ある日のこと、
何時ものように彼の母より用事を云いつかり、この家に出掛けたときのことである。
この日は十月中旬のよく晴れた清々しい午前中であった。
雄の鶏の声が聞える長閑な日であった。
彼が母屋で話をしていると、この家の娘たちが
「隠居の婆様がおめえに話したいことがあるそうな」と云ってきたのである。
恐らく、彼の声を聞きつけて、彼に云ってくれと頼んだのであろう。
老婆の枕元がすぐ濡れ縁になっている。
彼は、その濡れ縁に腰をかけ、枕元の障子を開けて、彼の母が幼いとき
世話になったその人と顔を合せたのである。
これまでに、何回か会っていたが、このときの老婆は細く痩せこけた
腕が痛ましく、このとき程、悲しく、みじめに見えたことはなかった。
薄布団の中に、細く痩せた腕を入れて、何やら取り出した。
すると、その手には今まで見たこともない大きなリンゴが握られていたのである。
そして、そのリンゴを彼に呉れるというのである。
後になって分かったのだがそれは、スターキングではないかと
彼は思ったのである。
この老婆はこのリンゴを彼に呉れるために、大切に手に持ち、
彼の来るのを待っていたのであろうか、また、自分で後にゆっくり
食べようと残して置いたものであろうか。
彼はそのリンゴを受け取ろうとして
手を差しのべた。しかし、そのリンゴの温もりに、咄嗟(とっさ)
に貰ってはいけないと思ったのである。
「これはお婆さんがもらったのだから、僕はいらないよ」
何度か差し出されたが、彼は返したので老婆はあきらめて、元に戻してしまった。
「お前は何になるんだ」と老婆は尋ねた。
すかさず「僕は野口英世のような人になりたい。」と彼は云った。
老婆は一瞬ためらったが「その人はお前の母さんのおやじだよ」と云った。
しばらく、沈黙が続いた。
老婆は黙っていた。
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