Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
画人伝-明治-日本帝国美術略史稿浮世絵事典
 ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション所収)※半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画(158/225コマ)    菱川師宣、宮川長春各々、又当代に妙趣を挙げしもの、師宣は穏雅の筆、麗美の色光起に譲らず。長春    の筆自在を得たるは尚信常信に下らず。殊に彩色に於ては濃淡を交へて巧に余色を組み合せ、配合上妙    に艶美を顕はすことは殆んど古今此の人に上に出づるものなきが如し。凡て配色の点は此の元禄の時代    に於て実に巧妙の極に達したるものと云ふべきなり〟   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(166/225コマ)    岩佐又兵衛    名は勝以、荒木摂津守村重の末子なり。村重信長に仕へて屢々軍功あり、摂津の大守と為り、伊丹城に    居る。後ち信長の命に畔(そむ)く。信長父子城を攻むること数年、村重委し(委(す)て?)て之れを去り、    尼崎に奔(はし)りて自殺すと云ふ。此の時又兵衛纔に二歳、乳母之れを懐きて京都の本願寺に潜居し、    外戚に因りて姓を岩佐と改む。性丹青に耽り、研究多年、遂に妙手と為り、土佐狩野宋元彩色画の特長    を湊合して、世態風俗を写し、別に一家を成す。世之を称して浮世又兵衛と云ふ。信雄亡ぶるの後ち漂    泊して越前福井に寓す。此の時に有りて名声籍甚、又兵衛を知らざるもの無きに至る。三代将軍家光其    の能工なるを聞き、召して武城に到らしむ。慶安三年六月二十二日武城に卒すといへり。彼の武蔵国入    間郡仙波村喜多院中、東照宮の拝殿に掲ぐる所の三十六歌仙の扁額は、実に疑ふべくもあらざる又兵衛    の真筆にして、裏面には朱漆もて 寛永拾七庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流 岩佐又兵衛尉勝以    図すとあり。        岩佐勝重(166/225コマ)    通称を源兵衛と云ふ。又兵衛の子なりと云ふ。当時の風俗を写し曲(つぶ)さに其の妙を極む。越前侯為    に月俸を賜ふ。寛文年中福井城鶴の間椙戸に画くと云ふ    菱川師宣(166/225コマ)    友竹と号し、吉兵衛と称す。房州の人、家世々縫箔を以て業となす。年少うして江戸に移り、初め専ら    縫箔の図を画けり。其の師承する所詳ならざれども、或は岩佐又兵衛の画風を慕ひ、或は土佐狩野の筆    意に傚ひて、遂に一家を成し、善く当時の邦俗美人を写し、艶体柔情、一見能く人心を動かせり。能画    を以て名を江湖に馳す。夫の観花の図、演劇の図、花街の図、遊山舟遊等、其の写す所少なからず。又    師宣の筆に成る絵本多し。異郷の人江戸と称して印本の画を翫ぶは此の人に起因すといふ。正徳年中没    す。年七十余。其の子師房、師永等、父に学びて其の風を画けり     劇場画巻 帝国博物館蔵     此の画巻は数年間に画きし大作にして、遊廓劇場等の図十数段あり。こゝに出だしゝは演劇の図なり    友禅(167/225コマ)    京都の人なり。祇園町に住す。浮世絵に巧みにして、古風の雅趣を取りて今様の新致を写し、自ら一派    を成せり。或は扇面に或は畳紙(たとうがみ)、或は衣服に画き、或は墨画を以てし、或は彩色を施すも    のありて、之れを水に浸し洗ふも彩色の剥落すること無し。世之れを友禅模様と称して、都鄙遠近を論    ぜず、貴賤男女を問はず、争ひ求むるに至れり。是に於て染工等友禅の画を得、又は其の画を写して之    れを染出し、竟に友禅染の名あるに至れり。天和より宝永間の人なり。    懐月堂(167/225コマ)    正徳享保頃の人にして、江戸に住し、一種勇健なる線を以て美人画を作る。其の彩色模様亦単純にして    雅致あり。但図様は常に一人又は数人の美人にして変化を見ず。其の伝記は詳ならずして、落款には度    繁又は安知と記するを見る。別人とすれば着色等、度繁の方勝れたるが如し     鳥居清信(167/225コマ)    初め京都に住し、後ち江戸に移る。鳥居派の祖にて、初め菱川の画風に法(のっと)りて画き、後ち勇健    なる筆を以て、人物の如き、円く肥えて穏雅なる風貌を画き、自ら一家を成せり。爾後劇場の招牌(か    んばん)は多く鳥居風を以て画けり。又墨画丹画などの摺物を出だして世に行はれたり。享保の頃を盛    とす。其の弟清倍、清倍の子清満又相継ぎて鳥居風を画き、多くの摺物を出だせり    阿龍(167/225コマ)    阿龍は江戸の人、山崎文右衛門といへるものゝ女にして、天性がを好み、遂に浮世絵の名手と為る。人    呼びて阿龍絵と称す。享保の頃の人にして、其の画菱川師宣の風ありて、図様意匠の巧みなるもの多し    宮川長春(167/225コマ)    尾州宮川村の人なり。江戸に移住し、狩野の筆を習熟し、菱川師宣の画風を慕ひ、或は岩佐の画題に依    り、専ら当時の風俗男女遊醼の状を写せり。采筆優美にして野ならず。その配色の妙に至りては匹儔    (匹敵すること)殆んど稀なり。世之れを賞翫して名手と為すも亦宜(むべ)ならずや。款に記して曰く、    日本絵宮川長春と。寛保二年正月元旦画く所の自画像に六十一歳とあり。享保より元文頃を以て盛んの    時とす。其の子春水も父の風を襲(つ)ぎ、後ち勝川と改む    奥村政信(167/225コマ)    江戸通塩町に住し、書肆を以て業と為し、傍ら浮世絵を能くし、自ら日本絵師と号す。美人画又鍾馗武    者等を画く。後ち浮世絵(ママ 浮絵)といへる遠近法に由れる名所の図、或は富士牧狩の絵等を梓に上    (のぼ)して、大に行はる。此れ蓋し紅絵の始めなり。享保前後の人なり    西川祐信(167/225コマ)    京都に住す。初め画を狩野永納に学び、後ち浮世風俗画を専らとし、世に西川流と称し、享保より寛延    の間大に世に行はる。其の筆意骨法狩野土佐の二流を参酌して、多く美人画を作る。賦色娬媚、筆情優    美にして、其の画趣に自ら当代昌平和楽の風貌を具へたり。版物肉筆共に多く、実に浮世絵師の大家と    云ふべし    石川豊信(167/225コマ)    秀葩と号す。有名の狂歌師六樹園飯盛の父なり。業を西村重長に受く。宝暦の初め画く所の紅絵多し。    豊信生涯娼門又は酒楼に遊あず。然れども能く其の趣を解し、当時男女の風俗を写せり    鳥居清長(168/225コマ)    江戸の人、鳥居風を学び、清満の弟子となり、劇場の招牌(かんばん)を画き、又彩色摺の一枚絵、又絵    本等、世に行はる。安永に至りて名声頓に昂(たか)く、多くの弟子其の門に集り、浮世絵の巨擘と称せ    らる    鈴木春信(168/225コマ)    業を西村重長に受けて画を能くす。時に略暦大小を印刷すること大に行はる。是れによりて種々の工夫    を凝らし、明和の初めより吾妻画を画き出して、遂に今の錦絵と称する開祖となれり。春信の未だ出で    ざる前、正徳享保の頃に方(あた)りては、俳優の肖像等概ね紅のみを以て着色せしが、春信に至り始め    て多数の色を摺り合せ、又「フキボカシ」「カラ摺」をも創意するに至れり。春信俳優を賤しみ、其の    肖像を画くを屑(いさぎよ)しとせず、自ら日本絵師と称して、多く当代美人を真写し、又各種の風俗画    を作れり    月岡雪鼎(168/225コマ)    大阪に住し、和漢の画を学び、一変して専ら邦俗美人を画く。力を写生に用ゐ、殊に彩色に巧なり。天    明六年七十七にて没す    勝川春章(168/225コマ)    始め勝宮川と称す。筆姿艶美にして各種の美人画を能くす。又明和年中俳優の面貌を写し、大に世に行    はる。又其の筆に成る画本錦画夥しく世に刊行せられたり。此の時に方(あた)りて彩色摺大に発達し、    歆厥(ママ)師摺師共に精巧を極め、吾妻絵として海内の名産となるに至れり。門人頗る多く、春好、春英    等世に知られたり    〈「歆厥師」は正しくは「剞劂師」か、いわゆる「彫師」〉    磯田湖龍斎(168/225コマ)    江戸薬研堀に住す。浮世絵を好みて西村重長の弟子となる。明和より安永に亘り、鈴木春信に次ぎて版    物画を画き、多く柱かくしと云へる細長き懸物画を出だし、丹及び青色を用ゐて彩色せり。後ち浮世絵    廃し、法橋に叙せられ、肉筆画を専らとなせり    歌川豊春(168/225コマ)    当時の風俗を画き一家を為せり。采筆精美にして種々心匠を凝らし、許多(あまた)新奇なる図様を描出    せり。寛政中日光山堂宇修繕の事あり、豊春諸工の長となり、此の事を担当せしと云ふ。安永天明の人    なり    喜多川歌麿(168/225コマ)    初め狩野の画風を学び、後ち鳥山石燕の門に入りて研究し、天明頃よりは専ら鳥居清長の風を慕ひ、遂    に名手となる。当時男女の婉美繊麗なる風俗を写し、又始めて巧なる印象的の風景をも写し出だせり。    其の筆に成る錦絵類夥多刊行せらる。実に当代第一流の画工となれり。其の没年詳(つまびらか)ならざ    れども、文化七八年の頃なるべし    細田栄之(168/225コマ)    初め狩野栄川に学び、浮世絵を画くに及びて文龍斎に従ひ、又鳥居の画風をも慕ひ、遂に其の文字を取    りて鳥文斎と号す。寛政中の人、画く所の傾城美人等の図は、其の容姿繊美にして、歌麿の作に似たり    窪俊満(168/225コマ)    狂歌を善くし、又好みて稗史(はいし)を作る。画を揖(ママ)取魚彦に学び、後ち浮世絵を北尾重政に学び    て、寛政の頃多く狂歌の榻本(とうほん)を画く、頗る奇趣あり。俊満もと左筆に巧なりしと云ふ    〈「稗史」は民間の小説。この場合は黄表紙。「榻本」は摺本の意味〉    石田(ママ)玉山(168/225コマ)    大阪に住す。月岡雪鼎の門人なり。近世版刻画の名手にして、殊に密画に長ぜり。人物花鳥山水共に善    くせざるはなし。絵本太閤記、唐土名所図会の類大に世に行はる。文化九年七十六にて没す    〈岡田玉山の誤記〉    勝川春英(169/225コマ)    勝川春章の画風を学び、寛政享和中多く錦絵並びに俳優の肖像を画きて発行せり。自然一家の筆意を顕    はす、称して九徳風と云ふ。彩色の画帖等数種世に行はる。第一世豊国亦此の人の画風を慕へり    鍬形蕙斎(169/225コマ)    又北尾政美と云ふ。狩野家の筆意を学び、又光琳或は芳中の画法を慕ひ、略画式の著あり、大に世に行    はる。近世薄彩色画手本は此の人より大に流行せり。寛政八年美作松平家の藩に列せられ、此れより図    書を板刻することを止め、専ら肉筆画に従事す。最も意匠に長じ、種々の新案を出だし、又能く人物鳥    獣の特性と其の情致の変化とを究め、これを数抹(ママ)の略筆に表はせり。実に光琳一蝶以後画道の創意    者と謂ふべし    歌川豊国(169/225コマ)    一陽斎と号す。歌川豊春に就きて浮世絵を学び、又英一蝶の筆意を慕ひ一家をなす。殊に俳優の肖像を    画くに妙を得、或は美人時世の嬌態を写し、印本彩画諸国に流行し、内外人之れを求む。此に於て豊国    の名声一時に盛なり。門人亦良工に乏しからず。文政八年五十七にて没す    歌川豊広(169/225コマ)    一柳斎と号す。一家の画風を為し、草筆の墨書を上梓して俗に張交書と称す。又豊広一代の絵本頗る多    し。文政十一年頃に没す    葛飾北斎(169/225コマ)    初名は春朗、後ち宗理と更め、又北斎、辰政、載(ママ)斗、卍老人と更む。勝川春章の門に入りて業を受    け、又竊(ひそ)かに狩野某に就きて画報を学び、又堤等琳の画を慕ひ、又司馬江漢に就きて西洋画をも    研究せり。彼れが筆の勁健なるは、多くは等琳より得たる其の画組雪舟の筆意に由れるもの、又其の画    の写実なるは江漢を学びしものにして、又其の緻密なる図立(ママ)の法は、全く明画を傚へるものなり。    北斎天縦の異才と多年の苦学とを積みて、自家特得の画風を創し、運筆縦横、意匠豊富、生活上の実況    を始め宇宙の万般の諸顕象を曲写し、一々其の妙を尽さざるはなし。寛政享保(ママ享和か)の間、稗史    (はいし)小説の著作を兼ね、文化に亘りて多く馬琴等が著作の挿画を画く。当時其の門に遊ぶもの極め    て多く、其の弟子の夥多なる為め、一々臨本を与ふるに遑あらざるが為め、画手本数十部を刻せり。北    斎の名声遂に遠迩に馳せ、蘭人の需(もとめ)に応じて万年数百幀を画き、以て其の国に贈るい至る      玉川図(第百九十二図)東京 本間耕曹蔵     本邦の名所中に六所の玉川ありて、何れも風光絶佳、古今の人の吟詠少なからず。一は陸奥に、一は     紀伊に、一は山城に、一は武蔵に、一は近江に、一は摂津にありて、各々其の景物によりて著はる。     茲に掲ぐるものは六景中の二景にして、北斎の筆になれり。用筆勁健、色彩鮮麗、北斎中亦有数のも     のなるべし    〈「稗史小説」は民間の小説、この場合は黄表紙を云うか。「遠迩」は遠近(おちこち)と同義〉    安藤広重(169/225コマ)    初め岡島林斎に就きて狩野風を学び、後ち豊広の門に入りて浮世絵を学びて、殊に彩色の風景画に巧な    り。東海道五十三次、都(ママ江戸か)名所百景等を上梓して、大に世に行はる。遠景写法の妙に至りては    他画工の及ばざる所なり。安政五年六十二にて没す    歌川豊国(170/225コマ)    三代目豊国なり。香蝶楼又は五渡亭と号す。二代(ママ初代)豊国の門人にて、俳優歌妓の似顔など巧に其    の性癖風情を穿(うが)ち、錦絵又は団扇に画き、大に世に行はる。又多く小説の挿画を写す。田舎源氏    の如きよく細かに当代貴族社会の風俗室内装飾等を真写せり。元治元年七十九にて没す    歌川国芳(170/225コマ)    一勇斎と号す。豊国の門人にて、文政の初めより次第に其の名を顕はし、筆力勇健にして、忠臣蔵銘々    伝、三国英勇画伝など続きものゝ錦絵大に世に賞せらる。頗る意匠に富み、図立に新奇を弄せり。文久    元年没す。年六十五〟