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森氏の日本語ワードプロセッサへの技術的貢献が皆無であった事の証明


@ 森氏が日本語ワードプロセッサの研究開発に携わった事を証拠づける被告からの証拠提出は皆無である(年表参照)。

A 河田氏さえも自らのブログ(甲第29号証)に「(JW−10を扱った)NHKのプロジェクトXにいたるまでの実態を河田の視点から思い出して見ます。・・・ 森さんは一切口を出さずに、『どうなっている』とも聞かずにほっておいてくれました。」と記している。
 http://d.hatena.ne.jp/tsutomukawada/20061010 より引用

B 森氏には、言うまでもなく、自然言語処理の知識も技術もなかった。
 森氏は,「日本語ワープロの誕生(森健一・八木橋利昭:丸善 ISBN4-621-03387-5)」の16ページにおいて,「ところが当時,私の研究室には計算機で言語を取り扱える研究者は誰もいなかった。そこで,まず人から育てなければならないということで,一九七一年に入社してきた新人の河田勉を,一年間,京都大学に国内留学してもらうことにした。当時,言語処理の研究をしているのは,日本では京都大学と九州大学だけだったからである。」と述べている。

C 森氏は,「ワープロが日本語を覚えた日(森健一:三田出版会 ISBN4-89583-0640)」の12ページにおいて,「日本語の処理をどうやるのかということは全然わかっていないし,私たちの研究室というのは画像認識や文字読み取りの研究をやっているところですから,言語処理の人はいないわけですね。それで急がば回れで,新人が入ってきたばかりのときに言語学の勉強に大学に行ってもらったんです。その件で,当時だいぶ怒られましたけれどもね。なぜ,最初からそういう人間を採用しなかったのかと。そういう人材がいないから,だから育てるんだということを主張したら,まだ会社というところに馴染んでいないのに,入ってきた新人をすぐに大学に行かせるなんて,その人の帰属意識とかはどうなるんだというわけです。」と述べている。

D 「経済産業省所管公益法人 財団法人機械産業記念事業財団ホームページ」には,「部下の河田勉氏を京都大学坂井研究室に周囲の反対を押し切って1年間国内留学させた。(本訴訟後削除)」とある。つまり、森氏自身を含め、東芝内には自然言語処理を専門とする技術者が存在せず、かつ、「周囲の反対を押し切」らなければならないほどに自然言語処理の技術者を必要としたのである。
  注:このホームページは現在、削除されている。


河田氏の日本語ワードプロセッサへの技術的貢献が希薄であった事の証明


@ 河田氏の技術的貢献は日本語ワードプロセッサ研究開発工程4年程の中のほんの3か月にすぎない。しかも、下記で示すように彼が作成した形態素解析によるかな漢字変換プログラムは従来技術の追試にすぎず、何ら新規性はない。

A 「河田氏が3か月程度でかな漢字変換プログラムを作成したことは認め」
   (被告第一準備書面P.14)

B 上記@の事実を認める河田氏の法廷証言:
「形態素解析自体は多くの文献,それから国語の学者さんが営々と積み上げたものですから,それ自体は特許性はないと思っています。
                 ・・・
形態素解析自体は,特許性は,私のオリジナリティーはないですから,ないと思っています。」
(河田氏尋問調書)

C 河田氏は1975年に3か月でかな漢字変換を作成して以来1980年ころまで,かな漢字変換ではなく,漢字認識(OCR)関係の業務を担当している(年表参照)。

   「漢字認識の後処理としての文脈情報処理」,昭和52年度電子通信学会情報部門全国大会,1977年8月発表

 この事実から分かるように,河田氏は,1976年〜1979年というワードプロセッサの発明と研究・開発にとって最も重要な時期に,「漢字認識」関係の業務に移っていたのである。  なお,河田氏が上記漢字認識関係の発表を行った1977年8月の昭和52年度電子通信学会情報部門全国大会において,原告はワードプロセッサにとって記念碑的な「カナ漢字変換機能を備えたワードプロセッサ」を発表している。(年表参照

 一方、被告は被告第一準備書面で次のように記している。
「河田氏は上記第1段階から第3段階のすべてにおいて重要な役割を果たし、JW−10の開発成功以降も日本語ワードプロセッサの開発に関与し続けた・・中略・・このことは、河田氏が筆頭の報告者となっている1976年(昭和51年)以降に作成された日本語ワードプロセッサに関する技術報告書が、1985年(昭和60年)に至るまで、以下のとおり多数存在する事実からも明らかである(乙第4号証別紙)。

RR−2517「カナ漢字変換システム(第2報)」(乙第15号証)
(1976年11月報告、1977年2月発行)
RR−2597「ミニコンによる即時処理型カナ漢字変換システム」(乙第16号証)
(1977年6月報告、1977年7月発行)
RR−2690「日本語ワード・プロセッサの開発」(乙第17号証)
(1978年4月報告、1978年5月発行)
RR−2918「低価格日本語ワード・プロセッサJW−5のソフトウェ
アの開発」(1981年3月報告、1981年5月発行)に第18号証)
(原告は、報告者に含まれていない)
RR−3110「ハンドヘルド日本語ワードプロセッサのソフトウェア開
発」(1983年9月報告、1983年11月発行)(乙第19号証)
(原告は、報告者に含まれていない)
RR−3135「かな漢字変換アルゴリズムの性能向上」(乙第20号証)
(1984年3月報告、1984年4月発行)
(原告は、報告者に含まれていない)
RM−24550「ワードプロセッサ単語辞書の圧縮法」
(1985年2月報告、1985年3月発行)(乙第21号、
(原告は、報告者に含まれていない)」

 しかしながら、既に述べたように、日本語ワープロJW−10の開発時期である、1976〜1979年の間に書かれた3編の技術報告書(原告が下線を付したもの)は、すべて原告の単独著作になるものである。更に、JW−10出荷は1979年2月であるが、被告が挙げた河田氏のものという他の技術報告(下線を付してないもの)は、1981年以後のものであり、単なる低価格化、小型化などの改良の報告に過ぎず、日本語ワープロの発明には何の関係もないのである。なお、原告は1979年以後は、既定の方針に従い、より困難な「機械翻訳(自動翻訳)」の研究を開始している。






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