佳境、辛酸に入る-第3章-

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(三)

この桃源郷は秋ともなると柿がたわわに実り、 南側の桧葉栗の林で栗拾いの楽しみを与えてくれる。
sasie8.JPG この栗の山の裾に樹齢千年は下らない大きな杉の木立があり、その根元に泉が湧き、 大きな柄杓で汲み上げる掘井戸になっている。堀井戸は石で囲いがしてある。
その上に柄杓を置くため、長い年月の間に大きな凹みを形作っている。
水の質は良好で、良い水だということであった。しかし、この井戸で洗い物をした後に 汚れた水を捨てる十畳程の溜池があり、その水が井戸の中に逆流しているのを見たこと がある。
その昔、井戸の真ん中に棒で仕切りがしてあり、仕切り左右で、右側は殿様の使用人、 左側は家老の使用人が汲み出すように定められていたそうである。
彼がここに住んでいた当時はこの井戸を使用し桶に水を入れ、天秤で家まで 水を汲んであがって行く母の姿は今も彼の遠い思い出の中にあった。彼自身も水を汲んで 急な坂を登っていき、彼の母に誉められた記憶があった。

彼の人生で初めて忍耐を経験したのは、この井戸である。
彼は長男として生まれ、幼いときより我が侭放題に育てられてきたから、尚更である。
このときの思いは今も彼の脳裏に刻まれており、不公平、実績の横取りなどで 忍耐しなくてはならないときは、明白に思い出すのである。
この井戸は一年に一度、秋に水を掻き出し、綺麗にする。
これと同時に溜池も水を干して、掃除をする習わしになっていた。
八才の冬、氷の張り詰めた田んぼで、一匹の五センチほどの鯉を見付けた。
これを持ち帰り、この井戸に放したのである。当時は戦争中で鯉などは、 たとえ小さくとも貴重品であった。

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