中国西域・タクラマカン砂漠縦断紀行

出発日2006年8月12日
帰国日2006年8月20日


トルファンからタクラマカン砂漠を南北に縦断する「オイルロード」(沙漠公路)を経てカシュガルへ。
中国西域約2000qを巡る今年の旅は、直前に世界を駆けめぐったロンドンテロ計画発覚ニュースの進展を横目で睨みながらのスタートとなった。
しかし、液体の搬入は禁じられるのではないか、トランクの中身をすべてチェックされるのではないかなど心配した空港での検閲は主に米英への渡航者に限られ、意外とすんなりと出国手続きを終えた。
今年の参加者は11人。成田組、関空組に分かれて韓国ソウル空港で合流。乗り継ぎ待ち時間約4時間のヒマを免税店回りや昼寝でつぶして大韓航空にて一路ウルムチに向けて飛び立った。
今回の旅のルートは成田→ソウル→ウルムチ→トルファン→クチャ→輪台→民豊→和田→カシュガル→ウルムチ→ソウル→成田と巡る9日間。日程表を見た中国旅行のベテランが「う〜む、普通の旅行者にはちときついかも」と言うほど、スケジュールを見る限りかなりの強行日程だ。



初日は移動だけ。ウルムチのホテル(新彊大飯店・・2年前にハナス湖を巡った時の拠点ホテル)に着いたのは深夜の2時半。夜明けからのバス移動に備えて荷物の入れ替え作業を終え、ベッドに横たわった時は3時半を過ぎていた。これを皮切りに連日続く睡眠不足が、やがて体調不良を生じさせることとなる。

睡眠時間約3時間で2日目の行動開始。ウルムチから約150q南東のトルファンへ約2時間のバス移動だ。
現地ガイドは中青旅新彊国際旅行社の譚波くん。彼曰く、「新彊で最悪の歌手」だそうで、自己紹介を兼ねて早速、アカペラで一曲披露してくれたのがスマップの曲「世界に一つだけの花」。まずはスタートの景気づけといったところだ。
彼のガイド口調の特徴は終わりのフレーズを二度言うことで、その二度目の言葉の前に「あっ!」という語が入るものだから、聞いているほうも「うん?前言訂正かな」と耳をそばだてる効果はある。

車は砂利に覆われた”ゴビ”の中を一路トルファンへ。
途中、居並ぶ風車を見物。そこは非常に風の強い地域だそうで、風速60メートル以上はざらに吹く「風の道」だという。
そこで、譚くん「風車の高さは何メートルでしょう」とクイズを出し、正解者にはビール一本おごります・・と言う。
なるほど近づくにつれ風車は見上げるほど巨大なのだが、周辺が広大な盆地であるためか、高さの目安がつきにくい。正解は36メートルなんぼかと聞いたが、ピタリ賞該当者はなかった。

天候は快晴。時間が経過するにつれて気温も急上昇し、交河故城に着いたときには、まさに灼熱の太陽が照りつけていた。この季節、トルファン盆地の気温は40℃に上ると言われ、地表温度は60℃にも達するとか。「地面に卵をおくとゆで卵になる」といわれる所以である。

交河故城。
古くは車師前王国の王都として栄華を極めたといわれるこの街跡も、今ではその残壁を残すのみ。日差し遮るものもなく、ただ、高台に荒涼と広がっている。土の遺跡としては世界最大といわれるこの遺跡の全体像は入り口に展示されている模型で見ることが出来るが、炎天下に探索するにはそうとうのエネルギーが必要だ。
実際に遺跡内を歩いたメンバー談「同じ風景が続いていた・・。」


高昌故城。
ここも街遺跡。三蔵法師も立ち寄ったとされる総面積200万u、約5qに及ぶ広大な遺跡だ。ここをロバ車で巡るのだが、炎天下に繋ぎ置かれるロバに動物愛好家を自認するメンバーらは不満たらたら。一台の馬車に11人が乗り込み、御者が棒をふるってロバの尻をたたくたびに、今にも襲いかからんばかり。といって炎天下、降りて歩く気力もなく、ロバの食い扶持稼ぎに少しでも役立てば・・と座り続けるのである。

「さあ、次は少し涼しいですよ。地下に入りますから」との励ましを受けて、アスターナ古墳郡見物。高昌国時代(6〜7世紀)の貴族の古墳だ。所々に墓穴があり、何体かのミイラが展示されていてる。なかには夫婦合葬のミイラもあって、夫が死ぬと妻が殉じる風習もあったともいわれている。おそらくはこの一帯、学術的には貴重な資料なのであろうが、あいにく基礎知識も興味もないものだから、何の役にも立たないのが情けない。

最後は車窓から火焔山を臨む。この山は改めて記述するまでもなく、西遊記でおなじみの場所。我々は芭蕉扇ならず日本製ウチワで暑さを紛らすのであった。


 


トルファンは葡萄の産地である。街周辺は葡萄畑が広がり、実を付けた葡萄の木が日差しを遮り、人々に涼をもたらしている。その葡萄棚の下で行われる民族舞踊を見た。夜9時から演じられる華やかな舞は、見物人を巻き込んで、遅くまで続けられる。誘われて踊りの輪に入った日本人旅行者のそれが、ちょっと阿波踊り風に見えるのは民族性ゆえか・・・な。
その後、我々は葡萄農家を訪ねる。時刻は午後11時。こんな時間でも人々はまだその日を終わっていない。ここでは夕食時間が午後8時過ぎだというから、夜の11時はまだ食後の団欒の時なのだろう。
ウイグル族の民家を訪ねるのだからと、幾つかの挨拶言葉を教えられ、入り口をくぐると、まず水で手を清められる。「洗った手の水は振り払ってはいけません」と注意されるが、いつもトイレでクセがついているものだから思わず指先が動き、あわてて手ぬぐいで拭いたりして、いささか緊張気味。
長テーブルに並べられた干葡萄は20種類もあっただろうか。「これは女性用」「これは男性用」となにやら意味深き説明もあったが、最後は一斤幾らで販売。「ホシ」(さよなら)を連発し辞去したのであった。


真夜中1時過ぎ、トルファン駅から寝台特急に乗車。12時間余をかけて庫車(クチャ)へ向かう。当初、三段ベットの硬臥になる可能性もあるとされていたが、結局は二段ベット一室4名のコンパートメントに。ベットは幅1メートルほどしかないので、あまり寝心地のよいものではないが、ともあれ横になったのであった。

ところで、このツアー、今年でめでたく10周年を迎えたという。10年前、チベットへの旅で初めて出会ったメンバーが、これほど長きにわたって年一回の中国辺境の旅を継続しえたというのは、それだけ中国への興味とお互いの信頼あっての話しだろう。
折々に出るこれまでの思い出話を基に、これまでの10年をそのキーワードとともに記してみたい。

  一回目 チベット・・・高山病、失神、点滴
  二回目 青海湖・・・岩塩、花畑
  三回目 雲南からベトナムへ・・・3段ベット列車、蒸し暑さ、見知らぬ人物のベットちん入
  四回目 ウルムチ・イーニン・・・洪水、橋流失、10日間待ちのトラックの列、凸凹道でバスの天井に頭ぶつける
  五回目 ハルビン・満州里・・・パオ、満天の星
  六回目 雲南・貴州・・・雨また雨、仮面舞踊、ヘビと鼠の料理
  七回目 SARSで中止
  八回目 ハナス湖・魔鬼城・・・中国観光客とのバス争奪戦、ポス犬
  九回目 承徳・内モンゴル・・・寺巡り、ナーダム、競馬、歴史の先生硝子に頭激突事件
  十回目 今回
           (一部聞き取りのため、事実に誤りがあればお知らせ下さい)


さて、食堂車で2回の食事をとり、列車は翌日午後2時過ぎにクチャ(庫車)駅着。
キジル千仏堂、クチャ大寺などを巡り、庫車飯店に入る。クチャの街を行き交う人々はもうすっかりウイグル族の顔だ。この地は1944年ウイグル、カザフの人々によって東トルキスタン共和国として独立した。しかし、共和国の歴史はわずか5年ののち、1950年に中国に吸収されて閉じてしまう。「新彊は中国ではない」という説がいまだに根強く残る地域である。


4日目。いよいよタクラマカン砂漠縦断。庫車からバスで民豊まで約750qを移動する今回の旅のハイライトだ。この日も灼熱の太陽は大地を射し、ニワトリもリヤカーの下に避難するほどの暑さである。途中の出店でナンを購入。できたてのナンは香ばしい。そしてやがて車窓からの風景は、荒涼と広がる砂漠地帯へと変化する。


ちょうど中間地点付近、この公路唯一といっていいドライブインで昼食。店の中は観光客やトラックドライバーなどでかなり混雑をしている。トイレに行ってみると、ドアの閉まらぬ倉庫の片隅に便器があり、周辺は残飯やこれから我々が食すであろう、うどんの材料が雑然と置かれている。「つらい風景だね」とぼそっと感想をもらすメンバー。
出てきたうどんに余り食欲もわかず、むしろ疲労感が深まった休憩であった。


中国西域に広がるタリム盆地。その盆地を砂が埋め尽くしている。タクラマカン砂漠である。そしてその不毛の砂漠を南北に縦断するタリム砂漠公路。路の両側は何重にも葦の茎が格子状に編まれていて、流砂が路を飲み込むのを防いでいるが、人間と自然との闘いが今も続いている。一歩踏み込めば、羊の髑髏が転がっている、まさに死の世界である。


タクラマカン砂漠はウィグル語で「タッキリ・マカン」というそうだ。「タッキリ」とは死滅、「マカン」は果てしなく、という意味だとかで、まさしく粒子の細かい「粉」のような砂に覆われた「死の砂漠」と称される。その砂漠を南北に縦断する522qのハイウェイ。1984年にタクラマカン砂漠で石油が開発されたことで、この公路建設は始められた。「地球で最後の空白大陸」とも言われたこの地でのハイウェイ建設の物語は、「死亡の海を征する闘い」の記録でもある。
事前に「ホテルの部屋にあるスリッパを持ってくると砂漠を歩くのにいいですよ」と言われ、用意はしたものの、だいたいがホテルのスリッパがふにゃふにゃなのだから、これを裸足ではいて砂山を登ること自体に無理がある。結局は何も細工しないで靴で闊歩するのが一番だったようだ。
但し、ちょうど日本では高校野球の真っ最中。我々も甲子園の土ならぬ、タクラマカンの砂を記念に持ち帰る準備は怠りなかった。


約12時間、大砂漠の移動を経てニヤ(民豊)に到着。
ニヤはタクラマカン砂漠の南辺にある小さな街だ。ここで体調が悪化。睡眠不足と辛口の食事、加えて連日の暑さがたたって一種の熱中症状態だったのだろうか。食欲もわかず、脱水症状も現れて、体力が消耗したが、ここで活躍したのがカロリーメイトとゼリー状の栄養補給食。昨年までは用意しなかったこれらの食べ物が役に立った。この症状はまる2日続き、その間、観光スポット巡りはパスするのやむなきに至った。

5日目。体力回復不十分のまま西域南路をホータン(和田)へ。ホータンの人々の乗り物はロバ車である。小さな町に入ると、必ず家族を乗せたロバ車が走り回っている。まさに移動と生活の手段だ。

添乗員さんの気転で到着後ホテルに直行してもらい入室。(とにかく皆さんにご心配をおかけしましたm(-.-)m)
他のメンバーはマリカワチ古城、白玉川、桑紙造りの民家訪問などを巡るスケジュール。夜は民族舞踊ショー見物に出かけたそうだが、主役の歌手が欠場、音曲の騒音著しく、早々に退散のはめになったとか。

ホテルは人民広場が見渡せる場所にあり、窓から観光に出かけるメンバーのバスを見送ったあと、体を休めながら、公園を見下ろしていると、様々な人の動きが目に入ってくる。
まず、ホテルに出入りする客に玉石を売る少年達。彼らはホテルに出入りする客に近づき、しきりに石売りつける。断られても断られてもつぎから次ぎに新手が寄ってきて、一人の客に4,5人が群がることも。なかには客の胸ポケットに石を押し込む少年もいて、客が返そうとすると、受取を拒み、なかには受け取ったふりをして地面に落とし、いかにも傷が付いたから弁償しろといわんがばかりにくってかかる者もいる。この風景は夕刻まで延々と続けられていた。
夕闇迫ると人民広場の風景が一変した。どこからともなく、いろいろな機材が搬入され、いつのまにか子供電車やメリーゴーランドが設置され、噴水に色が付けられて、一大遊園地と化した。
子供が飛び回り、大人達が集う広場に流れる曲は?と耳を澄ませば、なんとピンカラ兄弟の「女のみち」や長淵剛の「乾杯」など。さすがに歌唱はついていなかったが、ここまで日本の曲が大衆化されているとは。



六日目、依然として通常の食べ物が喉をとおらないまま、600q先のカシュガルへ12時間の移動。途中ヤルカンドで莎車王陵に寄る。ここは16世紀に栄えたヤルカンド・ハン国の王宮のあったところだそうで、陵は1980年代に再建されたという。イスラム寺院があり、ちょうど拝礼が行われていた。その後、本物の葬儀があるそうで、入り口脇には棺が置かれている。寺院前には市が立ち並び、羊の肉が一頭づつあぶられていて、人々が木陰で涼をとっている。境内にいた子供達はみな屈託がなく、笑顔を絶やさない。



七日目、カシュガル観光。道路脇に並ぶ刃物屋。男なら誰でもあこがれそうな刀やナイフ類がズラリ。但し、大きいものは検査にひっかかり、持ち帰れないとあって、みんなが買ったのが爪切りとか小さなナイフとか。それでもトランクに入れるよう再三の注意があった。


カシュガルから南に約200q。途中、パキスタン国境へ向かうのか、解放軍の車列の後を追いながら登っていくと、海抜3600bのパミール高原に広がるカラクリ湖がある。雪をに覆われたムスターグ・アタ峰やコングール峰を背景にした湖の美しさは砂漠の大地と比較して別世界だ。観光用のラクダが客待ちをし、馬にまたがった少年が「乗らないか」と誘ってくる。ポラロイドを持ち出して構えると、すかさず湖のなかに馬を乗り入れてポーズをとり、「アリガトウゴザイマス」と日本語で丁寧に受け取った。ここのレストランで昼食。トイレはもうすっかり慣れた青空の下だ。
高山病に備えて、空気袋を用意したが、さすが強者ぞろい。異常を訴える者は誰もなかった。



カシュガル市内に戻ってエイティガール寺院へ。エイティガール?80歳の女性のみが入る修道院かと思いきや、そうではなかった。
この寺院、新彊最大規模のイスラム寺院で、多くの信者や観光客でにぎわっている。到着したときは、ちょうど拝礼中とあって寺院の見学は後回しにして、直ぐ脇にある職人街へ。ここには様々な商店が軒を連ね、民族楽器や刺繍した衣類、金物などを売っている。中には歯医者があったり、家具屋があったり、ゆっくり見物していると時の経つのも忘れるほどバラエティに富んでいる。
特に興味をひいたのは、頭からすっぽりと茶色の布をかぶった女性の姿。一見、どちらが前だか後ろだかわからない。宗教上のためだとは思うが、かっぷくの良い女性がこの姿で前からノシノシと歩いてくると一瞬ドキッとして道をあける。


礼拝が終わり、男性信者が寺院から続々と出てくるのと入れ違いに、中に入る。まだ一部で礼拝が行われていたが、中庭には逞しい髭をたくわえた老人があちこちに腰掛けて談笑している。我々が向けるカメラにも気さくに応えてくれるなど、とてもフレンドリーだ。

そしてまたしても!!真夜中、それも2時間近くも遅れて我々はカシュガル空港を飛び立ち、ウルムチへ。
ウルムチ空港では迎えのバスのドライバーが待ちくたびれたのか眠りこけ、呼べと叫べど姿を現さない。ようやく駐車場に現れたドライバーの息はまだ寝息。「これって、ダメでしょ」との不安どおり、20分弱で着く予定のホテルに40分以上もかかる始末。チェックインは午前4時に近かった。


最後の一泊とあって朝はモーニングコールなし。ならばゆっくり疲れを癒してと思いきや、朝食は10時半までに済ませないとレストランが閉まるとか言われてしまって、結局4時間ほどの睡眠で最終日を迎えた。
この日の観光は天池だけ。天池は5000b級のボゴダ峰中腹にある巨大な湖である。万年雪を抱くボゴダ峰と青い湖面とのコントラストが美しいところだ。

ここの女性用トイレで一悶着。だいたい中国ではトイレにしても乗り物にしても、整然と並んで順番を待つという習慣がまだ薄い。トイレのドアの前で順番を待っていても横入りは当たり前のことだ。次々と仲間や家族を呼んで用を足させ、ボーッとしている日本人はいつまでたっても中に入れない。
そこでメンバーの一人が切れた。やにわに日本語で怒鳴り散らし、猛烈なアタック。「バカバカバカ!死ね!!」と、一時の体調不良もなんのその、へたすると国際問題に発展しかねない暴言の剣幕に、はじめは甲高い声で対抗していた中国女性もじりじりと後ずさりし、ついには視線を避けて沈黙するに至ったとか。「なめられてたまるか!」と興奮いまださめやらぬ様子であった。
天池観光を終え、いよいよ締めくくりの土産集めが始まり、土産物屋やスーパーに寄る。絨毯の実演販売をしている土産物屋では、7000円の上掛けが3000円になるなど、値切り交渉は手慣れたもの。但し、ウルムチのスーパーやバザールには2年前にも訪れており、かなり的を絞った買い物風景であった。

一端荷造りのためにホテルに戻ると、もう顔なじみになった土産物売り場の店員が笑顔で出迎える。このホテル前回から数えるともう8回の出入りをしたことになる。

そして、真夜中移動の多かった今回の旅に相応しく、真夜中午前2時過ぎにウルムチ空港離陸、ソウル経由で帰国の途についた。

 


ここからのページは、同行メンバーから提供された写真をもとに掲載させていただきました。従って撮影者の許可なく複製、複写することは禁じます。

付録1

カメラの前で気さくに微笑んでくれた西域に住む人々です。特に若者達の瞳の輝きが印象的でした。

   

   


   

   


   

   


   

   


   

   


   

   


   

   


   

   


   

    


    

   


   

   


付録2

西域の食事のメニュー一覧です。