芳子の顔は、興奮のためか、薄紅色に蒸気していた。今はこのコンサートホールと称する喫茶店はなくなっており、二度と戻ってこない思い出になってしまった。
彼は、何度と恋らしきものをしたことがあるが、これが本当の初恋であったと思っていた。
久しくデートも遠うのいていた。彼は、会社の夏休みも近づき、芳子のことが気掛かりであった。
彼は葉書を書いた。そこには別天地を探しに中津川渓谷に行かないかと書いてあった。
ところが何時まで経っても返事がこない。
彼は諦めかけていると、彼自身が出した筈の葉書が返信されて来た。住所が間違っていて配達不能であるというのである。
彼は、早速,住所を変更しポストに入れた。
折り返し、芳子からの手紙で是非にも行きたいという。この手紙は、彼の誘いを今か今かと待ち焦がれていたという様子が文面あちこちから伺えるものであった。
しかも速達になっていた。
夏も盛りの中津川渓谷は、夏休みの子供たちで溢れてていた。
河原でキャンプでもしているであろう小学生の一団が賑やかに、水遊びを愉しんでいた。
彼は嬉しくて、浮かれ出しそうな衝動に襲われていた。そのくせ、彼ら二人の歩く姿は何所となく神妙で、心の内と外観とでは大変な違いがあった。渓谷はうねりくねり、外国の何所にも見出す事が出来ない日本独特の美しさを漂わせていた。
彼と芳子は黙って歩いていた。暫く歩くと、人気のない川の流れと小鳥の囀りが聞こえる場所に来ると、彼は口をきいた。「僕は君が好きでたまらないのだが、君は僕のことを嫌いか。」
芳子曰く、「あなたが嫌いなら、私来ないわ」「将来、結婚したいのだけど」「まだ、結婚なんか考えても見ないわ」彼は何だか、今まで口にした事のない言葉を口にして、心臓の高鳴りと薔薇色に輝いている彼の状態が不思議に交叉して、甘く、何所か酸っぱい感触に酔っていた。
夏の日差しによる木々の輝きは、彼自身のためにあるように思われた。また、照れ臭さも加わり、グロテスクな感じさえも、彼の心には渡来していた。何所かスマートが欠けていた。「まだ、あなたの事をよく知らないんですもの」