佳境、辛酸に入る-第9章-

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このホテルのレストランは暗く、各テーブルには、炎形した電球が傘の中で小さな明りを燈していた。これが雰囲気を更に盛り立てていたのかも知れない。
美しいウエイトレスが銀色の台の付いた皿に氷を敷詰め、その上に昆布を乗せ、これ程まで食べられるかと思うほどの生ガキを大盛して持ってきた。彼は白ワインを飲み、生ガキを食べたが、今でもその味は忘れることができない。

午後十一時を廻った夕映えの中で、白ワインの酔心地で、この世に天国という処があるのなら、このような処をいうのであろうと彼は思った。彼はとても幸福な気持になった。このまま天国に行っても良いと思ったのである。
食事の終る頃には、漸く暗くなったが、何処となく、空に明るさが未だ残っている。

翌日、朝十時に起きた。
もう、すでに国際会議は始まっており、同行のものは殆んどが、会場に出掛けていないのである。朝食を済すべく、日本のスナックのようなホテルの食堂に行った。
「ボンジュル、マドモゼル」彼はよく眠った朝であったので機嫌がよかった。
「ボンジュル、ムーシュ」
「コマンタレ、ブウ」と返ってきた。
彼は「サバ、メルシー」「コマンタレ、ブウ」と云った。
ウエイトレスは「カムシイ、カムサー」と云う。どことなく、眠そうな感じである。

日本人にない美しさで、言葉では表現することのできないムードを湛えている。フランス語とは静かに話すところに、静かな雰囲気と華やかな気品あるムードを作り出す。
もう一人の女性が入ってきた。
入ってくるとき、足の爪先で、ドアの下の端を軽く、蹴って開けて入ってくる。殆んど膝を曲げることなく、足を眞直ぐにして蹴るのである。
ここは、出入りには手を使うことがないと見えて、蹴られる部分の塗料が禿げている。日本人にはあまり見られない仕ぐさであり、そこを出入りするウエイトレスの姿を彼は眺めながら、フランスパンとミルクの食事を取った。

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