暫く、黙ったまま彼等は、渓谷を歩いていた。二人の沈黙が谷川の音がさらに、誇張するかのごとく、感ぜられた。芳子がその沈黙を破った。「あたし、疲れたわ」「何所かで、休みましょうよ」「そうだね!あの河原の岩のところはどうだろうか」「そうね」谷川の道沿いの土手を、彼は芳子の手を取り降りていった。
「どうせだから、食事にしようよ」彼の母親の作ってくれた握り飯を取り出し芳子に渡した。「あたし持って来たわ」 時期的には少し早いと思われるスターキングとゴールデンデリシャスが、美しい模様のスカーフを被せた籠の中に、一つづつ顔を覗かせていた。さらに、葡萄が一房、入れてあった。彼は嬉しくなった。
彼は、スターキングを一つ手にすると懐かしさのあまり、あの幼い日のときに感じたとは別の気持ちで、この冷たい、艶やかな林檎を見詰めていた。「この林檎、川の水で冷やそうか」「食べるとき、冷たいと美味しいよ」芳子も頷いて、果物全部、彼に渡した。彼は、葡萄と二つの林檎が流れないように石で囲いを作り、浸けた。彼は大学を出て1年を経ったときであったから、二十三歳になっていた。
芳子は二十一歳であった。考えて見ると、あの老婆から、温かいスターキングを手渡せられてから、この歳になるまで、この林檎を手にしたことはなかった。それまで、彼が食べたり、手にしたものは小粒の林檎だけであった。彼の家は兄弟が多く、このような林檎は買うことがなかったのである。また,時代も悪かった。昭和二十年代であったのだから・・・
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