未来につなげ!


戻る


               (一)
舞台は北海道のビエベツの村である。
原生林を切り開いて農地の拡大を図ろうとする開拓派青年の前に、森の精「ニングル」が現れ、
    「森ヲ伐ルナ、伐ッタラ村ハ滅ビル。」
と警告する。
一転して開拓反対を唱えて孤立する青年「才三」。「才三」との友情と村人との狭間で苦悩する幼なじみの「ユタ」、そして幼い時「ユタ」の悪戯から言葉と知能を失った妹の「スカンポ」。
ご存じ、倉本聰・作演出、劇団「富良野塾」による舞台劇「ニングル」である。
「才三」は村の掟の重圧に負けて森に入り、切り倒した木の下敷きになって死ぬ。
そして、村はニングルの警告通り、洪水に襲われ、井戸は枯れ荒廃するのだ。
友を失い、悲痛な後悔の中で日々を無為に過ごす「ユタ」に、妻は問いかける。
「引き返すことって、そんなに怖いんですか?。先に進むこと、それは恐くないンですか?。」
森の大切さに気がついたユタの父は、森に入り、先祖の霊に聞く。
「今からでも間に合うだろうか。」
先祖は答えるのだ。
「一粒の種を植えろ。それを、未来につなげ!」と。
ユタの父は自らの命を捧げ、森の復興を誓う証とする。
父親の命と引き替えに、「スカンポ」は言葉を取り戻し、
「言いたいことがイッぱいあったの。喋りたいことがイッぱいあったの」
と手話を交えて、ニングルの実在と父への想い語る。
そして、生まれてきたユタの子供が握っていた木の種によって、人々の思いは未来に引き継がれるのだった。
2時間半、舞台から訴えかけられる「地球は子孫からの預かりものだ」という自然への想いは、時に笑いと、時に悲痛な叫びを伴って、見る者の心を強く打った。


               (二)
この何年か、3月中旬の確定申告期間中(あるいは後)に一人で旅に出る習慣を持ってしまった。
別に取り立てて「独りが好き」だという訳ではないのだが、私が旅に行くと言うと、家族は
「ハイハイ、行ってらっしゃい。できるだけ、なが〜く、行ってらっしゃい・・」
と満面笑みを浮かべて手を振るのみで、決して、一緒に行こうとは言わない。
どうも、リュック背負って目的もなしに歩き回る、私の旅スタイルがお気にめさないようなのだ。
昨年の3月は阪神大震災直後ということもあって、旅行費用は義援金として寄付したほうがいいと考えていたところが、現地に入っていた救援隊の友人から、
「とにかく、神戸に来い。テレビ報道ではわからん。自分の目で現実を確かめろ。」
と誘われ、急遽神戸に入ったのだ。
瓦礫の街を3日間、たださまよい歩いた。
そこで見たものは、六甲の山を切り開き、海を埋め立て、ひたすら大都市への道を走り続けた神戸が、一瞬にして壊滅した事実であった。
かつて、税理士会の支部旅行で歩いた異人館街は、人の姿はなかったものの、壊滅的被害は免れたようすで、道路上の亀裂さえ注意すれば歩けたが、異人館から坂道を下るにつれて、様相は一変し、一気になぎ倒され、つぶされた家並みが続く。
海に落ち込んだメリケン波止場、今にも崩れ落ちそうに頭上に覆いかぶさる三宮のビル街。「倒壊の恐れあり。通行禁止。」とロープを張られたビルの谷間を、人々は黙々と歩く。
延々と続くなぎ倒された住宅、燃え尽きた長田、そして何よりも、小さな公園にまで埋め尽くす被災者のテント。
巨大都市の、あまりのもろさを痛感したとき、私は無神論者でありながら、ふと神への畏れを感じたのだった。
ニングルは告げる。
「あなた方人間は、どんどん大きくなる。大きく偉大に、滅亡へと走っている。」


               (三)
家の周辺をブラブラしていて、アスファルトに塗り固められた道路脇の小さな草地に「ネジリバナ」が咲いているのを見つけた。
うす緑の茎に5ミリほどのピンクの花を螺旋状に散りばめ、唇弁の白と混じって可憐さを漂わせるラン課の植物で、別名「もぢづり」という。
私が通っていた高校は、かなり田舎にあって、毎日、千葉駅から蒸気機関車で1時間半もかけて通ったのだったが、木更津の駅から学校までの曲がりくねった小道の両側は、春には一面の蓮華畑と化し、季節になると道ばたには「もぢずり」が咲き並ぶのだった。
この花は、昔、源融が
     「みちのくの しのぶもぢずり誰ゆえに みだれそめにし我ならなくに」
と詠んだ恋いの花でもある。
若き日に、この歌と本物の花を知った私は、
いつかきっとすてきな女性に巡り会い、恋文に挿入して、秘めた心を打ち明けたいものだと固く決意したものであった。
以来数十年、「もぢずり」は都市化の波に呑み込まれ、私の目にとまることもなくなって、ほのぼのとした恋いの夢もスッカリ忘れ去っていたのだった。
思えば、私を取りまいていたはずだった数々の光景が消え去っていた。
夜の静寂の中で、規則正しく聞こえていた波の音。
道を歩くとついてきたカエルの歌。
とぎれなく響く地虫の音。
そして、見上げれば、天の川を浮き立たせた、満天の星。
今、私が未来につなげるものは、ゴキブリの殺し方と、滅亡への賛歌だけなのか。




               (四)
「ニングル」のフィナーレは森山良子の歌をバックに繰り広げられる。

     今、思い出してみて、そっと
     闇と、星の夜を
     ねぇ今、思い出してみて
     時代と、かえらぬ人を
      街はネオンにあふれ
        ガラスに音がはじける
     でも今、思い出してみて
     遠い地球を
    
舞台には、木こり姿で太陽の光の中から現れた村人たちの先祖によって、切り倒された木々が運び込まれる。
村の女たちは、数百年かかって森を蘇らせるであろう木の種を、腐食した古木に埋め込む。
背景には銀河の輝き。
スローモーションで展開される森の復興場面は、やがて、会場いっぱいに鳴り響く激しい木太鼓の音に包まれ、力強い明日への息吹が表現されるのだ。
マスコミは「神戸」をまるで忘れ去ってしまったかのようだ。
しかし、時たまくる現地からの手紙は、依然として「神戸」の抱える多くの悩みを訴えかける。
人間が自然と敵対することなく、水と緑の地球をこれ以上汚さず子孫につなげることができるのか。
「ニングル」が伝えた「未来へつなげ!」のメッセージの意味は重い。