佳境、辛酸に入る-第3章-

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ここは山里であり、海から遠く離れており、 海魚など手に入らない。例え、手に入ったところで、棒鮫ぐらいで、この地方では「さがんぼ」と呼んでいた。
まして戦争中のことで、魚はどじょうがせいぜいである。
しかし、どじょうを食する習慣はあまりなかったようである。
彼は子供なりに鯉を一年間井戸に放しておけば大きくなるであろうと考えていた。
しかし、井戸であるから鯉の餌になるものが少なく、大きくならないと考えたが、 この井戸でなくては逃げてしまいそうな気がしていた。また、溜池などに放しておくと、 他の鯉とその鯉との区別がつかなくなる可能性があると考えていたのである。

井戸を掃除するとき、彼の鯉ではないと言われてしまえば それで終わりである。
彼は鯉を井戸に放したことを宣伝して廻った。子供同士は勿論、大人にも 機会あるごとに話して廻ったのである。
そうすることにより、彼が井戸に鯉を放したことが、春が来る頃には 公知の事実となった筈であった。
やがて、夏が過ぎて秋になった。

小学校に行っても、今日は井戸と溜池の掃除をするの ではないかと思いながら、授業を受けているので落ち着いて居られず、たえず そわそわしている数日が続いた。
何とも落着かない日々が続いているとある日、学校から家に帰ると、彼の母が、
「今日、掃除をしているよ。」
と、彼に伝えてくれた。

彼はランドセルを放り出すと井戸をめがけて駆け出したのである。 井戸は今を盛りと水の掻い出しに取り掛かっていた。
この井戸と溜池の掃除は、先ず井戸を掃除して、後に溜池を掃除する習わしになっている。 直径1.5メートルの井戸の底に一名と中間に一名の二人の男が入り、水を掻い出していた。 中間の男は、井戸の周囲に足を踏ん張って自分の体を支えていた。
彼は顔を覗かせて
「僕の鯉はいませんか。」
と聞いてみたが、井戸の中の男たちは顔を見合わせていた。 さらに、
「僕が鯉を放していたのですからよく見て下さい。」
と付け加えた。

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