Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ とりいは 鳥居派浮世絵師名一覧
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 享保十年(1725)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享保十年刊)    鳥居風『けいせい筑波山』画工不明 鳥居風 八文字屋八右衛門板    ☆ 享保二十年(1735)    ◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」(享保二十年の赤本)    鳥居画『苅萱桑門』署名「鳥居筆」    〈解題、享保二十年三月、大坂豊竹座初演『苅萱桑門筑紫◎』による作品とする〉    ☆ 明和四年(1767)    ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①353(明和四年九月刊)  〝詠東錦絵    忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿〟    〈紅摺絵の鳥居から錦絵の春信時代へ浮世絵の主役は移っていった様子〉    ◯『半日閑話 巻十三』〔南畝〕⑪396(安永五年一月明記)  〝今年より鱗形屋草双紙の絵并に表紙の標書ともに風を変ず。表紙の上は例年青紙に題号をかき、赤き紙    に絵を書きしが今年は紅絵摺にす。〈注あり、省略〉絵も鳥居風の絵を変じて、当世錦絵風の絵となす〟    〈安永四年刊『金々先生栄花夢』(恋川春町画作・鱗形屋板)の出現より、青本の作風・画風とも一変して黄表紙の時     代に入る。今年は草双紙の古風を守っていた表紙の体裁も変わった。次項もそうだが、鳥居派といえば誰しも紅摺絵     ・黒本・青本を連想するのだろう〉    ☆ 天明元年(安永十年・1781)    ◯『菊寿草』〔南畝〕⑦232(安永十年一月刊)   (地本問屋鱗形屋の変遷を書いた狂文「北条の三鱗を一寸と葛西の太郎月」の中に)  〝青本々々ともてはやされ、かまくらの一の鳥居のほとりに住居し、清信きよ倍清満などヽ力をあはせ、    年々の新板世上に流布す〟    〈これは安永四年以前、鳥居派全盛の黒本・青本時代のこと。「かまくら」とは黄表紙の通例で江戸を指す〉    ☆ 寛政年間(1789~)    ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱441(寛政十二年五月以前記)   〝鳥居庄兵衛 【元禄十年の板、好色大福帳五冊/絵師の名なり】    鳥居清信  【庄兵衛は元祖清信俗称也。鳥居/庄兵衛清信と書たる絵本おほし】    弟子同清満 同 同清倍      同 同清経 同 同清長    鳥居清信は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川のごとき昔風の風俗なりしが、中比より絵風を書かへ    しなり。此のち絵風さま/\に変化せしかども江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事也。清満、清信<ママ>    清経とも一枚絵、草双紙をかけり。清長は俗称新助。近頃錦絵彩色の名手なり〟    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   鳥居派系図    ☆ 享和二年(1802)     △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年(1802))〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝青本 鱗形屋山本の本、おびただしく売れる。一代記・敵討・武者絵本等にたまさかに序文有    〈鱗形屋孫兵衛・山本九右衛門は共に江戸の地本問屋〉    同  赤本、青本、黒本、三色の双紙ならび行はるゝ    画工 富川が絵の風は鳥居に似てすこしかはる    同  豆絵といふもの、富川、鳥居より始まる    作者 玉屋新兵衛、桶伏の本、草双紙の大当り    〈桶伏(遊郭の代金を払えない客に対する私刑。伏せた桶の中に入れて人目に晒す)の新兵衛に差し入れをする小女郎、     これを草双紙化したもののようであるが未詳〉     〝青本 赤本は此節絶ゆる。青本新板として黒本は古板と称す    同  青本に彩色摺の外題をはりて鱗形屋より始めて新板    画工 鳥居清満、同清経、同清長、北尾重政、いづれも同じ絵風にて、少しづつの変りあり    同  鳥居家の風、清経よりはじめて、少し当世に移る。此頃の書入文句に野暮なる洒落混る    作者 喜三二、通笑つくる。恋川春町一流の画を書出して、是より当世にうつる〟    ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕    ◯鳥居氏      初代 鳥居庄兵衛清信 難波町              元禄十年板好色大福帳五冊の画者              四座歌舞伎看板画の名人にして、元禄・享保の頃の人なり
     鳥居清倍 子       同 清重 清重軒      同 清信 三男      同 清忠      同 清倍 初代庄兵衛ノ婿 同 清満 亀次郎      同 清長         同 清経 大次郎    同 清広 七之助      同 清峯         同 清政        同 清久    鳥居清長(ママ信)は江戸絵の祖といふべし。はじめは菱川の如き昔絵の風俗なりしが、中比より絵風を書    かへしなり、この後絵風さま/\に変化せしかども、江戸歌舞伎の絵看板は鳥居風に画く事なり、清満、    清倍、清経とも一枚絵・草双紙をかけり、清長は俗称新助、近頃錦絵彩色の名手なり〟    ☆ 文化八年(1811)    ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(式亭三馬・四月朔記)   〝鳥居庄兵衛清信は、当時鳥居清長の元祖なり、     元祖清信  男二代目清倍  三代目清満  四代目清長(清満の門人)     清重といふものは、清信門人     清経といふものは、清満門人 清長と同盟なり    清信の家は、今和泉町ぬひはくやなり、清信の孫鳥居清峰、これ則ぬひはく屋の男、清長門人なり、存在    おなじ和泉町に住る鳥居清元といふ画工は、清満門人なれども、晩年の弟子故、後に清長に随従す、存在    清長は本材木町新肴場に住り、家主にて、鳥居市兵衛清長、予と懇意〟    ◯『放歌集』〔南畝〕②172(文化八年十二月賦)  〝題古一枚絵     北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才 風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈紅摺絵時代の奥村派と鳥居派の隆盛を賦す。この一枚絵は吉原の遊女。鳥居派項参照〉    ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 大明神様鳥居の筆で出来  「柳多留55-6」文化8【川柳】注「浜村屋大明神路考」     〈三世瀬川菊之丞。文化七年没。芝居の絵看板、この鳥居は清長であろうか〉   2 稲荷から出世鳥居の筆にのり「柳多留75-17」文政5【川柳】注「稲荷は下級役者」     〈今や出世をして鳥居清満の絵看板に画かれるようになったと〉  ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)       〝三馬按、清信ハ元祖庄兵衛一人ニ限レリ。此事委ク別記ニ禄ス〟  〝三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ      元祖  庄兵衛清信      四代  清長  清満門人也      二代  清倍  清信男也   五代  清峯  清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。      三代  清満  清倍男也   三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵ヲ相続     セリ。其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番附絵、看板ヲ     画ク。是即三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ〟    ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝芝居 鳥居家のひやうたん足の看板に鯰坊主も見ゆるかほみせ〟  ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕⑧166(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「人形樽」の考証)   〝此画鳥居風とみゆ。然らば元禄頃の絵なるべし。或人のかけるものに此図を出して、延宝、天和頃の刷 行といへるは非ならん。ひら包などにて包みたる形人形のやうなれば、是を人形樽といふべし〟   ◯『紙屑籠』〔続燕石〕③72(三升屋二三治著・天保十五年成立)   〝絵師鳥居    江戸三芝居看板の絵師鳥居流と世に残す、筆法三ヶ津に無之、画風今に残して、江戸の花といふ。     元祖清信 二代目清倍 三代目清満【当代清満祖父】・四代目清長【新場に住す】     五代目清満【清長の門人、清満の孫】〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
   「鳥居清信系譜」     〝鳥居流の絵は江戸大芝居看板番附を画きて一派とせり 今猶画風を不改、古き草双紙に狂言を写し言葉    書きを加へしは鳥居流の絵なり    俗に鳥居の瓢箪足と云て敵役勇士の手足ひやうたんの如くに画くを元祖清信の頃より行れたるものなる    べし    芝居看画にはさま/\故実あるよし也。追て別記くはしく出せり        〈月岑補〉豊芥所蔵 河竹某改清川重〈シゲ〉春(前の鳥居清種)記抜文略    元禄の始京〈キヤウ〉より江戸に下りし鳥居庄兵衛清倍〈イ信〉とて元祖也。以前は哥川流の如き似顔    に工にして、別て市川団十郎の面を似せたり。此頃の酒杯〈サカヅキ〉に似顔面の行るゝ事今の絵猪口    の如し。    二代目清倍〈マス〉三代目清満の弟子に清広清春なんど皆名代とはせり。早世にして書残せるもの少か    りき。四代目に至て女子なれば也。此女子に聟を取、上絵師にて松屋亀次といへり。亀次一人の児を得    て庄之介とよべり。しかるに新場の煙草店寺本某の家守にて本屋を業とせる白木や市兵衛といへるもの    ゝ忰絵を好て三代目清満の門人となれるを、鳥居を継しめて清長と号し四代目と成る。又前の庄之介此    清長に学び五代目となり清(アキ)と号す。絵に工にして名人の聞へあり。    又云、鳥羽僧正のをはせし鳥羽寺〈デラ〉に住る僕の絵を好み、後彼寺を出けるか、鳥羽寺に居れる心    にて鳥居とはなづけける。神社に立る鳥居の心にはあらずとぞ。此説如何あらん信じがたし〟    ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第三十二編「雑劇下」p554   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝絵看板も其古風を見すと雖も、必ず昔は江戸の如く鳥井流等の画風なるべし。今は極彩色にて浮世絵師    之を画く、人形大略尺計山水館舎等全く画けり。浮世絵師平日は役者肖像を専とすれども、看板には多    く肖像を画かず。稀には肖像にも画也。釣看板絵看板ともに人形惣身の中、何れになりとも一所役者の    紋を付け、誰は某に扮すと見易からしむ。絵には紋唐藍にて画く〟       〝江戸芝居の絵看板の始めは、享保中、浮世絵師の名ある鳥井清信の門人二代目清信、始て四座の看板を    画き、其門人清長より今に至る迄、祖流を伝へたる鳥井某と云、之を画くのみ。三座の看板及び番付絵    を描き画風を変すること之無し。看板の形は中村座図に画く如く竪長にて、形亦新法を用ひず。縁など    も京坂の如く美ならず。毎時中の絵をかき改むるのみ也。鳥井風の絵彩色も京坂の如く精美ならず。家    居草木必用のみを画き、或は画かず人物のみを専とす。蓋人物に役者定紋を描くことは前に同じき也。    又名代看板と云て、京坂一枚看板に似たる物あり。上に眼目とすべき狂言の図を画き、下に外題を墨書    す。三都ともに此看板に出るを役者の名誉規模とすることなり〟    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪193(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝鳥居清信ハ江戸絵ノ祖ト云フベシ。初ハ菱川ノ如キ古風ナリシガ、中頃ヨリ画風サマ/\ニ変化セシカ 共、江戸歌舞伎ノ絵看板ハ鳥居風ニ画ル也。〔割注 今按(〈無名〉の添え書)ニ、鳥居風ヲナクス也〕 清満、清倍、清経、共一枚絵草双紙ヲ画リ。三代目清満ノ実子ハ、画ヲ不学シテ縫箔ヲ業トシ、和泉町 ニ住ス。仍之清長姑ク看板画相続セリ。其縫箔屋ノ倅アリテ清長門人トナリ清峯ト名乗、是五代目清満 ト改メテ、三芝居看板番付ヲ画ク。是三代目清満ノ為ニハ実孫也〟    〈「〈無名〉」は渓斎英泉の『無名翁随筆』をいう〉  ◯『扶桑画人伝』巻之四 古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝清重 清定 清之 清勝 清広 清時 清次 清忠 清久 清政    各々鳥居家代々ノ門人ニテ俳優ノ似顔或ハ劇場ノ看板ヲ画ケリ〟    ◯『葛飾北斎伝』p89(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝鳥居は、庄兵衛清信を祖とす。元禄正徳年間の人なり。此の人歌舞伎の画看板をかきて、大(おおい)    に賞せられしより、二代清倍(きよます)、三代清満、四代清長【清満門人】、五代清峰、六代清満、    世々相継ぎ、今に至るまで、画看板を画く。其の人物を画くに、手足太くして、恰(あたかも)瓢簞    (ひようたん)の形の如し。故に専門家は、其の足を指して、鳥居の瓢簞足といふ〟  ◯『集古会誌』巻之二(林若吉著 集古会 明治三十六年五月刊)   「雑簒 家蔵の絵幟 清水晴嵐」   〝(竪五尺四寸 巾一尺八寸 紙幟 和藤内の虎退治の図)    爰に掲ぐる紙のぼりは、先年千住に住める花光といふ友より得たる物にて鳥居風の板行絵なり。或人此    絵を鑑定して鳥居二代清倍の画きしものなりといふ。されど迂生の見る所にては同三代目清満の筆なら    んと考ふ。或は此紙幟江戸のものにあらで 近年迄残りありし地方のものならんと思はるゝ人もあらん    が 田舎の紙幟の絵は今の凧絵の如きものにて鳥居風のものにはあらず。慥にこれは江戸のものたるは    疑なし。而して仮りに清満の絵とすれば、享保以後天保以後天明以前のものにして、清満は天明五年に    没す 漸々に衰へ行きし紙幟の残り物なるべし〟〈迂生は小生と同じ〉  ◯「集古会」第五十七回 明治三十九年(1906)三月(『集古会誌』丙午巻三 明治39年5月刊)   〝林若樹(出品者)     人形首写生歌図 一冊 鳥居風の画なり 思ふに芝居番付を画く時の種本歟(か)〟     五代目鳥居清満筆 暫の下絵 一枚〈鳥居家5代目、2代目清満〉     六代目清満筆 曽我対面絵看板 大一枚〈鳥居家6代目、3代目清満〉    村田幸吉(出品者)     明和頃市村座狂言図   一枚      当時の印行にして幅二尺程 長五尺程の大さなり 俗に之を俎版と称し 浮世絵中の異品とす     安永頃 鳥居絵看板雛形 一枚〟  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇鳥居派 上(21/110コマ)   〝鳥居派の初代清信は、始め懐月堂の手法を模し、後ち鳥居家独得の芝居看板画を描き創めた。それから    清倍・清満を経て、清長となると画風は一変して、春章、湖龍斎を折衷し、それに狩野風を加味したも    のゝ如く、豊麗艶美の中に、優雅高尚の情到あるものとなつた、実に鳥居中興の祖である。そしてこの    清長に私淑した人々は、細田栄之・勝川春潮を始めとして菊川英山・窪田俊満・喜多川歌麿・北尾政演    ・初代豊国等である〟   ◇鳥居派 上(97/110)   〝従来の伝記書類には二代清信と清倍とは異名同人であると考えたものらしい。けれども『【木版】浮世    絵大家画集』所蔵の寛延四年(花売若衆図に明記せる年号)は清倍の没前十二年で、此頃まで二代清信    が居つたのであるから異名同人とは受けとれない。彼のStrang氏の『Japanese Colour Prints』や『The    Art Institute of Chicago. Catalogue of Loan Exhibition of Japanese Colour Prints〟などでは、    二代清信を清倍の兄と見傚し、兄清信の死後、清信倍が清信の号を襲ふたのであらうと記してあるが、    これは二代清信の作品が稀であるから、同人の兄で早世した人であると断定したものと思ふ〟    懐月堂-鳥居派系図(『浮世絵の諸派』上 所収)  ◯『梵雲庵雑話』p388「大津絵の紋と鳥居の名」(淡島寒月著・大正六年(1917)四月『錦絵』第一号)   〝鳥居風という瓢箪足(ヒヨウタンアシ)の絵を始めた清信(キヨノブ)、清倍(キヨマス)なぞという人はその頃有名な神    社前にいた絵馬屋で鳥居は綽名(アダナ)であったろうかと思う。(私の話はインチュイションで感じたこ    とをいうのだから、そのつもりで聴いて下さらねば困るが)それが後(ノチ)に至って丹緑(タンリヨク)で紅絵    (ベニエ)を始めたのであろうが、私が以前播磨(ハリマ)の国の鶴林寺(カクリンジ)へ行った時にその寺の観音堂    の中に鳥居風の『象引(ゾウビキ)』の古い小額(コガク)が上(アガ)っていたが、江戸の扁額(ヘンガク)がこん    な遠方に来ているのは意外の感がしたが、こういう鳥居派の絵を神社へ奉納するところから考えると、    この彩色は最初胡粉(ゴフン)を塗って段々と色を重ねて、最後に墨の線を引いたもので、こうしなければ    板に書くには具合がわるいからである、それが紙の描いても板の時の風が残ったのだと思う。これは自    分が泥絵の具をつかうからふと思い浮かべた愚見であります〟    〈『象引』は歌舞伎十八番のひとつ〉    ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「鳥居氏並門人系図」  ◯「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬」(上・下 木村捨三著『集古』所収 昭和十六年一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』辛巳(1-2 176-7)より収録)   ◇下「法成寺過去帳に見ゆる鳥居派の人々」   〝宝暦二年以後の清信落款の版画は、同六年秋、中村座「菅原伝授手習鑑」市川海老蔵の菅相丞(雷神)と、    同十年十一月、市村座「梅紅葉伊達大関」四代市川団十郎の国妙(暫)の細絵二枚が、歌舞伎図説第八編    に出てゐる。さうすると宝暦四年に画いた西大寺の絵馬といひ、黒本から見た水谷氏説といひ(上にあ    り)、この役者絵といひ、何れも宝暦二年以後にも清信なるものが存在してゐたことが証せらる。(た    だ、諸書の鳥居派系図や鳥居家の法成寺過去帳等に照会してみたが、この宝暦四年の清信と目される人    物を見いだすことができなかった。したがって今後の研究に期待したいとしている)    元来鳥居家は絵馬を画くを以て本業としてゐたのではあるまいか、また清元は貞享四年に俳優を志して    大坂から下つたのでなく、寧ろ絵馬かきとして江戸に来たのではあるまいか。    元禄五年版の『三合集覧』に「江戸之分 絵馬 浅草橋【かや丁二丁目】大坂や 同所太田や」とある。    殊に大坂屋とあるにおいて、これらの業者は大抵上方を出自としてゐることが合考され、牽て大坂出身    の清元が何を希望して東下したかも連想されるのである。    しかして清元の子清信も、父の業を受継いで絵馬を書いたことは、式亭三馬の日記『式亭雑記』文化八    年四月朔日に、雑司谷鬼子母神境内の稲荷祠で見た二朱判吉兵衛所納の絵馬に「正徳六歳丙申五月五日    絵師鳥居清信」とあつてその見取図も出てをり、山形県米沢市某社の草摺引の絵馬に「享保八癸卯大九    月吉祥日、米沢町木島氏」と記せる鳥居風のものが『日本画大成』に載つてゐる。次に千葉県那古観音    堂の草摺引の絵馬には「享保十年四月十五日、武州江戸本船町島津屋四郎兵衛」とあり、前記の米沢某    社のものより、上作の鳥居風の絵馬である。また清信の落款を有するものに、福島県守山町田村神社の    大江山酒呑童子の絵馬があるなど、これを証して余りある。    要するに局限された大きさの中に、巧みに人物を配し、しかも高所にかゝげて衆目を牽くを本旨とする    絵馬は、その描線も自らして剛健に、その表情もまた誇張されねばならぬ。さうした骨法を会得してゐ    る清元が、共通の目的を有する芝居絵看板にも執筆したことは、寧ろ当然の帰結であると言はねばなら    む。それが清信に伝はり、その傍ら版画にも従事し、遂に菱川氏に代つて町絵師の領袖となり、庄二郎    の清倍をはじめ、庄三郞、五郎兵衛等を羽翼として、本業の絵馬(既製品もあつたらう)から、所謂副業    の芝居看板、役者絵、小説挿絵にまで及んだものであらう。殊に宝暦に入つては、看板の数も多くなり、    且つ形も大きく、その上に番附、絵草紙、せりふ廻し、ほめ言葉、唄本等々の多数に上り、その顔見世    直前の如きは、切迫した日時の間に沢山の画稿を作らねばならぬ多忙さであり、その間に新春の黒本、    青本、役者絵にも執筆するなどの全盛期であつたので、昔からの家業であつた絵馬屋とは、段々縁遠く    ならうとする際に、前掲の西大寺矢之根五郎絵馬が存在してゐることは、たゞに芝居絵として観賞しべ    きのみならず、過去帳の記載と思ひ合せて、浮世絵師の社会生活を知る重要資料といふべきであらう〟  ◯「鳥居家系譜」浅草法成寺過去帳    (「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬(下)」木村捨三著 『集古』辛巳第二号 昭和十六年二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(2/13コマ)