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画人伝-明治- |
浮世絵備考(うきよえびこう)
底本:『浮世絵備考』梅本塵山著 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション所収)
※半角括弧の送り仮名(おくりかな)は本HPが施した
【慶長元~十九年 1596-1614】(16/103コマ)
◯ 岩佐又兵衛(16/103コマ)
名は勝以、荒木摂津守村重の末子なり、村重、織田信長に仕へて軍功あり、摂津の太守に補せられ、伊
丹城に居る、のち信長の命に逆ふをもて、信長父子之れを攻むこと数歳、天正七年に至り、村重敗れて、
尼が崎に奔り、遂に自殺す、此時又兵衛僅かに二歳、乳母これを懐きて、京都本願寺中に潜居し、姓を
岩佐と改む、蓋し外戚の姓に拠りしなり、長じて織田信雄に仕ふ、性頗る丹青を嗜み、余力あれば則ち
学むで筆を釈(お)かず、後終に妙手となり、前人のいまだ図せざる体を模写し、好むて世俗風俗の状を
画きて、別に一家を成せり、世に称して浮世又兵衛といふ、信雄亡びし後、漂泊して越前福井に住みけ
るが、その名弥(いよい)よ顕れ、徳川家光公の台聴に達し、召されて江戸城に到る、滴(たまた)ま千代
姫君の、尾州光友公に釐降するに際し、又兵衛をしてその装具を描かしむ、発するに臨みて、福井の忠
昌公(秀康二男、越前松平家の三世)深くこれを惜しみ。、家を挈(たずさ)へて去るを許さず、是に於
てひとり江戸城に淹留する年あり、又兵衛老て病に罹りけるか、自ら其癒ゆべからざるを知り、肖像を
図して、遠く之を故郷の妻子に寄す、慶安三年庚寅の夏六月廿三日、江戸に没す。
古来、又兵衛に関する諸説、紛々としていまだその確乎たるものを見ず、本伝は、画伯久保田米僊氏が、
嘗て北越漫遊中に、越前松平家の旧臣某の所蔵に係る岩佐又兵衛の伝、および自画の肖像といふを謄写
し置かれたるものなりとて『読売新聞月曜附録』に掲げられし説に拠る〟
◯ 土佐勝以(17/103コマ)
姓氏詳ならず、京都の人、土佐の画風を学びて、戯画に巧みなり、『職人尽歌合』の図を画けり〟
◯ 花田内匠(17/103コマ)
岩佐又兵衛と同時代の人、其名『嬉遊笑覧』に見えたり〟
【寛永元~二十年 1624-1643】(17/103コマ)
◯ 山本理兵衛(17/103コマ)
京都北野神社に、此の人の画きし扁額ありといふ〟
◯ 北村忠兵衛
京都清水堂に、此の人の画きし扁額ありといふ〟
【正保元~四年 1644-1647】(17/103コマ)
◯ 雛屋立圃(17/103コマ)
野々口氏、名は親重、通称市兵衛、また源助、一に紅屋庄右衛門、松翁、如流斎等の号あり、俳諧を貞
徳、また貞室に学び、浮世絵を善くして、中川喜雲が著作の草紙を多く画けりといふ、寛文九年九月晦
日没す、享年七十一(或は七十五)辞世の句に
月花の三句目を今知る世かな
本伝は『浮世絵類考』『俳家奇人伝』『続本朝画史』等に拠る〟
【承応元~三年 1652-1654】(18/103コマ)
◯ 辻村茂兵衛(18/103コマ)
京都清水堂に、この人の画きし扁額ありと云ふ〟
【寛文元~十二年 1661-1672】(18/103コマ)
◯ 岩佐源兵衛(18/103コマ)
名は勝重、又兵衛の男なり、父の業を継ぎて家声を堕さず、松平光通公(忠昌公嫡子、越前松平家四世)
より月俸を賜ふ、寛文中、鶴の間および杉戸を画きぬ、延宝元年癸丑二月廿日没す(本伝は『読売新聞
月曜附録』に拠る)〟
◯ 河合翰雪(18/103コマ)
京都祇園社の占出山の扁額を画きしといふ〟
【延宝元~八年 1673-1680】(19/103コマ)
◯ 井上勘兵衛(19/103コマ)
京都祇園社に、此の人の画きし扁額ありといふ〟
◯ 繁尚(19/103コマ)
姓氏詳ならず、京都祇園社并に同旅所に、此の人の画きし扁額ありと云ふ〟
【天和元~三年 1681-1683】(19/103コマ)
◯ 月直清親(19/103コマ)
京都祇園社に、此の人の画きし、村上坐の扁額ありといふ〟
◯ 杉村治信(19/103コマ)
其の伝詳ならず、『古今男』といふ絵本ありとぞ〟
◯ 菱川師宣(19/103コマ)
通称吉兵衛、剃髪して友竹と称せり、安房国平群郡保田町に産れ、若年の時、江戸に出でゝ縫箔をもて
家業とし、上絵といふものより絵を画きならひて、後遂に浮世絵の一家をなせり、大和絵師、また日本
絵師と称し、専ら板刻の版下を画けりと云ふ、江戸絵と呼びて他国の人のもて弄ぶことは、此の師宣の
絵より起れり、師宣しば/\居を転じ、はじめ村松町二丁目に住みしが、更に橘町に移り、次に堺町、
大天馬町二丁目等に転じたりといへり、正徳年中、江戸に於て没す、享年七十余歳。(本伝は『浮世絵
類考』『同追考』等に拠る)
師宣の画ける板本の主なるものは左の如し
『和国百女』 『大和の大寄』『月次遊び』『画本大和墨』『恋のみなかみ』
『絵本勇士力草』『倭名所絵尽』『香具大全』『訓蒙図彙』 『江戸雀』〟
【貞享元~四年 1684-1687】(20/103コマ)
◯ 長谷川長春(20/103コマ)
京都の浮世絵師なりといふ、其の伝詳ならず〟
◯ 吉田半兵衛(20/103コマ)
長春と同時代の人『好色訓蒙図彙』その外の絵本を画きしといふ〟
◯ 菱川師房(20/103コマ)
師宣の長男、通称吉左衛門、後に吉兵衛と改む、父と同居して画師なりしが、後ち更に染工となりぬ、
男子二人ありたれども絵を能くせざりきと云ふ〟
◯ 探幽斎正信(20/103コマ)
其の伝詳ならず、一説に、探幽斎守信に比して、仮に名づけたるものなるべしと云へり〟
◯ 鳥居清元(20/103コマ)
通称庄七、鳥居流の始祖清信の父にて、大阪の俳優なりしが、善く劇場の看板を画きしといふ〟
◯ 勘左衛門(20/103コマ)
その伝詳ならず〟
◯ 大津又平(20/103コマ)
姓氏詳ならず、大津の人にて、世に大津又平といふ、戯画を作り麁末の彩色を施して、これを大谷の池
辺に出でゝ、往来の人にひさぐ、人これを大津絵とも追分絵ともいふ、一説に又平は土佐光信の門弟な
りと云へり、昔より岩佐又兵衛と此の大津又平とを混同して、戯曲に作りしより、種々の妄説を世に伝
へしとぞ、俳人芭蕉翁が、元禄四年の春正月四日、粟津の無名庵にて、
大津絵の筆のはじめは何仏
斯く口すさみしを思へば、古は専ら仏像を画き、その傍らに他の戯画を作りしならむと云ふ。(本伝は
『本朝画工便覧』『浮世絵類考』『近代世事談』『近世奇跡考』等に拠る)〟
◯ 浮世義勝(21/103コマ)
其の伝詳ならず〟
【元禄元~十六年 1688-1703】(21/103コマ)
◯ 山本伝六(21/103コマ)
其の伝詳ならず、京都清水寺に、此の人の画きし遊女の扁額ありといふ〟
◯ 古山師重(21/103コマ)
通称太郎兵衛、師宣の門弟にて、長谷川町に住みしと云ふ〟
◯ 石川俊之(21/103コマ)
通称伊左衛門、師宣の門弟にて、浅草に住みしといふ〟
◯ 杉村正高(21/103コマ)
通称治兵衛、師宣の門弟にて、通油町に住みしと云ふ〟
◯ 菱川師永(21/103コマ)
師宣の二男、通称作之丞、一に沖之丞、また酒造之丞ともいふ、彩色に長せりとぞ〟
◯ 菱川政信(21/103コマ)
字は守節、師宣の門弟にて、善く師の画風に似たり〟
◯ 菱川友房(21/103コマ)
師宣の門弟、その伝詳ならず〟
◯ 菱川師平(21/103コマ)
自ら師宣の男と称すれど、蓋し門弟ならむと云ふ〟
◯ 菱川師盛(21/103コマ)
名は勝董、師宣の門弟なるべし〟
◯ 菱川新平(名称のみ)(21/103コマ)
菱川師継(名称のみ)
菱川師秀(名称のみ)
以上三人、師宣の門弟なるべし、其の伝詳ならず〟
◯ 石川流宣(21/103コマ)
師宣と同時代の人、或は石川俊之と同人なりとも云ふ、『大和耕作絵抄』『江戸図鑑綱目』等を画けり〟
◯ 吉川昌宣(21/103コマ)
其の伝詳ならず、師宣の画風に似たり〟
◯ 当世絵又兵衛(22/103コマ)
京都の人、其の伝詳ならず〟
◯ 蒔絵師源三郎(22/103コマ)
奈良の人、元禄三年の板『人倫訓蒙図彙』にこの名ありと云ふ、井原西鶴が著作の浮世草子の挿絵は、
名をあらはに署せずと雖も、多くは此の人の筆なりと云ふ〟
◯ 東坡軒(22/103コマ)
京都の人、其の伝詳ならず〟
◯ 鳥居清信(22/103コマ)
通称庄兵衛、清元の男なり、元禄のはじめ、京都より江戸に来り、難波町に住みて、歌川派のごとき似
顔絵を画き、殊に市川団十郎の面を似せしが、後終に一家を成す、これ実に鳥居流の始祖なり、江戸四
坐の歌舞伎の看板、番付類を画きて、名声大いに鳴りぬ、享保十四年没す、享年六十六〟
◯ 英一蝶(22/103コマ)
姓は藤原、多賀氏、名は信香、また安雄、字は君受、幼名を猪三郎と称し、長じて治衛門、また助之進
と称す、承応三年、播州に生れ、十五歳のとき江戸に出でゝ、呉服町一丁目新道に住めり、狩野安信を
師として絵画を学びしが、後その風を変じて一家を成す、翠簑翁、旧草堂、牛丸、一蜂閑人、一閑散人、
隣樵庵、隣濤庵、北窓翁等の数号あり、貞享の頃、薙髪して朝湖と号す、書は佐玄龍を師とし、俳諧は
芭蕉に学びて、暁雲、また和央と号せり、平素放蕩不撿なりし為め、元禄十一年十二月二日、罪を得て
豆州三宅島に謫せらる、一に八丈島ともいふ、謫居あること十二年、宝永六年九月、赦されて江戸に帰
り、深川海辺新田の宜雲寺に寓せしが、後に長堀に移りぬ、世に一蝶の罪を得たるは、百人女﨟の浅妻
船の図を画きしに由ると云へども、決して然らず、享保九年庚辰正月十三日、病みて没す、享年七十一、
遺骸は芝二本榎承教寺塔中顕乗院に葬る、法号英受院一蝶日意、辞世の歌に
まぎらかす浮世の業の色どりもありとや月の薄墨の空
『浮世絵類考』の例によりて茲に掲げぬ〟
【宝永元~七年 1704-1710】(23/103コマ)
◯ 宮崎友禅(23/103コマ)
一に友禅斎、京都の人、祇園の社頭に住みて、扇面または畳紙に画き、衣服の上絵をも画けり、それ彩
色を施し、水中に浸して洗ふとも、更に色の褪ることなし、世人これを友禅模様と呼びて、貴賤の男女
争ひ求めぬ、是に於いて友禅染の名あり、一説に友禅は染工にて、後ち加州金沢に移り住に、専ら職業
を研究して、遂に一家を興したりといふ(本伝は『浮世絵編年史』『扶桑画人伝』等に拠る)〟
◯ 正田全暇(23/103コマ)
赤猫斎と号す、京都の人、戯画の妙手なり、世に此の人をもて、鳥羽絵中興の祖とす〟
◯ 宮川長春(23/103コマ)
通称長左衛門、一に喜平次、尾州海西郡宮川村の人、はじめ土佐派の門弟となりて、其の画風を究め、
後終に一家を為す、正徳の頃、江戸に出でゝ両国広小路に住みしが、後ち芝新堀町に移りぬ、浮世絵を
多く画きて声価を博し、師宣以後の丹青家と称せらる、寛延二年のことゝか、幕府に於て、日光の祖廟
修繕のことあり、絵画一切は、当時八町堀同心町に住めりし、絵師狩野春加に命ぜらる、春加は更にこ
の下請、長春に為さしめたり、而して其の賃金は、修繕工事の終りし後、日光に於て払ふべき約束なれ
ば、長春の男某は弟子数人を伴ひて、彼の地に趣き、日限までに修繕を終り、さて賃金を請へども、春
加ことを左右に托して払はず、其年は空しく暮れて、翌寛延三年十二月廿九日に至り、長春みづから春
加の宅にゆき、賃金の払ひを迫りしより、一場の争論おこりて、長春は春加の弟子に殴打せられ、縛さ
れて裏の塵塚に捨られぬ、長春の男某はこれを知りて、先づ父を扶けて家に帰り、更に自ら意を決し、
一刀を提げて春加の宅に躍り入り、主の春加をはじめ弟子三人まで、惨殺して怨恨をはらし、直ちに奉
行所に自首せしかば、審問のうへ、長春の男は死刑に処せられ、長春は豆州新島に流謫せらる、また春
加の家は闕所となりぬ、一説に此の事件は、宝暦元年のことなりともいふ、宝暦二年壬申十一月十三日
没す、享年七十有一、また長春の美人絵に、六々庵宮川長春と落款せしものあり、【春旭堂といふ別号
あり】(本伝は『浮世絵類考』『名人忌辰録』等に拠る)〟
◯ 懐月堂(23/103コマ)
岡沢氏、一に岡崎氏、通称源七、安度、また安慶と号す、浅草諏訪町に住みて、善く浮世絵を画けり、
その美人絵には、日本戯画懐月堂末葉度繁図之、また懐月堂安度図之とも書けり、懐月堂と称せしもの
数人ありし歟、なほ考ふべし〟
◯ 長陽堂安知(24/103コマ)
懐月堂の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 懐月堂度辰(24/103コマ)
懐月堂度秀
以上二人、懐月堂の門弟なるべし、其の伝詳ならず〟
◯ 井村勝吉(24/103コマ)
京都の人、染工にして『絵本稽古帳』を画けりと云ふ〟
【正徳元~五年 1711-1715】(24/103コマ)
◯ 奥村政信(24/103コマ)
通称本屋源六、一に源八、文角、観妙、梅翁、芳月堂、丹鳥斎等の数号あり、通塩町の書誌の主人にて、
浮世絵を善くし、自ら日本絵師と称して、落款には瓢形の朱印を捺せり、多く漆絵を画き、尤も鍾馗の
図に妙を得て、その眼に金箔を置く、また浮絵とて、富士の牧狩、曽我十番切の遠景の図を印行しける
に、大に流行せしと云ふ、また浅草寺の境内に出たる、講釈師深井志導軒の容を写すに頗る真に迫まり
しとぞ、政信は実に、浮絵、紅絵の始祖なりき、明和五年戊子二月十一日没す、享年七十九(本伝は
『増補浮世絵類考』『名人忌辰録』等に拠る)〟
◯ 古山師政(24/103コマ)
通称新九郎、文志と号す、両国米沢町の江市長屋に住めり、師宣の門弟なれども、此の人に至りて、や
ゝ菱川の画風を失へりと云ふ〟
◯ 近藤清春(24/103コマ)
通称助五郎、江戸の人にて、多く赤本、金平本を画けり、また吉原細見記、芝居狂言本等を、自書画に
て開板したりと云ふ、自作の赤本もありしが、世に得難くなりぬとぞ、此の清春をもて、鳥居清信の門
弟なりしといふ説は、或は非なるべし〟
◯ 鳥居清倍(24/103コマ)
清信の男にて、鳥居家の二代目なり、難波町に住みて、宝暦十三年に没す〟
◯ 羽川珍重(24/103コマ)
姓は真中、名は沖信、通称太田弁五郎、三同と号す、武州埼玉川口村の人、弱冠のとき江戸に出でゝ、
鳥居清信に画を学ぶ、常に下総国葛飾郡川津間の郷士藤沼氏の家に往来し、生涯娶らず、また仕へず、
たゝ画を以て旦暮に給す、心ざま老実にして言行を慎み、遊山翫水にも肩衣を脱ぐこと無かりき、晩年
に及びて自画の絵馬を、故郷川口村の稲荷五社に奉納す、宝暦四年甲戌七月二十二日、病みて川津間の
郷藤沼氏の家に没す、没するの前自ら三同宜観居士と法号を附す、享年七十余歳、遺骸は江戸下谷池の
端東円寺に葬る、辞世の句
たましひの散り際も今一葉かな
(本伝は『燕石雑誌』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 鳥居清重(25/103コマ)
清信の門弟、一に清倍の門弟ともいふ、小網町に住みて、二代目海老蔵の似顔絵を善くせり〟
◯ 鳥居清忠(25/103コマ)
清信の門弟、一に清倍の門弟おもいふ、米沢町角に住みて、彩色の上手なりき〟
◯ 鳥居清朗(25/103コマ)
清信の門弟にて、俳優の似顔絵を善く画けり〟
◯ 川島叙清(25/103コマ)
大森善清
以上の二人、ともに京都の絵師、其の伝詳ならず〟
◯ 西川祐信(25/103コマ)
姓は藤原、西川氏、通称祐助、また孫右衛門、後に右京と改む、自得斎、自得叟、文華堂等の数号あり、
父を西川団右衛門といへり、京都柳馬場綾の小路下る町に住みたりき、はじめ狩野永納に就きて画を学
びしが、後に一機軸を出して浮世絵を画き、自ら大和絵師と称して、絵本数百部を梓に上しぬ、その中
にも『絵本百人一首美女』は尤も世の喝采を博せしより、更にこれを『百人女﨟品定』と題して、春画
に描き改め、又『好色双の岡』といふを板刻し、玉簾の中の秘戯をかきしこと、公聴に漏れて厳しき咎
を蒙り、絵本は販売を禁じ、遂に絶版せられたりと云ふ、正徳より延享までの年間を、盛り送りし妙手
なりき、宝暦元年に没す、享年八十一
祐信が画ける板本の主なるものは左の如し
(書名省略)
(本伝は『浮世絵類考』外二三の書に拠る)〟
【享保元~二十年 1716-1735】(26/103コマ)
◯ 古山師胤(26/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 山崎龍女(26/103コマ)
下谷長者町に住みし、御旗同心山崎文右衛門の女にて、六七歳の頃より浮世絵を好み、学ばずして善く
画き、また能筆なりき、後に芝神明宮の辺に移りて、専ら絵を画きたりといふ、当時名手と呼ばれし女
画工なりき、一説に師宣の門弟なりともいへり
(本伝は『近代世事談』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 近藤清信(26/103コマ)
清春の男か、なほ考ふべし、一枚絵を画けり〟
◯ 奥村利信(26/103コマ)
鶴月堂、文全等の号あり、政信の門弟にて、一枚絵を画けり〟
◯ 奥村政房
文志と号す、政信の門弟にて、草双紙また一枚絵を画けり〟
◯ 藤田秀素(26/103コマ)
其の伝詳ならず、赤本を画けり〟
◯ 泰川重利(27/103コマ)
其の伝詳ならず、自ら大和絵師と称して、漆絵を画けり〟
◯ 勝間龍水(27/103コマ)
彩色摺の祖なりと云ひ伝ふ、其の伝詳ならず〟
◯ 宮川春水(27/103コマ)
長春の門弟にて、はじめ勝宮川といへり、大和絵師と称し、芳町に住めりとぞ〟
◯ 西川祐尹(27/103コマ)
祐信の男、得祐斎と号す、父の画風を学びて之を善くせり、板刻の絵本を多く画きしといふ、その肉筆
の絵いは、文華堂祐信嫡男西川祐尹と、落款せしものあり、宝暦十二年八月廿五日没す、享年五十七〟
◯ 西川照信(27/103コマ)
祐信の門弟ならむ歟、なほ考ふべし〟
◯ 野々村治兵衛(27/103コマ)
其の伝詳ならず、板刻の絵本を多く画けり
治兵衛の画ける板本の主なるものは左の如し
『雛形染色山』『同音羽瀧』『同立田川』『光琳道しるべ』〟
〈国文学研究資料館の「古典藉総合データベース」に『雛形染色山』『同音羽瀧』『同立田川』は見当たらない。『光
琳絵本道しるべ』は上中下三巻、野々村忠兵衛画 菊屋喜兵衛版 享保20年刊とある。但し治兵衛ではなく忠兵衛で
ある〉
◯ 中路定年(27/103コマ)
其の伝詳ならず、絵本を画けり
定年の画ける板本の主なるものは左の如し
『絵本三幅対』『画本図貸』『画本必用』
〈『絵本三幅対』は未確認〉
◯ 鳥居忠春(27/103コマ)
清忠の門弟ならむ歟、なほ考ふべし〟
◯ 常川重信(27/103コマ)
其の伝詳ならず、漆絵をおほく画けり〟
◯ 絵菱忠七(27/103コマ)
京都の人にして、多く絵本を画けり
忠七の画ける板本の主なるものは左の如し
『雛形瀧の絲』『同母子草』『同瀧の流』『伊達紋花詰』〟
◯ 橘守国(28/103コマ)
猶村氏、名は有税、一に有里、通称宗兵衛、後素軒と号す、浪花の人、鶴沢探山の門に入りて画を学び
しが、後終に一家を為せり、板刻の画を善くし、また画名も高かりき、画法に関する著書には『画典通
考』の外数部あり、『唐土訓蒙図彙』は板刻密画の始めなりといふ、寛延元年没す、享年七十歳。
守国の画ける板本の主なるものは左の如し
『絵本通宝志』『同玉の壺』『同画志』 『同運筆麁画』『同直指宝』 『同詠物選』
『同本朝画苑』『同写宝袋』『絵本鶯宿』 『同扶桑画譜』『同謡曲画志』 『同野山景』
『同画典通考』『同故事談』『南都名所図』『有馬勝景図』『唐土訓蒙図彙』『同万歳武勇絵鑑』
(本伝は『本朝画工便覧』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 西村重長(28/103コマ)
通称孫三郞、仙花堂と号す、通油町の地主なりしが、後ち神田に移りて書肆を出せり、門弟となるもの
多し〟
◯ 川枝豊信(28/103コマ)
京都の人、其の伝詳ならず、『朗詠狂舞台』を画けり、また美人絵もありと云ふ〟
◯ 羽川藤水(28/103コマ)
珍重の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 吉川盛信(28/103コマ)
通称半次、京都の人なりと云ふ〟
【元文元~五年 1736-1740】(28/103コマ)
◯ 羽川元信(28/103コマ)
珍重の門弟ならむ歟、なほ考ふべし〟
◯ 羽川和元(28/103コマ)
珍重の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 吉田魚川(28/103コマ)
其の伝詳ならず、青赤黄の三遍摺を工夫し、また打出し絵を工夫したりと云ふ〟
◯ 勝川春水(28/103コマ)
通称藤四郎、宮川春水の門弟〟
◯ 西村重信(29/103コマ)
重長の男ならむ歟、なほ考ふべし、一枚絵を画けり〟
◯ 鳥居清満(29/103コマ)
清信の次男、一に清倍の男とも云ふ、鳥居流の三代目なり、通称半三、芳町に住みて、三味線を製作す
るを業とし、傍ら一枚絵を画きしと云へり、天明五年に没す〟
◯ 田村貞信(29/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 勝川輝重(29/103コマ)
其の伝詳ならず、一枚絵を画けり〟
◯ 東愚斎
上柿芳龍
以上二人、其の伝詳ならず、美人絵を善くせり〟
【寛保元~三年 1741-1743】(29/103コマ)
◯ 柳花堂重信(29/103コマ)
一に一々堂と号す、京都の人、其の伝詳ならず〟
◯ 富川房信(29/103コマ)
山本氏、吟雪、百亀等の号あり、通称丸屋九左衛門、大伝馬町二丁目に住みて、絵草紙問屋をなせしが、
家道衰微の後、浮世絵を画きまた戯作をなせりと云ふ〟
◯ 橘保国(29/103コマ)
守国の男、幼名大助、後ち法眼に叙せらる、寛政四年に没す、享年七十六〟
◯ 酢屋国雄(29/103コマ)
通称平十郎、皎天斎と号す、橘守国の門弟にして、画く所の刻本には『毛詩図譜』あり、此の人名を好
まざるに因りて世に知られず、生涯を困窮の中に送れりと云ふ〟
◯ 勝薪水(29/103コマ)
勝川春水の門弟にて、本銀町四丁目に住めり〟
【延享元~四年 1744-1747】(29/103コマ)
◯ 春川秀蝶(29/103コマ)
其の伝詳ならず、むかし芝愛宕山に、祇園会の扁額ありしが、嘉永三年の火災に失せたりとぞ〟
◯ 服部梅信(30/103コマ)
其の伝詳ならず、京都祇園社に、朝比奈草摺曳の扁額ありといふ〟
【寛延元~三年 1748-1750】(29/103コマ)
◯ 下河辺拾水(30/103コマ)
其の伝詳ならず、京都双の岡に住みて、板刻の絵本を多く画けり、守国、師宣の筆意に似たりと云ふ
拾水の画ける板本の主なるものは左の如し
『伊呂波歌絵抄』『教庭訓』『姫文台都織』『京の水』『絵本福緒縮』『絵本高名鑑』
『絵引節用集』 『増補頭書訓蒙図彙大成』『絵本やしない草』〟
◯ 山本義信(30/103コマ)
通称平七郎、絵本、草双紙の類を画けり〟
【宝暦元~十三年 1751-1763】(30/103コマ)
◯ 石川豊信(30/103コマ)
初名西村重保、通称糠屋七兵衛、明篠堂、また秀葩とも号す、狂歌師六樹園飯盛の父なり、小伝馬町に
住みて、旅籠屋を業とせり、西村重長に画を学びしが、此の人一生花街酒楼に遊ばざれども、善く男女
の風俗を摸写したりと云ふ、紅摺、一枚絵、また絵本をも画けり、天明五年五月廿五日没す、浅草榧寺
に葬る〟
◯ 石川豊雅(30/103コマ)
其の伝詳ならず、春信の画風に似たり〟
◯ 春川師宣(30/103コマ)
大坂の人、其の伝詳ならず〟
◯ 長谷川光信(30/103コマ)
梅翁軒と号す、一に梅峰軒、また松翠軒の号あり、大阪の人、板刻の絵本『英勇画譜』を画けり〟
◯ 寺井重房(30/103コマ)
大阪の人、絵本を画けり〟
◯ 鳥居清英(30/103コマ)
清満の門弟にて、草双紙を画けり〟
◯ 鳥居清経(31/103コマ)
清満の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 鳥山石燕(31/103コマ)
名は豊房、狩野周信の門弟にて、後ち一家をなせり、宝永の初年、俳優中村喜代三郞が狂言の似顔を、
白木の長さ二尺四五寸、幅八九寸の額面に画きて、これを浅草観音堂の常香炉の脇なる、柱に懸けたる
を諸人見て、いと珍らしき事なりと沙汰しけり、是れ似顔絵の濫觴なるべしと云ふ、天明六年没す、享
年七十六。
石燕が画ける板本の主なるもの左の如し
『絵本百鬼夜行』『絵本比絹』『水滸画潜覧』『鳥山彦』
(本伝は『浮世絵類考』か『塵塚談』等に拠る)〟
◯ 橘岷江(31/103コマ)
名は正敬、五樹軒と号す、大阪の人、はじめ縫箔師なりしが、後に浮世絵師となれり、雑俳五文字の点
式は、多く此の人の画く所なりといふ、板本『画本職人部類』に摺込彩色を工夫して、大に世に行はれ
しとぞ〟
◯ 月岡雪鼎(31/103コマ)
名は昌信、通称丹下、信天翁と号す、近江の人にて大阪に住めり、本姓は水田氏なり、高田敬甫の門弟
にて、板刻の絵本夥多あり、殊に春画を善くして、世に妙手と称せらる、天明六年十二月没す、享年七
十六。
雪鼎の画ける板本の主なるもの左の如し
『絵本源氏物語』 『同蘭奢待』 『同姫文庫』『同諸礼訓』『同深見草』
『同諸礼教訓文庫』『同和歌園』 『同太平楽』『同名取川』『同武者鏡』
『同和歌園詞の花』『同武者団』 『同勇見山』『同源氏山』『同百将全伝』
『同女武者勇粧競』『同宇治渡』 『同操草』 『同寿艸』 『同東国名勝志』
『同高名二葉草』 『同富士牧狩』『歌仙掛』 『浪花往古図』
『汝月百人一首』 『古今百人一首』〟
◯ 勝川春章(31/103コマ)
通称祐助、旭朗井、また西爾と号し別に李林、春亭とも号す、宮川春水の門弟にて、はじめ勝宮川とい
へり、明和の頃、人形町林屋七右衛門といふ人の家に寓居し、五人男の似顔絵を画きしが、いまだ画名
も無かりしかば、林屋の請取判に、壺の中に林の字ありしを押して、たゞ壺、また壺春章といひ、門弟
の春好を小壺と云へり、寛政四年十二月八日没す、享年六十七、遺骸は浅草西福寺に葬る
春章の画ける板本の主なるもの左の如し
『絵本百人一首』『同威武貴山』『同舞台扇』『同夏の富士』〟
◯ 常行(32/103コマ)
常政
以上二人、其の伝詳ならず、風俗画、美人絵を描けり〟
【宝暦元~十三年 1751-1763】(30/103コマ)
◯ 阪本兌候(32/103コマ)
江戸の人、板本に『蓬莱ちご遊』ありといふ〟
◯ 石川幸元(32/103コマ)
一筆斎文調の師なりと云ふ、其の伝詳ならず〟
◯ 梅林堂(32/103コマ)
其の伝詳ならず、風俗画を描けり〟
【明和元~八年 1764-1771】(32/103コマ)
◯ 鈴木春信(32/103コマ)
西村重長の門弟にて、両国米沢町の角に住めり、明和の初年、東錦絵を画きはじめしより、江戸の名産
となりて、諸国の人の弄ぶ所となれり、これは其の頃初春の大小の摺物大に流行し、始めて五六遍摺を
工夫せしより、遂に此の東錦絵となれるなりと云ふ、春信は一生歌舞伎役者の姿を画かず、多く美人絵
を画けり、されば明和六年とかや、湯島天神に於いて、泉州石津笑姿の開扉ありしとき、殊に美はしき
を撰みて舞はせしお浪、お美津といふ二人の巫女、また当時満都の人士を悩殺せしめたる、谷中笠森稲
荷の茶店鍵屋の娘お仙、浅草観音堂の辺なる楊枝店柳屋仁平次の娘お藤、此の四美人の姿を、錦絵に画
きて売出せしに、次に世人の唱采を博せしとぞ、明和七年六月十五日没す、享年六十七。
(板本リスト十五作 書名省略)
(本伝は『浮世絵類考』『土平伝』等に拠る)〟
◯ 小松屋百亀(33/103コマ)
通称三右衛門、薙髪して百亀と呼ぶ、元飯田町中阪に住みて薬店を開き、文武丸といふ製薬を売れり、
弱年の時より春画を好みて、祐信の画ける絵本、春画を多く蔵し、自ら画ける春画に『ぬくめ夜具』
『肉蒲団』等あり、明和の頃、世に行はれし大小の摺物の絵は、多く百亀の画けるものなりと云ふ。
(本伝は『奴師労之』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 磯田湖龍斎(33/103コマ)
通称庄兵衛、名は正勝、また春広、小川町土屋家の浪人にて、後ち法橋に叙せらる、薬研堀に住みて、
西村重長の門弟となり、多く美人画を画き、東都薬研堀隠士と落款せり、此の頃の錦絵は細長くして、
吉原遊女の絵などを表具し、俗にいふ柱隠しの如くしたるもの多しとぞ、板刻の絵本には『混雑倭草画』
ありと云ふ〟
◯ 柳文朝(33/103コマ)
南龍斎と号す、通油町南新道に住めり、俳優の似顔絵を善くし、殊に二代目大谷十町の似顔に妙なりき、
また義太夫節の浄瑠璃を好みて、朝太夫の門弟となれりと云ふ〟
◯ 吉川定好(33/103コマ)
其の伝詳ならず、一枚絵、またふき絵といふを画けり〟
◯ 枝川工 菊川秀信 雲鏡斎(33/103コマ)
以上三人、其の伝詳ならず〟
◯ 古川鬼玉(33/103コマ)
其の伝詳ならず、多く絵本を画けり〟
◯ 有楽斎長秀(33/103コマ)
其の伝詳ならず、俳優の似顔絵、草双紙を画けり〟
◯ 守文調(34/103コマ)
岸氏、名は誠之、通称卯右衛門、一筆斎と号す、壮年のときより、頭の兀げて赤く光れるをもて、つふ
りの光と戯名し、桑楊庵と号して狂歌を詠みしが、後に蜀山人より巴人亭の号を贈られ、狂歌四天王の
一人と称せらる、画を石川幸元に学びて、多く俳優の似顔絵を画けり、寛政八年四月十二日没す、遺骸
は駒込瑞泰寺に葬る、法号恕真斎徳誉素光居士
(本伝は『狂歌作者部類』『狂歌年代記』『奴師労之』『増補浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 岸文笑(34/103コマ)
文調の門弟にて、絵草紙を画けり〟
◯ 望月勘助(34/103コマ)
大阪の人、京都祇園社に、都良香の扁額あり〟
◯ 三春(34/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 北尾辰宣(34/103コマ)
雪坑と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 駒井義信(34/103コマ)
一に美信に作る、鈴木春信の門弟なり〟
【安永元年~九年 1772-1780】(34/103コマ)
◯ 山本重春(34/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 山本重信 山本重房(34/103コマ)
以上二人、其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 鳥居清長(34/103コマ)
関氏、通称市兵衛、一に新助、鳥居流三代目清満の門弟にて、当時の名人と称せられ、遂に鳥居流四代
目となりぬ、本材木町一丁目に住みて、彩色摺の絵本、また錦絵を画き、世に行はれしもの多し、殊に
武者絵の妙手なりしと云ふ、文化年間に没す(版本二、書名省略)〟
◯ 英慶子(35/103コマ)
歌舞伎役者の女形にて中村富十郎といふ、絵画を善くし、板刻の『慶子画譜』あり〟
◯ 北川豊章(35/103コマ)
喜多川歌麿の初名なり〟
◯ 門牛斎秋童(35/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 谷文和(35/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 芳川友幸(35/103コマ)
自画作の草双紙を描けり、其の伝詳ならず〟
◯ 雪仙(35/103コマ)
川柳点の『末摘花』の挿絵をかけり、其の伝詳ならず〟
◯ 松野親信(35/103コマ)
白照軒と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 耳鳥斎(35/103コマ)
大阪の人にて狂画を善くせり〟
◯ 巨川(35/103コマ)
其ので詳ならず〟
【天明元年~八年 1781-1788】(35/103コマ)
◯ 歌川豊春(35/103コマ)
通称庄三郞、一龍斎と号し、家号を但馬屋といへり、但馬の産といひ、また江戸の人なりとも云ふ、は
じめ芝三島町に住みしが、後ち日本橋辺に移り、晩年薙髪して、赤阪田町に転ぜり、石川豊信の門に入
りて画を学び、当時の風俗を画きて、終に一家を為しぬ、これ実に歌川流の始祖なり、殊に彩色に通じ
て、屡ば繰芝居の看版絵を画かり、また寛政の頃、日光廟修繕のをり、職人頭を勤めしと云ふ、文化十
一年正月十二日没す、享年七十有八、茲に本所押上の春慶寺なる普賢堂の前にある、豊春が辞世の歌碑
を掲げて、以てその伝を補ふ【墓は浅草菊屋橋本立寺にあり】
文化十一戌春 行年八十歳 元祖 歌川昌樹
二代目 歌川豊春
花は根に 歌川妙哥
名は桜木に 歌川貢
普賢象 大野規行
のりのうてなも 歌川豊秀
妙法の声 歌川豊国
歌川豊広〟
◯ 蔀関月(36/103コマ)
名は徳基、字は子温、通称原二、月岡雪鼎の門弟にて、大阪の人なり、後ち法橋に叙せらる、玉山が筆
意を学びて、名所図会の類を画けり、寛政九年没す、享年五十一(版本二、書名省略)〟
◯ 竹原春朝斎 (36/103コマ)
本姓は松本、名は信繁、大阪の人にて、一派の妙手と称せらる、数部の名所図会を画けり、
(版本四、書名省略)〟
◯ 竹原春泉斎(36/103コマ)
春朝斎の男、父に継ぎて数部の名所図会を画けり(版本三、書名省略)〟
◯ 勝川春潮(36/103コマ)
通称吉左衛門、中林舎、また東紫園と号す、春章の門弟なりしが、文化の頃、浮世絵を廃し、名を俊朝
と改め、号を吉左堂といふ、鳥居清長の筆意をよく贋せたりとぞ〟
◯ 北尾重政(36/103コマ)
本姓北畠、通称左助、紅翠斎と号し、また花藍と号す、江戸の産にて、はじめ書肆須原屋茂兵衛の家に
勤めしが、後に大伝馬町二丁目に住み、再び根岸大塚村に移りぬ、書画ともに善くして、殊に花鳥武者
絵に巧みなりき、当時出版の読本草紙の類は、多く此の人の筆なりと云ふ、文政二年二月没す、享年八
十一(版本十一、書名省略)〟
◯ 赤松亭秀成(37/103コマ)
其の伝詳ならず、錦絵を画けり〟
◯ 旭光 龍向斎(37/103コマ)
以上二人、其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 千代女(37/103コマ)
喜多川歌麿の女か、なほ考ふべし〟
◯ 笑丸 興秀(37/103コマ)
以上二人、其の伝詳ならず、小本の挿絵を画けり〟
◯ 細田栄之(37/103コマ)
本姓藤原、名は時富、治部卿と称し、号を鳥文斎といふ、はじめ浜町に住み、後に本所割下水に移りぬ、
狩野栄川の門弟なりしが、後ち専ら浮世絵を画けり、山水草木を善く写せしと雖も、美人絵は拙なかり
きと云ふ〟
◯ 栄理 栄笑 栄亀(37/103コマ)
以上三人、栄之の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 栄昌(37/103コマ)
栄之の門弟にて、鳥高斎と号す〟
◯ 栄水(37/103コマ)
栄之の門弟にて、一楽斎と号す〟
◯ 恋川春町(37/103コマ)
姓は源、名は格、通称倉橋寿平、寿山人と号す、狂歌を好みて、戯名を酒上不埒といふ、駿州小島侯
(松平安房守)に家臣にて、小石川春日町に住めりしより、恋川春町と号す、画を鳥山石燕に学びて、
善く男女の風俗を写し、また戯作をよくせり、自作の青本は尤も多く、『金々先生栄花夢』をはじめと
して、凡そ三十一部あり、其安永四年に出版せし『金々先生』は鼻祖にて、翌五年に出版したる『高慢
斎行脚日記』は、当時世評甚だ高く、これより春町の名は四方に鳴りぬ、天明九年に出版したる『鸚鵡
返文武二道』は大に流行しけるが、此の草双紙のことにつきて、白川侯(松平定信)より召喚されしに、
春町は病の床にありし為め辞して往かず、寛政元年七月七日没す、享年四十六、法名寝(ママ)静院廊誉湛
水、遺骸は四谷新宿裏通り浄覚寺に葬る、辞世の詞に
生涯苦楽四十六年 即今脱却浩然帰天
(版本七、書名省略)
(本伝は『物之本作者部類』『戯作者小伝』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 喜多川歌麿(38/103コマ)
姓は源、通称勇助、紫屋と号す、江戸の産なり、はじめ絵草紙店蔦屋重三郎の家に寓居せしが、後ち神
田久右衛門町に住み、また馬喰町三丁目に移れり、天資剛愎の人にて、鳥山石燕の門に入り、また狩野
の画風を学びしが、終に一旗幟を樹てぬ、世に美人絵の妙手と呼ばれ、其の名海内に鳴るのみならず、
清国人にまでも其の絵を喜ばるゝに至れり、歌麿は春信と見識を同うして、生涯歌舞伎役者の姿絵を画
かず、嘗て市川八百蔵が一世一代の狂言に、おはん長右衛門を勤めしとき、他の画工の描ける似顔絵を
求る人の多かりしを見て、歌麿は更に尋常の美人絵にて、おはん長右衛門が道行の姿を画きて出せしに、
却て似顔絵に勝る高評を得たりと云ふ、板刻の絵本多き中にも『吉原年中行事』は、時好に投じて尤も
流行しけるが、一日十返舎一九来りて閑談のすゑ、此の『年中行事』のことに及び、一九は文章の面白
きによりて、斯く売行の多きを見るに至りしなり、と鼻蠢せば、歌麿は否とよ挿絵の師匠拙なくば、文
章いかに巧みなりとも世に行はれじ、と互いに争論して歩を譲らず、此の時より遂に絶交したりとぞ、
歌麿嘗て難波の画工法橋玉山の画ける『絵本太閤記』に出たる、武者に美人を画き添へて、三枚続きの
錦絵を出だせり、即ち太閤の御前に稚児髷の石田が、目見えの手をとり給ふ所に、長柄を把れる侍女の
袖を掩ふ図、加藤清正の甲冑姿にて酒宴の傍に、朝鮮の妓婦が三絃を弾く図等なり、是が為めに絵草紙
店、并に歌麿も共に御咎を受けて、遂に絶板を命ぜらる、其の後再び絵の事にて、囹圄の中に繋がれし
が、間も無く放たれて家に帰りしを、絵草紙問屋等は、歌麿が死期に近よれるを察し、互いに錦絵の版
下を依頼せしかば、一時は身体を紙に埋めらるゝ程なりしとぞ、文化三年五月三日没す、享年五十三
(版本五、書名省略)
(本伝は『異本浮世絵類考』『文々集要』『浮世絵年表』等に拠る)〟
◯ 井上勝町(39/103コマ)
恋川春町の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 田中益信(39/103コマ)
善居斎と号す、自画作の草双紙あり、また市川白猿の似顔絵を画けりと云ふ〟
◯ 勝川春常(39/103コマ)
春章の門弟にて、小本の挿絵、また似顔絵を画けり〟
◯ 石調 石鳥 月沙(39/103コマ)
以上三人、鳥山石燕の門弟なり〟
◯ 鶴岡蘆水(39/103コマ)
其の伝詳ならず、『隅田川両岸一覧』の挿絵を画けり〟
◯ 勝花(39/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 文龍斎(39/103コマ)
細田栄之の師なりといふ〟
◯ 秀幸(39/103コマ)
其の伝詳ならず、一枚絵を画かり〟
【寛政元年~十二年 1789-1800】(39/103コマ)
◯ 北尾政演(40/103コマ)
姓は岩瀬、本姓は拝田、名は醒、自伯慶、また酉星、山東庵と号し、京伝と称す、醒斎、醒世老人等の
別号あり、通称京屋伝蔵、幼名甚太郎、宝暦十一年辛巳八月十五日、深川木場町の質店伊勢屋に生る、
長じて後、京橋銀坐二丁目に住みて、煙管煙草入を鬻ぎ、又製薬を売りて生業とす、初め画を北尾重政
に学びて、葎斎政演と称し、狂歌を詠みて、戯名を身軽の折助と呼ぶ、年十九にして稗史を作り初めし
より、上梓するもの百五十余編に及び、京伝の名は海内に鳴りぬ、晩年に至りて絵を廃し、専ら書述を
なせり、世に京伝をもて、戯作者中興の翹楚と呼ぶ、文化十三年丙子九月七日病て没す、享年五十六、
遺骸は両国回向院に葬る、法号弁誉智海京伝
(本伝は『戯作者小伝』『新編稗史通』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 石田玉山(40/103コマ)
名は尚友、字は子徳、大阪の人、月岡雪鼎の門弟、一説に蔀関月の門弟ともいふ、板刻密画を善くして、
著述の絵本いと多き中に、殊に行はれたるは『絵本太閤記』なり、後に法橋に叙せられ、文化九年没す、
享年七十六
(版本リスト九作、書名省略)〟
〈『絵本太閤記』の玉山は岡田玉山〉
◯ 亀毛(40/103コマ)
北尾政演の門弟、一説に政演の変名なりとも云ふ〟
◯ 山東鶏告(40/103コマ)
北尾政演の門弟、一説に政演の変名なりとも云ふ、蒟蒻本の挿絵を画けり〟〈蒟蒻本とは洒落本をいう〉
◯ 桜井文橋(40/103コマ)
一に桜川氏、草双紙を画けり〟
◯ 東洲写楽(40/103コマ)
一に東洲斎、通称斎藤十郎兵衛、一に八郎兵衛、阿州侯の能役者なりしが、俳優の似顔絵を画き、其の
真を写さむとして、却つてあらぬ様を画きなせしかば、世評よろしからず、一両年にて廃せり、雲母絵
を多く画けりと云ふ〟
◯ 勝川春好(40/103コマ)
春章の門弟にて、初名を春翁といふ、壺形の印を用ゐしより、師の春章に対して春好を小壺と渾名しけ
り、はじめ長谷川町に住みしが、四十五六歳の頃、中風を病みて業を廃し、麻布善福寺に遁世しけりと
ぞ、似顔絵の妙手にて、晩年には左筆にて画けり〟
◯ 勝川春英(41/103コマ)
磯田氏、通称久次郞、九徳斎と号す、明和五年、新和泉町新道に生る、天資絵画を好みて、春章の門弟
となり、錦絵、似顔絵をおほく画き、また狂画を善くして、自ら一家を為せり、世にこれを九徳風と云
ふ、傍ら義太夫節の浄瑠璃を語りて、三絃をよく弾きけり、文政二年己卯七月廿六日没す、享年五十八、
浅草本願寺中善照寺に葬る、春英の伝は石川雅望の撰べる牛島長命寺の碑に委し〟
◯ 勝川春朗(41/103コマ)
葛飾為一の初名なり、また同名の浮世絵師あり、末に出す〟
◯ 歌舞伎堂艶鏡(41/103コマ)
俳優の似顔絵を画きしが、その技拙かりし為めに、世に行はれずして、半年ばかり経て廃せりと云ふ〟
◯ 紀吉信(41/103コマ)
藤井氏、草双紙を画けり〟
◯ 北尾政美(41/103コマ)
姓は鍬形、通称三次郞、杉皐、また蕙斎と号す、重政の門弟にて、狩野家の筆意を学び、あた光琳、芳
中が画法をも慕ひて、画く所の略画大に世に行はる、板刻の絵本数部あり、後に松平越前侯の藩中に入
りしが、薙髪して紹真と号し、浮世絵を廃して、板行の絵をも画かずになりぬ、文政七年三月廿一日没
す(版本リスト十二作、書名省略)〟
◯ 窪俊満(41/103コマ)
通称易兵衛、尚左堂と号す、神田富松町に住み、また小伝馬町三丁目河岸に住めり、はじめ楫取魚彦に
四君子の画を学び、後に北尾重政に浮世絵を学べり、嘗て魚彦より、春満といふ画名を与へしが、勝川
春章の門弟と人のいふを厭ひて、春の字を俊の字に改めしと云ふ、俊満は狂歌を善くして、人口に膾炙
する秀詠多く、また南陀伽紫蘭と戯名して、草双紙を著作しけり、よく左筆にて画き、魚彦より伝来の
印章を用ゐたり(版本リスト二作、書名省略)〟
◯ 栄松斎長喜(42/103コマ)
初名子興、鳥山石燕の門弟〟
◯ 勝川春童(42/103コマ)
名は春道、蘭徳斎と号す、春章の門弟にて、一枚絵を画けり〟
◯ 勝川春鶴 勝川春龍 勝川春常 勝川春里(42/103コマ)
勝川春喬 勝川春泉 勝川春江 勝川春朝
勝川春林 勝川春旭 勝川春艶
以上十一人、勝川春章の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 鳥居師忠 鳥居清俊 鳥居清勝 鳥居清次(42/103コマ)
鳥居清久 鳥居清定 鳥居清広 鳥居清時
鳥居清政 鳥居清里 鳥居清之 鳥居清時(ママ)
以上十二人、鳥居清長の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 古川三蝶(42/103コマ)
其の伝詳ならず、自画作の草双紙あり〟
◯ 金長(42/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 堤等琳(42/103コマ)
本姓は月岡、通称吟二、初号を秋月といひ、後に雪山と改め、また深川斎と号す、堤流の三世にして、
二世等琳の門弟なり、初め深川に住み、後ち常盤町に移れり、一派の異風を樹てゝ、幟画、額画また祭
礼の行燈を画き、其の名一時世に顕はる、自ら雪舟十三世の孫と称し、法橋に叙せられたりとぞ〟
◯ 西村中和(43/103コマ)
名は士達、梅渓と号す、京都の人にて、法橋に叙せらる、板本数部を画けり
(版本リスト五作、書名省略)〟
◯ 司馬江漢(43/103コマ)
名は峻、字は君嶽、また峻嶽、春波楼、不言道人等の号あり、江戸本芝の人、幼時より画を好み、長じ
て狩野古信に就きて学びしが、後に和画は俗なりとして、更に宋紫石に学べり、当時鈴木春信の浮世絵、
いたく世に行はれたりしに、俄かに病みて没しけるより、江漢ひそかに、春信の偽筆を画きて板行しけ
るを、観る者絶て偽筆なることを知らざりきと云ふ、また春重と号して、唐画の彩色法を用ゐて、本朝
の美人画を描きけるに、これ又世に行はれたりとぞ、後に西洋の油画を研究し、また銅版画をも作れり、
江漢は実い本朝銅版画の始祖なりといふ、世に此の人をもて、二世春信とするは全く非なり、文政元年
戊寅十月廿一日没す、享年七十二(本伝は『春波楼筆記』『書画雑記』 『武江年表』等に拠る)〟
◯ 勝川春亭(43/103コマ)
山口氏、通称長十郎、松高斎と号し、また勝汲、壺、酔放逸人、戯墨庵等の号あり、春英の高弟にて、
和泉町に住めり、武者絵、草双紙を多く画きしが、壮年にして病の為めに業を廃せり、烏亭焉馬の著は
せる『歌舞伎年代記』の挿絵は、春章が丹誠を凝らしたるものなりと云ふ、文政三年八月三日没す、享
年五十一(版本リスト三作、書名省略)〟
◯ 金朝(43/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 雪華(43/103コマ)
其の伝詳ならず、蒟蒻本の挿絵を画けり〟
◯ 歌川豊広(43/103コマ)
一柳斎と号す、通称藤次郞、江戸の人にて、豊春の門弟となり、後に一家の画風を起して、草筆の墨画
を板行し、また読本数十部の挿絵を画けり、常に義太夫節を好み、三絃を弾くことを楽として、頗る妙
手なりき、芝片門前町に住みしが、文政十一年没す、一説い文化九年に没すとも云ふ
(版本リスト十五作、書名省略)〟
◯ 歌川豊久(44/103コマ)
豊春の門弟にて、境町に住めり、組上絵籠の絵を画き、また劇場の狂言本を画けり〟
◯ 歌川久信(44/103コマ)
百歳と号す、豊久の門弟か、なほ考ふべし〟
◯ 勝川春朗(44/103コマ)
初名歌川豊丸、寿亭と号す、豊春の門弟なりしが、後に勝川春朗と改む〟
◯ 丹羽桃渓(44/103コマ)
名は元国、靖中庵と号す、大阪の人にて、板本を画けり(版本リスト二作、書名省略)
◯ 葛飾為一(※ 半角(よみ)は本HPが施した読みがな)(44/103コマ)
幼名時太郎、後に鐵二郎と改め、晩年に鐵蔵と改む、また八右衛門ともいふ、幕府の御用鏡師中島伊勢
(中島伊勢は、吉良上野之助の家人なりし、小林平八郎の孫なりといふ)の男にて、宝暦十年、江戸本
所に生る、初め業を春章に受けて、勝川春朗と名乗りしが、故ありて破門せられ、叢春朗と改む、後に
故人俵屋宗理の名を継ぎて、二代目俵屋宗理となり、群馬亭と号す、此の頃狂歌の摺物を多く画き、傍
ら自画作の草双紙を出して、戯名を時太郎可候と称せり、寛政十年、門人宗二に宗理の名を譲り、自ら
一派の画風を起して、北斎と号し、辰政、雷斗の号をも用ゐ、旭日冲天の勢ひを以て、世の浮世絵師を
風靡したれば、其の雷名を慕ひて、京阪また名古屋より、その門に贄(し)を執る者多く、是等の門弟に
臨本を与ふる遑(いとま)無き為めに、数十部の絵手本を板刻して、世に出せりと云ふ、此の頃専ら画狂
人北斎、また葛飾北斎と落款せり、文化の中頃、北斎、辰政の名を三代目宗理に譲り、雷斗の号を、女
婿柳川重信に与へて、更に自ら錦袋舎戴斗、雷震と改め、前北斎戴斗と署名せしが、文化の末、これを
も門弟北泉に譲り、前北斎為一と改め、また卍老人と号せり、為一は居を転ずる癖ありて、家内に塵芥
の堆積する時は、そを掃除せむよりはとて他に転ず、或るは一二個月にして易ふることありて、一生に
九十余度も転居せしといひ伝ふ、為一のいまだ世に用ゐられざりし時、困窮甚しくて自ら業を転じ、七
色唐辛子を売らむとせしに、たま/\人ありて、五月幟の絵を乞へり、因て鍾馗の図を画て与へしが、
其の人大に喜び謝金二両を贈れり、是に於て志を励まし、一心に妙見菩薩を祈りて、朝まだきより小夜
更るまで筆を釈かず、腕痿(しび)れて知らず/\睡眠を催すに至りて止み、やがて蕎麦二椀を食ひて、
寝に就くを例とし、死するまでもかはる事なかりしと云ふ、嘗て其女と共に墨水の畔に居りし時、其家
は、たゞ膝を容るゝに過ぎず、且竈の設けなかりければ、父子ともに一膳飯屋に往き飯を買うて飢を凌
ぎしとぞ、為一は稀世の画仙にして、其の雷名は海外へも轟き渡り、非凡の妙手なる而巳(のみ)ならず、
俳諧狂歌を善くし、川柳点の狂句に巧みなりき、板刻の絵手本十数部におよび、読本、草双紙の挿絵に
至りては、実に枚挙に遑あらず、一説に為一は、終身赤穂義士の事蹟を画かずと云ふはあらぬ事にて、
忠臣蔵を画きたるもの現に有りと、『浮世絵編年史』の編者梅屋埜史は云へり、嘉永二年四月十八日病
て没すう、享年九十歳、浅草六軒寺町誓教寺に葬る、法号南総院奇誉北斎信士、辞世の句に
ひと魂でゆく気散じや夏の原
(版本リスト六十三作、書名省略)
(本伝は『浮世絵類考』『広益諸家人名録』『東洋絵画叢誌』『武江年表』『北斎墓表』等に拠る)〟
◯ 栄女(47/103コマ)
葛飾為一の三女、はじめ画工南沢といふ人に嫁しゝが、後ち離縁して父の許にあり、画を善くして『女
童重宝記』その外、板本を多く画けりと云ふ〟
◯ 北斎辰政(47/103コマ)
通称橋本庄兵衛、為一の最初の門弟にて、初名宗二後に宗理の名を譲られ、菱川宗理(三世)となりぬ、
『浮世絵類考』に為一が、はじめ菱川宗理と名乗りしとあれども、全く此の三世宗理と混じて誤れるも
のなり、為一は菱川と呼ばず、俵屋宗理といへり、三世宗理のち再び師の号を譲り受けて、二代目北斎
辰政となる、浅草山谷に住みて、狂歌摺物の絵を多く画けりと云ふ〟
◯ 文華軒雷洲(47/103コマ)
名は尚義、通称安田茂平、葛飾為一の門弟にて、四谷大木戸に住めり、読本の挿絵を画き、後に洋画の
銅版をかけりと云ふ〟
◯ 速水春暁斎(47/103コマ)
一に速水氏、名は恒章、通称彦三郞、大阪の人にて、板刻の絵入読本を多く画けり、また文才ありて、
自作の読本も夥多ありと云ふ、玉山の画風に学びたりとぞ、文政六年七月十日没す
(版本リスト二十作、書名省略)〟
◯ 流光斎如圭(48/103コマ)
月岡雪鼎の門弟にて、大阪の人、俳優絵を多く画けり〟
◯ 歌川豊国(49/103コマ)
本姓は倉橋、父を五郎兵衛といふ、宝暦の頃、芝神明宮の辺に住みて、木偶彫刻の技を以て一家を為せ
しが、明和六年、豊国はこゝに生る、幼名熊吉、性画を嗜めるより、歌川豊春い就て浮世絵を学びて、
一陽斎と号し、出藍の誉ありき、後に一蝶の画風を慕ひ、また九徳斎の画風をも学びて、終に一家を為
せり、美人絵、および俳優の似顔絵を巧みに画き、豊国の名一時に顕れ、浮世絵中興の祖と称せらる、
読本、合巻、草双紙、錦絵等数百部を画けり、贄(し)を執りて門に入る者多かりしとぞ、初め芝三島町
に住みしが、後ち芳町に移り、更に堀江町、上槙町河岸油坐等に転居したりと云ふ、文政八年正月七日
没す、享年五十七、三田聖坂功運寺に葬る、法号実彩霊毫
(版本リスト二十三作、署名省略)
(本伝は『歌川豊国瘞筆之記』『増補浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 歌川豊秀(50/103コマ)
豊春の門弟にて、大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 北川月麿(50/103コマ)
初名菊麿、通称六三郎、一に千助、名は潤、字は士達、墨亭、また観雲斎と号す、喜多川歌麿の門弟に
て、草双紙の挿絵を画けり、はじめ馬喰町に住みしが、文化の頃、小伝馬町厩新道に移りて家守となり
ぬ、晩年に名を観雪と改め、浮世絵を画かず、柳島の妙見宮に鯉魚の額を納めしとぞ〟
◯ 泉守一(50/103コマ)
通称吉兵衛、寿香斎と号す、渾名を目吉といへり、江戸の産にて、本郷一丁目み住めり、父は泉義信と
て、狩野家の門弟となり、渾名の目吉をもて画名とす、本郷の一侠客と呼ばれ、幕府祖廟日光山および
久能山、また江戸の芝、上野両山の修繕彩色御用を勤めし、町画師職人の頭なりき、守一は二世等琳の
門弟にて、父の箕裘を嗣ぎ、殊に善く武者絵を画けりとぞ、文化の中頃没す、享年五十余歳〟
◯ 泉鐵(50/103コマ)
寿川斎と号す、守一の門弟にて、よく師の画風を学びたり〟
◯ 春川栄山(50/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 泉山松月(50/103コマ)
通称和泉屋作十郎、水陽亭と号す、二世等琳の門弟にて、神田鍋町に住めり〟
◯ 十返舎一九(50/103コマ)
姓は重田、名は貞一、通称与七、幼名を市丸といひて、駿府の町同心重田与八郎の三男なり、年稍(や
や)長じて江戸に出で、小田切土佐守に仕へて小吏となり、主の大阪町奉行を命ぜられし時、一九も共
に大阪に到りしも、放蕩無頼にして吏務を理(おさ)めず、遂に職を辞して、同地の材木商人某の女婿と
なりしが、間も無く離縁せられしに因り、再び江戸に帰りて、寛政の末、長谷川町の市人某の家に入夫
したりしが、是れまた幾程もなくして離縁せられき、大阪に在りしとき、志野流の香道を学びたり、後
ち故ありて全く廃せりと雖も、十返舎の号は黄熟香の十返をとりて、然(し)か名づけたりと云ふ、寛政
六年の秋とかや、通油町の地本問屋蔦屋重三郎の食客となりて、錦絵に用ゐる奉書紙に、明礬を引く役
なそ務め居るうちに、文才ありて浮世絵の心得もありしより、自画の草双紙を出版したるに、頗る世評
よろしかりしを以て、是れより専ら戯作の筆を把(と)れり、その『膝栗毛』は最も世に行はれて、一九
の名は遠近に聞えぬ、同書の挿絵は一九自ら画きしものなり、天保二年辛卯七月廿九日没す、享年六十
七、浅草土富店善立寺内東陽院に葬る、辞世の狂歌に
此世をばどりやお暇(いとま)にせむ香と ともにつひには灰左様なら
一九の没せる月日を『列伝体小説史』には、前のごとく記せりと雖も『戯作者略伝』に出たる、一九が
墓碑の図面には、心月院一九日光信士、天保二年辛卯八月上ノ七日とあり、また現今東陽院にある所の
墓碑には、天保二年卯八月八日とありと云ふ、最も『戯作者略伝』に図せる墓碑は何時か失せたるを、
後に現今の墓碑を建立したるものなるべし、昔の墓碑と今のものとは、大に相違する所あり〟
◯ 文康(50/103コマ)
通称安五郎、柳文朝の門弟にて、世の人呼びて文康安と(い)へり、錦絵を画きしと云ふ〟
◯ 宮川春信(50/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 宮川春治(50/103コマ)
宮川春重
以上二人、春信の門弟なり〟
◯ 傀儡子(50/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 英之(50/103コマ)
英一蝶の門弟なりし、佐脇蒿(ママ嵩)之の女、寛政三年没す〟
◯ 春蝶(50/103コマ)
日本絵師と称して、春画を善くせり、其の伝詳ならず〟
◯ 樹下石上(50/103コマ)
通称梶原五郎兵衛、市中山人と号す、羽前山形の藩士にして、戯作に名あり、また錦絵を画けりと云ふ〟
◯ 東穿(50/103コマ)
其の伝詳ならず、長絵、細絵をおほく画けり〟
◯ 細田五郷(51/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 細田昌有(51/103コマ)
栄昌の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 石峰(51/103コマ)
千鳥
千哥
以上三人、其の伝詳ならず〟
◯ 一峰斎馬圓(51/103コマ)
大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 松好斎半兵衛(51/103コマ)
其の伝詳ならず〟
【享和元~三年 1801-1803】(52/103コマ)
◯ 喜多川式麿(52/103コマ)
通称東海林平右衛門、歌麿の門弟にて、小石川水道橋に住めり、文化中没す〟
◯ 喜多川秀麿(52/103コマ)
歌麿の門弟にて、下谷柳稲荷社の前に住めり、文化の頃、錦画を絵(ママ)けり〟
◯ 喜多川行麿(52/103コマ)
通称東海林平右衛門、歌麿の門弟にて、小石川水道橋に住めり、文化中没す〟
◯ 喜多川北麿(52/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川可麿(52/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川道麿(52/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川年麿(52/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川花麿(52/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 柳々居辰斎(52/103コマ)
名は政之、通称満納半二、為一の門弟にて、神田小柳町二丁目、また新石町に住めり、狂歌の摺物、月
次の草詠等の絵を画きしが、錦絵は画かざりき、読本は『月霄雛物語』を画けり〟
◯ 蹄斎北馬(52/103コマ)
一号駿々斎、通称有阪五郎八、為一の門弟にて、神田、また浅草三筋町に住めり、狂歌の摺物を多く画
き、読本の密画に妙を得たり、板本数十部を画きて世に行はる、また左筆の曲画を善くし、席上の略画
を巧みにして、美人絵も多く画けり、弘化元年八月十六日没す、享年七十四。〟
(板本リスト十四作 書名省略)
◯ 北川春成(53/103コマ)
京都の人、速見(ママ)春暁斎の著はせる『扁額䡄範』の絵を画けり、其の伝詳ならず〟
◯ 小石堂一指(53/103コマ)
一に礫川堂と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 菊川英山(52/103コマ)
名は俊信、通称万五郎、一に為五郎、重九斎と号す、市ヶ谷に生れて、麹町に住めり、はじめ画を父英
二に学びしが、後に南嶺の門弟となりて、美人絵を多く画けり、葵岡北渓は幼年よりの友なりしかば、
其の画風を慕ひ、北斎流の絵を画けり、喜多川歌麿の没してより後、其の画風に似せて、板刻の美人絵
を出せりといふ、初めは俳優をも画けりとぞ、当時豊国、春扇と並びて世に行はれたりし人なり〟
◯ 勝川春扇(53/103コマ)
通称清次郞、可笑斎と号す、はじめ堤等琳の門弟にて、春琳といひしが、後に春英を師として、春扇と
名を改む、麹町貝阪に住み、後ち芝中門前町に移れり、文化の末、東西庵南北が著作の『源五郎鮒』と
いふ草双紙を画きて行はれしより、神明前の絵草紙店、みな春扇を取立むと挑み争ひ、日々新板を発售
したりと云ふ、後に二代目春好と称し、板刻の絵を止めて、芝神明町に移住し、専ら陶器の焼付絵を画
きぬ、春扇の妻もまた文才ある者にて、作名を月光亭笑寿と称し、草双紙を著はして年々に発售したり
とぞ〟
◯ 戴斗(53/103コマ)
通称遠(ママ)藤伴右衛門、斗圓楼と号す、小笠原家(豊岡藩)の浪人にて、麹町平川天神に住めり、為一の
門弟となりて、初め北泉と号せしが、後に師の号を譲り受け、二代目戴斗となりぬ、よく師の筆法を学
び得て、其の真偽を分ちがたし、浪花の書肆より多く刻本を出せしより、世に大阪北斎といへりとぞ
(板本リスト三作 書名省略)
◯ 探月斎(54/103コマ)
大阪の人にて、読本を画けり〟
◯ 谷本月麿(54/103コマ)
喜多川歌麿の門弟にて、京都の人、読本、錦絵を画けり〟
◯ 桂向亭長丸(54/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 青陽斎蘆洲(54/103コマ)
浅山氏、狂画堂、蘭英斎等の号あり、大阪の人〟
◯ 今川珉和(54/103コマ)
一に珉和、名は秀成、自は士陳、雪山と号す、岸駒の門弟にて、京都の人、多く読本を画けり〟
◯ 歌川豊清(54/103コマ)
通称金蔵、豊広の男、父に学びて上手なりしが、早世せしは惜しむべし、錦絵、草双紙、読本を画けり〟
◯ 優遊斎桃川(54/103コマ)
大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 浅山蘆渓(54/103コマ)
大阪の人、蘆洲と同流の人なるべし、其の伝詳ならず〟
◯ 巨勢秀信(54/103コマ)
大阪の人、法橋に叙せらる〟
◯ 蔀関牛(54/103コマ)
其の伝詳ならず、関月の男か、なほ考ふべし〟
◯ 括嚢(54/103コマ)
大阪の人、錦絵を画けり〟
◯ 喜多川此麿(54/103コマ)
歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 翠松斎栄月(55/103コマ)
其の伝詳ならず〟
【文化元~十四年 1804-1817】(52/103コマ)
◯ 葛飾北嵩(55/103コマ)
島氏、名は重宣、酔醒斎、蘭斎、閑々楼の号あり、為一の門弟にて、神田明神下に住めり、後に専ら唐
画を描きて、別号を東居と呼びたりと云ふ〟
◯ 葛飾北寿(55/103コマ)
名は一政、昇亭と号す、為一の門弟にて、両国薬研堀に住めり、名所の錦絵、また浮絵を画けり〟
◯ 葛飾北岱(55/103コマ)
盈斎と号す、為一の門弟にて、浅草に住めり、読本、摺物の絵を多く画けり〟
◯ 鳥居清峰(55/103コマ)
通称庄之助、鳥居流三代目清満の孫にて、同四代目清長の門弟となり、豊国の画風に傚ひて美人絵、草
双紙を画けり、後に鳥居流五代目を相続せしが、天保の頃、更に名を清満と改む、住居(ママ)町、また新
和泉町に住めり、明治元年戊辰十一月廿一日没す、享年八十二〟
◯ 鳥居清元(55/103コマ)
通称三郞助、雪光斎と号す、清峰の門弟、一説に清長の門弟なりとも云ふ〟
◯ 大原東野(55/103コマ)
民声と号す、大阪の人にて『五畿内産物図会』といふ書を編めりといふ、板本の『唐土名所図会』『絵
本西遊記』等を画けり〟
◯ 青陽斎蘆国(55/103コマ)
浅山氏、大阪の人にて、蘆洲の男なり、俳優絵を多く画けり〟
◯ 川島信清(55/103コマ)
大阪の人、自ら大和絵師と称して、読本の挿絵を画けり〟
◯ 北川真厚(55/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 北川春政(55/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 東西南北雲(55/103コマ)
通称久五郎、為一の門弟にて、大工を業とし、狂歌の摺物を多く画けり、板本には『北雲漫画』あり〟
◯ 魚屋北渓(56/103コマ)
岩窪氏、通称初五郎、後に金右衛門、名は辰行、拱斎、葵園等の号あり、四谷鮫ヶ橋に住みて、松平志
州侯の用達の魚屋なり、初め狩野養川院の門に入りしが、後ち為一の門弟となりぬ、善く師の画風を学
びて、板刻の絵を多く画けり、後年赤阪長井町代地に移り、魚を売ることを止めて、専ら絵を以て業と
せり、青山立法寺中にある所の北渓の墓碑の銘を茲に掲けて、その伝を補ふ
正面 葵園老人北渓君之墓
左側 翁諱辰行、善絵事、工于時世様、逐武於菱川宮川諸流、嗜学蔵書数千巻、一生行矣、無愧忠信
等(ママ)敬四字
右側 あつくなくさむくなくまたうゑもせず うきこときかぬ身こそやすけれ
(板本リスト五作 書名省略)〟
◯ 洋堂(56/103コマ)
大阪の人、読本を画けり〟
◯ 春川五七(56/103コマ)
神谷氏、初号蓬州、通称亀助、江戸小石川の人なりしが、文化の末年、京都に移り住みぬ、春川栄山の
門弟にて、江戸に在りし頃、俳優似顔の細絵を画けり〟
◯ 秋艃(56/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙の挿絵を画かり、一説に十返舎一九が仮の名とするは非なり。また蜂房とも号
す〟
◯ 東秀(56/103コマ)
其の伝詳ならず、美人絵を画けり〟
◯ 雪蔭(56/103コマ)
其の伝詳ならず、美人絵を画けり〟
◯ 柳谷(56/103コマ)
柳谷樵者と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国貞(57/103コマ)
三世豊国の初名なり〟
◯ 喜多川歌麿 二世(57/103コマ)
通称北川鉄五郎、馬喰町に住みて、二世恋川春町と称せしが、初代歌麿の没せし後、その妻に入夫して、
二世歌麿となれり、錦絵を画きしと雖もいと拙く、書道の方却て巧みなりきと云ふ〟
◯ 柳川重信(57/103コマ)
本姓は鈴木氏、江戸の産なり、為一の門に入りて画を画ぶ、後その女を娶りて、聟となり、雷斗の号を
譲らる、初め本所柳川町に住みしより、柳川を以て姓の如くせりとぞ、後に根岸大塚村に移りて、板刻
の密画を多く描き、また江戸の南嶺、浪花の玉山等が画風を慕ひ、国貞の筆意をも似せて、草双紙の挿
絵を画けり、此の人常に木偶を製作して巧みなりしと云ふ、天保三年辰十一月没す、享年五十余歳
(板本リスト四作 書名省略)〟
『増補浮世絵類考』に重信を以て、志賀理斎の男とするは非なり、理斎の男は二世重信にて、初号を重
山と云ひし人なり〟
◯ 歌川国長(57/103コマ)
通称梅千之助 一雲斎と号す、江戸の産にて、芝口三丁目に住み、後に新橋金六町、移る。初代豊国の
門に入りて、草双紙を画き、また組上燈籠絵のごときものを画けり、浮絵と名づくる名所の遠景をも画
きしとぞ、常に遊芸を娯楽とし、音曲を善くして、酒席の興を添ふる事をなし、桜川善孝、同甚孝など
ゝ一時の友たりしと云ふ、文化中没す、享年四十余歳〟
◯ 歌川国丸(57/103コマ)
通称文治、一圓斎、五彩楼、飜蝶庵、軽雲亭、彩霞楼等の号あり、武州川越の産にて、本町二丁目浮世
小路に住めり、俳諧を鴬笠庵に学びて、龍尾と号し、画を豊国に学びて、国安と並び行はる、書画とも
に善くし、俳優の姿絵、草双紙を多く画くに、師の筆意を得たり、また風流の意深く、当時の諸文化人
と交遊せしといふ、文政の末年没、享年三十余歳〟
◯ 歌川豊年(57/103コマ)
初代歌川豊国の男なり〟
◯ 歌川豊熊(58/103コマ)
通称熊吉、豊清の男にて、豊広の実孫なり〟
◯ 歌川広演(58/103コマ)
京都の人にて、豊広の門弟なり〟
◯ 歌川広昌(58/103コマ)
駿州沼津の人にて、大平屋某といふ、豊広の門弟なり〟
◯ 歌川広恒(58/103コマ)
豊広の門弟なり〟
◯ 歌川広政(58/103コマ)
豊広の門弟なり〟
◯ 歌川広兼(58/103コマ)
豊広の門弟なり〟
◯ 歌川国満(58/103コマ)
通称熊蔵、一翁斎と号す、豊国の門弟にて、飯倉町、土器町、桧物町、芝口三丁目、田所町に住めり、
錦絵、草双紙を画きて、殊に彩色の妙手なりと云ふ〟
◯ 歌川国直(58/103コマ)
吉川氏、通称鯛蔵、また四郎兵衛、一烟斎、一楊斎、浮世庵、柳烟楼、柳烟堂、写楽翁等の数号あり、
信州の産にて、麹町、また田所町に住めり、初め明画を学び為一翁の画風をも慕ひしが、更に豊国の門
弟となりて、文化の末より、草双紙を画き、錦絵、読本をも多く画けり、後に一派の画風を起さむとし
て、暫く其の業を廃せしも、天保の初め、再び草双紙、中本等を画けりと云ふ
(板本リスト五作 書名省略)〟
◯ 錦亭鳴虫(58/103コマ)
其の伝詳ならず、小本の挿絵を画けり〟
◯ 中井藍江(58/103コマ)
名は直、字は伯養、通称養蔵、師古と号す、大阪の人、蔀関月の門弟にて、『播州名所図会』を画けり〟
◯ 松川半山(58/103コマ)
翠栄堂と号す、大阪の人、『絵本琉球軍記』『左刀奇談』等を画けり〟
◯ 柳亭重春(59/103コマ)
山口氏、大阪の人、為一の門弟、或は重信の門弟ともいふ、錦絵、読本等を画けり〟
◯ 暁鐘成(59/103コマ)
本姓木村氏、通称弥四郎、大阪元福井町の和泉屋太兵衛が四男にて醤油醸造を業とせしが、放蕩にして
家事を顧ず、天王寺中寺町に草庵を結び、庭に数根の萩を植ゑ、茲に鹿の子を飼ひて、自ら鹿の舎真萩
と戯名し、好める戯作に口を糊せり、後ち心斎橋通り博労町に移り、味噌を製りて商ひ、その味噌に手
前味噌、悋気の焼味噌などと、種々をかしき名を負しぬ、後再び江戸堀南通二丁目に移り、専ら著述を
業とせしが、一歳妻の縁家を尋ねて、丹波国福知山に遊びし時、郷民百姓等の、城主朽木近江守が処分
に不服の筋ありて、強ひて訴を起さむ為めに、鐘成にその願書を起草せしめたり、斯れど百姓等の願意
上達せずして、終に竹槍蓆籏の騒動となりし時、請はるゝ侭に、鐘成は一揆の首領となり、朽木家の老
臣某を謀殺せしより、首謀者は一同京都へ引致せられ、鐘成も獄舎に繋がれ、再三糾問を受けし末、放
免せらるべかりしに、朽木家に支障ありて、なほ囹圄(獄舎)の中に日を経るうち、万延元年十二月十九
日、俄然獄中の鬼となりぬ、享年六十八、遺骸は大阪の親族引取りて、西成郡浦江村正覚寺に葬る、法
号釈道観居士、鐘成は浮世絵師にはあらねど、自画作の読本を出版したりと云ふ〟
◯ 歌川国芳(59/103コマ)
本姓は井草氏、通称孫三郞、一勇斎、また朝桜楼と号す、寛政九年丁巳十一月十五日、神田本銀町二丁
目に生る、父は柳屋吉右衛門とて京紺屋を業とせり、孫三郞は幼時より上絵を能くし、浮世絵を好める
まゝ、初代歌川豊国の門に入り、同門国直が家に塾生の如くなりて、板刻の絵を学び居たり、故に其の
画風は総て国直の筆意をのみ藉(か)り来りしが、後には専ら紅毛画の趣を基として画けり、文化末『紫
ざうし』といふ板本の挿絵を画きしに、不出来なりとて評判宜しからず、板下を依頼する人も無く、微
々として世に知られざりしうち、図らず狂歌師梅屋鶴寿(通称室田又兵衛、一号秣翁)に見出され、そ
の紹介によりて二三種の錦絵を出版せしに、意外にも好評を蒙りたり、後に某絵草紙問屋より俳優の似
顔絵を出版したりしに、当時は師の豊国、同門の国貞等の妙手ある故に、人みな国芳の絵を嫌ひたりき、
文政の末、水滸伝の豪傑百八人の内、智多星、九紋龍、武行者、黒旋風、花和尚等五人を、錦絵に画き
て出版したるに、時好に投じて大に世に行はれ、引続きて百八人を残りなく出版したり、此の時より錦
絵、草双紙等の出版年々にその数を増せしといふ、狂画は勝川春英の画風を学び、別に一機軸を出し、
其の画所覊絆を脱し、全く新奇の意匠を運らして画きしかば、天保の初年より次第に行はれて、浮世絵
師の一人と称せられき、また柴田是真の画風を慕ひ、贄を執りてその門に入り、号を仙真といへり、又
狂歌を好みて、号を和風亭国吉といへりとぞ、国芳は初め本銀町二丁目に住み、後に米沢町に移り、又
転じて新和泉町玄冶店に移りぬ、文久元年辛酉三月五日没す、享年六十五、浅草新寺町大仙寺に葬る、
法号深修院法山国芳信士、二女あり、長を芳鳥といひ、父の箕裘を継ぎ、次を吉女といひ、田口其英に
配せり
(本伝は『浮世絵類考』『楽雅記』『一勇斎墓表』『読売新聞』等に拠る)〟
◯ 歌川国重(60/103コマ)
喜斎と号す、初代豊国の門弟、其の伝詳ならず
◯ 菊川英秀(60/103コマ)
英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 菊川英柳(60/103コマ)
英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 菊川英里(60/103コマ)
本姓は冬木氏、英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国次(60/103コマ)
通称幸蔵、初代豊国の門弟にて、銀坐四丁目に住めり、錦絵、草双紙を画けりと云ふ〟
◯ 歌川国清(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国忠(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国房(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国瀧(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国光(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国幸(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国近(60/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国朝(60/103コマ)
初代豊国の門弟にて、大阪の人なり〟
◯ 歌川国春(60/103コマ)
初代豊国の門弟にて、大阪の人なり〟
◯ 歌川国道(60/103コマ)
初代豊国の門弟にて、大阪の人なり〟
◯ 葛飾雷周(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北雅(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾雷川(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北周(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北園(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北牛(60/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北鵞(61/103コマ)
抱亭と号す、為一の門弟にて、摺物、読本等を画けり〟
◯ 北亭墨僊(61/103コマ)
一号北僊、斗圓楼、百斎、月光亭等の数号あり、通称牧助右衛門、尾州名古屋の人、為一の門弟にて、
多くの読本を画けり〟
◯ 菱川宗理(61/103コマ)
二世北斎辰政の名を改めしなり、其伝は前にあり〟
◯ 一楽斎長松(61/103コマ)
栄松斎長喜の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川扇里(61/103コマ)
勝川春扇の門弟か、なほ考ふべし〟
◯ 歌川龍子(61/103コマ)
竹斎庵と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 柳文朝 二世(61/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 豊庵(61/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙の挿絵を画けり〟
◯ 横山華山(61/103コマ)
京都の人、『花洛一覧図』を画けり〟
◯ 恋川吉町(61/103コマ)
春町の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 佐久間草偃(61/103コマ)
名は顕、字は叔徳、京都の人、画を松村呉春に学びて、法橋に叙せらる、山水画に巧なりき、浮世絵師
にあらず、文化十一年十月二日没す〟
◯ 礫川亭永理(61/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 礫川亭そりん(61/103コマ)
永理の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 玉川舟調(61/103コマ)
其の伝詳ならず、細絵、長絵を画けり〟
◯ 泉調(62/103コマ)
玉川舟調の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 水蘆朝(62/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 文浪(62/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 浮世船麿(62/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 江南(61/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 月光(62/103コマ)
其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川峰麿(62/103コマ)
初代歌麿の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川豊章(62/103コマ)
勝川春章の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川瀧広(62/103コマ)
歌川豊広の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 月岡栄山(62/103コマ)
二世等琳の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 赤城山人(62/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙の挿絵を画けり〟
◯ 百斎(62/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙の挿絵を画けり〟
◯ 松東楼(62/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙の挿絵を画けり〟
◯ 葛飾北洲(62/103コマ)
雪花亭、春好斎等の号あり、大阪の人、為一の門弟にて、錦絵、読本を画けり〟
◯ 葛飾北広(61/103コマ)
大阪の人、為一の門弟にて、後に画狂人の号を譲らる〟
◯ 葛飾北水(62/103コマ)
通称池田屋久三郞、横山町一丁目に住みて、煙管屋を業となしゝが、後廃業して朝野右衛門と改名し、
為一の門に入りて画を学び、また自惚山人と号して、戯作をもなせり、晩年に天文暦学の指南すべしと
云ひて、諸国を遊行せしが、其の終る所を知らずといふ〟
◯ 葛飾北僊(63/103コマ)
画桂老人、卍斎等の号あり、為一の門弟〟
◯ 葛飾北昆(63/103コマ)
如蓮と号す、為一の門弟〟
◯ 葛飾北敬(63/103コマ)
春陽斎と号す、為一の門弟〟
◯ 葛飾北洋(63/103コマ)
千鶴亭と号す、為一の門弟〟
◯ 寿々北鷹(63/103コマ)
名古屋の人にて、為一の門弟〟
◯ 戴璪(63/103コマ)
名古屋の人にて、為一の門弟〟
◯ 葛飾北目(63/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 高井鴻台(63/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 牧亭集馬(63/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 画讃人 (63/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北輝(63/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北秀(63/103コマ)
名は成一、為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 九々蜃斗子(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 卯亭北鳴(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 北亭為直(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 嶺斎北雄(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 北涛(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 北紫(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 江鯉(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
◯ 葛飾一扇(63/103コマ)
為一の門弟歟、なほ考ふべし〟
【文政元~十二年 1818-1829】(63/103コマ)
◯ 菊川英信(63/103コマ)
通称安五郎、英山の門弟にて、多く摺物を画けり〟
◯ 菊川英蝶(63/103コマ)
京都の人、はじめ画を春川五七に学びしが、後に英山の門弟となりて、錦絵又草双紙を画けり〟
◯ 菊川英章(63/103コマ)
朝野氏、英山の門弟にて、錦絵、団扇等を画けり〟
◯ 菊川英章(64/103コマ)
名は章三、狂言作者なりしが、英山の門弟となりて、朝野氏と同名なるより、人呼びて光一英章といふ、
春画に巧なりき〟
◯ 菊川英賀(64/103コマ)
英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 菊川英子 女子(64/103コマ)
英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 菊川英重(64/103コマ)
英山の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 北尾重政 二世(64/103コマ)
はじめ一蕙斎政美の門弟にて、美麿といひしが、文政の初年、二世北尾重政と称し、新乗物町の河岸に
住めり〟
◯ 北尾美国(64/103コマ)
政美の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春玉(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春紅(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春琳(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春陽(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春幸(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春景(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春勢(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春柳(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川英斎(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川英章(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春馬(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春雄(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春青(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春加(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春久(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春雪(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春山(64/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 勝川春章 二世(64/103コマ)
春英の門弟にて、二世春章と称す、其の故を知らず〟
◯ 勝川春徳(64/103コマ)
通称千太郎、春英の門弟にて、十軒店に住めり、武者絵を画けり〟
◯ 勝川春洞(64/103コマ)
通称政蔵、大政と称す、英春門弟にて、左筆を善くせり〟
◯ 葛飾北英(64/103コマ)
雪花楼と号す、大阪の人、為一の門弟〟
◯ 葛飾北一(65/103コマ)
工形亭と号す、為一の門弟〟
◯ 葛飾戴一(65/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 葛飾北龍(65/103コマ)
為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国虎(65/103コマ)
通称粂蔵、初代豊国の門弟にて、草双紙を画けり〟
◯ 歌川国花女(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国登久女(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国鐵(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国兼(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国宅(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国彦(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国種(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国勝(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国武(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国宗(65/103コマ)
初代豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国照(65/103コマ)
通称甚右衛門、初代豊国の門弟にて、錦絵を画けり
◯ 歌川国為(65/103コマ)
一年斎と号す、初代豊国の門弟〟
◯ 歌川国英(65/103コマ)
一筆斎と号す、初代豊国の門弟〟
◯ 歌川国景(65/103コマ)
一笑斎と号す、初代豊国の門弟〟
◯ 歌川国信(65/103コマ)
通称金子総次郞、一礼斎、陽岳舎等の号あり、湯島三組町に住みて幕府の御小人目附を勤めしが、初代
豊国の門弟となり、志満山人と号して、自画作の草双紙を多く出せりと云ふ〟
◯ 歌川国時(65/103コマ)
一鏡斎と号す、初代豊国の門弟〟
◯ 歌川国安(65/103コマ)
通称安五郎、一鳳斎と号す、江戸の産にて大門通り村松町、また本所扇橋等に住めり、幼時より初代豊
国の門に入り、塾生と為りて其家に在りき、文化のはじめ、錦絵を出せしが、後に故ありて、西川安信
と名を改め、亦更に国安に復して、草双紙、錦絵等を多く画けり、天保七年没す、享年三十余歳〟
◯ 歌川国政(66/103コマ)
通称甚助、一寿斎と号す、奥州会津の産にて、はじめは紺屋職人なりしが、天性芝居を好む一癖あり、
僅に余暇あれば、好みて狂言を見しより、自から俳優の似顔を画くに妙を得たり、紺屋の主某、初代豊
国と交り深かりしかば、其の故を語りて門弟たらしむ。当時専ら似顔の半身の団扇絵大に行はれ、団扇
問屋某、試みに国政に画かしめて売出しゝに、世の好評を受て利潤を得たり、師の豊国も似顔絵は国政
に及ばざるにより、世人は却て豊国を以て国政の門弟のやうに思ひたりと云ふ、其の後錦絵を多く画き
しと雖も、深く画道を修行せざる故に、いと拙くして見るに足らず、文化七年十一月晦日没す、享年三
十八〟
【文政元~十二年 1818-1829】(63/103コマ)
◯ 歌川広重(66/103コマ)
安藤氏、幼名は徳太郎、のち十右衛門と改め、また徳兵衛と改む、江戸の人にて旧幕府八代洲河岸定火
消屋敷同心なり、幼時より画心あり、別に師とする者無けれども、其の画く所まゝ見るべきものありき、
文化三年十一月、琉球人来聘せしをり、広重は十歳なりしが、其の行列を見て直ちに之れを写せり、而
してしてその配置着色の巧みなるは、幼者の筆としも思はれず、爾来画道に心を潜めて、岡島林斎を友
とし善し、十五歳の時始めて師をとらむと欲し、初代豊国の家を訪ひて、其の門に入らむとせしに、豊
国は門人多くして、世話行届かずとて辞せり、されども広重は思ひ立ちしことなれば、やがて常に出入
せる貸本屋某の紹介に因り、芝片門前町なる歌川豊広の許に往きて、切に望みて漸くに入門の許しを得
たり、その後幾程もなく、師の豊広の没せしより、独立の志を起して師を求めず、而して師の孫豊熊の
幼年なるを扶けて、其の後見をなしぬ、当時豊国の女絵のみ世に行はれて広重の画風は兎角に行はれざ
れば、大に苦心せしが、会々(たまたま)幕府に於て八朔御馬進献のことあり、これに供して京都に上り
往来する所の山水景色を見て、心にふかく感ずるところあり、帰東の後意匠を運らし、始めて景色画を
描き出せしに、時好に投じて頗る好評を得たり、これより一家を興し、前人の未だ図せざる所の景色画
を画けりと云ふ、また狂歌を好みて、戯名を東海道歌重といひ、狂歌の摺本をも多く画けり、久く大鋸
町に住みしが、後に常盤町に移り、更に中橋狩野新道に転ぜり、安政五年戊午九月六日、流行病に罹り
て没す、享年六十二、浅草新寺町東岳寺に葬る、法号顕巧院立斎徳翁居士、辞世の狂歌に
東路に筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見む
広重の画ける一枚摺続絵の、主なものは左の如し
『東海道五十三次』『諸国名所』『江戸名所百景』
(本伝は『浮世絵考』『楽雅記』等に拠る)〟
〈広重が幕府の「八朔御馬進献」に随行して京都に上ったという記事、梅本塵山は「『浮世絵考』『楽雅記』等に拠る」
とするが、『浮世絵考』は不明、『楽雅記』は国立国会図書館デジタルコレクションに「何の誰先生」著・明治22年・
金桜堂刊のものが収録されているものの、広重の記事は見当たらない〉
◯ 二世 歌川豊国(68/103コマ)
通称源蔵、後素亭と号す、始め豊重と称して、本郷春木町に住み、初代豊国の門弟にて、師の死後、其
の妻に入夫し、二世豊国といへり、天保六年十一月一日没す、享年五十九〟
◯ 歌川国興 歌川国総 歌川国鶴 歌川国一 歌川国弘(68/103コマ)
以上五人、二世豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 二世 速水春暁斎(68/103コマ)
初号春民、名は恒茂、通称民之助、大阪の人にて、春暁斎の男なり、後に二世春暁斎と号す〟
◯ 戯画堂蘆雪(69/103コマ)
大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 岡田玉山(69/103コマ)
字は修徳、石田玉山の門弟にて、後ち師の名を継ぎ、二世玉山となる、大阪の人なりしが、江戸に来り、
神田紺屋町に住みて、法橋に叙せらる、一日家を出でしが、後ち其の終る所を知らず〟
◯ 石田石峰(69/103コマ)
大阪の人にて、多く読本を画けり、初代玉山の男歟、尚考ふべし〟
◯ 葛飾北明(69/103コマ)
九々蜃と号す、為一の門弟、九々蜃斗子と別人歟、尚考ふべし〟
◯ 葛飾北為(69/103コマ)
白山人と号す、為一の門弟〟
◯ 東春嶺 福知白瑛(70/103コマ)
以上二人、葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 森川保之(70/103コマ)
京都の人、読本を画かり〟
◯ 二世 柳川重信(70/103コマ)
通称谷城季三太、重信の門弟にて、初号重山、馬琴が『侠客伝』二編五巻の末二枚は、師の重信画き終
らずして、病の重りし為めい、重山続きてこれを画けり、又『藤袴』といふ絵本を画けりとぞ。志賀理
斎の男なり〟
◯ 岳亭定岡(71/103コマ)
八島氏、名は春信、通称斧吉、神歌堂と号す、霞ヶ関に生れて青山に人となり、後ち大伝馬町、日本橋
阪本町等に移り、また浪花に往きて住みぬ、画を堤秋栄に学び、後に北渓を師とし、更に為一にも従ひ
ぬ、狂歌を窓の村竹に学び、戯名を堀川太郎春信といふ、別に丘山と号して、自画作の板本を多く出せ
りとぞ
(本伝は『狂歌水滸伝』『浮世絵類考』等に拠る)〟
◯ 渓斎英泉(71/103コマ)
姓は藤原、池田氏、名は義信、通称善次郎、後に里介と改む、一筆庵、無名翁、可候等の数号あり、江
戸星ヶ岡に生れ、幼年より狩野白珪斎の門弟となり、後に浮世絵を学べり、又戯場狂言作者篠田金治
(後並木五瓶)の門に入りて、千代田才市の名を継ぎ、一度作者となりしが、再び画工菊川英二の家に
寓せり、斯くて近国を遍歴する三四年にして東都に帰り、住居をも定めず、処々を漂泊し、人の需に応
じて紙鳶、羽子板、幟等の絵を画きて与ふ、後に宗十郎町に居を定め、妻を迎へしが、子無き故に、他
家より一女子を貰ひて養ひぬ、此の頃より専ら美人画を画き、草双紙、読本等を多く画けりと云ふ、天
保の頃、筆を止めて画かず、根岸時雨の里に隠れ、また根津の華街に娼家を開きしが、不都合の所為あ
りて亡命しけり、其の後日本橋東阪本町二丁目に住めりとぞ、此の人、薄彩色摺の春画を工夫し、淫斎
白水と変名して、自作画の春画本数部を出せり、嘉永元年戊申八月廿六日没す、享年五十九、辞世の歌
に 限りある命なみせん惜からぬ 只かなしきは別れなりけり
(板本リスト二十作 書名省略)
(本伝は『浮世絵類考』『戯作者略伝』等に拠る)〟
◯ 長谷川雪旦(71/103コマ)
名は宗秀、通称後藤茂右衛門、岳斎、一陽斎、巌岳斎等の号あり、板本の『江戸名所図会』を画きて其
の名高し、天保十四年正月廿八日没す、享年六十六〟
◯ 大石真虎(71/103コマ)
通称順平、名古屋の人にて、渡辺周渓の門弟となり、板本数部を画けりとぞ、真虎は浮世絵師ならねど
画名一世を轟かし、其の行為の奇異にして滑稽なる、人お頤(おとがい)を解くもの多し、天保四年没す、
享年四十二
(板本リスト三作 書名省略)〟
◯ 喜多武清(71/103コマ)
字は子慎、可庵、五清堂、一柳斎等の号あり、江戸の人にて、文晁に学び、探幽をも追慕し、人物花鳥
に巧みなりき、浮世絵師にあらずと雖も、山東京伝が著作の稗史『優曇華物語』を画けり、安政三年没
す、享年八十一〟
◯ 益甫(71/103コマ)
通称駒屋新(二字欠)、人呼むで駒新といふ、尾州名古屋の人にて、浮世絵を善く画けり、また独楽をよ
くまはし、座敷芸をもなせしとぞ、享和の頃より其の画世に行はる〟
◯ 蘭亭直秀(71/103コマ)
尾州名古屋門前町なる禅篤寺の前に住めり、一流の武者絵を画き、大須観音の仁王門の懸行灯に、年毎
に太閤記の絵を画きたり、山本梅逸は初め此の秀直が弟子なりしが、この童子は後に一家をなすべき技
量あり、予の弟子にては事成り難しといひて、張月樵に学ばしめたるに、果して後に一大家となりしと
云ふ〟
◯ 春川英笑(71/103コマ)
春斎と号す、京都の人にて、春川五七の門弟なりしが、後に江戸に来り、英泉の門に入りて、号を英蝶
と改む、錦絵草双紙を画けり〟
◯ 歌川安信 歌川安重 歌川安春 歌川安常 歌川安清 歌川安峰(72/103コマ)
以上六人、歌川国安の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 二世 歌川豊春(72/103コマ)
其の伝詳ならず、錦絵を画けり〟
◯ 歌川国久女(72/103コマ)
二世豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国盛(72/103コマ)
二世豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 鳥居清安(72/103コマ)
通称虎次郞、鳥居流五世清峰の門弟〟
◯ 鳥居清芳(72/103コマ)
鳥居流五世清峰の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 二世 鳥居清忠(72/103コマ)
鳥居流五世清峰の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 尋雪斎雪馬(72/103コマ)
大阪の人にて、読本を画けり〟
◯ 鍬形赤子(72/103コマ)
紹意と号す、北尾政美の男〟
◯ 葵岡渓栖(72/103コマ)
葵岡北渓の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 遊馬(72/103コマ)
蹄斎北馬の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 北川周月(72/103コマ)
大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 龍向斎(72/103コマ)
其の伝詳ならず、草双紙を画けり〟
◯ 晩器 東栄(72/103コマ)
以上二人、其の伝詳ならず、長絵、細絵を画けり〟
◯ 玉川春水 石川哥山 寿◎斎東金 春暁斎政信 三木探斎(72/103コマ)
以上五人、其の伝詳ならず〟
【天保元~十四年 1830-1843】(73/103コマ)
◯ 英春(73/103コマ)
大木氏、渓斎英泉の門弟にて、小石川に住めり、錦絵を画けり〟
◯ 英之(73/103コマ)
米花斎と号す、通称源三郎、英泉の門弟にて、麹町を住めり、読本を多く画けりと云ふ〟
◯ 渓斎小泉(73/103コマ)
英泉の門弟、其の伝の伝詳ならず〟
◯ 貞斎泉晁(73/103コマ)
通称吉蔵、英泉の門弟にて、霊岸島に住めり、草双紙、錦絵等を多く画けり〟
◯ 英斎泉寿(73/103コマ)
通称伊三郞、大坂の人、英泉の門弟にて、錦絵、読本を画けり〟
◯ 景斎英寿(73/103コマ)
酒井氏、通称伊三郞、一筆庵と号す、英泉の門弟にて、錦絵、読本等を多く画けり〟
◯ 紫飯斎泉橘(73/103コマ)
通称仙吉、向島に住めり、英泉の門弟にて、自画作の中本を多く出せりと云ふ、筆耕を以て業とせり〟
◯ 山斎泉隣(73/103コマ)
井村氏、桜田に住めり、英泉の門弟にて、多く中本を画けり〟
◯ 嶺斎泉里(73/103コマ)
通称弥六、麹町に住めり、英泉の門弟にて、中本を画けり〟
◯ 文斎(73/103コマ)
磯野氏、名は信春、肥前長崎の人、英泉の門弟にて、自画作の冊子に『長崎土産』ありと云ふ〟
◯ 静斎英一 英得 伸斎英松 英暁(73/103コマ)
以上四人、渓斎英泉の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 喜多川雪麿(74/103コマ)
通称田中善三郎、墨川亭、敬丹舎等の号あり、越後高田の藩士なり、墨亭月麿の門に入りて画を学び、
後に戯作者となりぬ、安政三年十二月五日没す、享年六十歳〟
◯ 逸馬(74/103コマ)
蹄斎北馬の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川広近(74/103コマ)
歌川豊広の門人歟、尚考ふべし〟
◯ 歌川貞秀(74/103コマ)
橋本氏、通称兼次郞、名は玉蘭、また玉蘭斎、五雲亭の号あり、歌川国貞(後に二世豊国)の門弟にて、
最も出藍の妙手たり、亀井戸天神の前に住み、後に深川安宅町に移る、著す所の書多く、中本の挿絵も
亦尠なからず、貞秀頗る気概あり、師の国貞が二世豊国と改名せし時、其の門弟もまた之に倣ひて改名
せしが、貞秀は其の不倫なるを憤り、依然貞秀と号して改めざりきと云ふ〟
◯ 歌川貞重(75/103コマ)
歌川国貞(三世豊国)の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 三世 歌川豊国(75/103コマ)
通称角田庄蔵、初名一雄斎国貞、月波楼、北梅戸、富望山人、桃樹園、富眺庵、香蝶楼、琴雷舎等の数
号あり、また本所五ッ目の渡場に住みて、其の渡船の株式を有するより、五渡亭と号す、これ蜀山人よ
り贈られし所なり、幼時より深く浮世絵を好み、師無くして善く俳優の似顔を画けるを、その父これを
視て、遂に初代豊国の門弟となさしめたり、文化二三年のころ、草双紙の板下を画きしに、出藍の誉れ
頓に世に高くなりぬ、これより年々に発售せる力士俳優の似顔絵、傾城歌妓の姿絵、合巻稗史等の挿絵、
いづれも大に行はれて、其の名、師の豊国にも勝りて世に鳴り、三都をはじめ片鄙の人迄もその絵を賞
しあへりとぞ、天保四年、英一桂(ママ)の門に入りて、英一螮と号し、また香蝶楼と号す、天保十五年の
春、師名を継ぎて一陽斎二世豊国といへり、実は三世なるを、二世といふは故あることなるべし、此の
時何人の詠めるにや
歌川をうたがはしくも名のり得て 二世のとよくに偽の豊国
といへる狂歌あり、また川柳点の狂句に
よしがはびこりて渡場の邪魔になり
これ「よし」は国芳にて、渡場とは国貞が事をいへるなり、此の頃より盛名やゝ衰へしが、弘化二年、
薙髪して名を肖造と改め、嘉永五年、門弟の国政に長女すゞを配して養子とし、わが前名の国貞を譲り、
且亀戸の居を與へて、その身は翌年、柳島に隠居しけり、元治元年甲子十二月十五日没す、享年七十九、
亀戸村光明寺に葬る、法名豊国院貞匠画僊信士、時世の歌に
一向に弥陀へまかせし気の安さ ただ何事も南無阿弥陀仏
(板本リスト二十四作 書名省略)
(本伝は『二代目歌川豊国翁略伝』『浮世絵類考』『浮世絵編年史』『名人忌辰録』等に拠る)〟
◯ 歌川久直 歌川久信(76/103コマ)
以上二人、歌川豊久の門弟か、尚考ふべし〟
◯ 歌川直政 歌川直貞(76/103コマ)
歌川国直の門弟か、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川貞虎(76/103コマ)
通称三之助、五風亭と号す、三世豊国の門弟にて、錦絵を画けり〟
◯ 歌川貞幸(76/103コマ)
五丁亭と号す、横川瓦師の男にて、三世豊国の門弟〟
◯ 歌川貞房(76/103コマ)
五亀亭と号し、橘蝶楼と号す、大阪の人にて、三世豊国の門弟〟
◯ 歌川貞信(77/103コマ)
長谷川氏、大阪の人にて、三世豊国の門弟〟
◯ 歌川貞景(77/103コマ)
五湖亭と号す、三世豊国の門弟にて、美人絵、錦絵を画けり〟
◯ 歌川貞繁 歌川貞綱 歌川貞歌女 歌川貞久 歌川貞広(77/103コマ)
歌川貞章 歌川貞雅 歌川貞兼 歌川貞勝 歌川貞延
歌川貞宣 歌川貞国 歌川貞知 歌川貞猶 歌川貞岡
以上十五人、三世豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川重丸(77/103コマ)
歌川国丸の門弟、一説に広重の門弟とするは非なり〟
◯ 歌川年丸 歌川輝人(77/103コマ)
以上二人、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川勝重 歌川勝之助 歌川勝信(77/103コマ)
歌川勝芳 歌川勝政 歌川勝秀
以上六人、歌川国勝の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川種繁 歌川種政 歌川種清(77/103コマ)
歌川種景 歌川重信
以上五人、歌川国種の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川信一 歌川信清(77/103コマ)
歌川信秀 歌川信与喜
以上四人、歌川国信の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川武光 歌川武重 歌川武虎(77/103コマ)
以上三人、歌川国武の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川芳政(78/103コマ)
一天斎と号す、歌川国芳の門弟〟
◯ 歌川芳勝(78/103コマ)
一勢斎と号す、通称勇助、歌川国芳の門弟〟
◯ 歌川芳玉女(78/103コマ)
一輝斎と号す、国芳の門弟にて、美人絵を画けり〟
◯ 歌川芳丸(78/103コマ)
一円斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳兼(78/103コマ)
一好斎と号し、後に田蝶、また梅月と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳房(78/103コマ)
一宝斎と号す、国芳の門弟、万延元年六月十日没す〟
◯ 歌川芳秀(78/103コマ)
小磯崎氏、一旭斎と号す、初め国芳の門弟なりしが、後に菊池容斎の門に入りて、雪窓と号す、古物癖
ありて、一奇人なり、現今赤阪に住めり〟
◯ 歌川芳満(78/103コマ)
一教斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳鳥女(78/103コマ)
一燕斎と号す、国芳の長女なりと云ふ〟
◯ 歌川芳員(78/103コマ)
一寿斎と号す、国芳の門弟にて、音羽に住めり〟
◯ 歌川芳英(78/103コマ)
一春斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳雪(78/103コマ)
一嶺斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳為(78/103コマ)
一集斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳豊(78/103コマ)
一毫斎と号す、或は一龍斎、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳虎(79/103コマ)
通称は辰五郎、一猛斎、また錦朝楼と号す、江戸の人、中橋松川町に住みて、国芳の門弟なり、よく師
の画風を学びて、多く武者絵を画き、また合巻俳優の似顔をも画けり、国芳の没後その十三忌に当り、
故ありて同門を退けられ、其の後はたゞ孟斎と号して、錦絵を多く画きぬ〟
◯ 歌川芳綱(79/103コマ)
一登斎と号す、国芳の門弟にて、下槙町に住めり〟
◯ 歌川芳貞(79/103コマ)
一素斎、或は一葉斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳鷹(79/103コマ)
一蜂斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳直(79/103コマ)
一盛斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳景(79/103コマ)
国芳の門弟、横浜に住みて、専ら輸出画をかけり〟
◯ 歌川芳盛(79/103コマ)
一光斎と号す、国芳の門弟にて、下谷広小路に住み、後ち池の端茅町に移る〟
◯ 歌川芳梅(79/103コマ)
中島氏、通称藤助、一鴬斎と号す、大阪の人にて、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳鶴(79/103コマ)
一声斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳明 歌川芳重 歌川芳清(79/103コマ)
歌川芳忠 歌川芳形 歌川芳邦
以上六人、歌川国芳の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 呉鳥斎主人(79/103コマ)
其の伝詳ならず、小本の挿絵を画けり〟
◯ 胡蝶庵春升(79/103コマ)
一に蓬莱と号す、錦絵を画けり〟
◯ 玉水(80/103コマ)
京都の人にて、石田玉山の門弟〟
◯ 長谷川実信(80/103コマ)
緑一斎と号す、大阪の人にて、錦を画けり〟
◯ 菱川清春(80/103コマ)
京都の人にて、読本を画けり〟
◯ 目川輝重(80/103コマ)
菱川清春の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 水原玉藻(80/103コマ)
大阪の人にて、石田玉山の門弟なれど、師の画風と違へり〟
◯ 花岡光宣(80/103コマ)
其の伝詳ならず、小本の挿絵を画けり〟
◯ 勝川春斎(80/103コマ)
勝川春英の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 且上老人(80/103コマ)
其の伝詳ならず、『漫画独稽古』といふ板本あり〟
◯ 一筆庵英寿(80/103コマ)
一に英斎と号す、通称酒井伊三郞、大阪の人、渓斎英泉の門に入りて、錦絵、読本を多く画けり〟
◯ 北袋(80/103コマ)
葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 春貞 春栄 長秀(80/103コマ)
以上三人、大阪の人にて、似顔絵を描けり〟
◯ 渓錦斎双鶴 一容斎立政(80/103コマ)
以上二人、大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 尋跡斎雪馬 雪嶠 千万(80/103コマ)
以上三人、其の伝詳ならず〟
【弘化元~四年 1844-1847】(80/103コマ)
◯ 鳥居清峰(81/103コマ)
通称米次郞、鳥居流五代目清峰の養子、世を早うせり〟
◯ 鳥居清国(81/103コマ)
鳥居流五代清峰の男なり〟
◯ 八島五景(81/103コマ)
岳亭春信の男、其の伝詳ならず〟
◯ 六花亭富雪(81/103コマ)
其の伝詳ならず〟
【嘉永元~六年 1847-1853】(81/103コマ)
◯ 二世 歌川国政(81/103コマ)
山下氏、通称勇蔵、長文斎と号す、三世豊国の門弟にて、錦絵を画けり〟
◯ 歌川芳藤
西村氏、通称藤太郎、一鵬斎と号す、三世豊国の門弟にて、武者絵、切組絵を多く画けり、また手遊人
形の衣装歌川をかくに、模様緻密にしてその妙を極めたり、故に世人渾名して、手遊芳藤と云へりとぞ、
本郷春木町に住みしといふ〟
◯ 歌川芳基
一停斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳栄
一猫斎と号す、国芳の門弟、因に言ふ、国芳も一猫斎程芳と変名して、春画を描きし事あれば、此の芳
栄と誤るべからず〟
◯ 歌川芳近
一蓮斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳久
一長斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳春
初名芳晴、一梅斎、また一物斎と号す、国芳の門弟、初め浅草茅町に住み、後ち同並木町に移れり〟
◯ 歌川芳富
一芸斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳里
一葉斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳照
一春斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳延
松本氏、通称次郞、一桂斎と号す、国芳の門弟にて、浅草千束町に住み、陶器画を善くし、錦絵風の人
物を陶器に画けり、狂歌を好みて、遊狸庵都逗美と云ふ、明治二十一二年の頃没す〟
◯ 歌川芳辰
一雷斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳信
一礼斎と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳重 梅之本鴬斎
以上二人、国芳の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川国升
初号貞升、大阪の人にて、三世豊国の門弟〟
◯ 二世 歌川国盛
一麗斎と号す、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川芳虎
笹本氏、通称嘉蔵、大阪の人、国芳の門弟〟
【安政元~六年 1854-1859】(82/103コマ)
◯ 為一
近藤氏、名古屋の人にて、葛飾為一の門弟なりと云ふ〟
◯ 歌政
沼田氏、月斎、また荷物と号す、葛飾為一の門弟〟
◯ 応為
葛飾為一の女なりと云ふ、なほ考ふべし、美人絵を善くせり〟
◯ 北斎
其の伝詳ならず〟
【万延一年間 1860】(82/103コマ)
◯ 湖春亭景松
歌川貞景の門弟、草双紙を画けり〟
◯ 歌川国員 五葉亭広信
以上二人、大阪の人、其の伝詳ならず〟
◯ 芳瀧
中井氏、通称常次郞、大阪の人にて、歌川芳梅の門弟〟
◯ 小信
長谷川氏、大阪の人〟
◯ 梅素玄魚
宮城氏、通称喜三郞、一に梅素亭と号す、浮世絵師にあらざれども、書画の板下を善くし、燈籠の画を
かけり、頗る好劇の癖ありて、団十郎老爺と戯号し、六二連の幹事をなしたり、浅草黒船町に住みしが、
火災に遇ひて、両国吉川町に寓居せり、明治十三年二月病に罹りて没す、享年六十四、時世の狂歌に、
何時に迎が来てもこゝろよく 南無阿弥陀仏六時ごろなり〟
◯ 葛飾為斎
清水氏、通称宗次、酔桜軒と号す、文政四年、江戸本所に生れ、葛飾為一の門に入りて画を学ぶ、向島
に住み、また浅草蔵前に移りて糊口の為めに、扇面、短冊に画きてこれを鬻ぐ、其の画孰れも気韻生動
して、能く師の骨髄を得たり、横浜開港の時、一商売ありて、為斎に得意の絵を描かしめ、之を外国人
に鬻ぎたるに大に喝采を博せしかば、遂に為斎を傭聘して、専らこれに従事せしめ、愈海外輸出の販路
を開きたり、是れ本邦浮世絵の輸出されし嚆矢なりと云ふ、明治十三年、横浜に没す、享年六十歳〟
◯ 春陽亭春子
大阪の人、其の伝詳ならず〟
【文久元年~三年 1861-1863】(83/103コマ)
◯ 二世 歌川国貞
武内氏、名は宗久、香蝶楼と号す、三世豊国の門弟にて、始め梅堂三世国政おいひしが、嘉永五年、師
の長女すゞの聟となり、また師の前名なりし、国貞を譲らる錦絵草双紙を多く画けり、明治十三年七月
廿日没す、享年五十八、亀井戸村光明寺に葬る〟
【元治一年間 1864】(84/103コマ)
データなし
【慶応元年~三年 1865-1867】(84/103コマ)
◯ 歌川国明
平沢氏、十四番組御徒士某の男にて、三世豊国の門弟〟
◯ 二世 歌川国明
平沢氏、通称斧三郎、一鳳斎と号す、初代国明の実弟にして、後出でゝ蜂須賀氏を嗣ぐ、相撲を好みて、
多く相撲の姿絵を画けり〟
◯ 歌川国玉
通称岩次郞、一宝斎と号す、三世豊国の門弟〟
◯ 歌川国孝
一柳斎と号す、三世豊国の門弟にて、柳島に住めり〟
◯ 歌川国歳 二世歌川国信 歌川国魁
以上三人、三世豊国の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 孟斎虎重
永島氏、通称福太郎、竹林舎と号す、歌川芳虎の門弟、錦絵、また手遊画を多く描けり〟
◯ 歌川虎香
歌川芳虎の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 二世 歌川広重
初名重宣、歌川広重の門弟なりしが、師に養はれて家を嗣ぎ、二世一立斎広重と名乗りしも、後故あり
て離縁せり。後年、横浜に往きて、二世広近と号す〟
◯ 歌川重次
初代広重の門弟、其の伝詳ならず〟
◯ 西川祐春
京都の人、読本を画けり〟
◯ 一松斎芳宗
鹿島氏、歌川国芳の門弟にて、武者絵に妙を得たり、明治十四年頃没す〟
◯ 一蕙歳芳幾
落合氏、通称幾次郞、朝霞楼、蕙斎閑人等の号あり、国芳の門弟にして、錦絵を画けり、明治五年二月、
條野採菊等と共に日日新聞を発刊せしが、後これを他に譲れり、其の後は歌舞伎新報の挿絵、また絵入
新聞を画きし外、多く筆を把らず〟
◯ 大蘇芳年
本姓吉岡氏、通称米次郞、後ち月岡雪斎の養子となりぬ、一魁斎、また玉桜楼と号す、歌川国芳の門弟
なりしが、後に画風を変じて一家を為せり、『月百姿』をはじめ錦絵を多く画けり、明治廿五年六月没
す、享年五十四、東大久保村専福寺に葬る〟
◯ 歌川一豊
玉池堂と号す、国芳の門弟〟
◯ 歌川芳仲
一に芳中に作る、国芳の門弟〟
◯ 芳広
国芳の門弟、其の伝は追て記すべし〟
◯ 国清
和田氏、通称安蔵、三世豊国の門弟、本所石原に住めり〟
◯ 国得
三世豊国の門弟、本所松倉町に住めり〟
◯ 国朝
三世豊国の門弟、四谷新宿に住みて、酒屋を業とす〟
◯ 国郷
三世豊国の門弟、尾張町に住めり〟
◯ 国富 国寿
以上二人、三世豊国の門弟〟
【明治元年~三十年 1868-1898】(85/103コマ)
◯ 昇斎一景
錦絵を多く画けり〟
◯ 歌川芳谷 歌川芳州
以上二人、歌川国芳の門弟〟
◯ 豊斎 芳景
後藤氏、通称徳次郞、大阪の人にて、中井芳瀧の門弟〟
◯ 歌川景久 歌川景虎
以上二人、歌川芳景の門弟〟
◯ 豊原国周
荒川氏、通称八十八、一鴬と号す、三世豊国の門弟にて、現今俳優似顔絵の大家と称せらる〟
◯ 楊洲周延 守川周重 蕙洲周春 降幡周里
豊原周義 周季 一楊斎周秀
以上七人 豊原国周の門弟〟
◯ 鮮斎永濯
小林氏、名は徳宜、通称秀次郞、天保十四年三月二十三日を以て、日本橋新場に生る、父を三浦屋吉三
郞といひて、魚問屋を業とせり、永濯は幼時より画を好み五六歳の頃、父と共に混堂に往きて、刺繍せ
る血気の壮夫が肢体を注視し、家に帰りてこれを摸するに、宛も真を見るが如くなりし、十三の時、狩
野永悳の門に入り、五年の後全く師の筆意を得ぬ、此の時大老井伊侯に召されて、五人扶持を賜りしが、
桜田の変ありし後、井伊家を辞し、これより頻りに明人の筆意を学び、心大に悟る所ありて、後に一機
軸を出し、絵本数部を画きて世の喝采を博せり、晩年に肺を患ひて病の床に臥し、明治二十三年五月二
十七日没す、享年四十八
(板本リスト五作 書名省略)
(本伝は『風俗画法』に拠る)〟
◯ 惺々暁斎
河鍋氏、名は洞郁、通称周三郞、在斎、狂斎、狂々斎等の号ありしが、後には暁斎と号す、また晩年に
薙髪して、是空入道といふ、下総古河土井侯の藩士にて幼少のとき、井草国芳の門弟となり、また前村
洞和にも従ふ、長じて後、狩野洞白に就きて学び、後終に一家をなし、殊に狂画に巧みなりき、明治三
年十月、東京不忍池畔に設けられし書画会に臨み、酔に乗じて戯画をものせし為め獄に下り、翌年四月
赦免せらる、此の時、狂斎を改めて暁斎と称す、明治廿二年四月廿六日没す、享年五十九、谷中瑞林寺
中正行院に葬る〟
◯ 三世 一立斎広重
安藤氏、通称徳兵衛、初代広重の門弟にて、初め重政と称せしが、二世広重の離縁せられし後、其の家
に養はれて、終に三世広重となりぬ、然るに自ら二世広重と称するは疑ふべし、明治廿九年没す〟
◯ 歌川春富 歌川春忠
以上二人、歌川芳春の門弟〟
◯ 歌川豊重 二世歌川貞景 栄斎重清
以上三人、其の伝詳ならず〟
◯ 歌川芳艶
通称万吉、始め一栄斎と号し、後ち一英斎と改む、本町二丁目籠屋の男にて、歌川国芳を師とし、草双
紙、看版絵、錦絵を画き、殊に彩色に巧みなりき、弘化の頃、師の国芳より破門せられしも直ちに許さ
れ、嘉永の末年、一雄斎国輝と競争し、共に一枚摺の下絵を画きて、一時世に喧伝せしと云ふ〟
◯ 歌川国輝
岡田氏、通称藤四郎、一雄斎と号す、初名貞重、後に国輝と改む、三世豊国の門弟にて、多く錦絵を画
けり、明治七年十二月十五日没す、享年四十五〟
◯ 仙斎年信
通称信次郎、三世豊国の門弟なりしが、後に大蘇芳年を師とす、出藍の誉れありしも、故ありて芳年に
破門せられ、土州の某新聞社に入、また大阪に住めりと云ふ、明治十九年野頃没す〟
◯ 小林清親
方圓舎、真生楼等の号あり、錦絵、狂画を巧みに描き、殊に『百面相』『百選百笑』等は世に名高し〟
◯ 尾形月耕
田井氏、通称正之助、桜斎、名鏡斎等の号あり、自流にして、錦絵、又は新聞の挿絵を多く画く〟
◯ 井上探景
通称安次郞、小林清親の門弟、錦絵を画く〟
◯ 瀧村弘方 森川寿信
以上二人、其の伝は追て記すべし〟
◯ 蒔田俊親
菊池容斎の門弟にて、魚類の錦絵を画けり〟
◯ 葛飾正久
自ら為一の孫と云ふ、錦絵を画けり〟
◯ 望斎秀月
錦絵、新聞の挿絵を画けり〟
◯ 石斎国保
瀬尾氏、通称文五郎、初名治明、後ち国保と改む〟
◯ 長谷川竹葉
翠軒と号す、三世豊国の門弟〟
◯ 二世 歌川国丸
横山氏、通称近二、一円斎、また菊武と号す、三世豊国の門弟にて錦絵を画かり〟
◯ 蘆原国直
三世豊国の門弟、錦絵を画けり〟
◯ 歌川国久
三世豊国の門弟なりしが、後に師の三女かつを妻とし、柳島に住みて、錦絵を画けり〟
◯ 小林襲明 麗斎春暁 歌川小芳盛 梅盛香得 深沢竹斎 小林栄成
梅花園春香 保明 保一 梅樹邦年 華明
以上十一人、其の伝は追て記すべし〟
◯ 歌川国利
山村氏、通称清助、梅寿と号す、三世豊国の門弟〟
◯ 伊藤静斎
芳村、また蘭渓と号す、国芳の門弟〟
◯ 土佐光
新聞の挿絵を画けり〟
◯ 歌川艶豊
市場氏、歌川芳艶の門弟〟
◯ 歌川艶政 歌川艶長
以上二人、歌川芳艶の門弟〟
◯ 宗政
一松斎と号す、一松斎芳宗の門弟〟
◯ 宗久 宗成 宗兼 宗正
以上四人、一松斎芳宗の門弟〟
◯ 幾丸
一交斎と号す、武田氏、一蕙斎芳幾の門弟〟
◯ 幾勝 幾年
以上二人、一蕙斎芳幾の門弟〟
◯ 梅雪 梅英
以上二人、大阪の人にて、歌川芳梅の門弟〟
◯ 梅堂政信 梅莚政貞 梅堂政久 梅章国雪
以上四人、二世歌川国貞の門弟〟
◯ 梅堂小国政
梅堂国政の男、豊原国周を師とす、日清戦争画数百番を画きて、一時大に行はる〟
◯ 帰誠松山
早川氏、惺々暁斎の門弟〟
◯ 一笑斎房種
村井氏、通称静馬、一瓢斎とも号す〟
◯ 種員
一笑斎房種の門弟〟
◯ 鳥居清満
通称亀二、鳥居流五世清峰の男、天保三年十二月十四日十四日生る、初め清房と称せしが、後ち鳥居家
六世を相続して、清満と改む、明治二十五年八月十九日没す、浅草南松山町法成寺に葬る〟
◯ 鳥居清貞
斎藤氏、通称長八、蝶蜂と号う、六世清満の門弟にて、現今劇場明治座の奥役を勤む〟
◯ 鳥居清種
六世清満の門弟、劇場の番付を画けり〟
◯ 香蝶楼国貞
其の伝は追て記すべし〟
◯ 応斎年方
水野氏、大蘇芳年の門弟〟
◯ 二世一松斎芳宗
鹿島氏、通称周次郞、初代芳宗の末男にて、大蘇芳年の門に入り、年雪と号せしが、明治十五年八月、
亡父の名を継ぎて、二世芳宗と改めぬ〟
◯ 稲野孝之 赤井恒茂
以上二人、稲野年恒の門弟〟
◯ 歌川国房
大竹氏、名は政直、一柳斎と号す、三世豊国の門弟にて、本所に住み、後ち四谷に移る〟
◯ 丸山英重 松田釣月 関根秀水 小林景信
小島勝月 石塚空翠 邦寿 尚宣〟
以上八人、其の伝は追て記すべし〟
◯ 尾形耕一
山村氏、名は清助、月耕の門弟、錦絵を画く〟
◯ 坂巻耕漁 繁岡耕晴
以上二人、尾形月耕の門弟〟
◯ 幾飛亭幾英
小林氏、通称英次郞、芳幾の門弟にて、錦絵を画けり〟
◯ 東洲勝月
小島氏、名は勝美〟
◯ 揚堂玉英
鍋田氏、楊洲周延の門弟にて、団扇絵を画けり〟
◯ 玉亀
玉英の門弟〟
◯ 歌川豊宣
香蝶楼と号す、三世豊国の孫にて、歌川国久の二男なり、現今は大阪朝日新聞社に在りと云ふ〟
◯ 二世梅章国雪 兼彦
其の伝は追て記すべし〟
◯ 楊斎延一
楊洲周延の門弟、錦絵を画けり〟
◯ 二世仙斎年信
田口氏、名は勝洗、初代年信の門弟、大阪に住めり〟
◯ 二世一光斎芳盛
其の伝追て記すべし〟
◯ 三世一光斎芳盛
正木氏、通称福松、はじめ歌川国晴と云ふ、二世芳盛の門弟にて、錦絵を画けり〟
◯ 旭斎年景
大阪の人にて、大蘇芳年の門弟〟
◯ 玉容年種
尾崎氏、名は兼吉、芳年の門弟にて、七宝焼の下絵を善くせり〟
◯ 春斎年昌 亭斎年参 南斎年忠 筒井年峰
大月年光 陽斎年貞 年英 年隆
年甲 年芳 年季 静斎年一
年晴 年麿 年次 年豊
年明 年延 年広 年章
年茂 年之
以上廿二人、大蘇芳年の門弟〟
◯ 梧斎年英
右田氏、通称寅彦、芳年の門弟にて、新聞挿絵を画けり〟
◯ 年挙
桂氏、通称荘助、芳年の門弟〟
◯ 年人女
画工柴田芳洲の妻にて、芳年を師とす〟
◯ 年秀
初代信秀の門弟〟
◯ 松斎吟光
安達氏、通称平七、はじめ松雪斎銀光と云へり〟
◯ 富岡永洗
通称秀太郎、藻斎と号す、鮮斎永濯の門弟〟
◯ 山本永興 富田秋香
以上二人、鮮斎永濯の門弟〟
◯ 蓬斎春汀 章斎洗玉 洗耳
以上三人、富岡永洗の門弟〟
◯ 歌川広国
浅井氏、京都の人〟
◯ 歌川芳秋
阪本氏、京都の人にて、歌川国芳の門弟〟
◯ 藤原信一
初代歌川年信の門弟、新聞の挿絵を画けり〟
◯ 中川蘆月 歌川広貞
以上二人、大阪の人〟
◯ 野村芳国
京都の人にて、歌川国芳の門弟〟
◯ 笹木芳光 木下広信 南斎春香
以上、其の伝は追て記すべし〟
◯ 露木為一
葛飾為一の門弟なりと云ふ〟
◯ 国道
三世豊国の門弟〟
◯ 信房 信貞
以上二人、歌川国信の門弟〟
◯ 永洲
歌川芳洲の門弟〟
◯ 永多代 永千代
以上二人、永洲の門弟〟
◯ 珠雀斎
其の伝詳ならず〟
◯ 芳彦 芳柳 芳仙 芳桐
以上四人、歌川国芳の門弟〟
◯ 義松
芳柳の男〟
◯ 羽山芳翠 山本芳翠 月柳 柳祥
柳静 芳斎 柳秀 柳雪
柳義
以上九人、芳柳の門弟〟
◯ 芳峰
歌川芳梅の門弟〟
◯ 春中
歌川芳春の門弟〟
◯ 州勢
歌川芳州の門弟〟
◯ 文延
歌川芳延の門弟〟
◯ 谷郷
歌川芳谷の門弟〟
【年時不詳の人】
◯ 浮世正蔵
元禄の頃の人なるべし〟
◯ 菱川和翁 立好斎 柳川 兆斎月亭
長園斎栄深 栄江
以上六人、其の伝詳ならず〟
◯ 晴雲斎東山 遠浪斎重光
以上二人、其の伝詳ならず〟
◯ 鄰松
天明年間の人なるべし〟
◯ 花川亭富信
嘉永年間の人なるべし〟
◯ 北嶺
函館の人、為一の門弟か、なほ考ふべし〟
◯ 春久 きし直 春勢 宗運
清種 清方
以上六人、文化年間の人なるべし〟
◯ 保之
其の伝詳ならず、『明月清譚』の挿絵を画けり〟〈森川保之〉
◯ 為説斎雪間
其の伝詳ならず、『絵本口之碑』を画けり〟
◯ 黒山
『絵本鬼娘伝』の挿画を画けり〟
◯ 弥四郎
其の伝詳ならず、『雛形春日山』を画けり〟