よもやま現代「不良中年」考

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来るべき高齢化社会とは即ち長命社会で、メデタイのか否かは別として、七〇歳、八〇歳は当たり前、百歳、百二〇歳もまれではなくなるのだろう。
こんな逸話がある。
ある家の前で七〇歳位のおじいさんがシクシク泣きながらたたずんでいたそうだ。
通りがかりの人がひどく哀れに思って「おじいさん、どうしたの?」と聞くと、「家の者に殴られた」と言う。年寄りをいじめるなんてとんでもない!と家の中を覗くと、土間に仁王立ちになった九〇歳位のおじいさんがいて「息子が言うことを聞かないから殴ったんだ。こうでもしないとワシが怒られる」と答える。不審に思ってさらに中を覗くと部屋の奥で「全く、最近の若い奴は子供の教育も満足にできん!」と頭から湯気をたてあぐらをかいて座っている120歳位のおじいさんが・・。
こういう社会になると齢五〇・六〇のいわゆる中年族は、とてもじゃないけど「そろそろシルバーだ、人生の黄昏だ」なんて哀愁に浸っている場合ではなく、これからもう一旗、もう一騒ぎと青春の再燃も夢ではないはずだ。
とはいうものの、オジさんがこれまでの生き様を振り返ってみると、あまりに日和見、あまりに自己喪失、あまりに社会迎合、あまりに八方美人な半生を生きて来てしまったことを深く反省するのだし、ふと我が身を鏡に写して見れば頭は禿げ、顔はむくみ、目尻は垂れ下がり、腹は膨らんで臍の位置さえ確認できず、おまけに足は短足ガニ股と全てが絶望的で、ハガネのような若き日の姿態に遠く及ばす、「こんな姿に誰がした」と恨んでみても詮無いこと。
しかし、戦後の焼け跡に生まれ闇市で産湯を浸かったオジさんがこれきしのことで怯むはずはなく、これからはあたかもヤゴがトンボに変態するごとく、あるいは毛虫が蝶になるごとく、さらにはおたまじゃくしがカエルに成長するごとく、アッと驚く変身をとげて自由きままに飛び回り、暴れまくってやると人知れず固く決意して、その結果がこともあろうに「不良中年」になってやるぅ!ということであった。

ところがオジさんが意を決して「不良」になるためには、それなりの道筋と理屈と言い訳を考えることから始めるのであって、情けないとは思うものの、これも階段を一歩一歩まじめに昇ってきたそれまでの習性なのだが、ともかくも「不良」はカツアゲ・かっぱらい・レイプ・傷害・暴走といったいわゆる「非行」とは絶対的に異なるのだという妙な自己正当化が伴っている。
つまりオジさんは、「天候不良」や「性能不良」「感度不良」などという場合に使う「不良」と同じ位置づけで「どうも、具合が良くないなぁ」という社会的評価をあえて甘受する意味での「不良」に我が身を投じようということなのである。

オジさんは、まず「不良」になるためには今の自分を否定的に肯定することだということを悟る。
ある日、ホテルの立食パーティ会場でふと上を見上げると、事もあろうに鏡張りの天井であった。モーテルじゃあるまいし、何の意図で天井にまで鏡を張り付けたのか設計者の意図は知る由もないが、てっぺん禿げ鷹のオジさんにとってその場所に立ち続けることは、退屈なパーティに加えての苦行であるのだ。
そこでオジさんは隣でヒマそうに水割りのコップに張り付いたナフキンはがしに精を出している女性に囁くのだ。
「上を見てはいけません」・・・否定
「どうして?」
「ハゲが映っているから」・・・肯定
一見矛盾する「否定」の「肯定」はこうして完遂する。
考えて見れば、縄文時代の人の寿命は三〇歳そこそこであったという。彼らは人が年をとるといずれ歯が抜け、皮膚が皺で弛み、毛が白くなり、腰がまがり、目がかすみ、耳が遠くなるなどとは知らなかったに違いない。
だとすれば、今後ますます寿命が延びて百三〇・百五〇となった時、鼻がこけるか、耳が削げるか、はたまた性の自然転換が図られるか分からないが、今私たちが思いもしない現象がないとも限らない。
長命への道は人体異変の歴史なのだった。
オジさんは、心の中では「決して起こってはならないことと」否定しながらも、この神聖な出来事を愛し、自慢し、受け入れるのだ。

「不良」になるための条件の二つ目は、ともかくカッコよくなければならないとオジさんは考える。
しかし、「とってもよくお似合いだワ、ス・テ・キ!!」とデパートの店員におだてられ、「フム!」なんて鼻息荒く試着室で思い切り腹をへこませ、背伸びしてズボンの裾上げに見栄を張り、出来上がりを着てみれば殿中を歩く外様大名のごとくに引きずって、顔を隠しながら「お直し」に及ぶ不名誉は「不良」とは無縁のものだ。
オジさんが目指すカッコよさは、身体的カッコよさではなく、生き様としてのカッコよさでなければならない。
昔思ったではないか。ネチネチと教師にいじめられている女の子を毅然として護ったあの「カッコよさ」、料金を払えず狼狽えている老人にグダグダと毒づいているバスの運転手になけなしの小遣い銭を突きつけ「文句あっか!」と啖呵を切った「カッコよさ」。オジさんはこのカッコよさを再び呼び戻そうと決意する。
間違えても、酒も飲めないくせにキャバレーに通い、他の客が酔った勢いでホステスの胸や尻を触って嬌声を上げているのを「ぼくも触りたいなぁ」などと羨ましげに指をくわえて見つめ、閉店間際になって「蛍の光」が場内に流れるや、焦り狂ってシラフのまんま、隣の女性に抱きついて「ギャーーッ、痴漢!!」と悲鳴を上げられるような醜態を演じるようなオジさんであってはならないのだ。

オバさんに優しくしなければならないということが「不良」になる条件の三つ目だ。
カッコをつければ女性にもてる・・というのは大きな誤りである。
オジさんは、唯々オジさんというだけの理由で、若い女性からは徹底的に軽蔑され、疎まれ、排斥されている。
その事実を本能的に知っているオジさんは消去法によってオバさんに優しい。
ところが、言いにくいことではあるが、このオバさんたちが「超不良」なのだ。幼い頃、オバさんたちは、概して男の子より体がデカく、放課後の校庭掃除ではサボる男の子をホウキを振り上げて追いかけ回した経験を持っている。彼女たちは概して成績は良く、出来の悪い男の子を鼻でせせら笑った記憶が今だに鮮明のはずだ。
そして、何よりも彼女たちは戦後の社会変革のなかで親からも社会からも女性解放思想を叩き込まれ、実践してきた革命家なのだ。
彼女たちは中年になっても高年になってもすこぶる活動的で、男たちが作り上げた酒・金・権威の社会にいともたやすく迎合し、同時にその社会を否定する。
しかし、オジさんはそんなオバさんたちに密かに敬意を抱いている。なぜなら男が築き上げた近代社会は今やオジさんたちにとっても敵であることを認識しているからだ。
従って、必然的にオジさんは、オバさんがドテンと鎮座している家庭を大事にする。オジさんは女房が自分の良き理解者であると思っている。
オジさんは女房に甘え、男社会から受けた愚痴をこぼし、時には八つ当たりしてやがて見事に嫌われるのだ。

思い起こせばオジさんたちの子供の頃は皆「不良」であった。
そして皆誰でもが「隠れ家」を持っていた。
いつも徒党を組んで我が物顔で路地を疾駆し、畑の作物を踏みつぶし、未踏の森に分け入り、木の上で吠え、線路に小石を並べて電車を止め、養殖アサリをかっぱらい、棒きれを振り回し、タバコを吸い、ウイスキーの臭いで目を回し、夜な夜なネオン街を徘徊する行為は「隠れ家」を拠点として行われた。
「隠れ家」は森の木の上、廃屋の片隅、埋め残した防空壕の跡にあったに違いない。
彼らは隠れ家の中で対話し、木の実の試食をし、好きな女の子のウワサに興じた。
なんの制約もなく、自然の美、自然の厳しさと対峙できる隠れ家は彼らにとって絶対的な秘密の砦であった。
だからこそ砦が大人たちによって取り払われようとした時、彼らはパチンコで武装し、水鉄砲にベンジンを詰めた火炎放射器を開発し、花火の火薬を加工してロケットを作って砦を守った。
あれから数十年、オジさんはもう一度「隠れ家」作りを始める。
しかし、今見回すとオジさんはなんと余りにも開けっぴろげ、あまりにも無防備、あまりにも衆人監視の中に置かれていることを知る。
それ故に「隠れ家」は良くて自分の家の片隅にある書斎であるだろうし、もし書斎がなければ家のトイレ、それも適わなければ行きつけの飲み屋やパチンコ屋にその場を見出すことになる。あるいはまた一人旅を心がけ、終業してもオフィスを去らず、果ては安部公房の「箱男」に触発されてダンボールの中に身を潜めることをも辞さないことになるのだ。
真夜中に帰宅したオジさんは玄関の前で家の鍵を持っていないことに気が付いた。
もう家族は誰も起きてはいないし、たとえドアを叩いたとしても起きる気もないに違いない。ふと横をみるとポチが気の毒そうにオジさんを見上げている。
「なぁ、ポチよ。この星空のもと、神のお導きで相対面したお前とオレだ。共に夜を徹して来し方行く末を語り合おうではないか」
と語りかけるオジさんにポチは二三度尾を振るとそそくさときびすを返し自分の小屋に引きこもるのだ。
「ねぇ、ポチよ。」とそれでも犬小屋に首を突っ込んで連帯を求めるオジさんは鼻の頭を噛まれて、ようやくポチの小屋は我が身の「隠れ家」にはなり得ないことを悟るのだった。

「不良」になることを決意したオジさんは、全てのしがらみを取り払おうとする。
オジさんには数十年、極々微細な範囲内で蠢いてきたしがらみがある。
この間作り上げられた自分のイメージは他人による虚像だ。
なぜなら、他人は人に徹底的に無関心であるのに、自己の都合の良いようにイメージし利用しようとするからだ。
平面的な人間関係に飽き飽きしたオジさんはついに目と耳と口を塞ぎ、殻に閉じこもる覚悟を決める。
そして、一から自己を問い直すのだ。
「肥えた豚より痩せたソクラテスに」なろうと決意し、にもかかわらず高度成長の担い手となったオジさんたちは、今自らの社会的位置づけを考え直している。
ダンテの「神曲」を読んだ人は、地獄の門の前で絶望的にうずくまっている男を見出すだろう。
天国から追われ地獄からさえも入場を拒絶された男だ。
彼の現世はいったいなんであったのか。
自らの意思でなんらの善も悪もせず、ひたすら社会機構の一単細胞として生きてきた男に対するそれが報いであるのか。ならば、今、神に誓うことはなにか。
オジさんは答えを見つけようと旅に出る。
そしてやがて訪れる死の間際に「人間なんてもうまっぴらだ!」と捨てぜりふを残して地獄に落ちる生き方を「不良中年」は今から目指すのだ。