すると底にいる男の方から
「ほうら、いないだろう、よく見なよ。」
という言葉が返ってきた。彼は情けなく、力が抜けてしまうような気がして、
井戸から目を逸らせた。
その一瞬、底のおとこは手のひらに十センチ程に育った鯉をのせて、
中間で足を踏ん張っている男に見せ、薄笑いしていたのである。
「あっ、僕の鯉だ。」
彼は叫んだ。
「どこにいる、どこに、鯉なぞいないぞ。」
という言葉が返ってきた。
後に子供同士の話によると、この鯉は
下の家の年寄りが焼いて食べたのだそうである。
それから十五年後、ここを訪ねてきたとき、この井戸は既に使われておらず、
元家老の家であった高台まで水道が敷設されていた。しかし、この高台に
六畳程の池を作り、五、六十センチの鯉が数匹、泳いでいた。
当時の記憶はいまだ鮮明であり、訪ねていった先の主が、彼の顔を見るなり、
「ほれ、鯉だぞ。見ろ、見ろ。」
と、言ったのである。
遠い昔の思い出は、彼以外の人間にも残っていたのである。
すでに、彼はこの鯉への執着は消え失せ、
その当時の悔しかった想いだけが残っていたことに気が付いたのである。
戦後の高度成長の中で物に対する欲望はすでになくなり、あまりにも満たされている
現在では、満たされなかった過去を充足したいという如何にもしようのない我侭が
出てきたのではないかと、ふと彼は考えたのである。(第3章おわり) 第4章へ
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