よりは画亦一変せるに似たり。初編桐壺の巻に比する物より天保末年に至り三十△編△△巻に    比する物を作り故人となる。其後題号をかへ、足利絹手染紫或は其由縁鄙俤など云て、之に次ぐ者あれ    ども、画工と製は劣らずと雖ども、作意拙く更に種彦の著述に似ず。後世未之を知らず、今世にては田    舎源氏を以て合巻の魁首と云べし。かゝる不用の物のみ特速に年々大行となること、時勢推て知るべき    也〟    ◯『筆禍史』「奥女中若衆買の図」(弘化頃か?)p165(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝若衆といひ野郎といひ「かげま」といふは、男色を売る美少年のことなるが、単に男子を客として色を    売るのみならず、淫婦の望みによりては、天賦の情交にも応ぜしなり、此かげま茶屋といへるもの江戸    にては芳町、湯島、芝神明前にありて男女いづれの客をも迎へしなるが、天保九年十二月に幕府は之を    禁止し、尚風俗等を絵画として出版する事をも禁止せり、然るに此奥女中若衆を買ふ図は、大錦絵三枚    続として出版せしなり、其図中に題号なく又何等の説明をも加へざりしため、其出版前制規によりて役    人の検閲を受けし際、役人等は普通の女子ども遊興の体ならんと見て、許可の検印を下せしなるが、其    出版後に至りて、かげま茶屋に於て奥女中が若衆を買へる図なること発覚し、直ちに絶版を命ぜられた    りといふ、但し最初役人の方に、許可の印を与へし不注意の廉ありしを以て、版元及び画者には何等の    咎めなかりしといふ     此図の出版は、歌川国貞が天保十四年の夏、三代目豊国と名乗りし後の筆にて、其画風及び欵識等に     よりて察すれば、弘化初年頃のものならんと思へども、其年月不詳なるを以て茲(*「出版年代不詳     の図書」)に録する事とせしなり
     女かと見れば男のカゲマ茶屋    別印刷として添ふる『奥女中若衆買の図』は往年予が翻刻発行せし大錦絵三枚続を今回縮成せるものな    り     図中の四人の内楊枝を口にせるは奥女中、島田髷にて女装せる三人は皆若衆即ちカゲマ(男)なり
  〔頭注〕かげまの歴史    若衆考と題する、男色史の詳細なるものに、浮世絵師の筆に成れる絵図を数多挿入せるものを発行せん    と前年来企画し居れども未だ其機を得ず〟
   「奥女中若衆買の図」 歌川豊国(三代)画 〔『筆禍史』所収〕     ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(万象亭(森島中良)著 文化年中前半)   (「役者似顔絵師 歌川」の項) 〝元祖 歌川豊国【豊春門人、植木町に住】    二代目豊国【豊国実子】    三代目豊国【初国貞、亀戸に住す】    豊国門人 国貞 同 国安      同 国政【富三郎、高麗蔵、うちは絵大首の始、二代目国政は役者絵出さず】      同  国芳〟    〈国貞が豊国を襲名するのは天保十五年(弘化元年・1844)のこと。従ってこの「役者似顔絵師 歌川」の記事はそれ以     降の書き入れであろう〉    ☆ 弘化四年~嘉永五年(1843-52)(改印:名主二印)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化四年刊)    歌川豊国画『列女百人一首』口絵・挿絵・肖像〔跡見88〕    奥付「細画 葛飾卍老人 肖像 一陽斎豊国」緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化四年正月刊    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画    「しん板見立外題寿ご六」 「一陽斎豊国画」人形屋多吉 改印「濱・衣笠」⑤⑩    「賑式亭まさる双六」   「豊国画」   式亭三馬店 改印「吉村・村松」① 墨摺 小三馬作    「東子選繁昌寿語六」   「一陽斎豊国画」上州屋金蔵 (名主二印)②    「足利絹染上り双六」 「本編一陽斎豊国画 一鵬斎芳藤画」太田屋佐吉(名主二印)②    「女教訓出世双六」    「一陽斎豊国画」文正堂   (名主二印)②    「倭風俗太子双六」    「一雄斎国輝画」恵比寿屋庄七(名主二印)②                  袋「表題 豊国画」    「東海道五十三駅看立双六」「一陽斎(空白)」当世堂   (名主二印)②    「山川振分双六」     「一陽斎豊国画」 伊勢屋兼吉(名主二印)②    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「福笑い」「豊国筆」板元未詳(二印)⑥  ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永元年刊)    歌川豊国画『秀雅百人一首』一冊 画工渓斎英泉 柳川重信 一陽斎豊国 一勇斎国芳 前北斎卍老人     ◯「合巻年表」(弘化五年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『春の文かしくの草紙』     初編(画)うた川豊国(著)京山 山本平吉板     二編(画)豊国   (著)京山 山本平吉板    『女郎花五色石台』     二編上帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板 袋 英泉画     二編下帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板    『五十三駅梅東路』     初編(画)歌川豊国 歌川貞秀両画(著)並木舎五瓶 蔦屋吉蔵板     二編(画)歌川豊国 歌川貞秀両画(著)並木舎五瓶 蔦屋吉蔵板     三編(画)歌川豊国 歌川貞秀両画(著)並木舎五瓶 蔦屋吉蔵板    『龍王太郎英雄譚』     四編(画)一陽斎豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板 見返し 門人国麿画      五編(画)豊国   (著)小三馬   藤岡屋慶次郎板    『勧善青砥演劇譚』     四編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板 見返し 門人国政画     (備考、向井信夫の「役者似顔の挿絵が本書四編あたりかより復活、大当たりとなり」を引用)     五編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板    『釈迦八相倭文庫』     八編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板     九編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板     十編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板    『八犬伝犬の草紙』     初編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 松坂屋太平治板 下巻見返し 国政画 袋 国政画     二編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 松坂屋太平治板    『遊仙沓春雨草紙』     三編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板 見返し 国まろ画     四編(画)香蝶楼豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板 見返し 門人国政画     五編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板    『児雷也豪傑譚』     八編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板 見返し 門人国麿画 序 一筆葊主人戯て誌     九編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板 見返し 国麿画 序 一筆庵主人誌     (備考、八・編とも九作者は美図垣になっているが、実際の作者は序者の一筆葊(渓斎英泉)という)    『後贄美少年始』     初編(画)一陽斎豊国 国政補画(著)十返舎一九 松坂屋太平治 見返し 一寿斎国政画     二編(画)一陽斎豊国(著)十返舎一九 松坂屋太平治 見返し 門人国政画     『教草女房形気』     四編(画)歌川豊国(著)山東庵京山 山田屋庄兵衛板     五編(画)豊国  (著)京山    山田屋庄兵衛板    『大晦日曙草紙』十三編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 蔦屋吉蔵板 見返し 国政画    『琴声美人録』二編(画)豊国 見返し 京水画(著)京山 佐野屋喜兵衛板    『英雄五大力』初編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板    『葛葉九重錦』二編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板    『竹取物語』十一編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 森屋治兵衛板                見返し 門人国政画    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『重井菱染別小紋』初編 歌川豊国画  為永春水作    『聖徳太子大和鏡』初編 歌川豊国画  万亭応賀作    『友三味線操合奏』初編 香蝶楼豊国画 式亭小三馬作    『勧善懲悪乗合噺』五編 歌川豊国画  柳下亭種員作    『売初叶恵富久路』   歌川豊国画  服部長狹男(万亭応賀』    『昔語小栗実説』初編 歌川豊国画 松亭金水作    『教訓乳母草紙』五編 歌川豊国画 山東京山作    『青陽石庁礎』初編 一陽斎豊国画 一筆庵可候作 和泉屋市兵衛板    『絵図見西行』八編 歌川豊国画  山東京山作    『浮寝鳥朧漣』   歌川豊国画  空中楼花咲爺咲    『朝顔物語』 初編 歌川豊国画 山東京伝作    歌川豊国三世画〔早大〕    『隅田川月の姿見』三編 歌川豊国画  式亭小三馬作    『邯鄲諸国物語』九編 歌川豊国画 見返し 国政画 笠亭仙果作     ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永元年刊)    歌川豊国三代画『玉石童子訓』六編 一陽斎豊国画 曲亭馬琴作    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(嘉永元年刊)    歌川豊国画『仮名書狂歌短冊』一冊 豊国画 六橋園外七家撰〔狂歌書目〕    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(弘化五年刊)    歌川豊国画『秀雅百人一首』色摺口絵・挿絵・肖像〔目録DB〕〔国会〕    奥付「画工(口絵・肖像)前北斎卍老人 (肖像)一勇斎国芳 柳川重信 渓斎英泉 一陽斎豊国」    1ウ2オ口絵の「八十八歳卍筆」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 弘化五年正月刊    ◯「艶本年表」(嘉永元年刊)    歌川国貞画    『偽紫女源氏』色摺 半紙本 三冊 弘化五年頃 淫斎白水(渓斎英泉)作〔日文研・艶本〕    『満久羅者古』初編三冊 歌川豊国三世画 渓斎白水(渓斎英泉)作〔目録DB〕     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ◯「日本古典籍総合目録」(嘉永元年刊)   ◇滑稽本    歌川豊国画『忠臣裏皮肉論』二巻 歌川豊国画 一筆庵主人作   ◇歌舞伎    歌川豊国画『声色舞台鏡』一冊 歌川豊国画 並木五瓶序 文黒堂板    ◯「【流行】長者盃」(番付・嘉永元~二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝画(行事)雲峯・武清・椿年〟      〝浮世画 国芳・卍老人・豊国    〈喜多武清は大岡雲峯や大西椿年と共に行事として番付の中央に位置している。町絵師の中でも別格の扱いである。卍     老人は北斎、そしてこの豊国は三代目(初代の国貞)。国芳・北斎・豊国、彼等がこの時代を代表する浮世絵師なの     である。ただ、そこに広重が入っていない点、現代の感覚とはズレがあるようだ〉     ◯「嘉永元年戊申日記」④361 五月廿日(『馬琴日記』巻四)   〝豊国方より、同書(合巻『女郎花五色石台』)弐巻拾丁出来、手紙を以、同所画外題稿本受候て、書度    由、申来る〟    〈初代国貞が豊国三代を継いだのは天保十五年(1844)六~七月頃〉       ◯「嘉永元年戊申日記」④364 五月廿七日(『馬琴日記』巻四)   〝(板元)和泉屋次郎吉来る。(合巻『女郎花五色石台』)四集画外題二枚、豊国え返書壱通、右次郎吉    に渡す〟    ◯『名聞面赤本(なをきけばかおもあかほん)』一冊 渓斎英泉画 英魯文作〔目録DB〕    〈野崎左文の「仮名垣魯文伝」によると、この摺本は英魯文(後の仮名垣魯文)の戯号披露の摺物で、本来は嘉永元年     (1848)の頒布を予定していたが、資力不足で延引、刊行は同二年の春の由。(明治28年2月刊『早稲田文学』81号所     収)したがって弘化四年(1847)の詠と思われる〉   〝香蝶楼豊国 飼たてゝ羽つくろひする鴬の笠にきるなら梅の花笠〟      〈浮世絵師で歌と句を寄せた人々は以下の通り〉    柳川重信・葵岡北渓・一筆庵英泉・朝桜楼国芳・墨川亭雪麿・為一百翁(北斎)・香蝶楼豊国  ☆ 嘉永二年(1849)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永二年刊)    歌川豊国(三代)画    『続英雄百人一首』一冊 画工玉蘭斎貞秀 一勇斎国芳 柳川重信 一陽斎豊国 前北斎卍老人                緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板    『新編歌俳百人撰』一陽斎豊国画図 柳下亭種員撰 紙屋徳八板    『註入百人一首』一冊 一陽斎豊国 一勇斎国芳 㐂三屋寿麿編 江戸三河屋鉄五郎板    『関取名勝図絵』再刻 画工国貞改一陽斎豊国 談洲楼焉馬 原版ハ弘化元年也 本屋又助板     ◯「合巻年表」(嘉永二年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『釈迦八相倭文庫』     十一編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 門人国政画     十二編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 門人国政画     十三編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 門人国政画    『八犬伝犬の草紙』     三編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板     四編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板     五編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板      〈六編の画工は歌川貞秀〉     七編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板    『女郎花五色石台』     三編上帙(画)豊国   (著)馬琴   和泉屋市兵衛板     二編下帙(画)一陽斎豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板    『児雷也豪傑譚』     十編 (画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板     十一編(画)一陽斎豊国(著)美図垣笑顔 和泉屋市兵衛板     (備考、十・十一編とも作者は美図垣になっているが、実際の作者は序者の一筆葊(渓斎英泉)という)    『新靭田舎物語』     初編(画)歌川豊国(著)十返舎一九 蔦屋吉蔵板     二編(画)歌川貞秀(著)十返舎一九 蔦屋吉蔵板 表紙 豊国    『教草女房形気』     六編(画)歌川豊国(著)山東庵京山 山田屋庄兵衛板 見返し 門人国政画 袋 豊国門人国貞画     七編(画)豊国  (著)京山    山田屋庄兵衛板 見返し 門人国貞画 袋 立斎    『英雄五大力』     二編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板     三編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板    『春の文かしくの草紙』三編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 山本平吉板 見返し 門人国政画    『五色染苧環冊子』二編(画)一やうさいとよくに(著)しきてい小さんば 藤岡屋慶次郎板 見返し 立斎画    『龍王太郎英雄譚』六編(画)一陽斎豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板 見返し 立斎画    『勧善青砥演劇譚』六編(画)一陽斎豊国(著)藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板 見返し 門人国政画    『遊仙沓春雨草紙』七編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳  山口屋藤兵衛板    『大晦日曙草紙』十四編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 蔦屋吉蔵板 見返し・袋 国政画    『御贄美少年始』三編 (画)一陽斎豊国 著)十返舎一九 蔦屋吉蔵板  見返し 門人国政画    『庭訓朝顔物語』初編 (画)歌川豊国 (著)山東庵京山 森屋治兵衛板 見返し 門人国政画    『怪談春の雛鳥』四編 (画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 川口宇兵衛板 三ウ屏風「一雷斎国政画」                見返し 門人国政 門人国貞 袋 国政    『琴声美人録』三編(画)歌川豊国 (著)山東庵京山 佐野屋喜兵衛板 見返し 国政画    『葛葉九重錦』三編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板  見返し 門人国政画    『竹取物語』十二編(画)豊国   (著)京山翁 森屋治兵衛板 見返し・袋 門人国貞画    『白縫譚』初編(画)豊国(著)種員 藤岡屋慶治郎 見返し 門人国貞画     (表紙の画工担当)    『引書語三姓太夫』二編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 楽亭西馬作    『新靭田舎物語』 初編 歌川豊国画  十返舎一九作             二編 歌川貞秀画  表紙 豊国 十返舎一九作    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『大悲妙智達磨軸』初二編 歌川豊国画  藤本吐蚊作 菊屋幸三郎板    『忠義教誡赤松譚』四編  一陽斎豊国画 如淵外史作 上州屋重蔵板    『いろは蔵水滸伝』初二編 一陽斎豊国画 並木五瓶作    『聖徳太子大和鏡』二編  歌川豊国画  万亭応賀作    『古今草紙合』  初二編 一陽斎豊国画 笠亭仙果作 蔦屋吉蔵板    『歌枕二世譚』  四巻  歌川豊国画  一筆庵可候作    『花匂梅春風』  初編  歌川豊国画  式亭小三馬作(注記「日本小説年表による」)    歌川豊国三世画〔早大〕    『其由縁鄙俤』四五編 一陽斎豊国画 一筆庵可候(英泉)作 錦林堂・仙鶴堂板 見返し 門人国政画    『青陽石庁礎』 二編 一陽斎豊国画 一筆庵可候(英泉)作    『菊寿童霞盃』 十編 歌川豊国画  山東京山作 山本平吉板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(嘉永二年刊)    歌川豊国画    『月次狂歌雙面』上巻一冊 歌川豊国画 落栗庵木網編 三玉堂板    『伊達茂夜雨』一帖 豊国画 六朶園編 花街連板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永二年刊)    歌川豊国画    『続英雄百人一首』上中下 口絵・肖像〔跡見91-93 異種〕     奥付「画工 口絵出像 前北斎卍老人 出像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 柳川重信 一陽斎豊国」     緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 嘉永二年正月刊    『贈答百人一首』〔跡見1753〕     巻末「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀        肖像 梅蝶楼国貞 一陽斎豊国」〈国貞は二代、豊国は三代〉     緑亭川柳序編・序「嘉永二癸丑新春」山口屋藤兵衛版 名主二印「衣笠・村田」    『錦絵註入 百人一首』色摺口絵・挿絵〔目録DB〕     見返し「一陽斎豊国画 一勇斎国芳画」喜迺屋寿麿著     「朝桜楼国芳画 一勇斎国芳画」「豊国画 一陽斎画 一陽斎豊国画 香蝶楼豊国画」     〈改印に名主一印と名主二印とがあるから、弘化末年~嘉永元年にかけての作画と思われる〉     奥付「嘉永二酉初春」和泉屋市兵衛・丁子屋平兵衛・三河屋鉄五郎板    『新編歌俳百人撰』色摺口絵・挿絵・肖像〔跡見234 異種〕     奥付「一陽斎豊圀画図」柳下亭種員撰      紙屋徳八板 改名主二印〔村田 米良〕嘉永二年四月刊  ◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号  大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション画像)(21/25コマ)   (番付中央)    上段(行事)  秋津島 坂東三津五郎 漫画 前北斎卍翁 三国志 玄龍斎戴斗    中段(年寄)  千里鏡 歌川国丸   兼  尾上梅寿  摺物  葵岡北渓    下段(勧進元) カネル 中村歌右衛門 一陽斎豊国   (番付西方)    最上段 兼ル 一勇斎国芳 景色 一立斎広重 櫓下 鳥居清満  画本 柳川重信        合巻 玉蘭斎貞秀〟    〈最上段の国芳・広重は現存浮世絵師の双璧で大関格だが、同時代の一陽斎豊国三代は勧進元で別格扱い、国芳の武者     絵や広重の風景画より豊国の役者絵・合巻・源氏絵の方が印象的には圧倒的なものがあったのであろう。本HP「浮世     絵事典」【う】「浮世絵師番付」嘉永二年の項参照〉  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p506(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   ◇仮名手本忠臣蔵    〝七月七日初日     仮名手本忠臣蔵 増補十五段続  座元 中村勘三郎    世に知られたる竹田出雲が妙作の十一段へ、御好に任せ銘々伝を綴り合せし幕無の、大道具は花野の秋    のいろはの袖印、御ひいき御恵之神の応護、大星之手配。     【浄瑠璃道行】千種花旅路の嫁入 八段目に相勤申候     (配役名あり、中略)    右狂言の錦絵、豊国画八十番、国芳が画五十番、出板致す也〟
   「仮名手本忠臣蔵・大序」一陽斎(香蝶楼)豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
   「仮名手本忠臣蔵・五段目」一勇斎国芳画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p543(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も笑い本同様ニて、殊ニ表紙も立派成彩    色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代    退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一    字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて    出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、    是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる事を口へ書入、又々評判ニて、翌申    (嘉永元年)暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国なり、当酉年(嘉永二年)春五篇    も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間    ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染の紫と云題号ニ直し、鶴喜の株    を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致し、太田やへ押懸り大騒動ニ    及びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出ル也、太田屋ハ足利衣手染の    紫、作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ師匠種彦が書残置候写本故ニ    此方が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、是定斎屋の争ひの如くなれば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画のはたす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉     ◯『藤岡屋日記 第三巻』p544(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し    当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを    盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇    迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙    果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁    平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし       芳談と其仮名読ハわかれ共          心の犬がいがみ合けり〟    又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ    て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。    又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ        丁平のたいらもこぶがいでるとは           さて蔦吉もよくなひと見へ〟    〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)ま     で二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、     『仮名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に     及ぶ。後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』     が文字通り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉     ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永三年刊)    歌川豊国三代画『義烈百人一首』一冊 画工 玉蘭斎貞秀 一猛斎芳虎 一勇斎国芳 一陽斎豊国                          前北斎卍老人 緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板     ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永三年刊)    歌川豊国画『義烈百人一首』口絵・肖像〔跡見102 異種〕    奥付「画工(口絵・肖像)前北斎卍老人(肖像)一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀 一陽斎豊国」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛 嘉永三年正月刊     ◯「合巻年表」(嘉永三年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『八犬伝犬の草紙』     八編 (画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 見返し「立斎画     九編 (画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 見返し「立斎筆」袋「立斎写」     十編 (画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 見返し「立斎画」袋「立斎写」     十一編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 見返し「立斎筆」袋「立斎写」     十二編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板     十三編(画)豊国   (著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 見返し 立斎画 袋「立斎画」    『釈迦八相倭文庫』     十四編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国政画」袋「立斎画」     十五編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国政画」袋「立斎画」     十六編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国政画」袋「立斎画」     十七編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「金次画」    『侠客伝仦模略説』     初編(画)上冊 一陽斎豊国 楽亭西馬 蔦屋吉蔵板          下冊 一雄斎国輝 表紙 豊国     二編(画)一雄斎国輝 表紙 豊国 楽亭西馬 蔦屋吉蔵板     三編(画)一雄斎国輝 表紙 豊国 楽亭西馬 蔦屋吉蔵板     〈本文挿絵、初編は師匠の豊国だが二編以降から弟子の国輝に担当が代わる〉    『龍王太郎英雄譚』     七編(画)香蝶楼豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板 袋「傚鳥居清信古画 香蝶楼写」     八編(画)香蝶楼豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板     『田舎織絲線狭衣』     初編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板      二編(画)豊国   (著)川柳   山口屋藤兵衛板 見返し「静湖書画戯墨」袋「静湖戯画」    『遊仙沓春雨草紙』     八編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板     九編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳 山口屋藤兵衛板    『児雷也豪傑譚』     十二編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 和泉屋市兵衛板 見返し 上冊 豊国か 下冊「門人国政画」     十三編(画)香蝶楼豊国(著)柳下亭種員 和泉屋市兵衛板 見返し 上冊「豊国門人久画」下冊「門人鶴画」     十四編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 和泉屋市兵衛板    『足利絹手染紫』     六編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 太田屋佐吉板 見返し「国政画」      (備考「本書は「其由縁鄙廼俤」(一筆庵主人作、豊国画、弘化四年初版刊行、全五編)」を「足利絹手染紫」と       改題して書き継いだもので、六編より始まり、二十編まで全十五編」)     七編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果  太田屋佐吉板 見返し「国政画」袋「門人国政画」    『教草女房形気』     八編(画)歌川豊国(著)山東庵京山 山田屋庄兵衛板 袋「豊国門人国政画」     九編(画)豊国  (著)京山    山田屋庄兵衛板    『薄紫宇治曙』     初編(画)香蝶楼豊国(著)柳下亭種員 山本平吉板 見返し「門人国政画」袋「国政画」     二編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 山本平吉板 見返し「一寿斎画」袋「国政画」    『琴声美人録』     四編(画)豊国(著)京山 佐野屋喜兵衛板 見返し「国政画」      五編(画)豊国(著)京山 佐野屋喜兵衛板     『白縫譚』     二編(画)いちやう斎とよくに(著)利うか亭たねかず 藤岡屋慶治郎板 見返し「国政画」袋「国政画」     三編(画)豊国(著)種員 藤岡屋慶治郎板 見返し「門人国政画」袋「国政画」    『春の文かしくの草紙』四編(画)歌川豊国(著)山東庵京山 山本平吉板 見返し「門人国政画」    『聖徳太子大和鏡』発端 (画)一陽斎豊国 袋「立斎筆」万亭応賀 丸屋甚八板    『女郎花五色石台』四編上(画)豊国   (著)馬琴    和泉屋市兵衛板    『大晦日曙草紙』十五編 (画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 蔦屋吉蔵板 袋「金次画」〈翌年の十六編、画工が国輝に代わる〉    『庭訓朝顔物語』 二編 (画)豊国(著)山東庵京山 森屋治兵衛板 見返し・袋「門人国政画」    『葛葉九重錦』四編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板 見返し「門人国政画」     (表紙の画工担当)    『侠客伝仦模略説』     初編 一陽斎豊国画・一雄斎国輝画 表紙 豊国 楽亭西馬作     二編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 楽亭西馬作     三編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 楽亭西馬作    『新靭田舎物語』 三編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 十返舎一九作    『咲替蕣日記』  二編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 墨川亭雪麿作    『鶯塚梅赤本』  初編 一寿斎国政画 表紙 豊国 袋「一陽斎豊国画」松亭金水作    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『重井菱染別小紋』二編 歌川豊国画 為永春水(二世)作 伊勢屋仙三郎板    『昔語小栗実説』二三編 歌川豊国画 松亭金水作    『名取草雙蝶々』 前編 香蝶楼豊国画 柳下亭種員作(注記「忠孝雙蝶々の改題本」)    『牡丹園娘荘』初編 歌川豊国画  笠亭仙果作 松林堂板    『縁組大福帳』   一陽斎豊国画 万亭応賀作(三編十二巻 弘化三年~嘉永三年刊)    『雛鶴笹湯寿』三巻 一陽斎豊国画 京山作(注記「日本小説年表による」)    『女水滸伝』二冊 一陽斎豊国画 笠亭仙果作 大黒屋平吉板(三編二十巻 嘉永三年~同六年刊)    『浅草土産』   歌川豊国画 十返舎一九作 山田屋佐助板    『七星奇談』二編 歌川豊国画 柳下亭種員作(注記「日本小説年表による」)    『都正本製』初編 一陽斎豊国画 文亭梅彦作    歌川豊国三世画    『庭訓武蔵鐙』初編 一陽斎豊国画 万亭応賀作 若狹屋与市板 〔盛岡市中央公民館本〕              見返し「立斎筆」〈ネット上の公開画像より〉  ◯『歌舞伎年表』⑥337(伊原敏郎著・昭和三十六年刊)   (「嘉永三年(1850)」の項)   〝三月十七日より、河原崎座、先年御咎有之、海老蔵こと御赦免ありて、此度当座へ下り、御目得狂言、    第一番目、一谷嫰軍記に書添て「難有御江戸景清」。    海老蔵口上には、五代め再勤とき、初代豊国、天岩戸に見たてし三枚つゞきを画き、此度も二代めの豊    国、天岩戸に見立てたる錦絵を出せし故、それに因みたる作意なりとなり〟    〈二代目豊国とあるが、三代目豊国(国貞)。五代目市川海老蔵(七代目団十郎)は天保改革の余波で奢侈を咎められ、     天保十三年(1842)江戸を追放された。嘉永二年の暮赦免になり、同三年正月、江戸に帰還した。寛政八年(1796)に隠     退した市川蝦蔵(五代目団十郎)が再勤したのは六代目市川団十郎が早世した寛政十一年五月以降〉      ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (最上段、西筆頭から五番目・相撲番付でいうと前頭)   〝出藍 カメ井ト 一陽斎豊国 ・真景 中ハシ 一立斎広重 ・狂筆 コク丁 一勇斎国芳    〈師の初代豊国を超えた亀戸の大御所、三代豊国(国貞)。実景を写すに優れた中橋住の広重。自在に戯画を画く国     芳は「コク丁」で日本橋石町住か。東方で同格なのは、「親玉 サルワカ 市川白猿」猿若町の八代目団十郎、「本玉      一丁目 玉楼薄雲」吉原江戸町一丁目玉屋の抱え遊女・薄雲、「力玉」剣山(相撲の大関)浮世絵師と役者・遊女・     力士の組み合わせ。遊女と役者と相撲、いずれも浮世絵にとっては稼ぎの大黒柱、これなくして生業は成り立たな     いものばかり、腑に落ちる三幅対である〉     ◯『【現存雷名】江戸文人寿命付』初編 ②353(畑銀雞編・嘉永三年刊)   〝歌川豊国 絵    歌川のお流れも清き浮世絵は外に類なき江戸の親玉 大極上々吉 寿 千年 亀戸天神橋〟    〈この「江戸文人寿命付」には浮世絵師として他に英泉、北馬、北鵞の名が見えるが、興味深いのは目印に違いがある     ことだ。英泉等にはそれぞれ「画」の目印が付いて「画家」に分類されている。それ対して、この豊国(国貞)だけ     はひとり「絵」の目印である。「江戸文人寿命付」全体見渡しても「絵」は豊国だけである。しかもこの目印は凡例     にない。おそらく「絵師」か「浮世絵」の意味だろうと思われるが、判然としない。編者・畑銀雞、むろん自覚の上     の措置であったはずであろうが、果たしてそこに如何なる意図が働いていたのであろうか。「親玉」とあるから、別     格扱いしていることは確かであるが〉       ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1400(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)
   「歌川豊国系譜」   〝国兼 安物板下ヲ書、両国看板ヲ書、【今按ニ、両国看板トハ、昔時両国橋畔ニ、鈍帳芝居見世物等                      アリシナリ、其看板ヲ言フ】〟
  ◇p中1401   〝歌川国貞    同 国芳    当時役者画候画師、此両人計に候、其内にも国貞一人と可申、其子細は国芳の画は、人物せい高くさみ    しく、国貞が画は幅ありて賑に候、且画もよき故、此画ばかりうれ候て、国芳の役者は一向売不申候、    但し武者画は至て巧者にて、画料国貞より半分下直に候へ共、捌兼候由、国貞五ッ目渡の株を持、五渡    亭と号し、五ッ目に住候、遠方より画双紙の使、不断参候由、国芳は、既に豊国に成べき事候へ共、故    ありてなり不申候由、同国安と申、国貞につゞきて、役者画よく画候者、一昨年相果申候、国芳は職人    風にて細布をしめ、仕事師の如し、国貞は人がら能、常一腰さして出候由 天保九年五月十四日聞    国貞今豊国と、名披露して専らゑがく、弘化元年聞    (補)[署名]「五渡亭国貞」[印章]「(二字未詳)五渡(三字未詳)」(朱文丸印)     国貞門人 貞秀 久保町原  貞房 歌川町  貞景  貞虎〟     ☆ 嘉永四年(1851)     ◯「合巻年表」(嘉永四年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕     『釈迦八相倭文庫』     十八編 (画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国まさ画」     十九編 (画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国綱画」     二十編 (画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国綱画」袋「立斎」     二十一編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人国綱画」袋「立斎」    『八犬伝犬の草紙』     十四編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果  蔦屋吉蔵板     十五編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果  蔦屋吉蔵板 見返し「立斎画」袋「立斎画」     十六編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果  蔦屋吉蔵板 見返し「立斎画」     十七編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果  蔦屋吉蔵板 見返し「立斎画」袋「立斎画」    『足利絹手染紫』     八編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 太田屋佐吉板     九編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 太田屋佐吉板 袋 国政画    『薄紫宇治曙』     三編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 山本屋平吉板 袋 国政画     四編(画)香蝶楼豊国(著)柳下亭種員 山本屋平吉板 見返し 国政画 袋 国政画    『白縫譚』     四編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 藤岡屋慶次郎板 袋 一立斎画     五編(画)豊国(著)柳下亭種員 藤岡屋慶次郎板 見返し 門人国綱画     六編(画)豊国(著)種員    藤岡屋慶次郎板 見返し 国綱画     『春の文かしくの草紙』五編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 山本平吉板 袋「立斎」    『龍王太郎英雄譚』九編(画)一陽斎豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板 下見返し「香蝶楼豊国画」    『遊仙沓春雨草紙』十編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳  山口屋藤兵衛板 見返し「静江」袋「静江画」    『田舎織絲線狭衣』三編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳  山口屋藤兵衛板    『女郎花五色石台』四編下(画)豊国(著)曲亭馬琴 和泉屋市兵衛板〈嘉永五年刊の五編は画工が国輝に代わる〉    『児雷也豪傑譚』十五編(画)豊国(著)柳下亭種員 和泉屋市兵衛板 見返し 国政画     〈十六・十七編もこの年の刊行だが、画工は国輝に代わる〉    『怪談春の雛鳥』五編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 川口宇兵衛板 見返し「門人金次画」    『教草女房形気』十編(画)豊国   (著)京山   山田屋庄兵衛板 袋 立斎    『庭訓朝顔物語』三編(画)豊国   (著)京山老人 森屋治兵衛板    『琴声美人録』 六編(画)歌川豊国(著)山東庵京山 佐野屋喜兵衛板 見返し 国綱画 袋 立斎画    『英雄五大力』 四編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板 見返し「門人鶴三画」袋「立斎」    『葛葉九重錦』 五編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 山田屋庄兵衛板 袋 立斎     (表紙の画工担当)    『島巡浪間朝比奈』     初編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 柳下亭種員作     二編 国輝画    表紙 豊国 種員作    『御贄美少年始』     四編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 十返舎一九作     五編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 十返舎一九作    『今業平昔面影』     二編 一猛斎芳虎画 表紙 豊国 笠亭仙果作     三編 錦朝楼芳虎画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『祥瑞白菊物語』     初編 錦朝楼芳虎画 表紙 豊国 緑亭川柳作     二編 一猛斎芳虎画 表紙 豊国 緑亭川柳作    『竹取物語』     十三編 哥川国てる画 表紙 豊国 見返し・袋「豊国画」京山老人作     十四編 歌川国輝画  表紙 豊国 京山老人作    『侠客伝仦模略説』四編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 楽亭西馬作    『引書語三姓太夫』三編 歌川国政画  表紙 豊国 楽亭西馬作    『十勇士尼子柱礎』初編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『大晦日曙草紙』十六編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 山東庵京山作    『児雷也豪傑譚』十六編 国輝画    表紙 豊国 柳下亭種員作    『新靭田舎物語』 四編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 十返舎一九作    『咲替蕣日記』  四編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 墨川亭雪麿作    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『鄙物語業平草紙』     初編 歌川豊国画 立亭光彦作 若狹屋与市板     二編 梅蝶楼国貞画 同上作    『江戸鹿子紫草紙』四巻 歌川豊国画 文亭梅彦作 嘉永四・五刊    『御伽曾我春歳玉』六巻 豊国画 柳下亭種員作(注記「日本小説年表による」)    『仮名文章女節用』四巻 豊国画 玉塵園雪住作(注記「日本小説年表による」)    『裏表千本桜』六巻 歌川豊国画 柳下亭種員作(注記「日本小説年表による」)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(嘉永四年刊)    歌川豊国画    『翫雀追善はなしとり』二冊 豊国 素真 清満 一勇斎国芳 隣春等画 琴通舎蔵板    『俳優見立五十三次』 二冊 豊国(かめゐど)先生 八文字屋自笑序    『畸人百人一首』   一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 山口屋藤兵衛板                  一雄斎国輝 一猛斎芳虎 一陽斎豊国 緑亭川柳編  ◯「日本古典籍総合目録」(嘉永四年刊)   ◇咄本    歌川豊国画『俳諧発句一題噺』歌川豊国・貞秀画 空中楼花咲爺作     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(嘉永四年刊)    歌川国貞画    『正写相生源氏』色摺 大本 三冊「東都 女好庵主人(松亭金水)著」嘉永四年頃     (白倉注「一説に、越前福井藩主松平春嶽のお手板だという。国貞三源氏の一つ」)    ☆ 嘉永五年(1852)(改印:名主二印・子月)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永五年刊)    歌川豊国画    『翫雀追善はなしとり』二冊 豊国 素真 清満 一勇斎国芳 隣春等画 琴通舎蔵板    『畸人百人一首』一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 山口屋藤兵衛板               一雄斎国輝 一猛斎芳虎 一陽斎豊国 緑亭川柳編    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永五年刊)    歌川豊国画『畸人百人一首』口絵・肖像〔目録DB 同志社〕〔国会〕〔跡見107〕    見返し「嘉永五年新鐫 緑亭川柳著 諸名画集筆 東都書肆錦耕堂寿梓」    奥付「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 一雄斎国輝 一猛斎芳乕 一陽斎豊国」    錦耕堂山口屋藤兵衛板 嘉永五年刊    ◯「合巻年表」(嘉永五年刊)    歌川豊国三世画〔東大〕    『八犬伝犬の草紙』     十八編 (画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 袋 立斎画     十九編 (画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板 下冊見返し「立斎画」袋「立斎画」     二十編 (画)豊国   (著)仙果   蔦屋吉蔵板     二十一編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板     二十二編(画)一陽斎豊国(著)笠亭仙果 蔦屋吉蔵板     二十三編(画)国貞   (著)仙果   同上 表紙口絵 豊国 二十ウ「国政改国貞」袋「立斎画」    『釈迦八相倭文庫』     二十二編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し「門人磯吉画」袋「立斎」     二十三編(画)一陽斎豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板 見返し 国綱画 袋 立斎    『白縫譚』     七編(画)一陽斎豊国(著)柳下亭種員 藤岡屋慶次郎板     八編(画)上冊「豊国」下冊「国貞」(著)種員 藤岡屋慶次郎板 二十ウ「国政改二代国貞画」     〈この挿絵の担当が八編下・九・十編と豊国から二代目国貞に代わる〉    『春の文かしくの草紙』六編(画)一陽斎豊国(著)山東庵京山 山本平吉板 見返し 門人国政画    『龍王太郎英雄譚』  十編(画)香蝶楼豊国(著)式亭小三馬 藤岡屋慶次郎板 二十ウ「一陽斎豊国画」    『遊仙沓春雨草紙』十一編(画)一陽斎豊国(著)緑亭川柳  山口屋藤兵衛板    『教草女房形気』 十一編(画)豊国   (著)山東庵京山 山田屋庄兵衛板 袋 立斎    『薄紫宇治曙』五編(画)香蝶楼豊国(著)柳下亭種員 山本平吉板 袋 国政画     (表紙・口絵の画工担当)    『仮名反古一休草紙』     初編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 柳下亭種員作     二編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 柳下亭種員作    『児雷也豪傑譚』     十八編 国輝画 表紙 豊国 種員作     十九編 国輝画 表紙 豊国 種員作     二十編 国輝画 表紙 豊国 種員作    『白縫譚』     九編 国貞(二世) 表紙口絵「豊国」種員作     十編 国貞画    表紙口絵「豊国」種員作    『八犬伝犬の草紙』二十三編 国貞画   表紙口絵 豊国 仙果作     『関太郎鈴鹿古語』 三編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 楽亭西馬作    『引書語三姓太夫』 四編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 楽亭西馬作    『十勇士尼子柱礎』 二編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 柳下亭種員作    『足利絹手染紫』  十編 国貞画    表紙口絵 豊国 仙果作    『琴声美人録』   七編 国輝画    表紙   豊国 京山老人作    『咲替蕣日記』   六編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 墨川亭雪麿作    『岸柳四魔談』   三編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 楽亭西馬作    歌川豊国三世画〔目録DB〕    『菊橘紫雲幕』二編 豊国画  楽亭西馬作 (注記「日本小説年表による」)    『新編糸桜』 三巻 五渡亭画 柳下亭種員作(注記「日本小説年表による」)    『根源実紫』初二編 豊国画  笠亭仙果作 佐野喜兵衛板    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(嘉永五年)    歌川豊国画    「五十三駅看立双六」  「一陽斎豊国画」 笑寿屋庄七  改印「村田・衣笠・子八」⑤⑩    〔双六〕        「豊国戯画」   辻安     改印「村田・衣笠・子八」①    「新板五十三次見立双六」「一陽斎豊国 一寿斎国貞」若狭屋与市 改印「馬込・濱・子九」①②    「古今所作事倭仮名音曲振分寿吾録」「一陽斎豊国画」伊勢屋兼吉 嘉永5年 ②    ◯「絵入狂歌本年表」(嘉永五年)    歌川豊国画    『月次狂歌雙面』下巻一冊 歌川豊国画 落栗庵木網編〔目録DB〕     〈上巻は嘉永二年刊〉    『狂歌雙面』  一巻   歌川豊国画 花柳園編・六朶園舗 旭園輝雄板〔狂歌書目〕    ◯『翫雀追善はなしとり』(平野雅海編・嘉永五年(1852)二月刊「霞亭文庫」)   〝(二代目・三代目・四代目中村歌右衛門追善 似顔絵)「故図をうつして 豊国画」     入れ筆に涅槃を漏れ(ら?)す紈すゝめ 歌川豊国〟    〈「紈すゝめ」は「翫雀」で四代目歌右衛門のこと。初代中村翫雀は嘉永五年二月十七日没。絵師は一勇斎国芳・隣春・     豊国・清満〉     ◯『増訂武江年表』「嘉永五年」2p132(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   〝豊国が筆にて、天明の頃より文化頃までの「俳優似顔絵」を梓行せしむ〟     ☆ 嘉永六年(1853)(改印:名主二印・丑月)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永六年刊)    歌川豊国画    『贈答百人一首』一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 梅蝶楼国貞 緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板               一陽斎豊国 玉蘭亭貞秀 一猛斎芳虎    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永六年刊)    歌川豊国画『贈答百人一首』口絵・肖像〔目録DB〕    奥付「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀 楳蝶楼国貞 一陽斎豊国」    緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板 嘉永六年序    ◯「合巻年表」〔東大〕(嘉永六年刊)    歌川豊国画(表紙・口絵の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』     二十四編 歌川国貞画 表紙口絵 豊国 万亭応賀作     二十五編 歌川国貞画 表紙口絵 豊国 万亭応賀作     二十六編 歌川国貞画 表紙口絵 豊国 万亭応賀作    『八犬伝犬の草紙』     二十四編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 笠亭仙果作     二十五編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 笠亭仙果作     二十六編 国貞画    表紙口絵 豊国 仙果録    『仮名反古一休草紙』     三編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 柳下亭種員作     四編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『児雷也豪傑譚』     二十二編 一雄斎国画  表紙 豊国 柳下亭種員作     二十三編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『足利絹手染紫』     十三編 楳蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 笠亭仙果作      十四編 梅蝶楼国貞画 表紙   豊国 笠亭仙果作     『白縫譚』     十一編 国貞画    表紙口絵 豊国 種員作     十二編 楳蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員作     十三編 国貞画    表紙口絵 豊国 種員作     十四編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員作    『春の文かしくの草紙』七編 国貞画    表紙口絵 豊国 京山作    『遊仙沓春雨草紙』 十二編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 緑亭川柳作     『龍王太郎英雄譚』 十一編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 式亭小三馬作    『女郎花五色石台』  五編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 柳下亭種員作    『教草女房形気』  十二編 国貞画    表紙口絵 豊国 京山作    『英雄五大力』    五編 一猛斎芳虎  表紙   豊国 万亭応賀作    『琴声美人録』    八編 歌川国輝画  表紙   豊国 京山老人作    『明鴉雪笠松』    初編 一寿斎国貞画 表紙   豊国 笠亭仙果作     〈この年、三代目豊国が合巻本文の挿絵を担当した作品はないようだ。二三年以前から、豊国は自ら担当していた本      文挿絵の担当を少しずつ国輝や国貞(三代目国政)に譲り渡してきたが、その引き継ぎが完了したようである)      ◯「読本年表」〔切附本〕(嘉永六年刊)    歌川豊国三代画    『三都妖婦傳』初編 一陽齋豊国画 笠永仙果作〈三代目豊国・初代歌川国貞である〉    『三都妖婦傳』二編 一陽齋豊国・国貞補助画 笠永仙果作    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(嘉永六年)    歌川豊国画    『狂歌江都花日千両』三冊 歌川広重(上巻)井草国芳(中巻)一陽斎豊国(下巻) 天明老人撰             「戯作之部 画工一陽斎豊国先生」(嘉永六-安政元刊)    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「七福神寿柱建之図」「豊国画」恵比寿屋庄七「村松・福・丑六」①    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「見立三十六歌撰双六」「一陽斎豊国」嘉永6年9月②     ◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年記)   ◇三人賊の錦絵    〝二月廿五日     昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也                            浅草地内雷神門内左り角      錦絵板元                         とんだりや羽根助     今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ    て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門    より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。       三賊で唯取様に思ひしが         飛んだりやでも羽根がもげ助     右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。                        浅草並木町                            湊屋小兵衛                        長谷川町新道                           住吉屋政五郎                        日本橋品川町                            魚屋金治郎     右三人、三月廿日手鎖也〟    〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児     来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを     経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(摺師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸では禁じら     れていた金摺りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的に1両=     60匁=4000文で、計算してみると、三百文になる)で売り出した。天保十三年十一月の御触書では「彩色七八扁摺限     り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き三百文(一枚百文)は飛び抜けて高価である。ところ     が評判を得て売れた。すると早速、改めの懸かり名主がそれを咎め(察斗)て板木を取り上げてしまった。さらに、     板摺・とんだりや羽根助なるものの陰に隠れていた実の板元の名が割れて、湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋金治郎     が手鎖に処せられた。当時の江戸の板元は、利益率も高いが検挙されるリスクも高い商品の場合、密かに板摺に資金     を提供して、板元の役割をさせたのではないか。ところで、どれほど売れたのであろうか。二十五日売り出し、二十     八日の板木没収まで実質三日の販売。参考までにみると、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り     候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。     この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一日だけで銭十六万文、これを金換算すると、実に四十両である。二日     で八十両にもなる。板木を取り上げられるまで、どれだけ売り抜けられるかそれに勝負をかけているのだろう〉      〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値の     四匁五分は440文に相当する。一枚あたり146文になる。1600枚では233600文=37両となる。参考までに「【見立】三     幅対」をあげておく。2010/3/16追記〉
   「見立三幅対」豊国画(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)      ◇板木没収   〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都    会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。    右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評    判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主    立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価。     「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳。     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か。     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か。     「同十二支」は一勇斎国芳画「東都名所見立十二ケ月」か。     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か。     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か。     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か。     以上はすべて嘉永五年の刊行〉       〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文、中品の一匁五分は147文、並の一匁は98文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目     豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
   「東海道五十三次お内 藤川駅」「佐々木藤三郎」豊国画    (国立国会図書館・貴重書画像データベース)
   「江戸名所図会 九・真乳山 三浦屋揚巻」豊国画    (国立国会図書館・貴重書画像データベース)
   「東都高名会席尽 藤屋」豊国・広重画    (国立国会図書館・貴重書画像データベース)      ◇役者似顔絵出回る p238   〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず候処に、少々緩み、去年東海道宿々に    見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、    益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛に商ひ候より御手入に相成、板木を削れ    ら候仕儀に相成候〟    〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致     し候」とあるのは、三代目歌川豊国の「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題をもつ作品群をい     うのであろう〉     〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値、     極上品の二匁は195文。「東海道五十三」は嘉永五年の刊年から、三代目豊国のものと見た。2010/3/16追記〉
   「東海道五十三次内 まり子 田五平」三代目歌川豊国画    (東京都立図書館・貴重資料画像データベース)     ◯『藤岡屋日記 第五巻』p378(藤岡屋由蔵・嘉永六年記)   ◇芝居絵売れず    (九月二十一日から興行予定の中村座「花野嵯峨猫またざうし」、同月十五日番付を市中に配る)   〝右狂言大評判に付、錦絵九番出候也。    一 座頭塗込  三枚続 二番      【蔦吉/角久】    一 同大蔵幽霊 同   三番  照降町  ゑびすや                    神明町  いせ忠                      南鍋町  浜田や    一 碁打    三枚続 壱番  石打   井筒屋    一 猫又    同   壱番  銀座   清水屋    一 大猫    二枚続 壱番  両国   大平    一 猫画    同   壱番  神明町  泉市      〆九番也。    右は同日名前書直し売候様申渡有之候得共、腰折致し、一向に売れ不申候よし〟
   「鍋島の猫の怪」豊国画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)       〈「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」には、外題を「花野嵯峨猫☆稿」として、延べ三十八点が収録されて     いる。すべて豊国三代の作画である。この芝居は興行直前、佐賀の鍋島家から当家を恥辱するものと訴えら れて、     上演禁止になった。鍋島家のこの告発は頗る評判が悪い。佐倉宗吾狂言に対する堀田家の姿勢と比較して次のように     言う〉      〝去年、小団次、佐倉宗吾にて大当り之節に、堀田家にては、家老始め申候は、今度の狂言は当家軽き者    迄いましめの狂言也、軽き者は学問にては遠回し也、芝居は勧善懲悪の早学問也、天下の御百姓を麁略    に致時は、主人之御名迄出候也、向後のみせしめ也、皆々見物致し候様申渡され候よし。    鍋島家にて、狂言差止候とは、雲泥の相違なり〟     ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」〔嘉永六年(1853)〕p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)    【吾妻】錦   浮世屋画工部    (上段)     豊国 にかほ   国芳 むしや  広重 めいしよ  清満 かんばん  春亭 花てふ     貞秀 かふくわん 国輝 むしや  芳虎    (中段)      国貞 やくしや  国盛 をんな  国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政    (下段)      国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊      かむろ       やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ       すごろく かんばん     やりて        ◎◎〟    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目〉
   「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉  ☆ 嘉永頃(1848~1853)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「新版画合源氏双六」「一陽斎豊国画」ゑびすや庄七 嘉永頃 ②⑥    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画    「雛女夫桃の細眉」「香蝶楼豊国画」蔦屋吉蔵 嘉永頃 ⑥(3枚続)              他の「国貞舎豊国画」「一陽斎豊国画」    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(嘉永年間刊)    歌川豊国三世(国貞)画    『生写相生源氏』三冊 豊国三世画 女好庵主人(松亭金水)作     (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『雛源氏』   三冊 豊国三世画?(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)(改印:改・寅月)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(安政元年刊)    歌川豊国画『市川三升追善手向評判記』一冊 歌川豊国画     ◯「合巻年表」〔目録DB〕(安政元年刊)    歌川豊国三世画    『花山吹百人女郎』  歌川豊国画  柳亭種彦(笠亭仙果)作    『踊形容花競』初五編 一陽斎豊国画 柳水亭種清作 和泉屋市兵衛板      〈板元甘泉堂(和泉屋市兵衛)の口上に「彼の豊国大人の画ける似顔も得て」とあり〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「神仏納手拭」「一立斎広重・一陽斎豊国画」板元未詳 改印「改・寅十」②    ◯「日本古典籍総合目録」(嘉永七年刊)   ◇歌舞伎    歌川豊国画『出世鯉滝白玉』一冊 一陽斎豊国画 喜鶴堂板     ☆ 安政二年(1855)(改印:改・卯月)     ◯「合巻年表」〔東大〕(安政二年刊)    歌川豊国画    『明烏夢物語』一冊(備考、八代目団十郎と坂東志うかの追善出版物とし、画工名および板元記載はないが、                 三代豊国か贔屓衆の追善出版であろうとする)    『白縫譚』     十八編(画)国貞 表紙 豊国(著)種員 藤岡屋慶次郎板     十九編(画)香蝶楼豊国 梅蝶楼国貞(著)柳下亭種員 藤岡屋慶次郎板         表紙口絵 豊国     (備考、国貞多忙のため豊国が上冊挿絵を助筆した旨の豊国跋文ありとする)     〈上掲の作品、私的出版に助筆、いずれも事情があってやむを得ず筆を執ったとのこと。表紙は別として本文挿絵の      担当は弟子に任せるという豊国の意志は貫かれているようだ〉     (表紙・口絵の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』     三十編 一寿斎国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作     三十一編 歌川国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作     三十二編 歌川国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作     三十三編 歌川国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作     三十四編 歌川国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作    『八犬伝犬の草紙』     三十三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作     三十四編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『教草女房形気』     十四編 国貞画    表紙 豊国 京山作     十五編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 京山作    『足利絹手染紫』     十六編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 仙果     十七編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 松亭金水作    『児雷也豪傑譚』     二十六編 国輝画    表紙 豊国 種員作     二十七編 一雄斎国光画 表紙 豊国 柳下亭種員作     二十八編 一雄斎国光画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『琴声美人録』     十一編 国輝画    表紙 豊国 京山老人作     十二編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 京山老人作    『時代加賀見』     初編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『風俗浅間嶽』     三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 柳水亭種清     四編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳水亭種清    『白縫譚』     十八編 国貞画    表紙   豊国 種員作     十九編 豊国 国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員     二十編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員    『侠客伝仦模略説』 十二編 歌川国綱画  表紙   豊国 楽亭西馬作    『龍王太郎英雄譚』 十二編 一雄斎国輝画 表紙   豊国 楽亭西馬作    『遊仙沓春雨草紙』 十四編 梅蝶楼国貞画 表紙   豊国 緑亭川柳作    『与謝武郎恋夜話』  四編 梅蝶楼国貞画 表紙   豊国 喜楽庵笑寿作    『玉櫛笥箱根仇討』  三巻 歌川貞秀画  表紙   豊国 笠亭仙果作    『大晦日曙草紙』 二十一編 芳綱画    表紙   豊国 京山老人作    『庭訓朝顔物語』   七編 歌川国貞画  表紙   豊国 京山作     ◯「読本年表」〔切附本〕(安政二年刊)    歌川豊国三代画『三都妖婦傳』三編 一陽斎豊國画 笠亭仙果作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国三代画    「踊形容見立寿語六」「一陽斎豊国画」辻岡屋文助 改印「改・卯九」②    「草紙合高評双六」 「一陽斎豊国画」若狭屋与市 改印「改・卯九」⑨②⑩ 梅素亭玄魚稿    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画〔お雛様〕「豊国画」佐野喜「改・卯八」⑥(2枚続)    ◯「日本古典籍総合目録」(安政二年刊)   ◇歌舞伎    歌川豊国画『明烏夢物語』一冊 歌川豊国画 二河庵白道作(坂東秀佳・市川團十郎追善)    〈添付画像は無署名〉      <二月 見世物 市川団十郎肖像(竹田亀吉)浅草奧山>  ◯『観物画譜』84(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「風流見立人形」錦絵 「豊国画」彫多吉板(卯正)    ◯『藤岡屋日記』第六巻 p568(藤岡屋由蔵・安政二年八月記事)    (八代目市川団十郎一周忌追善供養の施餓鬼差し止め)   〝八月二日(八代目市川団十郎一周忌の追善供養の世話人、留守居書役・井田幾蔵(俳名亀成)、医師・    武内俊宅、船宿・佐倉屋三右衛門、逮捕される。米五合入の仏餉袋を三万五千枚配って施餓鬼を行う予    定であったが、差し止められる)   〝画師豊国も世話人ニ頼れ候ニ付、右袋百枚、赤坂絵双紙屋伊勢兼へ頼ミ遣し候処ニ、伊勢兼ニて、豊国    より頼れ候由之断書を、袋之裏へ書付、所々へ配り候ニ付、右両人とも懸り合ニて、御呼出しニ相成候〟    〈八代目団十郎は前年の安政元年八月六日、大坂で自殺している。その一周忌に米五合入の仏餉袋を三万五千も配って     寄進を募り大施餓鬼をするというのである。団十郎の人気の高さを示すエピソードである。さて、三代目豊国および     絵双紙屋の伊勢兼、召喚された後どうなったものであろうか。それにしても、絵双紙屋伊勢兼は、なぜ袋の裏に豊国     より頼まれたと断り書きをしたのであろうか。豊国の人気にあやかって捌こうというのであろうか〉
   「板東しうか・市川団十郎・嵐音八」死絵 三代目歌川豊国画    (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)     ☆ 安政三年(1856)(改印:改・辰月)     ◯「合巻年表」(安政三年刊)    歌川豊国画    『五十三次老東路』初三編 歌川豊国(三世)歌川貞房画 並木五瓶作〔目録DB〕             (注記「「黄菊花都路」「五十三駅梅東路」の改題本、日本小説年表による」)    『雑談雨夜質庫』 初編(画)一陽斎豊国・一曜斎国郷(著)為永春水 若狹屋与市板〔東大〕                  表紙口絵「豊国」口絵「玄魚」袋「里楽」     (表紙・口絵の画工担当)※出典は全て〔東大〕    『釈迦八相倭文庫』     三十五編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     三十六編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作    『八犬伝犬の草紙』     三十六編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作     三十七編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『時代加賀見』     四編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     五編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     六編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     七編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『仮名反古一休草紙』八編 一雄斎国光画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『関太郎鈴鹿古語』 五編 芳員画    表紙 豊国 楽亭西馬作    『雑談雨夜質庫』  初編 一陽斎豊国・一曜斎国郷画 表紙口絵 豊国 為永春水作    『児雷也豪傑譚』二十九編 一龍斎国盛画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『足利絹手染紫』 十八編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 松亭金水作    『咲替蕣日記』九編 一雄斎国輝画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『夢結蝶鳥追』初編 芳幾画    表紙 豊国 種清作    『童謡妙々車』三編 国貞画  表紙口絵 豊国 種員作    『西国奇談』 初編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『白縫譚』二十一編 国貞画  表紙口絵 豊国 柳下亭種員作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画    「雪月花振分双六」「一陽相豊国画」丸屋甚八  改印「改・辰九」①    「善悪振分双六」 「一陽斎豊国画」伊勢屋兼吉 改印「改・辰九」②①      ◯「日本古典籍総合目録」(安政三年刊)   ◇歌舞伎    歌川豊国画『猿若細見三調志』一冊 画工豊国 作者種清 山口屋藤兵衛他板     〈作者柳水亭種清の自筆草稿〉     <二月 見世物 生人形(松本喜三郎)浅草奧山>  ◯『観物画譜』97・102・103(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「人形之図 一ツ家」錦絵二枚続 「応需 豊国戯写」蔦屋吉蔵板(改・辰三)   「(座敷遊)」錦絵二枚続 「応需 豊国戯写」「一光斎芳盛増筆」相ト板(改・辰三)   「人形の図 部屋(座敷遊)」錦絵二枚続 「応需 豊国戯写」蔦屋吉蔵板 改印不明  ◯「見世物興行年表」(ブログ)     「人形之図(粂の仙人)」錦絵 「応需豊国戯画」相ト板(改・辰二)     <三月 見世物 生人形(藤原晴文)・曲馬・大女・蒸気船・名鳥 深川八幡>  ◯『観物画譜』117(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)   「成田山開帳参詣群集図」錦絵三枚続 「豊国画」藤岡屋慶次郎板     ◯『藤岡屋日記 第七巻』p199(藤岡屋由蔵・安政三年記)   ◇『安政見聞誌』四月刊(安政大地震関する見聞記、一筆庵英寿著・一勇斎国芳、一登斎芳綱画)   (「亀戸天神橋通横十間川筋柳嶋之図」中に、三代目歌川豊国(初代国貞)の家が画かれている)
   『安政見聞誌』「歌川豊国」宅 一登斎芳綱画     <六月 見世物 生人形 浅草奧山>  ◯「見世物興行年表」(ブログ)   「當人形 おまつり佐七・げいしや小糸」錦絵二枚続 「豊国画」板元未詳(辰六)     ◯「東都流行合巻競 初集」(番付 安政三丙辰春新板)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (東)大関 児雷也豪傑譚 (西)大関 不知火物語    〈以下、おびただしい数の合巻の番付。番付中央の行司・勧進元の欄に画工の名あり〉   〝五雲亭貞秀 歌川国輝 歌川豊国 歌川国貞 一勇斎国芳〟    〈不審なのは種彦作・国貞画のベストセラー『偐紫田舎源氏』が入ってないこと。本来なら大関か別格扱いになってもよさ     そうに思うのだが、同作品は天保13年の改革時に板木が没収になっているから、憚ったのであろうか。なおここの豊     国は三代目(自称は二代目)で初代の国貞。そしてここの国貞は二代目〉 ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②92(岩本活東子編・安政三年成立)   〝五渡亭国貞    国貞、号を五渡亭といひ、後香蝶楼といふ、俗称角田庄五郎、本所五ツ目の産也、後亀井戸に住す、豊    国の門人にして、師名を続て、今二代目豊国と改む、役者似顔絵の名人にして、出藍の誉れあり、天保    四己年、嵩谷の画裔嵩凌が門に入りて、英一螮とも号す、現存なり〟    国貞画「山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・烏亭焉馬」戯作者の肖像       「北斎・豊国・国貞」画工の肖像    戯作者・画工肖像 香蝶楼国貞画(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 安政四年(1857)(改印:改・巳月)     ◯「合巻年表」   ◇合巻(安政四年刊)    歌川豊国三世画    『雲龍九郎偸盗伝』     初編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 三馬遺稿     二編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 楽亭西馬作    『新増補西国奇談』     三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     四編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『蔦紅葉宇津谷峠』     初編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳水亭種清作     二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳水亭種清作    『児雷也豪傑譚』     三十編 一龍斎国盛画 表紙 豊国 柳下亭種員作     三十一編 国盛画    表紙 豊国 柳下亭種員作    『黄金水大尽盃』     五編 一雄斎国光画 表紙 豊国 為永春水作     六編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『三世相縁の緒車』初編(画)豊国 国綱(著)柳水亭種清 蔦屋吉蔵板〔東大〕                  口絵「豊国」〈この年の二編三編の画工は梅蝶楼国貞〉    『文月娘伊左衛門』八巻 歌川豊国画  松園梅彦作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)     (表紙・口絵の画工担当)※出典は全て〔東大〕    『時代加賀見』     八編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作     九編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     十編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『童謡妙々車』     四編 国貞画 表紙口絵 豊国 種員作     五編 国貞画 表紙口絵 豊国 種員作    『白縫譚』     二十二編 国貞画 表紙口絵 豊国 種員作     二十三編 国貞画 表紙口絵 豊国 種員作    『仮名反古一休草紙』 九編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 種員作    『八犬伝犬の草紙』三十八編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『釈迦八相倭文庫』三十七編 歌川国貞画  表紙 豊国 万亭応賀作    『大晦日曙草紙』 二十三編 歌川国清画 表紙 豊国 山東庵京山作     『教草女房形気』  十七編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 京山作    『雑談雨夜質庫』   二編 一曜斎国郷画 表紙口絵 豊国 為永春水作    『琴声美人録』十四編 立川国郷画 表紙 豊国 京山老人作    『娘庭訓金鶏』 初編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 山東庵京山作    『風俗浅間嶽』 五編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 柳水亭種清作    『濡衣女鳴神』 初編 歌川国貞画  表紙 豊国 為永瓢長作    『夢結蝶鳥追』 三編 一恵斎芳幾画 表紙 豊国 柳水亭種清作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「福々双六」「広重筆・又平福禄豊国画」図仙堂 改印「改・巳十一」②⑨    ◯「日本古典籍総合目録」(安政四年刊)   ◇歌謡    歌川豊国三代画『花哇一夕話』二巻 歌川国貞画 梅暮里谷峨編     〈書名は「はうたひとよがたり」〉    ◯「【諸芸】大都会無双(おほえどにふたつないもの)」(番付・安政四~五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝似顔 こヽんむるいで二つない   一陽斎豊国〈古今無類、肖像画の第一人者〉   〝傭書 きやうなふでさき二つない  宮城玄魚〟 〈器用な筆先、筆耕の第一人者〉   〝武者 ぐわさいのいきぐみ二つない 一勇斎国芳〟〈勢いのある絵を画く能力の第一人者〉   〝古風 しばゐのかんばん二つない  鳥居清満〟 〈芝居看板の第一人者〉     ☆ 安政五年(1858)(改印:午月)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政五年刊)    歌川豊国三代画『薪荷雪間の市川』一冊 応需豊国画 芝江斎蔵版    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政五年刊)    歌川豊国三世画(表紙・口絵の画工担当〉    『雲龍九郎偸盗伝』     三編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 楽亭西馬作     四編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 楽亭西馬作    『新増補西国奇談』     五編 一寿斎国貞画 国綱補画 表紙 豊国 為永春水作     六編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『黄金水大尽盃』     七編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     八編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『薄俤幻日記』     初編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作     二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『仮名反古一休草紙』 十編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『彦山権現誓助太刀』 三巻 五雲亭貞秀画 表紙 豊国 東亀庵作    『八犬伝犬の草紙』三十九編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『教草女房形気』  十八編 国貞画 表紙 豊国 京山作之助」    『雑談雨夜質庫』   三編 一曜斎国郷画 表紙口絵 豊国 為永春水作    『琴声美人録』十五編 立川斎国郷画 表紙 豊国 山東庵京山作    『時代加賀見』十一編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『娘庭訓金鶏』 二編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 山東庵京山作    『濡衣女鳴神』 三編 歌川国貞画  表紙 豊国 為永千章作     ◯「読本年表」〔切附本〕(安政五年刊)    歌川豊国三代画『三都妖婦傳』四編 一陽齋豊國画 笠亭仙果作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「仁義五常振分双六」「豊国・国芳・広重・玄魚画」山本平吉 改印「午九」②⑨  ◯「出放題集三幅対(でたらめよせてみつぐみ)」(番付・安政五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝白猿 年はよつても 市川寿海老〈七世団十郎(五世海老蔵・俳号白猿)、この年67歳、翌安政六年没〉    狂歌 まだ/\   天明老人 〈広重画『狂歌江戸名所図会』の編者。この年78歳〉    画工 しやんとこい 豊国老人〈三世豊国はこの年73歳〉    〈三人ともみな高齢だが、まだまだ矍鑠として、存在感を示していたとの評である〉      ◯「三幅対衢占語葉(さんぷくつゐつじうらことば)」(番付・安政五年夏刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝倭画        一陽斎豊国老人    雑学 なこまないよ 山東庵京山翁  〈京山はこの年90歳、この年の9月亡くなる〉    声曲        常磐津豊後大掾〟〈常磐津の家元、四世文字太夫〉    〈「なこまないよ」と読んだが、意味が分からない、また、なぜこの組み合わせに付けたのかも分からない〉     ☆ 安政六年(1859)     ◯「合巻年表」(安政六年刊)    歌川豊国三世画    『釈迦八相倭文庫』     四十編  国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     四十一編 国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     四十二編 国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作    『児雷也豪傑譚』     三十四編 国貞画 表紙 豊国 柳下亭種員作     三十五編 国貞画 表紙 豊国 柳下亭種員作    『新増補西国奇談』     七編 国貞画 表紙 豊国 為永春水補綴     八編 国貞画 表紙 豊国 為永春水補綴    『時代加賀見』     十六編 国貞画 表紙 豊国 為永春水作     十七編 国貞画 表紙 豊国 為永春水作     『童謡妙々車』     八編 国貞画 表紙 豊国 種員作      九編 国貞画 表紙口絵 豊国 三亭春馬作    『薄俤幻日記』     三編 国貞画 表紙口絵 豊国 為永春水作     四編 国貞画 表紙口絵 豊国 為永春水作    『白縫譚』     二十七編 国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員作     二十八編 国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員作    『万年草新渡鉢植』三巻 歌川豊国三世 柳下亭種員作〔目録DB〕(注記「日本小説年表による」)      〈「日本小説年表」は二世としていたが「日本古典籍総合目録」は三世に訂正〉     (表紙・口絵の画工担当)※出典は全て〔東大〕    『仮名反古一休草紙』十一編 国貞画 表紙 豊国 柳下亭種員    『八犬伝犬の草紙』 四十編 国貞画 表紙 豊国 笠亭仙果作    『遊仙沓春雨草紙』 十六編 国貞画 表紙 豊国 緑亭川柳作    『教草女房形気』十九編 国貞画 表紙 豊国 山東京山作    『黄金水大尽盃』 九編 国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『琴声美人録』 十六編 国郷画 表紙 豊国 山東庵京山作    『娘庭訓金鶏』  三編 国貞画 表紙 豊国 京山作     『濡衣女鳴神』  五編 国貞画 表紙 豊国 為永千章作>     ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政六年刊)    歌川豊国三代画『三都妖婦伝』四編 一陽斎豊国三世画 笠亭仙果作      ◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝当世十大家    画聖      松本交山   〈谷文晁に師事、酒井抱一に学ぶ、江戸琳派〉    博俳      真実庵抱義  〈守村抱義、浅草蔵前の札差、俳人〉    文晁      小野永海   〈谷文晁門人なら佐竹永海か〉    倭絵 奈良七重 一陽斎豊国  〈倭絵の肩書を与えられた浮世絵師は他に国貞のみ〉    俳優 七堂伽藍 寿海老人   〈七世市川団十郎、安政6年3月没、享年69歳〉    声曲 八重桜  常磐津豊後大掾〈四世常磐津文字太夫〉     一流      鳥居清満   〈芝居看板絵〉    三弦      岸沢古式部  〈常磐津三味線、五世岸沢式佐、上掲豊後大掾の相方、万延元年豊後と不破になり解消する〉    俳僊      孤山堂卓郎  〈国芳門人・歌川芳満。呉服の上絵師。俳諧も能くした〉    俳学      為誰庵由誓〝 〈俳人豊島由誓〉    〈芭蕉の句を引いて、奈良の堂々たる大寺を当世の大家に見立てた。三代目豊国と芝居看板の鳥居清満、当時の浮世     絵師の中では別格扱いなのである〉     〈この番付には安政六年三月逝去の、寿海老人(七世市川団十郎)の名が見える。また、常磐津三味線の五世岸沢式佐    が実子に六世を襲名させ、代わりに五世古式部を名乗ったのがこの安政六年である。すると、この番付は安政六年春    の出版とみてよいのだろう。番付から、昨年コレラで亡くなった一立斎広重の名が消えて、浮世絵界の大物は、世襲    のような鳥居清満を除くと、三代豊国(国貞)と一勇斎国芳を残すのみとなった。本HP「浮世絵事典」【う】「浮世    絵師番付」の項参照のこと〉    ☆ 安政年間(1854~1859)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    歌川豊国画「新板七津伊呂波清書双六」「一陽斎豊国画」若狭屋与市 安政 ②    〈解説によると、安政3年刊の錦絵に「清書七伊呂波」(豊国画)47枚揃物があり、当双六はそれを模して構成している由〉  ☆ 万延元年(安政七年・1860)(改印:申月改)     ◯「合巻年表」〔東大〕(安政七年刊)    歌川豊国三世画    『釈迦八相倭文庫』四十五編(画)歌川国貞・豊国(著)万亭応賀 上州屋重蔵板     (表紙・口絵の画工担当〉    『花がたみ五十三次』     初編 国綱画 表紙口絵 豊国 柳水亭種清作」     二編 国綱画 表紙 豊国   玉川種清作     三編 国綱画 表紙 豊国   種清作     四編 国綱画 表紙 豊国   柳水亭種清作    『釈迦八相倭文庫』     四十三編 国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     四十四編 国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     四十五編 国貞・豊国画 万亭応賀作」    『新増補西国奇談』     九編 国貞画 表紙 豊国 為永春水補綴     十編 国貞画 表紙 豊国 為永春水補綴    『童謡妙々車』     十編  国貞画 表紙口絵 豊国 三亭春馬作     十一編 国貞画 表紙口絵 豊国 三亭春馬作    『薄俤幻日記』     五編 国貞画 表紙口絵 豊国 為永春水作     六編 国貞画 表紙口絵 豊国 為永春水作    『花封莟玉章』     初編 国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作     三編 国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作    『濡衣女鳴神』     六編 国貞画 表紙 豊国 為永千章作     七編 国貞画 表紙 豊国 為永千章作    『教草女房形気』二十編 国貞画 表紙 豊国 京山作    『時代加賀見』 十八編 国貞画 表紙 豊国 為永春水作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(万延元年刊)    歌川豊国画「新板歌沢寿双六」「一陽斎豊国筆」山田屋庄兵衛 万延1年10月 ②     ☆ 文久元年(万延二年・1861)(改印:酉月改)    ◯「合巻年表」〔東大〕(万延二年刊)    歌川豊国画(表紙・口絵の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』     四十六編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     四十七編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作    『新増補西国奇談』     十一編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作     十二編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『明鴉墨画廼裲襠』     初編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作     二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作     三編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作    『雲龍九郎偸盗伝』     五編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 楽亭西馬作     六編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 楽亭西馬作    『御所桜梅松録』     初編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 鶴亭秀賀作     二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 鶴亭秀賀作     三編 歌川国貞画  表紙 豊国 鶴亭秀賀作    『時代加賀見』     二十二編 一寿斎国貞作 表紙 豊国 為永春水作     二十三編 歌川国貞作  表紙 豊国 為永春水作     二十四編 歌川国貞作  表紙 豊国 為永春水作    『童謡妙々車』     十二編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 三亭春馬作     十三編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 三亭春馬作    『薄俤幻日記』     七編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作     八編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作     『花封莟玉章』     四編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作     五編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 三亭春馬作    『白縫譚』     三十三編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員稿 ・柳亭種彦作     三十四編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 柳下亭種員遺稿・柳亭種彦校訂    『十勇士尼子柱礎』四編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 為永春水作    『金花七変化』  三編 歌川国貞画  表紙 豊国 鶴亭秀賀作    『濡衣女鳴神』  八編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 福辺家千住作    『娘庭訓金鶏』  五編 歌川国貞画  表紙 豊国 柳亭種彦作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(文久元年刊)    歌川豊国画    「自筆寿語六」  「豊国翁筆芳幾縮図」    鍵屋庄兵衛 改印「酉十一改」⑤⑩    「初舞台見物双六」「一世一代㐂翁一陽斎豊国筆」辻岡屋文助 文久1年10月 ②  ◯『早稲田文学』「最近思潮」大正五年七月号   (六月に開催された初代豊国の展覧会記事より)   〝墨絵の鍾馗に「万延二辛酉睦月旦日──七十六翁一陽斎豊国筆」といふ落款のある一軸があつた〟     ◯「【芸園通家】三是相流行合性(さんぜそうときにあいしやう)」    (番付・文久元年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝俳諧 だん/\跡へ 真実庵抱義〈当時57歳、翌文久2年没〉    俳優 おとしが   香蝶楼豊国〈当時76歳、元治元年(1864)没〉    俳談 より升    鏑井北梅〟〈名人講談師のようだが、当時の年令は未詳〉    〈三代目豊国の肩書「俳優」とは役者絵の意味〉     ◯「大江戸当盛鼻競 初編」(番付 金湧堂 文久元年初秋刊)(番付集成 下)   「雷鳴遊客」   〝似顔 かけがひのない   香蝶楼豊国    看板  お人じやぞへ   鳥居清満〟    〈役者似顔絵の三代目豊国(初代国貞)と芝居看板絵の鳥居清満、ともに斯界の第一人者で余人に代え難いという評である〉  ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)(番付・文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝名画 百年も  柴田是真  〈この年55歳〉    美筆 長いき歟 一陽斎豊国〈この年76歳〉    〈三代目豊国、まだまだ絵に勢いが感じられるという評である〉       〈この年の三月、一勇斎国芳が亡くなっている。この番付はその後に出版と見え、国芳の名は見あたらない。安政五年、    初代広重が逝き、この年国芳を失う。残る大物は三代目豊国一人となってしまった。北斎・三代目豊国・国芳・広重・    英泉と名を連ねていた弘化~嘉永期と見比べると、ほんの十数年前のことだが、いかんともしがたい隔世の感あり、    きら星輝く往年を知る者にとって、現今の浮世絵界は寒々とした光景であったに違いない〉    ☆ 文久二年(1862)     ◯「合巻年表」〔東大〕(文久二年刊)    歌川豊国画(表紙・口絵の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』四十八九編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作    『新増補西国奇談』十三四編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『明鴉墨画廼裲襠』 四五編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳亭種彦作    『十勇士尼子柱礎』  五編 錦朝楼芳虎画 表紙口絵 豊国 仮名垣魯文作    『教草女房形気』 二十二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 鶴亭秀賀作    『新編朝日物語』   初編 朝霞楼芳幾画 表紙「㐂翁豊国画」柳亭種彦作    『御所桜梅松録』  四五編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 鶴亭秀賀作    『筆海四国聞書』  初三編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳亭種彦作    『増補双級巴』   初三編 一猛斎芳虎画 表紙 豊国 並木舎五柳作    『時代加賀見』 二十五六編 歌川国貞画  表紙 豊国 為永春水作    『薄俤幻日記』   九十編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 為永春水作    『童謡妙々車』  十四五編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳亭種彦作    『花封莟玉章』    六編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 柳亭種彦作    『白縫譚』   三十五六編 国貞画  表紙口絵 豊国 柳下亭種員作  ◯(三世豊国 地本問屋広岡幸助(菊寿堂)宛手紙)文久二年八月廿一日付   『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著「第三部 彫刻師」p148(日本書誌学大系35 青裳堂書店)   〝扨又御ねがひは此の大全のかしらは、ぜひ/\ほり竹に御ほらせ被下度候、どうも役のかしらは一番竹    がよろしく候〟   〝先日女ゑ御ほらせ被成候は伊八ならんと存じ候、此人のかり毛すかし等は又中々外の板木師とひとつに    なり不申、かんしんに存じ候、女ゑの分は伊八に御遣し可被下云々〟    〈「大全」とは「古今俳優似顔大全」。役者絵の彫竹、美人画の伊八、ともに豊国お気に入りの頭彫師である。豊国が思い描     いた通りのイメージ、あるいはそれ以上の表現力をもった描線もたらすというのである。彫竹(横川竹三郎)・朝倉伊八は彫     りの頂点とされる頭彫りの名匠である〉    ◯「古今俳優似顔大全」(国立国会図書館デジタルコレクション画像)    歌川豊国画「古今俳優似顔大全」「㐂翁豊国画」〈刊行は元治元年まで続く〉    ◯「三箇一対狐拳酒(さんにんいちざきつねけんざけ)」(番付・文久二年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝名物 月雪花の 一陽斎豊国〈77歳〉    名誉 ながめに 亀交山  〈画家・松本交山、慶応2年(1866)没・83歳〉    名筆 あかず  中沢雪城〟〈書家、慶応2年没、59歳〉    〈この三者の国合わせはこの番付の筆頭である〉  ☆ 文久三年(1863)(改印:亥月改)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文久三年刊)    歌川豊国(三世)画『東海道御上洛絵』一帖 歌川豊国三世 歌川広重等画    ◯「合巻年表」〔東大〕(文久三年刊)    歌川豊国画(表紙・口絵の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』五十編 歌川国貞画  表紙 豊国   万亭応賀作    『明鴉墨画廼裲襠』 六編 歌川国貞画  表紙 㐂翁豊国 柳亭種彦作    『筆海四国聞書』  四編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国   柳亭種彦作    『御所桜梅松録』 六七編 楳蝶楼国貞画 表紙 豊国   鶴亭秀賀作    『時代加賀見』二十七八編 歌川国貞画  表紙 豊国   為永春水作            二十九編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国   為永春水作    『童謡妙々車』  十六編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国   柳亭種彦作    『梅春霞引始』   初編 一鴬斎国周画 表紙 豊国   仮名垣魯文作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(文久三年刊)    歌川豊国画    「俳優姿見寿語禄」「七十八翁豊国筆」大橋堂 文久3年8月 ②    「奇術寿語廬久」 「七十九翁一陽斎豊国画・補助国周画」平野屋新蔵 文久3年9月 ②    「江戸名所書分寿語路久」「広重画・豊国筆」佐野屋富五郎 文久3年 ⑨  ◯「古今俳優似顔大全」(国立国会図書館デジタルコレクション画像)    歌川豊国画「古今俳優似顔大全」{七十八歳豊国筆」    ◯「江戸の花名勝会」錦絵 一枚   (「集古会」第191回 昭和8年5月(鳥取 秋田収翁出品)『集古』癸酉第四号 昭和8年9月刊)   〝相馬良門豊国画 瀧夜叉姫国貞画 伊賀寿鳥井清国画 神田八辻広重画 松島彫大〟    〈改印「亥正改」文久3年正月刊。三代豊国・二代国貞・二代?清国・二代広重〉  ◯「七十八翁 一陽斎豊国肖像」「一鴬斎国周真写」平のや板 改〔亥四改〕(文久三年四月)   「当世見立 三十六花撰」総目にあり    一陽斎豊国肖像 一鴬斎国周画 (国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 元治元年(文久四年・1864)(十二月十五日逝去・七十九歳)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文久四年刊)    歌川豊国画『蔭戯場猿若真似』三冊 歌川豊国画 山閑人交来作 和泉屋市兵衛板    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(文久四年刊)    歌川豊国画「独娘聟八人」「八十翁豊国筆」上州屋重蔵 改印「子十一改」②    ◯「集古会」第二百四回 昭和十一年一月(『集古』丙子第二号 昭和11年3月刊)   〝三村清三郞(出品者)歌川豊国画 甲子鼠図 一幅 文久四甲子元旦 七十九歳豊国画  ◯「古今俳優似顔大全」(国立国会図書館デジタルコレクション画像)    歌川豊国画「古今俳優似顔大全」「七十九翁豊国筆」「七十九歳豊国筆」〈刊行は文久二年から〉     ◯『増訂武江年表』「元治元年」2p200(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   〝十二月十五日、浮世絵師二(ママ)世歌川豊国死す(七十九歳。元祖豊国の門人にして、始めは一雄斎国貞    と号し、又五渡亭、香蝶楼、梅戸など称し、通称は角田庄蔵といふ。文化より六十年来世に行はれたり。    亀戸、光明寺に葬す)  ◯「二代目歌川豊国翁略伝」二枚続 一鴬斎国周画 仮名垣魯文著 錦昇堂(恵比須屋庄七)板   (出典「早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム」画像 作品番号114-0361、0362)    ※(るび)は原文のルビ。句読点・濁点・送り仮名は本HPが補った   〝元治元甲子年十二月十五日寂     豊国院貞匠画僊大居士 本所亀戸村 天台宗 光明寺葬     二代目一陽斎歌川豊国翁 行年七十九歳                    門人一鴬斎国周謹筆 〔子十二改〕松島彫政 錦昇堂    東都浮世絵師、古今絶世の名工、二世歌川豊国翁は、先一陽斎豊国先生の門人にして、初号一雄斎国貞    とよび、俗称角田(すみた)庄蔵と云ふ。本所五ッ目の産にして、天明六丙午の出生なり。幼稚の頃より    深く浮世絵を好み、未だ師なくして俳優似顔を画けり。其の父傍らに是を閲して、其の器をさとり、前    豊国の門人とす。豊国始めて監本(てほん)を与へし時、浄書を一見して大に驚き、此童の後年推量(お    もひやら)るとて、称誉大抵(おおかた)ならざりしとぞ。文化の初年、山東京山初作の双紙妹背山の板    下を画きしより、出藍の誉れ世に高く、是より年歳発市せる力士・俳優の似顔、傾城・歌妓の姿絵、及    び団扇・合巻の板下、大に行われ、画風をさ/\師に劣らず。此頃は居所五ッ目なる渡舟の株式、其の    家に有るをもて、蜀山先生(注1)五渡(ごと)亭の号を送らる。後亀戸町に居を転じて、香蝶楼北梅戸    (ほくばいこ)と号し、且つ家の中より富岳の眺望佳景なりとて富望山人と号し、京山富眺庵の号を送れ    り。翁国貞たりし壮年より、先師の骨法を学び得て、別に一家の筆意を究め、傍らに一蝶・嵩谷が画風    をしたひ、懇望の余り、天保四癸巳年、嵩谷の画裔嵩凌の門に入て、英一螮(たい)と別号す。此頃より    雷名、都鄙遠近に普く、牧童馬夫に至るまで、浮世絵としいへば国貞に限れりとおもひ、斗升の画者を    五指にかぞへず。故に錦絵・合巻の梓客(はんもと)門下に伏従して、筆跡を乞ふもの群をなせり。中興    喜多川歌麿が板下世に行はれしも、九牛が一毛にして、比競するに足らざるべし。近世錦画・合巻の表    題製工備美を尽しにつくし、東都名産の第一たるは、全く此人の功にして、前に古人なく後に来者なき、    実に浮世絵の巨挙といふべし。于時(ときに)弘化二乙巳年、師名相続して二世豊国と更め、薙髪して肖    造(せうぞう)と称す。将(はた)嘉永五壬子年、門人国政に一女を嫁して養子となし、国貞の名及び亀戸    の居を譲りて、其の身は翌年柳島に隠居して、細画の筆を採らずといえども、筆勢艶容いよ/\備り、    老て益々壮んなり。殊更近来は役者似顔に専ら密なる癖(くせ)を画分(かきわけ)、精神頗(すこぶ)る画    中にこもり、其の人をして目前に見るが如く、清女が枕の草紙にいへりし、徒(いたずら)に心をうごか    すたぐひにや似たらまし、そが中に、当時発市の俳優似顔画の半身、大首の大錦画、今百五十余番に及    び、近きに満尾に至らんとす。こは翁が丹精を出だし、画きたりしものにして、百年已来、高名の大立    者等を一列にあつめて、見物する心地ぞせらる。嗚呼(あゝ)翁の筆妙絶倫にして、神に通ぜしゆゑ、普    く世人の渇望せるも、宜(むべ)なるかな。可惜(おしむべし)、当月中旬常なき風に柳葉ちりて、蝶の香    りを世にとどむ。ただかりそめの病気(いたつき)とおもいしことも、画餅となりし。錦昇堂の悼(いた    み)に代りて知己のわかれをかこつものは、遊行道人鈍阿弥なりけり     今年暮て今年の再来なく、古人去て古人に再会なし、      歌川の水原(みなかみ)涸(かれ)て流行半月に変ずべし     水茎のあとはとめても年波の寄せて帰らぬ名残とぞなる。 応略伝悼賛需 戯作者 仮名垣魯文     似顔画をかきたる人もにかほゑにかゝれて世にも残りをしさよ 法斎悟一     神の皇国にのこすおもかけ    麟堂伴兄      豊なる稲の落穂や年玉の市    大笑坊銀馬     さす方を問ふすべもなし雪の道  一寿斎国貞     砕く程あつき氷や筆のうみ    一雲斎国久     口真似の師のかげふまず小節季候 一鶯斎国周        辞 世     一向に弥陀へまかせし気の安さ 只何事も南無阿弥陀仏 七十九翁 豊国老人     (注1)蜀山人、大田南畝    「三代歌川豊国」死絵(右) 一鴬斎国周画    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム 作品番号:114-0362)    「三代歌川豊国」死絵(左) 一鴬斎国周画    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム 作品番号:114-0361)  ◯「香蝶楼豊国肖像」「孝子国貞写」(二代目国貞)   (出典「早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム」画像 作品番号114-0359)   〝豊国院貞匠画僊大居士     二代目歌川豊国 本姓角田氏 通称肖造 始五渡亭国貞ト云      元治元甲子年十二月十五日没 寿八十歳 亀戸亀命山光明寺ニ葬        辞世 一向に弥陀へまかせし気のやすさ 只何事も南無阿弥陀仏     うつむけば襟につらゝや室の梅  三升     閼伽にこは氷の中の落葉哉    家橘     限りある世や朝々の霜煙り    田之助     春またぬ雪の中也仏の坐     芝翫     訪たれば長い留守なり年の暮   梅素       香蝶楼豊国肖像 孝子国貞写〔子十二改〕伊勢兼板    香蝶楼豊国肖像 歌川国貞二世画    (早稲田大学 演劇博物館浮世絵閲覧システム 作品番号:114-0359)  ◯『浮世絵』第二拾八(28)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝甲子ノ十二月十五日 豊国院貞匠画僊居士 俗名 一陽斎豊国 行年七十九歳     辞世 一向に弥陀へまかせて気の安さ 只何事も南無阿弥陀仏            二十九歳 極月 国周写〔子十二改〕朝倉彫常 佐野屋富五郎板〟    一陽斎豊国(三代)死絵 国周画  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 国貞も下女が面には筆を捨て 「柳多留101-5」文政11【川柳】注「あまりのひどさに」     〈絵にも描けない美しさとは真逆〉   2 国貞の名画ひゐきの評(ママ)具物「柳多留102-6」文政11【川柳】   3 似顔画き羅漢の横つらに住み 「柳多留108-11」文政12【川柳】     〈羅漢寺は本所五ツ目。亀戸に転居するまえの国貞である〉   2 狙仙にまさる国貞が書いた猿 「柳多留163-7」天保9-11【川柳】注「狙仙の猿は有名」     〈名手森狙仙に勝ると〉  ◯『増補 私の見た明治文壇1』「稗史年代記の一部」所収、嘉永二年(1849)刊『名聞面赤本』p163   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝飼ひ立て羽つくろひする鴬の笠に被るなら梅のはながさ        香蝶楼豊国    魯曰、豊国初号国貞、父は角田庄左衛門とて商家なり、俳諧を好みて俳名を五橋亭琴雷と号す(五橋亭    の号此の時分より本所五ッ目渡舟場の株主なりしにや)天明七丁未八月十六日歿す年六十九、辞世「も    どかしや糸はほぐれて散る柳」法名観行院理山善知、亀戸光明寺に葬る、一子国貞(後豊国)天明六年    丙午に生れ俗称角田庄蔵(初め庄五郎)本所五ッ目より亀戸天満宮門前に移転せり、一雄斎、五渡亭、    香蝶楼、樹園、月波楼、富望山人、富眺庵等の数号あり、又英一蝶と別号せしは天保四年の頃英一蝶の    余流一桂(ケイ)の門に入りしを以て斯く号す、香蝶楼の号も一蝶とその実名信香(シンコウ)の両字に依ての名    なりと、又五渡亭の号は父琴雷の五橋亭に基き蜀山人が贈りしものとぞ、青年のころ元祖豊国の門に入    りて出藍の誉あり、式亭三馬が日記の内に、国貞本所五ッ目渡舟場の際に住す即ち此の渡舟場のあるじ    俗称庄五郎とて柔和温順の性質なり、文化五年の春吃の又平大津土産(板元十軒店西村源六)三馬作国    貞草双紙の書き初めにて、此時大に評判よくその翌年より益々行はれて今一家の浮世絵師大立物となれ    り云々、又渓斎英泉の話には、京山初めて作国貞初めての画は妹背山の草双紙なりと、魯文幼年の頃そ    の草双紙を見たり序文は山東京伝と歌川豊国との掛合ひ、山東は山尽し、歌川は川尽しにて「東西々々    京伝中橋お邪魔ながら、両個(フタリ)の壮年(ワカテ)を卑下まをさう、京伝舎弟の音羽山、四角な文字も毫    (チト)ばかり、読習うたる実語教、山高きが故に沢山(タント)書かず、留ても止まらぬ若葉山、そんなら書    いて三笠山」(是より川へ移る)などありしを今以て諳記せり、斯て国貞が画名世に名高く就中俳優の    似顔絵に至りては師の豊国去りて後国貞が右に出づべき浮世絵師曾つて無く、天保甲辰年(改元弘化元)    当春先師の名を嗣ぎて一陽斎歌川二世豊国と改号す(実は三世なり)弘化二乙巳の秋剃髪して肖造と俗    称し、翌年柳島に別居して国貞の名を門人国政に譲り、之に長女を配偶して養子とし亀戸の家を相続せ    しむ、元治甲子年十二月十五日歳七十九にて歿す乃(スナハ)ち前記の光明寺に葬す、附て云、豊国長女な    べの婿国政亀戸を転じて本所割下水の寓居に於て安政二年乙卯年二代目国貞と改名、後三世豊国と号し    明治十三年庚申年七月十八日五十八歳にて歿す、法号三香院豊国寿貞信士、前同寺に墓あり〟    〈仮名垣魯文は嘉永元年和堂珍海から英魯文へと改号した。『名聞面赤本』はそれを披露するため諸家から狂歌・発句     を集めて配った小冊摺物で、嘉永二年春の刊行。「魯」は仮名垣魯文。魯文は歌や句を寄せた戯作者・絵師の小伝を     記している〉   (国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB画像)    〝飼たてゝ羽つくろひする鴬の笠にきるなら梅の花笠  香蝶楼豊国〟  ☆ 刊年未詳    ◯「読本年表」〔切附本〕(刊年未詳)    歌川豊国三代画『熊坂長範一代記』一陽齋豊国 春水亭編述・十返舎一九校    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    歌川豊国三世(国貞)画    『花容女職人鑑』一冊 歌川国貞画 蓬莱山人等編    『月次狂歌雙面』二冊 歌川豊国画 洛栗庵木網(三亭春馬)編    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)    歌川国貞画    「御贔屓御利益初売之迎福神以御蔭出世双六全」「一雄斎歌川国貞筆」式亭三馬店 ④ 墨摺    「菓子流行御贔屓惠来賓塵福神双六」「歌川国貞画」船橋屋摂津大掾藤原織江 ④ 墨摺    「座芸戯扮図会外八紋次道中寿語録」「香蝶楼国貞画図」鶴歩庵春成  ② 山東京山作    「以御恵会亭栄大酒盛酔中双六」 歌川国貞画  河内屋半次郎  ④ 墨摺     〈柳橋の料亭河内屋の景品双六〉    「以御蔭商繁昌来賓◎福神双六」「歌川国貞画」 西宮仙助    ④ 墨摺     〈湯島の化粧品・小間物屋西宮の景品〉    「忠臣蔵出世双六」      「香蝶斎国貞画」板元未詳    ⑤⑩    「三都会俳優双六」      「五渡亭国貞」 加賀屋吉右衛門 ⑤⑩    歌川豊国画    「新板百人一首むべ山双六」「歌川豊国画」大黒屋平吉 ②⑧ 十返舎一九校     〈②の書誌は三代豊国とする〉    「俳優似顔東錦絵双六」「豊国画」板元未詳  ⑧〈表題なし〉    「江戸の水まさる双六」「豊国画」式亭三馬店 ⑧⑩ 小三馬作    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年未詳)   ◇絵本・絵画    歌川国貞画    『名跡画伝稿本』一冊 国貞画    『忠臣蔵絵兄弟』一冊 歌川豊国画    『古今名婦伝』   歌川豊国三世画    『吾妻げんじ』一冊 歌川豊国・歌川国貞画    「今様六歌仙」三枚続 「香蝶楼豊国画」「一陽斎豊国画」中米板 改、浜・馬込   ◇演劇(刊年未詳)    歌川豊国三世画    『やくしやにがほ絵団扇画』一冊 五渡亭国貞画    『役者三十六歌仙』    一冊 歌川豊国画 花笠文京著     ◯「艶本年表」(刊年未詳)    歌川国貞画〔目録DB〕    『夫は深草是は浅草百夜町かり宅通ひ』三冊 婦喜用又平画 女好庵主人作                    (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『五十三次花廼都路』三冊 婦喜用又平画 恋痴庵主人(春水)作                    (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『花鳥余情吾妻源氏』三冊 国貞画(注記「艶本目録による」)    『春色初音の六女』 三冊 不器用又平画 嬌訓亭主人(春水)作                    (注記「春色梅暦の艶本化、日本艶本目録(未定稿)による」)    『博多帯結か美殊』 三冊 不器用又平画 元来庵介米編                    (注記「色日記の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『東海道五十三次』 二冊 又平画 吾妻雄兎子作(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色いろの在平』 三冊 国貞画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『仮枕浮名の仇浪』 三冊 国貞画(注記「艶本目録による」)    『恋のやつふぢ』  三冊 不器用画 曲取山人作(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『穴手本忠臣蔵』  二冊 歌川国貞画 (注記「艶本目録による」)    『色自慢江戸紫』  三冊 不器用又平画(注記「艶本目録による」)    『艶紫娯集余情』  三冊 国貞画   (注記「艶本目録による」)    『あきの七種』 続編三冊 国貞画                    (注記「艶本目録に国芳画一冊、後編三冊と国盛画三冊との記載あり」)    『春情秘女始』   三冊 国貞画 猿猴房月成作                    (注記「三ツ組盃の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『浪花家土産』   一冊 月夜楼釜平画 猿猴月成作    『開談夜の殿』   三巻 国貞画 猿猴房作(注記「百鬼夜行の続編、ウキヨヱ内史による」)    『閨中六歌仙』   三冊?浮世又平画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『一ノ富物語』   三冊 歌川国貞画(注記「艶本目録による」)    『今様三体志』   三冊 国貞画  (注記「艶本目録による」)    『艶色品定女』   三冊 国貞画  (注記「艶本目録による」)    『艶本玉櫛笥』   二冊 歌川国貞画〔目録DB〕    『恋の白波』    二冊 不器用又平画 猿猴坊月成作(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『恋の楽屋』    三冊 又平(国貞)画 月成作  (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『吾妻源氏』 五四帖三冊 不器用又平画 大鼻山人編 (注記「艶本目録による」)    『逢身八契』    三冊 国貞画    『雪月花』     三冊 月喜代釜平(国貞)画 艶二楼好成作                    (注記「雪月花艶本の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『三体誌』     三冊 不器用亦平画 猿猴坊月成稿 百垣千研作    『蝶千鳥』     三冊 婦喜用又平画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『開中鏡』     三冊 国貞画   (注記「艶本目録等による」)    『寿』       一冊 不器用又平画 猿猴坊月成作    歌川国貞画〔日文研・艶本〕    『春色恋の手料理』 色摺 小本 三冊 序 「佐祢那賀淫水戯述」    『浜の真砂子』   色摺 横本 二冊 「婦喜用絵師又平筆」    『開安和勢』    色摺 小判三枚続    歌川豊国三世(国貞)画    『偽紫女源氏』三巻 豊国(三世)淫斎白水作                (注記「春色閨栞の改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶史比事枕』三冊 豊国(三世)(注記「艶本目録による」)    『吾妻源氏』 三冊 一陽斎豊国画    歌川国貞画 春本(「江戸時代の変態趣味」山崎麓・『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月)    『恋能八藤』/『千里鏡』     ☆ 没後資料  ☆ 慶応元年(元治二年・1865)  ◯「東都諸先生高名方独案内 元治二」(TOKYO DIGITAL MUSEUM)   〝蒔絵 浅艸 柴田是真    錦画 本町 一英斎芳艶    錦画 本所 一陽斎豊国    〈この豊国は三代(初代国貞)。しかし前年の元治元年十二月既に亡くなっていた。文久元年(1961)、国芳が亡くなり。     そして豊国をも失う。芳艶がいるとはいえ、彼も慶応二年、四十五歳で亡くなる〉    ☆ 慶応二年(1866)    ◯『藤岡屋日記 第十三』p465(藤岡屋由蔵・慶応二年記)   〝三月廿三日 町触     今日拙者共、北御番所ぇ御呼出し有之、罷出候処、今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮世    絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニても、    右絵御入用ニ付、売物ニ無之、所持之品ニても宜、御買上ニ相成候義ニは無之、御見本ニ御覧被成度候間、    早々取調、明後廿五日可差出旨被仰渡候間、御組合内其筋商売人手許御調、同日四ッ時、右品各様御代之    衆ぇ御為持、所持主名前御添、北御腰掛ぇ御差出可被成候、無之候ハヾ、其段同刻、御同所迄御報可被成    候。     三月廿三日                                 小口世話掛〟    〈パリ万国博覧会は1987年の開催。絹地の巻物・画帖に描かれた風景画や枕絵などとともに豊国等の美人画も送られ     たのである。この豊国を前名国貞で知られる三代目と見た〉     ☆ 慶応二年(1866)     ◯「合巻年表」(慶応二年刊)    歌川豊国画(表紙の画工担当)    『釈迦八相倭文庫』五十五編 歌川国貞画 表紙 豊国 万亭応賀作     〈本文挿絵の国貞は二代目〉  ◯『春色三題噺』二編 春廼家幾久編・弄月亭有人校・朝霞楼芳幾画 文玉堂 慶応二年(1866)刊   〈この咄本に三代目歌川豊国が登場する三題噺があるので紹介する。麟堂伴兄作「梅見・錦絵・小判」の三題噺〉    (国文学研究資料館「日本古典藉総合データベース」画像)   〝絵草紙屋の主人(あるじ)、亀井戸へ梅見にゆき、彼(かの)豊国老人の処へ立寄(たちより)、梅屋敷の生    写(しやううつ)しを三枚つゞきに画て貰ひ度と注文いたしますと、早速に請合いますゆへ、代は何ほどゝ    聞ましたら、外の品なら一枚十匁(ぢうもん)、三枚つゞきて弐百疋(ひき)が通例でござりますが、梅屋    敷の景色では小判一枚いたゞかねばなりませぬ。/夫(それ)は又あんまり高料ではないか/イへ梅やし    きの事でござりますから、画料倍(がれうばい)でござります〟    〈この豊国老人とは元治元年(1864)12月に亡くなった亀戸の三代目豊国(初代国貞)。梅屋敷の銘木「臥竜梅(がりょうばい)」     と「画料倍」を掛けて作った三題噺。一枚・三枚続とあるから、これは錦絵の板下絵の画料のことなのだろう。当時の大     御所、三代豊国の画料は一枚10匁、三枚続で200疋(2000文)が相場であったようだ。ただ本HP側に錯誤でもあるのだろう     か、200疋の倍が1両になるとも思えないのだが〉    (なお『春色三題噺』の口絵署名は 朝霞楼芳幾画 挿絵署名は 一葉斎幾歳女筆 一交斎梅蕙筆とあり)    ☆ 慶応三年(1867)     ◯「合巻年表」〔東大〕(慶応三年刊)    歌川豊国三世画(表紙の画工担当)    『加賀見山故郷錦絵』一蘭斎国綱画   表紙 豊国   仮名垣魯文作    『教草女房形気』二十三編 歌川国貞画 表紙 㐂翁豊国 鶴亭秀賀作    ☆ 慶応四年(明治元年・1868)      ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「歌川氏系譜」の項 ⑪190
   「歌川豊春系譜」〝初代豊国門人 国貞〟(名前のみ。国貞門人の系譜あり)      ◇「歌川豊国」の項 ⑪228   〝歌川豊国    初名国貞、〔割註 門人に譲り、聟にして二代とす〕俗称角田庄蔵、武州葛飾郡西葛飾領の産也。一雄    斎、月波楼〔割註 文化の頃より号す〕、北梅戸富望山人、桃樹園、富眺庵、一陽斎、晩年香蝶楼、琴    雷舎、本所五ッ目渡し場辺に住り。渡船の株式其家にある故、仍て五渡亭の号あり〔割註 蜀山人此号    を送りしといふ〕。後亀井戸天満宮前に住し、又柳島へ移る。若年の頃より浮世絵を好み、師なくして    役者絵を画り。豊国門人となりて、始て臨本を与へ、浄書を見て、豊国も其鍛錬を驚きしと云り。幾程    もなく文化の始め草双紙板下を画り。文化五年出板時鳥相宿咄武松作是初筆なり。時に廿三歳、口絵薄    墨入是より年々発市す。錦絵は中村歌右衛門大坂より下りし頃〔割註 隅田川梅若の狂言中幕猿廻し堀    川の段を勤、二番目狂言富岡恋山開出村玉屋、是歌右衛門御目見狂言也〕、数品を画て発行す。〔割註     一説国貞始ての板元西村屋与八也といふ〕団扇、画〔割註 歌右衛門猿廻し与二郎画団扇を始て画し    也〕草双紙大に行れて多く画出し、又役者似顔絵は師豊国にまさりて、俳優の故実を正し、当世美人絵    は殊に工夫をこらし、花街娼妓の風俗を、深川、品川、四ツ谷、新宿、千住、根津、弁天、松井町、新    地、常盤町、於旅、谷中、三田三角、其余の賤妓に至る迄、風俗を分ち画出せしかば、一時其名を轟し、    三都片雛迄賞しあへり。天保四年より、英一桂〔割註 英一桂は柳しま住、九十六歳にいして卒す。辞    世に百迄はなんでもないと思ひしに九十六ではあまり早死〕門に入て英一蹛と号す〔割註 一説に嵩谷    の裔嵩綾の門人也とも云〕。又香蝶楼と号す〔割註 一蝶ば蝶に一蝶の実名信香の香をとりて香蝶楼と    号せり〕。天保十五年師の名を継て一陽斎豊国と号す。〔割註 二世豊国と名書を記す〕。按るに二世    にはあらず三世なり。改名の頃何人の狂歌にや        歌川をうたがわしくもなのり得て二世の豊国偽(二世)の豊国    画風は豊国の骨法を学び、又一蝶嵩谷が筆意をも慕ひしかど、似るべうもあらず。読本を画るものは尤    少く、出来宜しからず。弘化二巳年薙髪して肖造と号す。翌年柳島へ移住なし、聟国貞に亀井戸の居を    譲れり。元治元年子十二月十五日歿す。七十九歳、亀戸村光明寺に葬す。法名豊国院貞匠画僊信士、肖    像の錦絵に辞世の歌とてあり。        一向に弥陀へまかせし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏        命毛の切れてことしの別れかな    一陽斎筆画手本彩色摺     画手本年玉筆   役者合鏡       同 此手柏 焉馬作   時世姿 女絵     似顔早稽古    三階興   三馬作     同筆読本     桜姫全伝    京伝作   双蝶記      同    稲妻表紙   同     本朝酔菩提   同     うとふ安方忠義伝 同    稚枝鳩    馬琴作     四天王剿盗異録 同     三国一夜物語   同    阿古義物語  三馬作     敵討松山話   焉馬作   四季物語     振鷺亭作 梅花氷裂   京伝作〟    ☆ 明治年間(1868~1911)  ☆ 明治二年(1869)    ◯『かくやいかにの記』〔百花苑〕⑥412(長谷川元寛著・明治二年正月跋)   〝【六さままゐる/かしくの小伝】蛙歌春土手節(頭注「合巻ノ標題蛙ノ歌春ノ土手節」)、是は楽屋落    にて、国貞◯〔「□」ヲ訂〕画がく事おそし。此時は早く仕揚になる。是は其頃国貞うたひ女になじみ    居たり。その事をかきしと心得しなり。故に色男の衣裳の模様宝珠〔「ひやうたん」ヲ訂〕、〔「柳亭」    消〕立〔「捌」ヲ訂〕役の侍は〔「男は」ヲ訂〕柳亭のつもりにて三つ彦のもやうなり〟    〈「国書基本DB」によると、柳亭種彦作・国貞画の合巻『蛙歌春土手節』は文政九年刊〉     ◯『翟巣漫筆』〔新燕石〕④附録「随筆雑記の写本叢書(四)」(斎藤月岑書留)   ◇(明治二年十一月記)p6   〝故人豊国の画□(ママ)ハにしきゑ此節板行するもの多し、画□たるもの数多有之由、長持一棹一ぱい有之    由    (中略)    故人ニセ豊国のにしきゑ艸稿ありしを彫刻して、商ふもの多し。    ニセ国貞三世豊国となる〟    〈故人豊国とは元治元年に亡くなった初代国貞・三代豊国。斎藤月岑は三代豊国とせず二代とする。従って「ニセ」は     二世の意味〉      ◇(明治三年記)p7   〝去年故人二世豊国遺筆の錦絵梓行するもの多し、真偽如何〟    〈月岑は本当に三代豊国の遺筆かどうか疑問を抱いている〉     ☆ 明治三年(1870)  ◯『睡余操瓢』(「新燕石十種・八巻」付録「随筆雑記の写本叢書(八)」所収、p7)   (明治三年頃、斎藤月岑書留)   〝金波楼にありし国貞画雛助小六似顔    三月の雛助にまた小六月いかなる春と冬ややへにけん 蜀山人〟  ☆ 明治八年(1875)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(明治八年刊)    歌川豊国画『富士注入百人一首』(書誌のみ)〔跡見2223〕    一陽斎豊国・一勇斎国芳画 陶山直良著 花井卯助版 明治八年十一月刊  ☆ 明治十年(1877)  ◯「国勧業博覧会」明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』4(内国勧業博覧会事務局)    (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝追加 第二区 第五類     草双紙 白縫物語 著述 柳亭種彦 画工 一陽斎豊国 彫工 朝倉伊八     錦絵 奉書紙 俳優似顔 画 一陽斎豊国 彫 朝倉伊八                 摺 富岡門前山本町 大海久五郎       (以上二点、出品者)深川松賀町 広岡幸助〟     〈次条を参照すると、草双紙は合巻『白縫譚』錦絵は『古今俳優似顔大全』〉   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品解説』(山本五郎纂輯)    〝第三区 美術 第三類 剞劂      草双紙 白縫物語 柳亭種彦著 一陽斎豊国画 朝倉伊八刻      錦絵  古今役者似顔大全   一陽斎豊国画 朝倉伊八刻      (出品人)広岡幸助 深川松賀町〟    〈合巻『白縫譚』の広岡幸助板は安政六年(1859)刊の二十七編から明治四年刊の六十一編まで。但し画工は文久三年     (1863)刊の三十七編以降、一寿斎国貞二代から一恵斎芳幾に代わる。この種彦は二代だが、国貞画の広岡板に関わる     のは、柳下亭種員遺稿の校訂・修辞者として文久元年(1861)の三十三編から翌二年の三十六編まで。この「白縫物語」     は文久元~二年刊『白縫譚』と思われる。「一陽斎豊国」とあるのは、国貞二世が明治三年に豊国四代を襲名してい     るので明治十年当時の画工名を記したと思われるが、あるいは嘉永二年(1849)の初版から画工を担当し、同五年、挿     絵の担当を国貞二世に譲ったのちもなお、表紙だけは描き続けた(文久二年まで)豊国三代(国貞初代)をも指して     いるのかもしれない。『古今俳優似顔大全』は「七十九翁 豊国筆」であるから豊国三世で、版元広岡幸助、文久三     年刊である〉  ☆ 明治十一年(1878)     ◯『百戯述略』〔新燕石〕④226(斎藤月岑著・明治十一年成立)   〝歌川豊国は豊春門人に御座候処、享和、文化の頃より、春章の風を一変いたし、歌舞伎の肖像を画き出 し、文化の頃より天保の頃迄、絵入読本、一枚絵、多分に画、後年筆も上達仕候へども風韻無之、門人 国貞も同様にて、歌舞伎役者、当世の婦女の姿をば巧者にて、久く世に被行候〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    歌川国貞画 団十郎シバラク 画扇 一本〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (第二回 内国絵画共進会 4月11日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝二世豊国 元治年ノ人ナリ〈元治の人とあるから三世豊国。すなわち初代国貞〉  ☆ 明治十九年(1886)     ◯『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年刊)   〝一陽斎国貞、後豊国と改む、其師の名を冒すなり、画は歌川派を宗とし、鏤版画を以て著はる、常に好    みて宮娃閨秀、婉媚妍麗の態を写す、嘗て亀戸菅廟門前に住す、会(たまたま)人の託を受け、婦人の賊    に遇ふ図を製せんとす、意匠未だ動かざるに、一夕外出して、久しく反らず、其の婦坐して俟つ、夜将    に参(ママ)半にならんとす、盗有り戸を排して入る、婦䠖跙(歩けず)狼狽して、為す所を知らず、既にし    て(間もなく)盗、面を露(あら)わし、徐(おもむろ)に曰く、懼るる勿れ懼るる勿れ、婦睇を廻らし(横    目で)之を視れば、即ち其の夫なり、復た驚きて泣く、明に至り、豊国遂に図を作りて之を遺(おく)る、    図様巧妙、其の人大に懌(よろこ)び、厚く瓊瑶の報(むくい)を作す。蓋し古人、心を用うるの極、往々    是の若(ごと)き者有り、然れども此れ所謂、一無るべからざるに二有るべからざるの事なり。    予向(さき)に其の著す所の似顔早稽古一本を獲る、院子の肖像を写す捷法を載す、其の説故人の写照法    と自然と契合す、嗚呼(ああ)、豊国画人中の呉王なり、中国衣冠の俗に非ずと雖も、「未遽」夷狄を以    て之を貶めるべからず〟〈「未遽」は訓読できなかったところ〉    〈国貞は婦人が賊に出くわす場面の絵を画くよう依頼を受けた。すると、国貞は夜中自ら盗賊のふりをして自宅に押し入っ     た。妻の狼狽する様子を見て作画しようという目論見である。『役者似顔早稽古』は文化14年(1817)の序。院子の肖像と     は役者似顔絵。評者は豊国を南蛮の呉王とする、では中華(中原)の王に相当するものは何なのであろうか。ともあれこの     挿話は広く知れ渡ったようだが、これについて、国貞門人の豊原国周は次のように語っている〉    〝此の一話久しく人々に膾炙すといえども疑うべし。如何となれば、三世豊国は、もと謹慎の人なれば、     たとい画道用意の極に至るも、此の如き事をなすの理あるべからず。これに反し一世豊国は、或は此     の如き所行ありしか知るべからず。蓋しこの一話は誤伝なるべし〟    〈「謹慎」の人国貞にはあり得ない話だ。初代豊国ならあり得ないこともないが……と語っている。なお、この挿話と     国周の寸評は後出、飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』の「三世豊国伝」にも出ているので参照のこと〉     ☆ 明治二十年(1888)  ◯『東京府工芸品共進会参考室出品目録』(明治20年7月刊)   (東京府工芸品共進会 3月25日~5月25日 上野公園内)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝豊国国芳両筆 俳優図 三幅対(出品者)斎藤重吉〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝歌川国貞     田舎源氏絵     二幅(出品者)若井兼三郎     画扇 鞘当図    一本(出品者)林次郎八     画扇 深川芸妓図  一本(出品者)林次郎八     画扇 嫖妓展簡図  一本(出品者)林次郎八     画扇 嫖妓道中図  一本(出品者)林次郎八     画扇 嫖妓踊楼図  一本(出品者)林次郎八〟  ◯「読売新聞」(明治21年5月31日付)   〝美術展覧会私評(第廿五回古物 若井兼三郞出品)    哥川の祖豊春の傾城 池田英泉の花下傾城 蹄斎北馬の布さらし 魚屋北渓の稲苅 勝川春亭の子供遊    び等 何れも着色鮮美なるが 中にも哥川国貞(后二(ママ)世豊国)の田舎源氏の双幅最も艶麗なり    以上数幅は若井氏の出品なり    林次郎八氏の扇子は 菱川師宣の美人 英一蝶の鬼 西川祐信の秋郊美人 歌川国貞の鞘当 同筆傾城    の道中 同筆傾城読書 同筆の美人 狩野素川の傾城の道中等也 尚評すべき珍器名品寡少ならずとい    へども 既に閉場なるを以て謹んで爰に筆を拭ひ 数回恩読の厚誼を謝す〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝香蝶楼 国貞    東都本所五ツ目に住す。故に五渡亭の号有り。画を豊国に学び、殊に田舎源氏の図を画きてより、其名    大に現はれ、天保の末、師の名跡を嗣て、二代豊国と改め、業増々進む〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川国貞 しばらく図 裏面英一珪筆 (出品者)篠原肇     浮世画扇子 扇掛共 十本(出品者)帝国博物館           北斎・歌丸・豊国・一珪・国貞・国芳・清信・清長・栄之・嵩谷〟  ◯「【新撰古今】書画家競」奈(良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)   (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊))   〝浮世派諸大家     天 保 五渡亭国貞【二世豊国】〟 浮世絵師 歴代大家番付  ◯『読売新聞』(明治23年8月20日)   〝観音の額は福助の行列なり 浅草観音の堂にかけ列(つら)ねたる額は 何れも古名工の手になりて 殆    んど絶世のものと称せられしもの多く 就中(とりわけ)豊信国貞の大画 最も世に名高かりしが 或人    は之を評して 皆福助の行列なりと云ひ 却って国照の画ける力士の額を以て 真の画なりと賞めけれ    ば 聞く人皆其妄を難じて 之を狂人なりと嘲りぬ 然るに此頃 或る画学生ありて 私(ひそ)かに思    ふ所あり 態々(わざ/\)狂人に就て 福助の行列云々(しか/\)の所以を問ひたるは 決して其画を    批難したるに非ず 世人は知らずや 夫(か)の額面の画は 下より遙かに見る時は 如何にも立派の名    画なれ共(ども) 近づきて細かに之を視る時は 皆横巾広くして 頭のみ大く福助の行列と異る処なき    を 夫の国貞画ける一ッ家の婆の側に頬杖突ける観音の堂と顔とは 其間三寸余の距(へだたり)ありて    之に近づき視る時は 真に笑止の画き様なるが如く 皆割合に随ひて横巾広く仕上げあれば 誠に福助    の行列と云ふの外なきなり 之に反して国照の力士は専ら謹心を旨とし 土俵の砂の如(ごとく)は石灰    に砂を交ぜ 之を膠(どうさ)の上にふるひかけたる程なれば 画に於て更に一点の批難すべき所なきも    額面を画くの注意なかりしゆゑ 高所に掲げて毫も引立たず 折角なる土俵の砂も 鼠色の絵の具をな    すりたりとしか見えざるこそ気の毒なれ 国貞婆の額を画くに当りては 則ち否(しか)らず 彼注意周    到なるが故に 予め雨戸三枚を並べて 額面の雛形を作り 之れに下画して 二階の屋根へ掲げ 下よ    り見上げて 名画と見らるゝまでに直し始めて筆を下したりと云へば 福助の行列を画きて能く此名画    を示せるなり 誠に感服の至りなり 拙者が是等の名画をさして 福助の行列なりと云ひしは 全く近    間にて見たる時の事を云ひたるのみ云々(しか/\)と かくて画学生大に感服して其場を立ち去りたる    が 其后観音の額を掃除するに当りて 心ある画工請て 之を一覧せしに 果して或る人の言(こと)の    如く 皆福助の行列に彷彿たりしと云ふ〟    〈「豊信国貞」の国貞は初代だと思うが、豊信は不明。また浅草寺観音堂の額「福助の行列」および国照の力士像・国     貞の「一ッ家の婆」の図の不明〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年7月14日記事)   〝歌川豊国の碑    歌川の流を汲む豊国門下の画工は追々世を去りて 現今存生の者は国周・国政・国利・国鶴・国松・国    光・国輝(三代)・国峯・国直・国麿(二代)外数名にて 貞秀・国麿(初代)・国輝(二代)・国久    ・国玉・国明・国清・国孝・国為・国瀧・豊宣等の如きは皆故人となりて 二代三代豊国の建碑を企つ    る者さへ絶へんとする有様なれば 今回国周・国政・国利の三人が発起者となり、三代豊国の娘なる歌    川歌女(本所の金満家野口久敬妻)を助け 同窓を鼓舞して向島なる木母寺境内へ大いなる碑を立つる    となり 尤も其の表面には「二世三世豊国之碑」と記し 側に二世豊国(名人豊国と云ふ)の辞世「一    向(ひたすら)に弥陀へ任せし気の安さ只何事も南無阿弥陀仏」と云ふ一句を刻む筈なりと〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   ◇上p272   〝角田国貞    香蝶楼、一雄斎、又英一蝶と号す、通称庄蔵【一ニ庄五郎ニ作ル】江戸ノ人、本所五ッ目渡舩ノ辺リニ    住ス、故ニ又五渡亭ノ号アリ、後チ亀戸ニ移ル、画法ヲ倉橋豊国ニ学ビテ、其技大ニ進ム、天保十五年    二月ニ師名ヲ継ギテ、一陽斎豊国ト改ム、世ニ二世豊国ト云フ、柳亭種彦作ノ田舎源氏ノ図ヲ作ル、是    ヨリ名大ニ著ハル、元治元年十二月十五日歿ス、年七十九、江戸亀戸光成寺ニ墓アリ(人名辞書)〟     ◇下p303   〝歌川国貞    後チ豊国ト改ム、蓋シ其師名ヲ冒スナリ、一陽斎ト号ス、画ハ歌川派ヲ宗トシ、鏤版(ニシキ)画ヲ以テ著    ハル、常ニ好ミテ宮娃閨秀、婉媚妍麗ノ態ヲ写ス、嘗テ東京亀戸菅廟門前ニ住ス、会々(タマタマ)人の託    を受け、婦人賊ニ遇フノ図ヲ製セントス、意匠未ダ動カズ、一夕外ニ出て、久しく反ヘらず、其の婦坐    して竢ツ、夜将ニ半バナラントス、盗有リ戸ヲ排キテ入ル、婦䠖跙狼狽、為ス所ヲ知ラズ、既ニシテ盗    面ヲ露ハシ、徐ロニ曰く、懼ルヽ勿レト、婦睇ヲ定メテ之レヲ視レバ、即チ其ノ夫ナリ、復タ驚テ泣ク、    明ニ至テ、豊国遂ニ図ヲ作リテ之ヲ遣ル、図様巧妙、其ノ人大ニ懌ビ、厚ク瓊瑶ノ報ヲ作ス、蓋シ古人    心ヲ用ユルノ極、往々是ノ若キ者有リ、著ハス所、役者似顔早稽古本アリ、画中院子肖像ヲ写シ、捷法    ヲ載す、其ノ説古人の写照法と自然契合スト云フ〟  ☆ 明治二十六年(1893)     ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   ◇「歌川国貞」の項 p12   〝歌川国貞    本名〔空欄〕  号 香蝶楼  師匠の名 初代豊国  年代 凡五十年前より八十年迄    女絵髪の結ひ方 第十二図・第十三図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)    絵の種類 並判、中判、小判、細絵、長絵、二枚つぎ、絵本、肉筆    備考   横絵の景色は高価なり〟
  ◇「図柄」の項 p21   〝花鳥及び景色は凡て美人其の他の風俗画に比して凡(オヨ)そ半額くらい廉価なり。又広重、国芳、英泉、    及び国貞の如きは風景、花鳥の方却って高価なり〟
  ◇「豊国の初代と二代の区別」の項 p22   〝初代豊国の髪の結ひ方は第七図、八図、九図及び十二図の如し。尤も初めの図の物ほど高価にて、第十    図、十一図の物は甚だ廉なり。又二代豊国の髪の結ひ方は第十二図及び十三図の如し。    〈ここに言う二代目豊国とは前名国貞、これは国貞自身の自称で、現在は三代目豊国とされる〉
   「女絵髪の結ひ方」第一図~第九図」 第十図~第十三図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)     ◯『浮世絵師便覧』(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   ◇p208   〝豊国(クニ)    三世豊国、始め国貞とふ、角田氏、俗称庄蔵、香蝶楼、五渡亭、一雄斎、富望山人、冨眺庵、一螮の号    あり、元治元年死、近世の名手なり、三世豊国から二世と称す、何の故を知らず〟   ◇p222   〝国貞(サダ) 三世豊国の前名〟  ◯「読売新聞」(明治26年11月7日記事)   〝歌川豊国翁の碑    画伯を以て全国鳴りし故歌川豊国翁記念の為め 目下田楽鶴年氏が彫刻中なる石碑は長(たけ)五尺巾二    尺余のものにして 国貞・国周両氏の筆になれる翁の像を刻せり碑は 来月初句頃には彫刻済となり     亀井戸天神境内に据ゑ付くる筈なりと〟  ◯『読売新聞』(明治26年11月13日)   〝歌川豊国の碑    歌川豊国の碑を亀戸公園内に建つる由は前号に記したるが 右碑面には二代目名人豊国と三代目柳島豊    国との肖像を刻み 其側に一句を添へたり 即ち其肖像は豊原国周・豊斎国貞の合画 発句は梅堂にて    「幹はみな老を忘れて梅の花」と云ふ句なるよし〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝歌川豊国【二世(ママ)】香蝶楼    通称角田庄蔵、始め号一進斎、後一陽斎、又五渡亭、樹園、月波楼、富堂山人、富眺庵等の号有り。元    治元子年十二月十五日歿す、歳七十九。本所亀戸村光明寺に葬る。(此翁は初代豊国門人にて、初名国    貞。父は角田庄兵衛、俳諧を能くし五橋亭琴雷と云ふ。天明七未年八月十六日歿す、歳六十九。国貞、    本所五ッ目に在りて渡舟の株式を所有する、故に五渡亭の号あり。(蜀山人此号を送りしと云ふ)又天    保四年より英一桂の門に入て英一蝶と号す(香蝶楼と号するも一蝶が字詰め信香の香と一蝶の蝶をとり    て名づけたるよし)近来浮世絵の名人と称す。文化の初年、亀戸村に移住す。天保十五年正月、師一陽    斎豊国の号を嗣ぎ、二世豊国と称す。曩に一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す、故に国貞    は則三世豊国なり。弘化二年春、薙髪して肖造と改め、亀戸村の居を門人国久(次女の婿)に譲り、柳    島に隠居す。因に云、国重、文政の末、故豊国の後家に通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る、此時にや    或人の吟に「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国贋の豊くに」かくて同門一同不承知にて遂に    素人と成り本郷三丁目に住し瀬戸物商をなす)〟     ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘    右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に倣う。    三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、    国満、国丸、国久、国房、を載す〟      ◇「一世歌川豊国伝」p101   (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり)   〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、    国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、    国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。    二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。    国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。    国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。    国丸社中、重丸、年丸、輝人。    国信社中、信清、信一、信房、信与喜。    国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟      ◇「歌川豊広伝」p118   〝文化年間の戯作者、浮世絵師の見立相撲番付に、東西の大関は京伝豊国、関脇は三馬国貞、小結一九北    馬等にして、行事は馬琴を中にし、右に北斎、左に豊広を載せてあり。豊広をして北斎に対せしむるは、    少しく当たざるが如し〟      〝かの豊国、国貞のごときは、よく時好に投じ、一時世に行わるるといえども、関のみ、関脇のみ。其の    実地老練の力に至りては、みな豊広に及ばざるなり。豊広を推して、行事の席にあらしむるは、これ蓋    し過誉にあらざるべし〟
   「文化十年見立相撲番付」      ◇「三世豊国伝」p125
   「三世豊国伝」      ◇「歌川国芳伝」p194   〝同〈天保〉九年五月の風聞書に、(上略)国芳の役者画は一向売れ不申候。但し武者画は至って巧者に    て云々。この頃の国芳は専ら武者画を画き、大に世に賞せられ、役者画は国貞、武者画は国芳に限れり    と世評高かりし。     按ずるに、此の頃よりして、国芳の画大に世に行われ、終に国貞を圧倒するの勢いありし。当時の落     詞に葭がはびこり、渡し場の邪魔になり。葭は国芳をさし、渡し場は国貞をさしていえるなり。けだ     しその大意は、近ごろ国芳の画漸次に世人の喝采を以て、かの盛に行われし国貞も、これが為めにお     されて世評は前の如くならざりしをいえる也〟      ◇「歌川国芳伝」p208   〝歌川家の画法における、元祖豊春以来西洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其    弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧    の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡    (しばしば)削り屡補いて恰(あたかも)笊底の反古の如し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本    に画くを見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かも油画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、    常に筆意を顧ざるものの如し。是豈(あに)絵画の本色ならんや。三世豊国中年に至り頗る悟る所ありて、    曰く、余が画をかくはこれかくにあらず、細工するなり。自其筆意の非なるを知り、腰を屈めて英一珪    の門に入り、画法を学びたり。されど終に其筆意を錦画に顕わす事能わずして止む〟      ◇「浮世絵師歌川雑記」p213    〝【三芝居】客者評判記二冊は、式亭三馬の作にして、天保六年末(【或は文化八年末か詳ならず】の出    板なり。五渡亭国貞のさし画なり。画面細密にして、花道の出端を見る見物の趣、役者の楽屋入をみた    がる見物の形、打擲の場をみる見物の貌、ぬれ場をみる体、ちゃり場をみる見物の体など、真を写して    妙なりというべし)    〈『客者評判記』は文化七年(1810)刊である〉      ◇「浮世絵師歌川雑記」p221    (仮名垣魯文の「豊国略伝」省略。本文は文久元年)    ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』明治30年2月1日記事   〝浮世絵師追考(二)如来記    按ずるに国貞国芳と共に時を同じふして雁行し、国芳は軍陣名称勇士奮闘の状を画き、国貞は閨房美人    仕女婉淑の像を写し、名を斉(ひとし)ふして世に称せられしが、国貞の二世豊国と改めしや、国芳は之    をいやしみて、再び之と交はらす、是時より更らに歌川を名のらずして単に一勇斎国芳と号して、盛ん    に其筆を揮へり、其頃国貞豊国の世評宜(よろ)しからざりしは、彼の「歌川をうたがはしくも名のりえ    て、二世の豊国にせ(偽)の豊国」といふ狂句にても知らるべく、尚誰人の口ずさみにか      心なく葭に竿さすわたし守    とあり、葭とは国芳、わたし守とは豊国の事をいひしなるべし。其後一立斎広重の仲裁にて両人和睦し、    其記念にとて画きしは 広重国芳豊国三名合筆の 彼の有名なる東海道五十三次の画なり〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』)(微笑小史 大橋義著 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(90/119コマ)   ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。半角括弧(かな)で示す)    〝香蝶楼国貞 亀戸 光明寺    五つ目渡船場(わたしば)に住て居たるゆへ、一に五渡亭とも名乗りたり、晩年豊国の名を嗣(つぎ)しゆ    へ、戒名六つの中三番目に、豊国院貞匠画僊信士と誌し、台石に大きく歌川と彫つてあり〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)136/218コマ   〝歌川国貞 136/218コマ    通称庄蔵といふ 五渡亭・香蝶楼の号あり 江戸本所五ツ目に住す 後亀戸に移る 一陽斎豊国に師事    して画法を研究し 頗る上達して世に称せらる 天保十五年二月師の名を継ぎて 一陽斎豊国と改む    世に所謂二代目豊国は是れなり 此の人最も宮娃閨秀の図を描くに妙を得たり 其の図華麗にして 婉    媚妍麗の態動くが如し 或る人曾て国貞をして 婦人賊に遇ふの図を画かしむ 国貞之れを諾す 然れ    ども意匠未だ成らず 則はち一夕自ら盗の風を為し 窃かに己れあ家に入る 其の妻以て真◎となし    駭胎して為す所を知らず 狼狽の状備(つぶさ)に顕(あらは)る 国貞仍て其の態を写す 図様巧妙其の    人甚だ喜ぶ 其の画に熱心なること 概ね此の如し 元治元年十二月十五日没せり 年七十九 江戸亀    戸光成寺に葬る(扶桑画人伝 香亭雅談)〟  ◯『浮世画人伝』(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   ◇「歌川豊国系譜」p83
   「歌川豊国系譜」〝国貞(初代豊国門人)一雄斎 後年三世豊国ト更ム〟      ◇「歌川国貞」の項 p84   〝 歌川国貞(ルビうたかわくにさだ)    歌川国貞は、俗称角田庄蔵、家号は亀田屋と云ふ、一雄斎、五渡亭、香蝶楼、月波楼、富望山人、富眺    庵、樹園、梅戸、一蝶の数号あり。後年初代豊国の跡を継ぎて、一陽斎豊国と称せり。天明六年、武州    葛飾郡西葛西村に生れき。父は五橋亭琴雷と称し、俳諧を能くす。五橋亭とは本所五ッ目に、住みし故    なるべし。俗名は何と云ひしか詳(*ツマビラカ)ならず、天明七年八月十六日、歳六十九にて没す。亀戸村    光明寺に葬る。法号は、観行院理山善知信士なり、其辞世の句に、      もとかしき糸はほぐれて散る柳    国貞は其の子にして、浮世絵を好み師に就かずして、美人俳優を描くに、筆力老成にして、尋常画家の    及ぶところにあらず、初代豊国の門に入りし時、豊国其初めて画きしものを見て、大に其才筆に驚きし    と云ふ。既にして一雄斎国貞の号を得て、門下出藍(シュツラン)の誉(ホマレ)高し。文化の初年に山東京山、妹    背山と云へる小作を、江見屋より出板せり、其挿画は国貞なり、これ国貞が稗史画を物せる始めなりき    と。文化五年の三月、浪花の俳優、中村歌右衛門(三世、梅玉)初下りの御目見得狂言として、中村座    に於て『艶色競廓操(ハデクラベクルハノミサホ)』と名題して、玉屋新兵衛を勤め、好評を博し、三日目より客留    の札を掲ぐる程の、大人気なりしが、同月十三日より御礼の為と称し『近頃河原達引(チカゴロカワラノタテヒキ)』    に堀川の段を、大切に演じ、梅玉与三郎を勤めて、非常の大当りなりき。此時国貞、梅玉の猿廻し与二    郎を描き、世評高く大に称賛されたり、是其錦絵を描きし始めなり。又此の年の末に、吃又平に絵双紙    を物し、頗(スコブ)る好評お得、これより画名益々高し。国貞極て絵事に熱心し、芸娼妓相撲俳優の、古    実を研究して、絵画の趣向に工夫を凝らせり。或時は、深川品川四谷新宿根津弁天松井町常盤町お旅谷    中三田三角などの、芸娼妓の有様を、夫々精細に、描きわけて、一見其いづれの風俗たるを、判然たら    しむる抔(ナド)、絵事に心を用ふる、実に周到と謂ふ可し。国貞既に俳優の似顔を描きては師の豊国に    亞(ツ)ぎて、佳作の聞え高し。また団扇絵に巧なりき、特(コト)に稗史の合巻ものに密画をものするに至    りては、其技倆他に比ぶるものなく、一家独特の妙技なりき。柳亭種彦が傑作、偐紫田舎源氏の挿画は、    国貞が手に成りしものにて、実に稀世の艶筆なりとて、世人の愛玩一方ならざりき。    天保十五年正月、師一陽斎豊国の号を継ぎて、二世豊国と称す、これより先き一龍斎豊重、初代豊国の    後を承けて、二世豊国と称しき。されば国貞は理(リ)当(マサ)に、三世に当る筈なり、さるを二世と称す    るは、元祖豊国の血脈絶えたるをもて、伊賀屋勘右衛門が母某と、立川焉馬との勧めにより、国貞、そ    が名目相続する事となり、其時国貞の云へるは、先きに国重憗(*ナマジ)ひに師の名目を継ぎて、二世豊    国と称し、師の名を汚(ケガ)しゝゆゑ、己れ三世と称するは好ましからずとて、国重が称したる二世を    省きて、無きものとし、自ら一陽斎二世歌川豊国と称せしとか、蓋(ケダ)し己れの技倆国重に超越せる    をもて、直ちに初代豊国の後を承くるも、恥しからずと、思意したればなるべし、されど世間の謗(ソシ)    りは免れ難しと見え、    或るものゝ狂歌に      歌川をうたかはしくも名のり得て二世のとよくに偽(イツハリ)のとよくに    続浮世絵類考に、国貞の画、天保の末より、衰へたり故に、この狂歌ありたりと、あれどいかにや。弘    化二年剃髪して肖造と改称せり。亀戸村の家宅は、次女の婿門人国久に譲りて、己れは柳島に退隠しぬ。    安政二年、長女の婿門人国政に国貞の号を譲りたりき。肖造は年齢既に古稀を過ぐと雖(イエド)も、心身    共に衰へず、艶麗の筆依然として、旧の如し、老て倍々壮なりとは此の翁の事なりけり。国貞の本領は    以上記するが如し、然るに旁ら英一蝶が草筆の、軽妙洒落を愛し、天保四年、英一珪が門に遊び、墨画    (スミガ)に英一蝶と落欵せり、香蝶楼(カチョウロウ)の号は一蝶の別名、信香の香と一蝶の蝶を取りて、名付し    ものなりとぞ、斯(カ)くてまた嵩谷が裔、嵩陵が門にも遊びて、そが画風をも学びたりきとぞ。斯く一    蝶嵩谷が筆意を慕ひしかど、これ等は似るべくもあらざりきとなり。偖(サテ)又国貞が性行は如何と云ふ    に、壮年の時は花街柳巷に遊びて、品行よからざりしかど、晩年に至り謹慎方正にして、観劇の外、出    遊すること稀なりしと云ふ。元治元年十二月十五日没す、享年七十九歳、亀戸村光明寺に葬る。法号、    豊国院貞匠画仙居士、二世国貞が描きて、販売せし一世国貞が、肖像の上にそが辞世といへるを見るに、      一向に弥陀へまかせし身のやすさただ何事も南無阿弥陀仏
   「歌川国貞系譜」  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※半角(~)は本HPの補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(170/225コマ)    歌川豊国    三代目豊国なり。香蝶楼又は五渡亭と号す。二代(ママ初代)豊国の門人にて、俳優歌妓の似顔など巧に其    の性癖風情を穿(うが)ち、錦絵又は団扇に画き、大に世に行はる。又多く小説の挿画を写す。田舎源氏    の如きよく細かに当代貴族社会の風俗室内装飾等を真写せり。元治元年七十九にて没す〟  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「集古会」第五十一回 明治三十八年一月(『集古会誌』乙巳巻之二 明治38年3月刊)   〝岩瀬永眉(出品者)五渡亭国貞筆画凧 一幅〟  △『絵本江戸風俗往来』p132(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   (「六月」)   〝軒の燈籠    この晦日より江戸市中至る所、提燈或いは切子燈籠を毎戸毎夕ともすは、亡き魂の供養の燈火とかや。    提燈は長形・丸形・上ひらきて下細りたる形の三種なり。皆大中小ありて無紋なるあり、紅画・藍画に    て山水・花鳥・人物のかた美しく、切子燈籠は絶えて品よく、細工の技倆勝れたるより、費もまた多し。    無紋の長形大提燈へ題目または名号、或いは先祖代々など書きつけるあり。何れも皆今日より八月七日    頃迄は夜毎ともすものとしける。燈籠は細工物を出し、または画を出す。画は当時の浮世画工豊国・国    芳・広重の三画工競うて技倆を表し、新案妙図を工夫せるより、見物の人士夜毎に群集す。細工物に引    き替えるや、この細工人もまた画に劣らじとて工夫をこらして、見物の目を驚かする、山水・人物の作    りよく出来たり〟    〈この豊国は三代目、すなわち国貞であろう〉  ☆ 明治四十年(1907)  ◯「集古会」第六十二回 明治四十年三月(『集古会誌』丁未巻之三 明治40年11月刊)   〝竹内久一(出品者)五渡亭国貞自写 隈取図 一綴〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年一月(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)    村田幸吉(出品者)双六    国貞画    狂歌江戸の花 菫斎書    香蝶楼国貞画 伊勢詣太々双六    豊国画    染模様仕出双六 万亭応賀作〝  ◯「集古会」第六十九回 明治四十一年九月(『集古会誌』戊申巻五 明治42年6月刊)   〝河津春江(出品者)歌川豊国絵 源氏画 一帖〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「集古会」第七十二回 明治四十二年三月(『集古会誌』己酉巻三 明治42年9月刊)   〝林若樹(出品者)    五渡亭国貞画作 女児教訓名跡画伝稿本 一冊    〈〔国書DB〕の版下本はこれに相当するか〉    式亭三馬旧蔵 本箱蓋 新三 十二支之内     十二月図 万歳 出替り 菖蒲打 小原女の四枚 香蝶楼国貞所画ウラ白〟〈「新三」未詳〉    〈愛蔵本を収納する本箱の蓋に揮毫を依頼するのだから、三馬は国貞の画業を高く評価していたのであろう。なお作画     を依頼したのはもうひとりいて、勝川春英が担当している〉  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※半角(よみ)は本HPの補注   ◇歌川国貞(37/123コマ)   〝国貞己の家に盗に入る    歌川国貞、婦人賊に遇ふの図を倚頼され、苦心惨憺するも妙想浮ばず、一日外出して久しくかへらざり    しかば、妻心配して寝ずして待つ、偶(たまたま)盗あり、頬冠(かぶ)りをなし、表戸を押し明けて侵入    せしかば、妻狼狽して腰を抜かさんばかりに打驚き、声さへ立る事能はず、軈(やが)て妻盗賊の頬冠を    とるを見れば、吾が夫なるに、二度吃驚して終に泣き出しぬ、翌日国貞其の図を画きて佳作を得たり〟    〈明治19年『香亭雅談』下参照〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)    (絵師)   (画題)  (制作年代) (所蔵者)    〝香蝶楼国貞 「朧月」   文政天保頃  正木直彦     香蝶楼国貞 「芸妓」   文政天保頃  高嶺俊夫〟  ☆ 明治年間     ◯『明治百話』「長門屋と好文堂」上p176(篠田鉱造著・原本昭和六年刊・底本1996年〔岩波文庫本〕)   〝金座お住居は棟割長屋     『好文堂』には辻さんから引受けた『春画』なんかは、美本が沢山ありました。『好文堂』の主人が    亡くなって、後家さんになった時、西田伝助さんが周旋で、中上川あたりへ売込んで、かの方面へ散ば    ってしまったそうですが、今日では高価な本となってしまっていましょう、実に豊国あたりの大したも    のがあったと思われます。     金座の辻さんのことは、御存知でしょうが、浜町の金座に住んで、贅沢三昧に暮していたものの、お    住居(スマイ)は棟割長屋となっていて、その一角に居宅があり、ソレがこの上もない贅沢な室(ヘヤ)となっ    ていて、唐紙が謡の扇(金襴仕立)をベタ張にして、スキマがないといった風であったとやらいいます    が、私共の知っている辻さんの先代が、旧幕時代が全盛この上なかったというお話です〟  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「発端」p15   〝(鉄砲洲稲荷神社)祖母がまだ生家にいた頃の神社は、今より北へ寄った稲荷橋の南袂、大川の河口    に近く、諸国の廻船が出入する船着場の河岸に在ったと云う。現地に移った時期はまだ訊いていないが、    三代目豊国と、二代目広重の合作「江戸自慢三十六興」という組物の錦絵には、旧地の風景と、境内の    富士祭での土産と見える麦藁の蛇を提げた町娘が画いてある。豊国の落款に喜翁とあるので、それが文    久二年の作と解る。鉄砲洲の稲荷と普通には呼ばれているが、「江戸名所図会」には湊稲荷となってい    る。雪旦の細密な写生による挿絵を見ると、この神社の景観がいかに勝れていたかが窺われて、眼のあ    たりこの実景に接することの出来なかったのが残念に思える。殊に境内の富士から、湊口に碇泊する数    多の巨船や、佃を越して遠く、鹿野山や、鋸山を見晴らす景色が、「助六」ではないが、浮絵のように    見えたのであろう〟     〈「江戸自慢三十六興」は「子二」の改印があり、元治元年の刊行〉
   「鉄砲図稲荷」「江戸自慢三十六興」 喜翁豊国筆・広重筆 (東京都立図書館・TOKYOアーカイブ)  ☆ 大正年間(1912~1825)  ◯「集古会」第八十九回 大正元年(1912)九月(『集古会誌』壬子巻五 大正3年5月刊)   〝村田幸吉(出品者)     国貞筆 越後屋店頭図     三枚続     国貞筆 通旅籠町大丸呉服店図 三枚続  ◯「集古会」第百回 大正三年(1914)十一月(『集古会志』乙卯一 大正5年7月刊)   〝有田兎毛三(出品者)豊国 源氏絵 湯殿 錦絵六枚続 一組〟〈三代目豊国(初代国貞)か〉  ◯「集古会」第百二回 大正四年(1915)三月(『集古』庚辰第五号 昭和15年11月刊)   〝林若樹  (出品者)豊国画 時代物並世話物狂言団扇絵帖 落合芳幾輯    細野順之助(出品者)     豊国画   踊形容新開(にかい)入之図 二枚続 一組     同     踊形容楽屋図 一組     豊国画   古今俳優似顔大全 七十九歳豊国画 一冊    有田兎毛三(出品者)     豊国国貞 芝居絵 三枚続  十組     豊国   芝居絵 三枚竪続 一枚     豊国   六歌仙図     六枚〟  ◯『浮世絵』第一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「役者絵の順序」あふぎ生記(梅堂豊斎(当時六十八歳)翁談 聞き書き)(16/21コマ)   〝 亀戸の師匠は、本名を角田庄蔵と云つたんですが、後に名を省(ママ)造と改めました。御存じの通り国    芳と丸で肌合が違つて居たんで、貯蓄も充分出来たので、自分ぢやァもう筆を採らない積りで、亀戸井    へ隠居をしたのですが、方々から頼まれのでそうはいかず、矢張画く事になつたんです     一蝶を崇拝して 其頃英一蜻と云ふ人に就て、一蹛(たい)と云ふ号がありました、だから一寸下廻り    の捕丁(とつたり)なぞを画くのに頭から手足なぞに何処(どつか)しら一蝶風の所があります〟  ◯『鸚鵡石』p186(吉井勇著 玄文社 大正七年(1918)十月刊)   (近代書誌・近代画像データベース)   〝国貞     もの思へば国貞描く似顔絵の路考に似たる君が横顔     国貞の描(か)きし死絵に見入りつつ路考思へば涙ながるる     わが君は国貞描(ゑが)く似顔絵を好みたまへばわれもこのみぬ〟   〝写楽     われを見て嘲けるごとく笑ひゐる 写楽の絵さへいとほしきかな     東州斎写楽の絵こそをかしけれ 凝視(みつ)むるほどにかなしみの湧く     雲母摺(きらずり)の雲母の黒きもはかなしと 写楽の絵をば見てもなげきぬ〟    〈役者絵における国貞と写楽の相違を、吉井勇の感性を参考にして言うと、国貞の似顔絵の主人公は「役者」だが、写     楽の絵のそれは「役者」ではなく役者の「人となり」なのだろうと思う。舞台上の華は役者が役柄を演ずることによ     ってが生まれる。国貞の似顔絵はその華をそえて役者を画くから、後日になっても絵を見返せば、舞台上の役者と華     が髣髴と蘇る。一方、写楽が画くのは演技する役者ではなく役者の「人となり」である。だからそこに華はない、し     かしその代わり、その「人となり」に対する人間的な共感のようなものが見る側には生まれる。ただ、江戸の多くの     人々が役者絵に求めていたのは役者の華なのであろう。その点、役者絵というより人間を表現する肖像画に近い写楽     の絵が、江戸の人々の目に奇異なものとして写ったことは容易に想像できる〉  ◯「集古会」第百三十二回 大正十年(1921)三月(『集古』辛酉第三号 大正10年4月刊)   〝藤波紫影(出品者)国貞画 諸国繁栄遊興双六 一枚〟  ◯「集古会」第百三十四(ママ)回 大正十年十一月(『集古』壬戌第一号 大正10年12月刊)    浅田澱橘(出品者)国貞 大工上棟之図 錦絵 一組〟  ◯「集古会」第百三十六回 大正十一年(1922)三月(『集古』壬戌第三号 大正11年5月刊)   〝白井鉄太郎(出品者)     豊国 錦絵 伊勢参宮群集之図 三枚 〈万延元年(1860)のお蔭参りに取材〉     豊国 錦絵 伊勢海女長鮑製図 三枚 〈改印「申五改」万延1年5月〉    三村清三郞(出品者)国貞錦絵 水売図 一枚〟  ◯『芸苑一夕話』下巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(118/236コマ)   ◇四六 一陽斎豊国     渡世の筆と感激の筆     文政天保から安政にかけて、盛んに錦絵双紙を書いたので、世に知られた、二(ママ)代目一陽斎豊国と    いふ浮世絵師が、曾て江戸の蔵前なる札差某の隠居から、其の肖像を描くやう依頼を受けたことがある。    処が容易に筆を執らぬので、隠居は、やきもきして、頻りに催促してゐたが、漸く三年ばかり経つて、    其の絵が出来た。そこで、先方へ通知してやると、隠居は、使つてゐる一人の小僧を請取りに遣つた。    小僧は、軈(やが)て豊国から渡された隠居の肖像を請取つて、暫しは無言で、つく/\それを見詰めて    ゐたが、「あゝ、よく肖(に)た」と覚えず叫んで、頗る感に打たれたらしい様子であつたが、果ては、    不思議にも、ほろ/\と涙を零(こぼ)した。     之を見てゐた豊国は、なぜ泣くのかと、不審の余り、件の丁稚小僧に向つて其の訳を問うて見た。処    が其の少年の曰く、私の田舎に居る年老いた父の像も、斯様(かやう)に書いて貰つたら、常に遇ひたい    と思ふ時、それを見ては、恰(あたか)も膝元に居るやうな心持がするであらうに、それも叶はぬと思う    たので、つい、涙を流しましたと答へるを聞くや、豊国は深く感じて「お前の父は遠国にゐる人だから、    其の顔を写すことは出来ないが、其の代りに、自分は今直ぐ、お前の顔を写してやらう。それを国へ送    つてやつたら、お前が遇ひたいと思ふ以上に、お前を見たがつてゐる老いたる父が、さぞ喜ぶであらう    から」と即座に筆を執つて、見る/\少年の面影を、婉然(さながら)、生けるが如くに写し、彩色まで    も加へて与へた。     小僧は非常に喜んで、帰つて之を主人の隠居に出して示した。併し、隠居は甚だ不機嫌で、其の後、    飄然(へうぜん)と豊国がやつて来た時、隠居は散々苦情を言つた。「小僧の為にはすぐ目の前で書いて    やりながら、自分のものは、なぜ早く書上げてはくれなかつた。三年越しも待たせるとは酷い」と、皮    肉や愚痴を連発した。     其の時、豊国は厳然として隠居に言うた。「凡そ肖像といふものは、学問があるとか、徳があるとか    いふ人の面影を描くもので、貴下の如きは、失礼ながら別に学問があるでもなく、又徳があるでもない。    只の金持の老人だといふのみでは、どうも其の姿を書く気になれぬ。自分は、絵によつて渡世する身で    あるから、客の注文に応じて是非なく書くが、実は中心から好んでする訳ではない。然るに、御宅のあ    の小僧は、幼少ながら孝子であるから、肖像を書く値打も興味も出て来たのである。あの様な親孝行者    ならば、本人から乞はれずとも、自分は進んで書いてやりたい」と、滔々として説き立てたので、隠居    は一言もなかつたといふ。浮世絵師でも、名流になれば、流石、何処かに見識のある所が嬉しい〟  ◯「集古会」第百四十二回 大正十二年(1923)五月(『集古』癸亥第四号 大正12年8月刊)   〝森潤三郞(出品者)豊国画 江戸に水まさる双六 一枚〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    歌川豊国三世画(◇は所蔵者)   ◇三谷長三郎   (三谷氏は区内の旧家にして、襲蔵の美術品も少からざりし由なるが、殊に氏の祖父母即ち七代目長三郎といふが浮世絵    を好みて、国貞の後援者となり、又自ら錦絵を出版せしを以て、当時の板下しのまゝに保存せられたるもの少からず、    主として国貞・国芳・広重の作品にして総数約一万枚を算する程ありしが、偶帝室博物館に寄托中なりし十五帖が残り    しのみにて、他は挙げて祝融氏(注)に奪はれたりと云ふ)※(注)「祝融氏」とは火災の擬人化   ◇植草甚助 豊国広重等浮世絵版画 六十冊約五千枚    (三世豊国広重の主要作品は殆ど網羅したるものなりしと云ふ)   ◇大畑多右衛門「お茶水両岸図」横物 絹本淡彩歌川豊国「向島図」   ◇別府金七 歌川豊国「潮汲図」絹本設色 巾九寸二分 立二尺九寸一分〈初代か三代目か不明〉   ◇小林亮一 歌川豊国「向島図」〈初代か三代目か不明。亮一氏は小林文七嗣子〉  ◯「集古会」第百四十四回 大正十三年(1924)一月(『集古』甲子第二号 大正13年4月刊)   〝三村清三郞(出品者)三世豊国 玉鼠 小幀 一幅〟  ◯「集古会」百五十六回 大正十五年五月(『集古』丙寅第四号 大正15年9月刊)   〝三村清三郞(出品者)豊国 錦絵 妙義山参詣群集図 三枚〟  ☆ 昭和以降(1926~)     ◯「梅ヶ枝漫録(一)」伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝本所の豊国は、もと国貞と云つてゐましたが、本郷の豊国のやめてから、十年程たつてから、豊国を名    乗りました。本郷の豊国をいれると、三代目になりますが、本郷のは、だまつて名乗つたので、公然で    はありません。其の間の消息はよく知りませんが、弟子が、二組になつてゐたのかも知れません。    本所の国貞が、豊国を名乗る時は、相談に参りました〟  ◯「集古会」第百六十二回 昭和二年九月(『集古』丁卯第五号 昭和2年10月刊)   〝浅田澱橋(出品者)豊国画 新板歌沢寿双六 一枚〟  ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     豊国 奴道成寺 配り絵 四代団十郎 一枚      豊国 七伊呂波清書双六・寿曽我対面双六・初舞台見物双六〟  ◯『狂歌人名辞書』p154(狩野快庵編・昭和三年(1928)刊)   〝歌川豊国(三代)、初号・国貞、香蝶楼、又、五渡亭と号す、初代豊国門人、通称角田庄蔵、東都本所    五ツ目に住す、師の歿後豊国の号を襲ぐ、元治元年十二月十五日歿す、年七十九〟     ◯「集古会」第百七十五回 昭和五年三月(『集古』庚午第三号 昭和5年5月刊)    中沢澄男(出品者)     豊国画 錦絵 海女鮑取の図   一枚 〈初代か〉     国貞画 錦絵 女人形遣ひ車曳図 二枚〟  ◯「集古会」第百七十八回 昭和五年十一月(『集古』辛未第一号 昭和6年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)五渡亭国貞画 古今ばけもの評判 談洲楼焉馬作 一冊 西与板 文政七年〟  ◯「集古会」第百八十回 昭和六年三月 於無極亭(『集古』辛未第三号 昭和6年5月刊)    浅田澱橋(出品者)     豊国画 錦絵 時世七福人  一枚 /同画 錦絵 今様三十二相 一枚〈初代か〉     国貞画 錦絵 風流十二月の内 文月 一枚    鈴木馨(出品者)豊国画 合巻女郎花五色石台 四冊 嘉永三四年板 甘泉堂梓  ◯「集古会」第百八十一回 昭和六年五月(『集古』辛未第四号 昭和6年9月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     国貞画 錦絵 大工棟上之図 三枚続〟     豊国画 錦絵 芝神明揚弓女の図 一枚 江戸名所百人美女〟〈初代か三代か未詳〉  ◯『浮世絵師伝』p134(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝豊国 三代    【生】天明六年(1786)   【歿】元治元年(1864)十二月十五日-七十九    【画系】初代豊国門人    【作画期】文化~元治    歌川を称す、角田氏、俗称庄藏(後に肖造)、家を亀田屋と称す(父に庄兵衛といひ本所五ツ目の渡船    場を経営せしが、性俳諧を好みて五橋亭琴雷と号しき、天明七年歿)。彼は、幼少より画を好み、師無    くして既に画技の観るべきものありしが、初代豊国の門人となるに及んで、頓に技倆の進境を示したり。    初め画名を国貞といひ、一雄斎と號す、次で蜀山人の撰によりて五渡亭の号を用ゐたり、蓋し、五ツ目    の渡し場の意を含ませしものなり。後ち文政末期に至り、英一珪の門に入りて英一螮と号し、それ以後    別号を香蝶楼(楼を棲としたる例もあり)と改めたり、これ英一蝶の実名信香の「香」と、一蝶の「蝶」    を取りしものにして、乃ち彼が一蝶を追慕する所ありしが爲めなり。其他、月波楼・北梅戸・桃樹園・    富眺庵・富望山人・琴雷舎等の数号あり。既にして、本所五ツ目の旧宅を去り、亀戸天神の門前に移り    しが、天保十五(弘化元)年春、他の推薦と己が希望とによりて、先師の名を襲ぎ、二代目(実は三代)    豊国と改め、併せて一陽斎の号を用ふることゝなりしも、時には香蝶楼豊国或は国貞舎豊国などゝ落款    したりき。但し、彼が豊国の二代目を以て自任せしは、其の技倆に於て当然なりしと雖も、曩に公然二    代目を継承せし一瑛斎(又は後素亭)豊国の、既に故人(或は生存せしか)となりしを奇貨として、全    然之れを除外せしが如き態度に出でしは、多少彼の人格を疑はしむる一素因たらざるを得ず。当時、狂    歌師某(梅屋鶴寿か)彼が襲名を諷刺して曰く、「歌川をうたがはしくも名のりえて二世の豊国偽の豊    国」、弘化二年薙髪して俗称を肖造と改め、翌三年門人国政(三代)を女婿として二代目国貞を名乗ら    しめ、其の亀戸の家を譲りて、己は柳島に新宅を構へて隠居せり、富眺庵・富望山人の号は、即ち其の    家の位置、西南遙かに富士山を眺望し得たりしに因る。後ち文久二年七十七歳の記念として、画名の肩    書に「喜翁」の二字を用ゐ、老来尚ほ頻りに彩管を揮ひしが、遂に七十九歳を一期として他界せり。墓    所亀戸光明寺、法名を豊国院貞匠画僊士といふ。    彼が肖像を図せる錦絵に、そが辞世として絵へたる狂歌あり、一向に弥陀へまかせし氣の安さ只何事も    南無阿弥陀仏。彼には三女ありて男子無し、長女は即ち前記の如く門人国政(後ち四代豊国)に妻せ、    次女は早世し、三女に門人国久を迎へて、己が後を継がしめたり。彼の作画は、文化三年(二十一歳)    版の黄表紙『七福神屑籠』(一九作)を以て最初とし、次で文化五年四月、中村座の「近頃河原の達引」    に、中村歌右衛門(三代)の扮せし猿廻し與次郎の図を、永寿堂(西村屋与八)より出版せしは、彼が    錦絵に於ける初作なりと云ふ。それより毎年俳優の似顏絵を夥しく画き、自然歌舞伎の故実等にも精通    して、いよいよ名声を恣にせり。又、春宵秘戯図に独特の妙趣を示し、濃婉華麗まことに人目を驚かす    に足るものあり(此等の作品には不器用又平と落款せり)。尚ほ彼は文政十二年より天保十三年に亘り    て、柳亭種彦の『諺〈ママ偐〉紫田舎源氏』(三十八編迄)に挿画し、頗る世の好評を博せしかば、それ    に引続きて所謂源氏絵なるものを製作し、これ亦夥しき数に上りたり。彼は斯の如く巧みに時好に投ぜ    し結果、自然財政に余裕を生じ、従つて、風を望んで入門する者陸続たりしなり、然れども、芸術上に    於ては、年を逐つて堕落に傾き、たゞ徒らに、作品の数量を無制限に増大せしめたるのみなりき。併し、    彼が五渡亭国貞時代に於ける美人画中には、後年のそれに比して頗る芸術的価値に富めるものあり、近    時頻りに其が鑑賞熱を昂め、往々にして傑作と認めらるゝものを見出せり、例へば「星の霜当世風俗」    蚊とり美人(口絵第六十六図参照)の如きも其の一例なり。また彼が晩年の諸作中、彫摺等に最も深く    意を用ゐしものは、かの俳優大首似顏絵なり、そは万延元年に二十五図、文久二年に二図、同三年に三    十一図、元治元年に一図、慶応元年(歿後出版)に一図等、合計六十図にして、口絵第六十七図に挙げ    たる「嵐雛助」は、彼が七十八歳即ち文久三年の作なり。当時此種の大首似顏絵を、芳虎も若干図画き    しが、ついで明治初年には、更に国周の筆に成りしもの出でたり。(口絵第六十八図参照)〟  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「修行の後期」p76   〝三世豊国のやうに亀戸に納まつて居る者の弟子が芝の神明前あたりの間屋へ使ひに行くは一日掛りで、    大抵は握り飯を腰に提げて出たものたが、さもないときは盛蕎麦三つが弁当、廿四文を渡されるが余程    調子の好い場合だ。殊に豊国の晩年万事を妻のお粂婆さんが麾を振るやうに成つては、此の婆さん有名    な締り屋で弟子に対する総てが甚だ辛く、弁当代りの蕎麦代の如ぎも二つ分より与へないので、大分不    平があつて芝の問屋泉市などでは、亀戸の弟子衆は気の毒だと云ひ、食事頃に使ひに来ると昼飯を振舞    たものだと云ふ事である〟      ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p81   〝亀戸豊国の高弟であつた国虎の如き、能く師風を呑込み運筆自在で、二世国貞などより合巻物では遥に    上手であつて、柳亭種彦作の『白縫物語』などには、其の代筆の最も多くあつても、豊国と国虎の見分    が附ない程であるに、名を求めるを好まず一生を隠れた画工で、師匠の代筆で終るやうな奇人もあるが    (後略)〟    〈「日本古典籍総合目録」によれば、柳下亭種員作『白縫譚』。この合巻の挿絵を三代豊国が担当したのは、嘉永二年     (1849)~同五年まで〉      ◇第二部「浮世絵師」「役者似顔絵の流行」p105   〝三世豊国即ち国貞が晩年の弟子で歿後四世に随従した豊斎翁の談に「昔は上方の役者が下つて来ると、    何事おいても座元か狂言作者が同道して、師匠さんの処へ挨拶に来たものでげす。左様すると師匠さん    は其の役者と種々の話をして居る中に、此の役者は鼻が箆棒に高い、高麗屋の鼻に似てゐるが少し段が    あるとか、小鼻の処が開いて居るとか、或は目附は彦三郎に悉皆だ、口元は誰れに似て愛嬌があるなど    と、一々其の癖を呑みこんで了ひ、その顔の輪郭を心で描いて見られたものでげす。そして顔の中で何    処か好いところの有るもので、口元に愛矯があつたり、目附に清しい処があつたりする、其の人々の一    番目立つて好い点を十分に見えるやうに初めから打解けて親しくされましたよ、平生は余り戯言なんか    言つた事のない師匠さんでげすが、初対面の役者衆には馬鹿に面白く口当りが好く、斯うして悉皆その    顔の癖を取つて了ひ、また帰るのを送り出すときに歩行癖まで、ちやんと見て了ひなさるのに、実に経    験とは言ひながら怖しいやうで、師匠さんの話を蔭で聴いてゐると、アヽ彼の人は今試験されて居るな、    何にも知らずに師匠さんの口に乗せられて喋舌つてゐるかと、弟子同士で噂することもありますさ、馴    れと云ふものは怖しいもので、斯うして一度近附に来たとなると、其の似顔絵が下り役者何某と云はれ    て、其の得意として売込んで居る狂言とか、又は下つて来た座で演る狂言の役々の姿で出ます。夫れが    仮に璃寛とすれば、今度来た璃寛は先代とは何うだとか斯うだとか、芸の巧拙までが市中の評判となつ    て、我れも見に往くから己れも見ようと云ふ事になるのでげす」と聴いた。此様訳であるから、役者よ    りの附届の言葉を変て露骨にいふ時は賄賂だが、殆ど絶ることが無く、下り役者に成るに土産物が中々、    扇子や手拭ぐらいで何分御晶員にと頭を下げて済むので無い。晩年亀戸豊国の有福であつたも、此様余    禄の手伝ひが多かつたと云ふ噂さへ残るのである〟     〈役者似顔絵の名人・国貞(三代豊国)の秘訣はこの鋭い観察眼にあるのだろう。岩本活東子著『戯作六家撰』(安政     三年十二月自序)に、山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・烏亭焉馬の戯作者六人の肖像と、北     斎・一陽斎豊国・国貞の肖像が載っている。すべて香蝶楼国貞画である。亀戸の国貞が『南総里見八犬伝』の板元・     丁子屋平兵衛に伴われて、四ッ谷信濃坂の曲亭馬琴宅を訪れ、肖像を写し撮ったのは天保十二年(1841)十一月十六日     のこと。この肖像画は「八犬伝」最後の挿絵に使うためのものだが、第九輯の画工を担当した二代目・柳川重信や渓     斎英泉を差し置いて、国貞を採用したのは、その似顔絵技術を高く評価してのことであろう。おそらく肖像画の国貞     という定評が定着していたものと思われる。余談になるが、国貞の起用は馬琴の提案かそれとも丁子屋か。馬琴のこ     の日の日記には「丁子屋家内之者抔ハ、よく似たりとて誉候由ニ候へ共、小子家内之者ハ、さばかり似ずと申候」と     丁子屋の方では評判高かったが、滝沢家では案に相違して低い評価が下された。無論、失明した馬琴は自分の肖像を     見ることはできない。ただこういう見解は持っていた。「昔年、豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是     ハ日々面会之熟友なれバ也」この豊国は初代。一陽斎豊国画く京伝の肖像画が生き写し同様に仕上がったのは二人が     熟友なればこそ。肖像画の出来映えは画工と被写体との親疎に関係すると、馬琴はいうのである。その点からいうと、     馬琴と国貞の関係は極めて疎遠で、『吾仏乃記』には「国貞と親しからず。文化年間、歌川豊国が家にて一たび相見     えしのみ。今日酒飯を薦めて晤譚の間、国貞則懐紙に吾肖照を写す事数扁、畢に写し得たりけん、哺時に至りて辞去     しけり」という。果たして豊斎がいうように、昼食と見られる食事の前の僅かな時間内に、国貞は面談しながら馬琴     の「癖を呑みこんで」真を写し得たであろうか。よしんば真を写し得たとしても、今日を入れても二度しか会ったこ     とのない国貞である、疎遠のものに良い肖像画は生まれないという馬琴の思いが、おそらくそのまま写し取られてい     るに違いないのである。『戯作六家撰』は『燕石十種』第二巻(中央公論社刊)参照。「日記」及び『吾仏乃記』記     事は、本HP「歌川国貞」及び「馬琴日記」の項参照〉      ◇第三部「彫刻師」「絵を活かすも殺すも」p148   〝三世豊国が地本絵双紙問屋菊寿堂広岡幸助へ遺した手紙の文中「扨又御ねがひは此の大全のかしらは、    ぜひ/\ほり竹に御ほらせ被下度候、どうも役のかしらは一番竹がよろしく候云々」と云ひ、その後文    に「先日女ゑ御ほらせ被成候は伊八ならんと存じ候、此人のわり毛すかし等は又中々外の板木師とひと    つになり不申かんしんに存じ候、女ゑの分は伊八に御遣し可被下云々」とある、此の手紙は葉月廿一日    喜翁とあるから、文久二年八月豊国七十七の時のもので、文中の大全とは「古今俳優似顔大全一の事で    あるが、是れ等な観ても〈*画工と彫工との〉一部の消息は想像し得られるのだ〟     ◯「集古会」第百八十四回 昭和七年一月(『集古』壬申第二号 昭和7年3月刊)   〝上羽貞幸(出品者)国貞画 錦絵 猿回し(市川団十郎) 一枚〟  ◯「集古会」第百八十五回 昭和七年三月(『集古』壬申第三号 昭和7年月5刊)   〝相良顕三 横浜(出品者)香蝶楼国貞画 錦絵 小児習字の図 一枚 稚六芸ノ内 書数〟    大橋微笑(出品者)歌川国貞画 邯鄲諸国譚の中近江湖水之巻 合一冊 柳亭種彦作 天保五年〟〈合巻〉  ◯「集古会」第百八十九回 昭和八年一月(『集古』癸酉第二号 昭和8年3月刊)   〝森潤三郞(出品者)歌川豊国画 八犬義士誉勇猛 立川焉馬作 一冊             八犬伝の一節を常磐津浄瑠璃に作りしもの    〈〔国書DB〕画像の角書は「著読本ハ曲亭馬琴 浄瑠璃ハ立川焉馬」刊年不記載〉    山田一(出品者)豊国広重合作 東源氏雪の庭 一組〟  ◯「集古会」第百九十一回 昭和八年五月(『集古』癸酉第四号 昭和8年9月刊)   〝秋田収翁 鳥取(出品者)錦絵 江戸の花名勝会 一枚     相馬良門豊国画 瀧夜叉姫国貞画 伊賀寿鳥井清国画 神田八辻広重画 松島彫大〟     〈改印「亥正改」文久3年正月刊。三代豊国・二代国貞・二代?清国・二代広重〉  ◯「集古会」第百九十四回 昭和九年一月(『集古』甲戌第二号 昭和9年月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     豊国筆 錦江 程義経(九郎)恋の源一代鏡 三枚続     豊国筆 錦絵 九代目団十郎の牛若伝次  一枚 馬喰四木屋板 彫竹     七十八歳豊国筆 東都四季名称尽 綾瀬の里九代目団十郎 一枚     豊国筆 錦絵 流光けん之図 一枚 藤慶板 横川彫竹      「ことしや世直し元日に 目出たくとつた年男 福は内外もにこ/\と(後略)」  ◯「集古会」第百九十六回 昭和九年五月(『集古』甲戌第四号 昭和9年9月刊)   〝浅田澱橋(出品者)五渡亭国貞画 市川団十郎口上摺物 一枚〟  ◯「集古会」第百九十八回 昭和九年十一月(『集古』乙亥第一号 昭和10年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     豊国画   錦絵 踊形容江戸の栄   三枚続     豊国画   同  市川家初代より八代迄似顔 三枚続     同上    同  中村家初代より六代迄似顔 三枚続     豊国画   同  六代目団蔵名弘摺物    一枚     豊国画   初舞台見物双六  一舗     豊国画袋共 新板歌沢寿五六  一舗     同上    寿曽我対面双六  一舗     豊国画   新板七津伊呂波清書双六 一舗    上羽貞幸(出品者)     歌川国貞画 劇場むしめがね 二冊  黙々漁隠著    和田千吉(出品者)     豊国画 独娘聟八人双六   一舗      国貞画 八犬伝狗之草紙双六 一舗    斎藤治兵衛 鶴岡(出品者)     豊国画 独娘聟八人双六   一舗 八十翁豊国画〟  ◯「集古会」第百九十八回 昭和九年十一月(『集古』乙亥第一号 昭和10年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     国貞画 三芝居役者細見 文政九年 五柳亭徳升戯述         芝居細見三葉草 三冊 江戸三座 天保五年 焉馬撰  ◯「集古会」第百九十九回 昭和十年一月(『集古』乙亥第二号 昭和10年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)      歌川豊国筆 錦絵 曽我十郎大磯 一枚 書画五十三次の内平塚           錦絵 松王丸 一枚 東海道五十三次の内土山水口の間     歌川国貞筆 錦絵 松本幸四郎 尾上松助似顔絵 一枚            錦絵 松永大膳 三枚続〟  ◯「集古会」第二百回 昭和十年三月(『集古』乙亥第三号 昭和10年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)     香蝶楼豊国画 横絵 夜さくら 三枚続    三村清三郞(出品者)     歌川豊国画 花模様衣裳美人図 一幅     森金次郎 鶴岡(出品者)     国貞画 錦絵 浅草奥山花盛之図 三枚続     豊国画 同  桜源氏庭遊興   三枚続「七十九歳豊国画」  ◯「集古会」第二百二回 昭和十年九月(『集古』乙亥第五号 昭和10年10月刊)   〝中沢澄男(出品者)国貞画 其紫鄙の俤袋 一枚 一筆庵作    ◯「集古会」第二百三回 昭和十年十一月(『集古』丙子第一号 昭和11年1月刊)   〝浅田澱橋(出品者)     豊国筆 錦絵 綾瀬之里  一枚 東都四季名所尽     豊国筆 同  秋葉 小梅 二枚 江戸之花名勝会〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化八年 辛未」(1811)p181   〝正月、歌川国貞の画ける『客者評判記』出版。(国貞此年二十六歳なり)〟   ◇「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)p191   〝正月、豊国・国貞・辰斎・戴一・国丸・国安・春亭・武清・玉山等の挿画ある『以代美満寿』出版〟   ◇「文政六年 癸未」(1823)p198   〝三月、歌川国貞の画ける『江戸紫訥子頭巾』出版〟   ◇「文政九年 丙戌」(1826)p202   〝正月、国貞の画ける『三芝居役者細見』出版〟    六月、北渓・国貞・北馬・国直・辰斎・北斎等の画ける『狂歌の集』〟   ◇「文政一一年 戊子」(1828)p205   〝正月、国貞・貞景・北渓等の画ける『狂歌四季訓蒙図彙』出版〟   ◇「文政一二年 己丑」(1827)p207   〝正月、国貞の『三都俳優水滸伝』出版    此年、歌川国貞の挿画に成る曲亭馬琴作『近世説美少年録』第一集出版〟   ◇「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)p208   〝正月、歌川国貞の画ける『劇場一観顕微鏡』〟   ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝正月、国貞の画ける『戯場一観顕微鏡』下帙出版〟   ◇「天保四年 癸巳」(1833)p211   〝正月、国貞の画ける『俳優畸人伝』出版〟   ◇「天保六年 乙未」(1835)p214   〝正月、歌川国直・国貞等の画ける『俳風狂句百人集』出版。       北斎・国貞等の画ける『俳優三十六花仙』出版〟   ◇「天保七年 丙申」(1836)p215   〝四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版〟   ◇「天保一四年 癸卯」(1843)p222   〝十月、歌川国貞の画ける『相撲取組図画』出版〟   ◇「弘化二年 乙巳」(1845)p224   〝此年、初代国貞薙髪して肖造と称す〟   ◇「嘉永五年 壬子」(1852)p231   〝武江年表本年の條に「豊国(初代国貞といふ)が筆にて天明の頃より文化頃までの俳優似顔絵を梓行せ    しむ」とあり。即ち『俳優見立五十三次』をいへり〟   ◇「嘉永六年 癸丑」(1853)p232   〝正月、葛飾為斎、初代国貞(此の時一陽斎豊国と号す)、二代国貞(梅蝶楼と号す)、一勇斎国芳・玉    蘭斎貞秀・一猛斎芳虎の画ける『贈答百人一首』出版〟   ◇「元治元年(三月朔日改元)甲子」(1864)p241   〝十二月十五日、初代歌川国貞歿す。行年七十九。(国貞は初代豊国の高弟にして三代豊国となれり。姓    は角田、俗称庄蔵、本所五ッ木の渡船場の株を有せし人にて五渡亭と号し、又香蝶楼とも号せり。師の    豊国と同じく役者似顔を画くに堪能なり)〟  ◯「集古会」第二百八回 昭和十一年十一月(『集古』丁丑第一号 昭和12年1月刊)   〝小沢一蛙(出品者)豊国画 白拍子静御前の図 一枚 古今名婦伝の内〟  ◯「集古会」第二百九回 昭和十二年一月(『集古』丁丑第二号 昭和12年3月刊)   〝浅田澱橋(出品者)歌川豊国筆 錦絵 牛若と皆鶴姫 一枚〈三代目豊国。役者絵、文久1年刊〉  ◯「集古会」第二百十一回 昭和十二年五月(『集古』丁丑第四号 昭和12年9月刊)   〝和田千吉(出品者)三代豊国画 錦絵 三條小鍛治をまねびの図 三枚続〟  ◯「集古会」第二百十二回 昭和十二年九月(『集古』丁丑第五号 昭和12年10月刊)   〝中沢澄男(出品者)香蝶楼国貞 錦絵 児童習字の図 一枚〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年(1923)九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)   ◇小林亮一所蔵 歌川豊国「向島図」〈初代か三代目か不明。小林文七嗣子〉  ◯「集古会」第二百十五回 昭和十三年三月(『集古』戊寅第三号 昭和13年5月刊)   〝和田千吉(出品者)歌川豊国(三代) 錦絵     十三里掛行燈ある焼芋屋 一枚 国貞改二代豊国画 山口屋板    〈初代国貞。「二代」は自称、改名は天保15年(弘化1年)〉  ◯「集古会」第二百十六回 昭和十三年五月(『集古』戊寅第四号 昭和13年9月刊)   〝中沢澄男(出品者)国貞画 小説由比ヶ浜 三冊 京山作 読切合巻 文政十四年〟  ◯「集古会」第二百二十八回 昭和十五年十一月(『集古』辛巳第一号 昭和16年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川国貞画 彦山霊験記 合巻 五冊合一冊 東里山人作 岩戸屋版 文政九年  △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「城東区」光明寺(亀戸町三ノ一四三)天台宗   〝歌川豊国(画家)二世、本名角田庄蔵、一雄斎と号す。初め国貞といひ五渡亭、香蝶楼の号あり。京伝、    三馬、種彦等の草双紙に画き、また俳優の似顔画を描きて名高し。元治元年十二月十五日歿。年八十。    豊国院貞匠画仙信士。      辞世 一向に弥陀に任せし気のやすさたゞ何事も南無阿弥陀仏〟    〈「豊国二世」とあるが、実は三世。『原色 浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は享年を七十九歳とする〉     ◯「集古会」(第二百三十一回) 昭和十六年五月(『集古』辛巳第四号 昭和16年9月刊)   〝森潤三郞(出品者)双六      香蝶楼国貞画 天地人世界双六   三亭春馬稿     歌川豊国画  江戸の水まさる双六 式亭小三馬作〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝豊国(一世)門人 国貞(三世豊国)〟    ◯「集古会」第二百三十四回 昭和十七年三月(『集古』昭和十七年第三号 昭和17年5月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川豊国画 読切合巻 五色染苧環草紙 第二編 二冊 式亭小三馬作〟    〈〔国書DB〕は『五色染苧環冊子』二年は嘉永2年刊〉  ◯「集古会」第二百三十七回 昭和十七年十一月 (『集古』昭和十八年第一号 昭和18年1月刊)   〝中沢澄男(出品者)歌川国貞画 読切合巻 肱笠雨小春空癖 袋二枚 笠亭仙果作〟〈天保4年刊〉  ◯「集古会」第二百三十八回 昭和十八年一月(『集古』昭和十八年第二号 昭和18年3月刊)   〝宮尾しげを(出品者)豊国画 錦絵 三題咄絵合鳴門渦丸 一枚〟  △『増訂浮世絵』(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   ◇大坂在住弟子 p209
   「五渡亭国貞-大坂弟子」     ◇三代豊国 p258   〝歌川国貞が、師名をついでからの名で、三代に当るのである。角田氏、俗称は庄蔵、後に省蔵と改む。    国貞は初代豊国の門人で、優れた伎倆をもつた人である。本所五つ目の渡船場の株をもつてゐたのに因    んで、五渡亭と号し、又香蝶楼ともいふた。    非常に製作力に富んだ人で、美人風俗を始め、種々の題材を扱つたが、特に役者絵の作にはおびたゞし    い種類がある。自ら二代豊国を名乗り、一陽斎と号し、年の字の草体を崩して、玉の形にいた中に、名    を署した落款を用ひた。この時代の作が、今日多数に見られることから推しても、製作に精励したこと    がわかる。なほ一雄斎、富望山人、富眺、月波楼、北梅戸、桃樹園などの号があり、晩年には琴雷舎、    喜翁などともいふた。    国貞が、豊国の襲名に関して、本郷豊国を悪しざまにいひ、歌川をうたがは名乗り得て、にせの豊国に    せの豊国といふ落首もあつたとかで、国貞が自ら二代豊国を称するけれども、二代豊国の部で述べたや    うに、文政十一年の碑文に一瑛斎豊国と二代を称するものがあれば、国貞が二代といふのは、当を得な    い。吾人はこれを三代と呼ばなければならない。    一陽斎豊国となつて、役者絵や草双紙などに盛んに筆を取つた頃には、彫摺の技術の方は益々発達して、    金銀色を用ひ、或は細緻な模様を現はすことも、さまで珍らしくないほどであつたが、絵画としての芸    術的価値は、著しく減じて、全体から観て、浮世絵版画の衰頽も、可なり甚しくなつてゐた時代であつ    た。    国貞時代の作品  国貞の作品は、非常に多いが、五渡亭国貞と名のつた時代のものによい絵が多い。    美人絵なども、芸術味の豊かなものには、多くは国貞と署してある。国貞は、僅かな種類ではあるが、    風景画をも作つてゐる。その中で、霧中之山水などは頗る出来のよい作である。薄墨に淡い藍と岱赭が、    あしらつてある位で、上品に見える。又紅毛画と標して、風景に人物を配して、西洋画めいた構図のも    の若干種を作つてゐる。    三代豊国の役者絵  当時の役者絵は、芝居興行と密接の関係があつて、主なる劇で、上演された狂言    中の、主なる人物を絵にして、それの開演中に、盛んに売り出すのであるから、役者似顔錦絵の出版は、    なか/\忙しい仕事であつた。狂言が定ると、在来のものならば、これまでの型によつて下図を作るの    であるが、それでも役者の好みで、着衣などに変つた色を用ふるう場合などは、舞台の上で実見する必    要があるし、新作物となつては、実見の上、着衣は勿論、主要な色までも書き留めて、下図にかゝるの    であるから、それを開演中に、一日も早く売り出さうとすることとて、一通りの苦心ではない。三代豊    国は多忙中に、それを巧になし遂げてゐたのである。    三代豊国の死  三代豊国は亀戸に住んでゐたので、俗に亀戸豊国といふ。製作からの収入も多大であ    り、元来豪気な気象であつたので、其の頃の浮世絵師としては、非常に奢侈尊大な暮し方であつた。    元治元年十二月十五日、享年七十九歳で没した。寺は三田の巧運寺で、法号と豊国院貞匠画僊居士とい    ふ〟     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川国貞・豊国三代画版本〕    作品数:561点(浮世絵も含む)(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:国貞・国貞一世・歌川国貞・歌川国貞一世・一雄斎・一雄斎国貞・香蝶楼・香蝶楼国貞・        五渡亭・五渡亭国貞・一陽斎・一陽斎三世・豊国・豊国三世・一陽斎豊国・一陽斎豊国三世・        香蝶楼豊国・歌川豊国・浮世又平・月喜代釜平・月夜楼・月夜楼釜平・又平・不器用又平・        婦喜用又平・亦平・不器用・不器用亦平    分 野:合巻361・艶本44・浮世絵23・絵画20・滑稽本17・歌舞伎14・演劇11・        狂歌10・読本9・人情本8・絵本7・咄本3・遊戯3・相撲3・和歌2・地誌2・        風俗2・絵入根本1・黄表紙1・歌謡1・教育1・書画1・浄瑠璃1・       成立年:文化4~15年(92点)        文政1~14年(142点)(文政年間合計146点)        天保1~16年(125点)(天保年間合計130点)        弘化1~5年 (58点)        嘉永1~8年 (77点) (嘉永年間合計78点)        安政1~6年 (34点)     〈山東京山作合巻『忠孝二面鏡』初編、天保十四年刊、歌川国貞画、二編、弘化元年刊、歌川豊国画とあり、豊国の画     号は弘化元年から。それにしても圧倒的な合巻の数である、それに比べると読本・人情本の数はきわめて少ない〉   (国貞名の作品)    作品数:373点    画号他:国貞・一雄斎国貞・香蝶楼国貞・五渡亭国貞・歌川国貞・歌川国貞一世    分 類:合巻295・滑稽本13・人情本8・演劇7・歌舞伎7・読本6・艶本6・狂歌6・        絵本4・絵画4・咄本3・相撲2・黄表紙1・歌謡1・絵入根本1・風俗1    成立年:文化4~15年(91点)        文政1~14年(132点)(文政年間合計135点)        天保1~15年(113点)(天保年間合計117点)        弘化1~3年 (4点)        安政4年   (1点)    〈文化四年(1807)は『不老門化粧若水』(黄表紙・曲亭馬琴作)のみ。国貞名は弘化三年(1846)まで使用か。ただ、     安政四年(1857)の『はうた一夕話』が、何か事情でもあったのか、梅暮里谷峨二世著・歌川国貞画とある〉   (一雄斎国貞名の作品)    作品数:6点    分 類:合巻4・狂歌1・相撲1    成立年:文化9・11年(3点)        文政2年(2点)    (五渡亭国貞名の作品)    作品数:30点    分 野:合巻19・歌舞伎5・滑稽本3・絵本2・演劇絵画1    成立年:文化8・15年  (2点)        文政1・3~13年(22点)        天保2~4年   (3点)    (香蝶楼国貞名の作品)    作品数:37点    分 類:合巻28・滑稽本1・咄本1・演劇1・絵画2・狂歌1・風俗1    成立年:文政1・14年(2点)        天保2~13年(31点)   (歌川国貞名の作品)    作品数:294点    分 類:合巻244・滑稽本9・人情本8・読本4・演劇4・艶本4・歌舞伎3・絵本2・咄本2        相撲2・狂歌2・黄表紙1・絵画1・絵入根本1・歌謡1      成立年:文化4~14年(85点)        文政2~14年(103点)(文政年間合計106点)        天保1~15年(77点) (天保年間合計80点)        弘化1~3年 (4点)    (歌川豊国名の作品)    作品数:130点    分 類:合巻53・浮世絵23・歌舞伎6・艶本6・滑稽本4・絵本4・狂歌3・演劇3・遊戯3・        地誌2・読本1・教育1・風俗1    成立年:文政年間    (1点)        天保年間合計  (3点)        弘化1~5年  (32点)        嘉永1~8年  (38点)        安政1~5・6年(8点)        文久3年    (1点)        〈文政・天保年間の豊国名は不審〉   (一陽斎豊国名の作品)    作品数:22点    分 類:合巻10・読本2・浮世絵2・和歌(百人一首)2・風俗1・艶本1・狂歌1・絵画1    成立年:弘化2~4年(8点)        嘉永2~7年(11点)        安政1~3・5(3点)   (香蝶楼豊国名の作品)    作品数:5点    分 類:合巻2・浮世絵1・絵画2    成立年:弘化5年 (1点)        嘉永3~4(1点)    〈浮世絵は「しのゝめ・たそかれ・次郎の君」三枚組。絵画は「双筆五十三次」(一立斎広重と合作)と「見立三十六     句撰」〉   (艶本作品)    作品数:44点    画号他:不器用又平11・婦喜用又平8・国貞6・豊国6・不器用亦平4・又平3・月喜代釜平2・        不器用1・浮世又平1・月夜楼釜平1・一陽斎豊国1    成立年:文政8・9・12年    (9点)(文政年間合計13点)        天保1・6・7・9・13年(6点)(天保年間合計8点)        嘉永1年         (1点)(嘉永年間合計2点)