彼はあまり催促するのも良くないし、また、出来なかったので逸る気持を押えて黙っていた。しかし、あれだけあった時間が一ヶ月たらずになったとき、その役員が別の部署に移ることになった。 その代りに親会社である産洋自動車から、部長をしていた人間が役員として迎えられた。これではこの新しい役員に一から説明のし直しをしなくてはならない。 絶望的な状態であると彼は悟っていた。
しかし、意外な展開をとっていた。前の役員が新しく産洋自動車からきた役員に彼の海外出張の話をして置いてくれたのである。新しい役員の方がアクションが早かった。この役員は彼を呼びつけ 「俺はよく頼んでみるが、非常に状況は難かしいので、だめだと思っていてくれ」ということであった。この新しい役員が後に、彼の上司であると同時に谷口の上司にもなる男である。
そのようなことがあってから、二、三日すると人事の担当者が彼のところにやってきた。 「この書類に記入して下さい」 「これはなんですか」と彼は不思議な面持ちで人事の担当者に尋ねた。担当者は、「聞いていないのですか、あなたが海外出張に出ることを」 彼はこれで、自分が海外出張に初めて出掛けるのだという実感を味わうことができたのである。
箱崎から、リムジンバスに揺られ成田空港に到着したのは夜の帳の下りた午後八時過ぎであった。 彼は初めての海外出張でもあり、不思議な感覚が襲ってきた。 空港の照明が今までいた世界とは異る別世界のものであるかのように思われた。 それは国際空港であり、西洋人、東洋人などあらゆる種類の人間が集っているためもあるのであろう。彼が住み慣れた日本人社会とは一種異る世界である。
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