☆ 享保十一年(1726~)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
◇赤本(享保十一年以降刊)
『女はちの木』 署名「鳥居清信清筆」 鱗形屋板
〈解題、享保十一年初演の浄瑠璃『北条時頼記』五段目「雪の段」(女鉢の木)に関係深い作品。江戸での興行に伴う
刊行か」とする〉
☆ 享保年間(1716~1735)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
◇赤本(享保年間刊)
『武者づくし』(二世鳥居清信画)
〈解題、画工名は水谷不倒著『草雙紙と読本の研究』に拠るとする〉
『さるかに』 (二世鳥居清信画)
〈解題、画工名は水谷不倒著『草雙紙と読本の研究』に拠るとする〉
◯『近世風俗史』(『守貞漫稿』)後集 巻之二「雑劇補」⑤154
(喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝江戸芝居の絵看板の始めは、享保中、浮世絵師の名ある鳥井清信の門人二代目清信、始めて四坐の看板
を画き、その門人清長より今に至るまで、祖流を伝へたる鳥井某と云ふ、これを画くのみ。三坐の看板
および番附絵を描き、画風を変することこれなし。看板の形は中村坐図に画くごとく竪長にて、形また
新法を用ひず。椽なども京坂のごとく美ならず。毎時中の絵をかき改むるのみなり。鳥井風の絵、彩色
も京坂の如く精美ならず。家居・草木等、必用のみを画き、あるひは画かず、人物のみを専らとす。け
だし人物に役者定紋を描くことは、前に同じきなり。
また名代看板と云ひて、京坂一枚看板に似たる物あり。上に眼目とすべき狂言の図を画き、下に外題を
墨書す。三都ともにこの看板に出るを役者の名誉規模とすることなり〟
☆ 寛保年間(1741~1744)
◯『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」
◇赤本(寛保年間刊)
「定家」(柱題)署名「鳥居清信筆」
〈解題、所見本に蜂屋椎園の手と思われる「元禄享保中 署名不知 定家」の墨記がある由を記すも、「仮年表」で
は刊年を記さず、寛保三年と延享・寛延頃との間におく〉
☆ 寛延元年(1748)
◯『歌舞伎年表』③4(伊原敏郎著・昭和三十三年刊)
(「寛延元年(1748)」の項)
〝正月、中村座「錺蝦鎧曾我」。これを「大仏供養」とも「呼戻し景清」ともいふ。「戻りかご」の始也。
(中略)
当供養場を、清信筆にて、重忠ゑぼし素袍、大将太刀、陣中幕をあけ、景清法師武者、長刀を横たへ、
横向きの図大に行はる。是似顔絵の最初也〟
☆ 寛延二年(1749)
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
◇黒本 青本(寛延二年刊)
鳥居清信二世画『天神記』
☆ 寛延四年(1751)
◯『耽奇漫録』下59(「耽奇会」第八集・文政八年正月二十日)
(「寛延四年一枚絵」の項)
寛延四辛未大小 鳥居清信筆 上村板〟
〈海棠庵・関思亮の出品。寛延年間の鳥居清信、これは二代目に相当するのか〉
☆ 寛延年間(1748~1751)
◯『耽奇漫録』下59(「耽奇会」第八集・文政八年正月二十日)
(「寛延四年一枚絵」の項)
〝寛延年間一枚摺大小
(花売りに扮装した若衆の図)
☆ 宝暦二年(1752)
◯『草双紙事典』
◇黒本 青本(宝暦二年の新版「広告一覧」〔『猿塚物語』所収〕)
〝申正月【新板】目録
絵師 鳥居清信 鳥居清満
【ちんぜい八郎】一代記 五冊物 増補うら嶋 上下
公平から舩 上下 金平せ参 上下
女三みや 三冊 【いもせ山】風流鑑 三冊物
さる物かたり 三冊 おば山物語 三冊
【わたなべ】花いくさ 三冊 うねめ物語 三冊
いぶき山合戦 三冊 平安城都定 三冊
玉つしま 三冊
(◯の中に三鱗の印)板元 鱗形屋孫兵衛
跡より段々珍敷新板追々出し申候〟
〈『草双紙事典』はこの「申」を宝暦二年とする〉
☆ 宝暦四年(1754)
◯「矢の根五郎」絵馬 奈良西大寺奉納(「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬(上)」木村捨三著)
(『集古』辛巳第一号 昭和十六年刊)(国立国会図書館デジタルコレクション)(4/15コマ)
〝奈良西大寺愛染明王開帳時の奉納物
絵馬「矢の根五郎」高さ六尺 幅三尺八寸「江戸境町中村座」「宝暦四甲戌四月」
「画工鳥居清信〔清信〕印」
(宝暦四年四月、奈良西大寺愛染明王 回向院において開帳。この開帳に合わせて、市川海老蔵「矢の
根五郎」の狂言を興行。中村座は未曾有の大入りとなる。伏見屋善兵衛他の施主、報恩の意を表すた
め絵馬を作成して、西大寺に奉納)
◯『増訂浮世絵』p54(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
「矢根五郎」肉筆・絵額 年記「宝暦四甲戌四月」奈良西大寺所蔵
☆ 宝暦六年(1756)
◯「市川海老蔵の菅相丞(雷神)」細絵 清信画 宝暦六年秋 中村座『菅原伝授手習鑑』
(「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬(下)」木村捨三著・『集古』辛巳第二号 昭和十六年刊)
☆ 宝暦十一年(1861)
◯「四代目市川団十郎の国妙(暫)」細絵 清信画 宝暦十一年十一月 市村座『梅紅葉伊達大閈』
(「鳥居清信所画矢之根五郎絵馬(下)」木村捨三著・『集古』辛巳第二号 昭和十六年刊)
☆ 宝暦十三年(1753)
◯『根南志具佐』一之巻(風来山人作・宝暦十三年刊)
〝鳥居清信が画たる菊之丞が絵姿なり〟
〈この瀬川菊之丞は二代目(1741-1773)、すると宝暦十三年当時は十三歳。それを画いた清信は何代目であろうか。
岩波古典文学大系『風来山人集』所収の頭注によると、二代目清信ということだが、『浮世絵大事典』(東京堂
出版)の二代目清信の解説は作画時期を「享保一〇年(一七二三)から宝暦十一年(一七六一)まで」としている。
この菊之丞の作画年代は判然としないが。宝暦十二~十三年の可能性も考えられる〉
☆ 年代未詳
◯『草双紙事典』
画工鳥居清信 『国せんや合戦』 享保後期~宝暦初期刊か
鳥居清信 『定家』 宝暦初期刊か
☆ 明治以前
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(【雑】は『雑俳語辞典』鈴木勝忠編・注は編者の注)
1 しらぬ田舎の目にも清信 「湖丸評万句合」延享中【雑】
2 清信と名を打ちたき伊達娘 「苔翁万句合」 宝暦中【雑】注「鳥居。芝居浮世絵師」
〈1は芝居を知らぬ田舎住まいでも清信の絵は知っているということか。2は派手な娘を清信画そっくりだと表
現したものか。いずれにせよ清信の名は市中のみならず近郊にまで及んでいたようである。なお、この鳥居清
信は延享~宝暦とあるから二代目であろう〉
☆ 没後資料
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1379(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)
「鳥居清信系譜」〝二代目 清信【一作清倍、是より画風綺麗になるなり、浮世絵類考】
◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)
〝享保 鳥居清信
鳥居清信の実子也、二代目を相続して、能く家風を守れり〟
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所収)
〝清信 鳥居氏、寛延年号を記せる版絵あり、初代清信、享保年中に死去せるより考ふれば、別人なるは
明なり、清倍の晩年の改名か、尚考ふべし〟
◯『浮世絵師伝』p39(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝清信 二代
【生】元禄十五年(1702)頃?【歿】宝暦二年(1752)六月一日-五十一?
【画系】初代清信の三男? 【作画期】享保~宝暦
鳥居氏、俗称庄兵衛(幼名未詳)、浮世絵師の伝記中、彼の名を傳へたるものは甚だ稀有にして、鳥居
家の系譜にすら抹殺せられたるものゝ如し、然れども、其が作品は享保十四年以後、寛延四(宝暦元)
年(口絵第十二図参照)に至るまで、年々連続的に発表せし確証あり、少くとも、初代清信の歿後(享
保十四年)直ちに鳥居家の世業を継ぎて、同時に二代清信を襲名せし者と見るを得べし、而して、鳥居
家の墓石中「宝暦二壬申天六月朔日、智了院法厳」とせる者は恐らく彼ならんと思はる。
いま彼が作品の一例として、細判漆絵ー「佐野川市松の小姓粂之助」を挙ぐべし(口絵第十図参照)。
此の図は『名人忌辰録』佐野川市松の條に、『寛保元年春、中村座「高野山心中」に小姓粂之助の衣装
に石畳の袴を著し奇麗なる若衆大に評判よく、市中にて此石畳を着ざる女はなき程に流行す、皆人市松
染といひはやせり』といへる役柄に相当せり、但し、石畳模樣の袴は、他の場面にて着用せしなり〟
〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」は、生年未詳、没年を宝暦十年(1760)年以降とし、享年については記
載がない。なお、この鳥居家二代目清信を鳥居清倍二代と同人視する資料、例えば斎藤月岑の『増補浮世絵類考』
(天保十五年序)などもあるが、『浮世絵師伝』はこれを否定している〉
△『増訂浮世絵』p53(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝二代鳥居清信
清信に二代目のあることは、早く浮世絵類考に出て居るのであるが、往々初代と混同されて居る。紅摺
絵の細絵に鳥居清信と署名あるものは、皆二代清信の作である。何となれば、初代清信は享保十四年に
没したのであるから、まだ、色摺版画の世に発売されぬ内で、初代の筆に紅摺絵版画のあるべき道理が
ない。故に紅摺絵にあつては、その区別は最も明かである。このことは余が曩に木版浮世絵大家画集中
に浮世絵版画史を著はし、寛延四年の絵暦の花売の紅摺絵を掲げて論じて置いた。かやうに紅摺絵では
区別が明かであるが、漆絵に於ける作品が二代清信にあるかどうか、問題にするものもあるが、現存す
る作品に徴して、明かに二代清信は漆絵を作つて居る。(具体的作品例あり、省略)
かやうに二代も漆絵を作つて居たといふことになれば、その判別は頗る注意しなければならぬ。明かに
元文五年のものがあり、紅絵の作が可なり多いとすると、二代清信の作画期は短くはない。(中略)
二代清信は多分初代の甥であらうとの説もある。四郎清信といふたとも称せられる。或は清信の子であ
らうとの説もある。清倍と合筆物に両者名を並べて画て居るものがあり、明かに二代清信と考へられる
ので、二代は初代の子で、清倍は清信の弟ではないかとの説もある。然しこれは篤と考ふべきである〟