Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代浮世絵師名一覧
〔天保13年(1842)~ 明治27年(1894)3月28日・53歳〕
 ☆ 慶応元年(元治二年・1865)    ◯『歳成記』風鈴山人著 玉家如山蔵板 乙丑仲秋(慶応元年八月)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)◎は難読文字( )は本HPの注記   〈当時人気のあった浮世絵師や戯作者などを吉原細見に擬えて格付けしたもの〉   〝浮世屋絵四郎 〈浮世絵師〉    (一段目)清満 げんや店  貞秀 おふなぐら 芳虎 京ばし   芳艶 ほん丁         国貞 ほんじよ  広重 中はし   芳幾 すは丁   国周 ひもの丁    (二段目)芳藤 下や    芳年 中はし   国輝 おふなぐら 房種(不明)         芳豊 新大さか丁 芳春 あさくさ  芳盛 下や    国久 やなぎ原         国孝 やなぎ原    (三段目)国時 芳富 重次 重清 芳延 芳滝 艶豊 艶政 幾丸 幾年     やくしや/にがほ/むしや/めい/しよ/けしき/女ゑ/合くはん     かはりゑ/ゑでほん/かき入/きはもの/かんばん/あふぎ     (役者 似顔 武者 名所 景色 女絵 合巻 変わり絵 絵手本 かき入? 際物 看板 扇)     やりて せり(遣手 ?)〟    〈この広重二代か三代かよく分からない。因みに広重二代が安藤家から離縁されたのはこの年である〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)      筆禍「幼童遊び子をとろ子をとろ」 画工 三代目広重等       内容 ◎板元 丸屋平次郎 抜き打ち捜査〈その後どのような処分が下ったか不明〉       理由 浮説流布か    ◯『藤岡屋日記 第十五巻』p505(藤岡屋由蔵・慶応四年(1868)記)    ◇戊辰戦争絵   〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之    此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、    三月廿八日御手入有之。      右品荒増之分     子供遊び 子取ろ/\  あわ手道化六歌仙〟
    「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆     (東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
    「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図     (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)      〈二図は全く同じ絵で、戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、     子供たちの着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。     また遊びを後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負     っているのが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬え     たのである。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。     図の上「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよ     く分からない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」と     ある。「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手     しているのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考     えられる〉    ◯『歳成記』風雷山人著 玉家如山蔵板 戊辰仲冬(明治元年十一月)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※◎は難読文字   〝浮世屋絵四郎    (一段目)貞秀 芳虎 芳幾 芳年 国周 国輝 国貞 国明    (二段目)芳春 芳盛 芳藤 房種 重次 広重 重清 国久 一豊 国歳 芳富     (三段目)芳延 国時 国玉 芳豊 芳信 艶長 幾丸 年晴 周延 年次     かぶろ/おい/らん/どう/ちう/すがた/大に/しき/がう/くわん/げたい/なかみ     (禿 花魁 道中姿 大錦 合巻 外題 中味)     やくしや/にづら/大くび/丸◎/めい/しよ/けしき〟     (役者 似顔 大首 丸◎? 名所 景色)     やりて く◎り(遣手 ?)    〈この広重は三代。慶応元年の『歳成記』の広重も三代だとすると、格付けが下がったことになるが、しかしこの手の戯     れで格下げは相応しくないので、やはり慶応元年の広重は二代のような気もするのだが、どうであろうか〉  ☆ 明治二年(1869)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」明治二年刊(国立国会図書館)    一立斎広重画    『そだてぐさ』 久我真道 口絵・挿絵なし 一立斎 版元不明(9月序)    『東京繁華一覧』胡米著  口絵(拡大画面)挿絵(見開き)広重画 萬屋庄助(明治2年)    ☆ 明治四年(1871)    ◯『絵本大功記』一~四 読本(ARC古典籍ポータルデータベース画像)    壹:表紙「芳虎画」見返し「立祥画」松延堂伊勢屋庄之助板    貳:表紙「芳虎画」見返し「立祥筆」松延堂伊勢屋庄之助板    三:表紙「芳虎画」見返し「立祥筆」巻末「立祥筆」松延堂伊勢屋庄之助板    四:表紙「芳虎画」見返し「立祥筆」松延堂伊勢屋庄之助板    〈見返し「絵本太閤記」とあり〉    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇開化滑稽風刺(明治四年刊)     歌川広重画『西洋道中膝栗毛』五編三冊 立斎広重画 仮名垣魯文著 万笈閣版    〈この年『西洋道中膝栗毛』は四編から十編まで出版されたが、五編のみ三代広重の担当で、残りは歌川芳幾の作画〉     <十月 曲馬(フランス人スリエ)招魂社境内>  ◯「見世物興行年表」「スリエ曲馬二」(ブログ)(国立国会図書館デジタルコレクション参照)    歌川広重三代画   「招魂社境内ニテ フランス大曲馬図」錦絵三枚続 三代広重画 ますだ屋板   「招魂社境内フランス大曲馬図」  錦絵三枚続 署名「広重画」(三代)土橋政田屋板  ◯『早稲田文学』第25号p14(明治30年(1897)1月3日刊)   〝今年(明治四年)の名人案内に、    戯作 は春水、応賀、有人、魯文    浮世絵は国周、芳幾、芳虎、広重、豊国、暁斎    銅版 は玄々堂緑山等五人〟    〈この豊国は四代目・二代目国貞。この「名人案内」は明治三年の「東京諸先生高名方独案内」と同様のもの     と思われるが未詳〉  ☆ 明治七年(1874)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治七年刊)    歌川広重三代画『繁昌詩選』一冊 広重画(高輪の海岸蒸気車の図))原田道義著 須原屋伊八板〔漆山年表〕  ☆ 明治前期    ◯「【当時一品】名誉博覧会」明治前期刊(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝筋違ノ眼鏡橋 人の目がねはちがわぬもの    細書 伊東松淋 ・一立斎広重 ・一竜斎貞玉 ・竹本相生太夫・市川権十郎〟    〈この番付の刊年は明治七年と推定される。根拠は下掲本HP「浮世絵事典」の「浮世絵師番付」参照のこと〉     浮世絵師番付「☆明治前期」参照  ☆ 明治十年(1877)  ◯ 内国勧業博覧会(明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)   ◇『明治十年内国勧業博覧会出品目録』1 内国勧業博覧会事務局    (国立国会図書館デジタルコレクション)     〝第二区(製造物)第五類(造家並ニ居家需用ノ什器)      錦絵 東京名所  画工 安藤徳兵衛 版刻 池端仲町銀次郎〈広重Ⅲ〉         日本物産図 画工 安藤徳兵衛 版刻 木下藤吉 編輯 大倉孫兵衛        (出品者)通一丁目 大倉半兵衛〟      額  杉唐紙 山水彩色画 硝子張、画 安藤広重(出品者)芝口三丁目 近藤半兵衛〟     〝第三区 美術 第二類 書画      額  画絹 名所人物画 縁 職工 芝口三丁目 近藤半兵衛(出品者)芝口三丁目 安藤広重     ◇『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯    〝第三区 美術 第二類 書画     彩画名所人物 絹額 二百四十円 万年元年 芝口三丁目 安藤広重〈出品人は本人〉    〝第三類 剞劂」     画本 東京名所三十六景 安藤徳兵衛画、明治八年十一月出版〈「東京開化三十六景」のことか〉        大日本物産図絵 大倉孫兵衛編 安藤徳兵衛〈明治十年刊〉        (出品人)大倉孫兵衛 通一丁目〈錦栄堂・万孫〉  ※ 明治の博覧会や展覧会における全体の出展状況は本HP「浮世絵事典」の「博覧会」か「展覧会」の項にあります  ◯『懐中東京案内』二編 福田栄造編 同盟舎 明治十年十月届     (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝廿三 有名の画家    浮世画 一立斎広重 京橋弓町〟    〈他に暁斎・芳年・永濯・国周・芳虎・年信・周延の名がある〉  ☆ 明治十一年(1878)    ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十一年刊)    歌川広重三世画『百猫画譜』一冊 立斎広重画 仮名垣魯文編 和銅開珍社〔漆山年表〕    〈「国立国会図書館デジタルコレクション」所収〉  ☆ 明治十二年(1879)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇風俗(明治十二年刊)    歌川広重画『新潟花かがみ』上下二冊 広重画 金子錦二著 五名舎    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十二年刊)    東海道歌重画    『新選サハリ都々一』1号 古慶坊三笑 挿絵 東海道歌重 松林堂(12月)   ◇合巻    歌川広重画『大岡調名高本説』口絵・挿絵・表紙 広重Ⅲ自画 斎藤長吉(11月)②                    見返し 署名に「◎◎」印に「哥川」とあり     <五月 軽気球の試験飛行 東京築地海軍省操練場>    ◯「見世物興行年表」(ブログ)    歌川広重画「築地海軍省於操練場 風船御試之図」錦絵三枚続 三代広重画 林吉蔵板    〈日本初軽気球の試験飛行〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p33   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   (明治十一年七月二十一日、両国・中村楼に於ける仮名垣魯文の書画会に参加)
    仮名垣魯文書画会記事    ◯『現今書画人名録』高崎脩助編 椿窓堂 明治十二年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝浮世画之部 一立斎広重 京橋弓町    (他に暁斎・永濯・芳年・国周・進斎年道・芳虎・周延・梅堂国政)   ☆ 明治十三年(1880)  ◯『皇国名誉書画人名録』番付 東京 北尾卯三郎編集・出版 明治13年1月届   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝浮世画 一立斎広重 南紺屋町〟     (他に暁斎・永濯・芳年・国周・周延・芳幾・芳藤・芳虎・年信・梅堂国政・芳春・房種)  ◯『読売新聞』明治13年5月29日 朝刊   〝今年の吉原の灯籠の趣向は諸国名所絵合(えあわせ)といふ題で、景色は例の広重の筆にて人物が芳年、    光我(くわうが)、雪浦(せつぽ)、国(くに)としの四人にて、画賛は諸大人の和歌、発句、狂歌、川柳で    あるといふ〟    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十三年刊)   ◇絵手本    歌川広重画『絵本手引草』一立斎広重 金田僊吉(全声堂)(9月)      ☆ 明治十四年(1881)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇伝記(明治十四年刊)    歌川広重画『府縣長官銘々伝』一冊 広重画 伊東専三編 紅英堂    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十四年刊・国文学研究資料館)    歌川広重画    『遊戯菩提記』挿絵 芳年・年雪・広しげ 仮名垣魯文 京文社(9月)    『名誉百人首』口絵 広重 見開き 豊宣 谷壮太郎 松林堂(12月)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十四年刊)   ◇絵手本    歌川広重画    『一筆画譜』1-3編 立斎広重 松田文書堂(2月)〈二編の巻末に落款あり〉    『府県長官銘々伝』挿絵 立斎広重 伊東橋塘 紅英堂(5月)    『大日本物産図絵』折本全六冊 多色摺 一立斎広重「画工 大鋸町四番地 安藤徳兵衛」大倉孫兵衛(明治14年)    ☆ 明治十五年(1882)  ◯『読売新聞』明治15年4月1日付   〝今度(こんど)画師(ゑし)の立斎広重が、先師初代広重に由縁(ゆかり)ある人と謀(はか)り、同    翁の碑を向島に建てたにつき、同人が会主にて来(きた)る十六日、同所請地秋葉神社にて追善の書画会を    催します〟  ◯『絵画出品目録』初版 農商務省編 国文社第一支店 明治十五年十月刊    (内国絵画共進会 明治十五年十月開催 於上野公園)   〝第四区 菱川・宮川・歌川・長谷川派等    東京府    安藤徳兵衛 歌川派 号広重 函根六景・江之島図  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十五年刊・国文学研究資料館)    歌川広重画『府県長官銘々伝』伊東専三 挿絵 立斉廣重 本田市治郎(1月)    ☆ 明治十六年(1883)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)   ◇風俗(明治十六年刊)    立斎広重画『芸妓略百人集』一冊 立斎 加喜堂主人編 広栄堂    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十六年刊・国文学研究資料館)    立斎広重画『道戯百人一首』安藤徳兵衛 口絵・挿絵 立斎広重(3月)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十六年刊)    立斎広重画『新撰謎々合』挿絵 自画(広重Ⅲ) 安藤徳兵衛 文盛堂(11月)  ◯『明治画家略伝』渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝現今略伝 第四区 菱川宮川派ノ類    安藤広重 歌川 景色 京橋区南紺屋町廿南番地         名ハ徳兵衛 一立斎ト号ス 弘化二年十二月生ル 父ヲ後藤武平ト曰フ          初代広重十右衛門ノ門人ナリ〟  ◯『明治文雅姓名録』東京 清水信夫編集・出版 明治十六年十二月(1883)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝広重 安藤徳兵衛 (空欄)〟  ☆ 明治十七年(1884)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治十七年刊)    歌川広重画『雅名集』一冊 立斎広重画図 扇田豊治郎編 信固閣蔵〔漆山年表〕    〈「国立国会図書館デジタルコレクション」画像『万家肖像雅名集』〉  ☆ 明治十八年(1885)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十八年刊・国文学研究資料館)    歌川広重画『酒客必携割烹店通誌』口絵 広重 挿絵なし 前橋東柳 前橋書店(3月)  ◯『現今日本画家人名録』赤志忠七 大阪 赤志忠雅堂 明治十八年三月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝歌川派 東京 山水 安藤広重 徳兵衛〟    〈凡例によると、この人名録が収録するのは明治15年・同17年に開催された内国絵画共進会に出品した絵師〉  ◯『東京流行細見記』登亭逸心撰・清水市太郎編・明治十八年七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)
    「東京流行細見記」「浮世屋画工郎」(当時の諸職芸能人や専門店を吉原細見に擬えて序列化した戯作)     〝(暖簾の文字)「錦」浮世屋絵四郎   (上段 合印「入山型に△」)〝日の出 新流行 大上々吉 大々叶〟〈細見全体での序列は十位〉     つきおか 芳年〈月岡〉  こばやし 永濯〈小林〉     おちあい 芳幾(落合)  とよはら 国周(豊原)     とりゐ  清満(鳥居)  あんどう 広重(安藤)     おがた  月耕(尾形)  あらゐ  芳宗(新井。二代目芳宗)    〈以下、中段下段は名称のみ。禿・芸者・遣り手は省略〉   (中段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位〉     年恒 国政 周延 年方 春亭 吟香(ママ) 清親 豊宣 国峯 周重 国梅   (下段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位・中段と同格〉     広近 年景 芳 藤 年参    〈全体は本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師番付」を参照〉    ◯『東京高名鑑』加藤新編 滝沢次郎吉出版 明治十八年十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝生田芳春 早川松山 橋本周延 長谷川雪光 長谷川周春 蜂須賀国明 梅素薫  豊原国周    大村一蜻 大竹国房 恩田幹延 尾形月耕  落合芳幾  渡辺省亭  河鍋暁斎 金木年景    竹内国政 月岡芳年 永島孟斎 村井房種  歌川芳藤  歌川国松  歌川国久 野坂年晴    松本楓湖 松本豊宣 松本芳延 小林清親  小林永濯  安藤広近  安藤広重 安達吟光    新井年雪 荒川国周 柴田是真 鳥居清満  守川国重  鈴木華邨〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『東京大画家派分一覧表』東京 児玉友三郎編輯・出版 明治二十二年十二月刊   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝歌川派     橋本周延 天神丁三   一松斎芳宗 日吉丁   勝川椿年 木挽町一     安藤広近 根岸金杉   村田良和  馬道八   梅堂国貞 薬研ボリ丁     正木芳盛 下谷坂丁   泰近清   飯倉片丁  落合芳幾 京バシ滝山丁     豊原国周 東京     応斎年方  紺屋丁   歌川国久 カメ井戸     安藤広重 下平右ヱ門  鍋田玉英  西鳥越丁 / 河守芳豊 ◎◎◎丁     柴田延子 佐クマ丁三   梶田半湖  下谷徒丁〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『古今博識一覧』番付 大坂 樋口正三朗編集・出版 明治二十四年六月   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝現存日本画人名一覧流派早見一覧     歌川派       東京 生田芳春 橋本周延 長谷川春(ママ) 歌川豊重 恩田幹延 野坂年晴         大竹国房 松本芳延 安藤広重   安藤広近 荒川国周 守川周重      京都 中井芳滝 野村芳国 後藤芳景   坂本芳秋 木下広信      大坂 笹木芳光 群馬 田中芳耀 千葉 田中国信 秋田 渋谷松香〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ☆「東京諸名家見立一覧」(明治二十五年刊『『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝陶画 ツキジ  吉田鳳斎  〈未詳〉    景色 久松丁 安藤広重  〈安藤が画姓として使われたのはこの三代広重からであろうか〉    俳◎ カキカラ丁 細鱗舎松江〟〈俳人〉        〈番付に載る浮世絵師は、大蘇芳年(明治25年没)と三代広重(明治27年没)と河鍋暁雲(明治41年没)の三人のみ。広重は    歌川の流れなのに、歌川を名乗らず安藤である。明治八年(1875)の平民苗字必称義務令の影響だろうと思うのだが、    歌川派の衰退は今や覆うべくもない〉  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『七福神雷名競』番付 竹村貞次郎編集・出版 明治二十六年十二月   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)    〈当時の著名人を七福神に見立てたもの。住所はすべて東京〉   〝書 大沼蓮斎   俳 太白堂桃年 書  中川得郎 書 木村二梅    画 安堂(ママ)広重 詩 森大来   詩文 伊藤聴洲   〝書 新岡旭宇   画 大庭学仙  画  松本楓湖 画 川辺花陵    歌 安達正聲   詩 信夫恕軒  俳諧 最中堂秋耳〟    〈安堂は安藤の誤記であろう、これは三代目広重。広重がどうしてこの面々とセットとなって七福神に見立てられたのだろうか〉  ☆ 明治二十七年(1894)     ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)   ◇絵本(明治二十七年刊)    安藤広重(三代)画『広重画譜』三冊 広重筆 博文館刊〔漆山年表〕     〈国立国会図書館デジタルコレクション「中」巻の画像あり〉    ☆ 没後資料    ◯『鏑木清方文集』二「明治追懐」②80(大正五年(1816)一月)   「俤草」   〝神田で生まれた私は、生まれるとすぐ二長町に引越して、それから間もなく南紺屋町(京橋)へ移住し    た、私の世の中に於ける記憶はこの紺屋町の小さい二階家から始まって居る、三歳の時といへば明治十    三年のことである。この家の裏に下が二室(フタマ)二階が一室(ヒトマ)の小(ササ)やかな家に四十恰好の画家    (ヱカキ)が住んで居て、細君と二人きりで小綺麗に暮らして居た。画家夫婦は、てうち/\あはゝより芸    のない、知恵の遅い幼児(ヲサナゴ)の自分を大層可愛がつていれたのださうである、画家の名は広重さん    ----よく鉄道馬車や、眼鏡橋や、赤い桜と、青い石とが印象に残つて居るあの東京名所の錦絵をかいた    三代目広重であらうと思ふ---広重さんは意気な人で、褞袍(ドテラ)に濡れ手拭で表をあるいて居る人で、    思ふに昔の浮世絵師をそのまゝの人らしかつた。紺屋町に居たのも長い間ではなく、私の家はまた築地    へ移り、八歳の時には木挽町へ移つたので、広重さんとの交際(ツキアヒ)もいつしか絶えてしまつた。木挽    町に居る頃私はその頃代地河岸に居た広重さんのところへ年始に行つたのを覚えて居る、たしかその時    女持の小扇へ縦に助六のうしろむきをかいてもらつたのを、かなり大きくなるまで持つて居た、その画    は初代、二代の流れを汲んで、遠目にも広重とうなづかれるものであつた〟    ◯『明治の東京』「築地界隈」p83(鏑木清方著・昭和八年三月記)   〝私の生れて間もなく、京橋の南紺屋町にいた家の隣家に、三代目広重が住んでいて、赤ん坊の私は、そ    の夫婦に可愛がられたのだと聞いている。少し大きくなってから、その頃は浅草の代地、今の柳光亭の    筋向うあたりに移っていたその人をたずねたこともある。五十いくつぐらいだったろうが、頭はなかば    禿げていて、痩(ヤ)せ形(ガタ)の人で、夫人は裁縫がうまかったという話である。私の持っていた小さい    扇へ、助六のうしろ向きをかいてくれたのを長く持っていたが、いつのほどにかなくしてしまった〟    〈鏑木清方は明治十一年(1878)生まれ。三代目広重は明治二十七年(1894)、五十三歳没〉    ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「発端」p9   〝 私は明治十一年八月に、神田川の近くに生れて、二歳の時は京橋の南紺屋町、今でいう銀座西一丁目    の銀座裏に居たという。それから築地一丁目、文海小学校の裏門前に移ったのは年齢に確かな覚えがな    い。銀座裏では、隣に三代目歌川広重が住んで居て、夫婦して私を可愛がってくれたと、これも後でき    かされたが、その家の見つきだけは物心が付いてからそこいらを通る折がいくらもあるので、私の居た    家と共に見覚えて知っている。     この広重は、浅草の代地河岸深川亭の前あたりに引越してからでも交際(ツキアイ)は続いて、ある初春、    代地の家ひ尋ねた時、平骨の扇子に助六のうしろ姿をかいて与えられた。それから程なく明治二十七年    三月、この人は亡くなった。妻女は仕立物がうまくて、後年横浜でそれを教えて余生を送ったときいて    いる。文献に拠ってその人は初代の養女辰とこの書にも記したが、高橋誠一郎先生がある誌上に書かれ    たもので、辰女は明治十二年十月に没し、私の知る妻女は、後妻の八重であろうと指摘された。私の、    隣家に居た年時をかぞえるとそれに疑いなく後妻のお八重でなくてはならぬ。今増刷に際してこれを訂    (タダ)しておくが、なお高橋先生は、この人が札差(フダサシ)の家の出であることを、先代没後初代を葬    ってある東岳寺に碑を建てたことをも伝えられた〟    ◯『浮世絵師便覧』p238(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝広重    一立斎と号す、一世広重門人、俗称徳兵衛、既に二世広重あり、然るに、自ら二世と称す、何の故を知    らず、◯明治〟    ◯『狂歌人名辞書』p188(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)     〝歌川広重(三代)、初号重政、本姓後藤氏、初代広重の入婿となり、安藤徳兵衛と改む、二世と称する    も実は三世なり、明治廿七年三月廿八日歿す、年五十三、浅草東岳寺に葬る〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   ◇「歌川豊広伝」p121   〝明治二十年、豊広が六十回忌に、三世広重、豊広が肖像を画きたる摺ものを配布し、法会を執行し、一    碑を墨陀堤下に建てたり。其摺物の文に、     亡父立斎広重翁の師祖豊広翁は一柳斎と号し、歌川家の元祖豊春翁の門人なり。同門豊国と其の名と     もに行わる。後画風一家をなし、生涯俳優の似貌を画かず、敵討読本のさし画はこの翁に始れりとぞ。     画く所枚挙に暇あらず。就中京伝、馬琴両翁の著作にかかるもの多し。実子豊清氏早世し、嫡孫豊熊     氏ありしかども、次ぎて夭せり。師翁は文政十一年没す。本年本月六十回忌に相当せるをもって、将     に追遠会を営み、辞世を碑に刻し、墨陀の辺に建て、永く其の芳名を後世に遺さんとす。仰ぎ願くは     四方有志の諸君、偏に賛成補助を賜らんことを、二世立斎広重敬白         又碑面には、かの辞世の歌死んでゆくを刻して、二世広重建立とあり、裏面には明治二十年丁亥四月良    辰とありて、売薬家守田宝丹が書せし所なり。         按ずるに、三世広重が摺ものの文および碑面に、二世広重としるしあれど、曩(サキ)に二世広重ありし     ことはよく世の中の知るところなり。いかなれば三世広重自ら二世と称するや疑うべし。また亡父立     斎広重とあるは誤りなり。一世広重は一立斎と号し、立斎をいいしことなし。二世広重はじめ一立斎     と号せしが、後にゆえありて立斎と号せしなり。今一世の号を立斎とするは疑うべし。また敵討読本     のさし画はこの翁にはじまれりというは非なり。敵討よみ本のさし画は、古よりこれあるなり。惟(タ     ダ)豊広は楚満人が久しく廃れたる敵討を再興せしによりて、専ら画き出でたるのみ。蓋しこの摺も     のの文は、他人代りて綴りたるものならんか、さるにても三世広重が疎漏の罪免るる事能わざるなり     (【また敵討読本のさし画は以下「小日本」になし)〟     ◇「歌川広重伝」p182   〝二世(広重)の家を出ずるや、同門重政代りて家を継ぐ。これを三世広重とす。又よく山水を画く。嘗    て伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水をうつし、其の志し一世の工に出    でんを欲せしが、不幸にして病に罹り、明治廿七年三月廿八日没す。惜むべし。友人清水氏後事をおさ    む。     三世広重、辞世の歌、うかうかと五十三とせの春を迎へしことのおもてふでとれば、汽車よりも早い     道中双六は月の前を飛に五十三次。俳諧師夜雪庵金羅、代りて此歌を帛紗にしるし、三十五日にこれ     を旧友より配布せり。今は(明治廿七年十月三日)金羅も病にかかりて没せり。(此の註、「小日本」     にはなし)    按ずるに、三世広重、自二世と称す。何の故を知らず蓋理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、    広重のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、きくによしなく、止むを得ずして帰る。遺憾なり〟        △『絵本江戸風俗往来』p285(菊池貴一郎著・明治三十八年刊)   〔平凡社 東洋文庫版・鈴木棠三解説〕   〝〈遠藤金太郎氏の『広重絵日記』より〉遠藤氏はまた、従来初代広重のものとされていた印譜の多くは    三代広重のものであること、それらは四代の菊池家に残されたものであることなどをも記されている〟       〝安政五年九月六日、初代広重が死んだあとに、後妻と養女が残った。若い養女のお辰が門人の重宣と結    婚し、ここに二代広重が出現したが、どうもあまり行かず、慶応元年に離婚し、重宣は安藤家を離れて    以後は筆名を喜斎立祥と改める(明治二年没。四十四歳)。ついでお辰は初代の門人重政と再婚し、三    たび広重が出現する。この人は事実上は三代広重だが、二代と称し、墓石にも一世顕巧隆院機外立斎居    士としるされた(明治二十七年没、五十三歳)〟     〝付記〈以下、五世広重・菊池寅三翁からの聞き書き〉    翁によれば、三代は初代のお通夜のとき入門したという話もあるくらいで、画はからっ下手(ペタ)、む    しろ下手なので有名だったが、なかなか如才ない人で、そのうち二代の妻お辰といい仲になった。    (中略)    同じ火事好きでも三代広重の方は、火事と聞くと刺子を着こんで火事見舞を口実に家を飛び出し、帰り    には火事装束で吉原に入りこんで馴染のおいらんに威勢のよいところを見せるのが得意だったが、貴一    郎〈四世広重〉はもっぱら画くことだった〟    ◯『浮世絵年表』p224(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「弘化二年 乙巳」(1845)   〝十二月、三代広重生る。(明治二十七年三月二十一日歿す。行年五十三)〟     ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「仮名垣門下の人々 変った風格の人物揃い」p267   〝三世広重が歌垣和文、狂言作者の竹柴飄蔵が柴垣其文、又の名四方梅彦(中略)狸汁の画工松本芳延も    何垣とか名乗った一人〟    △『増訂浮世絵』p270(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝三代広重    初代広重門人で初名を重政といつた。二代を名乗つた重宣が離縁されて後、程なく、お辰の後の夫とな    つて、広重の名を継いだ。特に天才と称すべきほどの人でもなく、且つ錦絵衰頽の時期とて、概して観    るべき作品はない。俗称後藤寅吉、一笑斎と号す。弘化二年十二月生れ、明治二十七年三月廿一日没す。    享年五十三〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)   〝歌川広重門人 重政(三世広重)〟
    「歌川系図」    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p91(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝広重 三代(ひろしげ)    安藤氏、元姓は後藤、弟子の二代広重が、安藤家を辞したので、それに替つて養女お辰の婿となり、師    家を継いだ。初代の一立斎広重、徳兵衛を襲名し、自らは二代、その実は三代広重となつている。その    作画期は明治元年より、死去の頃まで続き、よく明治開化期の風俗を描いている。天保十三年生れ、明    治二十七年三月、五十三才で歿している〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔歌川広重三世画版本〕    作品数:3点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:安藤・一立斎・安藤広重・一立斎広重・歌川広重三世    分 類:絵画1・地誌1    成立年:記載なし    『東海名所改正五十三駅』地誌絵画・安藤広重画    『草木魚鼈之画譜』   絵画・安藤広重画    『江戸の花』      一立斎広重画
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