佳境、辛酸に入る-第15章-

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彼の脳裏には、この会社に永く居なくてもよいという気持が、一瞬であるがよぎるのを感じとっていた。
田北は、「俺はそんなことはしない。」と云った。しかし、彼はこの田北は告げ口をするというもっぱらの噂であるということを思い出していた。
彼は、「いずれにしても、何か問題があれば私と相談して下さいよ。」と云いすてて田北の席を去った。

彼は、その足で自分の気持を慰めたいと同時に、自分を正統化したい気持も手伝って、例の年老いた負け犬のもとに行った。
ただ行くのも変だと思い、回覧用の雑誌を持って行ったのである。雑誌を渡すと負け犬の竹西いわく、
「何か話したいことがあるのではないか。」
と向うから切り出してきた。
彼はもともとその気持があったわけであるからその誘導訊問に応じてしまった。田北とのトラブルの一部始終を話し終ると、彼の意図に反して竹西から、「嘘つきだなどと云われるのは君にも落度があるからで君も反省すべきだ。」
という答えが返ってきた。

彼の心は傷付けられてしまった。
彼はその時思い出したのである。その竹西は相手の心情を理解できない人である。
過去にも何回かこのような思いをさせられたことがある。とんでもない人間に相談したものだと彼は後悔した。
ここでこの負け犬と争う理由もないし、喧嘩の相手になるのも大人げなく感じたので、「そうですね、私も反省しましょう。」と云ってその場を立ち去った。しかし、彼の気持は治まらなかった。

それから数時間、彼はこの話を忘れようと努めた。ところが忘れかけた頃、思い出させたのはこの負け犬の田北であった。彼の席まで、田北がやってきて、
「君、机の上に足を乗せるなんて、だらしがよくないし、部下の教育上よくないよ。」
数日前の昼休み時間中、机の上に足を乗せていた彼の姿を見てそういったのである。
「第一に、そのようなことから、家庭内暴力が発生するんだよ。」
彼にとって、余計なお世話であった。
彼は言い返した。
「仕事中ならいざ知らず、昼休みに休んでいるのだから問題ないでしょう。そんなこと云うのは古いですよ。」
さっき、彼が素直にこの田北の云い分を聞き入れたから、さらに調子にのって言っているのだなあと彼は理解した。

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